日本の山というのは深い奥山といわれるところには、山の麓には鳥居が建ち人間が立ち入りを拒否しているような場所があります。
奈良では修験道の古道があちらこちらにあります。古くから山岳信仰が根付き山というのは畏怖の対象でもあったところが多い。富士山も山岳信仰のメッカでもある。山頂には鳥居が建っています。ここは浅間神社の所有であり、山そのものが信仰そのものであります。
出羽三山も真言密教の山岳信仰でもあります。
吉野や大峰山などは役小角が開いた山である。
役小角は元々奈良の御所の出身で近くには金剛山や葛城山があり呪法を学んだことにより山岳信仰に入っていく、後の『日本霊異記』にその多くのエピソ-ドが記入されている。

山には神霊がおり、そこから血穢の対象とされた女性は入ることが許されなかった。
また煩悩の対象として女性が入ることが許されなかった。
もちろんいまでも女人禁制の山はあるが、多くは女性にも開放されている。現在でも山岳信仰とまでいかないが石碑に「山の神」と書いている場所が多くある。

女人結界というのも仏教における考えでもあるが一部の山岳信仰でもそうした結界を重んじるところがある。
また深山幽谷というのは深い奥山という場所である。
今ではそういう考えがないが、日本ではいくつもの山に「深山」(みやま)とかいう名前の山があるが、こうした場所は奥山であった。
こうした場所には神霊が住んでおり、姥捨山のように老人になるとそうした場所で死んでいかなければ佛にならないという信仰もあった。
そうした場所にも結界というのがあり、その奥に入ると魑魅魍魎の化け物が住んでいて人間にちょっかいをかける。
登山とまでいかないが、山に行くとそうした祖霊のようなものを感じる時がある。それは人間を拒否しているのか分からないが、神霊のような畏れ多いものを感じてしまう。

日本人の昔の人達はそうした人間とケダモノや木霊や「石」などにもそうした神秘的のものを感じたものである。
結界を通り過ぎると「石」になる。また奄美大島では「木霊」というのがいまでも存在していると信じている人が多いのもそうした自然と人間とを分断する役割があった。

修行のしていない人は立ち入り禁止だぞ!という言葉が聞こえないのか。

私は山に登るが関西地方では山の頂上に建てられた神社やお寺には役小角の開祖としての寺が多いことに気が付く。
手軽に登ることはいいのだが、いまでも女性は「巫女」や「イタコ」のように霊が取り付きやすいと思っている人もいます。

結界石が何故あるのか「山の神」の石碑がどうしてあるのか、山には鳥居がある場所が多い、それは何故なのかをじっくり考えなければならない。

安易に脚を踏み入れたりするような場所「深山」には信仰を深く持たなければならない。それは穢や禊など深く解かる人ならばいざ知らず。

山岳信仰もわからないで、自然と人間とは一体なんだというような畏れを知らない人にはこうした「山岳信仰」を学んでいただきたい。

私には山は自然であり、畏怖の対象でもあります。そうした所と一体など畏れ多いことであり、今回の総裁の発言は日本人の古来から学んできたことと全く異次元な発言であり、そうした発言はあまりにも自然をなめているとしか思えない。