あとは只 邁進 (586) |
|
大阪城は外堀を埋めるということで和睦に応じたのであり、しかし徳川軍はそこにも介入してきた、自ら埋め尽くしたというのは間違いで内堀は徳川軍により騙されて埋められたのである。
その後に続いて何故、あとは只 邁進なのか?
私は大阪人としても日本人としても侮辱として受け取られても仕方がない、イヤミのような表現は嫌いである。しかも事実と異なっている。
どうしてこういう表現をするのか?
ある方の言葉を抜粋します。
城郭は、城主の御殿や、天守のある、本丸という囲い、それ取り巻く二の丸という囲い、さらにそれを取り巻く三の丸という囲いで出来ていますが、豊臣大坂城は、さらに三の丸を取り巻く、惣構えという防壁・堀、言わば四の丸が構築されていましたので、超巨大な城域となっていました。
大坂冬の陣では、徳川方20万が、豊臣大坂城を、1か月以上、包囲したものの、手も足も出ませんでした。
そのため、講和に持ち込んだ徳川は、豊臣をペテンにかけ、惣構えはおろか、三の丸も二の丸も、武家屋敷も、ありとあらゆる施設・構造物を取り壊し、その解体資材で、すべての堀を埋め尽くして、本丸だけの丸裸にしていまいました。
そして再攻にかかり、わずか3日程度で陥落させます(夏の陣)。
この流れは、豊臣大坂城が、どれほど巨大で堅固だったかを証明しています。
豊臣家を滅亡させた徳川幕府は、豊臣びいきの大坂の民衆に、豊臣に代わる徳川の威信を見せ付けるため、徳川大坂城を創建しました。
徳川は、焼亡した豊臣大坂城の残骸を埋め込み、盛り土して高台を作り、その高台の上に天守を建てましたので、外見上、天守のみは、徳川大坂城の方が高く見えたのです。
ところが、徳川大坂城の城郭全体の規模は、豊臣大坂城の城郭全体の、「四分の一の規模」でしかありませんでした。つまり、天守のみが、異様に大きかったのでした。
今見えるのは、豊臣・徳川合成の模造天守と、徳川大坂城のごく一部です。しかも、豊臣大坂城の主要部分は、現大坂城の数メートルから10メートル地下に埋まっていますし、都市化した周辺の地下にも埋まっているのです。
このブログにコメントするにはログインが必要です。
さんログアウト
この記事には許可ユーザしかコメントができません。