前に掲載した「松下幸之助と生長の家」ですが、今回「大本」関連とその後の「一燈園」そして「生長の家」とその繋がりがあるのです。「松下幸之助」という事業家として偉大な人物は皆さんおご存知だと思います。

 それは松下幸之助の奥さんは小木虎次郎の娘である。

小木虎次郎氏については以前に「聖経の奇蹟」ということで下記

を書きました。だからこそ事業家として大成した松下幸之助は「生長の家」に大きな影響うけ、大企業として発展したのです。



【やがてこの「甘露の法雨」の詩は、昭和十年六月、当時京都に於ける熱心な誌友である工学博士小木虎次郎氏が「甘露の法雨」の詩を『生長の家の歌』といふ詩集の中にのみ収めておいては、功徳のあることを知らない人が多いから、ハッキリとこれは聖経であると明示して、折本型の経本として発行すれば、功徳を受ける人が多

いであらうと、生長の家京都教化部から経本式折本として発行されることになった。

 かうして『甘露の法雨』が経本になって頒布されるや、陸続として功徳を受ける人が現はれた。さらには、それを携帯するだけで、交通事故に遭ひながら微傷も負はなかった人が出て来たりもしたのである。そこで京都の教化部ではこれを京都のみで独占すべきものでないと、その出版権を昭和十一年末に、光明思想普及会に移すことになったのである。その後聖経『甘露の法雨』は、さらにその功徳を発揮して、多くの人々をさまざまな人生苦から解放して行ったのであるが、その功徳の及ぼす範囲は、単に個人だけでなく、後に述べるやうに、あの大東亜戦争の終結には国家の危機を未然に救ふ働きをも果すまでになるのである。】



松下幸之助と生長の家

石川芳次郎を介して

川上恒雄(『論叢 松下幸之助』第13号、200910月)


1 はじめに

松下幸之助は生前、さまざまな宗教団体・運動と接した一方、特定の宗教に深く関与することもなかった。「PHPのことば」や「人間を考える」などで描いた世界観(人間観および宇宙観)は、幸之助がさまざまな宗教あるいはその周辺思想と接しつつ、自分なりに考え出したものだと思われる。

ただ、接した宗教や思想が多様であるとしても、それらがすべて幸之助の世界観に反映していることはないだろう。人がだれでもそうであるように、意図的ではなくとも結果として自分の価値観に合うような宗教や思想を選択しながら、徐々に自身の世界観の枠組みを固めたり修正したりしたのだと思われる。本稿は、幸之助が(無意識的かもしれないが)・取り入れた宗教の一つが生長の家であったのではないかということを考察する。


「あったのではないか」という断定を避けた表現は、幸之助自身が「生長の家から影響を受けた」とは発言していないからである。しかし、本稿は、影響関係を推察しうるだけの根拠と解釈を提示する試みである。


 幸之助の宗教とのかかわりというと、従来は主に天理教あるいは真言宗の影響が指摘されてきた。天理教については、前半生の自伝「私の行き方考え方」から、幸之助が一九三二年(昭和七年)に天理教(同書では「某教」とし、教団名を伏せている)の諸施設を見学して、立派で清掃の行き届いた建築物や信者の生き生きとした奉仕活動の姿に感銘し、物資の豊富とそれによる人間の精神的安心をめざした「産業人の使命」に思い至った経緯が、よく引用される。


真言宗については、大正末期に取引先の山本商店の顧問役として幸之助と出会い、のちに松下電器の社内祭司となった加藤大観が真言宗醍醐寺派僧侶であることと、生地の和歌山県に真言密教の聖地である高野山があることがあげられる。ただ、幸之助が戦後に著した世界観と、天理教や真言宗のそれとのあいだにどのような関係があるのか、教義やイデオロギー面から考察した研究はほとんどない。


 そのほかに、筆者はかつて本紀要で、新宗教や一部の近代仏教運動との関連を指摘した研究を短く論評した。これらの研究は、幸之助の世界観がいかなる背景に由来しているのかを、新宗教の生命主義や昭和初期ラジオの宗教番組などにみいだせると解釈している。こうした解釈は説得力があり、筆者も基本的に支持するものである。


ただ、それはたとえていえば、「状況証拠」の積み重ねによる推論であり、幸之助本人がそのような影響を受けたと明確に語っているわけではない。もっとも、幸之助が自分の思想の由来を語っていないがゆえに推論によるほかはなく、またそうした推論的解釈こそ研究者の腕の見せ所でもあるので、批判や否定をすべきものでもないのだが、できれば天理教や加藤大観(真言宗)のような、明らかに接点のあった対象をみいだせたほうがよい。


 そんなことを考えながら幸之助についての資料を調べているうちにたどり着いたのが、生長の家である。より正確にいうと、生長の家の信徒でもあった石川芳次郎(18811969)という実業家である。筆者はかねてから、幸之助の世界観には生長の家の教えと似た部分があるとは思っていたのだが、似ているというだけなら他宗教の可能性も考えられる。

しかし、1948年(昭和23年) 1月の幸之助の講演録を読んでいたところ、始めてまだ1年強のPHP運動について、「だいたいまあ1ヵ年、本年の末から来年の初めにかけて、国民に光明思想を与える。再来年には具体案をつくる。一歩一歩具体的に緒につくというのが私の方針です」と述べているのが目に留まった。「光明思想」とは生長の家に特有の表現で、生長の家を知らずに自然と出てくる言葉ではない。そこで、生長の家との接点を調べることになったのが、本研究の出発点である。


 本橋は、しかしまず、幸之助がどのように生長の家と接点をもつようになったのかについて明らかにする前に、生長の家の教えが幸之助の世界観に与えた影響を解読する。先に述べたように、ある教団に接したからといって、その教団の教えが自身の世界観に影響を与えるとはかぎらないからである。たとえば、幸之助は天理教を見学して得るところ多く、「産業人の使命」を開明するに至ったが、天理教の教えが幸之助の世界観に深く影響を与えたという確たる証拠はない。

このように、表面上の接触だけで影響関係を論じるのは危険である。観念上の接点があって初めて人間関係上の接点が意味をもつのである。したがって、教義上の関係性を考察したうえで、本稿は、生長の家の信徒でもある石川芳次郎という京都の実業家とその周辺の人物らが、幸之助個人および初期のPHP運動に直接間接に関与していた事実を明らかにする。


2 幸之助の世界観と生長の家

松下幸之助はその生涯において特定教団の信者となったことはないが、その一方で、数多くの宗教関係者と接したこともまた、事実である。つまり、さまざまな宗教を参考にしながらも、自分なりの世界観を幸之助は築いたのである。


