大本の入信の動機

谷口先生は綾部の大本へ行かれる。それを「参綾」と呼んでいます。その動機では「自叙伝」より、こちらの文章のほうが詳しく書いています。当時の大本ではそこで寝泊りされている人達をみて今までの悩みとかが払拭されたような事であったと推察されます、それは基督の如く感じられたような気がします。

 

『私は綾部で初めて、自分の内なるものの審判に恥ぢない生活を見出しましたそれは実に各人の働きが人類の喜びであるような生活でした。過去を振返って見ますと凡てが大本へ入る前の予備試験のやうに考へられます。』

 

大本の入信は「過去を振返り、今までの生活は大本に入る予備試験」と云っておられます。余程感銘受けられたかは想像難くない。

下記の文章は『神霊界』大正七年二月十五日號(第八十號)より抜粋致します。

また、大本入信前に『彗星』大正七年九月号に『心霊療法の骨子』を投稿されておられます。その時のやりとりが書いています。

『皇道大本』の特集が大きく組まれていたのと相対するような形で掲載されていたのを書いておられます。それは『彗星』という雑誌を送って戴いている御礼として『投稿』されています。

なお、岡田射雁はそのまま書きましたが、三十年史や五十年史や自叙伝には岡田建文と記載されております。

大正初めに松江には心霊や霊術とかの人物を排出しております。『彗星』の岡田建文という人物はあの柳田國男とも親交があり、この『彗星』以外にも『心霊不滅』『妖怪霊異誌』など多数出版している。また木原氏の耳根圓通法と記入しているのが五十年史では木原鬼仏と記入しているが木原通徳の事である。大本にも大正八年に入信し、第一次大本事件で辞めている。入信していた時期に『霊明法』という本やそれ以外に『精神修養 冥想法講話』『心身強健養気療法』を出版している。松江では『心霊界』という雑誌を出版していた、後程、谷口先生は『心霊界』にも多数、ご投稿なされています。

松江には永井霊洋という霊術家がいる最初は法華行者のもとで修行してエクソシストになり、憑依的な世界観を捨てて霊術家に変貌したという、興味深い経歴の持ち主で、優秀な術者、治療家ではあったようである。霊子板のような木板を使った霊能開発法があり、ポスト太霊道の霊術家なのか、あるいは田中守平よりも先駆的な術者なのかという興味深い問題もある。この永井の団体は、桑田欣児の団体と同様、戦後は宗教法人に衣替えして子息が後を継ぎ、「みちから教」と名乗り、松江で活動を続けていた。

 
入信の動機