則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2020年06月

讀んで戴ければ幸甚です。

「学ぶ会」に所属されている元教化部長がどうして改革出来なかったを考えれば、教団の信徒に答えを求める必要はない。

「今回の「通達」には、総裁も理事長も参議長の名もない。そんな代物で、実質上、総裁は“宗教改悪”をやろうとしているのに“総裁リコール”の声は挙がらないのか…」

というタイトルで書き込みされていますが、私は「学ぶ会」に所属されていた元教化部長に聞けば一番早いのではないかと思っています。その破邪顕正さんを筆頭ですよね、その要件に当てはまります。そこから、何人か元教化部長が所属されています。最新では、今年度入社された元教化部長に聞けば一番確かである。何故、先頭を切って、改革に起ち上がらないで「学ぶ会」に役職という手当を付けて貰って入社されたかを自問自答されれば、一番早くわかります。

 

 それは、一番それが手っ取り早いからです。一種の「逃げの一手」です。

 

 何故、外部に聞くような形式で書いているかというと、「私はもう関係ない」という思いから発しているからであります。本音の時代さんが書いていたが、「学ぶ会」に入社すれば免罪符になるのかである。そこで全ての罪汚れが消されるのかである。

 私は教団とは関係が無いから、ドンドン批判して行こうと思って居られることはよく伝わりますが、どうして所属されていた時に、改革出来なかったのかです。それを考えれば答えが出ます。反対にどうして「教団の信徒」に聞く前に自問自答しないのですか?どうして教団にいるときに教化部長という大きな役職のときがチャンスではなかったのでしょうか?私は他に求めてばかりではなく、自分に問答して、考えることをしないと駄目である。

この世は非情の世界なのか

この世は非情の世界なのか、下記のように「愛国掲示板」に書いて頂き、感謝申し上げます。

 

 【日時:20200628 () 2034

名前:tapir

 

「小さな聲」様のご投稿を読ませていただき、今回の「通達」の早すぎるタイミングの情報流出について、則天去私様が以前に書かれたご文章を再読いたしました。

 

>ここで、77日までのお願いとなっています。その前に内通者により、秘密だった通達が公然となったのです。その場合にそれを公然に社会に明らかにすることが“正しいこと”であるかどうかです。それは社会的に行えば法律に照らし合わせれば、明らかに密偵者した行為は罰せられることになるのです。所謂、背任行為です。また、例え相手が悪いとしても私の考えはあくまで77日以降に発表であれば承認しますが、事前に公表するのはよくないように思います。仮に反対の立場ならどう考えるかであります。<

(「2020060116:55 今回の通達に惟ふ」、「則天去私」

http://tecnopla1011.blog.jp/archives/82189119.html

 

 

私は当初、通達内容の衝撃に気を取られ、内通者の背任行為に注意を払いませんでした。それに基づいて投稿してきた私が今さら偉そうなことを言う資格はないかも知れませんが、教化部長に宛てた通達が地元幹部に伝わる前に「第二掲示板」にいち早く掲載されたのは、内通者があったとの則天去私様の御推測が事実である可能性が高く、そうであればその内通者は、自分の良心に照らして、少しも恥じるところがないかどうか、省みる必要があるでしょう。そういう犯罪ぎりぎりの汚い手を使うのは、結局、大多数の生長の家信徒の信頼を失う結果になるのは必定です。

 

他山の石として、常に良心の声に耳を傾け、神に恥じない生き方を努めて参りたいと強く思いました。】

 

 私など信仰というのを説き乍ら、何にも出来ていない人間です。破邪顕正さんのような立派な人間ではありません。

 そんな立派な人間だからこそ、他人に対して批評とか批判を行う場合に自分の身を清めて、脚下照顧して「常に自分はその人を審判していないかを考えるべきだと思っています。」

 でも、人間というのは「自分の失敗や間違いや欠点」より「他人の欠点」が目に付くものです。他人を常に監視して、何か言い間違えないだろうかと虎視眈々と獲物を狙う、ライオンのように背を低くし、風向きを考え、動作を考えて襲いかかる。

 

 どうだ!と背を伸ばし、自慢のように悦に入るものです。しかし、そのなかでそれを書いた責任者(本来の責任者ではない)が島流しのように左遷(四国)として遠島させられる。

 所要な人は何の責任も取らないでシャアシャアと私は関係ありませんというように生きている。本当に醜い世界である。

 

 そんな人が「人間神の子」を講話している。「大調和の教え」で導いている。そんな時に自分が行った「失態」など脳裏にはない。少し反省せよと思うが、悪びれた様子もなく、生きている。

 

 もう少し、「他人に思いやり」をみせても損はないのだが、それより自分がいかに「徳」をするかを考えている。全て自分の徳だけで生きている。

 

 私はそういう組織に生きていきたくない、それはどちらも正義ではないからだ。

 自分は正しいことしているとは、私は思っていない。人に對して、「人間神の子」など講話など出来ない。「審判いたり」感情に任して生きることも多々ある。

 

 あの破邪顕正さんも現総裁の就任当時は仲良く行っていたことは知っている。私達はそれを見て厳めしく思ったものである。だから、今回の連日の批判を見ていて「好きなほど」嫉妬心が湧くものであると、冗談でもそう思う。

