皇道霊學講話-3
大本時代の年譜



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大正10.2.12

大正108




大正11.10.26~大正11.09



 



大正11.8


大正11.8









大正11.10



大正12.1

大正12.2



早稲田大学を中退。(22歳)中退後、大阪の摂津紡績(現在のユニチカ)株式会社木津川工場に技術練習生として入社。

この年、摂津紡績を退社し、神戸市東川崎4丁目の養母の許に帰る。社会改造と人類救済の道を求めて心霊研究を始める。このころ『国訳大蔵経』(国民文庫刊行会)を読む。

松江市の岡田健文氏より雑誌『彗星』が谷口先生の許に送られ、皇道大本を知る。

『彗星』九月号『心霊療法の骨子』に寄稿

京都府綾部の皇道大本を訪れる。

早春、大本教に入信し綾部に移住。まもなく文章の才能を認められて出版物の編集主任となる。『神霊界』『大本時報』『大本新聞』等に宗教論文及び小説、随筆、和歌、時事問題に関する多数の文章を発表。

『神霊界』大正八年二月十五日(第八十號)「入信の徑路 参綾の動機」(私は綾部で初めて、自分の内なるものの審判に恥じない生活を見出しました、それは実に各人の働きが人類の喜びであるような生活でした。)大本の入信の動機を語る。

『神霊界』大正八年四月一日(第八十三號)「邪神の發生と身魂の修秡」(古事記の解読と「神癒」への比較論文)

『神霊界』大正八年四月十五日(第八十四號)

「大本靈学の私的研究」(皇道大本の鎮魂が催眠術ではないことと、憑依霊の形式など…)

「改宗者の手帳より」○建替は残虐なりや ○悪の発生問題 ○お前とならばどこまでも ○ミロクの大神(キリスト再臨と弥勒菩薩の下生と尊師の567ヶ月に因んで“567殿”

『大本時報』大正8127日から「皇道霊学講和」の連載始まる。大正9627日(20

皇道大本の講師として東京へ

 東京専修大学講演  「大本より観たる心理現象」

 学士会館      「神力の科学的研究」

 有楽座       「改造の根本義」 

神田立花亭     「神と人との世界改造」

処女出版『皇道霊学講和』を東京・新光社より出版。(28歳)

皇道大本研究資料 亀岡叢書の編纂出版 全14巻(内、八巻出版)

第四編  神示の比較宗教論   谷口白龍(ペンネ-ム)
第五編  ヨハ子黙示録(子はママ) 谷口正治
第六編  鎭魂歸神の要諦      谷口正治講述
第七編  基督再臨の眞相      谷口正治
                今井楳軒翁の序
第九編  社会主義と皇道大本    谷口正治
第十編  行ふべき道        谷口正治   
第十二編 言霊と神通力       谷口正治
     言霊を詳しく書き表わしています。
第十四編 非醫治療法批判      谷口正治

『大正日々新聞』発行のため『大本時報』を休刊。

『大本新聞』16号にて廃刊。

江守輝子様と御結婚。(今井梅軒の媒酌にて

第一次大本教事件
大正10年2月12日、不敬罪と新聞紙法違反の疑いで、出口王仁三郎祖ほか数人が検挙され、王仁三郎は126日間の未決生活ののち保釈。同年秋から『霊界物語』の口述を始めた。

このころ、西田天香著『懺悔の生活』を読み京都鹿ケ谷の一燈園を訪問。

『霊界物語』雅春先生が筆録(最初4名にて口述筆記)

第二巻完了とともに「出口教祖詳伝」編集の任の為筆録者から外れる。

その後、事件は大審院で“前審に重大な欠陥あり”として、前判決を破棄し、再審理中、大正天皇の崩御により免訴となり解消した。警察部、検察、予審判事総数130

『霊界物語』雅春先生が筆録(最初4名)

