国破れて山河在り

私は昔ならばこういう言葉はなるほどと思った。
だが、近代からは状況が一変する。あの懐かしい山々は高速道路が出来て、山は破壊され自然は
人間により元の昔には戻らない。

私がよく登る山は近くに北摂霊園が在り、そうした墓苑ということで自然は破壊されています。
また宗教が自然を残さずに好き放題で家屋や宗教施設を建てているのにはうんざりです。

そうした施設をよくみかけます。別に「生長の家」だけではありません。

宗教の自説で自然を愛しているといいながら自然を破壊していることをわからない人物があまりにもおおいのであります。

八ケ岳だけではありません。

自然を愛するといいながらドンドンと自然を破壊する行為には警告しなければなりません。あの八ケ岳は自然のそのままにする場所であります。

本当に愛するというのは

山路来て 何やらゆかしすみれ草

 松尾芭蕉の句です。

私は山路来て すみれ草が佇むその美しさをそのままして欲しいという哀願のようにこの歌に感じます。

それを摘んでしまい持って帰ると「何やらゆかし」という言葉が生きてきません。

自然というのはそういうものであります。

自然がいいからといってそこに住居を建ててしまうと、違和感を感じます。

自然というのを無理やり印象つけて「生長の家」を別のNPO法人にしてしまった雅宣総裁の罪は大きい。
しかもそれを永遠と言い訳続ける材料に「自然」という言葉を使う。

最早、雅春先生の意思などはこの人には関係ない。
「人類光明化」など関係ないのであろう。「祖国再建」など悲願とされた雅春先生の御意志など、放擲してしまいたいのであろう。

なんとも情けない三代目である。

売り家と唐様で書く三代目

まったくその通りである。