ねずさんのひとりごとよりすみません無断で抜粋させていただくことをお許し下さい。

さて、下記の文章を読んでどのように思われますか。
『生命の實相』という素晴らしい御本がその人の人生を変えます。
それをあまりにも知らない人が多い。


醍醐中将軍帽

上の写真は、靖国神社遊就館に展示されている醍醐忠重(だいごただしげ)海軍中将の遺影と遺品の軍帽です。

醍醐中将の終戦当時日本海軍第六艦隊司令長官です。
第六艦隊というのは、潜水艦隊です。

醍醐中将は、明治24(1891)年、名門の醍醐家の嫡男としてお生まれになられました。

醍醐家というのは、旧侯爵家です。
れっきとした華族のご出身です。


華族というと、なにやらひ弱なイメージを持たれる方もおいでになるかもしれません。
けれど、醍醐中将は、まさに人として男として、そして帝国海軍軍人として、誰よりも尊敬に値する生き方を貫かれた人です。

醍醐中将の父親は、戊辰戦争で奥羽鎮撫副総督などを務めています。
けれど、醍醐中将がまだ8歳の頃に他界。
母も相次いでお亡くなりになり、醍醐忠重は、孤児となって一條家にひきとられて育っています。

子供の頃の醍醐中将は、乃木大将が院長だった頃の学習院旧制中等科に通いました。
そして同時に、嘉納治五郎の講道館で柔道を修業している。
とても強かったそうです。

そして明治42(1909)年に、海軍兵学校に、第40期生として入校する。

入校時の成績は、150名中、第126位だったそうです。
けれど、入学後猛勉強をして、卒業時には、成績は144名中、第17位となっています。
たいへんな勉強家でもあった。

兵学校で同期だった福留繁(元海軍中将)によると、兵学校当時の醍醐中将は、「(華族の家柄だけあって)さすがに行儀が良く、上品で服装もきちんとしていた。酒を飲んでも少しも乱れることはなく、謹厳で、しかも謙譲な奴だった」といいます。

昔は、海軍兵学校で成績上位者は、そのまま海軍大学校に進学しました。
卒業すれば、その日から高級士官だからです。

けれど醍醐中将は、あえて現場勤務を選択します。
そして明治45(1912)年、兵学校卒業と同時に海軍に入隊した。

海軍では、はじめ巡洋戦艦「吾妻」の乗組員となります。
そして大正6(1917)年、初の潜水艦勤務に就く。

このときの潜水艦勤務が、その後の彼の一生をある意味決定づけます。
当時大尉だった醍醐のもとに、練習艦隊参謀にという内示があったけれど、彼はそれを断っています。
生涯を潜水艦に賭けようとしたのです。

彼が少佐として潜水艦長だった頃のことです。
海軍が艦隊をA軍、B軍に分けて、大演習を行いました。

このとき、忠重が艦長を務める潜水艦は、たった1隻で、相手チームの戦艦群がいる厳戒態勢の舞鶴港に侵入し、相手の全艦隊を轟沈、ないしは大破させるという離れ業をやってのけた。

もちろん演習ですから実弾は使用していません。
けれど警戒碇泊中の連合艦隊全艦が、忠重が艦長を勤めるたった一隻の潜水艦の奇襲に、なすすべもなく、全滅させられたのです。

この手腕に、当時の海軍関係者全員が、まさに度肝を抜かれた。


昭和13(1938)年のことです。
醍醐にご皇室の侍従武官の話が出ます。

このとき、彼が海軍大学校を出ていないからと反対論が出たそうです。
しかし、人格、識見からいって充分適格との上層部の判断で、彼は見事侍従武官となる。

当時を振り返って、入江侍従は、
「醍醐さんは、まじめで冗談など滅多に言われない方でしたが、決して固苦しい方ではなく、非常にやわらかい、温かい雰囲気をもった方でした」と語っています。

戦争も末期となった昭和20(1945)年5月、醍醐は第六艦隊司令長官に就任します。
このときは、第六艦隊の全員が、歓喜して彼を迎えたといいます。
醍醐の長官就任で、戦争末期の重苦しい艦隊の気分が、まさに一新された。

