則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2021年03月

讀んで戴ければ幸甚です。

園井惠子にみる生長の家の生き方--被爆された大女優

 園井惠子という元宝塚のスターをご存知であろうか。

トキ掲示板に少し話題として出ていたので少し知っている人もいるのであろうが、私が髄分と昔に宝塚に生長の家の人が居られたという微かな話であった。それは知らないともいえる程度の記憶である。

   ただ、興味があったのは、一つは『昭和の遺書』梯久美子著にその名前が掲載されているのと、もう一つが 『不屈の日本人』関厚夫著である。

昭和の遺書
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   一つの夢をかけて宝塚を目指した、園井惠子(本名;袴田トミ)である。幼い頃は菓子製造業を営んでいたが父親が借金の保証人になっていたため、貧窮した生活を送らなければならなくなった。

   それでも小さい頃の夢であった宝塚スターの願い、小さい頃の家は岩手県川口村という所であった。岩手女子師範附属小学校高等科に入学、翌年叔父が小樽市に移転したため、祖母と同行したため、女学校は北海道の叔父の家から近い小樽高等女学校である。

 

二年の時に帰郷して、家出同然で二晩かけて宝塚に向かったのである。だが、入学試験も終了していて、事務員は断った。来年に試験を受けて下さいという返答である。それでも必死に食い下がり再三粘った、帰宅しようと思ってもその電車賃もない状態であった。行きの交通費は借りて盛岡駅から阪急電車の宝塚へと来たのであった。宝塚に中途採用等あまり実例はない。

   そこを押しきっての採用である。昭和4年6月17歳の時である。

    その翌年には父親が借金の保証人になっていたため、岩手県で営業を閉じて、岩手県から家族全員が引っ越ししてきた。生活も出来なくなり貧窮した生活を送らなければならなくなった。

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『園井恵子・資料集』から抜粋 1617

 小林一三(阪急百貨店・阪急電車の創始者。ターミナル駅の構想等、全国の駅などの集客は小林一三氏が手本となった)校長から昭和十年8月3日に園井惠子を校長室に呼び、一通の封書を渡している。

 その封書の表に

「園井惠子殿」

(宅に帰ってからあけなさい)とある。

中には温情溢れる手紙と百円紙幣が一枚入っていた。

その手紙というのが下記である。

 惠子 殿 

あなたは家庭で非常に苦労をし  

てきたという話を 初めて聞いて

私はかわいそうだと思いました。

もっと早く私が聞いていました 

ならば どんなにでも補助してあ

げたのに……と思いました。

また あなたは親孝行だという

を聞いて 嬉しいと思いました。

ご褒美として 私の小遣いを少

しですが 百円あげます。お礼状

も なんにもいりません。

なお これからも困った時は丸

山先生にお話しなさい。私がどう

でもしてあげます。

 

  その当時でもそうだが宝塚に入学する人は裕福な家庭が多く、仕送りをして生計を経てる人が殆どである。

  その中で両親を養い、家族を養って生活している園井惠子を見て、小林一三は何とかしてあげたいという思いであったのである。

 

  病弱の父はその事で病み、昭和121116日に阪急電車に飛込み自殺している。

 

生長の家のきっかけは

『園井惠子.資料集』122頁には

  愛国文学の先駆者である木村毅先生に会ったとき、こんな話が出たことがあります。

   「僕の同級生のなかじゃ、谷口雅春君がいちばん出世したかな……」

この谷口雅春氏の崇拝者なのです。つまり、生長の家の信者なんです。

苦しいときには、彼女は必ず『生命の實相』をひもといて自ら慰めます。

   「太陽に輝く時刻のみを記録す!

などと、彼女は難しい哲理を吐きます。

このように記載されている。

哲学的な話など少し小難しい話がとても好きな園井は『生命の實相』の内容にグイグイと入っていくのであった。

 

   袴田トミと「生長の家」の縁は父が送った『生命の實相』である。父を大変尊敬していたトミは父の話を素直に聞く娘であった。『流れる雲を友に―園井恵子の生涯』千和裕之著から抜粋

【啄木のこの歌がしきりにうかぶ。

非凡なる人のごとくにふるまえる

後の淋しさ何にたぐえん

自分が舞台生活で得た役とか表現を親しい人達と話合っている時にさえ、ふとそんな歌が頭を中を横切る。父様の送って下すった『生命の實相』を読んでいると少し位明るく気分を転換させられる。

(園井惠子の日記 昭和十一年二月頃)

 

ちょうどこの時期に父親から送られて来た『生命の實相』により、生長の家を知るのであります。

宝塚での苦労を『生命の實相』を手元にして明るく振る舞った園井惠子があった。

親友であった桜緋沙子とは何度も意見を語り論争をしていた。(ウィキペディアから抜粋)

 

【同時代に谷口雅春が創始した右派宗教団体・生長の家の信者であった。桜緋紗子にも生長の家の典籍『生命の実相』を読むよう勧め、しばしば人生・人間論を語り、それはときに2時間以上に及ぶこともあったという。桜は芸能界から引退後に出家して小笠原日凰を称し、日蓮宗の門跡寺院・瑞龍寺の第十三世門跡となったが、「宗教的な縁のきっかけは、ハカマからだったかもしれない」と述べている。また、宗教的信仰とは異なるが、父・清吉から口伝された「極楽は地獄の底を突き破ったところにある」という言葉を座右の銘とし、清吉が病没してからは11回必ず口ずさんでいたといわれる。】

 

昭和二十年八月十七日

     袴田トミから母・袴田カメ宛(絶筆)

先日、お手紙書きましたが、まだ高山さんの熱が引かなくて、いまだに中井さん方にご迷惑をかけています。

丸山さんと仲みどりさんが助かったとの報告を、いま連盟本部の方から知らせていただきました。

本部と関西支部から同時に、お使いの人がみえて、

 「園井さんが助かって、神戸に来ていられるかもしれないというので、おうかがいしました」とのことでした。

 盛岡へ帰るつもりだったのが、そんなわけでまた東京で仕事をするようになると思います。

 戦争も、こうした形で終わりになるとは思ってもおりませんでしたし、いまのところ、体も精神もくたくたの有様です。高山さんが元気だと、もっとスムーズになんでもできたと思いますが、いまのところ、六甲のお家の方々に、お世話やら、ご迷惑やらおかけしている次第です。

 いつか赤山さんが、「丸山さんは南へ行くと頭を打つ」と言われたことがありましたね。

 首の骨を強く打たれたそうで、いま、巌島で養生していられるそうですが、熱が高くて、うわ言みたいなことを口走っていられるし、ロクマクに水がたまっているので、それをとるので大変らしいんです。

 高山さんも、熱で歯が痛くなり、のどか痛くなり、今日は朝からお水も通らなくなりました。三十九度、四十度の熱が続いて(十日間)、食物はおも湯、クズ湯、スープ、卵ぐらいしか、それも、たまにしか通っていないので弱る一方です。

