則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2020年11月

讀んで戴ければ幸甚です。

戦前『生命の實相』以外の検閲著作

戦前の『生命の實相』以外の検閲著作

世血の書    昭和15220

建言(はしがき)

目次

序曲 人間創造/3-10

第一篇 血ぬる隨筆/11152

第一章 宗敎と宣撫工作/13

第二章 夫婦の調和/19

第三章 私の養成したい人間/22

第四章 約生活の反省/25

第五章 よろこぶ生活/29

第六章 演劇映畫國策/32

第七章 思想の實踐/43

第八章 近滅資料/47

第九章 敎育と健康/58

第十章 自由と統制と總親和/63

第十一章 生産力擴充と勞働時間問題/67

第十二章 國民精神總動員とは何を動員するのか/75

第十三章 人生二倍の活用法/83

第十四章 精動を物動に終らしむる勿れ/90

第十五章 制度の心理的技術/96

第十六章 銃後の力/106

第十七章 人生とラ行活用/110

第十八章 女性福問答/113

第十九章 手の筋と運勢/118

第二十章 把住と放行/124

第二十一章 菩薩悲願のあらはれ/127

第二十二章 戀愛と日本精神/130

第二十三章 隨感斷想/133

第二篇 世直言/153324

第一章 入學志望の革命的直言/155

第二章 國民學校案に就いて/176

第三章 文學の革命/193

第四章 結核の制診斷/206

第五章 人間かくの如く死ね/227

第六章 よろこび伸びる力/262

第七章 戰爭と經濟/298

第三篇 人生助言/325451

第一章 不良學生を導くには/327

第二章 學校教師の暗鬪を解決する道/333

第三章 生命力の神祕性に就いて/355

第四章 深刻なる母親の惱み/378

第五章 明眸は何故起るか?/385

第六章 唯物的生理學敎授の弊害を痛論す/399

第七章 潛在意識の力・子供の成績を良くするには/411

第八章 非常時の藝術鑑賞に就いて/420

第九章 戰時に於ける勞働行政に就いて/427

第十章 神經衰弱で自信なき敎育者を如何にして救ふか/435

第十一章 日本榮養學の樹立に就いて/442

 

世血の書 日本新體制版 昭和15920

目次

建言(はしがき)

第一篇 血ぬる隨筆/11152

第一章 宗敎と宣撫工作/13

第二章 夫婦の調和/19

第三章 私の養成したい人間/22

第四章 約生活の反省/25

第五章 よろこぶ生活/29

第六章 演劇映畫國策/32

第七章 思想の實踐/43

第八章 近滅資料/47

第九章 敎育と健康/58

第十章 自由と統制と總親和/63

第十一章 生産力擴充と勞働時間問題/67

第十二章 國民精神總動員とは何を動員するのか/75

第十三章 人生二倍の活用法/83

第十四章 精動を物動に終らしむる勿れ/90

第十五章 制度の心理的技術/96

第十六章 銃後の力/106

第十七章 人生とラ行活用/110

第十八章 女性福問答/113

第十九章 手の筋と運勢/118

第二十章 把住と放行/124

第二十一章 菩薩悲願のあらはれ/127

第二十二章 戀愛と日本精神/130

第二十三章 隨感斷想/133

第二篇 世直言/153324

第一章 入學志望の革命的直言/155

第二章 國民學校案に就いて/176

第三章 文學の革命/193

第四章 結核の制診斷/206

第五章 人間かくの如く死ね/227

第六章 よろこび伸びる力/262

第七章 戰爭と經濟/298

第三篇 新生への道/325372

最初の「第三篇 人生助言」との差換えへS15.3.2講演速記

 

※「第三篇 人生助言」の差換えはその大本である『人生助言』の章の変更となっています。

 

人生助言    昭和1731

序  陸軍主計中將 辻村楠造

『人生助言』目次

第一篇 父毋と子をめぐる問題/1214

問一 不勉の子供を導くには/3

問二 麻雀に凝る夫の外泊問題/14

問三 子供の入學試驗に直面して/43

問四 學業を捨てて放浪する子供の問題/48

問五 知性の勝つた反逆の子の導き方/55

問六 叔父に反抗する少年をどう指導するか/60

問七 果して讃めるばかりが好いか/66

問八 兒童に『休養』は必要か/74

問九 『妙子ちやん』事件に就いて/81

問十 恐迫觀念に惱む靑年に/86

問十一 三角關係をどう解決するか/90

問十二 子供を生みたいが生活不安/105

問十三 母性愛の淨化に就いて/113

問十四 良人の仕事に妻が反對する場合/120

問十五 吃音矯正の鍵は何處に/128

問十六 業の流轉より遁れるには/136

問十七 深刻なる人生苦を超克するには/150

問十八 間違の多い子供をどう導くか/168

問十九 授業時間中居眠する?/176

問二十 偏執症は如何にして?/182

問廿一 娘が神經衰弱で疲れ易い/195

問廿二 金を盜む不良兒を如何するか/202

問廿三 子供の言はどうして直すか/209

第二篇 對人關係をめぐる問題/215280

問一 子供を持つ女敎師の惱み/217

問二 生命保險は現下の社會に有用か否か/224

問三 對人關係の惱みを訴ふ/233

問四 高德者の臨終に就ての疑義/239

問五 眞理を種に金を借る人を如何にするか/247

問六 再婚の妻を持つ惱み/251

問七 闇を行ふ父を如何に諫止すべきか/258

問八 人を輕卒に批・推薦するな/268

問九 戀しい男性を自分に惹き着けたい/273

第三篇 靈と宗敎とをめぐる問題/281394

問一 種々なる靈的疑義を問ふ/283

問二 靈の諸問題に就きて/298

問三 靈に就ての疑義/310

問四 『生長の家』の神を觀世音菩薩とされる方に/319

問五 『法華經の發見』に就て/328

問六 『生活の悦びの手紙』中に於ける疑義を質す/334

問七 生長の家は神道か/344

問八 斑紋と脱毛とに就て/349

問九 反國體小乘佛敎を揚棄して生長の家大乘佛敎に轉向せよ/353

問十 佛敎より生長の家への疑義/365

問十一 生長の家の根本目的その他/370

問十二 生命發生の原理に就て/377

問十三 出生の原理と人生價値に就て/384

第四篇 國と敎學をめぐる問題/395532

問一 獨逸必勝の原理は何か/397

問二 時局と榮養問題/401

問三 日本的科學と云ふが科學に國境ありや/405

問四 靖國神社祭の意義に就て/408

問五 逆臣は靈界でどうなる?/416

問六 忌中に神社參拜を嫌ふ理由/421

問七 今後の日本學的大乘『實』佛敎を示せ/427

問八 英語使用の可否及びレヴユーの價値に就て/437

問九 生長の家は日本の爲か世界の爲か/446

問十 人間は皆『現人神』なりや/451

問十一 禊は日本人の健康法か/455

問十二 信ずることが實相と考へてよいか/460

問十三 宗教家は經濟界とは分野が異ふか/466

問十四 『戰死』も心の現れなりや/487

問十五 悟りにて治病は可能か/492

問十六 治病原理の一々に就て/501

問十七 治病の實績に就ての疑義/508

問十八 赤面恐怖及び諸他迫觀念に就ての疑問/515

問十九 戰歿せる兄の妻との結婚に關して/526

 

