私は信者を皇室と同様に谷口家を「皇室同様」に思っているというのは意見は異なります。私はあくまで『菩薩は何を為すべきか』の9条を間違って解釈をし、それを伝えた幹部諸氏にも大きな責任があると感じています。
それは岡正章氏が後悔された文章がありますので引用させていただきます。

この「総裁・副総裁に中心帰一」という言葉は、間違っていたのではないかと、疑問を感じるようになりました。

 『菩薩は何を為すべきか』に収録されている「人類光明化運動指針 生長の家各員の運動心得十三ヵ条」の第九条には、

「生長の家大神――総裁・副総裁――御教。この三つを結び貫く神意の展開が、光明化運動の不動の中心である事を、生長の家人たるものは一瞬たりとも忘れてはならない。」

 とあります。それで、神意は総裁・副総裁を通してのみ天降るのであって、生長の家信徒たるわれわれは、それに盲目的に従わなくてはならない、と思い込んでいたところがあった。しかし、それは少し間違っていたのではないか――と思うのであります。
 私たちは、「神意」 に中心帰一しなくてはならない。前記「光明化運動指針」第九条のつづきに、

「如何にその人が有力者であろうと長年光明化運動に献身して来ようと、素晴らしき体験をもつ指導者であろうと、断じてその人を中心にしてはならない。若(も)しも人を中心とすれば、その人が理解し把握している以上の運動の展開は不可能となり、歪(ゆが)んでいれば運動も歪むほかなく、その人とそりの合わぬ者、反対意見の者は身を引くか、対立して禍根を残すであろうし、若し或る人が情熱的な信仰を持つ場合、その人が真に中心を明らかに自覚している場合はよいが、唯熱心であるだけならば、何時(いつ)かその人に頼り過ぎ、その人が転任或は他界した場合は、忽ち火の消えた様に衰微してしまった如き事例は往々にしてある。すべて皆中心を誤っていることに気がつかなかった為である。光明化運動に於いては人は中心ではない。神意が中心である。」

 と補足説明もあり、「神意の展開が中心」であることを忘れてはならないということであります。


ここを肝に銘じて行わなければ誤った図式となる。
また皇室と同じように思っているという箇所もそこまで信者は思っているかは疑問です。
雅春先生が大本を脱退されたのも

第一次大本事件の控訴院から大本教のお筆先の調査以来。

押収された約1万冊の原本を読破(約40日間)105日京都地方裁判所にて裁判。

大阪の控訴院から、なおの御筆先と王仁三郎の漢字交じりで書き直したものを比較し、不敬罪に核当する箇所がないか調査を依頼される。その作業で、教団の発表した予言に食い違いがあり、当たったものだけが機関紙に掲載されている事実を知る。更には出口家を天皇に代わる地上の権力者にしようとする啓示を発見し、決定的な疑問を感じる


皇室に尊崇の念をお持ちだった雅春先生はそういう同一視されることを当たり前ですが嫌われています。
それでは多少文章には間違い等も見受けられますが、筆者の意志を尊重しました。尚○○は確定されたものでないことなので削除しました。



『宗教問題』12 より抜粋

第4回 愛国教団「生長の家」の変質を問う


血による継承の限界としての谷口雅宣


自分はいったい何かどこまでしたくて、そして何をどこまでできるのか―。このトライアルは、ぼくの中では、家と両親とのさまざまな対立として現れた。さまざまな行動は、ぼくの親の目には「息子の我儘」と映っただろうが、ぼくにとっては真剣だった。おかげでぼくは「親不孝な息子」として母から幾度も罵られたが、幸か不幸か弟がぼくに輪をかけて「反抗的」であったために、ぼくの罪は相対化して薄められていたように思う。

この中学生の作文かと見間違う雑文は、「生長の家」三代目総裁・谷口雅宣が書いた「穴ゲラから」という随想である。

 この文章が書かれた時期は不明だが、彼がアメリカ留学、産経新聞への入社、結婚と経て、教団の出版部門「日本教文社」に勤務していた三十代前半のころではないかと推測されている。この文章から彼の宗教家としてのセンスは何も感じ取れないが、「穴ゲラから」というタイトルからは、両親や弟への屈折した思いが伝わってくる。


雅宣の“退職”騒動

どの組織、団体にも大きなターニング・ポイント、もしくはパラダイム・シフトの境目がある。愛国教団・生長の家が、三代目・谷口雅宣によって創始者否定の“左翼環境集団”に変貌していく岐路は、平成十一年三月末にあったと筆者は推測している。

 その翌四月からの新年度を迎えるにあたり、平成二年に副総裁に就任していた雅宣は、教団役職者や各県教化部長に、三月末日付で「生長の家教団を自主退職した」ことを電子メールで通知した。この時期、平成七年のオウム真理教事件などの影響で宗教法人法の大幅改正が行われ(平成八年)、それに対応するため、宗教法人生長の家も大きな法人規則の見直しを行っていた。