しかし時局がこういうときですから、いつまでも中井さんのお家でご迷惑をおかけすることも心苦しいし、いまのところ、私は元気になりつつありますが、どうにも仕方がありません。

 中井さんのお家も六日の明け方、すぐ裏の家まで焼けたので、大騒ぎなさったあとだったし、町会長の方が焼け出されたので、その方の家族をおいてあげて、応接間を事務所に貸してあげて、バタバタしていらっしゃるところへ、私たちまで押しかけて、母さんは疲れていらっしゃるのに、何かと大変です。

 申しわけがないと思いながら、どうにもなりません。

 東京へは、今月末ごろまいることになりましょう。

 お会いしたくて、たまらなくなりました。

 ほんとうに九死に一生を得たとはこのことです。

 母さんや、赤山さん、油町のおばさん、おりつおばさん、それにみよちゃん、きみちゃん、哲ちゃん、康さんまでが、いつも私のことを心配していてくださる。その気持ちが、今度のこの幸せを生んだものと思います。

 三十三年前の、しかも八月六日、生まれた日に助かるなんて、ほんとうに生まれ変わったんですね。

 時局のこうした流れのなかにも、日本国民として強く立ち上がるようにと、神様の思し召しかもしれないと、おおいに張り切っています。

 ほんとうの健康に立ちかえる日も近いでしょう。そうしたら、元気で、もりもりやります。やりぬきます。

 これからこそ、日本の国民文化の上にというよりも、日本の立ち上がる気力を養うための、なんらかのお役に立たなければなりません。

 皆さんお元気で、食糧増産に励んでください。

 いよいよきみちゃんのお望みのお百姓時代が来ました。

 母さんと、みよちゃんと、三人でどうぞしっかりおやりください。

 哲ちゃんと康ちゃんは、うんと勉強してください。

 何でも知ることです。何でもやることです。

 実行し、反省、そして実行です。元気で頼みます。

 皆さんによろしくお伝えください。

 母 さ ん へ      八月十七日                真 代(園井惠子)

 

女優・園井恵子略歴(本名・袴田トミ) 園井恵子資料集から抜粋

・大正二年八月六日 岩手県岩手郡松尾村に生まれる

・大正九年四月   岩手郡川口村立尋常高等小学校入学、十五年三月尋常科卒業

・大正十五年四月  盛岡市岩手女子師範附属小学校高等科入学

・昭和二年四月   北海道庁立小樽高等女学校入学、二年一学期末まで在籍

・昭和四年六月   宝塚音楽歌劇学校入学、六年三月本科卒業

・昭和五年四月   宝塚少女歌劇団「花組」笠縫清乃で初演、年の暮れ、園井恵子に改名

・昭和六年一月   「月組」に編入、八年五月までの間“ライラックタイム”“女王万歳”他、出演 

・昭和八年六月   「星組」に移る。十三年十二月まで所属。この間“指輪の行方”“花詩集”“リュシュヤシュリンガ”“アルルの女”“憂愁婦人”“マリオネット”“花嫁特急”他、出演

・昭和十四年一月  「星組」の解散により「雪組」に編入、十七年六月退団まで所属。この間“連隊の娘”“みち草”“赤十字旗は進む”“ピノキオ”他、出演。古川綠波一座の客演など

・昭和十七年十一月  東宝演劇研究会第四回公演“ファースト”出演、十二月苦楽座第一回公演。玄関風呂”他、出演

・昭和十八年十月 第四週公開封切り、大映映画“無法松の一生”出演

・昭和十九年十一月 苦楽座の一員となり、西日本各地を巡演。十二月苦楽座解団、国策に沿い結成される「苦楽座移動演劇隊」(桜隊)に参加

・昭和二十年八月 西日本巡演中、六日、広島の原爆に遭遇、二十一目、神戸の知人宅において絶命(三十三歳)、盛岡市北山、恩流寺に眠る

東京都目黒区、五百羅漢寺境内、ならびに広島市平和大通り「移動演劇さくら隊殉難碑」に祀られる。

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2016年には宝塚歌劇の105人目の「宝塚の殿堂」入りが決定した。故郷の岩手県岩手町川口には銅像が建立されています。

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あの木村毅の『谷口雅春君が一番出世したかな…』というコトバには大いに讃えている言葉と感じます。園井惠子が信じて居た人こそ「生長の家」の創始者である。

参考文献
『園井惠子・資料集』『不屈の日本人』『昭和の遺書』『流れる雲を友に』『櫻隊全滅」『戦禍に生きた演劇人たち』『原爆供養塔『東寶』『スエスエ』
等を読破したものを参考に簡単に列記させていただきました。

八ヶ岳という「神域」と「信濃宮」追補

或る方から『生長の家』誌二月號がPDFで一部送付されてきた。その記入したのが総裁である「谷口雅宣」氏である。最初は三角のムスビとか本来の生長の家と言葉の「むすび」だけを取って来て本来の姿や教えとは全く異質な、本来の生長の家とは全く関係のない説明とその内容の幼稚さに私は呆れ果てている。

だが、その説明とは異なる八ケ岳の権現岳(6頁)のことが記入している。私が権現岳の説明をネットで調べて、このブログに記入しているのである。それと、少し離れているが信濃宮には巡礼に訪れた地でもある。

権現岳を安っぽい御札でお参りして欲しくない。この雅宣総裁はつくづく「どうにかしている」としか思えない。神様を愚弄しているとしか思えない。とんでもない総裁である。少し考えてみたらと進言する。

さて、その権現岳について2016920日のブログにおいて【八ヶ岳という「神域」と「信濃宮」】で記入している。少し長いが是非読んで頂きたい。

八ヶ岳とは関係ないが「信濃宮」という富士山から近くに在り、是非そんな場所があるということを知って頂きたい。

生長の家の神髄である「天皇信仰」を粗末にする輩には到底理解できない内容であるが、少し付加して転載します。

 

【最近は私のようにトレッキングなどを志す人が多くあり、山岳信仰である修験道の道を歩くことが多くある。昔はその修験者は滝による修行や獣道を自ら登り、急斜面の岩を登り、動物の臭いを嗅ぎ分けて、自然界における”神霊”や”山の神”を慈しみ、その霊力を身に付けるために修行をした。

 

その霊場はいまや観光化となってしまっている。

 

神仙の棲む山を「深山」といい、「そこには神様が住んでいて、この山を護って下さっているんじゃ」と昔は教えられたものです。そこに登る人は修験者であり、その霊力を身につけた人のみが許された。

 

そのために、今もなお「山の神」という石碑があるところも多くある。また「結界」という石門や石碑などで霊域と人の住む境界線を作った。その有名な処は大峰山であります。女人結界の門は未だ「女性の入山」を拒否している。

 

しかし今やそんなことを知らないで平気で山に登ったり、そこを住処として居住する人がいる。

 

「生長の家」も本部として「森の中のオフィス」として建てられた場所も「神仙」なる地域であり、その山岳修行した人のみが許された「禁足地」であった。

 