一燈園の機関紙『光』8月号に「天香さんと倉田さん」を発表。以後『光』誌上に多数の論文を寄稿。

第一次大本事件の控訴院から大本教のお筆先の調査以来。

押収された約1万冊の原本を読破(約40日間)105日京都地方裁判所にて裁判。

大阪の控訴院から、なおの御筆先と王仁三郎の漢字交じりで書き直したものを比較し、不敬罪に核当する箇所がないか調査を依頼される。その作業で、教団の発表した予言に食い違いがあり、当たったものだけが機関紙に掲載されている事実を知る。更には出口家を天皇に代わる地上の権力者にしようとする啓示を発見し、決定的な疑問を感じる

(当時なおの文章は難解であり、それを解読する人も少なく谷口先生が今までの才能を認められ調査依頼される。)

大本教を脱退

一旦神戸へ戻り、上京

『東亜公論』へ入社。半月で退社(今井楳軒氏の紹介)

浅草区小島町へ移転(金銀の飾り職人の二階)『聖道へ』執筆活動

論文集『聖道へ』を東京・新光社より出版。『聖道へ』出筆後、小説家を志し、長編小説三編(『神を審判く』、大本教祖を主人公とする小説及び摂津紡績時代の工場労働者を主人公としたプロレタリア小説)を執筆、また、浅野和三郎主宰の雑誌『心霊研究』にはマッケンジ-の『幽明之交通』等を翻訳紹介する。



 


大本を脱退するまでに、大本神諭の原本を読破をして不敬罪の箇所がないかを調査するのであるが、

そこでの天皇に代わる地上の権力者にしようとする啓示を発見すまでにいろいろな論文を書いています。

大正11年8月頃に大阪控訴院からの依頼を受けて約1万冊の文章を読破していくのですが、そんななかでも論文を発表されています。

それが大正11年8月16日「文化生活と憐愍道」

その後大本に疑問感じた時に「強制の道と愛の道」を発表して大本に属していけない。その大本に属していたために供養されていた生活費(40円)はもう誰からも供養されない。この論文は『新佛教の発見』に所収。

その年の10月に大本を去るのです。一旦神戸に戻ったがいつまでも養家にもおられない、

すぐに東京へと転居するのです。



その後

11月25日  「平和への道」

12月3日   「救いの道は創造主から来るか」

12月10日  「積極道と消極道との価値転倒」

12月12日  「リップス論理学の誤謬」

12月16日  「奉仕生活の根本問題」

12月20日  「百姓愛道場と新しき村」

12月22日  「自分の世界観及び人生観」

12月24日  「恋愛の理想と現実」

上記のすべては『佛教の把握』(『新佛教の発見』)に所収



これらは谷口雅春先生の30歳の時の仕事であり、小説家を歩もうとする決意ともなる。

それとともに浅草小島町に移り食うや食わずの生活のなかから『聖道へ』を執筆していくのです。

こうした中に三界は唯心所現や「本当にある世界」を発見していくのであります。

また『聖道へ』も好評であったが、もっと多くの人を引き付ける力量不足も反省として残るのです。

しかし、こうした論文も生長の家の基礎としている。

「武者小路実篤氏の「新しき村」や賀川豊彦氏の貧民愛生活や江渡狄嶺氏の百姓愛生活や西田天香氏の懺悔奉仕の生活やこれらの試みのことを思うと、自分は感謝と感激の念に満たされずにいられない」

それを讃仰しながらもなにか一つ物足りなさともっと多くの人を救うことを考えていたのではないかと思います。

また倉田百三とは「一燈園」での生活をしていたのですが、倉田百三は憐愍道を生きながら、他方では芝居を見、芸術を鑑賞する。そうした一燈園の生活には耐えきれずに離れていくのである。

雅春先生はそうした生き方より、西田天香氏のように愚直ながら理想的行動へ共鳴していくのです。





浅野和三郎氏が谷口雅春先生の処女作である『皇道霊学講話』の序にてこのように述べている。





谷口君が初めて其姿を大本の修行場たる金龍殿に現したのは、大正七年の9月であった。近頃は毎日の修行者が二三百人に上るが、当時はせいぜい四五十人位のもので、講演も鎮魂も主として私一人の受持であった。