 ジャーナリストの下村満子によるインタビュー集『松下幸之助「根源」を語る」において、幸之助は『人間を考える』で表明した世界観をどのように育んだのかについて質問を受けた際、宗教をはじめ、いろいろなところに話を聞きに行くうちに、「自分でそういうことが浮かんできたんですな」と答えている。それではどこに聞きに行ったのかといえば、「キリスト教とか、あるいはまた仏教とか、天理教とか」と記されているのみである。


 実は、もともとのインタビューでは、幸之助はそのほかに複数の教団名をあげており、そのうちの一つが生長の家であった。幸之助の影響力の大きさを考慮して、訪問したことがすでに知られていた天理教を除いては、編集段階で教団名を削除したのだろう。しかし、このインタビュー集が出版される前の1980年(昭和五十五年)に、幸之助が生長の家の機関誌『精神科学』で、「私も、谷口先生のお話をこれまでに三、四回、聞かせていただいたことがあるのですが、その際にお問きしたことは、今日まで、陰に陽に参考になっているという気がする」と述べているので、厳重に秘密にするほどのことでもなかったようである。「谷口先生」とは教祖の谷口雅春(18931985)のことである。

 幸之助はいろいろな宗教の話を聞きに行ったけれども、すべてを受け入れた教団は、生長の家を含めて、存在しない。「聞きに行ったけど、ええ話やなあ、ということは思うんですが、信仰にまでは至らない」と述べている。しかし、「ええ話」と幸之助が感じ取った部分は、捨て去ることなく、自身の世界観に反映した可能性はある。全部捨て去ってしまったら、『PHPのことば』や『人間を考える』でみられるような世界観を表明できるはずがないからである。ここでは生長の家の教えのうち、幸之助が「ええ話」と受け止め、自身の著作にも採用したと思われる点について検討したい。


生命力に満ちた世界

生長の家の教えとは何かについてひとことで述べるのは難しいが、教祖の谷口雅春の言葉を借りると以下のようになる。


横に広がる真理は現象界は本来空無であって唯心の所現であるから心に従って自由自在に貧でも病でも富でも健康でも不幸でも幸福でも現わすことが出来ると云うことであります。それから縦を貫く真理は、人間本来神の子であり、佛子であり、無限の生命、無限の智慧、其他すべての善徳に充ち満たされている。それが吾々の実相

であるというのであります。


ここでのポイントは、我々のみる経済・健康状態などの幸・不幸は現象であって実相ではなく、現象は心の現れであるという見方である。


 幸之助は無論、現象が空無であるとか人間神の子などとは主張していない。ただ、心のあり方が現実化する可能性を否定はしていないし(この点については後述する)、「実相」という概念は「素直な心」との関連で頻繁に用いている。たとえば、「素直な心が生長すれば、心の働きが高まり、ものの道理が明らかになって、実相がよくつかめます」という表現がそうだ(しかも、「成長」ではなく「生長」と表現している)。もちろん「実相」は仏教の概念だが、生長の家を通して学んだ可能性は、あとで述べるような生長の家関係者との交流から、十分にありうる。


 もう一つ注目したいのは、こうした部分的な生長の家の概念の利用だけではなく、谷口の意味する「実相」における生命力にあふれた世界観を、幸之助ももっていたということである。

 生命力にあふれた世界観とは、さらに谷口の言葉を借りれば、次のようにも表現される。


実在する宇宙は、完全円満、光明無限、生命無限、智慧無限、愛無限、従ってまた調和無限、供給無限、自由無限である所の一大生命力によって支えられ、その一大生命力の展開として一切の生命は存在に入ったと云う事実です。此の一大生命力を「神」と称するのであります。(中略)「生命」は同時に智慧でありますから、真理を悟らないでは、その「生命」は生きていないと云うことになるのであります。


幸之助は、1951年(昭和二十六年)発表の「人間宣言」より前の時期においては、こうした見方と比較的似ている世界観をもっていた。たとえば、「PHPのことば」の一つである「信仰のあり方(ニ)」(194911月発表)を引用する。


天地の恵みは、何の分けへだてもなく、われわれ人間にさんさんとして降りそそいでおります。それはあまりに広大なために、無心の如くに思われます。この恵みの根源には、万物を生かし人間を生かそうとする宇宙の意志が大きく働いております。この大いなる宇宙の意志を感得し、これに深い喜びと感謝をもち、さらに深い祈念と順応の心を捧げることが、信仰の本然の姿であります。


 われわれがこの信仰に立ったとき、宇宙の意志が生き生きと働いて、ものを生み出す知恵才覚が湧いてまいります。そこから力強い労作が生まれ、繁栄への道がひらけてまいります。


谷口雅春の用いる「智慧」という言葉は「真理を悟る叡智」を意味する仏数的用語であり、幸之助の「知恵」とは異なるものの、「天地の恵み」を「生命力」に、「恵みの根源」を「神」に置き換えれば、谷口と幸之助とのあいだには、生命力あふれる世界観という、重なる部分のあることをみいだすことができる。


 筆者は本紀要ですでに、幸之助の世界観が新宗教の生命主義に相似しているという指摘のあることに触れたが、具体的教団名をあげるとすれば、幸之助の接した教団の中では生長の家以外には考えづらい。ただし、谷口と幸之助との世界観に相違点も一方であるのは、幸之助はもともと真言宗の世界観に触れていたからだと思われる。身近な加藤大観が真言宗の僧侶であることから、宇宙生命の根源が大日如来であるという話を頻繁に耳にしていただろう。そして、PHP研究の一環として自分の世界観を言語化する過程において、自分の中にあった真言宗的な宇宙観に合ったかたちで生長の家の教えを取り込んだとも解釈できる。


富の無限供給

 もう一つ、幸之助が「ええ話」だと感じたと想像される点は、生長の家が「繁栄」を肯定していることである。これは、谷口雅春が、アメリカの成功哲学に影響を及ぼした「ニューソート(New Thought)(『生命の実相」では「新思想」という訳語をあてている)とよばれる、19世紀終わりころに発生した宗数的な運動に強い関心を抱いていたこ

とによると思われる。このように、成功哲学との関係もあるためか、和田一夫(元ヤオハングループ代表)や稲盛和夫(京セラ名誉会長)をはじめ、本稿でもこれから取り上げる石川芳次郎など、谷口雅春の教えに影響を受けた実業家が少なからずいることはよく知られている。幸之助は、経済的富裕を「現象」だとした谷口の教えを受け入れたわけではなかったものの、加藤大観などを通して接していた伝統仏教とは異なり、繁栄の意義を積極的に説くという点において、生長の家に親近感を抱いたと推測される。


 一般に、ニューソートの影響を強調した場合、積極的思考の重要性(つまり、心のもち方が事業活動において現実化するという見方)に力点が置かれるが、1932年(昭和7年)の「産業人の使命」において物資の無尽蔵な供給を掲げた幸之助にとっては、ニューソート的見方よりも、谷口雅春の「富の無限供給」観のほうが納得のいくものであっただろう。谷口によれば、富は、能力や健康と異なって、ある人の分が増えれば他の人の分が減る、つまり総量は一定だと思っている人が多いが、それは誤った考え方だという。現実に、会社が旧来とは異なる便利な品物を生産し、消費者がそれを購入すれば、富が増大する。


