下記の文章は私の手許にはありません。
重要な文章をこうして伝統様が掲載していただいたり、志恩様に掲載していただいたりしてありがたく思います。

生長の家では古参ですが、辞めて久しい。
だが、辞めて悔いはないし、辞めて良かったと心から思っている。
総裁の左翼思想の毒牙に侵されないようにしないためにも必要ですし、わけのわからない宗教に変節していくのが耐えられない。
以前に神道を土着信仰といったが、土着信仰の起源は自然崇拝であることを総裁は忘れている。
自然という優しさと鬼のような形相が襲いかかる時に人間の無力を感じ、そうした自然崇拝がときとして湧き出でたのが信仰の原点のように思っています。
自然信仰こそそこに住む人間の信仰であり。土着信仰と結ぶときがあります。

だが「神道」は民衆信仰であり日本人の生まれ育った環境というものがそのようにさせているような気がします。

そういうことが分からない谷口雅宣生長の家総裁は勉強不足としかいいようがないのか、無理に貶めるようにかんがえているのか。

自然崇拝こそ土着信仰の原点であることを知って欲しい。また「神道」は民衆信仰と自然崇拝とが重なって誕生したように思います。
例えば童歌の
かごめかごめ
とうりゃんせ
はないちもんめ

これらは元々土着から生まれたものが多くあります。
たとえば「とうりゃんせ」の天神様の細道ということばなど、各地に天神様がおられます。その天神信仰というのは日本人の祟りを治めるための信仰というのが起源です。そのために行きはよいよいなのであります。

それでは何故帰りは恐いのでしょう。そうした祟りの神を持って帰るようなことがあるように昔はある面で教えられていたところがあります。
でも、そこに行かないとその祟りをお祓いすることが出来ません。だから「良い子」で生活しなさい。
怨霊とかそうした地縛霊のように感じているのかもしれませんが、昔は半数近くの子供は亡くなりました。
殆どが一歳未満で死亡しています。そうした実情を加味して考えなければいけません。

日本人は子供を大切に育てました。地域ぐるみで大切に育てました。
そうした大切さが昔からありました。

江戸時代に宣教師などが綴った文章に子供をたいせつにしたという、そういうことが沢山書いています。


童謡・唱歌

とおりゃんせ

作詞:わらべ唄
作曲:わらべ唄

とおりゃんせとおりゃんせ
ここはどこのほそみちじゃ
てんじんさまのほそみちじゃ
ちっととおして くだしゃんせ
ごようのないものとおしゃせぬ
このこのななつのおいわいに
おふだをおさめにまいります
いきはよいよい かえりはこわい
こわいながらも
とおりゃんせとおりゃんせ


はないちもんめ

勝ってうれしいはないちもんめ
負けてくやしいはないちもんめ
となりのおばさんちょっと来ておくれ
鬼がいるから行かれない
お釜かぶってちょっと来ておくれ
釜がないから行かれない
布団かぶってちょっと来ておくれ
布団破れて行かれない(?)
あの子がほしい

あの子じゃわからん
この子がほしい
この子じゃわからん
相談しよう
そうしよう

かごめかごめ

かごめかごめ 籠の中の鳥は いついつ出やる 夜明けの晩に 鶴と亀滑った 後ろの正面だあれ?

地方により言葉は違いますが、おおよそこんな歌詞です。

私の住んでいる大阪では
花いちもんめは

勝ってうれしい花いちもんめ負けてくやしい花いちもんめ
たんす長持ちどの子が欲し
あの子が欲しいあの子じゃわからん

相談しよう  そうしよう(ここで相談)
決まった  ○○ちゃんが欲しい
 △△ちゃんが欲しい ○ちゃん△ちゃん:じゃんけんぽん!