そんなことを知らずに平気で「自然はいいな」などと言っている人がいることが情けない。

 

八ヶ岳には古くからの伝説がありその一つが

八ヶ岳には、地元の人なら小学生でも知っているというくらい親しまれている神話が伝えられている。

 

 遥か昔、八ヶ岳と富士山は、どちらが高いか勝負することになった。長い筒を互いの頂上に架け、中央から水を流すと水は、富士山の方に流れていった。勝負に負けた富士山は悔しさのあまり、その筒で八ヶ岳を叩き割ってしまった。

こうして八ヶ岳は、現在のような八つに割れた姿になったのだという。

私はこの八ヶ岳には古くから修験者が修行の場としてある。

 

甲斐の国から見た八ヶ岳

 甲斐の国での権現岳開山は早かったようだ。甲州から見れば霊峰富士に対峙する権現岳である。八ケ岳の由来でよく語られる天孫降臨神話の大山祇神の娘、木花之開耶姫命を富士山、磐長姫命が八ケ岳に、というのも甲州から見た環境での話ではないだろうか。

権現岳 - Google マップ

 甲斐の武人達は鬼門の守護神として権現岳(檜峰、薬師岳)に八雷神を祀った。開山時期は不明というが山祠は檜峰神社檜峰神社 - Google マップと称する。檜峰神社の里宮はなぜか権現岳と縁を感じない御坂山塊にある。甲府盆地を隔てて対岸ではあるし、釈迦岳や神坐山神座山 - Google マップといった霊場を思わせる山々に囲まれた土地なので鬼門の恐れや穢れを遠ざけ鎮めるという信仰の形なのかもしれない。八雷神を祀ったこの檜峰神社の由来は古く三代実録に貞観10年(868年)とある。古来より諏訪信仰が厚く神官による統治に近かった諏訪に対し、豪族による武士団の形成も早く霊峰富士を擁する甲州にも役の行者以降の修験道の定着が早かったことは容易に想像がつく。

 

 また観音平に八ケ岳神社、大泉に八嶽神社、天女山付近に八ケ岳神社前宮社などがあり、諏訪側が開山で賑わった江戸時代後期の登山ブーム?では、権現岳を檜峰ではなく八嶽として登拝していたようである。八ケ岳神社前宮社は冬季でも庶民が参拝できるよう作られたというから、いわゆる修験道とは違う庶民の信仰を形成していたものと思われる。大泉の八嶽神社は諏訪神社を合祀したこともあるが八ケ岳信仰を起源とする社には珍しく、現在でも地域の産土社としてお神楽なども催され七五三などで活躍しているようである。

 

権現岳頂上からは鎌倉末期から室町初期とされる薙鎌、北宋銭が出土しているという。その頃(13001600年頃?)には権現に登拝する講も武田武士団と共に栄えていたのだろうか。薙鎌は諏訪大社の神具だから諏訪人が甲斐から登拝し奉納したとも考えられる。もっとも武田氏は諏訪信仰にも厚く御射山祭の狩猟にも参加していたというから別の思惑の結果かもしれない。出土物が奉納されたものである以上、その奉納者の思惑という事情がすべてで、奉納品の製造年がその神社の誕生を示すものでは無いと思う。

 

しかし、甲斐の国の山岳信仰の主流、富士講に関しては701年に建造された役の行者ゆかりの円楽寺が桓武天皇の( 781806)には甲斐修験道の中心になって栄えていた、ということなので古い歴史があることは間違いない。甲斐の国一の宮浅間神社は貞観七年(865)富士の噴火を鎮めるべく勅命により駿河、甲斐の両国に祀られた。一説にはこれは河口湖の浅間神社だといわれるが、前宮、里宮として、ほぼ同時に出来たとしても良いのではないだろうか。ちなみにアサマという言葉もフジ同様、漢字伝来前から火山の神を示す言葉だという。三代実録の檜峰神はこの直後に従五位下を受けている。 しかしその後の、延喜式神名帳には記載されなかった。

 

これは現在御坂にある檜峰神社が明治維新以前までは神座山薬王権現という名称であり山祠はあったが、諏訪の守屋山のように神座山自体が御神体であったものを指して檜峰神としていたからではないだろうか。調査中に神座山薬王権現の祭神は大日如来という一文を見た。境内には確かに蓮華座の如来像が廃仏希釈が香るご神体ではないであろう状態で置いてあった。名前的に考えるならば薬王菩薩か薬師如来がご神体じゃないのかな、とは思うのだけれど本来の御神体は神座山、釈迦岳そのものなのであろう。甲斐武田家は鎌倉幕府の御家人であったし、御坂の地は鎌倉街道の要地。富士川筋の身延同様、当時最先端の仏教伝来の先進普及地でもあった。神仏混沌の時代であり、式外社とされた理由として神職が僧侶であった可能性も高い。

 

神座山(現在の大栃山、釈迦が岳)は眼下に甲斐の平を一望し、背後に噴煙を上げる富士山を望む立地にあり、甲斐の国に降り立つ神の座にふさわしい。なお、三代実録の貞観時代は河口湖付近まで溶岩流が来たという富士山の噴火や播磨の大地震、津波など全国的な天変地異多発の飢饉時代で、祭事の長としての朝廷もネコの手も借りたいというような勢いで、全国に官位を配りまくっていたように見受けられる

 

清里という行楽地が出来て、八ヶ岳という地は完全に歓楽地としている、しかし上記のように権現岳などは修験者が修行の場としての区域であり、私などはそんな所に住むということは「神様を恐れぬ所業」であるといわれたものである。

 

谷口雅春先生はそんな神域を汚さないで欲しいと訴えている。

『やまと新聞』昭和47年1月10

 

神官及び宮司諸賢に訴える「神社の淨域を汚さないで下さい」

 

【キリストは「神の庭を商売(あきない)の庭と為す勿れ」といってエルサレムの神域から犠牲の動物を売る承認を縄の鞭を揮って追い出したのであった。今や日本の有名なる神社神域は“投げ銭”を受けるための「乞食の庭」となっていないであろうか。神社の神域は汚され、神仙の住み家たりし霊山連邦は観光のための歓楽境と化し、神霊の鎮まりす御在所は最早や日本には無くなりつつあるのである。これこそ日本国家にとって最大の公害ではないだろうか。(やまと新聞)】

 

 

信濃宮について

「御所平」は後醍醐天皇の第八皇子宗良親王が三十有余年居住された地である。場所は山梨県と長野県の県境にあり、大河原とよばれるその地域は「信濃宮」とも呼ばれている。

御所平(宗良親王居住地) - Google マップ

この御所平の近くに信濃宮神社があります。

名称     信濃宮神社

主祭神  称信濃宮 宗良親王

由緒     宗良親王は応長元年(1311)のご生誕にてご幼少から仏門に入り天台教学を研修し、称号を妙法院宮尊澄法親王という。二十歳にして天台座主に補せられ、比叡山延暦寺に在りて御父後醍醐天皇の討幕の偉業に参画し、建武の親政を実現したが、程なく足利氏の反により南北朝の動乱となり、法親王は東国南朝方勢力の拡充の重任を帯び還俗して宗良親王と改称し、以来各地に御奔走のうえ、信濃に入られ大河原(現大鹿村大河原)を根拠地とし、香坂高宗らの誠忠に依り東西にご活躍あり、因って世上信濃宮と称す。しかれども南朝方は諸勢力利あらず日々に減衰せり。親王御詠に

