「日本の皇室でも、韓国から招いた時期もある」

この発言をしても発言自体間違いであり、何とも思わないが、その発言が天皇信仰として教義に宣布している「生長の家」総裁の発言となれば、大いに糾弾しなければならない。

こうした発言が出た所以は

平成131218日 宮殿 石橋の間でのご発言であります。

 

世界的なイベントであるサッカーのワールドカップが来年,日本と韓国の共同開催で行われます。開催が近づくにつれ,両国の市民レベルの交流も活発化していますが,歴史的,地理的にも近い国である韓国に対し,陛下が持っておられる関心,思いなどをお聞かせください。


天皇陛下

日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招へいされた人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招へいされるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。

しかし,残念なことに,韓国との交流は,このような交流ばかりではありませんでした。このことを,私どもは忘れてはならないと思います。

ワールドカップを控え,両国民の交流が盛んになってきていますが,それが良い方向に向かうためには,両国の人々が,それぞれの国が歩んできた道を,個々の出来事において正確に知ることに努め,個人個人として,互いの立場を理解していくことが大切と考えます。ワールドカップが両国民の協力により滞りなく行われ,このことを通して,両国民の間に理解と信頼感が深まることを願っております。



高野新笠とは(Wikipediaより抜粋)
『続日本紀』(『日本書紀』ではありません)によれば,桓武天皇の生母は渡来系氏族である和(やまと)氏の出身の高野新笠(たかののにいがさ)だとされています。

新笠は百済の武寧王の子孫ということですが,桓武天皇の時代(8世紀末~9世紀初)には百済はとっくの昔に滅亡(660年)していますから,日本の天皇家と朝鮮の王家がどうのこうのというのは,時代錯誤です。

高野 新笠(たかの の にいがさ、720頃生 - 延暦812月287901月21))は、光仁天皇宮人、後に夫人桓武天皇早良親王能登内親王の生母。桓武天皇の即位後、皇太夫人。薨去後に贈皇太后、贈太皇太后。諡号は天高知日之姫尊。

父は和乙継、母は土師真妹。父方の和氏百済武寧王の子孫を称する渡来系氏族で、もとの氏姓は和(やまとのふひと)。高野朝臣(たかののあそみ)という氏姓は、光仁天皇の即位後に賜姓されたもの。

生涯

天智天皇の孫にあたる白壁王の宮人となり、天平5年(733年)に能登女王、天平9年(737年)に山部王(後の桓武天皇)天平勝宝2年(750年)頃に早良王を生んだ。

白壁王は、天平16年(744年)以後に、聖武天皇の皇女で称徳天皇の異母妹にあたる井上内親王を正妃に迎えた。そして宝亀元年(770年)に称徳天皇が崩御して天武系の皇統が断絶すると、白壁王は62歳にして天皇に擁立され光仁天皇となった。光仁天皇の皇后に井上内親王、皇太子にはその子の他戸親王が立てられたが、これは皇統の継続性と井上内親王の出自から見て順当のことだった。

身分の低い新笠の生んだ皇子たちには、皇位継承の芽はないかに見えた。しかし、宝亀3年(772年)3月に井上皇后は呪詛による大逆を図ったという罪で皇后を廃され、他戸親王も同年5月皇太子を廃されて、翌宝亀410月には母子ともに庶人に落とされ大和国の没官の邸に幽閉された。その2年後宝亀6年(775年)427日に井上内親王と他戸親王は幽閉先で相次いで死去した[1]。この廃后・廃太子劇は、藤原百川藤原式家による陰謀であったと考えられている。この間の宝亀4年(773年)12日に新笠が生んだ山部親王が立太子し、藤原式家から乙牟漏を妃に迎えて、宝亀5年に王子(のちの平城天皇)が生まれている。

新笠は宝亀9年(778129日、従四位下から従三位となった。この頃までに高野朝臣の氏姓を賜り、夫人となった。しかし、皇太子の母であっても身分の低さから皇后に立てられることはなかった。また、藤原式家の藤原永手の娘で所生の皇子女のない藤原曹司が、新笠に先んじて同じ従三位・夫人の位にあった[3]

山部親王が光仁天皇の跡を継いで桓武天皇となると、天応元年(781415日、新笠は即位とともに皇太夫人と称された。同年427日、新笠は正三位に昇叙された[5]。また桓武天皇の皇太子には、同母弟・早良親王が立てられた。しかし早良親王は延暦4年(785年)に藤原種継事件に連座して淡路へ流されることになり、自ら命を絶った。天皇家周辺に陰謀と暗殺が渦巻いた時代だった。

