再度仁徳天皇陵及び陵墓についての最近の考古学者の問題を提起していきます。
先ほどの文章のなかに関西大学教授であった網干善教教授の師である末永雅雄氏の言葉を以前にこのブログで記入した。その末永氏は考古学者としては誰もが知っている人であり、橿原考古学研究所の所長として長年考古学を牽引してきた人物でもある。 高松塚の被葬者を問われても一切口にしなかった「学者は被葬者を口にしてはならない」というのが末永氏の持論でもあり、私もその通りであり、森浩一のように名誉欲だけで云うことは真相がわからないのに云うのは正しくない。仮にだったら誰でも言えるのです。 その末永氏はそのなかで昭和54年の時に昭和天皇をご案内したことを言われている。 40分の短い時間でしたが「ここに使ってある石材はどこから運んできたものかね」それに対して末永教授は「二上山(にじょうざん)の凝灰岩と考えられます。」とお答えした時に陛下はしばらくお考えなられて「ああ、ふたがみやまだね」とおしゃられたのに末永氏は陛下の知識に脱帽したといわれています。 大津皇子で有名な古い正確な呼び方が「ふたがみやま」であった。 さて仁徳天皇陵で戦後まもないときに発掘という危機があった。その時の末永氏の言葉を書いています。 それを『天皇陵』矢澤高太郎著から引用します。 「それはアメリカじゃなくて、日本側から言い出したことなんですわ。昭和二十三年(一九四八)に、文化社会科学使節団というのがアメリカから来ましてな。団長が後に駐目大使になったライシャワー博士でね。京都と東京で考古学、古代史の学者を集めて二回、会合を持ったんです。 関西では京都大学の人文科学研究所が会場でな。ワシを含めてニ十人ほどの学者が集まりましてね。そこで、小林行雄君(当時、京都大講師)が、『仁徳陵を発掘したいけれども、今の日本ではどうにもなりませんから、アメリカでやってもらえないでしょうか』と言ったんです。そこで、ワシは真っ向から反対しました」 ここに出て来る小林行雄講師は、その後に邪馬台国の所在地論争の鍵を握り、“卑弥呼の鏡”と呼ばれる三角縁神獣鏡の研究で脚光を浴びた学者である。その説は邪馬台国畿内説の重要な柱となり、今も生命を保っている。 「『今、日本は戦争に負げて、国民全体がヘトヘトになって、食うや食わずで生活をしとる。時期を選ばず、敗戦を機会にアメリカの力を借りて自国の帝王墓を掘るなどというのはけしからん。 二百年、三百年先でもええから、国家が安定した時にやればいい。日本には日本の国民感情がある』。そう言うたんです。ライシャワーはニヤッと笑ってね、その話は終わりました。これと回し会合が東京で開かれた時も、江上波夫氏(当時、東京大教授)が同様の提案をし、後藤守一さん(同、明治大教授)がワシと同じ理由で反対して、仁徳陵の発掘の話は消えたんです‘ もしも、末永さんと後藤守一教授かその場にいなかったとしたら、仁徳陵の主体部はアメリカ人の下によって発掘されていた可能性は確かにあったのである。 「ワシはな、大きな古墳だけを興味木位で掘ってはいかんと思う。ワシだって考古学の人間だから、陵墓を掘って調べるっちゅうことには無関心ではありまぜん。しかし、その時期にはまだ達していないと思うんです。考古学には、まだ他にやるべきことが沢山ある。研究者はね、微に入り細をうがって業績を積んでいくことが必要だと言うとるんです」 敗戦という未曾有の民族の悲劇に見舞われた時期に、戦勝国の虎の威を借りて、自国の陵墓の発掘を企てるような学者は、曲学阿世の最たるものといわざるを得ない。しかし、六十数年後の現在、この二つの会合を「絶好のチャンスだった」と残念がる学者や研究者が数多く見られるのはどうしたことだろう。戦後の歪んだ歴史教育と軽薄なテレビや一部の新聞などによって形成された世相をそのまま反映したものだろうが、日本の社会のありようは当時と少しも変わってはいない。問違いなく、日本はいまだ末永さんが言う「その時期」には達していない国と考えざるを得ない。 「天皇陵古墳の発掘は日本人が日本人であることの自覚と誇りを取り戻し、確固たる国家観、歴史観を持つことが当たり前の世の中になった時、その時にこそ考えればいい」それが末永さんが強く主張したい本質だったと私は思うし、それに全幅の共感を覚える。 この矢澤高太郎氏はおわりに水戸光圀を引用しています。 