則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2020年07月

讀んで戴ければ幸甚です。

倭姫命

倭姫命に関しては以前に何度か訪れている。ただ私は元伊勢に関しては詳しくない。檜原神社は元伊勢とよばれ倭姫命はここから出発したと聞かされたことがある。「うまし國」を求めて、岡山県や福知山に行った。そこを元伊勢と呼んでいる。だが私の知識はこれぐらいである。ただ、伊勢神宮の斎宮として天照大神から与えられている。下記が天照大神からの神託である。

 

是神風伊勢國則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國

(この神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ)
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倭姫命を祀る倭姫宮(三重県伊勢市)ウィキペディアから抜粋

 

倭姫命(やまとひめのみこと、生没年不詳)は、記紀等に伝わる古代日本の皇族。『日本書紀』では「倭姫命」、『古事記』では「倭比売命」と表記される。

 

11代垂仁天皇の第四皇女で、母は皇后の日葉酢媛命。垂仁天皇253月丙申に天照大神を伊勢の地に祀ったとされ(現在の伊勢神宮)、斎宮の伝説上の起源とされる人物である。

 

経歴

10代崇神天皇の皇女豊鍬入姫命の跡を継ぎ、天照大神の御杖代として大和国から伊賀・近江・美濃・尾張の諸国を経て伊勢の国に入り、神託により皇大神宮(伊勢神宮内宮)を創建したとされる(御杖代は依代として神に仕える者の意味であるが、ここでは文字通り「杖の代わり」として遷幸を助ける意味も含まれる。ちなみに、倭姫命が伊勢神宮を創建するまでに天照大神の神体である八咫鏡を順次奉斎した場所は「元伊勢」と呼ばれる)。
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後に、東夷の討伐に向かう日本武尊(尊は倭姫命の甥王にあたる)に草薙剣を与えている。伊勢では、伊勢の地に薨じ、尾上御陵(おべごりょう)に埋葬されたと伝える。伊勢の地で天照大神を祀る最初の皇女と位置づけられ、これが制度化されて後の斎宮となった。

 

伊勢神宮を創祀したときの天照大神から倭姫命への神託は『日本書紀』に次のように載せる。

 

是神風伊勢國 則常世之浪重浪歸國也 傍國可怜國也 欲居是國

(この神風(かむかぜ)の伊勢の国は常世の浪の重浪(しきなみ)帰(よ)する国なり。傍国(かたくに)の可怜(うまし)国なり。この国に居(を)らむと欲(おも)ふ)

— 垂仁天皇253月丙申(10日)条

 

意味は、伊勢は常世の国からの波が何重も寄り来る国であり、辺境ではあるが美しい国なのでこの国に鎮座しよう、ということである。

https://www.google.co.jp/maps/@34.487357,136.7206644,3a,75y,66.67h,90.2t/data=!3m6!1e1!3m4!1s888DbirDKa5VFLlQMlf1Jw!2e0!7i16384!8i8192

 

宇治山田陵墓参考地

倭姫命に関して、宮内庁による治定墓はない。ただし、三重県伊勢市倭町にある宮内庁の宇治山田陵墓参考地(うじやまだりょうぼさんこうち、位置)では、倭姫命が被葬候補者に想定されている。遺跡名は「尾部古墳」で、方墳である。通称は「尾上御陵」・「倭姫命御陵」。

 

この尾部古墳は、伊勢神宮の内宮(皇大神宮)と外宮(豊受大神宮)との中間に位置する間の山(あいのやま)に位置する。永保2年(1082年)の書写奥書のある『高庫蔵等秘抄』にはすでに尾部の御陵の記事が見られ、江戸時代初期の『神風小名寄』・『太神宮神道或問』などでは倭姫御陵として見える[1]。また『尾部御陵起源』によれば明治年間に発掘されて銅環・鈴・須恵器などが出土したというほか、1921年(大正10年)の実測図によれば墳丘は方形で横穴式石室が南方向に開口した(現在は非開口)。その後、1928年(昭和3年)10月に宮内省により陵墓参考地に治定され、現在は宮内庁により管理されている。

 

なお、隣接する倉田山では1922年(大正11年)に内宮別宮の倭姫宮が創建され、倭姫命が祀られている。

光厳天皇陵、後花園天皇陵

光厳天皇 山国陵

(こうごんてんのう やまくにのみささぎ)

 

後花園天皇 後山国陵

(ごはなぞのてんのう のちのやまくにのみささぎ)

 

後土御門天皇分骨所

(ごつちみかどてんのうぶんこつしょ)

https://www.google.co.jp/maps/@35.2009697,135.6861027,3a,75y,31.74h,98.81t/data=!3m8!1e1!3m6!1sAF1QipPsfK4xzwdGYEinoH7Q4A5X2k3JyNb9ZnMUYXcl!2e10!3e11!6shttps:%2F%2Flh5.googleusercontent.com%2Fp%2FAF1QipPsfK4xzwdGYEinoH7Q4A5X2k3JyNb9ZnMUYXcl%3Dw203-h100-k-no-pi-0-ya223.39558-ro0-fo100!7i8704!8i4352

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光厳天皇(ウィキペディアから抜粋)

光厳天皇(こうごんてんのう、131381日〈正和279日〉- 136485日〈正平1977日〉)は、日本の北朝初代天皇(在位:13311022日〈元弘元年920日〉- 133377日〈元弘3525日〉)。諱は量仁(かずひと)。

 