谷口雅春先生旧制市岡中学時代の年表

谷口雅春先生旧制市岡中学時代の年表

39.4.15   
大阪市立市岡中学校に入学。

39.4.28  信貴山へ旅行

39.12.01  旅行奈良

40.2.18    寒中行事

40.5.04    終日旅行和歌山

40.7.17    堺大濱にて水泳訓練

40.10.056 第一回文藝大會

40.11.22   修学旅行生駒山

41.4.08    第三年級始業式

41.4.26    第六回陸上大運動會

41.4.30    周宮内親王殿下武田宮殿下御成婚記念小運動會

41.5.09    修学旅行京都

41.10.24   枚岡

41.11.11   陸軍大演習参観の爲大和生駒添上地方へ一泊旅行

41.11.15   天皇陛下梅田驛御通過に付一同同校内に鳳車奉迎

41.12.05   第二回文藝大會

42.2.11    紀元節拝賀式

42.4.08    第四年級始業式

42.4.15    東宮殿下御東歸一同梅田驛校内にて奉送

42.5.1115 修学旅行伊勢尾濃方面(三泊)

42.10.4    講堂訓話

42.10.23   修学旅行大鳥神社堺方面

43.2.11    紀元節拝賀式

43.4.08    第五年級始業式(丙組)

43.4.21    笠戸丸築港碇參觀

43.05.01   陸上大運動會

43.05.03   五年級講堂訓話

43.5.0815 修学旅行四国中国地方(六泊)

43.9.06   韓國併合記念講演

43.10.05  東宮殿下御梅田驛通過奉迎

43.10.29  道明寺

43.11.12  天皇陛下三備地方大演習行幸往西鳳車奉迎

43.12.06  第五年級講堂訓話

44.1.09   始業式、有賀博士の講話

44.1.15   井上哲博士の講話(今宮中学にて)

44.2.11    紀元節拝賀式

44.3.24    大阪市立市岡中学校を卒業。(19歳)

明治天皇大演習御統監之地 明治411111日(1908)に陸軍の大演習があった。明治天皇はこの地に立ち統監した。(明治天皇聖蹟-)に記載。

明治天皇聖蹟-明治天皇大演習御統監之地

 

 

 

 

あの明治天皇大演習御統監からの大演習に行っておられたと思いますと感慨深いものがあります。

また、道明寺にも行っておられたことも考えると、最近行ったばかりなので、嬉しくなります。

枚岡というのは枚岡神社の周辺に行かれています。

市岡中学校伊勢美濃修学旅行

この写真の中に雅春先生がおられます。
結城神社の前で寫眞を撮られています。

結城神社とは

結城宗広は後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加し、建武の新政以後の南北朝時代にも南朝方で戦った。北畠顕家親子に従って二度陸奥から京に向けて攻め上ったが、帰国の途中で難破し、伊勢国で没した。その墓と伝えられる場所には、塚の上に六体地蔵が置かれ、結城塚と呼ばれていた。

1824年津藩の藩主藤堂高兌により社殿が造営され結城神社と呼ばれるようになった。

1879年(明治12年)に村社になった。翌年三重県を訪れた明治天皇が、200円を祭祀料として寄付した。これを機に結城神社の社殿改築、昇格の議論がおこり、県が内務省に願い出て、1882年(明治15年)に別格官幣社に列せられた。

組担当表(市岡高校創立百周年記念誌から抜粋)

明治39

一年

米良文太郎

望月鵬之助

山北 孜

明治40

二年

岩崎藤次郎

川崎辰蔵

 

明治41

三年

林 茂久次

中尾圭吉

平野政二郎

明治42

四年

 

上島爲治

林 茂久次

小牧弘之

明治43

五年

 

 

横田則一

 



『光のこだま』から

生長の家に寄せる 各界著名人の声 『光のこだま』から

立教五十周年

日本民族の核心    作家 林 房雄 

大東亜戦争の敗北以来、わが国は連合国が押しつけた「占領憲法」とその支持者たちによって支配され続けてきた。そのために、日本人の民族的自覚は崩壊の一歩手前まで来たかのように見える。

 しかし民族の核心はほろびない。いまや戦後体制に対する猛然たる反撃がおこり、国民の中に新日本建設の気運が漲り始めた。この時、谷口門下が結集して大会を開く。その意義は大きい。谷口先生の識見と愛国の情熱に正しく答えて、昭和維新への道を一路邁進せられんことを。

 

自伝篇との運命的出合い   洋画家 林 武

丁度大東亜戦争が始まった頃、友人の家で『生命の實相』自伝篇を読み、先生の人間的なすべてに非常に感激したのであります。「物質はない」という素晴らしい哲学に非常に感動したのであります。その頃、僕は十二指腸潰瘍で駅の階段を三十分位かかって上る程衰弱していましたが、先生の“無我!”の一喝で完全に治ってしまい今日の健康を得たのでございます。

 

 そして僕は、谷口先生から生かされてから、構図法というものを一種の霊感で毎日神憑りのようになり

追求し、そして絵には一つの中心があることがわかったのであります。そして世界にも日本にも全てに中心があることがわかったのであります。

 

 何ごとであれ、一つの中心が確立されなくてはなりません。中心が二つあったら全く駄目なのです。又、ありっこないのです。だから天之御中主之神がどうしても正しく把握されなければならない。そしてこれは決して反動ではなく、結局は人類も一つの中心に帰一すれば世界の平和も確立するという、宇宙の一つの法則であります。結局、谷口先生の「天皇」と「憲法」に対する最近の非常なご熱情は、日本の精神に中心を立てるというところから来ていると思うのであります。

歴史的な検証をしないでいるからこういう事態になるのである。

昨日は午後から大阪市立中央図書館に行っており、その目的は谷口雅春先生の市岡中学時代の頃を最終確認のためでした。

 今後、このように調査を行ったり、検証する人が出て来ることを願っておりますが、常に私がこういう検証をする人が最後かも知れないという思いでおります。確かに、著作物として夥しい數の本があり、その多くは重版未定の憂き目にあっており、尊敬される方はおられますが、その人も次第に少なくなってきております。本が少なくなったり、出版されなくなったり、読まれなくなったり、語られなくなったりすることがどれほど、憂いるべきものかを理解して戴きたい。