不況になると、会社が従業員の減給や解雇をしたり、消費者が節約を美徳とみなしたりするのは、特定の見方に心がとらわれているからである。本来、人間神の子、無限の生命に満たされている。消費や労働力の節約ということは、そうした生命を生かしていないことである。


神による生命の無限供給は本来、富の無限供給でもある――というのが、谷口の教えである。したがって、「人間は本来貧しくあるようには造られていないのであります」ということになる。


幸之助も、人間神の子という見方は採っていなかったものの、たとえば「PHPのことば」に出てくる以下のような表現をみると、谷口雅春の経済観と重なる部分のあることが確認できる。


人間が貧困や不安に悩むのは、人知に捉われて、真理をゆがめている生産も消費も、これを抑えることは繁栄に背きます。(「生産と消費」より)


人おのおの、その与えられた生命力を生かしてゆくことによって、身も豊か、心も豊かな繁栄の社会を実現することができます。(「繁栄の社会」より)


蓄積された物財だけが富ではありません。その物財を生産し消費する力が真の富であります。(「富の本質」より)


幸之助のこれらのことばは、まだ日本が経済的に豊かではなかった1940年代後半から50年代初めのものである。1932年(昭和7年)の「産業人の使命」は文字どおり、繁栄の実現に向けた「使命」にとどまっていたが、幸之助は、戦後に「PHP」誌で毎月「PHPのことば」を発表していく過程において、その「使命」を「天命」という次元に高め、人間には本質的にそうした.「天命」を遂行しうる力が与えられているという世界観を構築していく。こうしたなか、生長の家から学んだと考えられる点は、先に述べたように、現世が宇宙の絶対的超越者(神)のもたらす生命力に満ちあふれており、そしていま述べたように、その生命力を自覚し、生産・消費からなる経済活動に生かすことで、人間は繁栄を実現できるのだという信念である。


 筆者は以上のような点において、生長の家の教えが幸之助の世界観に影響したのではないのかとみている。次は、どのようにしてこうした影響関係が成立したのかという点を考察する。幸之助は宗教に関心をもつ人物ではあったが、学者ではないので種々の聖典などを自分で研究した可能性は低い。下村満子の質問に答えたように、いくつかの宗教の関係者の話を「聞きに行った」のである。しかし、聞いた話が「ええ話」だからと、幸之助がただちに自分の著作に反映させたとは、到底思えない。幸之助にかぎらずだれでも、聞きなれない概念や思想は、そう簡単に自分のものにはならないものである。生長の家が幸之助に影響を与えたのだとすれば、幸之助がおりに触れて話を聞くことのできた生長の家関係者の存在があったはずである。次節では、その存在の代表格が石川芳次郎であった可能性が高いことを明らかにする。


3 先輩実業家としての石川芳次郎

『生命の実相』を勧めた人物?

 松下幸之助が生長の家とどのようにして出会ったのか、明らかではない。ただ、生長の家が『生命の実相』を全国紙などで派手に宣伝し、知名度を一気に高めた1935年(昭和10年)よりも前の、初期のころからすでに知っていたようである。生長の家で大阪教区教化部長や神奈川教区教化部長などを歴任した河田亮太郎(190795)によると、1933年(昭和8年)ころ、「生命の実相』の“愛読者”である幸之助に依頼され、松下電器の工場で従業員を相手に三回ほど話をしたという。そのとき、「吾々は全身全霊で一つの行為を満たす時、そこに誠が発現するのであります。誠とは完心、即ち完たき心、これが全力が満ち溢れて欠けぬ心であります。……全力が一つのことに満ち尽くして欠けぬときは、そこに神の無限力が発揮されて、失敗というものがないのであって、これが成功の極意であります」と演説したところ、幸之助が手をたたいて喜び、「本当にあんたの言われる通りや!谷口雅春先生って偉い人だねえ!」「僕の思いと谷口雅春先生が言われることとピタッと一つや。河田さんの話聞くと、僕の思いと全く同じや」と発言したと、河田は述べている。


幸之助が実際、これほどの谷口雅春ファンだったのか、それともリップサービスの面があったのか、確かめようもないのだが、いずれにせよ河田の記憶が正しいとすれば、1933年(昭和八年)ころに幸之助が『生命の実相』を所有しており、河田が松下電器で生長の家の教えについて講演をしていたことになる。1933年といえば、幸之助が天理教を訪問し、「産業人の使命」を闡明した命知元年(193255日)の翌年にあたり、社員の遵奉すべき「五精神」(「産業報国の精神」「公明正大の精神」「和親一致の精神「力闘向上の精神」「礼節を尽すの精神」)を制定した年でもある。当時は幸之助自身にとっても、あるいは従業員の教育としても、精神面での向上を期待できるようなものであれば貪欲に吸収していこうという雰囲気が、松下電器社内にみなぎっていたのではないかと想像される。


 ところで、幸之助は『生命の実相』をどのようにして入手したのだろうか。というのも、1932(昭和7年)出版の同書は当初、1000頁を超える大著のうえ、総黒革表紙・三方金という贅沢なつくりで、一般に広く流通していた書籍ではなかったからである。戟前によく売れたとされているのは、一九三五年(昭和十年)に光明思想普及会が出版した20巻からなる全集「生命の実相』である。したがって、1933年時点であれば、生長の家の関係者が幸之助に革表紙の『生命の実相』を献呈したとみるのが妥当であろう。しかし、献呈者は不明である。


 ただ、谷口雅春が1971年(昭和46年)に生長の家の機関誌『理想世界」で、京都電燈の石川芳次郎が松下幸之助に『生命の実相』を紹介したと述べている。芳次郎1933年当時、京都電燈の常務取締役で、電気工業界ではすでにその名が広く知られていた。1941年(昭和16年)には同社副社長、43年(昭和18年)に京福電気鉄道社長に就任している。その一方で、戦前から芳次郎は京都における生長の家の有力者だった。しかし、仕事上では幸之助と交流があったけれども、『生命の実相』の献呈者だったという確たる証拠はない。


 幸之助にとって芳次郎は頼れる先輩実業家だった。それは、芳次郎が同じ電気関連ビジネスの先駆者であるからというだけでなく、PHP運動の最初期からの協力者だったからである。それにしてもなぜ、芳次郎は年齢が十歳超も年下で、戦前は財界での影響力もはるかに格下の幸之助を支援したのだろうか。それについてはまず、生長の家の信徒としてというよりも、一技術者・一実業人としての芳次郎の半生を知る必要がある。


