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昭和11年1月
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佐藤俊介氏の「民治」

佐藤勝身氏といえば「生長の家」では現在『法華経解釈』で谷口雅春先生の共著である。佐藤勝身さんです。その長男が佐藤彬氏であり、次男は佐藤俊介氏です。『生命の藝術』誌 昭和98月(『生長の家新聞』を廃刊にして)→昭和1111月号より『生命の藝術』を改題し『いのち』を創刊→昭和143月号『いのち』を改題し『行』~昭和1610月 号にて終刊



佐藤彬は当時は全国講師でもあり、『生命の藝術』の編集を担当した。次男はその兄の手伝いとして編集を行った。佐藤勝身氏は谷口雅春先生に手紙を書いて辞めたとなっていますが、眞相はわかりません。

ただ、佐藤俊介氏はインタ-ネットではそれとともに辞めたと書いているが、最近の博士論文で吉井宏平氏や小沢節子の「15年戦争と芸術家」との意見が微妙に異なる。



佐藤俊介は後ほど松本禎子氏と結婚し、養子となり名前も松本俊介、そして松本竣介と変えています。

松本竣介とは難聴で36歳という短い人生ですが、画家では大変有名な人です。



『生命の藝術』の編集して2年、次第に画家として多忙を極めて、その当時の思いが忘れられなく、雑誌の編集していたこともあり、自ら『雑記帳』という雑誌を作っています。



定斎屋の薮入り様から抜粋

佐藤勝身「泥の道へ傘をたゝんで土下座してしまつたのです」





 『生命の教育』の昭和1012月号は第1巻第5号。「左翼転向者の座談会‐思想教育の問題‐」が載ってゐる。出席者は谷口雅春・佐藤勝身、中林政吉・小西茂國・佐野哲生・山口悌治・村上幸一郎、佐藤彬・松本恒子。左翼が転向して如何にして生長の家に縁ができるやうになったかを話してゐる。



 佐藤勝身の小見出しは「私の体験は書物に魅せられて」。





正則の文学的教育を受ける余裕を持つてゐない為に、教科書代用として、当時青年の間に愛好されてゐた『萬朝報』といふ赤新聞を読んで居たのでありました。その新聞を読んでゐると、其の中には宗教家として内村鑑三、それから思想家には幸徳秋水、堺枯川といふやうな人があり、殊にその堺枯川の丸みのある文章、幸徳秋水の如何にもかう秋水の如しと申しませうか、素晴しい才気煥発的な筆致といひますか、それから内村鑑三氏の実に熱のある宗教的な文章を好きで読んでゐました。(略)この社会主義といふ思想に引ずられて、今考へて見ると畏れ多いことまでも考へたりしたこともありました。(略)朝日新聞か日本劇場のある辺に小さな長屋のやうなものがあつた、そこで『平民新聞』といふ小さな新聞を出したのでありました。そしてこの両人の思想に憧憬を持つてゐた私は引きつヾきその新聞を耽読して、本当に斯うでなければならぬ、さうしてこれこそ本当の偽らざる人間としての生活だといふやうな感じを益々熱烈に持つやうになつたのでありました。



 そんな佐藤に転機が訪れる。まだ舗装前の泥深い道路を、神田橋から内堀沿いの道を、坂下門の方に向かって、蝙蝠傘をさして歩いてゐた。門からは近衛の儀仗兵と馬車が出てきた。





その頃は徳大寺サンと云つたと記憶します、その当時の侍従長が馭車台を後にして畏つて居られ、相対されて、申すも畏いことですが、 明治天皇さまがお乗りになつて、お頬髯を深くお垂れさせられた龍顔に咫尺し奉つたわけでした。さうしましたらこの刹那、私は雨の降つてゐる泥の道へ傘をたゝんで土下座してしまつたのです。龍顔を拝したてまつゝた瞬間に、そこにぴつたり手をついて、さうして何といふのか判りませんでしたが辱けなさに泪零るゝとふやうな、何の理由もなくたヾ止め度なく泪がこぼれるのでした。お馬車が通り過ぎてしまつたものですから、起き上りました、袴はすつかり泥まみれでした。人が見たら、さぞおかしかつたらうとも思ひました。社会主義カブレの私が何故かういふことをしたか、何か知りませんが、このさうしなければならなくなつた自分がそこにあつたのでございます。



 この後に主義者の文章を読んでも何とも思はなくなり、生長の家に繋がる。一般人でも、明治天皇を見かけられる環境だったことがわかる。他にも親や軍隊への反抗、貧乏等から左翼になった体験談が話されてゐる。



 奥附を見るとこの佐藤勝身、編輯兼発行者の名前としても載ってゐる。転向者が『生命の教育』を編輯してゐたことになる。赤い主義者も陛下の赤子。









松本竣介 年譜

1912年(明治45年)

419日、東京府豊多摩郡渋谷町大字青山北町7丁目27番地(現在の渋谷区渋谷1丁目61号)に佐藤勝身とハナの次男・佐藤俊介として生まれる。

1914年(大正3年) 2

父・勝身の林檎酒醸造の事業参画に伴い、一家で岩手県稗貫郡花巻川口町大字里川口第13地割170番地(現在の花巻市南川原町)に移る。後に、花巻川口町館町(現在の花巻市花城町一区)に移る。

1919年(大正8年) 7

4月、花巻川口町立花城尋常高等小学校(現在の花巻市立花巻小学校)に入学。

1922年(大正11年) 10

3月、父の関係した貯蓄銀行開設にともない、一家は郷里の盛岡市紺屋町に移る。
4
月、岩手県師範学校附属小学校(現在の岩手大学教育学部附属小学校)に転校。

1925年(大正14年) 13

3月、附属小学校を卒業。
4
月、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)に入学。のちの彫刻家舟越保武と同学年。 入学直後、流行性脳脊髄膜炎にかかり、聴覚を失う。

