園井惠子という元宝塚のスターをご存知であろうか。
トキ掲示板に少し話題として出ていたので少し知っている人もいるのであろうが、私が髄分と昔に宝塚に生長の家の人が居られたという微かな話であった。それは知らないともいえる程度の記憶である。
ただ、興味があったのは、一つは『昭和の遺書』梯久美子著にその名前が掲載されているのと、もう一つが 『不屈の日本人』関厚夫著である。
一つの夢をかけて宝塚を目指した、園井惠子(本名;袴田トミ)である。幼い頃は菓子製造業を営んでいたが父親が借金の保証人になっていたため、貧窮した生活を送らなければならなくなった。
それでも小さい頃の夢であった宝塚スターの願い、小さい頃の家は岩手県川口村という所であった。岩手女子師範附属小学校高等科に入学、翌年叔父が小樽市に移転したため、祖母と同行したため、女学校は北海道の叔父の家から近い小樽高等女学校である。
二年の時に帰郷して、家出同然で二晩かけて宝塚に向かったのである。だが、入学試験も終了していて、事務員は断った。来年に試験を受けて下さいという返答である。それでも必死に食い下がり再三粘った、帰宅しようと思ってもその電車賃もない状態であった。行きの交通費は借りて盛岡駅から阪急電車の宝塚へと来たのであった。宝塚に中途採用等あまり実例はない。
そこを押しきっての採用である。昭和4年6月17歳の時である。
その翌年には父親が借金の保証人になっていたため、岩手県で営業を閉じて、岩手県から家族全員が引っ越ししてきた。生活も出来なくなり貧窮した生活を送らなければならなくなった。
『園井恵子・資料集』から抜粋 16・17頁
小林一三(阪急百貨店・阪急電車の創始者。ターミナル駅の構想等、全国の駅などの集客は小林一三氏が手本となった)校長から昭和十年8月3日に園井惠子を校長室に呼び、一通の封書を渡している。
その封書の表に
「園井惠子殿」
(宅に帰ってからあけなさい)とある。
中には温情溢れる手紙と百円紙幣が一枚入っていた。
その手紙というのが下記である。
惠子 殿
あなたは家庭で非常に苦労をし
てきたという話を 初めて聞いて
私はかわいそうだと思いました。
もっと早く私が聞いていました
ならば どんなにでも補助してあ
げたのに……と思いました。
また あなたは親孝行だという
を聞いて 嬉しいと思いました。
ご褒美として 私の小遣いを少
しですが 百円あげます。お礼状
も なんにもいりません。
なお これからも困った時は丸
山先生にお話しなさい。私がどう
でもしてあげます。
その当時でもそうだが宝塚に入学する人は裕福な家庭が多く、仕送りをして生計を経てる人が殆どである。
その中で両親を養い、家族を養って生活している園井惠子を見て、小林一三は何とかしてあげたいという思いであったのである。
病弱の父はその事で病み、昭和12年11月16日に阪急電車に飛込み自殺している。
生長の家のきっかけは
『園井惠子.資料集』122頁には
愛国文学の先駆者である木村毅先生に会ったとき、こんな話が出たことがあります。
「僕の同級生のなかじゃ、谷口雅春君がいちばん出世したかな……」
この谷口雅春氏の崇拝者なのです。つまり、生長の家の信者なんです。
苦しいときには、彼女は必ず『生命の實相』をひもといて自ら慰めます。
「太陽に輝く時刻のみを記録す!」
などと、彼女は難しい哲理を吐きます。
このように記載されている。
哲学的な話など少し小難しい話がとても好きな園井は『生命の實相』の内容にグイグイと入っていくのであった。
袴田トミと「生長の家」の縁は父が送った『生命の實相』である。父を大変尊敬していたトミは父の話を素直に聞く娘であった。『流れる雲を友に―園井恵子の生涯』千和裕之著から抜粋
【啄木のこの歌がしきりにうかぶ。
非凡なる人のごとくにふるまえる
後の淋しさ何にたぐえん
自分が舞台生活で得た役とか表現を親しい人達と話合っている時にさえ、ふとそんな歌が頭を中を横切る。父様の送って下すった『生命の實相』を読んでいると少し位明るく気分を転換させられる。
(園井惠子の日記 昭和十一年二月頃)
ちょうどこの時期に父親から送られて来た『生命の實相』により、生長の家を知るのであります。
宝塚での苦労を『生命の實相』を手元にして明るく振る舞った園井惠子があった。
親友であった桜緋沙子とは何度も意見を語り論争をしていた。(ウィキペディアから抜粋)
【同時代に谷口雅春が創始した右派宗教団体・生長の家の信者であった。桜緋紗子にも生長の家の典籍『生命の実相』を読むよう勧め、しばしば人生・人間論を語り、それはときに2時間以上に及ぶこともあったという。桜は芸能界から引退後に出家して小笠原日凰を称し、日蓮宗の門跡寺院・瑞龍寺の第十三世門跡となったが、「宗教的な縁のきっかけは、ハカマからだったかもしれない」と述べている。また、宗教的信仰とは異なるが、父・清吉から口伝された「極楽は地獄の底を突き破ったところにある」という言葉を座右の銘とし、清吉が病没してからは1日1回必ず口ずさんでいたといわれる。】
昭和二十年八月十七日
袴田トミから母・袴田カメ宛(絶筆)
先日、お手紙書きましたが、まだ高山さんの熱が引かなくて、いまだに中井さん方にご迷惑をかけています。
丸山さんと仲みどりさんが助かったとの報告を、いま連盟本部の方から知らせていただきました。