 芳次郎の半生

 石川芳次郎は、京都帝大卒で電気工学の著書もあるインテリでありIいくつかの会社経営にかかわった実業家でもある。さまざまな社会活動にも携わり、1965年(昭和40年)には京都市名誉市民にも選ばれた。まさにエリート中のエリートである。しかし、芳次郎の生い立ちは必ずしも恵まれたものでなく、幸之助と同じように、父の経済的失敗が原因で貧困に陥り、「小僧」として少年時代を送った苦労人であった。


 芳次郎は1881年(明治14年)、東京・日本橋に生まれた。幸之助より13歳年上である。父は酒屋を営んでいたが、経営が苦しかったうえ、友人の借金保証人として責任をとる羽目になり、破産した。そのため、小学校を出たばかりで当時まだ十三歳の芳次郎は働かざるを得ず、1894年(明治27年)、日本初の電力会社である東京電燈の神田発電所の「見習」となる。事実上は雑事をなんでもやらされる小僧だった。本人が好き好んでなった小僧ではなかったが、この就職が芳次郎の電気との出会いとなった。芳次郎は機械の研究に熟心な少年で、翌1995年(明治28年)に機関課機関助手、96年(明治29年)に同課機関工に早くも昇進している。


 当時、東京電燈の技師長は、藤岡市助(18571918)だった。元東京帝大助教授、工学博士、後には東芝創案者のI人となり、「日本のエジソン」と称された電気界の大物である。上司の藤岡は、芳次郎の才能を早くから見抜き、自分の秘書兼小使い役とした。小学校出で、丁弁の技術者にすぎなかった芳次郎にとって、藤岡と接した経験は、将来への自信につながったに違いない。


 1896年、15歳の芳次郎は新たに創設された静岡電燈に、支援のため異動する。そこに技師長としてやってきたのが小木虎次郎(18661940)である。名古屋電気鉄道の技師長も兼務していた。


小木は、藤岡と同様に芳次郎の才能を見抜き、1899年(明治32年)、芳次郎を名古屋電鉄に引き抜いた。芳次郎は同社の発電所技術員となる。その一方、小木は同年、京都帝大の教授に招かれる。二年後の1901年(明治34年)、芳次郎は小木の推挙で、京都電燈に移る。芳次郎の京都生活の始まりである。


 二十歳になった芳次郎は、京都の東九条発電所に技手として勤務する一方、同志社普通学校(中等学校に相当)に編入する。夜勤をしながらの通学である。同志社に入った経緯は不明だが、おそらくここで初めて宗教(キリスト教)を強く意識したと思われる。芳次郎の同志社愛は強く、普通学校卒業後も、OBとして同志社と深くかかわっていた。1929年(昭和4年)から38年(昭和13年)まで同志社校友会会長、1937年(昭和十二年)から五二年(昭和二十七年)まで同志社理事、一九五二年から六二年(昭和37年)まで同志社監事を務めている。1965年(昭和40年)には同志社大学から名誉文学博士号が与えられ、69年(昭和44年)の京都市民葬(芳次郎は名誉市民のため)は同志社栄光館で行われた。なお、結婚して終生過ごすこととなった相国寺束門前町の自宅(元は小木虎次郎の居宅)も、今出川のキャンパスの近くにあった。このような長年にわたる同志社への協力から、芳次郎を熱心なクリスチャンだとみる人も多かったようである。


 芳次郎は同志社普通学校卒業後、第三高等学校(三高)に進学、そして1907年(明治40年)、26歳にして京都帝大工学部電気工学科に入学する。京都電燈からは社を一時離れる許諾を得、学業に専念した。そして、1910年(明治43年)、同社に復帰する。社命により一年半の欧米視察にまわり、日本の電気事業の遅れを痛感する。帰国後の1913年(大正2年)、芳次郎は小木虎次郎の娘貞子と結婚する。


貞子については後述することとし、芳次郎が外遊後、京都電燈で社員として活躍したことについて少し触れる。というのも、芳次郎の事業に対する考え方に、幸之助の見方と相通じるものがあるからだ。当時、京都電燈だけでなく電気会社はどこでもそうだっただろうが、技術者の専門職意識が強く、営業を担当するなど考えられなかった。しかし、電気の普及のためには、技術者こそが営業に当たるべきと主張し、芳次郎はみずから進んで営業課長となったのである。技術者でありながら販売にも力を入れた、松下電器創業当時の幸之助に似ているところがある。


 大正期の関西で、家庭向け電熱器分野のフロントランナーだったのが京都電燈だった。芳次郎はとくに宣伝・広告に力を入れ、自宅の台所も家庭電化のショールームに改造した。


わが国電熱発達の歴史は(中略)大正二三年頃暖房用として利用されたのが初めてであり、当時は何れかと言えば贅沢視されていたものである。それが広く炊事用として家庭電化が現出したのは、大正9年京都市東山区今熊野町井上亀之肋邸の家庭全電化に始まり、続いて石川芳次郎邸、十一年には京大教授青柳栄司博士邸其他が電化せられて、家庭電化最初の栄誉を獲得したのはわが京都に於てであった。


こうして電化生活をみずから実践した芳次郎は、1922年(大正12年)3月と翌24年(大正13年)五月、陣頭に立って電灯・電熱の大規模な勧誘を開始した。当時、京都帝大の青柳栄司教授が芳次郎のことを「人も知る如く京都電燈株式会社取締役営業課長として令名あり」と述べているように、営業活動における優れたリ-ダーシップは広く知られていたようである。


また、1924年に家庭電気普及会(後藤新平会長、青柳栄司副会長、芳次郎は常務理事、のちに副会長)を京都で設立し、電気についての啓蒙活動も始めた。その結果、京都帝大の松田長三郎助教授(当時)によると、同年6月の下京区の電熱器需要家数は3500、翌25年(大正14年)8月には8570に達した。


 なお、芳次郎が当時書いた「電気勧誘の今昔とその術策」というコラムに、次のような一節がある。


 いままでの売り手がもうかれば、買い手が損をするといったふうの商売の考え方を改め、売り手も買い手も共に利益を得る。すなわち共存共栄でいかねばならない。


 売買共に得をする商売とは、まったく幸之助と同じ見方で、後年、芳次郎と幸之助との親交が続いたのも、電気に対する技術的興味のみならず商売観でも重なる部分があったからだと察せられる。


 大正末期の当時、松下創業前は大阪電燈で勤務していた幸之助にとって、京都における家庭電熱の普及が耳に入らぬはずがなかっただろう。1927年(昭和2年)、幸之助は電熱部を設置し、まだ20歳代半ばの中尾哲二郎にアイロンの開発を命じた。しかし、中尾は電熱についてほとんど知識がなく、参考書を必要とした。そこで早速入手したのが、1925年(大正14年)に刊行し、京都帝大でも教科書として利用された、石川芳次郎著『工業電熱』(オーム社)だった。

