陵西陵墓参考地(おかにしりょうぼさんこうち)とは?
磐園陵墓参考地のすぐ南にあります。

磐園陵墓は顕宗天皇ではないかといわれています。その皇后で顕宗天皇皇后難波小野女王「なにわのおののみこ」とよばれ古事記に記載があります。
この陵墓のすぐ近くにはJR和歌山線が通っています。
培冢(ばいちょう)とよばれる塚が培冢い号~培冢ほ号まであります。い号からに号までは和歌山線の横に並ぶようにありますが「ほ号」だけは和歌山線を越えて高田温泉さくら荘の南側にあります。
そのすぐ南には

難波小野王(ナニワノオノ)
・生没年:生年不詳~仁賢天皇2年(489)年
・続  柄:顕宗天皇皇后/(父)丘稚子王、(母)不詳
雄略天皇の皇孫丘稚子王の王女にあたる系統で、顕宗天皇即位に伴い皇号に立てられた。しかし、賢宗天皇が崩御し兄の仁賢天皇が即位すると、即位二年後に突如自害し果てた。
これは顕宗天皇の代に宴の席で当時皇太子だった億計皇子(仁賢天皇)に非礼を行い、それを罰せられることを恐れた故であったという。


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