 

 私はそのためにも『歴史から何を学ぶか』という現在の妹尾教化部長の失礼ながら「駄作」の検証を再度行わなければ駄目であるという思いです。

 あの妹尾教化部長の書いたものは単に系列で「谷口雅春先生」のお書きになられた文章を掲載しているだけの、何等検証も行っていないものです。当時、何があったのかが、歴史的に書いていない。それにより、勝手に「原理主義」だとか「谷口雅春先生も間違う」という、植え付けに成功した。

 歴史には「その時代背景」を見ることが大切なのに『歴史から何を学ぶか』という大層な文字の羅列であるのにも拘わらず、何等学んでいない。最初から決め付けて、結果ありの検証です。年代と国際的に何が起ったのか、日本軍はその時に何をしていたのかという年表など皆無であり、外部の調査委員会からすると「歴史から何も学んでいない」という結論しか出てこない。

 楠本行孝氏も同じです。折角、谷口雅春先生の書かれている「法脈と血脈」には触れずに、一部の文章だけを引用する手法で現在の総裁の地位を担保するような文章作成でこれも初めに結果ありきの文章です。

 また、現在の「實相額」に宝塔のような何かわからないものを設置するにも、これだけ各地で騒がしくなると実施を延期となるでしょう。まあ当り前のことを法律に則って行わないからそのようになるのです。

 責任者の名前も列記されなかったのは、こうした事態を予測したのは間違いない。亀の子氏が書いています。

【聞くところによれば、あの「通達」(破邪顕正氏の情報より)の筆頭に挙げられていた「非常任参議(講師教育部長)」が、元の四国2教区の教化部長に戻り、そこの教化部長が講師教育部長になる交替人事があったとのこと。】

 

トカゲの尻尾切りで済ますのであろう。根本的なそれを考えた責任者が変らないかぎり、斯ういう事はまた続くことになる。

記事タイトル、コメントにみる、その人の真意を探る。

 
コメントを戴く多くの人は
  • 合掌有難うございます。

  • いつも、拝見させて戴きます。

 

このように謙ってからの文章です。そういう文章を拝見していて、嗚呼、私はもう少し謙譲して書かなければならないと思いつつ、いつも文章の下手さに、吾乍ら呆れております。そういう私の稚拙な文を讀んで戴ける有難さを痛感しております。

 

 また、失礼ながら、そうでない人も、何かを言いたいのだろうなと思いつつ拝見させて戴いております。私事も書いておりますが、お許し下さい。内容で理解出来ない事もあるかと思いますが、私の拙劣だと思って居ります。御容赦下さい。

yoshi2樣、お詫び申し上げます。

コメントありがとうございます。

ご指摘の通りです。申し訳ないが知っていながら( )内でわかりやすいようにと思ってしました。不愉快だと思われたらお詫び申し上げます。本来は貴方の通りで諡號はお亡くなりになられた後に付ける名前です。

 また、これに懲りずに讀んで戴くとありがたい。

 

 さて、今回○○上皇というのは歴代天皇からしますと最近書いた、崇德天皇など上皇時代が長く、崇德上皇と反対に讀んでしまうほど、大変な御苦労があったのです。昭和天皇以前は光格天皇以降から一世一代という形式になったのですが、これも二か月前に記入した土御門上皇ですが、自ら進んで流配された天皇です。

その時に同じく流罪となってしまったのが順德天皇です。順德天皇はあの有職故実書『禁秘抄』ですね。気性は激しかったようですが、実直なお方のようです。

『小倉百人一首』にはこの一首です。

ももしきや古き軒端のしのぶにもなほ余りある昔なりけり (順徳院)

 

 歴代天皇を勉強していると、どこから上皇と付けたらいいのかわからなくなる時があります。御製の時は天皇として統一します。それでも本によっては時折、上皇という記載があります。

 

石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも

 私の産土神社は「垂水神社」である。家から北側へ山の方に登ったところにある。

万葉集の志貴皇子が歌ったとされる歌がある。

 垂水神社にその歌碑がある。そこに

(万葉歌碑)

いははしるたるみのおかのさわらひのもえいつるはるになりにけるかも

               (志貴皇子 万葉集巻81418

 

あれ?たるみのおか?どう考えても習った言葉と異なる。

 

 この歌の普通の訓は「石走る垂水の上のさ蕨の萌えいづる春になりにけるかも」である。

 「垂水」は滝などの意味の普通名詞と考えるのが一般的であるが、これを特定の地名と考え、この地の地名「垂水」のこととする説もある。この歌碑がここに建てられているのは、この説に拠っているということである。

 この説を主張しているのは契沖である。

 彼は、その著「万葉代匠記」に於いて、志貴皇子のこの歌と次の歌の「垂水」について、この地の地名「垂水」のことだと論じている。

命(いのち)をし さき)く(よ)けむと 石走(いはばし)る 垂水たるみの水を むすびて飲みつ

                    (万葉集巻7-1142

 

[題詞]春雜歌 / 志貴皇子懽御歌一首

 

[原文]石激 垂見之上乃左和良妣乃 毛要出春尓 成来鴨

 

[訓読]石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも

 

[仮名]いはばしるたるみのうへの さわらびの もえいづるはるに なりにけるかも

 