谷口君は其蒼白な、いささか憔悴気味ある顔を聴講者の間に並べて、黙って聴いて居た。坐談の際にも、その人々とは混らず、控え目な、超越したような態度を執って居た。かくて約三週間ばかりが経過したが、私は其間に極めて簡単な一二語を交えたに過ぎなかった。

大本修養者の中にの随分熱性のものが多い。立替の時間の切迫、日本人の使命天職、神の実在とその経綸、各自の改心、未曾有の国難来―今迄夢にも想わなかった是等の問題が、一つ一つ実証的に心の鏡に映じ出して来るとモ-矢も楯も耐えらない。在来の仕事も何も手に附かぬようになって、血眼になって来る。

谷口君には其様な熱はない、何所までも冷えて居る。大声せず、叱呼せず、孤坐独棲、そして空想と思索に耽ると云った風である。何ちらかといへば詩人肌といわんより、哲学者肌の要素が多い。感情よりは、寧ろ理性に縋りて信仰の険路を一歩一歩に踏みしめて登り行くという趣味がある。私はこの人は早く綾部に来る人ではないと見当をつけた。

黙って来、黙って聴き、黙って去った谷口君は爾来数ヶ月間杳として其消息を知らさなかったが、その頃神戸に新設された支部などにも出入りし、数々の奇抜な霊的現象を調査する傍ら、大本神諭の研究し、漸く大本で説く皇道霊学の真味を捕え得たらしい。

情熱のみで働く人は、ややもすれば冷め易い。

頭脳の悪い人は、下らぬ議論や薄っぺらな学説に迷される。

金銭や地位のある人は妥協的に流れる。老人は兎角優柔不断に陥る。谷口君には幸い此等の何れにも煩累が無かった。そして翌くる大正8年の早春には、神戸を後に綾部に移住して来た。私は案外早く形がついたと歓んだ。

それから谷口君は全然皇道大本の畑の人となった。雑誌『神霊界』の編輯に当ったり、霊学に関する谷口一流の研究を筆に書いたり、口で説いたり、やがて大本の機関新聞『大本時報』の刊行されるや、其編輯を助け其間に大本神諭類纂という大仕事にも専心努力した。が、何と云っても、谷口君の三年続きの研究の肝脳ともいうべきものは本書に収められている。

皇道霊学は天地の創造と其淵源を均うし、これほど古い学問は無い。が、崇神天皇が和光同塵の神策を取らせ給い、全然世に埋もるること爰に2千歳、今回綾部に国祖神と共に復活したのであるから、これほど新しい学問は又外に無い。

それ丈頑冥不霊な腐儒、学究をはじめ、殆ど満天下の非難、攻撃、讒悔、嘲弄の標的と成りつつあるは無理もない話である。谷口君が敢然として其鋭い研究のメスを之に向けたのは寔に天下の快挙と謂わねばならぬ。

皇道霊学の範囲は広くして且つ深い。実は天地間一切の事物、哲学も、科学も、宗教も、政治も、軍治も、経済も其他有ゆるものも悉く此内に抱擁されて帰一融合されねばならぬ。

此質のものである。これからは苟くも研究的良心のあるものならば、天下を挙げて此方面に殺到して来るに相違ない。

百人や千人、百年や千年、人間がド-切っても、それで際限窮極が見付かる学問ではない。谷口君が兎も角も先鞭を之につけたのは、それ丈で既に燗眼である。後日何人か現われて研究の歩を進めるにしても、此第一人を無視することは出来ない。

真信仰に入るべき途は、人毎にめいめい異なると云って可い。奇蹟から入るもの、神諭からも入るもの、病気から入るもの、不幸災厄から入るもの、燗悶焦慮から入るもの等数え尽すべきもない。が、知識尊重の癖をつけられた現代人士は、矢張り霊学方面から入りたがる。本書は現代人士の要求の大半を充たすものであると確信する。

此点から見ても本書出版の意義は充分だと思う。

大正9年6月4日修齋会本部に於いて

   浅野和三郎