見抜く力を養う大切さを実感致します。
それと申しますのは、岡正章氏は今回の「今夏の参議院選挙に対する生長の家の方針」に対して
反対表明をされているのです。

「みすまるの珠」に
 さて、6月9日に、「今夏の参議院選挙に対する生長の家の方針」 というのが出されています。
http://www.jp.seicho-no-ie.org/news/sni_news_20160609.html

 ここに、

≪   「与党とその候補者を支持しない」

来る7月の参議院選挙を目前に控え、当教団は、安倍晋三首相の政治姿勢に対して明確な「反対」の意思を表明するために、「与党とその候補者を支持しない」ことを6月8日、本部の方針として決定し、全国の会員・信徒に周知することにしました。その理由は、安倍政権は民主政治の根幹をなす立憲主義を軽視し、福島第一原発事故の惨禍を省みずに原発再稼働を強行し、海外に向かっては緊張を高め、原発の技術輸出に注力するなど、私たちの信仰や信念と相容れない政策や政治運営を行ってきたからです。≫

 とあり、そして

≪……世界平和の実現など社会を改革する方法については、明治憲法の復元は言うに及ばず、現憲法の改正などを含め、教団が政治的力を持つことで“上から行う”のではなく、国民一人一人が“神の子”としての自覚をもち、それを実生活の中で表現し、良心にしたがって生きること。政治的には、自己利益の追求ではなく、良心(神の御心)の命ずることを、「意見表明」 や 「投票」 などの民主的ルールにしたがって “下から行う” ことを推進してきました。

 私たちは、社会の変革は、信徒一人一人が正しい行動を “下から” 積み上げていくことで実現可能と考え、実践しています。……各個人の信念とライフスタイルの変革が必要です。私たちはそれを実行することで、世界平和に貢献する道を選びました。≫


 と書かれています。

 この、「信徒一人一人が正しい行動を “下から” 積み上げていくことで実現可能だと考え、実践しています」 というのは、本当でしょうか?

 「ウソだ! 欺瞞だ!」

 と私は言いたい。

 私は昨年3月下旬に、『何処へ行く? 「生長の家」――総裁への公開質問』という本を自費出版し、総裁・理事・参議・全国の教化部長などに送りました。そのまえがき(「はじめに」)をもう一度公開します。

      は じ め に

 「生長の家は何処
(どこ)にあるか」と問われたら、私は「生長の家は今、ここにあります。私が生長の家です。生長の家は、わたしの生命(いのち)です」と答えたいと思います。

 今が天地
(あめつち)の初発(はじめ)の時であり、此処(ここ)が生長の家(たかあまはら)(高天原)である。わが生命(いのち)は天之御中(あめのみなか)の御生命(おんいのち)が鳴りひびいているのである。谷口雅春先生が、「本当の生長の家本部は神界にある」とおっしゃった、神界とは遠くにあるのではなく、「神の国は今此処わが内にあり」ということであると信じます。

 生長の家とは、時間・空間未だ発せざる中
(みなか)、一切万象発生の枢機を握る「久遠の今」なる本源世界、大宇宙(たかあまはら)である。そして――

≪ 全世界を宇(いえ)と為す神武天皇の八紘為宇
(はっこういう)の建国の理想は決して侵略精神ではない。八方の国々が家族となって人類全体が睦み合う理念である。此の理念を「生長の家」と言う。

 理念は普遍的なものであるから、これは私の家ではない。何故そう云う名称を附したかと言えば、生は縦に無限に生
(の)びることを現し、長は横に長(の)びることを現すからである。縦の無限連続は時間であり、横の無限連続が空間であり、縦と横と、時間と空間との交叉する万象発現の枢機を握るものが、内に一切を蔵する無字であり、一切を統一する天皇の御天職である。此の真理に世界の万民が目覚めないから万国互に相争うのである。

 全世界は天皇に於て一宇である。万国の民にそれを告げ知らせる東道
(みちしるべ)の役目を以て出現したのが吾々の団体である。(谷口雅春先生『光明道中記』31頁より)≫

 これが、生長の家の教義の中心部分であり、生長の家出現の目的、使命である。これをなくせば塩に塩気がなくなったと同様、「もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ」(マタイ伝第5章13節)になってしまうのではないか、と私は思います。

 本書に『何処へ行く?「生長の家」』と題を付けたのは、「生長の家は東京原宿から森の中へ行く」というような、外形の問題ではありません。魂の問題です。今の生長の家は、

 「われ今実相の世界を去って五官の世界に入る」

 となっているのではないか、ということです。

 谷口雅宣・生長の家総裁が昨年11月に公刊された『宗教はなぜ都会を離れるか?』の「はしがき」に、「宗教の教祖も、その人が生きた環境と時代から完全に自由になることはない」とあり、同年11月22日 総本山に於ける式典での総裁ご挨拶原稿〈「唐松模様」所載〉には

