学ぶ会はなぜもっと急激に会員数が増大しないのか? (11003) |
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たとえば会員数が増大しないと書いているが具体的な数字を列挙しないで書いている。これが致命的な欠陥である。
増大とはどういうことで書いているのかであろう。もし提言ならば「私ならばこのように数字を上げます」と記入します。
これは口撃といわれても仕方がないであろう。
学ぶ会はそれなりに順調に発展しているというのが私の印象です。それは支部数が伸びているのです。そこに参加している数も1年前より発展している。
また現在の生長の家の信徒を批判していると書いていますが、私はそのように受け取りません。
たとえば「古だぬき」という言葉だけに反応して、現在の信徒を古だぬき呼ばわりすると記入しています。
だが江戸時代の中期での時代での例えです。
老狸(らうり)の舊窠(きうくわ)に睡るが如し。終に壞滅(ゑめつ)に歸せん。何が故ぞ、今 既に獨りも葛洪(かつこう)、鐡枴(てつかい)、張華(ちやうくわ)、費張(ひちやう)が輩( ともがら)を見ず。如(し)かじ、四弘(しぐ)の大誓(たいせい)を憤起し、菩薩の威儀を
老狸とは「老練な人」と解釈すべきでしょう。昔の引用には身近な動物で例えることが多くあります。猪口才という言葉がありますが、それに反応して猪に例えるのは失礼だとかいうようなものです。そんな話いくらでもあります。馬も多いですね「馬脚をあらわす」といって私は馬の脚ではありませんなどという人はいません。
何か失礼ながら無理して「失態」を書こうとしているようにしか印象にのこりません。
現在の生長の家教団の職員のなかでやむを得ず残っていることを百も承知で破邪顕正さんは書いておられると思います。そういうことを分かりながらどうすればいいのか、悩みながら書いている文面があちらこちらにあります。
それを見ないでどうしてこういう文章を信天翁さんは書くのか不思議でならない。
もう少し斜めでみるとか、もしかしたらこういう思いで書いているのか、善い心で見ていくのが普通ではないか。
私は「学ぶ会」の会員ではないが、応援しています。心から応援しています。だが間違いははっきりと記入します。それは「八ヶ岳教団」と呼ぶのはダメです。といったときでも素直に破邪顕正さんは聞いていただきました。
意見を云うときは必ず鏡写しのように見てしまいます。自分だったらどうするのか考えて書きましょう。信天翁さんも会員が伸びないときは自分ならこのようにして発展させる。
もし破邪顕正さんが生長の家教団の信徒の悪口を書いてるならば発展しません。反対に信天翁さんが誌友会を開催されて学ぶ会を援助されればなんの問題もありません。
それならば「破邪顕正」さんも素直に言うことを聞かれるでしょう。
もし「学ぶ会」が会員増大していなければ
「学ぶ会」の信徒が伸びないのは自分が積極的に活動しないからだ。
と唱えましょう。そして実行しましょう。
よろしくお願いします。
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