今、生長の家の信徒で「顕斎」と云ってもご存知でない方が大半だと思います。
この「顕斎」というのは昭和53年11月21日から28日の間、長崎総本山において開催された生長の家において実に重要な大祭であります。龍宮住吉本宮・鎮護国家出龍宮顕斎殿 落慶鎮座奉祝大祭です。横綱若乃花の土俵入りや創作曲の「日本誕生」「住吉大神御出御」が曩祖太鼓の若者によって打ち鳴らされた響きは顕斎殿にこだました。
プログラムとしては21日午後2時より神殿祭、午後4時まで鎮座祭が執り行なわれました。
22日は生長の家秋季記念日祝賀式典、午後から曩祖太鼓。
23日~28日までは落慶鎮座奉祝大祭
また生長の家の後援による“泥かぶら”が上演された。その上演されたのは旧道場近くの中学校体育館によって開かれた。また各駐車場において“神々の「祭り」”ということで長崎の竜踊り、岩手県の鬼剣舞、島根県の海潮山王寺、愛媛県の伊予漫才、岩手県の鹿踊り、地元西彼町の龍神祭、島根県津和野の鷺舞、鳥取県の傘踊り、岐阜の谷組踊り、大分県の草地踊り、長崎県の黒丸踊、新潟の鬼太鼓、伊勢太神楽、京都の六斉踊、兵庫の梯子獅子、岡山の備中神楽、山口の君が代踊、香川のさぬきばやし、長崎ののんのこ節、熊本の虎舞、宮崎の高千穂神楽、宮崎の臼太鼓踊、鹿児島小原節、沖縄舞踏など日本全国各地の伝統芸能が披露された。また九州物産展も開催された。
23日から28日の6日間は日本全国の信徒5万5千人が馳せ参じた、駐車場はバスですぐに満車となり約250台のバスから一斉に仮トイレに駆け込む姿が長蛇の列を成したのは、私にもイラつきを覚えさせたのは今も脳裏に鮮明と蘇る。私は“神々の「祭り」”の実行委員であり、時として、配膳担当にもなった。この6日間は四先生の御指導による祈り合い神想観において大いなる愛念として如意宝珠を授かるという光栄に浴した。
練成道場での出入りで一挙に人が動くため、靴が無くなることもあり、私も誰かが間違って履いていたようで、もう一人しきりに私と同じように靴を捜している人がいた。よく見ると現総裁の谷口雅宣先生であった。互いに靴が無いのですねと笑った。
さて、この「顕斎」の意義は皆様御承知のことですがこの大祭の終わりに近づいた27日に谷口雅春先生は庭園を散策されながら「この美しいたたずまいの中に本当に神様がいらっしゃるのですね」と語られたのであります。
まさに聖地に相応しき土地であった。

その時の記念出版として「聖経版 真理の吟唱」がありますがその中には生長の家龍宮住吉本宮 鎮護国家出龍宮顕斎殿落慶記念と印刷されているのである。これを古書店で購入したのですが、既に所有してはいたのですが、聖経が古書店に出展されている場合はどうしてか購入します。

その、「聖経版 真理の吟唱』は日本教文社のコンテンツ一覧には()内で豪華版として記入されているが、はっきりと落慶記念出版と記入してもらいたい。

八紘一宇人類一家族成就の祈り
          谷口雅春
神は無相にして恰も鏡の如く、鏡が鏡面に向った人の貌をそのまま映し出すが如く、それを礼拝する人それぞれの心の相に従って神がわれらに与え給うところの功徳も異ることになるのである。
 住吉犬神を祭祀し奉る神社諸方にあれども、住吉大神御出現の意義を正しく把握して、その意義を完うせんがために神祀る神官も教少く、たといかくの如き神官ありと雖も、住吉大神の由緒及び御使命を参拝者に教える神官といいては殆ど稀なり。それゆえに参拝者は住吉大神を唯、鎮守の神として、或は産土の神として、或は安産のための腹帯を賜る神として或は繁栄の神として、自己の個人又は一家の福祉のために参拝する氏子のみ多くして国家一大事の時に方りて天照大御神の稜威の出現のための道を開く宇宙浄化の大神として祭祀し又、参詣し礼拝する人々に至っては絶無といってもよいのである。それ故に龍宮宏大無辺の功徳を内蔵したまう住吉大神の“聊心の鏡”には、鏡面に相対する参拝者の心の相だけの御徳しか顕現せずして今に至り、それが長き習慣となり、折角、宇宙を浄め給いて天照大御神の御光を六合に照り輝かす道を開き給う住吉大神の大徳を埋没せしめて、この侭にては皇国の御光を宇内に輝かす道絶えたり。その諒に乗じて現下、赤き龍の輩日本国の四方に回りてさまざまの策動をなし、天皇は豊芦原の瑞穂国治しめす御使命の御座より単なる“象徴”という人格も神格もなき空座に移され奉り、そのために、天皇の御国ヽ既に皇国の姿失われ、恰も天照大御神の天之岩戸隠れを再現せるが如き暗澹たる国情となり、今や、いつ“赤き龍″の策謀成就して、この国に革命の焔燃えあがるとも計り知れざる情態となっているのである。
 この時、この際、妖気漂う革命の暗雲を一掃して、日本国家の礎を安泰ならしめ、『古事記』に預言される如く、豊芦原の瑞穂の国は世々天照大御神の神霊を世嗣し給う天皇の治しめす国なる神定めの日本国の実相を顕現し泰るためには、住吉大神を新たに宇宙浄化・鎮護国家の大神として更めて祭祀し泰り、祭司の心も参詣者の心も共に浄まりて、住吉大神の“御心の鏡”に彼らの向うとき、大神の本来の国家鎮護皇国護持の御使命が完全に発動され妖雲暗雲ことごとく祓い浄められ、“赤き龍“の住み家は最早や日本国土に残る隈もなくなりて、国土安泰、万民泰平を謳歌し、天照大御神の御稜威六合に照り徹りて、神武天皇建国の御理想は実現せられ、ハ紘は一宇となり、万国の民悉く集りて天照大御神の御徳を中心に仰ぎ泰りて永久平和の世界連邦の理想必ずその達成を期すべきことを信じ、茲に実相世界に存する龍宮住吉本宮の型代を地上に造営し奉り、住吉大神を実相世界の秩序に従いて顕斎し奉り、大神の御徳の全世界に光被せんことを冀う。
 これを以て生長の家九州別格本山に住吉大神の神殿を建立する所以を明かにしたのである。大神この趣旨を受けて嘉し給い、祭官及び諸民この趣旨に従って住吉大神を礼拝し泰るとき、茲に全世界の浄化は成就し、まことに御心の天上に成るが如く、地上に八紘一宇、人類一家族の永久平和の天国は実現するのである。ありがとうございます。