後醍醐天皇の失脚を受けて皇位に即いたが、鎌倉幕府の滅亡により復権した後醍醐天皇が自身の廃位と光厳の即位を否定したため、歴代天皇126代の内には含まれず北朝初代とされる。ただし、光厳の在位は鎌倉時代末期で、実際には弟の光明天皇が北朝最初の天皇であり、次の崇光天皇と合わせた215年の間、光厳上皇は北朝の治天(皇室の長)の座にあって院政を行った。

 

 光厳天皇とは、馴染みのない天皇であるのもその通りである。北朝の最初の天皇とされる。京都市内から車で30分以上はかかる、愛宕山の更に北東にあたる。もう、美山からも近い、反対に西側に行けば三千院も近い、靜かな景勝地である。

 

後花園天皇

御花園天皇と聞いても、ポカンとなるのも当然である。だが、反対にこのように云えば、馴染みも深まる。それは「一休さん」を兄にもつ天皇です。

あの「一休さん」架空の人物ではありません。“一休宗純”といって以前に紹介した「一休寺」でその余生を過ごされた。

 一休の

「有ろじより無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」

の言葉から、華叟が道号として授けました。その後、さまざまな人生の紆余曲折を経て、1481年、88歳で病没。一休寺で静かに眠っています。

https://livedoor.blogcms.jp/blog/tecnopla1952/article/edit?id=70492073

 

御花園天皇から今上天皇へと繫がっていきます。

それと京都府京都市上京区扇町には「後花園天皇火葬塚」があります。あの「応仁の乱」が勃発した所の北側にあります。

https://www.google.co.jp/maps/@35.037023,135.7518451,3a,37.5y,92.98h,85.87t/data=!3m6!1e1!3m4!1sNwLZ6JERQNi0hjaQF9DE-A!2e0!7i16384!8i8192


後花園天皇(ウィキペディアから抜粋)

陵所

後山国陵、般舟院陵(分骨所)

後花園院

(後花園天皇)

1471310日(文明3219日)追号勅定

 

後花園天皇(ごはなぞのてんのう、1419710日〈応永26618日〉- 1471118日〈文明21227日〉)は、日本の第102代天皇(在位:142897日〈正長元年728日〉- 1464821日〈寛正5719日〉)。諱は彦仁(ひこひと)。

 

本来は皇統を継ぐ立場にはなかったが、三従兄弟にあたる称光天皇が嗣子を残さず崩御したため、皇位を継いだ。8親等以上離れた続柄での皇位継承は南北朝合一を除くと53代(称徳天皇→光仁天皇以来)658年ぶりである。以後、この皇統が今日の皇室に連なっている。

 

生涯

応永26年(1419年)618日、貞成親王の第一王子として生まれた。

 

応永29年(1422年)以降、先代の称光天皇は幾度か危篤状態に陥るなど病弱で皇子がなく、称光の同母弟で皇儲に擬せられていた小川宮も応永32年(1425年)に早世したため、その父で院政を敷いていた後小松上皇は、早急に皇嗣を決定する必要に迫られた。

 

正長元年(1428年)、称光天皇が危篤に陥ると、両統迭立を要求する後南朝勢力がにわかに活動の気配を見せたため、室町幕府将軍に就任することになっていた足利義宣(後の義教)は伏見御所にいた彦仁王を保護し、後小松上皇に新帝指名を求めた。

 

同年720日、称光天皇が崩御すると、彦仁王は後小松上皇の猶子となって親王宣下のないまま、728日に践祚し、翌永享元年(1429年)1227日に即位した。天皇の即位は、崇光天皇以来、皇統の正嫡に帰ることを念願していた伏見宮家にとってはめでたいことであり、父の貞成親王もこれを「神慮」として喜んだ。

 

即位して以降も後小松上皇による院政は継続されたが、永享5年(1433年)10月に上皇が崩御した後は30年余りにわたって親政を行った。この間、同11年(1439年)6月には勅撰和歌集(二十一代集)の最後に当たる『新続古今和歌集』が成立。

 

天皇の治世、各地で土一揆が起こり、永享の乱(永享10年、1438年)、嘉吉の乱(嘉吉元年、1441年)などでは治罰綸旨を発給するなどの政治的役割も担って、朝廷権威の高揚を図った。永享の乱での治罰綸旨の発給は、足利義満の代より廃絶していた朝敵制度が60年ぶりに復活したものであった。以後、天皇の政治的権威は上昇し、幕府が大小の反乱鎮圧に際して綸旨を奏請したため、皇権の復活にもつながっていった。

 

嘉吉3年(1443年)9月、後南朝勢力が土御門内裏に夜襲をかけ放火し、後花園天皇は左大臣・近衛房嗣邸に逃れるが、三種の神器の一部を奪われた(禁闕の変)。奪われた神器のうち、剣は清水寺で発見されるが、神璽(曲玉)は持ち去られた。

 

文安元年(1444年)2月、同母弟の貞常王に親王宣下を行い、同4年(1447年)11月に父の貞成親王に太上天皇の尊号を奉っている。享徳4年(1455年)1月、後二条天皇の5世孫にあたる木寺宮邦康王に親王宣下を行った。

 

長禄元年(1457年)12月、嘉吉の乱で没落した赤松氏の遺臣らが後南朝の行宮を襲って神璽を奪還し(長禄の変)、翌年8月には朝廷へ返還された。ここに全ての神器が天皇の手中に帰することになる。

 

寛正2年(1461年)4月、亀山天皇の5世孫にあたる常盤井宮全明王に親王宣下を行った。同3年(1462年)10月皇子の成仁親王に天皇としての心得を説いた『後花園院御消息』を与えている。