芳次郎の本に頼りつつ、中尾は三ケ月で電気アイロンの開発に成功した。この「スーパーアイロン」は、低価格高品質が評判をよび、ヒット商品となる。1930年(昭和5年)には商工省が国産優良品に指定し、松下の電熱分野における歴史を画した製品となった。


 こうなると、大正時代から家庭電熱の普及に力を注いできた芳次郎が松下電器となんらかの関係をもたないはずがない。事実、1932(昭和7年)の10月に、松下は家庭電化に関する懸賞論文を募集し、当時は京都電燈常務取締役の芳次郎が審査員の一人として名を連ねている。芳次郎は以降、年下の幸之助との交流を生涯にわたって続けることになるのだが、それは、こうした同業人だからという理由だけでなく、幸之助と少年時代の境遇が似ていることや、自分も電気界の先輩らに支援されて現在の地位があること、商売哲学において幸之助と価値観が合っていたことなどが考えられる。


 ところで、以上は技術者・実業家としての芳次郎に焦点を絞り、生長の家については言及しなかった。その理由は、芳次郎よりも、妻の貞子とその父小木虎次郎のほうが、生長の家に積極的に関与していたからだ。つまり、生長の家の影響という観点からみれば、幸之助と芳次郎との個人的関係だけでなく、幸之助と貞子らとの関係も含めて複合的に把握する必要がある。さらに、幸之助が戦後始めたPHP運動にまで視点を広げると、川越清一という、石川家で育った人物のことを知る必要がある。次節では、こうした芳次郎の周辺におり、直接間接に幸之助に影響を及ぼしたと思われる人物に焦点を当てる。


4 生長の家-石川家-PHP

小木虎次郎と貞子

 石川芳次郎との関係を通して幸之助が生長の家の教えに触れることになるのは、芳次郎の妻である貞子の存在が大きい。先述したように、貞子は小木虎次郎の娘である。この小木父娘は戦前、京都の生長の家において指導的な立場にあった。


 父の虎次郎は、1933年(昭和8年)に生長の家の京都支部が誕生したときの初代支部長である。虎次郎は、谷口雅春の自由詩「甘露の法雨」を「聖経」にした人物として、今日においてもなお、教団内でその名は広く知られている。「甘露の法雨」は、一つの短い詩ではなく、「神」「霊」「物質」「実在」「知恵」「無明」「罪」「人間」といったテーマからなる「歌集」または「詩集」のようなもので、機関誌『生長の家」に掲載後、『生命の実相』の「聖詩篇 生長の家の歌」に再掲されている。生長の家によると、虎次郎は、「甘露の法雨」を読んだ人に難病治癒や祖先救済などの奇跡が起こることに気づき、仏前神前などで声に出して読めるよう携帯可能な折本にして発行することに尽力した。


この『聖経 甘露の法雨』は、一九一二五年(昭和十年)に京都教化部から発行後、奇跡譚があとを絶たず、全国から求める声が高まり、翌36年(昭和11年)末に当時の教団の出版社である光明思想普及会の発行となり、広く普及した。今日では信徒必携の「お経」とみなされている。


 虎次郎が生長の家とかかわるようになった事情はよくわからない。虎次郎を偲び芳次郎が出版した『光虎追憶』によると、虎次郎は1926年(大正15年)に大阪電機製造顧問を辞職、翌27年(昭和2年)に京都工学校校長を辞任するなどして引退後、「洛北高野に隠棲し晴耕雨読の生活を送る」。そして、日蓮宗に帰依した祖母の日得(本名すみ)の影響か、晩年は「自然物質」よりも「精神文化」に対する関心が強まり、「生長の家に入信」したという以上のことは書いていない。


 谷口雅春の『生命の実相』は、虎次郎についてもう少し具体的な記述をしている。谷□によると、京都の生長の家はまず、京都電燈幹部らのあいだで広がったという。というのも、同社勤務の岡藤三が、田中博社長をはじめ重役らに対し、『生命の実相』を中元歳暮に贈呈したからだそうだ。そうすると、芳次郎は無論のこと、1913年(大正2年)まで京都電燈に勤務していた虎次郎も、『生命の実相』を岡から入手した可能性はある。さらに谷口は、「南海の電気局長に牧野さんという人がある、この人が熱心なクリスチャン・サイエンスの礼讃者で、電気界諸方面の知入たちにクリスチャン・サイエンスをひろめておられた」と述べたうえで、虎次郎もクリスチャン・サイエンスの熱心な信者となり、もともと生長の家を受け入れる下地ができていたという。


 クリスチャン‘サイエンスとはアメリカで19世紀後半から拡大した宗教運動で、日本には明治の末に到来した。教祖のメアリー・ベイカー・エディは、実在するのは霊であり、物質や肉体ではないとする教えを説いた。肉体の病気とみなしているものは誤った信念による幻想にすぎないと主張したのである。谷口雅春は、1925年(大正14年)にクリスチャン・サイエンスの“解説書”翻訳出版するほど、その教えには強い関心を抱いていた。したがって、虎次郎のようなクリスチャン・サイエンスの信奉者が生長の家に関心を抱くのは、珍しいことではなかった。


 ただ、実際は、娘の石川貞子が父の虎次郎を生長の家に導いた可能性もある。貞子自身が、一燈園の機関誌『光』掲載の「無一物の医学を語る」を読んで谷口雅春の名を知ったと述べており、虎次郎に紹介されたとはいっていないからである。谷口によると、この「無一物の医学」が京都に生長の家を広めたもう一つの要因だという。そうだとすれば、貞子が谷口を知ったきっかけも当時の京都ではありふれており、虎次郎が貞子に紹介したという可能性も低くなる。しかし、貞子は虎次郎同様、クリスチャン・サイエンスに関心をもっていたと主張しているので、虎次郎が貞子に宗教上の影響を及ぼしたという見方も完全には否定できない。貞子の宗教とのかかわりについてもう少し詳しくみてみよう。


 貞子は1913年(大正二年)に芳次郎と結婚した。新婚時代の大正期は、先述したように、芳次郎が京都電燈で大活躍していたころである。しかし、長男の石川敬介によると、貞子からみればこれは反面、仕事第一で家庭をかえりみない夫であった。結婚後4年目にはすでに三人の子宝に恵まれたものの(貞子は計六名の子どもを産んだ)、満たされぬものがあったのではないかと推測している。その根拠として、「お寺や教会からはじまって、大本教、天理教、一燈園、生長の家とあらゆる宗教を遍歴することとなり……」という貞子の“宗教ショッピング“を敬介はあげている。