 

いわでおもう谷の心のくるしきは 身を埋もれ木とすぐすなりけり

 

谷深き雪の埋木まてしばし あわではつべき春ならなくに

と痛恨の極みなり。

 

元中二年(1385)親王は大河原にて薨御せられた。村人は永く供養を続け尊敬し今日に至っている。 親王は兵馬倥愡の間にあって梨花集の御編纂、新葉和歌集の御撰進をなされた南北朝第一の歌聖である。

 

神社の造営:時に昭和十五年皇紀二千六百年を迎え、長野県は記念事業として信濃宮神社造営を企画し、鎮座地を大河原上蔵に定めた。時折しも戦時下なり。国民精神高揚のためとして、国民学校以上全学徒の献金があり、青年は土木勤労奉仕を勤め、社地の造成をしたが、昭和二十年八月終戦後は、民間の奉賛会が造営に当たり、神社の規模を縮小して本殿のみ建立し、同二十三年十一月三日鎮座奉祝祭を挙げた。

祭礼     当初は単立の神社法人組織を以て祭事を行ったが、昭和三十八年九月神社本所属となる。経費は崇敬者の寄付に寄る。

例大祭:四月二十八日・祖霊祭:春分の日

六百年祭:昭和六十年例大祭において親王薨後六百年の祭文を奏上し、記念事業として社歴を掲示する(昭和60年10月 信濃宮神社)

場所     大鹿村大河原上蔵

この大鹿村といえば中央構造線にあり、断層で有名な場所である。そういう断層に引かれてきたのか、宗良親王の長く居住された理由があるのであろう。大鹿村中央構造線博物館 (mtl-muse.com)

 

私は以前に静岡県にある井伊谷宮という地に行きましたが、そこは「宗良親王」を祀った神社があり、墓所もあります。

 

宗良親王とは

建武の新政で知られる後醍醐天皇には、たくさんの皇子がおり、彼らはそれぞれ父の有力な駒として各地で転戦をしています。とくに有名なのが護良親王ですが、その他の皇子たちも強烈な個性を放った父・後醍醐天皇のために非常に苛烈な生涯を送っています。

 

 宗良親王は応長元(1311)年に生まれました。母親は歌人である二条為世(藤原定家の子孫に当たる)の娘で、同母兄弟には尊良親王がいました。彼もまた他の皇族と同じく、幼いときに出家し、15歳で妙法院の門跡に就任しました。出家した名を尊澄法親王といいます。そして元徳2(1330)年には、兄尊雲法親王(護良親王)に続いて天台座主(延暦寺の長)となります。これは当時鎌倉幕府打倒の計画を練っていた後醍醐天皇が、延暦寺の勢力の掌握を期待してのことでした。『増鏡』にも宗良がその役割を期待されていたことを示す描写があります。ところがその翌年、父後醍醐天皇の倒幕計画が露見(元弘の変)、京都を出奔して笠置山に籠るものの陥落、脱出を試みた所で捕らえられてしまいます。この時宗良も父と行動を共にしていたらしく、幕府軍によって身柄を拘束されてしまいました。

 

 倒幕運動の主要メンバーのひとりとして活動していた宗良ですが、彼本来の性分は、母方の影響からか、文人的な面が強く、兄の護良親王などに比べて文弱なところがあったようです。

 

 倒幕計画についても、父や兄たちにひきずられた感があり、幕府に捕らえらた後の尋問の際には「しきりに剃泣」したという証言が残っています。

 

ともあれ、幕府は宗良を首謀者の一人として、讃岐へと配流しました(後醍醐天皇は隠岐、尊良親王は土佐へそれぞれ配流、護良親王は逃亡し反幕活動を継続)。その後鎌倉幕府が滅びると再び天台座主に還任しますが、後醍醐天皇と足利尊氏が対立し、南北朝の対立が本格化すると還俗して宗良親王と名乗ります。

 

そして北畠親房に奉じられて伊勢へ向かい、その後遠州の井伊氏のもとへ入城します。さらに北畠顕家と呼応しようとしたものの顕家が討ち死にしたために、父後醍醐天皇の行宮があった

 

大和国吉野へ入ります。そして再び伊勢の大湊から船で出た際に天竜灘で大嵐に遭遇、散々な目にあった末に遠州へ漂着、再び井伊高顕のもとに入りました。

ちなみに、この時北畠親房、顕信(顕家の弟)とともに奥州を目指して船出した宗良の異母弟義良(のりよし)親王も遭難し、伊勢へ漂着したために、吉野へ帰って父の最期に立ち会う事となり、後村上天皇として即位する事になります。

 

さて、井伊城に入った宗良ですが、ここから彼の流転が始まります。

 

 興国元(1340)年に北朝方の仁木義長に攻められた事を契機に遠州を退去し、その翌年には越後国寺泊に姿を見せます。その間にブランクが生じるわけですが、この間の足跡については、駿河へ行き、狩野貞長の館に滞在して興良親王(護良の皇子)と対面した後、甲斐や信濃へ滞在したとも言われていますが、これの時期にも異説が有るそうで、ハッキリしたことは分からない

 

 そうです。越後滞在の後には越中名子の浦、信濃大河原と各地の鎮撫を図るべくあちこちを漂泊しています。

 

さて、正平六(1351)年、弟の足利直義と対立した尊氏は、窮余の一策として南朝と一時的に和議を結びます(正平の一統)。しかし、翌年に直義は兄に降伏した直後に没し(尊氏が毒殺した模様)、結局この南北の和睦はすぐに瓦解します。潤2月15日には上野で新田義貞の遺児の義興、義宗兄弟が挙兵し数日のうちに鎌倉を尊氏から奪います。宗良親王も信濃の諏訪氏などを従えて碓氷峠へ進軍、鎌倉を占拠しました。なおこの直前の潤27日に宗良は征夷大将軍に就任しています。

 

 しかし、これも長くは続かず、尊氏の反撃に合い、義興らが敗れたため、結局鎌倉を放棄して義興、宗良らは撤退。宗良親王は越後から信濃へと移ります。それからかなりの期間信濃にいたようで、どうやら宗良親王の拠点となっていたようです。そして文中三(1374)年、36年ぶりに吉野へ帰ります。

 

これ以前、弟後村上天皇から「吉野へ帰ってきて欲しい」という旨の歌を送られていましたが、その弟も既になく、また、北畠親房や四条隆資、洞院実世など馴染みの顔もすでにありませんでした。

 

 吉野滞在の間、宗良親王は南朝に使えた歌人たちの和歌集を編纂するほか、歌合なども行われるなど歌人としての活動が目立ちました。しかし、南朝の情勢が好転しない中再び信濃へと向かいました。