 

5年(1464年)719日、成仁親王(後土御門天皇)へ譲位して上皇となり、左大臣足利義政を院執事として院政を敷いた。

 

応仁元年(1467年)、京都で応仁の乱が勃発した際、東軍細川勝元から西軍治罰の綸旨の発給を要請されたが、上記とは異なり上皇はこれを拒否した。兵火を避けて天皇とともに室町第へ移るも、同年920日に出家、法名を円満智と号した。上皇の出家は、かつて自ら発給した畠山政長に対する治罰綸旨が乱の発端になったことから自責の念に駆られ、不徳を悟ったからだとされている。この出家は義政の無責任さに対して帝王不徳の責を引いた挙として、世間から称賛を浴びた。

 

文明2年(1470年)1227日、中風のため室町第で崩御した。享年53。翌3年(1471年)12日に高辻継長の勘申によって後文徳院と追号されたが、漢風諡号(文徳天皇)に「後」字を加えた追号(加後号)は先例がないとする太閤・一条兼良の意見があり、諸卿からの意見も勘案した上で、219日に後花園院と改められた。

 

人物

後花園天皇は足利義満の皇位簒奪未遂以降、皇権を回復した「中興の英主」として極めて重要な人物であると評されている。

 

天皇は詩歌管弦に堪能で、『新続古今集』に12首、『新撰菟玖波集』に11句が入集したほか、歌集『後花園院御製』がある。日記に『後花園院御記』。闘鶏・猿楽・松はやしなどを好み、また学問にも秀でた。

 

寛正2年(1461年)春、天皇が長禄・寛正の飢饉の最中に御所改築など奢侈に明け暮れる将軍・足利義政に対して、漢詩を以って諷諫したというエピソードは著名である(『長禄寛正記』)。その義政とは蹴鞠を通じて親交があり、崩御の際には同じ室町第にいたという事情もあったが、足利義政・日野富子夫妻がその最期を看取り、義政は戦乱中の外出に反対する細川勝元の反対を押し切って葬儀から四十九日の法要まで全てに参列している。

「見花」

春かぜもをさまる庭の花ざかり心ちらさであくまでもみむ

「寄社祝」

立ちかへりなほまもらなむいそのかみふるの社のふるき昔に

亀の子様に感謝申し上げます。

亀の子様よりお褒めの言葉を頂戴いたしましたが、恐縮することばかりである。私の中途半端でズボラな性格は直っていないし、まだまだ、真摯な亀の子様には足元にも及びません。また今回、書籍にする内容というのが決まり。これから更に、阪田先生の承認もあります。また校正もあり、最後の詰めもします。コロナでそうした大先輩のお宅に訪問もしにくくて、現在の所では、いつお伺いすればいいのか躊躇しています。

 

「谷口雅春先生も間違いがある」と現教団の総裁が口から悪しき様に吐いた。だが、私は「谷口雅春先生」の御文章を長く見ていて、その碩学には驚かされるばかり、宗教はほぼ全般に亘って読破されており、医学についても博識である。歴史学、古事記や万葉集など、知らないことがないのではないかと思うほどの知識量である。現在の社会状況での判断など、もうこのような素晴らしい先生はこれから世に出ないのではないかと思っています。だからこそ、谷口雅春先生の御本を読んで欲しい。そう願わずにはいわれない。

「生長の家」教団は居心地がいいのであろうか

「お役をしていると言われる方がこの状態なのですから、これ迄の人との繋がりを失くすことが怖いだけで、真理は二の次、昔のまま教団に残っておられると感じたことでした。」

 

前回のブログでも書いたが、現在の多くの教団信徒はこんな風に思っているんだなということがわかる言葉です。上記の言葉は「谷口雅春先生に帰りましょう」の月見草樣の言葉です。

 

現在の「谷口雅宣総裁」が何かを書いていても読まないし、「谷口雅春先生」の御本も読んでいない。講話するとしても、昔の儘で何んら変っていない。だから変わりようがないのです。だから教団は居心地のよい場所なんです。このような人は今回の「宝塔」のような出来事でも、本人は昔の儘なんです。谷口雅春先生の書物を読んでいないから、これが正しいのだと勘違いしているのです。

 

申し訳ないが、こんな人を相手にしても何等発展もしないし、成長もない。

でも反対にこのような人が「生長の家」教団を支えているのである。勿論、それ以外の人も沢山いるが声が届かない。

国会図書館からの電話

昨日夜、国会図書館から電話を戴いた、それは前回(二年前)に書いた『谷口雅春先生著作年譜一覧表』を国会図書館に上申するということである。献本ではない。決まれば、その代価を図書館から支払っていただけるということである。勿論、全額ではない。その書籍代の半額である。これは決まっていることで、どの本でも半額の支払いである。

昨日電話いただいたのは、編纂委員会という名前での関連である。私の場合はちゃんと本に書いてあるから答えられる。ただ、国会図書館にはまだ本を譲渡していない段階である。どうしてその内容が国会図書館でわかるかといいますと、「神戸大学附属図書館」所蔵検索しているからである。配架場所が「国際文化図書館 研究室備付」である。

 

https://lib.kobe-u.ac.jp/kulip/top/search/materials/

 

ほぼ、間違いなく検討委員会で認証していただけるが、万が一でも出来ない場合は保証するとも云われていた。

私はここまで覚悟を決めて私の著作した本を国会図書館で推奨していただけるのは大変嬉しいし、其の覚悟の言葉も聞けた。通常は曖昧な答えと「逃げ口上」な回答を良く受けるがこの職員は違った。反対にそんな粹のような発言は嬉しかった。また週で何万冊という書籍や雑誌を取り扱う、たった一冊にこんなに力を入れて頂く事が嬉しかった。