 敬介の指摘とはやや異なり、貞子自身は、物心ついたときから求める心があったと述べている。貞子が結婚後に最初に出会った宗教はキリスト教たった。三人の子どもに恵まれ幸せだったころ、芳次郎の同志社時代の友人である牧師が自宅近くの教会に赴任し、石川宅にも時おり寄ってはキリスト教の話をしたという。貞子は牧師に勧められ、洗礼を受けた。その後もしばらくは平穏で幸せな日々を送っていたが、敬介が第一高等学校(一高)在学中に(昭和の初めと推測される)、病気で倒れ、京都府立病院に入院した。これが原因で、貞子は、病気治しで知られるクリスチャン・サイエンスに強い関心をもつようになったと述べている。


クリスチャン・サイエンスの人から、「人間は肉体でない霊である、病気をしたり朽ちたり亡んだりする様な存在ではない、あなたの息子さんはかつても病気をなさいません、今もして居られません、これから先もなさいません」と教えられ、早速、敬介を退院させている。「かねがねの信仰もあり、私も何のうたがひもなくこの事が信じられ」と貞子は述べており、クリスチャン’サイエンスもキリスト教の一つとみなして疑問をはさまず受け入れたのであろうか。その一方で、虎次郎からクリスチャン・サイエンスについて紹介されたとは、ひとことも述べていない。


やがて貞子は、一燈園の『光』掲載の谷口雅春による「無一物の医学を語る」に出会い、谷口の考えがクリスチャン・サイエンスに似ていることに気づいたと記述している。ここで興味深いのは、貞子自身が一燈園の機関誌をもっていた理由について触れていないことである。筆者が調べたところ、この掲載誌は、1932年(昭和7年)10月発行の「光」第130号である。敬介の入院から五年くらいはたっているのではないかと思われる。ところが、貞子の記述はまるでそのような期間がなかったかのように、「クリスチャン・サイエンスから生長の家へ」という筋書きで展開している。しかし、事実はひょっとすると、敬介が指摘したように、貞子は一燈園にかかわっていたのかもしれない。



 谷口雅春の文章に出会ってまもなく、「ガス会社の岡善吉さんの弟」なる人物が貞子に『生命の実相」を勧める。貞子の谷口に対する関心が一挙に高まり、ついに芳次郎と子どもを連れて、貞子は兵庫県の御影にある谷口の自宅に押しかける。貞子は谷口に会うことができたうえ、生長の家のリーダ-らとも知り合いになる。そして、谷口の文章に出会ってから一年足らずの1933年(昭和8年)には、自宅に生長の家京都支部を設立する―。以上が貞子自身の生長の家への入信物語である。そしてその後は「支部を一条烏丸へ移し小木老人がお留守ばんをさせていただいておりました」と書いており、虎次郎が貞子のあとに生長の家に加わったかのような印象を与える。しかし、初代支部長は虎次郎なので、事実はわからない。


 いずれにせよ、本人の自伝に従うと、京都の生長の家は石川貞子から始まった。そして、あくまで筆者の推測ではあるが、小木虎次郎と石川芳次郎というインテリで社会的地位の高い人物の存在が、京都の生長の家に対する信頼性を高めたのではないかと思われる。谷口雅春も石川夫妻を気に入ったのか、京都に来るときは必ず石川邸に宿泊するようになった。これがまた、京都生長の家における石川家の権威を

高めたとも考えられる。


 次節では、松下幸之助と石川芳次郎・貞子の関係について記述する。そして、先に重要な人物の一人としてあげた川越清一についても、次節の中で言及する。



幸之助と石川家、そして媒介役としての川越清一

 小木虎次郎と石川貞子父娘がいくら生長の家の活動に熱心だったとしても、その思いが松下幸之助にまで届くには、まずは石川芳次郎と宗教や思想について語り合えるほど仲がよくなる必要があったはずである。幸之助と芳次郎との出会いについては記録がないが、先にも述べたように、芳次郎は一九三二年(昭和七年)の松下電器による懸賞論文大会の審査員を務めている。ただし、当時、幸之助と芳次郎との

あいだにどの程度の親交があったかはわからない。


 両者の間柄を知る手がかりのIつが、芳次郎L貝子の末の息子(五男)である石川芳夫氏の記憶である。芳夫氏によると、1933年(昭和8年)か三四年(昭和9年)ころ、高松宮が京都を訪問したおり、芳次郎が将来性のある企業として松下電器を紹介したという。幸之助は返礼としで、芳次郎に特大の蓄音機を贈足し、芳次郎はそれを長年、愛用していたのだそうだ。これは芳夫氏の幼少時の記憶なので、細かい年まで正確かどうかわからない。そこで筆者は、この芳夫氏の記憶を手がかりに、松下電器の社史関係資料にあたってみた。まず、1934年以前については、皇族の訪問があったかどうかという事実は確認できなかった。皇族の訪問について確認できるかぎりでは、東久邇宮稔彦王が1935年(昭和10年)12月に門真の本店・工場を視察したという記録が最も古い(なお、このとき発売前の電気蓄音機を献上した)。高松宮は1942年(昭和17年)2月に、乾電池工場を視察している。第ニに、1934年以前に松下電器が蓄音機を販売していたという記録がない。電気蓄音機(電蓄)は、1936年(昭和11年)に販売を始めている。


 しかし、以上の事実をもって芳夫氏の記憶を完全否定したことにはならない。第一に、芳夫氏は、高松宮が松下電器を訪問したとまでは述べていない。第二に、蓄音機は非売品あるいは試作品あるいは輸入品だった可能性もある。または、もし芳夫氏が東久邇宮を高松宮と間違えていれば、芳次郎にも東久邇宮と同様に電蓄を贈ったことになる。そして何より第三に、芳夫氏の記憶する年の前年1932年の10月に芳次郎は懸賞論文の審査員を務めた。芳夫氏のいう193334年ころには、幸之助と芳次郎は少なくとも仕事上においては、親交があったと推測される。


 1933年といえば、生長の家京都支部の創立した年である。先に引用した、大阪の生長の家の信徒である河田亮太郎のエピソードが真実ならば、この年のころに幸之は生長の家についでの講演を河田に依頼している。松下電器の資料で「生長の家」という教団名が初登場するのは、1938年(昭和13年)1215日付の『松下電器社内新聞』である。みどり会の主催で「「生長の家』講話会」が聞かれたと報告している。みどり会とは、1936年(昭和11年)結成の松下の婦人会で、むめの夫人が会長に就いた。講話会の記事は短く、その全文は以下のとおりである。


 今秋奈良周遊を試みたみどり会では、その時、会員に紹介した京都電燈常務石川芳次郎氏夫人の斡旋で今回「生長の家」から講師を招聘し、会長を始め会員百十名出席し、午前中は講話を聴き、昼食後更に午後は講師を囲んで座談会を開き熱心に質問を続け午後四時に至って解散した。


