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今回は今までに本や冊子などで発行されてこなかった『生長の家』誌昭和12年1月1日号で極めて重要な文章であります。『招神歌』講義であります。
この『生長の家』には重要な文章が他にもあります。それは生長の家の誌友徽章標準図つまり生長の家の光輪卍字十字架のデザインが始めて書かれたことです。
それ以外に『古事記』講義など有用な神誌です。
此の度は全謹写することを考えたのですが著作権の関係でギリギリです。ご容赦願います。
尚、ここにあります文章を添付して他の掲示板には貼付けはご遠慮願います。
全文章を要望される方はご連絡下さい。

『招神歌』講義

                             谷口雅春

 神想観をいたしますには聖典『生命の實相』に書いてありますような姿勢で、瞑目合掌してそれから招神歌を唱えるのであります。


 何時も皆さんがやっていられる通りで、道場や誌友会でやるのは多勢で指導する為にやるので多勢に聞こえるように朗々とやる必要があるのですが、自分自身でやる時は必ずしも人に聞こえるような大きな聲でなくても宜しいのであります。


隣の人同座の人に恥ずかしいから大きな聲が出せないと云う人は出さなくても差支えないのですけれども、大きな聲で多勢の中でも唱えるようでないと本当に信仰が深いと云うわけではないのであります。


 どこの宗教でも、祝詞とかお経とか誦げるときにでも、何だかきまりが悪いと云うような人はまだ本当の信仰が徹底していないので、何となく人にきまりが悪いのであります。

ところが平気で誰の前でも誦(とな)へ言が出来るようになると、大分信仰が深くなっているのであります。さて、第一の歌の講義に進みます。


生きとし生けるものを生かし給へる御祖神(みおやかみ)元津霊(もとつみたま)ゆ幸(さきはえ)へ給へ。


この歌の意味は要するに我々の生きている生命と云うものは、どこから来るかと云うと、御祖神元津霊は元の霊(みたま)であります。大元霊と云っても好いでありましょう。これは日本読みにすると元津霊となるわけで、元津霊ゆと云うのは『田子の浦ゆふりさけ見れば』という歌がありますが、というのはよりと云う事であります。


元津霊より幸へ給へ、元の霊から幸へ下さい、この霊(みたま)を分ち与えて下さいと云う意味であります。サキハヘに幸と云う字が書いてありますが、幸福を何故幸延(さちは)へと云うかと申しますと、本当に幸と云うのは自分の力で利己的利益を得たから幸であると云うのではないのでありまして、神の大生命、それを分ち与えられるその事が幸なのであります。


霊(みたま)がなければ幸でなくなるのであります。我々の生きる力、喜びの感じ幸福の感じ、生き甲斐の感じと云うものはこの大生命を余計頂くか少く頂くかによってその程度が変わって来るのでありまして、何時も嬉しい感じ、魂の幸福な喜び、生き甲斐があると云う感じがしている。それだけ大生命から霊を余計与えられていると云う事になるわけであります。


そう云うと大生命、大元霊、御祖神と云うものは、我々に不公平に霊を与え給うものであるかと云うと決してそうではないのでありまして、我々の心の持方がよかろうと悪かろうと、常に無限に平等に与えてゐ給うのが元津霊であります。それを自分の心で、心の重荷や苦しみで遮って邪魔をして、それによって本来の自分、既に幸福に充ち満ちた本来の自分に帰って来ないと云う事になるのであります。


何時もラジオセットの例を引きますが、アナウンサ-が放送をしますと、どのラジオセットにも皆一様に同じ距離に置けば、同じようにそこにラジオの波が来ているのであります。来ているけれども良いラジオセットと悪いラジオセットとでは、その感応が各々違うのであります。


良いラジオセットは本当にアナウンサ-の聲其の儘をそこに再現する。悪いラジオセットはアナウンサ-の聲その儘は再現しない。耳障りな不快な音をたてる。或は良い具合に聞こえないで小さな聲が出たりする、アナウンサ-其の儘の聲が必ずしもそこに再現しないのであります。


それはアナウンサ-が悪いのではないのであります。ラジオセットの方が悪いのであります。同様に大生命から放送する神が悪いのではないのであります。神は常に一様に大生命の生きる力を放送していられる。それを再現する事が出来ないのは、我々のラジオセットの不完全さによるわけであります。それで我々は出来るだけラジオセットを完全にしなければならぬ。そうすれば神様から来るところの霊波(さきはへ)其の儘の状態、それをそこにさながらに再現する事が出来るわけであります。


では神様の霊波その儘がそこに再現するには如何(どう)したらいいかと云うと、心を整えてそうして神様の波長に、自分の波長と云うものを、ぴたりと本当に完全に合わさねばならぬ。その時、神の聲がそこに再現する。神の聲即ちアナウンサ-の放送は、放送局のセットと聴く方のラジオセットとがぴたりと波長が合った時に初めて完全に再現して来る、人生の幸福も放送者即ち神の聲が完全に再現して来るところに在るのです。


要するに何よりも先ず心を整えることであります。これは神様の性質を考えればよく分かるのでありまして、神様は光である、太陽のように総てを照らすところの光である。明るいのが神様なのであります。それですから我々は常に明るい心持を持つと云う事によって、神様の霊波をここに再現し得、生きる力を感じ、生きる力そのものをここに再現して来ることが出来るのであります。それから神は光であると共に神は万物を育むところの大いなる愛である。


大いなる愛であるから、神の生きる力、大生命の力と云うものは、それをここに再現して来させようと思いましたら自分を神の愛の波長に合わせなければならないのであります。

換言すれば我々の愛が神と同じように総てのものを慈しむと云うような大いなる愛にならなければならないのです。誰は憎いけれども誰は可愛いなどと、そう云う差別の気持ちになったら、それは神様の波長と合わないと、斯う云う事になるわけであります。