 

もう少し待って欲しい今週には返答するということである。私の書籍代もきっちりと「永井古書店」が公に記載しているので、間違いない。少しづつ前進していく、私は公表されれば「谷口雅春先生」が如何にして生きられたかを書いていますので、購入していただければ少しでも御理解できるであろうと考えています。

私がどうして『谷口雅春先生著作年譜一覧表』を作成しようと思ったのか

これは今迄に何回か此処に記したであろうが、私がどうして『谷口雅春先生著作年譜一覧表』を作成しようと思ったのかといえば、そんなに大袈裟なことでなく、人の影響で『谷口雅春先生』の御著書を蒐集していた。大きな夢を持っているわけではなく、ただ何となくということである。だが蒐集して思ったのが、どのような本を発行されたのかが全くといっていいほど分からなかった。その当時はようやく見つけた『生長の家参拾年史』の後ろにある。著作集を写して、ノ-トに書き込んでいた。だが、戦時廉価版や戦時版や廉価版といった類が見つかると、『生長の家参拾年史』には掲載されていない本が沢山出てきた。

 

当時、青年会でも同じように蒐集していたO氏宅に訪問して聞きに行った。そうすると、余りにも私の所持しているのが、少なく何とか全般に亘って著作一覧表を作成出来ないかと鉛筆書きで記入していたものを、再び書き直した。私はこういう地道な趣味は好きではない。「釣り」や「麻雀」や「絵画」のような趣味は自分の性格に合っていない。細かい仕事や何年も懸って行う仕事など苦手である。だから中途半端なところがあり、自分でも出版したいとは全くその当時は思っていなかったし、大それた事も出来ない、矮小的な人間であった。勿論、「生長の家」教団では作成されているものだと思っていたのが大きな理由である。だから自分の趣味の範囲としておこなっていた。性格的にも長くコツコツとやる仕事は長続きしない。途中7年も蒐集しなかった時期もあるのだから、その証左であろう。

 

ただ、少し纏めてみようと軽い気持ちである。鉛筆書きで『谷口雅春先生著作年譜一覧表』を作成したのが、四十七年前である。鉛筆書きは一度全項目で書き直している。それからワ-プロなど出ていたが、それに書き写そうと挑戦したが、すぐに飽きてしまい断念した。

パソコンで書こうと思ったのも二十五年前である。それがある程度出来るまで三年程かかった。三年でA4サイズ約四十頁程度の著作集である。しかし友達にはこんなものは価値がないと云われた。書誌学を勉強しろと云われたのが、十七年前である。頁数はない、判サイズもない。こんなの趣味でもなんでもなかった。子供の悪戯書きのようなものであったと当時を振り返ると、我ながら赤面してしまう。

 

それから、少しずつ増やしていった。その私の著作集が私の全然知らない人に複写されて廻っていた。それには驚いたが、そういうことが縁となったりしていた。また再び私の知らない「谷口雅春先生」の著作を教えて頂いた。また永井古書店の存在は私の著作の大きな援護ともなった。その他四名の方の指導もあり、なんとか出版できる程度までは出来た。

四年前に出版しようと決意した。そうでないと話にならない。出版すると云いながら十年の歳月を経たが、A4サイズの198頁である。それから二年前に加筆して出版した三冊で総頁が570頁である。今回は800頁を超える本である。別途に120頁の本も出来た。

 

仕事もしないで一途に打ち込んできた、私はまだまだ満足などしていないが、我ながら「馬鹿」だなと思っている。仕事もしたいが、何しろ完成するまではと思っていた。蓄えも少なくなってきた。アルバイトをしないと悠々自適ではない私には荷が重い。それでも一年この事を行っていて止めたいなど思ったことがない。無償でやっているのだから、給与貰って光明化をしている人を羨ましく思ったりしたこともあった。本がないと購入したりするのであるから本当にお金が必要なんです。しかし、これから神様は屹度幸福にして下さると思って頑張ってしている。

 そうでないと気持も折れてしまいます。本来、世界聖典普及協会や日本教文社や教団本部や温故資料館の職員がしないといけない仕事です。そんな人が沢山の給与貰って何もしない。しかも、協力もしてくれない。なんでこんな事、私がやらなければならないのか・・・。社会事業団でも協力して呉れなかったのです。

 しかも、「あなたの貴重な資料、譲って下さい」と云われたのには、この人「生長の家」というより社会人として真っ当な人なのか疑った。

 だけど、そんな「社会事業団」だが、私は本が出来たら「謹呈」しようと思っている。そんな仕返しするような心は私自身したくない。愛情を持って接していきたい。「学ぶ会」にもそうしようと思っている。

 『生命の實相』のなかから沢山の引用もさせて頂いていますので、御礼だけはしたい。

 

私は掲示板で「マニアック」な人だとか云われたことも何回もあります。そういう人はそれでいいと思います。ほっといて欲しいと思っています。ただ一言だけ「貴方に谷口雅春先生の歴史を語れますか?」ということだけです。私は三時間でも四時間でも語れます。今すぐでも語れます。それが財産です。

雑感余話⑩

私の教区でも百万運動を率先して活動していた幹部が教区相愛会長に任命されている。現在の雅宣教団をオカシイとも思わすに会長に任命されている、どうしてそうなるのかである。現在の雅宣氏の発言に疑問を感じないのか、矛盾を感じないのか不思議である。何故、矛盾を感じないのかというと私の考えでは

