先日、深夜のテレビでMBS放送「史実と神話」というドキュメントを放送していた。
この件について、ほとんどの人は感心がないのが実情である。私は御陵参拝で古くからこの件は知っていたが、調べることも、私見を述べることもなかった。
だが今回の放映での誤りや史実というよりこの放送で視聴者は「天皇性」をある面、歪めた形で理解するのではないかという疑念と懸念があった。
橿原神宮の北側に神武天皇陵があります。途中に畝傍山登山口がありますが、それを登ってでも「洞村」に行けますが、神武天皇の参道の玉砂利の道を歩くと途中の左側に低い階段があり、山本という地区に行けます。その道の直ぐ左側に宮内庁の立ち入り禁止という立て看板があります。それを抜けて林の中に入って行くのですが、その山道は踏み後もはっきりとあり、わかりやすい道です。そこを入って行けば、迷うことはないのですが、少し躊躇します。
一番わかりやすくいえば、そこからですか、そこに明治以前から住居としている「洞」という部落があった。以前、御所にある「神武天皇御陵」がこの地域にあったのではないかという提議をさせていただいたことがあります。そこは「水平社」発祥の地であり、発祥当時はまだ、尊皇意識も高く誇りを持っていた。その証拠に水平社の建物の横には神武天皇社があります。このような社は福岡県にもあります。清和天皇の御陵の近くの清和天皇社でもそうです。
また、八瀬童子や新嘗祭における奉納等、つながりも大きかった。
先ほど述べた水平社の運動も以前に私のブログに「皇国を護る民」として下記のように記載しています。(2016年1月10日)
また何故水平社に行ってきたのかというと、元々日本にマルクス主義が入るまでは純粋に皇国の民として神武天皇をお護りする人々でした。それが徐々に歪められていくのです。
その証拠として当初その運動をお守りするために神社を建立するのです。その主祭神は
燕神社「嗛間丘神社」
通称「つばめ会のお宮さん」と呼ばれています
西光寺裏の本馬山東麓に鎮座します
大正9年(1920)に結成した燕会が、明治政府の発布した「解放令」50周年を記念して大正10年に建てました
祭神;神倭磐余彦命、豊受大御神、武甕槌命
境内社;地主大神
阪本清一郎氏の『回想録』によれば、祠は阪本の妻・数枝のふるさと大阪府西成郡西中島村(現、飛鳥)で区長をしていた兄の中井利助の計らいで廃社となった村の氏神を貰い受け、燕会会員の鶴谷藤吉らが馬力で運んできたといいます
燕会の青年たちは毎夜この燕神社に集合していろいろなことを話し合ったようです
時には学習の成果を披露するため発表会を開いては村人を集めたといいます
燕会の人びとは、この燕神社の広場を「建議の庭」と呼んでいました。
神倭磐余彦命は神武天皇です。当初の水平者のメンバ-は坂本清一郎の自宅裏の神社を祀っています。
また水平社博物館の隣にある神武天皇社はこの地域で祀っています。元々、部落であるこの地域であった所で何故だと思われるかもしれないが、先祖からこの地こそが神武天皇御陵であった地であると信じているからである。
疑問に持たれている人もいるかもしれませんので、是非パソコンで「水平社」を検索して下さい。
また、明治以降に牛馬の屍の解体という作業に従事して、その当時は現金収入があり豊かに暮らしていたという。ただ、人間の差別感はそうした人々に向けられるのは時代を遡ることはできませんが残念なことです。
ただ、この地域の戦前までは皇国の民として誇りをもっておられた。
だが、いつの間にか共産主義がそこにつけ入り、部落解放が入り,歪められて傳えられているのであります。洞村の詳細は後日とします。