この頃、作戦可能な潜水艦はたった9隻です。

けれど、醍醐が司令長官となった潜水艦による第六艦隊は、以降、めざましい戦果をあげます。

重巡インデアナポリス撃沈。
駆逐艦アンダーヒル撃沈。
駆逐艦ギリガン大破。

とりわけインデアナポリスは、原爆を、テニアン島に運んだ重巡です。
そのインデアナポリスに、伊58潜水艦は、6本の魚雷を発射し、3本命中させて撃沈しています。
≪伊58潜水艦と原爆のお話≫
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-887.html

当時ニューヨークタイムズは、「わが海戦史上最悪の1ページ」と書いた。

醍醐この頃の第六艦隊の潜水艦は、どれも人間魚雷「回天」を搭載しています。
醍醐中将は、その回天の出撃の都度、必ず出撃の基地を訪れて、連合艦隊司令長官から贈られた短刀を搭乗員に授与し、激励しました。

これら若者と一人一人握手するとき、醍醐の眼はうるみ、顔には深刻な苦悩がにじんでいたそうです。
優秀な若者を、特攻させなければならない、そのことに、醍醐は深く悩んでもいた。

終戦後、艦隊司令部の機密費の処理をどうするかという問題が起こりました。

このとき、第六艦隊には、かなり巨額の金が残った。
そしてそのお金の処分が、醍醐長官の決定に委されます。

醍醐は、
「このお金は国家のお金です。
ですから一銭たりとも私すべきものではありません。
何か有意義な使い道はありませんか?」と、鳥巣参謀に相談します。

鳥巣参謀は、
「回天で戦死した搭乗員の霊前に供えたらどうでしょう。
本来なら戦死者全員に供えられれば良いが、この混乱の中ではとても手が回りかねます。回天関係ならば全員わかっていますから」と言うと、醍醐はこの方法に賛成し、決定します。

決定は、昭和21(1946)年正月から春にかけて実行に移されます。
各幕僚が手分けして遺族を訪問し、長官の弔意を捧げ、香料を供えた。
遠距離で行けないところには郵送したそうです。

このときの醍醐長官の弔辞が、いまに残っています。
以下にその弔辞を引用します。

原文はカタカナですが、平仮名に直します。
ぜひご一読いただきたい。

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【弔辞】謹みて回天特別攻撃隊員の英霊に捧ぐ

去る八月十五日、終戦の大詔下り、皇国は鉾を収め、ポツダム宣言受諾の已むなきに至れり。

真に痛恨の極にして、何を以てか之に喩へん。
特に諸子が忠魂を偲びては哀々切々の情、胸に迫り五内為に裂けんとす。

かえりみるに、諸子志を海軍に立て、勇躍大東亜戦争に臨みしが、戦い中途より利あらず。
ために憂国、義に就かんとして、回天特別攻撃隊員となり、以て戦勢を挽回せんとす。

其の闘魂真に鬼神をも泣かしむ。
しかして克く秋霜烈日の訓練に従事し、一度出撃するや必死必殺の体当り攻撃を以て敵艦船を轟沈するの偉功を樹て、以て悠久の大義に殉ず。
まことにその忠烈、万世に燦たるべし。

しかれども諸子の武勲赫々たりしにも拘らず、戦利あらず。
遂に今日の悲運に遭う。
誰人か之を予期せんや。

我等諸子の期待に副ひ得ず、忠魂を慰むるに由なし。
嗚呼又何をか言はん

されど諸子が誠忠遺烈は万古国民の精髄たるべく、必ずや諸子の七生報国の精神は脈々として永へに皇国を護らん

今や皇国は、有志以来最大の苦難に直面し、今後に於ける荊棘の路は実に計り知るべからざるものあり。

されど我等諸子の特攻精神を継承し、堪え難きを堪え忍び難きを忍び、以て新日本建設に邁進せんとす。

願わくば冥せよ
茲に恭しく敬弔の誠を捧げ、諸子の英霊を慰めんとす。

在天の霊来たり餐けよ

 
元第六艦隊司令長官
海軍中将 侯爵 醍醐忠重
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遺族の中に、復員して帰って来た弟が、そのお蔭で大学に入ることができた。
彼は亡き兄のひき合わせであると言って父母と共に喜び、やがて大学を卒えて立派な社会人になった、と聞いて、鳥巣元参謀は喜んだそうです。