① 「生長の家」の教えを深く勉強していない。

② 「生長の家」の歴史、伝統、教義を何度も読み直したことがない。

③ 天皇観や『古事記』『日本書紀』の古典を読まない、また原風景を見たことがない。

④ 日本の歴史に興味がない。戦後の歴史観に矛盾を感じていない。雅春先生が捉えた『法華経』を読まない。

⑤ 憲法に対して「生命体国家」に対しての捉え方が理解出来ない。

⑥ 実相と現象の捉えている方向が間違っている。

⑦ 等々

 

それ以外にもある、それは好意的にみてだが、抜けださずにいるのは居心地がいいからであろう。教区では「先生」と呼ばれ、それに有頂天に人間はどうしてもなるものである。それを脱することは「唯の人」になることである。それに耐えきらずにいることであろう。

 

先日、ある地方道場に行ったが、前任者は今年の二月で辞めている。想像はつくがここでは発言出来ない。その後任者は地方訛のある、叔母さんである。だがこの人に別段、あれやこれやという気持ちもない。発言しても理解出来ないであろうし、相手が理解しても「生長の家」を辞めるまではいかない。周囲の人間関係のほうが大切であろう。それはそれでいいのだ。

「道」を復興させ四書学を学ぶ

私は昨日の花園天皇による『学道之御記』の冒頭に書かれている文章を引用しました。それが下記に内容です。

 

「学問の目的はただ文字を識り、博学になるためのものではなく、本性に達し、道義をおさめ、礼義を知り、状況の変化をわきまえ、過去を知りして未来に活用するためのものである」

 

「道」を復興させ四書学を学ぶことを重き、書いておられるのです。

しかし、この言葉の意味を理解しないで、多くの人は知識のみに能力を養い、人としての道義を忘れ、やたらに他に対して「攻撃」を行ったり、それを反駁する人を憎み、怒りして、互に相爭い、本源としての信仰を忘れるのです。

 

 神想観を行った後に怒号を飛ばし、口角泡を飛ばして、ホンの数分前の神想観はなんだったのだろうと思う様な人が幹部に現れたりしています。

 

 「宗教同士爭うな」と谷口雅春先生を書かれています。しかし、そんなことを忘れて、別の文章を引用して「雅春先生」はこのように書いておられると掲示板で批判するのもおかしな話である。如何に爭いを防止することも、頭の中に考えておかなければならない。

 別に仲良くせよとは云わないが、互に相手を批難することだけは「周囲」からみても恥ずかしい事である。

 確かに教団側の醜態は目に余るものがあるが、内部ではそれほど重要と考えていない人が多い。それより、「仲良し」で行っていきたい。今迄、先生と呼ばれていたのを放逐したくないという慾望が優先するのだから、致し方ない。だけども教団内でも真剣に考えている人もいる。そういう人に支援したい。なんとか出来ないものであろうか。

花園天皇 十楽院上陵

花園天皇といえば、私はどうしても「御陵」を思い出す。そして、青蓮寺門跡と知恩院を思い出す。地域は粟田という所で東山へ登って北側の出口が「粟田口」である。青蓮院門跡の横を通る。その寺院に挟まれる様な所に天皇陵があります。この御陵は土日が閉門しているので平日しか参拝出来ない。それと「花園天皇」の次の天皇が「後醍醐天皇」なのでとりわけて憶えている。それと『花園天皇宸記』が有名で直筆でほとんどが書かれていて、後醍醐天皇が隠岐に流されたことも詳しく書いています。また次の言葉が大好きで、自分を戒めるためにこれを憶えておきたい。

「学問の目的はただ文字を識り、博学になるためのものではなく、本性に達し、道義をおさめ、礼義を知り、状況の変化をわきまえ、過去を知り未来に活用するためのものである」

 

『学道之御記』の冒頭に書かれている文章です。誠にそうだなと、感慨深く考えてしまう様な言葉です。

 

その学識・識見の高さから、歴代の天皇として最も優秀だったととの評価があります。

 

諡〈おくりな〉の「花園」は天皇が譲位後、仁和寺近くの花園萩原殿を離宮にしていたからその花園という名称を付けられたといいます。

京都の花園にある妙心寺には何度か足を運んだことがあり、南から北まで大変距離がありまして、その周囲にも塔頭があり、その広さは京都一です。

天井の雲龍図はその龍の目を見乍ら、堂内を一周しても、常にその龍の眼はその見る方向は龍の眼も変らなく見ているという。

 

釈尊が嗣法の弟子・摩訶迦葉(まかかしょう)に向かって述べた「正法眼蔵涅槃妙心」から摂られたという。開基は花園天皇である。

 

花園天皇はこの地で亡くなっているのでこの地に陵墓が置かれるのが普通ですが洛西から洛中を越えて、洛東の地に運ばれたかというと洛西は花園天皇の持明院統と対立する大覚寺統の本拠地でそこに陵墓を建立したのではないかといわれていますが、当時青蓮院門跡の門主は持明院統系列の皇子が務めていたから、青蓮院門跡に葬られたのではないか、少し不明な所もあります。

 

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雲をふむ峯のかけはしそれよりもうき世をわたる道ぞあやふき

 葦原やみだれし國の風をかへて民の草葉もいまなびくなり

 

花園天皇まとめ

•第95代天皇 花園天皇(在位:13081318)