まだ九州別格本山と呼んでいた時期である、住吉大神の神殿建立は谷口雅春先生の悲願であり、信徒の願いでもあった。


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さて、次にこの長崎の地に総本山に住吉大神を顕斎させていただくのは誠に神の働きであることを雅春先生は述べておられます。それを掲載させていただきます。


谷口雅春先生のお言葉       昭和53年6月4日
おまつりには、顕斎と幽斎とがあるんですが、幽斎というのは、神さまの霊をそのまま“幽”の世界にあらしめて、神様の霊に向ってわれわれ人問の霊が、心を鎮め、精神を統一して、われわれの方が龍宮の方へ入っていくんです。そして、龍宮の諸々の宝を戴いてきて、われわれが宰福な裕かな生活をするんだけれども、そのためにあの宇治の別格本山に、入龍宮幽斎殿というのができているのであります。
 しかし、われわれが、神想観をして「われ今五官の世界を去って実相の世界に入る」と念じて龍宮界に入る。実相の世界とは龍宮です。そうして龍宮へわれわれが入って行って、諸々の七宝充満している世界で、その財宝をいただいてきて、浦島太郎のように、永久に若い命をいただいてきても、これは自分の個人の功徳である。しかし“それだけではいかん″という時が末ているのです。それで、この九州の地にですね、長崎の地に土地を見つけることになり、自然とそこへ導かれた訳であります’そしてここに、住吉大神の御社を建てようということになったのてあります。四方靖朗さんが、その土地の図面をひろげられて最も平かな地面のところを指さして「此処がいちばんよいでしょうね」と言われたんですが、「そこはいかんよ、ここがいい」と、私はその時、図面をだけ見て言ったのです.それが、此所なんです。あとで、私が指さしたところはどこであるかと、実際と地図とを対照して地名を調べてみると、大神平という所である。そういう所へですね、自然とそニヘ住吉大神の本宮を建てるということになっていたのであります、
 かくの如くして、住吉大神さまは、あらかじめ、ここが良いと、場所を撰択された。その場所に、今、住吉大神の本宮が建って七分通り完成した。そこに、入龍宮幽斎殿じゃなくて、出龍宮顕斎戦―龍宮から住吉大神が出てまして、顕斎が行なわれるということになっているのであります。
 顕とはあらわれるという意味で、住吉本宮の社殿として顕れて、はっきりと現象界で、儀式正しくお祀リをするのが、顕斎であります そして、今まで幽の世界、顕幽異にした幽の世界におられたその神様が、顕の世界―“あらわれの世界″にあらわれましまして、いよいよ、この世界を浄める働きを成し給うというときが来たので、神様が「ここにお宮を建てよ」と仰せられたんだと思うのでありますが、人間としては、私が、ここへ建てなければ、人間の力ではどうすることもできないから、住吉大神をお招び申して、そして、その力を現象界に発揮していただかなければならないということになったわけなんであります。(新練成道場竣工式のお言葉の抜粋)