 

この時すでに60歳をゆうに過ぎています(この最中再び出家)。信濃に赴いた後も和歌集の編纂は継続され、弘和元(1381)年10月には長慶天皇(後村上の子)から勅撰和歌集として認められ、12月に天皇に奏覧されました。これが世に言う『新葉和歌集』です。

 

しかし、これが明確な宗良親王の最後の活動となりました。これ以後は彼の足跡は定かではなく、どこで亡くなったのかすら分かっていません。『南山巡狩録』『南朝紹運録』には元中2(1385)年、遠江井伊城で没したと記されていますが確証はありません。他にも河内説、信濃説、越後説など諸説ありますが、現在では「三宝院文書」より信濃大川原で亡くなったとする説が有力となっています。

 

また、元中6年の花山院長親の歌集の記述にすでに宗良が亡くなったことを記しているので、138112月~1389年の間に宗良親王は亡くなったと思われます。

 

 墓所は遠州引佐郡に残っています。

 

なんというか、まさに流転の生涯です。後醍醐天皇の皇子はみなそれぞれ波乱に満ちた生涯を送っています。

 

しかし、壮年期以降の動向を見ていると、本来の文人的な性格を持ちつつも元弘の変時に「剃泣」したような文弱さというか、女々しさを感じさせません。それだけ彼が厳しい人生を歩んできたということでしょうか。残っている和歌も、流罪となった際のものは不安さがつたわってくる感じのものですが、

 

 後に後村上天皇や、九州の弟宮・懐良親王と交した和歌も見ると、不利な中でも何とか弟たちを奮起させ、励まそうとしている心情がつたわってきます。

 

ふるさとと なりにし山は 井でぬれど 親の守りは なおもあるらむ

(後村上天皇が吉野を逃れた時に詠みかわしたもの)

 

とにかくに 道ある君が 御世ならば ことしげくとも 誰かまどわむ

(九州を転戦する懐良親王に詠んだもの)

谷口雅春先生の御著書を多くの人が纏めたことがないのが冊数がわからない要因です。

先日、このブログで「護法の天使」様に偉そうに言いましたが、実はこのブログを見て居られる人はよく御存知であると思って書いております。実はそれだけのことが云えるのは、或る程度当方で纏めているからであります。基準を決めて、これを挿入すれば全体から何冊になりますとはっきりと言えるからです。ただ残念ながら私は全冊の所持はしていません、全体的には8590%程度は「谷口雅春先生」の御著書は所持しています。所持していないものを色々なネットワ-クを通じて発見し、それを『谷口雅春先生著作年譜一覧表』というタイトルで初版と増補改訂版の二回出版して発表しています。

 

以前にも、大見得をきって謂われている人がいました「私は全冊近く所持しているんだ」と、自慢気に多くの人の前で発言されておりましたが、私の著作集をみて愕然とされたことがあります。その人は最終的には30%も所持されていなかったのであります。こんなに戦時版や廉価版などがあると思っていなかった。『生命の實相』もこれほどあるのか。

そういうことが何故おこるのかといいますと、その原因は著作集として纏めておられなかったのが要因であります。

 

戦前の『新百事如意』でもそうですが、下記のように同年代でしかも二冊は同日付があるのですから、一冊あるからもう大丈夫とおもっておられる人も多い。

 

『新百事如意』(神と偕に生くる道の改題)初版 昭和13920日ハ―ドカバ―

『新百事如意』(神と偕に生くる道の改題)普及廉価版昭和13920日ソフトカバ―

『新百事如意』(神と偕に生くる道の改題)改装版 昭和131205日ハ―ドカバ―

 

例えば、「大本」での小冊子など、所持している人は見かけたことがありません。立教当時の小冊子も結構揃って所持されている人も少ないです。「生長の家出版部」「光明思想普及會」と小冊子があるのですが、私もこの部分が不明な所が多く有り、昭和6年~8年「生長の家出版部」の時代には5冊程出版されているのですが、私は一冊しか所持していないのです。初版の『神を審判く』など関東大震災でほとんどが消失しています。私が現存するのを知っているのはたった三冊です。滿洲版でも所持されている人が少ないのが現状であります。また京都教化部発行の『聖經』も私は再版ですが、その初版を所持している人は一人しかしりません。

 

そう考えると、全冊を蔵書としてあるのだと云うことを発言する人がいるのですが、大抵はこの『谷口雅春先生著作年譜一覧表』を見て愕然とされるのであります。言っていた人が恥ずかしくなり、それ以上言わなくなりました。それは「谷口雅春先生」の御著書がどれだけあるのか調べたことがないからなんです。私は『生命の實相』と戦前と戦後を『年代別』で纏めています。著作は大本時代から書いております。戦後の萬成書房の発行など、多くの人が知らない本などを記載してほぼ95%は間違いなく記載しています。実は本の冊数もわかるのですが、どのようなカウントをすればいいのかということだけなんです。改訂版を数えるかとか、同じ本でもタイトルが異なるとか、いろいろとあるのです。また、この本は谷口雅春先生が著述された本だけども、違う人の名前が記入されているとか、世界光明思想全集を谷口清超先生の記述をどうするかということも含めてちゃんと考えなければいけません。

 

それと最近二カ月で発見した谷口雅春先生の御著書が二冊あります。こんな御本があるとは知らなかった。それは二冊とも小冊子なんです。前述したように今後さらに小冊子は新たに見つかると思っています。

 

それと、私は谷口雅春先生がそうであったように、このような資料本部でもマル秘となっており、誰も見せないとかで、なかなかその資料を手に入れることが難しい。私も或る人から本部のマル秘資料を戴きました。「生長の家」も今の組織とかになるとこれを見せないで隠してしまうのです。私はマル秘にして誰にも見せないぞというのが大嫌いですから、「谷口雅春先生著作索引集」などはメ-ルを教えて戴ければ添付して送信します。『年代別』でもメ-ルにて送付させて戴きます。ただし、この『著作集』以外に所持されているのがあれば教えて欲しいというのが条件です。なければ、「ない」とおしゃって欲しい、それが条件です。

秘められた『古事記』の預言

この度、ときみつる會から下記の書物が発行されました。少し前から発行されたのは存じ上げていたのですが、電話番号が不明で見つかれば依頼しようと思っていました。ようやく先日電話して、本日自宅に届きました。

 

 早速、全体を目を通して要点を讀むと、大変読みやすく『古事記と現代の預言』の解釋を上手く纏められています。『古事記と現代の預言』を讀まれた人もまた絶版になっているので、讀んだことがないという人も是非讀んで欲しい。

 電話で宣伝しても宜しいでしょうかとお尋ねして、承認を得て爰に推奨させていただきます。下記にお問い合わせください。

 ときみつる會

 〒780-0062 高知県高知市新本町1-13-3

  電話  088-872-7133

  FAX 088-803-8662

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秘められた『古事記』の預言―谷口雅春師のご解釈を仰いで 

 宮澤壽美著 

発行所 ときみつる會

発行日 令和三年二月一日

目次

はじめに/2

第一章  日本民族の直感把握

第二章  実相宇宙の特徴は

第三章  伊邪那岐・伊邪那美二神の使命とは

第四章  現代と未来の預言

第五章  霊的文化と物質文明

第六章  コトバによる宇宙浄化

第七章  三貴神のご誕生

第八章  「受霊」にて清明心を問う

第九章  地球霊の追放と八岐大蛇

第十章  国際情勢の預言

第十一章 日本国の建国、成る

おわりに

日本のうた

どうすれば多くの人に谷口雅春先生の御本を見ていただけるのでしょうか?