人生助言 再版発行    昭和17115

※アンダ-ライン部が異なるのと一部削除

序  陸軍主計中將 辻村楠造

『人生助言』目次

第一篇 父毋と子をめぐる問題/1214

問一 不勉の子供を導くには/3

問二 麻雀に凝る夫の外泊問題/14

問三 子供の入學試驗に直面して/43

問四 學業を捨てて放浪する子供の問題/48

問五 知性の勝つた反逆の子の導き方/55

問六 叔父に反抗する少年をどう指導するか/60

問七 果して讃めるばかりが好いか/66

問八 兒童に『休養』は必要か/74

問九 『妙子ちやん』事件に就いて/81

問十 恐迫觀念に惱む靑年に/86

問十一 三角關係をどう解決するか/90

問十二 子供を生みたいが生活不安/105

問十三 母性愛の淨化に就いて/113

問十四 良人の仕事に妻が反對する場合/120

問十五 吃音矯正の鍵は何處に/128

問十六 業の流轉より遁れるには/136

問十七 深刻なる人生苦を超克するには/150

問十八 間違の多い子供をどう導くか/168

問十九 授業時間中居眠する?/176

問二十 偏執症は如何にして?/182

問廿一 娘が神經衰弱で疲れ易い/195

問廿二 金を盜む不良兒を如何するか/202

問廿三 子供の言はどうして直すか/209

第二篇 對人關係をめぐる問題/215280

問一 子供を持つ女敎師の惱み/217

問二 生命保險は現下の社會に有用か否か/224

問三 對人關係の惱みを訴ふ/233

問四 高德者の臨終に就ての疑義/239

問五 眞理を種に金を借る人を如何にするか/247

問六 再婚の妻を持つ惱み/251

問七 闇を行ふ父を如何に諫止すべきか/258

問八 人を輕卒に批・推薦するな/268

問九 戀しい男性を自分に惹き着けたい/273

第三篇 靈と宗敎とをめぐる問題/281394

問一 種々なる靈的疑義を問ふ/283

問二 靈の諸問題に就きて/298

問三 靈に就ての疑義/310

問四 『生長の家』の神を觀世音菩薩とされる方に/319

問五 信ずることが實相と考へてよいか/328

問六 『生活の悦びの手紙』中に於ける疑義を質す/334

問七 逆臣は靈界でどうなる?/344

問八 斑紋と脱毛とに就て/349

問九 反國體小乘佛敎を揚棄して日本的純大乘佛敎に轉向せよ/353

問十 佛敎より生長の家への疑義/365

問十一 生長の家の根本目的その他/370

問十二 生命發生の原理に就て/377

問十三 出生の原理と人生價値に就て/384

第四篇 國と敎學をめぐる問題/395508

問一 獨逸必勝の原理は何か/397

問二 時局と榮養問題/401

問三 日本的科學と云ふが科學に國境ありや/405

問四 靖國神社祭の意義に就て/408

問五 悟りにて治病は可能か/416

問六 忌中に神社參拜を嫌ふ理由/421

問七 今後の日本學的大乘『實』佛敎を示せ/427

問八 英語使用の可否及びレヴユーの價値に就て/437

問九 生長の家は日本の爲か世界の爲か/446

問十 人間は皆「現人神」なりや/451

問十一 禊は日本人の健康法か/455

問十二 信ずることが實相と考へてよいか/460

問十三 宗教家は經濟界とは分野が異ふか/460

問十四 『戰死』も心の現れなりや/481

問十五 信仰の體驗に就ての疑義/486

問十六 赤面恐怖及び諸他迫觀念に就ての疑問/491

問十七 戰歿せる兄の妻との結婚に關して/502

楠 正行

楠正行(楠木)といえば「四條畷の戦い」や「四條畷神社」を思い出す。また、島本町にある「父子別れの像」は有名である。それ以外に吉野の「如意輪堂」を見に行ったことがある。

 

 今回、『産経新聞』に於いて「しじょうなわてと楠正行」の展示を行っているということで見に行った。今日が最後の日であったが、説明に約一時間、内容の濃い説明に驚いた。

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 楠正行の研究を行っている扇谷昭氏の説明である。本当に専門的でよく調べているなというのが感想でした。また、「嗚呼忠臣楠子之墓」の裏側にある文面ですが朱舜水の文ですが、その朱舜水が楠正行についても書いていることは知らなかった。
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ウィペキディア抜粋

楠木 正行(くすのきまさつら)は、南北朝時代、南朝の後村上天皇に仕えた武将。楠木氏棟梁。正成嫡男で、正時・正儀の兄。南朝左衛門尉・河内守・河内国守護・帯刀舎人。贈従二位。父の正成や末弟の正儀と並ぶ、南北朝期の代表的名将。「大楠公」正成に対し小楠公(しょうなんこう)と尊称される。

 

生年や幼少期の実態は不明だが、後村上天皇が即位した翌年の延元5/暦応3年(1340年)から史上に現れ、南朝の河内守・河内守護として河内国(大阪府東部)を統治した。河内守となって7年間は戦いを一切行わなかったが、これには、主戦派として幕府と十全に戦うために力を蓄えていたのだという『太平記』史観に基づく旧説と、本来は父の正成・末弟の正儀と同様に和平派であり幕府との戦いを好まなかったのではないかという岡野友彦の新説がある。いずれにせよ、興国5/康永3年(1344年)初頭、南朝の脳髄である公卿・歴史家北畠親房が、遠征先の東国から吉野行宮に帰還し、興国7/貞和2年(1346年)末までに和平派の首魁という説もある左大臣近衛経忠を失脚させて(藤氏一揆)、准大臣として南朝運営の実権を握ると、正行は、好むと好まざるとに関わらず、幕府との戦いの矢面に立つことになった。

 