上(うへ)を“おか”と呼ぶのかである。反対に「妣」という字は“ひ”で濁音なしであろう。

何故、変えてしまったのか不思議である。学者が書いたのであろうが、素直に書けばいいのであろうと思う。

先ほど書いた、仁孝天皇の父君である。志貴皇子、志紀皇子、田原天皇とか色々と呼ばれている。

名前の面白さ

名前の面白さ

以前に会社勤めにおいて「やまと」という名前の人が二人おられました。一人は「屋麻戸」さんという人がいた。珍しい名前で小豆島から発祥された名前といわれています。あと大阪に少人数ですがおられます。

 もう一人は「山登」さんです。静岡と大阪に多い名前ですが、多いといっても珍しく少ない名前です。

 先日、羽曳野市に行ったときに白鳥陵の周囲に「麻」という名前が何件か表札にあり、変った名前だなと(地名が軽里)、家に帰ってから調べたら

①厚狭の異形。大阪府羽曳野市軽里が本拠。大阪府大阪狭山市狭山が藩庁の狭山藩士に江戸時代にあった。善隣。大阪府大阪市平野区平野市町に分布あり。厚狭(アツサ)参照。

②事物。植物の麻から。鹿児島県の奄美群島の一字姓。鹿児島県大島郡龍郷町に江戸時代にあった。

 本拠というからそこが発祥である。

 珍しい名前である。結構堺市に珍名が多いのは商売人が多かったせいなのか?昔から商売で栄えていたからか…

以前、奈良県桜井市の駅近くに「御簾」さんという名前があった。おすだれ?と呼ぶのかと思ったがそれはない。分らなかった。数日後帰宅して、早速調べた。「御簾」と書いて「みす」という。決して間違いではありません。

 

 高校時代に「水流」と書いて「つる」という人がいたな。また「提」と書いて「つつみ」という、どう考えても「堤」で土へんではないかと思ったが、三重県の人だった。

 また「寛」という漢字に跳ねた所に点が付いた名前があった、  これは異字体ですが、結構、そうした名前が残っています。

世を捨て、修行に明け暮れる人を垣間見る

ここ一箇月は“悪魔”を見ているようなそんな日々だった。私は通常通りこのブログを書いていたのだが、心の中では「醜い爭いの世界」に捲き込まれたくないという心情が強かった。

 組織の鉄則というのがある、弱肉強食の世界では相手が“弱り目に祟り目”の時こそ、対比する相手にとってはチャンス到来となる。相手を如何に引き下ろすかを徹底して、作戦して実行する。ライバルにとってはそれが、生き残れることであるからです。

 

 嫌だと思っても、そんな世界の「醜さ」のなかで生きている。世の中の「修行僧」と呼ばれる人でも、世を捨てて生活をしている人を知っている。その人をBさんとします。そのBさんは僅かな蓄えで、朝の三時には起床して大阪市東淀川区の住まいから箕面市にある勝尾寺の勝尾山手前まで自転車で通い、そこから山道を登りの時間が早いので最勝ヶ峰(開成皇子墓)の東側の磐座のような所でホラ貝を吹き、その後勝尾寺で読経して、昼からは天満駅のすぐ近くの天六商店街通りで読経しながら修行している。夜の10時に就寝に着く、春や秋には修行の爲に「大峰山」に登るという。修行生活に明け暮れ、家庭も持たない、一定の仕事もない。一度、その人から話を聞いたことがある。「人生が嫌になった」「人間関係で落ち込んだ」それが修行僧となった所以である。

 

 私はBさんを見ていて、「貴方の生活は、現在の社会生活より厳しい」それを敢て選択して修行に明け暮れている。半年前に天満で会った時には、吹田市千里山交番所襲撃事件で警官が刺された人が勝尾寺の参道に逃げ込んだ事件から勝尾寺には行っていないと云っていた。

 

 その勝尾寺の開祖である、開成皇子のことを思い出した。下記にウィキペディアから抜粋する。

 

開成(かいじょう、神亀元年(724年) - 天応元年104日(7811025日)は、奈良時代の僧。父は光仁天皇で、桓武天皇の庶兄。摂津国勝尾寺の開基と伝えられる。一般には開成皇子と称されることが多い。

 

765年(天平神護元年)宮中を出て勝尾山に入って禅居し、善仲・善算の二人の師に出会って出家・受戒した。両師の発願した大般若経書写の遺志を継ぎ、八幡大菩薩の加護を受けて6年の歳月をかけて完成させたという。勝尾山中にその経を安置する道場を建立し、弥勒寺(勝尾寺)と号したという。

 

781年(天応元年)に58歳で没し、摂津国の勝尾寺裏の最勝ヶ峰山頂(現・大阪府箕面市の明治の森箕面国定公園内)に葬られた。墓は現在「開成皇子墓」として宮内庁管理となっている。

 

 開成皇子の父は光仁天皇である。桓武天皇の庶兄と記入がある。腹ちがいの兄となる。

父は天智天皇皇子の志紀皇子の長男、白壁王で、幼い頃に母を亡くされ、父と共に飛鳥から奈良遷都には春日に移ってこられた。まもなく白壁王8歳の頃、父志紀(志貴)皇子が崩御された。その後、白壁王は奈良の山奥の田原の里で、野山を駆け巡って遊んでおられたが、22歳の頃に家に働いていた奴婢を孕まされた。生まれたのが開成皇子で、母はその後行方が分からなくなったが、開成皇子は9歳の頃天王寺に入寺して19歳で剃髪。20歳に摂津箕面の山奥勝尾山で山間修行中の善仲・善算について修行、受戒を受けて「開成」と名乗られた。その後箕面山中で修行すること十数年後の781年頃亡くなられた。

https://www.google.co.jp/maps/place/%E9%96%8B%E6%88%90%E7%9A%87%E5%AD%90%E5%A2%93/@34.867373,135.4875621,18z/data=!4m12!1m6!3m5!1s0x6006d0c3535b90df:0xb04a4f557863c232!2z5LuW5oi46Kaq546L5aKT!8m2!3d34.3338041!4d135.6908596!3m4!1s0x6000f97637530397:0x8b251dbcc297c10a!8m2!3d34.8675952!4d135.4886059?hl=ja