•持明院統の伏見天皇の第四皇子。院政が行われていたため、実際の政務に関わることは少なかった。

•両統迭立の慣例に習って、大覚寺統の尊治親王(後の後醍醐天皇)が皇太子となる。

•後醍醐天皇に譲位した後は、後の光厳天皇を養育する

•禅宗を信仰し、和歌にも優れた才能を発揮した

 

院政のため、実際の政務に関わることは少なかった

95代:花園天皇は持明院統の第92:伏見天皇の第四皇子。

94:後二条天皇即位時に皇子がいなかったため、皇太子となった。

後二条天皇が即位後7年で急死すると、花園天皇として即位。しかし花園天皇治世の

前半は父である伏見天皇、後半は兄の後伏見天皇が院政を行ったため

花園天皇が自ら政務に関わることは少なかった。

 

譲位後は、禅宗を信仰し出家。後の光厳天皇を養育した。

1318年に、大覚寺統の後醍醐天皇に譲位。

譲位後は、後醍醐天皇の皇太子となった量仁親王(後の光厳天皇)を養育した。

譲位後は出家するなど、禅宗を信仰し、1324年には仁和寺の花園御所を寺に改めて妙心寺を開いた。

また、風雅和歌集の監督を行うなど、和歌や学問に優れていた。

 

人物

歌道・学問・書道に優れ、特に和歌では京極派の主要人物の一人で『風雅和歌集』の監修を行っている。日記『花園天皇宸記』は宸筆の原本が今日に残る(宮内庁書陵部蔵)。信心深く読経や念仏を欠かさなかった。

 

『誡太子書』と同時期に量仁親王のために著したとみられる『学道之御記』(宮内庁書陵部蔵)では、その冒頭部で「学問の目的はただ文字を識り、博学になるためのものではなく、本性に達し、道義をおさめ、礼義を知り、状況の変化をわきまえ、過去を知り未来に活用するためのものである」という意味の一文を掲げているが、そこからも天皇の持っていた学問に対する考え方がよく見て取れる。逆に、博学だけを吹聴したり、風月文章をもって旨とすることを「学者之弊」として戒める記述が『花園天皇日記』には散見する。
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青蓮院門跡がはっきりと見えます。
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知恩院です。

人間の醜さと醜態

人間の醜さと醜態

 

私の近くの一軒家がある。三年前位に新築を建てたが二匹の柴犬を飼っている。だが、その飼い方に問題がある。屋外に夜遅くほおり出し、朝早く屋外に出す。犬が大きく鳴いても平気である。近所迷惑甚だしい。それでもその家主はへっちゃらなのである。

 いわゆる、迷惑な家である。そんなことしていて平気なのかと疑問にもつものだが、周囲は関わりたくないという気持ちで無言を通している。だが隣にいる住人は迷惑も甚だしい。

今朝、630分頃からけたたましく怒鳴り合いが響いている。私の周りも騒然としている。


  7時30分には近くのあの有名な千里山交番から7名の警察官が事情を聴くために駆け付けた。パトカーもいたので、吹田警察署からも来ているようだ、激しい怒鳴り合い、警察官もその迷惑の住人に怒っていた。
 「そもそも、貴方が朝早くから犬を放置して鳴き声を放置しているから悪いのでしょう。」「少し反省しなさい」それでも頑なに誤りもしないし、悪い事も認めない。

 丁度、片方の家が引越しもせずに放置して草は生え家が土で汚れ、汚くなっているので業者が改善補修の爲朝早くから来ているから、余計にもめ事になったのである。


 ゴミ屋敷でもそうである。私の姉の近くの家がゴミ屋敷で有名だった。どこから家に入るのか分らない。もう何年間も放置されていた。だが残念なことに、放火か出火にあって藻屑と化している。

 

人間というのは「自分がどのようなことをしているのか」を冷静に見つめ直すような心が必要である。邂逅する場合には善き雰囲気に出遭うのも悪い雰囲気に出遭うのも自分の心の中にある。その心の醸し出す雰囲気というのがとても大切になってくる。闘争心の溢れるような人は心がどこかに相手をやっつけようとする心が滲むものである。そんな気持で物事を対処していると、どこかに弊害が生じてくるものである。それは自分の心がそういう因縁を導いているのである。

 

しかし、世の中にはそんな醜態を曝け出す人間がいるものである。「孟母三遷」で引越しするのもいいであろう。だが、一軒家に住んでいたりすると隣人はなかなか引越しも出来ない。そういうことで「こころが病む」場合がある。それも自分の心が引き寄せているのであろうか。もうそんな世界に住みたくないと思うものだが、人間の醜さというのは「己の判断」が出来なくなっている。自分の名誉、自尊心と余計なものを取り払うことが大切である。そんなことをがむしゃらに摑んで離さないと、自分も醜い人間になる可能性もある。そうならないように「勉強」も必要である。勉強は我が身を豊かに育ててくれる場合がある。「一切は自己責任なり」と断ずるもいいが、心の弱い人には酷である。

 しっかりと知識を身に附けて、良い雰囲気を保つことが大切である。そうすると、そういう悪因縁というのは自分の周囲から立ち去るものである。

『親鸞の宗敎』がどうして發行されたかの意義を知る

最初、迷いがあったのが、何故この著書が國民總自覺運動のシリ-ズの一冊であるかということです。

ただ、読むと納得できるのですが、今回の“造化の三神”を祀ることについてですが、私はどの宗教であっても萬教歸一であることを忘れてはならないことです。以前に書きましたように“現在の生長の家”の実態を見て悲しむ人がいます。

