下記のようなコメントを「愛国本流掲示板」に書きました。

それはある人のコメントからそのように思いました。


私の昔からの知り合いで生長の家の職員専従として頑張っている人も数人います。
だからといってその人が教団側とかそういう言い方をよくする人がいます。
また、私のように「学ぶ会」に不信感があると言っただけで「今まで尊敬していたのに、裏切られたような気持ちである」というようなコメントを頂きました。

こういうのが、自分はこうだと人を決めつけをしてしまう「悪い癖」のようなものがあるのです。
またそういう発言する人を赦せない気持ちがでてくるのです。だから極端に「坊主憎ければ袈裟まで憎い」というような心境になるのです。

たしかに雅宣総裁は「生長の家」の根本義を裏切り、民主党を推奨し、現憲法を擁護し、住吉大神を無力化し、「生命の實相」「聖経甘露の法雨」を絶版にした首謀であります。

だからといって、その所属している信徒までを苦境に落とすような発言は控えるべきだと思っています。

ここに深い深層のようなものを感じます。
こうしたネットでのやりとりはその人の眞相が見えないからです。
だから想像で発言してしまうのです。
『生命の實相』の勉強会は大いにやるべきであると思っています。それは教団側とか学ぶ会とか関係なしにそのように思います。

『生命の實相』を輪読する人に左右わけるようなことをしてはいけない。

「教団の人」が苦境に立っている時にこそ「学ぶ会」に人は救いの手をさすべきであると思っています。
受け皿とかいいながら、そうならないのは教団内に噂というのがそのようにさせているのかもしれませんが、破邪顕正様は私も尊敬していますが、「こうだ!」と思ったら書いてしまうのですが、それが何回もいうと教団側にとり悪口になってしまう事があるのです。

ここが難しい所です。

お互いに幇助しあいながら「生長の家」を伸展させるようなことが出来ないのか考えていって欲しいと思います。

ここで一番大切なことは『生命の實相』をどうして雅春先生が出版されたかということであります。

それは「人々を救いたい」という願望が「今立て」という啓示が後押ししたのす。

私達も「世の中をどうにかしたい」「現憲法を破棄したい」そういう初心を貫きたい。