比叡山に「不滅の法燈」というのがあります。私も2回程参拝させていただきましたが、根本中堂の堂内には暗く荘厳に満ちています。

本尊は最澄が一刀三礼して刻んだ薬師瑠璃光如来と伝えられており(秘仏)、その宝前 に灯明をかかげて以来最澄のともした灯火は1200年間一度も消えることなく輝き続けて いるので、不滅の法灯と呼ばれる。
その不滅の法燈というのは常に新しい菜種油を注がなければ消えてしまいます。
その仏教からきた言葉に「油断大敵」というのがあります。油断すれば菜種油を忘れてしまえば消えてしまします。それを消えないようにするために僧侶は毎日注意しながら新しい油を注ぐのです。

その法燈というのは釈迦の教えを確実に守りながら傳えるということを「傳燈」といいます。傳燈というのは現在では知らない人が多いのですが「伝統」というのが語源です。もともと「伝統」も仏教用語なのです。
だから伝統を守るとは、釈迦の教えを守ることなのです。

その燈とはどういうことかというと

燈とは、お燈明のことで、お釈迦様が亡くなられる時弟子たちに、

・自分の心を拠り所、燈火とし、
・私が説いた教えを、燈明としなさい
と伝えられたところに始まるそうです。

 

暗闇を照らす光、火、すなわち燈火。

そのうち「伝燈」とは、「教えが伝えられる」ことを意味しています。

 
生長の家の火というのは「谷口雅春先生」が伝えられた眞理のことなんです。その教えを守るのが「法燈」なのです。
仮に違う方向に歪められたりするのは「法燈を継承」したといわないのです。
釈迦の教えは古いから「今の教え」に変えるなどとは言わないでしょう。それなら「法燈継承」などしているといわないのです。その言葉(今の教え)も間違っていることを理解していただけると思います。

また一言一句変更するなと清超先生は言っておられるのは確かですが

それは雅宣総裁の「唐松模様」から

2012年12月12日 (水)

運動の変化について (3)

昭和60年11月22日の生長の家総裁法燈継承の記念式典において、「自分は雅春先生の教えの一言一句を繰り返して説くことはしない」と明言された。私はこれまでも、このことには何回も触れてきたが、重要なことなので清超先生のお言葉を、再びここに引用する--
 
「世の中には“継承”ということを何か誤解している方もいらっしゃいまして、谷口雅春先生のお説きになった一言一句をその通りまたくり返しお伝えするのであろう、かの如く思われる方もおられるかもしれませんが、実はそういうものではないのであります。つまり、教えの神髄の不立文字をお伝え頂き、それを継承するということでありまして、(…中略…)真理というのは、その時その時に応じて色々な相(すがた)をもって展開されねばならない。そこがイデオロギーや運動方針とは違います。イデオロギーならば色々と文字に書きあらわすこともできるかもしれないが、それは“真理そのもの”とは違うのです。そこの所をよく諒解していただかないと、過去の歴史を繰り返せよということを、相承と思い違えたりする。この点は皆さんにも充分ご理解いただく必要がある。そしてこれからの運動はやはり中心帰一の原理を説く生長の家の運動でありますから、中心帰一を守りつつ大いに大々的に展開していきたいと念願している次第であります」

実はこの文面に私は大変違和感を感じているのです。
それならば現在のように「生長の家」を全く変質してしまっていいのであろうか?
私は何度でも言う
それは「継承」とはいわないのです。それならば上記の言葉が正しいとなれば今後新しい総裁が「雅宣総裁」も間違いで今の教えにあわないから違うスガタに変えるといえるのです。
そんな教えなど眞理でもなんでもない「継承」していると言わないのです。
そのことを信徒は知らなければならないと思っています。