 

 

 同じ皇子でも身分制度のため、泣く泣く、隠居となり山中で修行した。光仁天皇の皇子には

皇后:井上内親王(717-775 - 聖武天皇皇女

酒人内親王(754-829 - 桓武天皇妃

他戸親王(?-775 - 光仁天皇皇太子

皇太夫人:高野新笠(?-789 - 和乙継女

能登内親王(733-781 - 市原王室

山部親王(桓武天皇)(737-806

早良親王(750-785 - 桓武天皇皇太子

夫人:藤原産子(761-829 - 藤原百川女? または藤原楓麻呂女?

夫人:藤原曹司(758-793 - 藤原永手女

夫人:紀宮子 - 紀稲手女

宮人:尾張女王(?-804?- 湯原王女

田親王(751-781

宮人:県主島姫 - 県主毛人女

弥努摩内親王(?-810 - 神王室

女嬬:県犬養勇耳(または男耳)

広根諸勝

未詳

開成(724-781

 

以前に紹介した「早良親王」が皇子としている。

また、他戸親王(おさべしんのう)についてウィキペディアから抜粋します。

【やがて称徳天皇が崩御すると藤原氏は他戸王の父である白壁王を皇位継承者として擁立する。かくして宝亀元年(770年)に白壁王は即位して光仁天皇となったのである。翌宝亀2123日には他戸親王は光仁天皇の皇太子として立てられた。

 

ところが宝亀3年(772年)、突如母親である皇后の井上内親王が夫である天皇を呪ったという大逆のかどで皇后を廃され、527日にはこれに連座する形で他戸親王が皇太子を廃される。更に翌宝亀41019日には、同年1014日に薨去した難波内親王(光仁天皇の同母姉)を井上内親王が呪詛し殺害したという嫌疑が掛かり、他戸親王は母と共に庶人に落とされ、大和国宇智郡(現在の奈良県五條市)没官の邸に幽閉され、やがて宝亀6年(775年)427日、幽閉先で母と共に急死する(この突然の死については暗殺説もある)。一連の事件は山部親王の立太子を支持していた藤原式家による他戸親王追い落としの陰謀であるとの見方が有力である。

 

かくして、山部親王が皇太子に立てられてやがて桓武天皇として即位するものの、他戸親王の死後には天変地異が相次ぎ、更に宝亀10年(779年)には周防国で親王の偽者が現れるなど、「他戸親王の怨霊」が光仁・桓武両朝を悩ませることになっていくのである。】

 

 この他戸親王の墓は奈良県の現在は五条市の柿畑の中にあります。その付近はちょうど御墓が立ち並んでおり、墓参りするようにして参拝致します。陵墓があると思えないような所にあり、北側には吉野川(紀ノ川)が流れている。

https://www.google.co.jp/maps/@34.3338809,135.6910203,3a,75y,236.49h,101.64t/data=!3m6!1e1!3m4!1snTX4HYI4CWoH2JFbD8Mamw!2e0!7i16384!8i8192?hl=ja

 

桓武天皇の母親が高野新笠で、以前に上皇(明仁上皇陛下)が当時

天皇陛下

日本と韓国との人々の間には,古くから深い交流があったことは,日本書紀などに詳しく記されています。韓国から移住した人々や,招聘された人々によって,様々な文化や技術が伝えられました。宮内庁楽部の楽師の中には,当時の移住者の子孫で,代々楽師を務め,今も折々に雅楽を演奏している人があります。こうした文化や技術が,日本の人々の熱意と韓国の人々の友好的態度によって日本にもたらされたことは,幸いなことだったと思います。日本のその後の発展に,大きく寄与したことと思っています。私自身としては,桓武天皇の生母が百済の武寧王の子孫であると,続日本紀に記されていることに,韓国とのゆかりを感じています。武寧王は日本との関係が深く,この時以来,日本に五経博士が代々招聘されるようになりました。また,武寧王の子,聖明王は,日本に仏教を伝えたことで知られております。

 

 以前にあった『続日本記』に記載されていると書いておられた文章の桓武天皇の生母というのが「高野新笠」です。

茅渟王とその関連(歴代天皇の名前の憶え方)

歴代天皇の名前でどれほど御存知ですか?

多くは10代程の名前で御業績となると、やはり難しくなる。それよりも簡単な方向へと流れてしまう。そんな小難しい話より、神武天皇や明治天皇、昭和天皇の方が慣れ親しんでいる。

 御陵とか系譜とかの記載をみても、何も知っている天皇がいないというのが大半だと理解しています。

私においても皇族関係や皇子、皇后など、最初はチンプンカンプンで頭に名前が入ってこないし、憶える気もありませんでした。

 

https://www.kunaicho.go.jp/about/kosei/pdf/keizu-j.pdf

 

上図は歴代天皇の系譜です。その中央(一頁目)に茅渟王(ちぬのおおきみ)という名前がありますが、業績も不明で陵墓も奈良県香芝市の平野塚穴山古墳と謂われています。それより、宮内庁指定の皇后のほうが理解していますし、私も知っています。吉備姫王です。明日香に陵墓があり、何回か参拝させていただいた。

 