天皇陵の公開問題を考える時、私は常に郷里の・栃木県にある二つの古墳に思いを馳せるそれ は高校時代を過ごした県北大田原市の南東部、旧湯津上村にある下侍塚古墳(5世紀前後、全長84メ-トル)と上侍塚古墳(5世紀前半、全長百十二メ-トル)の二基の前方後方墳である。 二つの侍塚古墳は、あの水戸黄門こと水戸藩二代蒲生たった徳川光圀によって、元禄五年(一六九二)二月に、わが国で初めて本格的な学術調査か行われた古墳だった。 画期的な発掘が実施されたのは、教科書でお馴染みのエドワードー・モ-スが東京の大森貝塚を 発掘した明治十年(一八七七)をさかのぼること百八十五年前の昔である。紛れもなく日本初の正式な発据調査であり、世界的に見ても特筆すべき壮挙だった。にもかかわらず、その事実は一般にはいまだにほとんど知られてはいない。西洋中心の史観が、こんなところにも影響を及ぼしているのだろう。 光圀の発掘のきっかけは、下侍塚の付近から発見され、現在は国宝に指定されている文武天皇四年(七〇〇)の那須国造碑に刻まれた「韋提」という人物の墓誌を求めてのものだった。現場で指揮を執ったのは、光岡の儒臣の佐々介三郎宗淳。「水戸光圀」でお馴染みの“助さん”である。それを助けだのが近隣の小口村(現、那珂川町)の名主で、今でいうところの郷土史家、大金重貞だった。 その手法は、現代の考古学から見てもほぼ完璧なものだった。末盗掘の木棺直葬という手間のかかる埋葬施設を丹念に掘り進め、銅鏡や鉄製の太刀の残欠、鉄鏃、土師器などの多数の出土品を正確に記録し、絵師によって精密なスケッチまでも残している。すべての遺物は最後に松の本箱に収められ、隙問は松脂で目張りされて、それぞれの古墳に埋め戻された。その後に墳丘の修復と、崩落を防ぐための赤松の植林が行われた。那須国造碑の保存処置とともに、費用のすべては水戸藩が負担したという。 手法、手順、事後処理の面で十全の発掘だったが、何よりも心を打たれるのは、古墳に眠る被葬者への光圀と宗淳の礼節である。光圀は二つの木箱の蓋に被葬者の魂を鎮める墨書をしたため、宗淳はそれぞれの木箱に文章を納めている。光圀の文書の巧みさは言うまでもないが、特に宗淳の以下の文章は、読むたびに熱い感動を覚える。 元禄五年歳は壬申春二月に在り、辛巳朔を越え十三日癸巳、前中納言従三位源朝臣光圀公、儒臣佐々宗淳に命じ、謹んで清酌庶羞の奠を以て、あへて昭かに湯津上村墓中の霊に告ぐ、曰く維れ霊世を謝す幾百年、墳墓荒廃して狐兎の窟となる、安んぞ姓名を知らん、故を以て今塋域を開鑿し、若し誌石の其の姓名を勒する有らば、即ち新たに碑を建て以て不朽に仏えんとす、あるいは誌石なくば謹んで封樹を加えん、凡そ諸々蔵する所応に旧に仍る願くば昭艦せらるべし。元禄壬申三月朔日。 『大日本史』の編纂という水戸藩あげての一大事業を成し遂げた光圀とその股肱の臣の、先人に対する敬虔な思いと、高潔な精神が見事に凝縮された文章である。これこそが「墓を掘る」という重大事に際しての、人間が持つべき普遍的な倫理だろう。黄門様と助さんは、講談や時代劇のヒーローであるだけでなく、日本人の精神史の中に太い心背景のようなものを打ち込んだ偉人でもあった。 さらに特筆すべきは、彼らの意思が現在の地元の人々の間に確固として継承されていることである。何人かの私の友人も住む現地では、墳丘の下草は常に短く刈り収られており、松の木々を虫害から守るため、十月下句の霜降には菰巻きが行われる。それは、三月上旬の啓蟄の日に撤去され、作業の光景は例年の風物詩ともなっている。光圀か植えた赤松は代替わりはしているものの、年間を通しての手厚い保護が今も加えられているのである。この事実は、郷土を同じくする私の大きな誇りでもある。那珂川の清流が刻んだ河岸段丘の上、赤松に包まれた清涼感溢れる墳丘を歩き、はるか北の空に那須連峰・茶臼岳の噴煙を望む時、私は宗淳の文言をいつも思い出す。 例えば仁徳天皇陵だけではなくその仁徳天皇の威徳を偲び、尊厳な歴史的感覚というのが考古学者にあるかどうかであります。 すぐに朝鮮文化などという考古学者は失格であります。 日本の文化はそうした自国を愛する人が考古学者であらねばなりません。
私は今の考古學には国家観と歴史観が欠如している。それはほとんどの人が問われているものであります。日本の歴史にそして天皇陵という御霊に対しての慰霊の気持ちがなく興味本位だけで発掘するのは本当によくない。
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