正平2/貞和3810日(1347915日)、兵を起こした正行は、寡兵でもって北朝・室町幕府の勇将細川顕氏や山名時氏らの大軍を立て続けに破り、北朝から「不可思議の事なり」(「人智を超越した事象である」)と畏怖された。岡野によれば、親房が幕府の実質的指導者足利直義(将軍尊氏の弟)と執事高師直の不和を知っていた史証があることから、正行が寡兵にも関わらず挙兵したのは、幕府の内部瓦解を狙った親房の作戦だったのではないかという。また、藤田精一・生駒孝臣は、正行の戦闘経路が、元弘の乱(1331 - 1333年)での父のそれをほぼ踏襲していることを指摘する。藤田によれば、初陣での紀伊国(和歌山県)攻略は父と同様に兵站・情報網の要地を狙った戦略であるという。生駒は、正成の再来であるかのような正行の軍事行動は、北朝・幕府に恐れを抱かせたであろうと推測する。正行は同年内の戦いでは無敗であり、二度の大合戦から細々とした局地戦まで全てに完勝した。南朝の各地方の方面軍もまた、正行の中央での活躍に合わせて、味方への鼓舞と敵への調略を活発化させた。

 

しかし、正平3/貞和415日(134824日)、河内国讃良郡野崎(大阪府大東市野崎)から北四条(同市北条)で発生した四條畷の戦いにおいて、幕府の総力に近い兵を動員した高師直と戦い、一時は師直を本陣である野崎から後退させるなど優位に立つも、追った先の北四条で力尽き、弟の正時や従兄弟の和田新発を含めた26人の将校と共に戦死した。この戦いは、『太平記』では開戦前から討死を前提とした玉砕だったと物語られ、悲壮に描かれた。だが、『太平記』の玉砕説は複数の研究者から疑問視されており、特に生駒は、それまで不敗であることや、同族の武将の書簡などを見る限り、歴史上の正行はこの戦いでも勝利を確信して開戦したのではないかとしている。楠木兄弟の戦死と直後の吉野行宮陥落により、師直と直義との間の政治権力の均衡が崩れ、室町幕府最大の内部抗争である観応の擾乱(1350 - 1352年)が発生することになった。

 

史料に乏しく、軍事的能力を高く評価された武将という以外の歴史的人物像は不明瞭である。一方、軍記物語『太平記』(1370年頃完成)の「桜井の別れ」の物語や、川に溺れた敵兵の命を救ったという伝説などが広まったことで、後世には孝子・忠臣・博愛の鑑と見なされるようになった。救敵伝説は、日本赤十字社草創期に広報活動や教育の材料として用いられた。また、明治時代には明治天皇から追悼の勅語を受け、従二位を追贈されて、大阪府四條畷市の四條畷神社の主祭神となった。
MIDI・四条畷の戦 (syoutarou.com)


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masatsura_tusin_06.pdf (nawate-kyobun.jp)

『大楠公の歌全曲 ~青葉茂れる桜井の~』15番までー河内長野市出身ソプラノ歌手西尾薫が歌ってみたー - YouTube

小楠公
https://www.bing.com/videos/search?q=%e5%9b%9b%e6%9d%a1%e7%95%b7%e6%ad%8c%e8%a9%9e&ru=%2fvideos%2fsearch%3fq%3d%25e5%259b%259b%25e6%259d%25a1%25e7%2595%25b7%25e6%25ad%258c%25e8%25a9%259e%26qpvt%3d%25e5%259b%259b%25e6%259d%25a1%25e7%2595%25b7%25e6%25ad%258c%25e8%25a9%259e%26FORM%3dVDRE&qpvt=%e5%9b%9b%e6%9d%a1%e7%95%b7%e6%ad%8c%e8%a9%9e&view=detail&mid=68F7A2E73C10398C6DBB68F7A2E73C10398C6DBB&&FORM=VDRVRV

樹木の聲を聞いて欲しい「ナラ枯れ」問題

今の季節は山は赤く染まっているが、しかし中に入ると、そうでもないことがわかる。それは「ナラ枯れ」である。大きな樹木が倒木しているが、その原因が「ナラ枯れ」であることである。台風などで倒木するのは、杉などが多いが「楢」の樹木は大木になり大きく育つのであるが、それがカシノナガキクイムシに食いちぎられるのである。そうした被害を幾つもみられる。それが富士山においても深刻な問題となっている。

 カシノナガキクイムシ

カシノナガキクイムシ(写真提供:一般社団法人日本森林林業技術協会)

 

大木と考えれば永久に保存出来ればいいなと思うが、そういうわけにいかない。そうした大木を刈りとる人が少ない。樹木の中央に立ってそうした樹木の聲を聞いて欲しい。

奈良・中尾山古墳「文武天皇陵」の可能性“極めて高い”と判明 という報道に疑義

奈良・中尾山古墳「文武天皇陵」の可能性“極めて高い”と判明 『八角形』の特徴が


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 奈良県明日香村の中尾山古墳の発掘調査で、古墳の形が天皇の墓の特徴である八角形だとわかり、文武天皇陵の可能性が極めて高いことがわかりました。

 

 中尾山古墳は、40年以上前の調査で八角形である可能性が指摘されていましたが、全体像は明らかになっておらず、宮内庁は別の古墳を文武天皇陵としています。

 

 しかし、今回の明日香村と関西大学の発掘調査で、墳丘が飛鳥時代の天皇陵の特徴である八角形と明確になり、専門家によりますと、中尾山古墳が文武天皇の墓である可能性が極めて高くなったということです。

 

 (明日香村教育委員会文化財課 西光慎治調整員)

 

 「今回の調査で一定範囲が明らかになってきたと。世界遺産登録に向けて、足がかりとしていきたい。」

 

 明日香村では今後、中尾山古墳などの世界遺産登録を目指して、調査を続ける方針です。

 

文武天皇の墓」確定的に…奈良・中尾山古墳で高級石材磨いた石室確認

中尾山古墳の石室内部。壁には磨き上げた竜山石が使われ、赤色の顔料も塗られていた(奈良県明日香村で)=近藤誠撮影

 日本初の本格的法律「大宝律令」を制定した文武もんむ天皇の墓との説がある奈良県明日香村の八角墳・中尾山なかおやま古墳(8世紀初め)について、村教育委員会と関西大は26日、墳丘やその周囲が大量の石で覆われ、高級石材を磨き上げた石室が備わっていたと発表した。宮内庁は別の古墳を文武天皇の墓に指定しているが、八角墳は天皇陵の特徴で、荘厳な造りは被葬者の権威の高さを示しており、「真の文武天皇陵」であることが確定的となった。

