生長の家教団は今大変混乱している。
勿論、その原因は現総裁の豹変は総裁自身の教団の大義を忘却したことが因であることは明らかであります。

私が総裁を批判しているとかいうが、それならばどちらの言い分が正しいのであるかである。それを大概的に分析して欲しい。
教義の大要というのが宗教にはあります。
宗教の目的や教義の趣旨などを説明のために必要な項目があります。以前にも書いたように「生長の家」の教義の大要は

教義の大要

「国体を明徴にして皇室の尊厳を明にし、各宗の神髄を 天皇信仰に帰一せしめ、尽忠報国、忠孝一本の国民精神を昂揚し悪平等を排して一切のものに、人、時、処、相応の大調和を得せしめ、兼て天地一切のものに総感謝の実を挙げ、中心帰一、永遠至福の世界実現の大目的を達成せんことを期す」


その実行目標として次の「七つの光明宣言」あり。

とある。

それならば国体を明徴にするとはどういうことなのか?
この日本は天皇が治める国であるということを明確にしていくことではないですか。

それを忘れて自然環境などという国家が混乱時期にやるべきことであるかどうか、大きな問題である。しかも、根本義を忘却して環境団体に成り下がっている。

そんな恥ずかしいことを平気で実施している。しかも応援している人も多くなってきている。

日本の国家を忘れて、何をしているのであろうか。私達の活動の先輩に恥ずかしくないのか?

歴代の諸先輩に恥ずかしくないのか?そうした人に感謝の念があるのかどうかなのですね。

私は戦後に戦前の人々を平気で悪口をいう人に現在の生長の家の教団の方々が戦後の混乱時期に占領軍に靡いた人に似ている。

生長の家の歴史を簡単に批評したり、批判したりして現在の組織に踏まえることもなしに、単に悪口である。それを平然と行う輩は恥ずかしくないのか。それならば彼らを超える運動を行ったのか。
批評する運動以上の成果を上げられたのか。

そんなものもなく、単に批判しているのは悪口である。

私はどうしてそういうことになるかというと、生長の家が天皇信仰だということを忘れているからである。「天皇信仰」を忘れなければこんなことにならなかった。

私は「みなかの精神」というのが「学ぶ会」のなかでも忘れられていることに愕然とするのである。

以前雅春先生は『理想世界』に天皇陛下の素晴らしさと天皇信仰における中心帰一を毎号月に連載していた。それがどうだろうか、天皇信仰を忘れているのである。

歴代の天皇様の恩徳を学ぶ会誌で説いたか。
そういう本を出版しようとしていないのが、そういわれても仕方がない。何の反論も出来ないであろう。

私は堂々と日章旗を掲げ”日の丸行進”を行うべきである。そんなことしないでなにが生長の家本流であろうか?

私は『学ぶ会」に入信しないのも、本当の生長の家と感じていないからである。