私も含めて自重しなければならないことは、いくら「谷口雅春先生」の御著書を所持しているからといっても、それを何もしないで放置しているのは良くない。どうにかして、一般の人でも近くにいて見れるようにしなければならない。私はいつも思うのであるが、この時間だったら見せてあげるから来いというような高慢な考えが何処かにその人の頭のなかに潜んでいたら、それは間違いである。「社会事業団」だけではない、「学ぶ会」でもそうである。それを谷口雅春先生から預かっているという思いを持たなければならない。谷口雅春先生の御本を隠し持っていることをとても残念だと思われています。私も最終的には「国会図書館」に献本をするのだが、そうしなければ、何処かの団体で埋もれてしまう。最早谷口雅春先生の御本が世に出ることは無いとまで思っています。

 

大袈裟でもありません。実際、今日も出ていないではありませんか。復刻版もないではありませんか、教団の責任だけではない。私達一人一人の責任もあります。「聖典」と呼ばれるのは蒐集家の満足のものでしかない。ヤフオクなどで高値にて売買される。高額で当選した人がそれを紹介して発表などしたと云う話を聞いたことがない。ましてや、その眞理がその時代にどうして発表されたのかを検証した人などいない。そんな馬鹿な事があってたまりません。私もブログで書いてはいるものの、見ている人が少ない。

 

それと普通の人ならば、私の家に来いといっても、遠くて行けないと考えます。それをどうして「社会事業団」などは考えないのでしょうか?この時間に来いと書かれても、平日など行きようがない。相談にのると書いているが、行っても私は断られた。そんな薄情なことをしておいて、その言葉はおかしい。今はインタ-ネットの時代である。それをどうして利用しないのか不思議である。

 

以前に一燈園の香倉院にお邪魔させていただいたが、当日あいにく休館日であった。だが、別の係りの人が当直でおり、その係りの人は「遠くから来て頂いて、そのまま帰すのは申し訳ない」と云って、その館内や資料を見せて戴いた。

大変感激したのを憶えている。私はその謙虚さに申し訳なさに大変恐縮した。「生長の家」の人の幹部と云われる人の一部にはそういう観念がないのが残念である。

 

護法の天使さんが書いていた

谷口雅春先生の図書資料については現在国立国会図書館の収蔵数を超える保存数の専門図書館となっています。

 

私はその「谷口雅春先生」著作の国会図書館所有の所蔵数はとっくの昔に凌駕している。そんなのではない、あまりにも国会図書館の所蔵が少ないのに驚いたのである。昨年何冊かは献本した。それでも少ない。だが、私が全ての本を献本すればどうであろうかと考える。何れはまとめて、献本して国会図書館で所有となる。そのほうがはるかに人類光明化が出来る。そうであるならば地方からも見れます。遠くに行かなくても見れるのです。また今後の保存についても考えなければいけません。ちょうど国会図書館での保存法に参考にされたらいいと思いますが、ただ高額な出費が必要です。

国立国会図書館と資料保存 (ndl.go.jp)

心が痛む

NTTの澤田純氏は私の中学校の後輩にあたる。京都の桂高校に行くのだが、元々吹田市の出身である。

 当時の先生が澤田君のことを誇りに思っていた、それを穢さぬようにして欲しい。また先輩に吉野彰ノーベル科學賞の受賞者もいる。国会招致するとかなると心が痛む、悪いことしていないにせよ、疑惑をもたれるようなことを避けて欲しい。

 

 以前にも書いたが、私の中学の同級生には優秀な人材がいる。セコムの会長の中山君、直木賞作家の林みどり(高村薫)、正露丸の社長の息子、元筑波大学博士であった本澤巳代子、本澤さんは中学三年生では同じクラスであった。彼女の経歴みれば優秀な人であることがわかる。その他、同志社大学の教授等優秀な人材が多い。

 私は経歴こそ何もないが、谷口雅春先生の「真理の寶」を包容している。それを胸に仕舞いこまないで今後放出していくようにしていきたい。それも自分では立派な仕事だと思っている。

全冊を網羅して数字を書けないのは何故?

「谷口雅春先生に帰りましょう」のブログで護法の天使樣が下記のように書いている。

 

【尊師谷口雅春先生のすべての図書資料を後世に継承するため、全国各地また海外も含め、多くの方のご協力により谷口雅春先生の御生涯にわたる全一千点以上の御著書(聖典)のほぼ全冊を網羅しており、雑誌(神誌)についてもその殆どを保存しています。】

 

此処でいう、「一千点以上」とはどのようにカウントして書いているのであろうか?

  或る本には500冊と書いていたり、700冊と書いていたり、ある時は数字がいえないものだから「夥しい数」とはっきりと書いていない。ただ、天の邪鬼の私は「ほぼ全冊を網羅」しているんだったら、数字ははっきりと書けるのではないかと意地悪で思ってしまう。

 

申し上げればこの文章を書かれた「護法天使」樣もたぶん数えた事がない。誰か先輩がそのように発言したものだから、それが正しいと思って書いたのであろう。

 

でも、本当に「谷口雅春先生」に対してこういう書き方は大変失礼にあたるのである。何故分からないのに曖昧で冊数を書くのであるかということです。しかも「全冊を網羅」していると書くのであろうか。

私でも失礼ながら全著作の95%しか把握していない。あとの5%が今後の課題であると思っている。そういう時にこそ協力して、助け合いして、互助しながら進めるものです。資料提供は惜しまないのである。

 

それならば、どのようにして書けばいいかというと、私ならば

『生命の實相』は其々を一冊とカウントします。改訂版も一冊とします。また復刻版もカウントします。

パンフレットも一冊とします。黑布表紙版において『章立て』が変更されているものもカウントに入れます。そういうお膳立てをして、合算して数字を書くのです。ただ、他の雑誌や本などに御寄稿された文章は含みません。

 

随分(二十年)前の話だが、私が数えた時には1170冊はあった。それから新たな発見も多く有る。カウントが増えている。森田先生は谷口雅春先生の著作でわからない時は電話を頂戴したことがある。阪田先生でもそうである。「谷口雅春先生の御著書については一番詳しいから教えて欲しい」そういう電話が二回あった。私はそういうことを是非教えたいのであるが、社会事業団は聞いては来ない。阪田先生より偉いんだと思ってしまう。

