> 谷口雅春先生の御講義 「久遠の今」 において、先生は ≪ 生長の家の神想観の時に、「吾れ今五官の世界を去って実相の世界に入る」 というのがありますが、「吾れ今」 というその 「今」 が、「常今」 であります。Eternal Now(エターナル・ナウ)であります。「永遠の今」 であります。……「吾れ・今・此処」 が全く一つになってしまって、「久遠の今」 が、「永遠の今」 が、「今」 「此処」 「吾れ」 と一体になってしまって、時間と空間とを絶したところの 「実相の今」 というものがあらわれてくるのであります。  その「実相の今」 の、そこに私たちは生活するのです。何月何日の何時何十何分、どこそこの空間において生活する――と、そんなふうに生活しているのだったら、吾々はいろいろな問題にひっかかることになります。  「いつ、だれが、あんなことをぬかしやがった」 とか、「どこで、どんなことをしやがった」 というので腹が立ってきたり、クシャクシャしたりするんだ。  それは、本当の 「今」 というところに生活していないで、ある時間の流れ、どこかの空間的存在において、誰がどうしたとか、未来はどうなるであろうとか、そういうような 「現在」 というところで生活してしまっておって、「久遠の今」 「実相の今」、「発して節(せつ)に中(あた)る」 ところの、急所急所にピシリと当たるところの 「今」 というところに生活していないから、それでいろいろと悩まなければならないことが起ってくるんです。……それで、常に 「吾れ・今・此処」 というその実相の中に、「未発の中(ちゅう)」 のなかに坐って、なんにも掴まないで、時と人と場所とに応じてピシリ、ピシリと節に中(あた)るということにいたしますと、事々物々間違いがなく、何事も急所を押さえて、間違いなく適当な処置がとれるということになるのであります。  ……  此処には一切のものがあるのであります。「真空妙有(みょうう)」である。真空の「無」の中に坐しながら、あらゆる妙(たえ)なるものが、そこに存在するのであります。「真空」にして同時に「妙有」であって、そこは透き通っておって、無色透明である。無色透明であるから何にもないのかというと、あらゆる色が備わっているのであります。無色透明の太陽光線みたいに、その太陽光線の中に一切の七色の光がある。しかもその七色が互いに対立しないで渾然(こんぜん)ひとつになっているというように、無色透明、透明な生活――というようなことになれるわけでありまして、それが生長の家の生き方であるのであります。≫  ――これが生長の家の教義の中核、根幹である。  「久遠の今」 に立つとき、そこは光明一元、歓喜一元、実相独在の世界なのであり、分裂抗争のない世界である。今、生長の家が分裂抗争の状態を現しているのは、「久遠の今」 に立っていないからなのである。    (2016.6.19)< 上記は岡正章氏の文章です。 言葉の内容は崇高な文章ですが、何か違和感があるのを気がついた人は正常だと思います。 それは何かご存知ですね。 「「久遠の今」に立っていない」といいながら、ここで反論すれば貴方はなにをしているのですか! そうなんです、傍観者なんです。岡講師となっているんです、総論あって結論がないのです。 それではどうでしょうか。 「***べき」だといいながら、妥協していく生活なのです。