本部と関西支部から同時に、お使いの人がみえて、
「園井さんが助かって、神戸に来ていられるかもしれないというので、おうかがいしました」とのことでした。
盛岡へ帰るつもりだったのが、そんなわけでまた東京で仕事をするようになると思います。
戦争も、こうした形で終わりになるとは思ってもおりませんでしたし、いまのところ、体も精神もくたくたの有様です。高山さんが元気だと、もっとスムーズになんでもできたと思いますが、いまのところ、六甲のお家の方々に、お世話やら、ご迷惑やらおかけしている次第です。
いつか赤山さんが、「丸山さんは南へ行くと頭を打つ」と言われたことがありましたね。
首の骨を強く打たれたそうで、いま、巌島で養生していられるそうですが、熱が高くて、うわ言みたいなことを口走っていられるし、ロクマクに水がたまっているので、それをとるので大変らしいんです。
高山さんも、熱で歯が痛くなり、のどか痛くなり、今日は朝からお水も通らなくなりました。三十九度、四十度の熱が続いて(十日間)、食物はおも湯、クズ湯、スープ、卵ぐらいしか、それも、たまにしか通っていないので弱る一方です。
しかし時局がこういうときですから、いつまでも中井さんのお家でご迷惑をおかけすることも心苦しいし、いまのところ、私は元気になりつつありますが、どうにも仕方がありません。
中井さんのお家も六日の明け方、すぐ裏の家まで焼けたので、大騒ぎなさったあとだったし、町会長の方が焼け出されたので、その方の家族をおいてあげて、応接間を事務所に貸してあげて、バタバタしていらっしゃるところへ、私たちまで押しかけて、母さんは疲れていらっしゃるのに、何かと大変です。
申しわけがないと思いながら、どうにもなりません。
東京へは、今月末ごろまいることになりましょう。
お会いしたくて、たまらなくなりました。
ほんとうに九死に一生を得たとはこのことです。
母さんや、赤山さん、油町のおばさん、おりつおばさん、それにみよちゃん、きみちゃん、哲ちゃん、康さんまでが、いつも私のことを心配していてくださる。その気持ちが、今度のこの幸せを生んだものと思います。
三十三年前の、しかも八月六日、生まれた日に助かるなんて、ほんとうに生まれ変わったんですね。
時局のこうした流れのなかにも、日本国民として強く立ち上がるようにと、神様の思し召しかもしれないと、おおいに張り切っています。
ほんとうの健康に立ちかえる日も近いでしょう。そうしたら、元気で、もりもりやります。やりぬきます。
これからこそ、日本の国民文化の上にというよりも、日本の立ち上がる気力を養うための、なんらかのお役に立たなければなりません。
皆さんお元気で、食糧増産に励んでください。
いよいよきみちゃんのお望みのお百姓時代が来ました。
母さんと、みよちゃんと、三人でどうぞしっかりおやりください。
哲ちゃんと康ちゃんは、うんと勉強してください。
何でも知ることです。何でもやることです。
実行し、反省、そして実行です。元気で頼みます。
皆さんによろしくお伝えください。
母 さ ん へ 八月十七日 真 代(園井惠子)
女優・園井恵子略歴(本名・袴田トミ) 園井恵子資料集から抜粋
・大正二年八月六日 岩手県岩手郡松尾村に生まれる
・大正九年四月 岩手郡川口村立尋常高等小学校入学、十五年三月尋常科卒業
・大正十五年四月 盛岡市岩手女子師範附属小学校高等科入学
・昭和二年四月 北海道庁立小樽高等女学校入学、二年一学期末まで在籍
・昭和四年六月 宝塚音楽歌劇学校入学、六年三月本科卒業
・昭和五年四月 宝塚少女歌劇団「花組」笠縫清乃で初演、年の暮れ、園井恵子に改名
・昭和六年一月 「月組」に編入、八年五月までの間“ライラックタイム”“女王万歳”他、出演
・昭和八年六月 「星組」に移る。十三年十二月まで所属。この間“指輪の行方”“花詩集”“リュシュヤシュリンガ”“アルルの女”“憂愁婦人”“マリオネット”“花嫁特急”他、出演
・昭和十四年一月 「星組」の解散により「雪組」に編入、十七年六月退団まで所属。この間“連隊の娘”“みち草”“赤十字旗は進む”“ピノキオ”他、出演。古川綠波一座の客演など
・昭和十七年十一月 東宝演劇研究会第四回公演“ファースト”出演、十二月苦楽座第一回公演。玄関風呂”他、出演
・昭和十八年十月 第四週公開封切り、大映映画“無法松の一生”出演
・昭和十九年十一月 苦楽座の一員となり、西日本各地を巡演。十二月苦楽座解団、国策に沿い結成される「苦楽座移動演劇隊」(桜隊)に参加
・昭和二十年八月 西日本巡演中、六日、広島の原爆に遭遇、二十一目、神戸の知人宅において絶命(三十三歳)、盛岡市北山、恩流寺に眠る
東京都目黒区、五百羅漢寺境内、ならびに広島市平和大通り「移動演劇さくら隊殉難碑」に祀られる。
2016年には宝塚歌劇の105人目の「宝塚の殿堂」入りが決定した。故郷の岩手県岩手町川口には銅像が建立されています。
あの木村毅の『谷口雅春君が一番出世したかな…』というコトバには大いに讃えている言葉と感じます。園井惠子が信じて居た人こそ「生長の家」の創始者である。
参考文献
『園井惠子・資料集』『不屈の日本人』『昭和の遺書』『流れる雲を友に』『櫻隊全滅」『戦禍に生きた演劇人たち』『原爆供養塔『東寶』『スエスエ』
等を読破したものを参考に簡単に列記させていただきました。