たぶん、明日香に行った人なら、これを書けば思い出すのではないかと思います。陵墓内に猿のような石像があり、奇妙な雰囲気があり、近鉄飛鳥駅から直ぐ近くの御陵といえば思い出すかもしれません。
猿石

https://www.google.co.jp/maps/@34.4680217,135.7996783,3a,75y,73.33h,80.69t/data=!3m8!1e1!3m6!1sAF1QipOxM1MezitxfmBE0wZDmyYTBkL2xFeaAEh27SWE!2e10!3e11!6shttps:%2F%2Flh5.googleusercontent.com%2Fp%2FAF1QipOxM1MezitxfmBE0wZDmyYTBkL2xFeaAEh27SWE%3Dw203-h100-k-no-pi-0-ya120.831924-ro0-fo100!7i4096!8i2048


ストリ-トビュ-があれば本当に便利です。地図も絵も出て来ますので、それにより「あそうか思い出した」となると思います。

 最初は覚えるとか不得手で一回では中々理解できませんでしたが、最近は少し細かい系譜なども理解でき、古事記の内容とか地名とかも、少しだけ理解出来るようになりました。今回「茅渟王」という名前ですが、前のブログで「茅渟宮跡」というのを紹介させていただいたのを憶えておられると思います。(允恭天皇)

允恭天皇 惠我長野北陵


 衣通姫が住まわれていた場所で「允恭天皇」の皇后の妹でしたが、愛おしく、度々その茅渟宮へと通われたと書きました。その「茅渟」に住まわれていたということで「茅渟王」という名前が付きました。

 

 意外とそういう関連というのが古代天皇の覚え方なんです。また、今は覚えなくても少し興味があれば次第に憶えていくようになります。

支那事変について

私はこの生長の家掲示板が出来る最初から掲示板に書いて居りました。いわゆる「2ちゃんねる」という掲示板です。もう30年前になるのかとか、懐かしく思いながら、その時に答えていたことを再度記入したいと思います。

 

青年A

質問―①

生長の家の食事の神示(昭和5年11月4日)ですが時間と空間を超越している神が雅春氏にはついていながらどうして柳条湖事件が中国側の仕業などと誤った歴史認識をしてしまったのか?本当にこれらは神示なのか?雅春氏の捏造ではないのか?戦後の「日本の実相顕現の神示」には「戦争を始めたから敗けたのである」と書かれているがこの神示に従うと最終的に日本は負けなければならないということになる。人間の人権・生命にかかわる重大なことなのになぜ生長の家の大神は昭和5年の時点でそのような神示を下ろさなかったのか?時間の流れにそって時事問題について言う「神」は本当に「神」なのか?生長の家が戦争協力責任について未だ懺悔できない理由は「闇の前に、いたづらに、悪評する民衆の前に、罪を暴露しても何の効なし、闇に闇を照さしむるとも何の甲斐かあらん。」という「懺悔の神示」に原因がある。しかしこれ自体本当の神の神示なのか?無門関解釈の本にもあるように雅春氏が人殺しという人権蹂躙を美談と述べていることは決して神仏の御心にかなわない。これは慈悲深い者の言うことではない。的外れな回答ばかりしないではやく生長の家は懺悔しなさい。

 

回答-①

今回、説明が長くなりますがこれを答えないといけないようなんで鏤々、回答させて頂きます。さて、柳条湖(正式には柳条溝)事件の件ですが、これは約30年間の間、決着のつかぬまま昭和史の最大の謎とされていた事件なんです。昭和34年、日本国際政治学会に太平洋戦原因研究部が設置され、昭和初年から太平洋戦争勃発に至るまでの外交・軍事史に関する共同研究がスタ-トした。その成果は38年から「太平洋戦争の道」全8巻として朝日新聞社から刊行されたが柳条溝事件の部分は第13編「満州事変前史」で関寛治氏が執筆を担当した。川島正元大佐の証言や花谷証言などにより明らかになった。

 

今迄は第1巻上は柳条溝事件の発端について次のように記している。

「昭和6918日午後10時過、支那正規兵(兵力3~4百名)は突如柳条湖(原文のまま。奉天駅東北方約7粁半)付近満鉄本線を爆破するの暴挙を敢てせり。(秦郁彦 {昭和史を縦走する}を引用)つまり、昭和史の謎とされていた事件は昭和38年に正式に解明されたのである。また、日中戦争(全3巻。VOL①388頁  児島襄)では

場所は、奉天北郊の東北辺防軍第7旅が駐屯する北大営の西南約4百メ-トルの柳条溝付近。

使用爆薬は黄色方形爆薬。爆破担当は独立守備隊第二大隊第三中隊長川島正大尉であった。

爆破は918日午後1040分奉天着の急行列車の通過にあわせておこなわれたが、爆薬に誤算があったらしい。

計画では爆破で列車を転覆させる予定であったが、爆薬は炸裂したものの、線路の片側のレ-ルが吹き飛んだだけで、走ってきた列車はちょっと傾くと通過した。しかし、もともと線路爆破は行動発起のきっかけにすぎないので、川島中隊は「支那正規兵」が爆破して攻撃してきた、と報告するとともに北大営を攻撃した。

 

それではこの質問を具体的に日にちを追って見よう。

まず、雅春先生のこの神示は「心の法則と平和への道の神示」(昭和6530日夜神示)「秘められたる神示」による。その講義としてこの質問者は引用しているのである。P259行目からの文章である。つまり、この本の発刊日が昭和3611月8日である。