1926
(大正15年・昭和元年) 14

102日から再登校、中学1年生を繰り返す。
この頃、大正12年に設置された測候所下の、岩手郡浅岸村大字新庄第4地割字山王33番地(現在の盛岡市山王町)に移る。

1927年(昭和2年) 15

春、父・勝身から写真道具一式を贈られる。
3
歳違いの兄・彬は、友人・古澤行夫(のちの漫画家・岸丈夫)のすすめにより、油彩道具一式を買い竣介に贈る。
6
月から8月にかけて、《山王風景》や《山王山風景》を描く。
この頃、盛岡中学校の弓術倶楽部に属し、部活動に励む。

1928年(昭和3年) 16

春、盛岡中学校に絵画倶楽部が創立され、入部する。
12
17日、岩手日報に投稿した詩「天に続く道」が掲載される。画業に専心することを決めた心情を述べる。

1929年(昭和4年) 17

3月、中学3年を修了して間もなく、盛岡中学校を中退する。
4
月、兄・彬の東京外国語学校ドイツ語部入学を機に、母・ハナに付き添われて上京、現在の豊島区西池袋に住む。
太平洋画会研究所選科に入り、鶴田吾郎、阿以田治修などに指導を受ける。

1931年(昭和6年) 19

6月、石田新一、薗田猛、勝本勝義、田尻稲四郎らと太平洋近代芸術研究会を結成する。麻生三郎、寺田政明も参加。太平洋近代芸術研究会の研究会誌『線』を発行する。誌名は竣介が命名。
9
14日、会誌『線』第2号を発行し、同号で廃刊となる。
北豊島郡長崎町字並木1336番地(現在の豊島区長崎1丁目20番地)に転居。
この頃から谷中にある茶房リリオムに仲間たちと通い始める。
この頃、父・勝身が谷口雅春の主唱した「生長の家」の運動に傾倒し始め、兄・彬、竣介にも影響を与える。

1932年(昭和7年) 20

4月、太平洋近代芸術研究会の中心メンバーとともに赤荳会を結成。北豊島郡長崎町北荒井(現在の豊島区要町1丁目)の雀ヶ丘に貸しアトリエを共同で借り研究所とする。
この頃、靉光との交流も始まる。
5
8日、兵役免除を受ける。
9
月頃、赤荳会内で衝突があり、会が解散する。解散後も、仲間はリリオムに集い、交流は続く。鶴岡政男、難波田龍起、麻生、寺田らも集まる。

1933年(昭和8年) 21

4月、第5回北斗会美術展に《肖像》など5点を出品。
8
月、兄・彬が「生長の家」の機関誌『生命の芸術』の創刊に携わる。竣介も10月から193610月の最終号まで「でつさん」「人間風景」等の文章や挿絵を寄稿し、編集にも携わる。

1934年(昭和9 22

24日、慶應義塾大学予科英文学教授の松本肇(後の夫人・禎子の父)死去。肇は生前『生命の芸術』を通して兄・彬と交流があったことから、この時、肇の次女・禎子を知る。
6
月、第6回北斗会美術展に《風景A》など3点を出品。
夏、「生長の家」の出版物を販売する「光明思想普及会」設立に際して、父・勝身と母・ハナが上京し、一家は渋谷区原宿2丁目170番地8号(現在の渋谷区神宮前3丁目14-15番地)に移る。竣介も光明思想普及会の宣伝広告や編集の仕事を手伝う。
12
月、NOVA美術協会の機関誌『NOVA』第2号に「画室の覚え書き」を寄稿。
鶴岡、難波田らとの交友を深める。

1935年(昭和10年) 23

1月、第5NOVA美術協会展に《並木道》など3点を出品し、同人となる。『NOVA』第3号にも「画室の覚え書き」を寄稿。
9
月、第22回二科展に《建物》を出品し、初入選を果たす。

1936年(昭和11年) 24

1月、第6NOVA美術協会展に《洋館》とデッサンなど15点を出品。
2
3 日、松本禎子と結婚し、戸主として松本家に入籍、松本姓となる。淀橋区下落合4丁目(現在の新宿区中井)に新居を構え、義母・恒、義妹の泰子、栄子と同居する。
この頃、自宅のアトリエを「綜合工房」と名づける。
9
月、光明思想普及会から退く。
同月、第23回二科展に《赤い建物》を出品。
10
月、『生命の芸術』が10月号で廃刊となる。高見順、佐藤春夫、高村光太郎、長谷川利行、福沢一郎、靉光、麻生ら多くの作家、画家が随筆や素描を寄稿する。
同月、以前から禎子と構想を温めていた月刊の随筆雑誌『雑記帳』を創刊。発行所はアトリエ「綜合工房」。同誌には林芙美子、萩原朔太郎、高村光太郎らが文章を、藤田嗣治、福沢一郎、鶴岡らが素描を寄せ、原奎一郎は経済的にも援助する。また、自ら「雑記帳」等の文章や素描を手掛ける。

1937年(昭和12年) 25

1月、第7NOVA美術協会展に《有楽町駅付近》や《婦人像》など21点を出品。
4
4日、長男・晉が誕生するも、翌日、死去する。
9
月、第24回二科展に《郊外》を出品。
11
月、赤荳会およびリリオムのメンバーと共に、黒豆会を結成し、毎月会合を開く。
12
月、『雑記帳』を第14号をもって廃刊する。