 雅宣の「退職挨拶」のメールには、次のようにあったという。教団規約の改正によって、理事長の権限が大幅拡大し、総裁の権

限は縮小、副総裁の権限はほとんど何もなくなりました。合理的、納得のいく説明をしてほしかった。権限が縮小されれば当然、責任も減るはず。(略)講習会は副総裁の任務だが、その後の幹部会での指導は明文化されていないので、これはやめる。副総裁は役員でも職員でもないので、「生長の家」を退職した。新しい制度下では理事長に責任と権限かあり、私には責任と権限がないのに気づいた。(略)私に副総裁としての手当てを支給するか否かは(法的に支給できるか否かは、すべて理事・役員の皆様の判断に任されます。私としては今後、家族を含めた生活のこともありますから、また新たな道を模索してまいりたいと思います。皆様、長い問、有り難うございました。


「講習会は副総裁の任務だが、その後の幹部会での指導は明文規定がないので、これは中止する」という一文には笑ってしまう。彼の“副総裁業務”は、時給いくらで働くアルバイト店員と同じ”仕事”なのだ。しかし、こんな馬鹿げた雅宣の芝居に、父親で教団の二代目総裁・谷口清超は大きく動揺する。一度は雅宣に対して退職金二千万円を支払いながら、雅宣が三代総裁を継ぐ条件として「何でも好きなようにやらせてもらう」という約束をのんでしまった。いわば無条件降伏に近い子供への屈服である。しかも雅宣への退職

金は、その後返還された形跡がないという情報かある。

 どこの宗教団体も、後継者の選定には大きく頭を悩ませてきた。安易な後継者選定は内紛、お家騒動の直接的な原因になりかねないからである。優秀な人材を次期リーダーにすえることができれば、創始者・開祖のカリスマ性を上回る魅力を発揮して、教団をさらに発展させることもできよう。しかし人を得ないとあっという間に勢いを失い、衰退の一途をたどっていく。一般企業でもそうだが、宗教団体はなおのことである。

 一般に、新宗教の開祖とは華々しいカリスマ性を持つが、それを継いだ二代目は、先代が築いた教団の”現状維持”に汲々とするタイプが多い。そういうところに。“凡庸な三代目”が就くと、「売り家と唐様で書く三代目」になるのが常である。生長の家三代目総裁・谷口雅宣はインターネットのブログによる情報発信を好むが、そのブログ名は「唐松模様」である。“三代目”の自虐的なネーミングであるのだろうか。自分自身に宗教家としての資質がなければ、教団幹部などに実質的な運営を任せて。お飾り”に徹するというのも、一つの責任ある生き方である。それを彼は何を勘違いしたのか、祖父であり教団創始者の谷口雅春を憎み、生長の家の教義の根本理念を改ざんし、教団のあり方を基本的につくり変えることに執念を燃やす。その雅宣の偏執狂ぶり、徹底さは尋常ではない。宗教史的にも雅宣の深層心理は研究、分析の対象となる素材である。


清超の過ち


生長の家の後継者は「教祖の家系に属する者のうちより選ぶ」という、教団創立当初からの「教団教規」の制約がある。幕末、明治維新以降に派生した新宗教や、戦後爆発的に誕生した新新宗教でも、この手の“教祖の家系から後継者を選ぶケ-ス”は少なくない。これは“教祖の一族”という。血の説得力”によって、内紛、分派、分裂騒動を防ぐ”知恵”であり、また教団の。秘儀”を一子相伝させていくために血筋を尊ぶとの解釈も可能だが、そこに自ずと限界もある。教祖の一族内に、能力のある者が必ずいるとは限らないからだ。

 昭和五年三月一日の『生長の家』誌創刊記念日をもって、生長の家教団は自らの“立教記念日”としている。その後、日本の敗戦・降伏によって、昭和二十二年九月、創始者・谷口雅春は公職追放の仮指定を受ける。これは翌年六月に正式決定。同年十二月二十八日、雅春は「教主」を辞任し、娘婿の谷口清超が「教主」に就任した。雅春の追放が解除されるのは、昭和二十六年八月六日のことである。

 その直後に制定された「生長の家教団教規」にこうある。

昭和二十六年九月九日


「生長の家教団教規」

第八章 本教団は、立教の中心者を教祖とし、その継承者を教主と

する。教主は協議会において、その後継者を教祖の家系に属する者

のうちより適当なる者を推挙し、推挙された者は次期の教主を継承

し、その任務は終身とする。


第十一条 教主は、教義を総攬し、布教講師の階級を定め、本教団所属及び各地の教化部、道場、総支部所属の講師が宣布する教義が正釈を逸脱しないよう、これの善導と是正に当り、時時講師及び役員の教習会を開いて教義の徹底を図るものとする。


