私は自分の都合で和解を捉える人に違和感を感じています。
例えば、総裁との和解などもそのひとつです。
どこを、何を、どのようにして和解するのか具体策もなく虚妄に喘いでいるようにしか見えない。
そんなことを書くと、『生命の實相』のどこにも書いていないという、おかしな論調をいう人がいるが少し考えればわかるようなことを『生命の實相』を持ち出さなくてもわかる論理をいう人がいる。
そんな人は自分の投稿しているブログで仲良く「和解」でもすればいいのに、それさえも出来ないで「人に和解を説く」
おかしい人である。脚下照顧出来ないでいる。それこそ却下証拠である。

さて光明遍照様の書かれている人の

【さて、話しは和解論に変わるが、今年(2015)2月16日、トキ様が

>「和解念仏教」の教祖様は、谷口雅春先生ですから、<

ということを書かれているが、残念ながら谷口雅春先生の理解が浅いと思わざるをえない。


今更だが、『生命の實相』倫理篇の「虚説に和解してはならない」の章を取り上げるまでもない。


谷口雅春先生は、断じて「和解念仏教」の教祖様などではない。


雅宣総裁の説く「今の教え」(今は、ブラジルの信徒からの指摘で言わないようだが、分かり易くするため、あえて使わせてもらう)なるものは、虚説であり、断じて和解してはならない。


個人的には、トキ様には好意を持っているが、具体的な和解交渉の方法も提示出来ない和解念仏教などには、同意しかねる。】

トキさんは
「和解念仏教」の教祖であり、これだけ「和解」といえば少しは良くなっているのかと思えば
その状況は益々悪化であることは誰もみても明らかである。

それは何故そうなるかを考えたことがあるのであろうか?
それは祈りでもそうであるが、具体的に実現可能であるか?
欲で祈っているではないか?
単にそうなって欲しいというというだけでそれ以降の具体案がないのではないか。

雅宣氏と何を和解するのか?
『生命の實相』のないの教団と和解するのか?
『甘露の法雨』のない教団と和解するのか?
光明化運動のない「環境の家」と和解せよというのか?
九州総本山を聖地ではないという人と和解するのか?
民主党を支持するような人と和解するにのか?
「天皇陛下」を愛さないような人と和解できるのか?
兄弟と仲違いするような人と和解できるのか?

それでも和解をいうならば、本当に「和解」ではなく「妥協」するとしか言い様がない。
妥協してどうするのかであろう。
たぶん。トキさんは「妥協」して欲しいというのが本音であろう。
口では和解と言っているが「妥協」して欲しいというのが素直な意見であろう。

だが妥協などすると、大変な事となる。今の生長の家は本来の生長の家ではない。
雅春先生の御著書を絶版とし、覆い隠して「今の教え」を説く。

無茶苦茶である。

そんな「教団」とは断固戦わなければならないのである。雅春先生が「日の丸か赤旗か」を出版されて、『我が憂国の戦い』をどうして出版されたのか。
それは現教団は「似非教団」であり、唯物思想を説く教団であるからである。
そんな教団と「和解」してはならないのである。