 

 

 同古墳は1974年にも発掘され、八角墳であることを国内で初確認。骨つぼを納めたとみられる石室(約90センチ四方)も見つかった。飛鳥の地で火葬されたとの「続日本紀しょくにほんぎ」の記述と合致するため文武天皇陵との見方が強まったが、墳丘の詳細な構造や石室の材質などで不明点があった。

 

 今回の発掘調査では、3段に築かれた墳丘(高さ約5メートル)のうち、最上段の一部を除いて大小無数の石で固められていたことが判明。周囲の地面にも3重に石が敷き詰められていた。

 

 石室の側壁などには、約100キロ西の兵庫県高砂市でとれ、「大王の石」の異名を持つ「竜山石たつやまいし」が使われていた。表面は徹底的に磨かれ、赤色の顔料が塗られた跡があり、照明を当てると光り輝いたという。

 

 村教委は総量約560トンの石が古墳に使われ、延べ約2万人が築造に動員されたと推計。「被葬者の権力の大きさを示す」との見解を示す。

 

今回の調査によって中尾山古墳は3段築成で、1、2段目が基壇状、その上に3段目が高く立ち上がる構造と判明。墳丘本体とその周辺には推定約480トンという大量の川原石を敷き、きれいに装飾されていた。

 

 墳丘の高さは5メートル以上、幅は32・5メートル以上。竜山石製の沓形(くつがた)石造物と呼ばれる特殊な形の石も出土し、墳頂部に複数個、のせられていたとみられる。

 

 同じ八角墳の天武・持統天皇陵や斉明天皇の墓とされる牽牛子塚(けんごしづか)古墳(いずれも同村)は切石で装飾されており、それに比べるとやや質素だが、白く輝く姿は天皇陵の威厳を保っていたとみられる。

 

 「死後まで政治」込められた思い

 

 藤原宮跡(奈良県橿原市)の発掘調査にも携わった木下正史・東京学芸大名誉教授は「中尾山古墳の造営には藤原宮と同じ唐尺(とうじゃく)(1尺29・5センチ)が使われている。本来、八角墳は高御座を意識した形と考えられ、藤原宮でも政治の中心・大極殿(だいごくでん)に置かれていた。『徳をもって、死後まで政治を行う』という思いが込められているのだろう」と解説する。

 

 高市郡やその周辺には八角墳が多いのです。

この周辺を歩いてみて思うのが、そうした時代背景における流行のようなものがあったのではないかと考える。最近では舒明天皇陵に参拝したが、山の裾野にポツンと立つ御陵、また束明神古墳でもそうである。牽牛子塚古墳でもそうである。それを全て天皇陵とするのかどうかでも疑問である。文武天皇陵と早々に決めつけるのも疑問である。

 

八角墳

段ノ塚古墳(現・舒明天皇陵) - 奈良県桜井市

御廟野古墳(現・天智天皇陵) - 京都市

野口王墓古墳(現・天武・持統合葬陵) - 奈良県高市郡明日香村・7世紀後半(上八角下方墳)

中尾山古墳(文武天皇陵の可能性高い) - 奈良県明日香村・8世紀初頭

束明神古墳(草壁皇子の真弓山稜の蓋然性が高く、八角墳の可能性がある。奈良県高市郡高取町)

岩屋山古墳(斉明陵の可能性。方形墳の上に八角形の墳丘を営んでいた可能性が強い。

牽牛子塚古墳(斉明陵の可能性)奈良県明日香村越、20109月斉明陵の可能性強まるとの報道

 

稲荷塚古墳:東京都多摩市百草・7世紀前半

三津屋古墳:群馬県北群馬郡吉岡町・7世紀前半

経塚古墳:山梨県笛吹市(旧一宮町)・1994年発見・7世紀前半

伊勢塚古墳:群馬県藤岡市・6世紀前半

中山荘園古墳:兵庫県宝塚市

八角墳である可能性が指摘されている古墳

尾市1号墳 - 広島県福山市新市町

神保一本杉古墳 - 群馬県高崎市吉井町

八角墳である可能性が指摘されている遺構

武井廃寺塔跡古墳 - 群馬県

実は“奈良市内で最大”だった!『宇和奈辺古墳』を宮内庁と奈良県・市が合同発掘調査

実は“奈良市内で最大”だった!『宇和奈辺古墳』を宮内庁と奈良県・市が合同発掘調査

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 宮内庁が皇族の墓の可能性がある“陵墓参考地”に指定している奈良市の「ウワナベ古墳」で、宮内庁が奈良県や奈良市と合同発掘調査を行いました。

 

 ウワナベ古墳の墳丘が周りの池の水で浸食されていることから、護岸工事に向けた情報収集などのために合同発掘調査が行われました。

 

 宮内庁が管理する古墳を自治体とともに調査するのは極めて珍しく、調査の過程で、被葬者を知るうえで貴重な資料となる『鰭付円筒埴輪』が大量に出土しました。また、これまで255mとされていた全長が、実際には最大280mほどで、奈良市内の古墳では最も大きいことわかったということです。

 (奈良市埋蔵文化財調査センター 鐘方正樹所長)

 

前回、この「宇和奈辺陵墓参考地」に関して下記のように記しました。

 

さて、最後に宇和奈辺陵墓参考地は地図で見ると東側が欠けているような形状だが、これはJR奈良線を通す爲に調査なしに潰したものである。

 

元々、宇和奈辺陵墓参考地は

伊号

呂号 消滅

B,C,D古墳 進駐軍により破壊

陵墓 陵印 掲示板から抜粋すると

 

□ウワナベ古墳の陪塚

 

宇和奈辺陵墓参考地の治定陪塚は「前図」で漢字(伊・呂)で表記していますが、呂号は現存しません。

末永雅雄「古墳の周庭帯と陪塚」(書陵部紀要13・「陵墓関係論文集」(1冊目)所収)には、「前図」のように「大那辺」古墳の治定外陪塚A~Dと古墳の描写かもしれない△も図示されています。しかし、BCDと△は現存しません。

「奈良市史 考古編」(昭和43年)によると、呂とBCDは終戦後に進駐軍によって破壊・削平されたらしく、憤りを禁じえません。Aも破壊されたようですが、墳丘の外廓は辛うじて生き延びたらしいものの、基地構内で非公開エリアなので残念ながら確認不能です。なお「奈良市史 考古編」にはAの墳丘?跡地?の写真が掲載されていますが、Goo地図の航空写真では、それらしいものは確認できませんでした。