淸寧天皇 磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや)跡

https://www.google.co.jp/maps/place/%E5%BE%A1%E5%8E%A8%E5%AD%90%E7%A5%9E%E7%A4%BE/@34.5005704,135.8242841,17.5z/data=!4m8!1m2!10m1!1e2!3m4!1s0x6006cca6363a21ff:0xb6137a8862115fa9!8m2!3d34.5010992!4d135.8252017?authuser=0

御厨子神社(みずし)

祭神

根裂神、安産靈神 合祀 應神天皇

由緒

 

 元水尻神社。安産靈神とは火産靈神の誤記かも。

 御厨子山妙法寺の鎮守であった八幡神社を合祀している。

 水尻は磐余池の樋口(水司)かと、『神社寺院大事典』は書いている。また北に膳夫村があり、御厨子所(内膳司)との関係も指摘している。

 境内は淸寧天皇磐余甕栗宮(いわれのみかくりのみや)跡の伝承地

磐余(いわれ)というのは神武天皇を『日本書紀』での名は神日本磐余彦天皇(かむやまといわれびこ)といいますが、その磐余であります。

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御祭神 
【主 神】石析神(いわさくのかみ)
月の輪石

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宮都がこの付近にいくつか点在します。西側は池が多く有り、藤原京になるとかなり標高も低かった。この場所は高台になっており、天の香久山から連なる北側となります。

『大航海時代の日本人の奴隷』

歴史というのは単純ではない。そんな事、貴方に言われなくても解ると、よく歴史を知っている人に御叱りを受けそうですが

最近では江戸時代においての「鎖国」政策というのはなかったというのが、ほぼ定説になっている。私もそれが正しいと思う。

私は今、二冊の本を読んでいる。ひとつは

『大航海時代にわが国が西洋の植民地にならなかったのはなぜか』

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一つは

『大航海時代の日本人の奴隷』

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以前に

『バテレンの世紀』渡辺京二著

を讀んでから、日本における伴天連というのは何か、それにより何をもたらしたのかである。鎖国という教科書で習ったが、貿易は繁栄をきわめているではないか?

 

「日本人奴隷は神の恩寵」という言葉が秀吉の逆鱗に触れたイエズス会である。

日本人の奴隷は何人いたのかははっきりとは現在ではわからない。だが、黒人と違ってその当時は日本人が奴隷として重宝されたのは事実である。とりわけ、女性は優先されたのである。どれぐらいの人数だったのかわからないが、50万人ともいう人もいる。

欧州に連れて行かれて過酷な生活を余儀なくされたのであろう。

 

   それを見て伴天連の行動に反対したのは秀吉であった。

宣教師という名のもとに着々と侵略を進めていたという事実もある。長崎県の平戸に行けば、キリスト教会が残り、文化遺産とする声もあるが、宣教師による今までの仏教寺院は徹底的に破壊され、その地方では1500年以前の貴重な文化遺産も破壊されたのは間違いない。仏像という偶像崇拝を徹底的に嫌った伴天連や洗礼を受けた日本人がキリスト教に洗脳された人々によって破壊されたためほとんど残っていない。

そう考えると果たして文化遺産としてどうなのかと考えてしまう。

 

 当初、アフリカがヨーロッパに近かったという理由から、日本人は奴隷になるという被害を免れていた。しかし、その魔の手は着々と伸びていたのである。

 

 この問題に関しては、岡本良知氏の名著『十六世紀日欧交通史の研究』に詳しいので、以下、同書により考えてみたい。

 

 日本でイエズス会が布教以後、すでにポルトガル商人による日本人奴隷の売買が問題となっていた。1570年3月12日、イエズス会の要請を受けたポルトガル国王は、日本人奴隷の取引禁止令を発布した。その骨子は、次のとおりである。

 

(1)ポルトガル人は日本人を捕らえたり、買ったりしてはならない。

(2)買い取った日本人奴隷を解放すること。

(3)禁止令に違反した場合は、全財産を没収する。

 

 当時、ポルトガルは、マラッカやインドのゴアなどに多くの植民地を有していた。まさしく大航海時代の賜物であった。

 

■無視された命令

 安価な労働力を海外に求めたのは、先にアフリカの例で見たとおりである。ところが、この命令はことごとく無視された。その理由は、おおむね2つに集約することができよう。

 

 1つ目の理由は、日本人奴隷のほとんどが、ポルトガルではなくアジアの諸国のポルトガル植民地で使役させられていたという事実である。

 

 植民地では手足となる、労働に従事する奴隷が必要であり、それを日本から調達していたのであった。理由は、安価だからであった。植民地に住むポルトガルの人々は、人界の法則、正義、神の掟にも違反しないと主張し、王の命令を無視したのである。

 

 もう1つの理由は、イエズス会とポルトガル商人に関わるものであるが、こちらは機会を改めて論じることにしよう。

 

 歴史というのは、そんなに単純なものではない、士農工商という身分制度は幕末ではほぼ解体していた。以前に寛政時代の土地売買の念書のようなものを古本屋の人にみせてもらった。士農工商より更に厳しいのが、切支丹である。はっきりと和紙に「切支丹」と書いている、親族が同等の罪となるので大変厳しかった。それが身分の一番低かったのも何となく頷ける。

「正義の味方」という中毒で相手を傷つける

 他のブログを見ていて、色々と批評や批判を今回の緊急事態宣言延長であるが、自分に責任を被らない人間は自由な発言で相手を「徹底的に叩きのめす」ことをしなければならない、そうすることで自分に満足感にしたるのである。何かに「難癖」をつける。反対に職を辞さなければ、執拗に「難癖」をつけるのである。自分が正義であるから、私の方針に従わない人間は「受け入れられない」という体質にいつから日本人はなったのであろうか。相手を徹底的に潰し「謝るまで」赦さない。「辞表」するまで赦さない。その人の人間性までズタズタにして、自分に從わない人間は「馬鹿」であり、最低の人間となる。

 そうした行為して“ほくそ笑む”“満悦な表情”となるのである。そんな人間が果して正義なのかである。しかし、自己がそんなこと行えば、きっと自分にその反動として返ってくるのは自明の理である。心の法則で云えばその反動として返ってくるのである。そういう人はそうした「心の法則」を学ばなければならない。

 

 少し話は変わるが、私は昨年の九月末に「帯状疱疹」という病状になった。それはほぼ完治したのであるが、不思議なことにその治ったはずの「ウィルス」が少し悪戯をすることがある。「エ!そんなのわかるはずがないよ」と反論されるが、そこは人体の不思議というべきものである。何かのはずみで「帯状疱疹」の箇所(胸や背中)に「チクリ」と軽い痛みがはしる。帯状疱疹の発状と同じである、それが「ウィルス」が表面に出て来て人間の身体に何らかの発信をしているのである。それがわかるのが不思議である。それは「心の法則」でも同様で「人を貶める」感情は体内に「毒液」として必ず残るのである。

 