「石川芳次郎氏夫人」とは、貞子のことである。1936年(昭和11年)に生長の家の婦人向け機関誌『白鳩』の創刊号に自身のエッセーが載るほど貞子は教団内で存在感があったので、二年後のこの講話会のころには、生長の家の少なくとも関西圏における有力者となっていたと思われる。したがって、貞子の力でみどり会に講師を派遣できたのだろう。また、1940年(昭和15年)325日付の『松下電器社内新聞』にも、みどり会の年次総会後、会員らが生長の家の栗原なる人物の体験談を聴いたことが記されている。このように、みどり会が生長の家との交流をもったことは、幸之助と芳次郎との親交により、みどり会の女性らから貞子が信頼を得ることができたからだと思われる。


 しかし、貞子が信頼を得られた理由として、芳次郎の幸之助との関係に加え、川越清一という、松下電器の社員だった人物の存在も無視できない。川越は、芳次郎・貞子の長男敬介と京都帝大の同級生だったが、両親を亡くし、石川家が引き取って育てた人物で、三高をへて京都帝大を卒業した秀才である。


 石川家には常に書生がいた。それは、貧乏で学歴もなかった芳次郎が東京電燈に入って以降、学者や実業家の支援があって経済的にも社会的にも恵まれた立場の人物となったからである。芳次郎自身も、有能だが経済的に困っている若者に支援をせずにはいられなかったのだろう。学費支援を受けた若者の中には、小学校を卒業したばかりで父を亡くして困っているところを芳次郎に助けられ、大学まで卒業することができ、その後は自立して大阪の朝日放送の社長・会長にまでなった原清のような人物までいる。川越清一の場合は、石川芳夫氏の証言によると、社会人になって以降も含めて計二十年超も石川邸に住み、まったく石川の家族同然だったという。


 川越清一は大学卒業後、松下電器に就職した。入社年は不明だが、1933年(昭和8年)か34年(昭和9年)のころだと思われる。当時は松下電器に大卒の就職者は少なく、石川芳夫氏によると、川越は松下初の帝大卒採用者だったそうだ。しかし、当時はエリートである京都帝大生にとって就職志望先とはならなかったような松下に、なぜ川越は入ったのだろうか。芳夫氏によると、貞子に命じられて松下に就職したという。


貞子が幸之助を気に入っていたのか、それとも芳次郎が幸之助を高く評価しているのを貞子が日ごろから耳にしていたからなのか、理由はわからない。もし貞子の命令が事実なら、学費を支援してもらっていた川越は逆らうのが難しかったのかもしれない。しかし、事実はどうであれ、川越自身は生長の家の信徒でなくとも、松下に川越の存在があることで、生長の家の普及に熱心な貞子も、みどり会の婦人らに受け入れられていたとみることはできる。


 その川越清一は戦後、PHP研究所初代メンバーの一人となる。しかも、研究所の運営担当ではなく、元大蔵省主計局長という大物の中村建城と二人だけの研究部員である。幸之助の精神活動になんらかの影響を与えうる立場である。しかし、あいにく、川越がPHPのメンバーに選ばれた経緯はわからない。考えられるのは、川越の研究者としての適性もあったかもしれないが、芳次郎の存在はやはり無視できないだろう。幸之助はPHP研究を開始するに当たって、経営者としてばかりでなく社会活動にも積極的だった芳次郎を頼りにしていたのかもしれない。芳次郎もPHP運動の理念に理解を示していたのだろう。実際、自分は運動の前面に立たないものの、著名な学者らを招いて行うPHP研究所主催の懇談会などで、司会役を務めたりするだけでなく、自宅を懇談会の場として提供するなど、目立たぬところで初期のPHP運動を支えた。川越がいればこそ、なおさら協力的だったのだろう。


 幸之助と石川家との親交を象徴しているのは、月刊誌「PHP」の創刊号(19474月号)に、石川貞子が二頁にわたるエッセー「母の便り」を寄せていることである。創刊号だけあって寄稿者は著名人が多いなか、生長の家の外部では無名であり、プロの文筆家でもない貞子の文章を「PHP」は掲載したのである。貞子については、「実業家夫人」とだけ紹介されている。芳次郎・貞子の三男の石川浩三の未亡人である美以子夫人によると、1943年(昭和18年)10月に結婚後、芳次郎邸に住んでいたころ、幸之助が時おりやって来るのをみかけたという(時期は不明だが、戦後間もないころのことだと思われる)。芳次郎と電気についての技術的な話をするのが目的だったようだが、芳次郎との会話が終わると、貞子が幸之助に対して精神論講話のような話をしていたと語っている。美以子夫人は、幸之助が正座をしてじっと貞子の話に耳を傾けていた姿を覚えている。もし貞子の話が宗教的説教であるとしたならば、幸之助の生長の家に対する理解は貞子というバイアスを通してなされていた可能性はある。


 谷口雅春も1947年(昭和22年)八月号の『PHP』誌(一二頁)に早速、登場する。「意見を聴く」という、テーマを設定して著名人・専門家に意見を求めるコーナーである。その号のテーマは「宗教は社会改造に如何に役立つか」となっており、谷口は、


宗教は社会改造の始であり終である。宗教を抜きにした社会改造などがありうるとすれば、それは破壊であり混迷であるに過ぎぬ。(中略)又更に直接には、神の意志がじかに社会を動かし改造しつつあるのであって、本当のいみの社会改善は人間が人間智によって行っているのではない。宗教は社会改造のアルファでありオメガである。但しこの意味の宗敦は……実生活に生きて動くものでなければならない。


と、回答している。PHP研究所が回答を依頼するに際しては、少なくとも間接的に石川夫妻の協力があったとみてよいだろう。なお、谷口の右の文章が掲載された号の翌号では、芳次郎が「貧困から繁栄ヘー国の経済力を増大しよう」という文章を寄せている。

 以上のように、幸之助は川越清一をPHP研究所の研究員にすることで芳次郎こ貞子からPHP運動の支援を受けることができたとみることもできる一方で、芳次郎・貞子(とくに貞子)は川越を幸之助の下にやることで幸之助に対しなんらかの精神的影響を与えたとみることもできる。いずれにせよ、幸之助が昭和二十年代において、自身の世界観の基礎を大枠で固めたことを考えると、芳次郎と貞子の存在は大きかった。しかし、その後については、幸之助と芳次郎とのあいだでは有力財界人としての交流が続いたが、石川家との精神的交流は途絶えたとみられる。貞子が1955年(昭和30年)に結核で亡くなり、川越もPHP研究所を去り松下電器に復帰したからだ。