それは母である谷口惠美子先生ではないかと思います。

母は悲しんでおられると思います。こんな子供を育てた憶えがないといわれるでしょう。私も“生長の家”を熱心に行っていた時に母からそのように云われたことがありました。

 どれほど自分が正しい事を行っていると思っても、それは間違いの場合があることです。人に憎しみを買い、恨みを云われ、あの三代目の坊ちゃんといわれても改心しないと周りの意見を聞かなくなり周囲が見えなくなり、妄想して間違いを起こす要因となります。

 

 再度、自分の行っていることは正しいのか、悔い改めて浄心することが必要と思っています。

そんな私の思いなど伝わることがないのが悲しくなる。

 こんな人間にはなりたくない。その一言です。

 

 さて、以前にも書いたが、私は現教団を批判する時は谷口雅春先生のお言葉は使いたくないという思いは変わりません。私はそんなことしていて天国にいる谷口雅春先生が悲しむだけである。そういう思いが強くあるからです。已む得ない時は使いますが、智慧あるものは却って、その知識を見せびらかしたいものですが、徳あるものは其の德を隠したがるものです。

 本来の「智慧ある者」は穏やかに優しく包み隠しながら発言するものです。


 この『親鸞の宗敎』を発行された意義を“宗教同士の人間観の確立”と書いています。それは「
大信心は佛性なり、佛性卽ち如來なり」と書いているように批判する相手を怨みをもって裁くのではない。愛をもって仏として拝むのである。

連日のように批判した文章を書いていると相手が反省するどころか「憎しみ」さえ感情を抱くようになる。そうしたことを無くするには宗教家ならば「愛を説かなければならない」そうしたことが果してできるのかどうかであろう。今は宗教家としては失格である。

最後にどうしてこの書が
國民總自覺運動のシリ-ズの一冊として掲載されたかである。私はようやく理解出来た。

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『親鸞の宗敎』昭和38年5月1日

国民総自覚運動本部

國民總自覺運動の趣旨目的について

一宗一派でない宗敎/1

彌陀の光に照らされて腎臓結核の治った話/2

人間は決して「煩惱具足の凡夫」ではない/3

萬敎歸一の神示/5

“南無阿彌陀佛”の稱名念佛の意義/7

“肉の人間”から“彌陀一體の人間”に生まれかわる/8

本來「罪惡深重の人間」は無い/8

大信心は佛性なり、佛性卽ち如來なり/9

闇を去って光に迎え/11

説き方の混ぜ物を宗敎の眞理と間違えてはならない/12

法華經の眞隨と浄土眞宗の眞隨/13

純粹に眞理の眞隨を説く宗敎/15

西方極樂淨土の眞實性について/16

淨土眞宗の敎義の眞隨/17

釋尊は何故「西方十萬億刹の彼方」とお説きになったか/18

方便説法は何故必要か/19

“我れ如來と一體なり”の自覺を深める瞑想法/21

もっと“生長の家”を知りたい人のために(編輯部補記)/24

 

受領書での御礼

国会図書館 関西館から受領書が送付されてきた。献本した本である。

 

関西図書館でもそうであるが、結構身近にあると読んでみようと云う人が現れて来るものである。それはパ-セントで云えば少ないものである。新聞チラシと同様で35%の反応があれば来てくれるような篤志のような人は必ずいるもので、読んでみようとする人もいる。そういえばそれで会員になった人もいる。またそのように思った人でも地域に組織が無くて断念する人も或る。以前に『生命の實相』を全巻読んで感動して私達吹田青年会に入会していただいた人がいた。今は奥さんが熱心な「学ぶ会」の責任者である。徳があって入信したのだとつくづくと思う。
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二名樣コメントありがとうございます。

亀の子様コメントありがとうございます。

いつもブログを拝見させていただいております。

今では「谷口雅春先生」の著作を研究して、その経緯を調査する人も次第に少なくなり、消え失せんとするなかに、「亀の子」様には一筋の光明を見出します。今回の『危機に立つ日本』―それを救ふ道― 救国叢書・1は自分の所有の物にしか、念頭になく、或る方からの「第三版」があることとそれには「愛に關する十一章」が掲載されていない事を知り、まだまだ知らない事が多すぎることにある面では“落胆”もしたり、五版における時では既に「愛に關する十一章」があることを知らせていただき、もう少し頑張らなくてはという“意慾”が出てきたりして模索しています。その間に「愛に關する十一章」を追加するよにした原因はなんであったのかも当時の状況も考えながら検証していかなければなりません。

 

本音の時代樣コメントありがとうございます。

「生政連」の活動停止について今思うのは、当時の谷口清超副総裁をはじめ皆が「生長の家の政治運動の基本」を忘れていたのではないかと推測します。活動停止の説明に用いられた「宗教活動の純粋性を保持するため」という言葉は、明らかに「生長の家の政治運動の基本」を忘れていたことを立証していたのではないでしょうか。当時谷口雅春先生が明確な反対意思を示されなかったのは、信徒ひとりひとりの「生長の家とは如何なるものか」という確認意識することを暗示していたのではないかと思われてなりません。そこを避け、目先の現象に拘った結果が今に繋がってきているのではないでしょうか。

 

「生政連」の活動停止という事態はその当時の地方の生政連会長には全く知らされず、生政連の全国会議でいきなり発表されたという因縁のもので、その当時の大阪の会長である人のお手紙を所持していますが、日頃怒ることのない温厚な人が厳しく断罪されている。

 