「長官がお聞きになったら、さぞ喜ばれたことだろう」

しかしその頃、醍醐はすでに生きていなかったのです。

昭和21(1946)年12月のことです。
醍醐は突然、オランダ当局による逮捕命令を受けます。

そしてその日のうちに巣鴨に収容され、さらにバタビアを経て、翌年二月上旬に、ボルネオのポンチャナック刑務所に移送されます。

醍醐は、昭和18年11月から第22特別根拠地隊司令官として、ボルネオに駐在していたのですが、そこでポンチャナック事件に遭遇しています。

ポンチャナック事件というのは、以下の事件です。

昭和18年頃から、日本の敗勢を予想した南ボルネオでは、オランダの一大佐の指揮するゲリラ部隊が、華僑やインドネシア人をまき込んで、反日の運動を激化していたのです。

ある日、ポンチャナックの特別警備隊長上杉敬明大尉(68期)のもとに、副隊長中村少尉がつかんだ情報がもたらされた。

それは、12月8日の大詔奉戴日に行なわれる祝賀会の際、接待役を命ぜられていたインドネシア婦人会のメンバーのための飲料に、反日運動家らが毒を入れ、日本の司政官や警備隊幹部、ならびに現地人で構成する婦人会員を皆殺しにし、同時に決起部隊が蜂起して一挙に日本軍を一掃しようとする、というものです。

報告を受けた第22特根司令部は、ただちに容疑者らの逮捕と、彼らの武器・弾薬の押収を命令します。

そして調査の結果、これら千余人は、まちがいなく反乱の陰謀を企てていたことが確認されます。

しかし、ポンチャナック付近には千人も収容する施設はありません。
そのうえ付近海面にはすでに敵潜が出没している。
いつ連合軍の上陸があるかも知れないという状況です。

さらに日本軍の警備隊といっても、たかだか百人ほどしかいない。

逮捕されていないゲリラもあとどのくらいいるかも知れないし、いったん反乱が起きれば、日本側が全滅するのは目に見えています。

そこで司令部は、4月上旬、上杉に彼らの即時処刑を命じた。
そういう事件です。

一方、終戦後のボルネオでは、オランダからの猛烈な離反、独立運動が起こっていた。

オランダにしてみれば、現地人をたらしこんで憎っくき日本を追い出しさえすれば、ボルネオは手に入ると思っていたのに、実際には、そのオランダ自体をも、ボルネオの現地人たちは排除しようとした。

そこでオランダは、現地人たちの鉾先をそらすために、ボルネオの民衆の前で、君たちを苛んだ日本軍を我々が追い出したのだ、との報復裁判を演出しようと企図したのです。

こうして醍醐は、ポンチヤナック事件の日本側総責任者として、ポンチヤナック刑務所に収監されます。

このポンチヤナック刑務所というのがひどいところで、郊外の沼田の中にあり、土地が低いために雨が降ると水びたしになる。

しかも井戸もなく、飲み水はすべて天水です。
貯めた天水には、ボウフラがわいている。
不衛生極まりない悪環境です。

昭和49年になって、上杉と同期の豊田穣がこの地を訪れています。
30年近い時を経由しても、その汚さはまったく変わっていなかった。

醍醐は、昭和22年2月にこの刑務所に入れられます。
刑務所の周囲には、深さ2メートルほどのどぶがあります。

そこは、猫の死体などが浮いていて、臭気がひどい。
看守は、そのどぶさらいを醍醐に命じます。

醍醐は、真っ暗などぶの中にもぐって、メタンガスで窒息しそうになりながら、何時間もかけて報復的に働かされた。

毎日、笞で打たれたり、殴られた。
しかし、醍醐は、最後まで泣き言も愚痴も、ひとことも口にしなかったそうです。

インドネシア人の看守は、彼らの堂々とした態度に次第に心惹かれ、
「自分の権限でできることなら、何でもしてあげるから申し出なさい」と言ってくれるようになったそうです。