それから神様は総ての事に行届いていられる、そうして一つとして知り給わないところがないのであります。神様は無限の智慧であると生長の家では云っているのでありますが、神様の智慧と云うものは大きく云えば宇宙全体に繋がっておりますし、小さく云えばこの分子原子電子の中にまで行き通って、そこに神の不思議な力が活動しているのであります。


それで神の波長を合わせようと思ったならば、神と同じように大きな広々とした心を持たなければならない。それでは気が大きいばかりで呑気にさえ構えておれば宜しいかと云うとそうではないので、時には小さな細かに行届く心にもならなければならないのであります。分子電子のところまでも行届くような心を持つと云う事が必要なのであります。


自分は神と一体であると悟ったとて悠々と構えて、そうして小さな事など如何(どう)だってもいいのだと考えている人があるかも知れませんけども、それでは神の智慧に一致しないのであります。何よりも総ての事に行届くと云うことが大切であります。


神の智慧と云うものは、本当に微細なところ、埃ひとすじ、鉛筆一本のところまでも行届いているのでありますから、我々の智慧もそこまで行届いて、気が大きいと共に細かいところに行届いた心を持たなければならないのであります。


それから神様は生きとし生けるものを生かし給えるところの命でありますから、やはり我々も同様生きとし生けるものを生かすような心、先刻(さっき)、育む心と申しましたが、育むよ云う事は生きているものばかりではない。在りとし凡ゆるもの、一切の物を生かす気持ちになることであります。


神は大生命であると云うのは何でも生かして使う事であります。吾々生長の家の人達は『節約』と云う余り云わない、一切を生かして使えと斯う申すのであります。生かして使えと云って、『節約』には反対であると申しますと、往々節約反対と云う事に執(とら)われて、滅多やたらに費(つか)ったらそれで経済循環がよくなると考えるような人がありますけれども、決してそうではないのであります。物は生かして費(つか)った時に始めて真に経済循環がよくなって来るのであります。


それでも何でも生かして使う、金でも生かして費(つか)はねばならない。生かす事を考えないで安物のくだらないものを高い値段を出して買うというようなことでは、これは金を生かさない事になる。金を生かすには十銭のものも十五銭の値打に使うのがこれが本当に金を生かすと云う事であります。そういう風に紙一枚でも之を生かす、一行書いて一寸下記損なったから直ぐ捨ててしまう事になると、これは紙一枚、全体に書かれるために捧げられているものを、一寸だけ使って、それは要らんと云うのでは、この紙は生かされていないと云う事になるのであります。


それで総てのものを生かして使う、生かし生かし使っているところに、そこに無限の供給と云うものが開けてくるのであります。誰でもいかされることを喜ぶのです。

生かされない物は殺されているのです。それでは人が、物が、喜んではいない。

誰だって殺されたくないですから、紙一枚でも殺されたら恨みに思う。物質を単なる物質であると思うのは大きな間違いであります。これには生命がある、夫々に生きた用途がある。紙屋さんの生命(いのち)も籠り、こういう細工をする人の生命も籠り、之を売った人から運搬した人の精神も籠り、それらが集まって、ここに紙一枚でも形を現しているのでありまして、これはもう決して単なる物質ではないのであります。


生長の家では物質本来ないと云うのは、例えば扇子にしても、これは決して単なる物質ではない、それには色々の人の生命が結合し結晶している、扇を使って風が起ると云うのも単に貼られた紙を操作すると云う物質的関係から生ずるのではなく、實は之を造り拵えた人達の愛の力、生かす力そのものが現れて我々を煽いでくれているのであります。そうすると實にこれは有難い風であって皆さんの生命が煽いで下さるのです。だから扇子一本にも拝まなければならないわけであります。


要するに吾々は自身の心を整えることによって生きとし生けるものを生かし育む神の大いなる愛の心と同じ心を起すと云うことにならねばならないのであります。

吾々日常の生活の一言一行、これを吾々の良心が内から照らしてみて是は喜びであると云う風に常に何となき心の喜びを感ずるようになったならば、既にそれは自心が神の波長と一致したことでありますから、そこに不断に大生命の波長が感じてくるという事になって、これが本当の幸というものであります。


それでは幸と云うのは霊(みたま)が増えるということである。吾々は既に始めから神の大生命無限の霊(みたま)と云うものを分け頂いておるのでありますけれども、それを迷で遮っている。丁度ラジオの音が、小さく明瞭に出ないようなものであります。それを完全に発言させる、そうするとその程度につれて霊(みたま)が増えて来る。霊(みたま)が増えると吾々は常に心楽しく生命は生生(いきいき)として来るのであります。


神の生命は影を映して吾々に形を現すのでありますから、神の全生命の放送がここに姿を現すのでありますから、吾々の霊が殖えれば殖える程吾々の全生活はいよいよ生生(いきいき)としてくる。

生生(いきいき)として来た程度だけ、霊が殖えたわけであります。吾々は死にかかっている場合には、決して生生(いきいき)していない。もう一度逆に考えますと、生生(いきいき)したら霊(みたま)が殖えると云うのは、これは波長の共鳴が引起すので、生生(いきいき)とするのが大生命でありますから、それは生生(いきいき)した波を起しまして、そこへ生生(いきいき)とした生生(せいせい)の波動が映ってくるわけであります。それで、我々は常に明るく、常に生生(いきいき)と、そうして人を育むような、小さなものを生かすような、広々とした、しかも細かいところに迄よく行届く心を持てば、吾々は完全に神の生命を受けて、それをここに自在に生生(いきいき)と発現させる事ができるのであります。次の歌に移ります。