生長の家の色々な事を行って失敗しても何も総括していないし、反省もしていない。「生政連」で何が悪くて停止したのかがさっぱりと見えてこない。「御上の御意向」というコトバがありますが、「下の者は随え」という完全な「御意(ぎょい)」であり、「葵の御門」でもある。しかし、そういう算段が過ちを見過ごす要因ともなります。

どこが悪かったのかということでの反省ならば、それが見えて来る筈であります。しかし私が見ただけなので判断を下すというわけにはいかないのも当然ですが、全く見えてこない。

 

「生政連」に関しては誰も反省もしていないのは確実である。戦後の「過ちは繰り返しません」というコトバが反省ならば、政治活動に拘わらないのが反省であるという固定観念も私にすれば全く反省などしていない。原因と結果とそれを遂行して、どういう指令で動いたのか、そのコトバの何處が悪かったのか、それを発する人は何人いたのかという細部にわたり検証してほしい。三十年という長きに亙り活動してきたのであるから、それを示せないと云うのは「そういう悪い事はなかった」と推測されるのも吝かではない。

 

総括出来ないのは「現教団」の雅宣氏がいくつもの失敗をも現在も繰返し(成功したことがない)、教勢を衰退させても何の反省もしていないのと同様である。

雅宣氏が『生政連』を停止させたと巷で噂されるのも案外真実であるのかも知れない。だから検証できないのであろうという推測も間違っていない気がする。

救国叢書と国民総自覚運動シリ-ズの本及び冊子(パンフレット)

今回の「谷口雅春先生愛国書シリ-ズ」は戦後の政治に於いて戦前のように「二度と戦争を行ってはならない」という深き考えから出発したのですが、それが「谷口雅春先生」の愛国書が読まれなくなり、掲示板ではそうした深い考えから到達したのにも拘わらず、その反対の意見を平気で発言したりしています。

 読み直しをする機会が今回あり、読んでいると、どうして「生政連」が停止したのがわからなくなりました。私からすれば「指導の方法」だけの問題なのではないかと思うようになってきました。今回の「愛国書」以外に『動向』『民族と政治』『帝都日日新聞』(やまと新聞)・『中外日報』・『新日本春秋』等読ましていただきました。下記のなかで『親鸞の宗教』は後日掲載させて戴きます。

 下記は国民総自覚運動として発行された本です。それと救国叢書は1冊しかありません。御存知の方は是非それ以外にある本及び冊子を教えて下さい。

 

◉ 昭和34814日 全国代表者会議にて第一次五カ年計画で国民総自覚運動始まる。

※「国民総自覚運動の方向とその中核たる思想信仰」(『生長の家』S35.1)を発表

▽『憲法について知らねばならぬこと』(パンフ)出版。井上孚麿氏の現憲法無効論を紹介。国民総自覚運動第一集

▽「声なき声よ、手をつなげ―赤色革命のゲリラ戦はもう始まっている」を発表。さらに同論文を国民総自覚運動シリ-ズ

▽危機に立つ日本  それを救ふ道 救国叢書・1

▽憲法について知らねばならぬこと (国民総自覚運動シリーズ;1)

▽天皇と戦争―国民の是非知らねばならぬこと(国民総自覚運動シリーズ ; 2)

▽日本の国旗・日の丸(国民総自覚運動シリーズ ; 3)

▽愛国心と日本の憲法 国民総自覚運動シリ-ズ(小冊子)国民総自覚運動本部

▽親鸞の宗教 国民総自覚運動本部

▽愛国心を如何に見るか  日本の生ける特殊の愛国心 国民総自覚運動本部

▽無限への前進 (発行所 国民総自覚運動本部

▽“忠”の倫理的根拠について(小冊子)非売品 国民総自覚運動本部発行

▽戰爭誘發者は誰か? ―この歷史的事實を見よ― 国民総自覚運動本部国民総自覚運動シリ-ズ

『生長の家政治運動の基本的立場と当面の基本方針』

この本の最後に

これらの運動を貫ぬくものは、表面はどんな政治運動であろうとも、あくまで生長の家の教の精神でなければならぬ。又この運動をする者が教の真髄を相当程度に体得した者でなければならなぬ。この根本精神が薄れて、我等の政治活動が普通一般の政治活動になるとき、どんな見事な活動であっても、真実の日本の政治とは成り得ず、我等の活動の意義は大半うしなわれるであろうからである。

となっている。非常に厳しい言葉である。箇条書きの最後にある【(8)教団内部及び信徒各位に於ける研究と訓練】はとりわけ大切な項目のように思える。世界情勢と国内情勢との内憂外患を調べ、その根底に成るものを把握することが必要である。そのために、日々精進して勉学に励み、洞察力を見分けることが大切に思える。

なんでもそうであるが、あの方がおっしゃるからとかではなく、自分で調べることが大切である。自己研鑽、自己向上することが大切である。

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生長の家政治運動の基本的立場と当面の基本方針

生長の家中央国家対策委員会 昭和38127

われわれが推進している主な国民運動

まえがき

目次

一、我が国内外の情勢/5

二、生長の家政治運動の必要性とその意義/7

三、神示にあらわれた我が国の理想像/8

四、政治運動の当面の基本方針/10

 (1) 憲法復元とその改正/10

 (2) 政界浄化運動/11

 (3) 日の丸運動/12

 (4) 教育正常化運動/12

 (5) 生命尊重運動/13

 (6) 唯物思潮の克服/14

 (7) 他団体とその協力/15

 (8) 教団内部及び信徒各位に於ける研究と訓練/15

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