△は陵墓地形図集成にも描写されており、JRの線路で東側が切断されています。該当地は現在は道路と線路が密着しており、△が古墳の痕跡であったとしても道路建設で消滅したようです。「奈良県遺跡情報地図」にも掲載されていません。

更に「奈良県遺跡情報地図」には、※※の位置に消滅した大和8~10号墳、▽の位置にも現存する古墳が図示されていますが、「奈良市史 考古編」には掲載されておらず詳細不明です。大和8~10号墳が、呂ABCDと同様に進駐軍よって破壊されたとすると、末永雅雄がこれらをウワナベ古墳の陪塚と認定しなかった理由も知りたいところです。▽はGoo地図の航空写真では薮のようになっているみたいです。

なお、陵墓地形図集成には大正15年測量の陵墓図が収録されていますが、残念ながら古墳は伊・呂・△しか描写されていません。なぜ呂が陪塚治定されて近接するA~Dが治定されなかったのか興味津々です。

 

 この宇和奈辺陵墓参考地の被葬候補者は第16代仁徳天皇皇后八田皇女です。戦後の進駐軍が取り壊しした形跡もあり、少し大きい陵墓であつたとしても不思議でもなんでもない。

雑記帳

 私が『百万運動』を実際、中央部からの伝達で開催し、その活動の第一線で行なっていて感じるのが、多くのそうした「活動」をしていた人達が、実際はこうだったとかいうのは、多くは当てにならない。今回、思うのが中央部の部長は森田征史先生であることです。その意志統一での運動の流れで、副部長の安東巖先生がそれに基づいて行っていたということです。また。谷口雅春先生のそうした運動の指示もあり、それに則り活動していたことです。

 

 それが「ポッカリ」抜けて、安東部長が勝手に行っていたとかそういうことを平気でいう人が多いのに愕きます。当時の『聖使命新聞』や『生長の家』誌や『やまと新聞』やその他色々な谷口雅春先生が御寄稿された文章を是非読んで欲しい。また、谷口清超先生は絶大な信頼を寄せていたのが安東部長であることです。それを抜きにして語るのはよくない。

 

 私たちの地域活動していた当時は活動に於いては部長の指示系統でしていたことです。何かがあれば森田先生に来阪して戴いた。何度か来ていただいたことを憶えている。安東先生は一度もない。それは組織として当り前のことです。安東先生にお会いするのは「幹部研修会」「ブロック研修会」などの勉強会だけであります。『燃ゆる青春』などを読んで頂ければわかることです。

 トキさんも同様ですが、冷静に判断できないひとばかりを対象に聞き取りすれば、わからなくなるだけで、単位青年会で活動していた私などからの目線が全くないのが残念である。

今年の大峰山登山で記載していなかったこと

私が毎年「大峰山」を登行しているのですが、ここ数年20kmや30kmと距離が短くなっている。しかし、今年はとりわけて山が荒れていた。初心者でも行けるが、危険が伴うので本当に注意したほうがいいと思っている。私はこの大峰山を行くのに、練習として少し危険なル-トを選擇することがある。それは、危険で脚が竦むことを出来るだけ避ける為である。

それまでに訓練を重ねて、トラバ-スした道や道なき道を辿ることがある。今回は久しぶりに急斜面に挑んだ、約二か月ぶりの山登りである。それでも慣れないと体が鈍ってしまいそうである。普通、30度の斜面になると相當な急斜面である。砂利道のような斜面であると、滑る事も多い。45度の斜面もあったが、それも慣れることも必要なので果敢に挑んだ。

 

 二か月前までは平気でそういう道を歩いていたのですから、歩いていないと怖さもある。

実は今年も大峰山に登ったことは「ようおまいり」で記載した。そこで実は一本松茶屋から洞が辻茶屋を往復した事は記載していなかった。その理由が頭部に怪我をされた人がいたためにその薬を持って往復した。昨年の滑落死亡事故、そして今年は頭部の怪我とやはり油断は危険である。

また山上ヶ岳からレンゲ辻や稲村小屋、法力峠から観音峰山、観音峰登山口までの30km、歩いた。最初に書いたようにレンゲ辻から稲村小屋のコ-スが荒れていたのと稲村小屋から法力峠までが崩落個所が何カ所かあった。

 

https://maps.gsi.go.jp/#15/34.257234/135.909376/&base=std&ls=std&disp=1&vs=c1j0h0k0l0u0t0z0r0s0m0f1

 

どんなコ-スかは法力峠まで同じコ-スなので、下記の動画が参考になります。ホラポス隊から抜粋致します。勝手にすみません。

途中、滑落された人がいましたが、なんとか無事でよかった。

https://www.bing.com/videos/search?q=%e3%83%9b%e3%83%a9%e3%83%9d%e3%82%b9%e9%9a%8a&refig=0720ae5cca6c4faeb60b863e91ce5526&sp=1&qs=HS&pq=%e3%83%9b%e3%83%a9%e3%83%9d%e3%82%b9&sk=PRES1&sc=8-4&cvid=0720ae5cca6c4faeb60b863e91ce5526&ru=%2fsearch%3fq%3d%25E3%2583%259B%25E3%2583%25A9%25E3%2583%259D%25E3%2582%25B9%25E9%259A%258A%26form%3dANNTH1%26refig%3d0720ae5cca6c4faeb60b863e91ce5526%26sp%3d1%26qs%3dHS%26pq%3d%25E3%2583%259B%25E3%2583%25A9%25E3%2583%259D%25E3%2582%25B9%26sk%3dPRES1%26sc%3d8-4%26cvid%3d0720ae5cca6c4faeb60b863e91ce5526&view=detail&mmscn=vwrc&mid=B92526D0B8563FB494C3B92526D0B8563FB494C3&FORM=WRVORC

「久遠を流るゝいのち」と「久遠流るゝいのち」

立葵樣の論証を興味深く読まさせて戴きました。「生長の家」の眞髓というのが、『生命の實相』第二十巻(愛蔵版)に記載されている。

 

「久遠を流るゝいのち」と「久遠流るゝいのち」

この「久遠を流るゝいのち」の初掲載は実は『生長の家』誌や『生命の敎育』や『白鳩』などの生長の家信徒関連の出版ではなかった。勿論、世界光明思想普及會からの発行ではあったが、対外的な総合雑誌であった。

 その『いのち』は残念ながら所有していない、国会図書館においてもその號はない。だがサブタイトルとして「久遠を流るるいのち―本當の佛教を探し求めて―」本来の佛教の在り方を求めてこの言葉を記載されているということです。

 