素直に解釈すれば、その少し前にこの分は書かれている。しかも、神示の講義なのである。

つまり、神示ではないのである。

次に、何故間違えたかは前述のように「満州事変」の正式解明は昭和38年の「太平洋戦争の道」により明らかとなったのである。

「雅春先生」は「満州事変史」(昭和10年、参謀本部編)を引用なされたのであって。

昭和36年では教科書でもそのように記していたので、一概に「雅春先生」の間違いと云うより、それまでの通史が「違って」いただけなのである。

追補

最近では御存知のように「コミンテル指令」という説も浮上しており、その後におきる中国の虐殺である「通州事件」で混沌としてきた。また列車の爆発した位置も問題になっており、未だに一発は中国とか日本とか意見がわかれています。しっかりとした歴史観で今後発表したいと思います。

 

清寧天皇 河内坂門原陵

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170号線を挟んで陪塚があります。「飛地 陪冢い号」は小白髪山古墳

 

淸寧天皇(古事記原文より抜粋)

御子、白髮大倭根子命、坐伊波禮之甕栗宮、治天下也。此天皇、無皇后、亦無御子、故御名代定白髮部。故、天皇崩後、無可治天下之王也。於是、問日繼所知之王、市邊忍齒別王之妹・忍海郎女・亦名飯豐王、坐葛城忍海之高木角刺宮也。

 

爾山部連小楯、任針間國之宰時、到其國之人民・名志自牟之新室樂。於是、盛樂酒酣、以次第皆。故燒火少子二口、居竈傍、令其少子等。爾其一少子曰「汝兄先。」其兄亦曰「汝弟先。」如此相讓之時、其會人等、咲其相讓之。爾遂兄訖、次弟將時、爲詠曰、

 

物部之、我夫子之、取佩、於大刀之手上、丹畫著、其緖者、載赤幡、立赤幡、見者五十隱、山三尾之、竹矣訶岐此二字以音苅、末押縻魚簀、如調八絃琴、所治賜天下、伊邪本和氣、天皇之御子、市邊之、押齒王之、奴末。

 

小楯連聞驚而、自床墮轉而、追出其室人等、其二柱王子、坐左右膝上、泣悲而、集人民作假宮、坐置其假宮而、貢上驛使。於是、其姨飯豐王、聞歡而、令上於宮。

 

故、將治天下之間、平群臣之・名志毘臣、立于歌垣、取其袁祁命將婚之美人手。其孃子者、菟田首等之女・名大魚也。爾袁祁命亦立歌垣。於是志毘臣歌曰、

 

意富美夜能 袁登都波多傳 須美加多夫祁理

 

如此歌而、乞其歌末之時、袁祁命歌曰、

 

意富多久美 袁遲那美許曾 須美加多夫祁禮

 

爾志毘臣、亦歌曰、

 

意富岐美能 許許呂袁由良美 淤美能古能 夜幣能斯婆加岐 伊理多多受阿理

 

於是王子、亦歌曰、

 

斯本勢能 那袁理袁美禮婆 阿蘇毘久流 志毘賀波多傳爾 都麻多弖理美由

 

爾志毘臣愈忿、歌曰、

 

意富岐美能 美古能志婆加岐 夜布士麻理 斯麻理母登本斯 岐禮牟志婆加岐 夜氣牟志婆加岐

 

爾王子、亦歌曰、

 

意布袁余志 斯毘都久阿麻余 斯賀阿禮婆 宇良胡本斯祁牟 志毘都久志毘

 

如此歌而、鬪明各退。明旦之時、意祁命・袁祁命二柱議云「凡朝廷人等者、旦參赴於朝廷、晝集於志毘門。亦今者志毘必寢、亦其門無人。故、非今者難可謀。」興軍圍志毘臣之家、乃殺也。

 

於是、二柱王子等、各相讓天下。意祁命讓其弟袁祁命曰「住於針間志自牟家時、汝命不顯名者、更非臨天下之君。是既汝命之功。故吾雖兄、猶汝命先治天下。」而、堅讓。故不得辭而、袁祁命先治天下也。

 

清寧天皇「古事記現代語訳」

清寧天皇のとき皇統が途絶えてしまいました。それで次の天皇をどうするか?となって、急遽、市辺忍歯別の妹の豊飯王が中継ぎリリーフとして急遽、天皇となりました。

この名もなき天皇については、記述は無いですし、「◯◯天皇」という名前も付けられていません。

 

山部連小楯(ヤマベノムラジオダテ)を針間(ハリマ=播磨=現在の兵庫県)の国の宰(ミコトモチ=長官)に任じたときです。その国の人民(オオミタカラ)で名を志自牟(シジム)というものが新室(ニイムロ=新居)ができたお祝いの楽(アソビ=酒宴)に行きました。そこで盛んに楽(アソビ=酒宴)をして酒が酣(タケナワ)になったころ皆、舞を踊り始めました。火を焼く係りの少子(ワラワ=少年)が二人いまして、竃(カマド)のそばにいて、その少子(ワラワ)にも舞を踊らせました。その一人の少子が

「お兄ちゃんが、先に踊って」

と言うと、兄もまた

「弟であるお前が、まず踊れよ」

とお互いに譲り合いました。そこで集まった人たちはその譲り合う様子を見て咲(ワラ)いました。ついに兄が舞い終わって、次に弟が舞おうとするときに詠(ウタ)いました。

 

物部(モノノフ=武人)である私の父が身につけている大刀(タチ)の手上(タガミ=刀の柄のこと)には、丹(ニ=赤い香料。赤は高貴な色)で書きつけている。その緒(オ=太刀についた紐)は赤い幡(ハタ=布)を載せて、赤旗(=赤い幡は皇軍の印)を立てる。その旗を敵が見ると、隠れてしまう。その敵が隠れた山の尾根の竹を刈り、その竹の細い枝先を並べて作った魚簀を敷いて、八弦の琴の調子を整えるように、天下を治めた、伊邪本和気天皇(イザホワケスメラミコト=履中天皇)の御子の市辺押歯王(イチノヘノオシハノミコ)の子孫です!

