節度ある発言ということが出来ていない私がいうのもおかしいですが、この生長の家の論争について思うのは、多くは「自分を良し」としての発言なのです。

そりゃ当たり前かもしれないが、とりわけてトキ掲示板のトキ様は取り分けてそういう分類をすぐにする。

それは対峙や対抗させるのは論議ではおもしろい。
しかし、数年前から「生長の家」教団はおかしな方向へ向かっているのは、ほとんどの人が思っていることである。
しかし、それをどうするかを「トキ掲示板」に問題をすり替えたり、反対に「本流側」にすり替えたりしている。

本当はそうじゃないだろう。常識的に考えても、雅春先生時代から現在の生長の家が変節しているのは間違いない。そんな論点はいままで幾多の人が唱えてきた。

『生命の實相』を蔑ろにしているのも事実である。裁判での経緯でもあきらかである。

『生命の實相』が大事だと思うなら。地域に『生命の實相』を読むなとかの方針など唱えないなろう。
『生命の實相』は生長の家教団の根本因である。教義でもある。それを蔑ろにしていて、環境はないのである。

それじゃ『生命の實相』を破棄していいのですか?

「そういうことはほぼ100%はそんなことない。」
と教団の人はおしゃるでしょう。

その通りなのです。しかしそれを放擲しているのが現在の教団なのです。

皆はそれはおかしいとはいいます。だが実際の活動指針などはその方向であります。

それをどうしていくのか。というのが第一義の問題なのです。
それをその方向に導いていっているのが、「雅宣総裁」なのです。

そこを改めない限り「おかしな方向」へいくのであります。

よく「雅宣総裁」に一人責任を負わせるのはおかしいというが。そんな人は社会の常識を知らないからそんな我儘な発言をするのである。

社会では会社で社員が悪ければ、会社が悪いといわれます。しかもその責任者の社長の責任があるのです。
厳しいが社会とはそういうものであります。

だから、その職員は教化部長もどうしようもないかもしれないが、その「辞令」を出しているのが社長でありますから、その代表取締役の印鑑も押している限り、その社長の責任から逃れられない。

私はそういう責任を感じない宗教者の人が多いのが大きな問題であると思っています。

信徒数激減の責任もとらない人は宗教だから許される問題ではないと思っています。

いろんな論議があると思います。和解とかおしゃるが、和解するためにどうするのかが「ポッカリ」抜け落ち。主論のみ唱えてもダメなのです。

和解というのはそんな「簡単」なものではありません。

例えば現在の共産党の志位書記長を生長の家に入信させるより難しいのであります。

それならば、不可能はないとかおしゃるならば、それを実行して下さい。それを実行させて下さい。

それが出来ないならば、そんな事軽々と言うなと言いたい。

私は辞めていただくのも「和解」であると思っています。

「え~」とおしゃるかも知れないが、現在の総裁は宗教家としては最低である。真理も説かない。
口を開けば「環境」にうんざりしている。
それならば、環境団体に入ってそれを実行すればいいのであります。
その人が行いたい処に指針させるのは人間として温かい行動であります。

人間にはその職業が天職かどうかは意外と他人がわかることがあります。それが本人の為だというのも温かい進言であります。
だから、辞めていただくのも「温かい」進言なのであります。
それが全体の和解として相応しいのであります。

それを「悪」と見るのは根性が曲がっているからそうであります。

自分が絵描きで才能がなく、漫才をするのが大変得意でしかも、会社の社長としての業務が滞り、支障がある場合は「そういう進言」をするのは何も悪くないことなのです。

私はそういうことを知ることも大切であると思っています。