どのみち報復目的の一方的裁判です。
すべてが書類の上で運ばれ、反対訊問も、証人を呼ぶことも許されず、裁判はわずか3時間で終わります。

そして10月3日、醍醐に死刑の判決が言い渡された。

死刑の判決後に、助命嘆願書をオランダ総督に提出するのがしきたりです。
嘆願書が却下されてはじめて死刑が確定する。

死刑が確定した時、通訳が醍醐にそのことを伝えると、醍醐は、

「ありがとう。
大変お世話になりました。
オランダの裁判官の皆さんに、あなたからよろしく申し上げてください」と静かに言ったそうです。

処刑は報復的に民衆の面前で行なわれました。
処刑の模様を、華僑新聞が次のように伝えています。

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醍醐はしっかりと処刑台上に縛りつけられ、身には真っ黒の洋服を着用、頭にはラシャの帽子を被り、目かくし布はなかった。

努めて平静の様子だった。

刑執行官は希望により歌をうたうことを許したので、彼は国歌を歌った。
その歌調には壮絶なものがあった。

歌い終わって、さらに彼は天皇陛下万歳を三唱した。

それが終わると、直ちに十二名の射手によって一斉に発砲され、全弾腹部に命中し、体は前に倒れ、鮮血は地に満ちた。
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陸軍の現地軍司令官として同じ獄中に生活し、醍醐の4カ月後に処刑された海野馬一陸軍少佐は、醍醐の処刑のことを、どうしても日本に伝えたくて、彼が持っていた谷口雅春著『生命の実相』 という本の行間に、針穴で次の文を書き綴りました。

これはのちに彼の遺品として日本に返還される。
そこには、次のように書いてあります。

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12月5日
昨日、醍醐海軍中将に死刑執行命令が来た。
閣下は平然としておられる。
実に立派なものだ。
一、二日のうちに死んで行く人とは思えぬ位に。

かつて侍従武官までされた人だったのに。

12月6日
海軍中将侯爵醍醐閣下銃殺さる。

余りに憐れなご最後だったが、併しご立派な死だった。
国歌を歌い、陛下の万歳を唱し斃れられた。

その声我が胸に沁む。
天よ、閣下の霊に冥福を垂れ給え。

予と閣下とはバタビア刑務所以来親交あり、予の病気の時は襦袢まで洗って頂いたこともあり、閣下は私のお貸しした「生命の実相」をよくお読みになり、死の前日、そのお礼を申された。

閣下の霊に謹んで哀悼の意を表す。
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東日本大震災の現場でも、たいへんな避難所生活の中で明るくみんなを励ましながら生きておいでの方がいます。

よく「頑張る」と言いますが、日本語のガンバルは、「顔(がん)晴(ば)る」であるともいいます。

醍醐中将は、名誉や地位よりも、現場の一兵卒としての道を選ばれました。
華族でありながら、普通の日本人と一緒に働こうとした。

そして誰よりも努力し、潜水艦長、艦隊司令長官にまで出世されました。
本人が謙虚でいても、周囲はちゃんと見ていたのです。

そして明らかにオランダ側に非があるのに、その責任をとらされ、処刑されました。
泣き言も言わず、ぶたれても、窒息しそうなドブ掃除を任されても、愚痴も言わず、それだけでなく、身近な刑務所の看守たちには、いつも笑顔でやさしく接していた。

そして君が代を歌い、陛下に万歳を捧げられ、逝かれた。

ボクは、醍醐中将の生きざまに、まさに日本人としての生きざまがある。
そのように思います。

醍醐閣下のご冥福を、心からお祈り申し上げます。