戦前・戦中は鬼畜米英で敗戦となると「親米」となり、日本は「悪い国」となる。そんなスタンスがおかしいと思わないのかである。

 

今回、戦後の「プランゲ文庫」の260巻のフィルムを見終わり内心ホッとしている。それでも、まだ「プランゲ文庫」の調査は終了していないのです。以前に書いたが約半年はかかるのです。最近は仕事をしながらですので、時間がとれないことが多い。ただ、それを理由に出来ないということはありません。

あまりにも莫大な調査なんですが、『生命の實相』黑布表紙版の戦前の調査も約4ケ月の時間を費やしました。それでもまだ、完成したとは思っていません。それは何が完成していないかというと、『生命の實相』黑布表紙版の昭和18年頃の重版があるのですが、見つけ切らないということです。谷口雅春先生の愛国書についても費やした日数は約1カ月半でした、これも多くの人の協力を得て完遂しました。

 

 下記は「産経抄」の36日である、抜粋しますので、是非読んで下さい。「汝等の中、罪なき者まづ石を擲て」であるが、みんな自分は「罪がない」と思っているのであろうか、「悔恨」するものが何もない「純粋な人間」であると勘違いしているのであろうか、私はそんな「人をあまりにも責め立てる」精神が「悪の連鎖」のように中毒のように世に蔓延るのがオカシイと思う。それならば宗教もいらない。

 

幼い頃から、なぜか強者や正義の味方に反発を覚えていた。少年時代に熱中した仮面ライダーでは怪人を、ウルトラマンでは怪獣を応援した。悪役にだってそう生きざるを得なかった理由や、言い分はあるだろうにと。子供心に、正義一色で染められた世界は気味が悪かったのだろう。

 

 ▼元首相は女性発言で東京五輪・パラリンピック組織委員会会長を辞め、前内閣広報官は接待問題で辞任を要求され、今度は五輪相が選択的夫婦別姓に反対していたのは担当相として不適格だと追及されている。「正義」は際限なく生贄(いけにえ)対象を欲し、たたきのめす。

 

 ▼「茶の間の正義」。コラムニストの山本夏彦は、テレビがとめどなく発信し、過激化していくうさんくさい正義をこう呼んだ。それから半世紀がたち、茶の間の正義はさらに蔓延(まんえん)し、日本社会を覆っている。異を唱える者は邪悪と認定されてしまう。

 

 ▼世の中が正邪・善悪の二元論で成り立つような単純なものではないことは、誰しも分かっているはずである。もちろん反省すべきは反省し、正すべきは正していく必要はあるが、特定個人を断罪し、攻撃し続けても息苦しい社会を生むだけだろう。

 

 ▼こんな嫌な風潮が広がるのはなぜか。脳科学者、中野信子さんのベストセラー『正義中毒 人は、なぜ他人を許せないのか』によると、他人に「正義の制裁」を加えると、脳の快楽中枢が刺激され、快楽物質が放出されるからだという。中野さんは、正義に溺れてしまった状態を正義中毒と名付けた。

 

 ▼脳の仕組みがそうできている以上、誰もが正義中毒に陥る危険性はある。国会でも、自身は絶対に正しいと陶酔し、一方的に相手を責め立てる質問者を見受ける。抄子もそうならぬよう気をつけたい。

今年は聖徳太子没後1400年

太子道について

 

先日のブログにおいて耳梨行宮(みみなしかりのみや)について書きました。その中で「太子道」について周の部分を記載しましたが、際は「斑鳩から飛鳥」までの道です。「聖太子」にことを知りたくて、「上之太子」「中之太子」「下之太子」と「四天王寺」「法隆寺」と「叡福寺」や「法隆寺夢殿」「斑鳩寺」と見てました。は不思議なことが、私事で大恐縮ですが父方が法隆寺から直ぐ近くの龍田に本家があります。聖太子ゆかりの地です。また、母方は兵庫県の路の西側に太子町という所がありますが、そこが母方の本家です。周は聖太子ゆかりの地として「斑鳩寺」があり、家系では明治初めには遠い親戚だということが以前、疑問でしたが偶然にある親戚の名前を言したことを太子町の役場が懇切丁寧に調べて戴き、籍等を通じて遠い親戚だと云うことがわかりました。ただ明治時代の初期ですので、何故親戚なのかまでは判明しませんでした。

 

 播磨から奈良斑鳩の里までの交通手段は大和川を下って、大阪に出るのか、それともで奈良街道(龍田道)から龍田越え道(https://4travel.jp/travelogue/11507913)で河の國へのル-トではないかと推測できます。

それらを含めて私の家系は「聖太子」に何らかの係があるのかと「勝手に」思っています。大阪には「聖太子ゆかりの地」があります。先ほどの下之太子は大阪の八尾という所に在ります。太子堂という名前でよばれ、地名があります。ジャンジャンの南側に太子という交差点に太子という町名、大阪市旭には太子橋今市の太子は聖太子のことでゆかりの地である。

 

 法然が憧れた「聖太子」、親鸞もそうである。六角堂に参篭した際の救世音菩薩の夢告などを通して、自分の進むべき道を問い、尋ね、確かめていった。「弘法大使」もそうであった。良忍上人もそうであった。

 

Microsoft Word - 04_110426マップ(太子道) 修正.doc (pref.nara.jp)

 

 今年は聖太子1400年となる。4月3日というちょうど「神武天皇祭」と同日である。神武天皇2605年になる今年。聖太子は飛鳥時代の622222日に亡くなったとされる。1400年目の今回は、旧暦222日が43日にあたることから法隆寺で法要の日程を決めたという。同じ日程だと知らなかった、何か因があるのか?

コロナ感染

コロナウィルス感染情報というのが各都道府県や市町村で人数が発表されます。今はどこの病院や職場や学校等で発生したというような情報は入ってきません。それが悪いとかそんな文句を付ける必要もありませんし、私もそんなことを発表する気持ちもありません。

非常事態宣言解除で大阪も気持ちも緩んでいるのかしれませんが、病院名は云えませんがクラスタ-が発生した。病院程衛生やそうした対策を施しているのにも拘わらず、どうしてもすり抜けて侵入してしまう。病院入室の場合は体温検査など厳密にやっております。他の人の御見舞とかとは現在では出来ませんので患者が入室してマスク着用を行っているのだが、どこかの隙間で職員に感染してしまう。患者ですが、様々の人が出入りします。元気な人もいますが、重篤な患者もいます。ここで職員というのは看護師である。責任の重い仕事にも拘わらず、患者の不注意で感染してしまうのだから、気の毒である。私もそうした人との接触もありますが、個人的にも衛生面やマスク着用、体温の検査など日々行っています。油断せずに仕事をしていきたい。

 

毎日の体温検査は一秒検温器を購入してそれで行っています。それと毎日、二万歩を目指して、歩いたり走ったりして健康維持もしています。トレッキングも出来る限りするようにしています。

 

それとワクチン接種が遅れています。今週に予定していたのが、ワクチンが来ないということで延期になっています。

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