延暦8年に薨去。当時桓武天皇の皇后藤原乙牟漏・夫人藤原旅子らが相次いで没しており、続く天皇生母の死も早良親王の怨霊によるものと噂された。薨去後に皇太后を、さらに延暦25年(806年)には太皇太后を追贈された。墓は京都市西京区の高野新笠大枝陵(宮内庁管理)。

 

新笠出自と子孫

父の和乙継は、百済渡来人氏族の和氏(かばね)は)であるが、生前の位階・官職は不明。光仁天皇即位後に高野朝臣と改姓した。母の土師真妹は、土師氏(姓(かばね)は宿禰)であり、桓武天皇即位後に大枝朝臣と改姓した。延暦8年までに父母ともに死去しており、ともに正一位追贈されている。

続日本紀延暦81228日条に、

「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純陁太子より出ず。皇太后曰く、其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。」

とあって、和氏が武寧王の子孫であることが記されている。日本書紀によれば継体天皇7年(西暦513年)「百済太子淳陀薨」とあり、純陁と淳陀が同一人物ではないかと考える学者も存在する。ただし、朝鮮側の資料には武寧王の子として純陁、もしくは淳陀に比定できる人物が存在していない。このことから和氏が武寧王の子孫であるかどうか学術的に少なからず疑義が持たれている。

 

また、純陁太子の没年と高野新笠の推定生年(720年頃)には約200年の開きがあり、和氏が百済系渡来人としても百済王氏のような新来の渡来人ではなく、相当な古来で日本化した帰化氏族だといえる。和乙継の牧野墓は奈良県広陵町にあるバクヤ塚が推定されているが、これは馬見古墳群に属する「古墳」であって築造年代が異なる。

高野近傍には土師氏の根拠地である菅原伏見、また秋篠がある。ここには菅原寺、秋篠寺などが営まれ、また長岡が大枝におかれたことからみても、母方の土師(大枝)氏一族は重んじられた。一族は大江朝臣菅原朝臣秋篠朝臣などを賜姓され、貴族として以後長く活躍した。一方、高野朝臣と改姓した父方和氏一族のその後は、ほとんど知られていない。

高野新笠の子である桓武天皇の子孫は現天皇家や皇族に繋がっているだけでなく、臣籍降下して源氏平家の武家統領などになった子孫もおり、高野新笠の血筋は繁栄した。平成13年(2001)、今上天皇は続日本紀に高野新笠が百済王族の遠縁と記されていることについて述べ、いわゆる「韓国とのゆかり」発言をおこなった。

住宅地

「高野」の字(あざな)は、こんにちの奈良市高の原に比定される。神功陵古墳の裏手にあたり、現在では新興住宅地であるが、『万葉集』では鹿の音もわびしい山野と詠まれ、孝謙・称徳天皇の陵がおかれたばかりであって、その当時は本貫地・居住地としての賑やかさの実体はまったく窺えない。

私は上記のアンダ-ラインで示した百済系渡来人として200年の年月が経っており古来では帰化人といえども日本人化していると言わなければならない。

それを天皇陛下の祖先は韓国系であるというのは間違いです。

 

亀の子様が指摘するように

いずれにしても、一般の人でも公けの場では「ご皇室」と言うが、生長の家の総裁が単に「皇室」と言い、しかも朝鮮半島ではなく「韓国から招いた」などと事実誤認を言う自体恥ずべきことである。

 

確かに総裁として恥ずべき発言ですが、そのまま間違いを掲載するのもおかしい。

「コトバは神なりき」雅春先生が古事記を言霊により解釈し、その語源を説かれていますが、それと真逆な発言に総裁の本心が垣間見るような言葉になっています。

 

総裁には天皇陛下に対しての尊厳もない、畏れ多い気持ちというものもない。有難いという気持ちもこの発言から生まれてこない。

去年の末に奈良県のご講習会での前日に橿原神宮前駅の近くのホテルで夕方の散歩でその近くに有る「孝元天皇陵」に夫婦で行っても何の感慨深くなる発言もない。

期待はしていないがもう少し日本人らしいものが反対に無いのが私には複雑な気持ちにさせる。

 

総裁には天皇信仰というものがない。それは今までのご文章をみてはっきりと言えます。そんな生長の家は似非生長の家です。畏怖の天皇陛下として受け止めていく真摯な姿勢というものがなければ、崇め敬う気持ちなど出てくるわけがない。