 「『宗教運動は時代の制約下にある』ということを、皆さんはぜひ理解していただきたいのです。……私たちは今日、地球温暖化問題を深刻に捉え、その抑制に向かって真剣に取り組んでいます。生長の家が国際本部を東京から八ヶ岳の南麓に移転したのも、それが最大の理由である……つまり、宗教は時代と環境の要請から生まれるから、その時代と環境が変化すれば、宗教自体も変化を要求されるのである。だから、戦前・戦後に説かれた教えは戦後に修正されることもあるし、冷戦時代の宗教運動の目標や方法が、冷戦後には採用されないこともあるのである。この時代応現の変化の意味が分からないと、宗教は社会に有害な影響をもたらすことになる」

 と書かれていますが、本当の宗教は「時代と環境の要請から生まれ、時代と共に変化する」ものではなく、時代を超越した永遠の真理を説くべきものであると私は信じます。

 生長の家は今、「正念場」を迎えているという気がします。教化部長がいくら頑張ってみても、講習会受講者数も聖使命会員数も減り続け、教勢の下降に歯止めがかかりません。このまま行けば、教団は、つぶれはしなくとも、存続の意味がほとんどないほどになって行くのではないかと思われます。それは、真理がくらまされているからではないのか。「正念場」とは、「正念」すなわち「神は完全であって、神の造り給うた世界には、不調和や不完全はナイ」と実相を観ずる「正念」をもって、適切な処置行動をしなければならないギリギリの時だということでしょう。

 それで、今年(2015年)新年の総裁のご挨拶文や、新刊書 『宗教はなぜ都会を離れるか』 を拝読して疑問に思うことなどを率直に申し上げ、「私の考えはまちがっていますでしょうか?」 というのが、本書 「第一部・総裁への公開質問」 でございます。総裁が現象面のことを根拠に説かれるのに対しては、現象面の歴史的事実などから出発して申し上げております。憚りながら、245頁以下に採録させていただきました「張玄素のようでありたい」 というような思いをもって、書かせて頂きました。私も80歳を超え、今生での残る時間は限られています。そこで、「これを言わなければ死ねない。」 このままでは、生長の家は消えてしまい、日本の危機、世界の危機は救われない。今起たずして何時
(いつ)起つべきか――という思いなのです。

 「第二部」資料編「疾風怒濤のわが青春記録より」は、わが魂の足跡ともいうべきもの。私は昭和26年(1951)、高校生時代に『生命の實相』の御光
(みひかり)によって新生し、激動の時代に 「自分はこの御教えに人生を賭ける」 と決めました。それから60年以上たった今、これまで私が青年時代から書いて生長の家の月刊誌、機関紙誌その他の雑誌、単行本等に掲載された論文・対話録などから、選んで編集したものを、資料として採録させていただきました。これらは前の「第一部」公開質問編の基盤となっております。

 この冊子は、私の 「内なる神へのレポート」 と言ってもよいものだと感じております。

 はなはだ恐縮ながら、ご一読くださいまして、総裁先生には質問へのご回答を、それ以外の諸先生皆様にも、ご意見・ご感想ないしご指導を賜れれば、まことに有り難き幸せに存じます。

 平成18年(1956)生長の家本部を退職し地方講師とならせていただいてから今まで約9年間に、私は幾たびか総裁に直接お手紙を差し上げました。しかし、何のお返事もいただけませんでしたので、今回は、失礼ながら公開質問の形をとらせていただきます。

 なにとぞよろしくお願い申し上げます。

      平成27年3月吉日
                            岡  正 章 


             ○

 以上のような 「まえがき」 をつけた公開質問を掲載した本(全252ページ)を自費出版し、総裁および教団幹部の方々にお送りしたのですが、1年と数ヵ月たった今も、なんらお返事を頂けておりません。

 この項の冒頭に掲げさせていただいた 「今夏の参議院選挙に対する生長の家の方針」 に、

 
≪私たちは、社会の変革は、信徒一人一人が正しい行動を“下から”積み上げていくことで実現可能と考え、実践しています。…(略)…本教団は今夏の参院選においては 「与党とその候補者を支持しない」 との決定を行い、ここに会員・信徒への指針として周知を訴えるものです。≫



 とありますが、それは本当ですか? ウソではありませんか。「私たち」とは、誰ですか。疑問には答えることなく、“下から” ではなく “上からもの申す”、信徒は皆この方針に従うよう徹底せよ、と命令通達しているようにも思えます。

 私は、下から、「自分の良心にしたがって」、与党とその候補者を支持します。

岡正章氏は一旦抜いた刃をおさめるということをしてしまっている。自分の信念というのがないのか

と疑問に感じる。

それは谷口雅宣氏の本性を見抜ける眼力というのが無いからであります。普通は雅春先生の御教えを遵守するのであれば、おかしいなと思うものを自分ながらに書いて、それを本当にそうなのかどうかをじっくりと思考してそれで判断するのです。
私は岡氏の気持ちはわかるが、だからといって一旦支持をしてしまっている。

私は「天皇陛下のおわします日本国」という視点において「生長の家」を考える技量が厳しいがなかったためこういう事態に陥ってしまったと判断しています。

でもこうしていい材料を総裁から与えられ「良し悪しの判断出来る」というのが良かった。早く目覚めて欲しいものです。