楠木正成の夫人は名は久子といい、甘南備の豪族南江備前正忠の妹で、ここ甘南備の矢佐利に生まれた。1323年(元亨3年)20歳で正成と結婚。二人の間に、正行正時正儀を始め6人の子がいる。
 1336年(延元元年)湊川の合戦で、夫正成を亡くし、1348年(正平3年)四条畷の合戦で長男正行、次男正時を亡くした。
 正行、正時兄弟の戦死後は夫人は生まれ故郷の甘南備に隠棲し、名を敗鏡尼と称し、夫正成を始め一族郎党の菩提を弔い、ひっそりと余生を過ごしたといわれる。

楠妣庵観音寺(なんぴあんかんのんじ)は大阪府富田林市大字甘南備にある臨済宗妙心寺派仏教寺院。山号は峰條山。本尊は千手観音。開山は授翁宗弼(不二房行者、諡号:円鑑国師、微妙大師)とされる。楠公史跡河南八勝第二蹟、河内西国霊場第二十番札所。

歴史

楠木正行が、延元4年/暦応2年(1339年)に崩御した後醍醐天皇を悼み、河内国石川郡甘南備にある峰條山の一角の地を浄め、後醍醐天皇の念持仏であった千手観音を安置した「峰條山観音殿」と称する一殿を建立したのが起源とされる。

1348年正平3年/貞和4年)に開基とされる正行とその弟正時四條畷の戦いで討死にした後、二人の母で楠木正成正室の久子も、観音殿と同じ地に草庵を結び隠棲した。久子は敗鏡尼と称し、念持仏の十一面観音を奉祀して、夫と息子、一族の菩提を弔いつつ、16年間の余生を過ごした。

久子の入寂後、正行の弟楠木正儀は、不二房行者(藤原藤房、後の授翁宗弼か)を住持させて、観音堂改め観音寺とし、楠木一族の香華寺としたとされる。

甘南備の松尾家が真言宗無本寺であった観音寺の除地として久子の遺跡を守れるよう寺社奉行に届出たことから、観音寺は楠妣庵と称された草庵と共に、江戸時代を通して松尾家の所有であったようである。享保年間までは尼僧を住持させて護持されていたが、明治6年(1873年)には廃寺となる。

廃寺跡は甘南備の尾花和市の所有に帰することになり、久しく田畑として利用されていたが、大正4年(1915年)2月、岐阜県益田郡下原村(現岐阜県下呂市金山地域)出身の篤志家加藤鎮之助によって購入されることになり、大正6年(1917年)5月に草庵が再建された。

大正11年(1922年)には、同じく鎮之助により本堂も建立され、池上慧澄(柏蔭室湘山老大師、臨済宗大学学長)が住持として請われ晋山、約半世紀を経て再興が果たされた。昭和7年(1932年)2月には、石神會元(三光亭老大師、恵林寺貫主)が住持として請われ晋山。

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楠木正成夫人の墓
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昭和6年に昭和天皇もここを行啓されておられます。

楠木正成公は南河内地域を拠点としていろいろな遺跡があります。