失われた30年に何が問題だったのか

「生長の家」という谷口雅春先生の教えが現在歪められ、正しい道を塞がれている。
現在の信徒の約7割は谷口雅春先生の御生存の時代を知らないでいる。その間に谷口雅春先生の御著書は絶版とされ、『生命の實相』も読まれないでいる。ごく一部で輪読会をしているようであるが、本当に数字としては少ない。
愛国書といわれるものは同じく絶版の憂き目となっている。雅春先生が「こういう考えなのですよ」と説いても、亡失したかのように「雅宣総裁」を援護する。

本当に過去の愛国青年がこんなに思想を転換して「谷口雅春」先生の名前を言えるのかである。
以前に講師会長していた人が私の自宅の誌友会に来て頂いたこともある。その時には「雅春先生」の思想そのものであった。
だが、数年経てば「雅宣教」となっている。

ここに何が足りないのかというと

天皇陛下を愛する日本人の考えなんです

それをいとも簡単に失ってしまっている。それはまるで戦後まもない頃、敗戦に打ち拉がれた国民のなかにはGHQに擦り寄る人が沢山いたのと同じである。日本国民は思想の転換も早い国民であるとも云える、真の思想はどうなのか問いたい。

私は天皇陛下について勉強し、日本人の尊厳を維持できる人が「真の生長の家」だと思う。

昔は神武天皇から今上天皇まで暗証し、この天皇ならどのような詔勅を言われた天皇ですよ。有間皇子はこういう皇子です。

大津皇子はこういう皇子ですよと人に説いていけるような人間になりたいと常に思っている。

そうした思想が「簡単に崩壊」してしまっている要因と考えるのは早計なのか。

それでも私は愛国思想の亡失が「生長の家」の現在の様相の根本があるように思う。


室町時代の後奈良天皇の業績をほとんどの人は知らないでいる。
後奈良天皇は祈りの天皇であった。(インターネットから抜粋)

 


慈悲深い人物として知られ、応仁の乱の後に皇室の財政が逼迫し、食べるものも着るものも事欠き宮殿も荒れ放題の状況で、巷では疫病が流行ってしまっていた時、「自分はなんとひどい天皇だ」と大いに悩み、般若心経金字(金泥で書いた文字)で写経し、全国の一宮二十五ヶ所に納められた。
食べるものにも事欠く状態で金字の般若心経を25も揃え、しかも天皇の写経なのでそれなりに装飾のされたものが使われたことから大変であったとされ、全国の一宮に勅使を立て行列を組んで届けさせ、そうして祈りを捧げるために、ありとあらゆる出費を切り詰め、24巻の般若心経を納められたという。

疾病終息を発願して自ら書いた般若心経の奥書には

「今茲天下大疾万民多
於死亡。朕為民父母徳不能覆、甚自痛焉」

現代訳
「今年の天下大疫で万民が多く死亡した。朕は民の父母として徳が十分でなかったことに甚だ心が痛む。ひそかに般若心経を金字に写し、これを供養させる。これが疫病の妙薬となることを願う。」

との悲痛な自省の言を添えられている。
ちなみに、般若心経が納められたことは天皇の側近と一宮の関係者以外は知らず、これらは後世に発見されたものであり、天皇自ら食を減じ「自分にできることは祈りしかない」として写経をあそばされたとされる。
天文14(1545)8月の伊勢神宮への宣命には皇室の復興を祈願するなど、天皇としての責任感も強かった。

また、三条西実隆吉田兼右らに古典を、清原宣賢からは漢籍を学ぶなど、学問の造詣も深く、御製の和歌も数多くあり『後奈良院御集』『後奈良院御百首』などの和歌集や、日記『天聴集』を残している。

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後奈良天皇は践祚から即位礼まで10年も経過して執り行われた。経済の圧迫から出来なかった。また御所の築地壁が崩壊し、三条大橋から内侍所の燈火が見えたというのは有名な話です。経済的にも圧迫して多くの人々を亡くしたのは自分の責任であると「般若心経」にて祈りを捧げた天皇です。自ら食を減じ、ひたすら祈られた。

現在一宮の「般若心経」7巻は現存しています。