昭和1111月『生命の藝術』を改題し、綜合雑誌『いのち』を創刊。

昭和12年『いのち』二月号において「久遠を流るるいのち」を発表

黑布表紙版全集第二十巻『佛敎篇・家庭敎育篇』昭和161215

第三章 久遠流るゝいのち/52

一、著者の無い書物/52

二、久遠のいのちに觸るゝもの/54

三、久遠のいのちの釋迦/55

四、佛典を論ずると佛敎を悟るとは異ふ/57

五、語學や考證を超えて/59

六、ほとけは何處/61

七、わたしは喇叭/63

八、ニュー・ソ-トの出現/66

九、ニュー・ソ-トの内容/69

十、トラインの著作に就いて/70

十一、萬敎歸一運動としてのニュー・ソ-ト/74

十二、治病宗敎は低級か/75

十三、萬敎たゞ一つのいのちの流れ/77

 

上記からの流れとして維摩經及涅槃經に現はれたる『肉體無』を発表されるのです。佛教というのは、どういう世界なのかを真摯に向き合い、どの教へも「生かし合ひ」の世界であることを説かれるのです。上記の「久遠いのちの釋迦」とは如何なるものであるかを説き、そこに「久遠流れるいのち」があった。「新しい教え」なども無い。「生長の家」は久遠から存在していたことを把握すれば、谷口雅春先生の立教された、生長の家の意義が益々把握出来る。

三島由紀夫と平凡パンチ

 三島由紀夫といえば皆様は幾多の著作品や三島義挙を思い出されるとおもいます。

 だが、私は最初、生長の家も入信していない、まだ幼い感情のある高校生であった。ある友達から『平凡パンチ』を借りて見たときの衝撃が凄まじかったのです。

 フンドシ姿の筋肉隆々の鉢巻き姿の人の寫眞がそこに何枚かある。

 日本刀を片手に勇ましい姿には驚きしかなかった。

 また発刊日の違う三島由紀夫の姿は軍服に何人かを従え歩いている姿である。

 そこで初めて三島由紀夫という人物を知ったのです。当時、『平凡パンチ』では何回か三島由紀夫特集のようなことをしていて、その数冊に三島由紀夫の寫眞が掲載されていた。

 三島義挙の当時はまだ私は高校生である。将来は楯の会に入信したかった。


 オボコイ私には何か憧れのようなものがあった。それから一年程して三島義挙である。

高校生の私は所有しているお金もなかったが、少しの小銭で旧阪急梅田駅構内の立ち売り販売所の構内で新聞を挙って購入したことを憶えている。
三島由紀夫-
三島由紀夫-

 

 今、NHKで三島特集のようなものを行っているが、本当の実像というのがとらえきれていないと私は思っている。『産経新聞』が三島由紀夫について連載を行っているのも興味があり、讀んでゐる。何を目指していたのかは「谷口雅春先生」しか分からないのかもしれない。それは天才がゆえに其々がその把握が出来るものがあったと思う。

私もそんな人間になりたい

最近いろいろと嫌な事が起る。見なくてもいい現象を見てしまう。

昨日は私が運転していた車が当て逃げされた。しかし、最近はドライブレコ-ダ-があるから、逃げた車はすぐに判明した。その加害者と本日対面した。老齢の八十歳も垂んとする、歳を重ねるのはその人の年輪でもあるし、それ相応の対応が出来るのが当たり前である。だが警察からの電話も「警察の詐欺」であるとか、そんな聞きたくない言い訳のオンパレ-ドである。その加害者は「本日、今回の事故の事を知ったのです」とか「サイドミラ-は当たっているのは理解していたのですが、それほど大したことがないと思った」「これぐらいのことで警察沙汰になるとは思わなかった」聞くに堪えられない事ばかりである。

 

 車の当たった場所を指摘すると、「そんな所当っていません」とかもう腹立たしいことばかりである。それなら警察に鑑定してもらいますかと云うと黙ってしまう。

 

 私はこの人が小さな会社の代表取締役であることは名刺を戴いてわかった。よくそんな人が社長であるとは恥ずかしい限りである。

 

 最初に鄭重に謝辞するのが出来ない、人間として其れ位勉強して欲しい。それ以前にもそういうことがあった。人間の付き合いが嫌になる。

 

 人間というのは役職になると偉くなったと思い、言葉遣いや人の対応がどうしても悪くなることが多い。生長の家でも尚更である。何故そうなるのかである。私は「一燈園」に行って、そうした信仰心に裏付された心の温もりを感じるが「生長の家」ではそんなもの感じない。ここ数十年感じたことがない。「学ぶ会」でも同様である。個人では素晴らしい人が何人もおられるので残念でならない。

 今回、指摘されている人も多いが、「谷口雅春先生御生誕一二七年記念祭祝詞」である。現在の生長の家教団の事は理解できるがそれを祝詞に挿入するのはいけない。そういう祝いのコトバに憎しみや怒りを決して挿入してはならない。

 

 それのみで「学ぶ会」が駄目だとか偉そうにいう人はいるが、それなら「学ぶ会」以上の事が貴方には出来ているのであろうか?

私自身の推測でいうなら、そこまで私は愛行が出来ていないので、そこまでは言いたくない。多くの人がそうである。でも「学ぶ会」の人も謙遜して欲しい。人間はどうしても上からモノを云う。自分は絶対だと信じて偉そうに発言する。

 

私の住まいしているなかで、この数年前に引っ越しされた人がいます。既に75歳を超えて居られる。最初はその人は午前中、周囲の清掃を行っておられる。午後から図書館で読書三昧である。それがここ半年以上前から一日清掃されておられる。私の団地以外でも清掃されている姿を数人みておられる。かなりの距離が離れているが、そんな場所においてもその人の姿をみたという話を聞く。

その人と先ほどお会いして、私から「いつもお掃除ありがとうございます」そう言って挨拶すると「ちょうどいい運動に成るのでありがたい」

良い言葉である。私もそんな人間になりたい。

『愛国は生と死を超えて』再掲

先日のブログで「生長の家」教団 総裁谷口雅宣氏の言葉を列記しました。

『サンデ-毎日』の文中では総裁自身が「谷口雅春先生」の御本を読んでいないことも判明したことです。19頁4段目7行目

『日本会議は私たち生長の家の運動に反対している人たちが作った組織ですから、我々は彼らを悪と言いませんが、私たちとは違う信仰だと知ってほしい』

上記のような総裁の言葉が“噓”だと私は述べているのです。
例えば、今年で「三島義挙50年」です。その三島由紀夫氏を谷口雅春先生はどれほど愛されていたかを考えると以前に書いた『愛国は生と死を超えて』などを読めば理解出来るのですが、絶版になっています。また、引用すれば著作權に違反します。ただ、本の頁数の半分以下であれば大丈夫です。