 晩年の貞子は生長の家に対する情熱を失いつつあったようである。一九五〇年(昭和二十五年)に『白鳩』に寄せた「生長の家二十年の思ひ出」には、生長の家の機関誌に掲載する文章だけあって、谷口雅春および生長の家に対する感謝の念がつづられているが、子どもたちの病気に間する点に言及したとき、迷いの気持ちを露呈している。戦争、丈二の死、終戦、敬介の病気再発、四男、五男の発病、世の中も私も多事多難の時を過ごしました。どうして生長の家にあんなに熱心な石川さんの家につぎつぎと香しからぬ出来事が起るのかといろいろ人様を迷わしました。其度に先生すみません、今に必ずきっと喜んでいただく日が参りますとお詫びと御助力と御期待下さ

る事をお願い申上げて過ぎて参りました。しかし、かかる環境にありながら、石川家はともかくあかるく過ぎて来たのです。


石川家は次男の丈二、四男の文平が若くしてこの世を去っている。長男の敬介も大きな病を経験した。そして、貞子本人の結核である。戦前から京都の生長の家で中心的存在だった石川家であったにもかかわらず、なぜ病が生じるのか、生長の家の一員として心のあり方に問題があるのではないのかと、陰口をたたく信徒もなかにはいたようである。家庭内においても、芳次郎や子どもたちは、貞子の医療に対する消極的姿勢に疑問を呈することもあったらしい。敬介が「(貞子は)あらゆる宗教を遍歴することとなり、結局生長の家との関係が一番長く深いものとなりましたが、ここにも安住しきれなかったのでしょう」と述べているのは、貞子の生長の家に対する葛藤があったことを物語っている。


 しかし、病気がちだった幸之助は、生長の家の考え方に一定の理解を示していた。

一九四九年(昭和二十四年)の「PHP定例研究講座】において、幸之助は次のような発言をしている。最近提唱されております生長の家の話を聞きますると、病気というものは、本来ないものだ、それがあるというのは心の迷いである。自分の心で自分の病気を作り出しているんだ。だから病気になるのであって、病気というものは本来ないものだということをはっきり意識しておれば、病気というものはなくなるんだ。


というように叫ばれているのであります。果たしてそこまで言ってよいかどうか多少考えるべき余地があるように思いますが、そういうことを一つの団体で言うておりますし、またわれわれの通念と致しましてもある程度は精神の働きによって病気というものをなくすることもできるんだ、というようなこともある程度真実性があると思います。(四月二十三日の講座より)


生長の家なんか聞きますと、肉体なんておりません。肉体というのは心の影だ。だから病気なんてないと言うて押し切って、それで病気を治している。奇想天外ですが、それを信じて病気が治ったということもあります。それによって病気がなくなったというような現象もあるのですよ。私も非常に不思議だと思うのです。そういうような精神の状態を一応信ずるという今、私は極端に言えば迷信を迷信でなく信ずるような精神の働きというものが心の法則のうちにたくさん含まれているんじゃないか。それを克明に分析していかないかん。(七月二十三日の講座より)


幸之助は健康を損ねれば、一般の日本人と同様、医師にみてもらい、薬も服用する人だった。ただ、「物心一如の繁栄」を説く幸之助は、人間においても「肉体と精神とは一如」であるとし、「健康保持の上に、宗教がきわめて大きな役割を持っているのであります」と主張した。近代日本において、物質と精神あるいは身体と心の相関性を説く宗教運動や民間医療は珍しくないが、なかでも生長の家の教えは、幸之助の「物心一如」観を支えたと考えられる。そして、これについては、石川貞子が大きな役割を果たしたとみられる。貞子は、生長の家の内部においては自身や家族の病気のことで肩身が狭かったものの、「素直な心」で他人の話に耳を傾ける幸之助には、自分の信条を思い切り話すことができたのではないか。先に述べた石川美以子夫人の目撃談から、そんな貞子の「精神講話」模様が思い浮かばれるのである。


5 おわりに


本稿は、PHP運動の初期のころに松下幸之助が表明した世界観の一部の側面において、生長の家の影響がみられることを明らかにし、そのうえで、なぜ、そしていかにして、幸之助に対し生長の家の影響が及んだのかを、石川芳次郎とその家族らとの関係に焦点を当てて考察した。

 幸之助の世界観については、生命力にあふれた現世肯定観、その生命力を生み出す源(生長の家は「神」または「宇宙大生命」、幸之助は「宇宙根源の力」)の存在、人間の本来性に対する肯定観(貧困や病は存在しない、など)、生命力を生かした生産と消費の拡大による繁栄の実現、心(精神)と物質(肉体)との関係性‐―などに相似する屑があることを指摘した。


 しかし、本稿の愈義はなんといっても、こうした世界観レベルでの影響関係を、幸之助の具体的な人間関係から明らかにした点である。これまでも、幸之助の人間観や宇宙観の宗教・思想的背景を考察する文献は数多くあったものの、幸之助の著作から解釈するという方法を採る研究がほとんどだった。それは正統的な方法である一方で、多様な解釈を生むことによりかえって反証もしやすいという弱みもあった。それに対し本稿では、幸之助の世界観はいくつかの宗教や思想の影響を受けた可能性を認める一方で、幸之助の人間関係からみると、世界観のある一面においては生長の家による影響が大きいと結論付けている。今のところ、戦前から戦後のPHP運動の関始までの期間において、石川家の人々以上に幸之助と親交のあった宗教関係者を、真言宗の加藤大観以外にみいだすことはできない。

 一方、本稿では、幸之助の世界観について解明できていない点は多々ある。とくに、「人間宣言」にみられるように、どうして幸之助は人間の偉大さを殊更に強調したのか、生長の家との関連の範囲では、まったくわからない。また、本稿には方法上の欠点がある。それは、石川家側の情報に依拠した部分が相対的に大きく、幸之助の周辺にいた人々や、芳次郎と幸之助の双方をよく知る第三者からの情報収集が甘いという点である。これについては、筆者の調査能力の不足もあるが、現実的に困難な事情もあり、’今後検討すべき課題である。



註)原清といえ朝日放送の社長である。この原清を支えた石川芳次郎は偉大な人物である。そういえば尊敬している人として石川芳次郎を挙げているが当然であろう。

松下理念研究部 研究部長
川上 恒雄 (かわかみ・つねお)

【松下幸之助研究、宗教学、社会学】

経営哲学を含めた近代日本の知の諸潮流と松下幸之助の思想との関係を研究。日本と諸外国における松下理念の認識に関する社会学的研究。

1991年、一橋大学経済学部卒業。同年、日本経済新聞社入社。出版局電子出版部(企業研修用ビデオの企画)、出版局編集部(書籍編集)、編集局経済解説部(新聞記者)に勤務。2000年、英国エセックス大学社会学修士。2006年、南山大学南山宗教文化研究所研究員。2007年、京都大学経営管理大学院京セラ経営哲学寄附講座助教。2008年、英国ランカスター大学宗教学博士。同年10月、PHP研究所入社。 現在、松下理念研究部研究部長(201410月~)。