これはすでに「教主」であった清超が二代目の教団後継者であることを明文化し、その清超がさらに後年、三代目を推挙して「教主」職を継承させていくというルールを、「生長の家」として定めたことを意味する。

 昭和三十二年三月十目に「教祖及び教主」を「総裁及び副総裁」に改め、総裁の任期は終身と定められた。その後、「総裁の発意で一切の業務を副総裁に代行せしめることが出来る」(昭和八卜一年)、「総裁の発意で総裁の担当する全部又は一部の業務を副総裁に代行せしめることが出来る」(昭和五十一年)とも改正されている。雅宣は平成二年十一月に副総裁に就任。この平成三年の改正は、総裁にして実父・清超の権限を、段階的に自分へ譲らせることを可能にしたものなのだ。また「講習会」の指導を、総裁および副総裁の業務として明文化することもしている(第十一条に追加・平成八年九月三日改正)。

前述の、オウム事件の影響による宗教法人法の改正をうけて、生長の家はさらに教規の改正を行っている。それまで後継者(法燈継承者)に選ばれる対象は「創始者の家系に連なる者」のみであったのだが、「その他『生長の家』の信仰篤き者」というものを付け加えた。ただ同時に、これによって。後継者はそのときの総裁が選ぶ”というプロセスも明確化された。「公益法人としての民主的運営と透明性を確保するため」というのが改正の理由だったのだが、

これは当時の雅宣が感じていた”本能的な危機感”が行わせたものだったのかもしれない。

 前述の通り、二代日総裁・清超は雅宣を副総裁に指名し、全国での講習会での指導権も雅宣に譲りながら、雅宣に「何の権限も与えられていない」と開き直られ、「自主退職」を一方的に通告された。この時に清超は断を下すべきだった。副総裁職の解任規定はなかったが、「創始者の家系に連なる者」のうちの。“嫡男”(長男が夭逝しているので戸籍上は次男)たる雅宣を、実質的に廃嫡処分(教団からの追放、または自主退職を承認)すればよかったのだ。

 そこまでのことはやりにくかったのだとしても、たとえば教規を変えて三男・貴康や長女の婿・荒地浩康、もしくは二女の婿・宮澤潔のいずれかを副総裁に任命し、“複数副総裁制”で互いに切磋琢磨させる道もあったはずである。

 それからしばくして清超は体調を崩し、信者の前に顔を見せなくなった。時系列的に見れば、清超が体調を崩しだのは、雅宣の。自主退職通告騒動”の時期とリンクする。雅宣の要求に全面屈服した心労は、当然あったはずである。雅宣は平成十一年十一月二十二日に「総裁代行」となり、実質的に教団の全権力を掌握した。一世一代の大勝負に、雅宣は勝利したのである。


皇室との危険な同一視


 生長の家創始者・谷口雅春は、後継者(法継承者)の選定について「教祖の教えが教祖の血統に伝わり、血脈法脈一体となり権力の争奪戦がなくなる」と説いている。愛国教団・生長の家は中心帰一、天皇国日本を理想とする尊皇心篤い集団だった。

信者は谷口家の血統を“神聖家族”視する。皇室と同じような高貴な方々、理想の家庭とイメージしてきたのである。

 確かに雅春自身は、そのような信者の負託にこたえられるだけの器を持った人物だった。彼はその人生のすべてを、執筆活動や講習会、個人指導に注ぎ込んだ。国内のみならず海外布教にも尽力。著書の印税の大半は教団に寄付しており、文字通り“無給にして無休”といった状態だった。別荘を持ったりするような、格別のぜいたくとも無縁だった。

 しかし、その信者たちが雅春を尊崇するあまり、原宿の小高い山の上に建つ谷口家を“お山”と称し、本部のトイレまで“お山様専用トイレ”などと呼んで。谷口家崇拝”を始めたのは、熱心な信者を母親に持った私のような教団の“周辺居住者”から見て滑稽極まりない光景だった。

「お日様のご子孫様の天子様」である天壌無窮の皇室と谷口家は、似て非なる存在である。それにもかかわらず、生長の家信者の篤い皇室尊崇の念が、谷口家を「神聖家族」「皇室と同様な存在」という風に思い込ませる結果となってしまった。生長の家は、この誤りを防ぐことができなかった。

 このような状況の中で、雅宣は総裁代行として教団内の権力を掌握していった。晩年の清超は○○も同様で、長く人前には顔を見せず、雅宣はその中で組織と人事をもてあそんだ。“愛国教団”生長の家の解体に向けて、彼は一歩一歩、歩みを進めてきた。そして二代目総裁にして実父・清超の死去に伴い、雅宣は三代目総裁に正式に就任した。平成二十一年三月一目のことである。

           (文巾敬称略)