 下記は『やまと新聞」の索引の引用と
『愛国は生と死を超えて』の目次を列挙致しました。


 この『愛国は生と死を超えて』は三島由紀夫氏に捧げた本です。一死を擲って祖国の爲に生命を賭した行為、その
直後に「月曜随想」として『やまと新聞』にて御寄稿されておられます。

 

 

昭和45年12月7日

 

 

 

 

 

芸術は人生を模倣する「三島由紀夫の“死”の意味するもの」(1)三島氏は芸術至上主義者であり、それが愛国の熱情と結びついて、その熱情を劇的に自己の現実人生に実演したのである。氏はオスカ-・ワイルドに似て」、名門の生まれであり、耽美主義者であり、絢爛華の如き名文家であったのもワイルドに似ている。ワイルドは「人生は芸術を模倣する」と説いたが、三島氏はそれを実践した。そして最後にワイルドは十字架にかかって「われ世に勝てり」といった、イエスを最大の美的生活者だったと説いたが、氏はみずからイエスの如く肉体の否定に氏独特の美的生活を完成したのである。(やまと新聞)

12月14日

 

乃木将軍の殉死の模倣は理解されずに消えた「三島由紀夫の“死”の意味するもの」(2)“われわれの愛する歴史と伝統の国、日本だ。これを骨抜きにしてしまった憲法に体をぶっつけて死ぬ奴はいないのか。

今からでも共に起ち、共に死のう”と檄文に誓いた三島氏はク-デタ―を敢行するためではなく、イエス

の“十字架の道”を選んだのだ。(やまと新聞)

12月21日

 

彼は遂にイエスの十字架の道を択んだ「三島由紀夫の“死”の意味するもの」(3)彼は“後世”を信じて一人、祖国のために死する是より大なる愛はなし」と、“死”の中に真の祖国愛を見たのである。(やまと新聞)

12月28日

 

 

「“憲法に体をぶっつけて死ぬ”」「三島由紀夫の“死”の意味するもの」(4)氏の自決は“天皇国家“将に滅びんとすることを歎いての殉死であると共に、天皇国家の支柱となるべき自衛隊精神の目覚めのための諌死であった(やまと新聞)

1月4日

士道を完うした三島氏の最期「三島由紀夫の“死”の意味するもの」(5)私は三島氏の“死”は乃木将軍の殉死の心の再現であると説いたが、爰にまた氏の“死”が更に吉田松陰の“死”の再現であることを思い、松陰の死が明治維新の遠因を成したように、三島氏の英霊がついに“天皇国日本”の天之岩戸開きをなすべき天使となって天翔れる日の来ることを信ずる(やまと新聞)

1月18日

 

 

永遠の美を追求するための死「三島由紀夫の“死”の意味するもの」(6)人生は芸術である。肉体美は人間の築いたバベルの塔に過ぎない。それは“永遠”の高さに達しない迄に壊ける。“永遠の美”を成就するために肉体が美の最高潮にある時に一層高き「魂の美」を完成するために死なねばならない(やまと新聞)

2月8日

 

 

因果を昧ますこと能わず「三島由紀夫の“死”の意味するもの」(7)三島由紀夫氏自身が愛国の預言者であった。氏はワイルドのサロメ劇を上演したが、妖精サロメは人類の危機を説く預言者ヨカナ-ンの首を斬らせてその血みどろの生ま首に接吻している。(やまと新聞)

3月1日

 

 

 

 

 

田中卓氏と井沢甲子麿氏との三島觀の比較「三島由紀夫の“死”の意味するもの」(8)「自衛隊は故郷であり、教官、助教諸氏から受けた愛情は測り知れない」と三島氏はその「檄」に書きながら自衛隊の総監を縛したのは、単なる暴徒が自己の暴思を貫くために行なった無謀な脅迫行為ではないのである。自衛隊総監は自衛隊全体の象徴である。体験入隊ではありながら自己が属する自衛隊総監を縛したのは自衛隊が総監に向って「死んではいけません」といって青年をして護送させたのは自衛隊が建軍の精神に目覚めて復活することを希望した象徴行為なのである。(やまと新聞)

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愛国は生と死を超えて  三島由紀夫の行動の哲学  昭和46年11月15日

三島由紀夫の霊に献ぐ

はしがき/1

愛国は生と死を超えて 目次

1 三島由紀夫氏の自決に思う/5

2 日本の何を衛るか/29

三島由紀夫氏の“反革命宣言”/29

天皇は日本文化の本質的中心存在である/32

学生運動の由って来たる所以/34

国民に国家を被告として闘わせる憲法/37

共産党の非暴力はホン物か/39

戦う力の否定は国家否定つながる/41

このままでは日本は滅びる/44

大衆は群集心理的に動くだけである/47

国とは時の政府のことではない/49

3 彼は“憲法に体をぶっつけて死んだ”/51

4 行動と防衛の哲学/59

国民内部の抗争は国家の衰頽を惹き起す/59

果して政治は血を流さない戦争か/61

“千人と雖も我れゆかん”が本当の言論だ/64

人は信ずる通りに成る/65

暗殺の意義について/67

“士道”としての自殺及び“君臣の道”/68

政治的暗殺の本質について/69

民衆が無制限の自由を与えられた結果は?/71

セックスが完全に自由化されたら/72

国家について/74

平和な軍備国家というものはない/76

一党独裁政治はこうなる/77

天皇は軍に対して栄誉大権をおもちにならねばならぬ/79

天皇は概念でも象徴でもない/81

5 祖国愛と彼の美的最期/84

刀剣が人の潜在意識に与える暗示/84

“形”はすべて“心”の内容の表現である/85

“祖先”を表彰するもの/87

眉間をひらいて眉間の皺を伸ばしなさい/89

あなたの将来の運命を決定するもの/91

天皇を失った偽善・欺瞞の虚妄の日本/92

人生は芸術を模倣する/94

国のために生命を棄つる愛の実践/96

“生命を惜しむ者は生命を失う”(イエス)/98

“知”は“行”によって完成する/100

政党の党員にも「士道」又は「士節」が必要である/102

政治の暴力と道徳的権威の闘争/105

自民党と石原慎太郎との関係/106

占領憲法下の政党政治の欺瞞性/107

「私が彼になりたい」の願いの実現/109

最高価値の美的生活/110

霊の美的生活の完成/113

6 士道の完成としての知行合一/115

7 因果晦ますこと能わず/124

8 “永遠美”の追求/133

檄   楯の会隊長 三島由紀夫/141

 

本日は谷口雅春先生御生誕日

本日は谷口雅春先生御生誕日。今日は一日、谷口雅春先生の御著書に溢れた生活をさせていただいた。

 そこで思うのは、「谷口雅春先生は天才である」碩学であり、あらゆる宗教を把握している。歴史にも博識であり、日本の古典にも知識が深い。醫學の知識や世界情勢の造詣も深い。私も少しでもその知識に慕って勉強したい。

 

「わたしは陽暦、明治二十六年十一月二十二日の暁の六時に生まれたのである。陰暦にすれば十月十五日の満月の暁でちょうど満月が西の山の端に沈みかかってはいたが、まだ耿耿として光を失わず、そして朝日が東の方に差し登りつつあったとき、太陽と月と二つの光に照らされつつ護られつつ生まれたのである。この話は私の実父音吉から聞いたのだからおそらく本当であっただろう。」

 

烏原水源地に行けばこの言葉を思い出す。今もその静寂を失わず、風にそよぐ木々と鳥たちの鳴き声に静寂は反対にけたたましく感じるが、その鳴き声が一瞬消えた時にその風光明媚な景色が瞼に映る。ダムの下は住宅地であるが、ここにいるときはそれを忘れる。

左に寄った姿

芸能ニュ-スに関心のない私が『サンデ-毎日』の表紙をみて思わず笑った。

御存知の通り、近藤真彦がソファーに肩肘をかけて坐っている。しかし、その当本人は約5年間不倫をしていたという。ジャニーズ事務所は17日、所属する近藤真彦が無期限の芸能活動自粛に入ることを発表した。近藤は11日付「文春オンライン」で、5年にわたり不倫関係にある女性がおり、今年10月には沖縄旅行も楽しんでいたと報じられていた。近藤には26年間連れ添う妻との間に長男がいる。

 

 何か疑うわけではないが、この週刊誌も含めて近藤真彦の写真がアップされている。『週刊朝日』『AERA』ともに左に寄っているものである。

 そういえば、肩肘をソファーの姿も左である。その下に“「生長の家」総裁菅政権に異議あり”と書かれている。左に寄った姿に思わず笑ってしまった。
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平気で嘘をつく信仰者

現在の「生長の家」教団で奉職されている人の多くは今回の問題についてはあまり興味の無い方が殆どだと聞いております。だが、生長の家に人生を賭けて推進されている人にとっては、大いなるショックであったことだと推測出来ます。

 

今迄はあの総裁のことだから「またか」と流していた本案でも、今回の『サンデ-毎日』に掲載されたものは、全く「谷口雅春先生」の趣旨とは異なるものである。共産党の怖さや「唯物主義」の恐ろしさを説いてきた谷口雅春先生にとっては、何とも嘆かわしいことである。自分の孫である「谷口雅宣氏」があの小泉純一郎元首相が云った「自民党をぶっ壊す」と言いながら、ぶっ壊すことはしなかったが、大きなスロ-ガンとなった。しかし、雅宣氏は怨恨による「生長の家」破壊者である。今回の『サンデ-毎日』を読んでいても、宗教者としての「尊厳」や迫力もない。ただの自転車を乘るのが好きな共産党支持者の「おっさん」しか見えない。また内容も前回のブログで記入したように「嘘」が多い。何たる恥知らずであろうか、権力を武器に平気で嘘をつく、赤い総裁である。

『生長の家叢書』『光明叢書』②

昭和八年(1933

発行日

頁数

判型

備考

光明叢書  (パンフレット)(全11冊) セット函

 

 

 

 

 

①生長の家50年史は12冊となっているが、当初は函の記載から見ると11冊であるが昭和10年に特別篇として10冊プラス2冊で12冊となる。

②生長の家の経済学は昭和11年の国民総動員体制と「淫祠邪教」政策の関連で検閲対象となるため、『現代に機会ありや』に置換える。生長の家叢書も同様

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

1. 現代に機會ありや  S13.6.5  序篇

1. 光明の眞理

S13.6.5

S8.9.10

 

 

62

34

菊半截判

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ①生長の家の經濟學(最初はこの本)(貧困を征服し各人悉く物質無限の供給を受くる道)

S10.4.01

64

 

2. 生命に到る道 ―非常時日本に於ける神の足跡―

S8.4.6

 

 

61

3. 生きる力の神祕

S8.4.6

 

 

63

4. 生命の宗敎的眞理 ―宗敎とは死後の用ではない、生命の飛躍である― 生死の敎へ

S8.12.8

 

 

50

5. 運命を改造する道-社會及び個人の運命を改造する新提唱―

S8.9.5

 

 

63

6. 治す力の眞理  ―凡ゆる民間、醫界の新療法を批判し治療力の来る本源を解明せる祕書―

S8.9.5

 

 

63

7. 日本國の使命及び將來 

S10.4.1

 

 

62

8. 境遇も健康も吾が心の影 報恩行に就いての神示 

S8.12.8

 

 

65

9. 無限供給を受くる道   -貧困を征服し各人悉く物質無限供給を受くる道―

S7.10.3

 

 

 

46

 

10.思念の力―護國救民のために『光明思念聯盟』の提唱―

S7.10.3

 

 

63

特別篇 生命の樹の果實 -聖書に顯たる人間・陰陽・物心・生命・食物・健康・社会改造-

S8.12.8

S8.11.5

 

 

91

特別篇 神想觀實修本義  昭和10年の出版   

―内在無盡の智慧と生命と幸福とを汲み出す道―

S10.12.20

S8.12.8

 

 

84

 

昭和九年(1934

発行日

頁数

判型

備考

光明叢書  (小冊子)(8) セット函

 

 

 

 

菊半截判

『久遠の實在』の中から抜粋してパンフレットとして販売及び無料頒布

 

 

 

1. 治す力の眞理

S8.9.05

 

 

63

2. 日本國の使命及び將來

S10.4.1

 

 

 

3. 生命の樹の果實-聖書に顯れたる人間・陰陽・物心・生命・食物・健康・社会改造-

S8.11.05

 

 

 

4. 生命の宗敎的眞理

S812.8

 

 

 

5. 神想觀實修本義

S8.12.8

 

 

 

6. 無限供給を受くる道

S13.7.15

 

 

84

7. 吾が心の力

S8.9.10

 

 

48

8. 靈界の救ひ・智慧の言葉

 

 

 

 

 

ギャラリー
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