 

それで小楯連(オダテノムラジ)はそれを聞いて驚いて床から落ちて転んで、その室(ムロ)に入っていた人たちを追い出し、その二柱の王子を左右の膝の上に座らせて泣き悲しんで、人民を集めて仮宮(カリノミヤ)を作り、その仮宮に二王子を置いて、驛使(ハユマヅカイ=早馬の使者)を都に上らせました。それで二王子の姨(オバ)である飯豊王(イイトヨノミコ)はそれを聞いて喜んで、二王子を宮に上らせました。

 

顕宗天皇が天下を治めようとしていた時のことです。平群臣(ヘグリノオミ)の先祖の志毘臣(シビノオミ)が歌垣(ウタガキ)に立って、袁祁命(ヲケノミコト)と結婚させようとしていた美人(オトメ)の手を取りました。その嬢子(オトメ)は菟田首(ウダノオビト)の娘で名前を大魚(オウオ)といいました。それで袁祁命(ヲケノミコト)も歌垣に立ちました。志毘臣(シビノオミ)は歌いました。

大宮の 彼方(オト)つ端手(ハタデ) 隅傾けり

 

歌の訳あなたの宮殿は「をとつはたで(あちこち)」の隅が傾いている。

 

そう歌ってからその歌の続きを求めたので、袁祁命(ヲケノミコト)は歌いました。

大匠 怯みこそ 隅傾けり

 

歌の訳大匠(オオタクミ=宮大工の長)が下手だから、隅が傾いているのだ。

 

志毘臣(シビノオミ)がまた歌いました。

大君の 心をゆらみ 臣の子の 八重の柴垣 入り立たずあり

 

歌の訳大王の心が緩んでいるから、私のような臣下の家の八重の柴垣の中に入ってこれないでいる。

 

王子がまた歌いました。

潮瀬の 波折りを見れば 遊び来る 志毘(鮪)が端手に 妻立てり見ゆ

 

歌の訳海で波が重なっているところを見ると、迷い込んできた志毘(シビ=鮪のこと)がいる。その志毘のヒレには妻が立っているのが見えるよ。

 

志毘臣(シビノオミ)はいよいよ怒って歌いました。

大君の 御子の柴垣 八節(ヤフ)締(ジ)まり 締まりもとほし 切れむ柴垣 焼けむ柴垣

 

歌の訳大君の御子の柴垣は、たくさんの節で締めていて、しっかりと締めているが、切れる柴垣だ。焼ける柴垣だ。

 

大魚よし 志毘(鮪)突く海人よ 其が散れば うら恋ほしけむ 鮪突く志毘

 

歌の訳大きな魚の志毘(シビ=鮪)を突く、海人よ。その魚が遠ざかっていけば、心から恋しく思うだろうよ。鮪を突く志毘よ。

 

そう歌って、戦い明かして、それぞれ、その場は退きました。

 

二人の王子

二人の王子は葛城氏です。葛城氏は権勢を誇っていたのですが、雄略天皇による半ばクーデターのような行動によって、人材が削られてしまいました。結局、葛城系の飯豊王がリリーフ天皇となり、その後、二人の王子に権力は移譲されることにはなり、多少は盛り返したのですが、葛城氏が「凋落」著しい状態だったのは間違いないのですね。

 

おそらく・・・血統で仕方がないとはいえ、この二人の王子に天皇をさせることを不快に思っていた勢力があったのでしょう。その一部である志毘臣を殺したことで二人は天皇になるのですが、結局、仁賢天皇は「非葛城系」の雄略天皇の皇女を嫁に貰い、その子供の武烈天皇の死後、全く別系統の「継体天皇」が生まれることで、この葛城vs非葛城の戦いはとりあえず終わります。

 

記・紀系譜による第22代天皇。在位は5世紀末ごろ。

父は雄略天皇。母は葛城韓媛(かずらきの-からひめ)。「日本書紀」によると,都は磐余(いわれ)の甕栗(みかくりの)宮。生来白髪,子はいない。雄略天皇に殺された市辺押磐(いちのべのおしはの)皇子の子,億計(おけ)(のちの仁賢天皇),弘計(おけ)(のちの顕宗天皇)を播磨(はりま)で発見し,宮中にむかえた。清寧天皇5116日死去。墓所は河内坂門原陵(かわちのさかどのはらのみささぎ)(大阪府羽曳野市)。別名は白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと),白髪皇子。

幼き頃から白髪であったという。

 

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甕栗宮(みかくりのみや)天の香久山の少し北側にあ

祈ってあげましょう。

コスモス様が下記のように書いておられる。

 

 【それと逆に、国の為にも人の為にもならない悪業を積み重ねている国や人や団体は、放っていても、日々断崖絶壁を真っ逆様の如く、目を覆いたくなるような出来事が起こって来ること、必定であると思います。】

 

私の考えは、目を蔽う様なことを予測などしたくありません。私も随分前に「生長の家」を辞めましたが、そこに居られる方の幸せだけは祈っています。

確かに考えは違えてきましたが、反対に一番の理解者であると今でも思っています。「生長の家」職員として頑張っている様子を聞くたびに安堵しています。

決して、断崖などに落ちることはあり得ません。幸せだけを祈ります。

教団側が例えそんな事言っても、祈ってあげましょう。対抗して爭う事はしてはいけません。

『若人のための78章』

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若人のための78   昭和35705

はしがき

若人のための78章 目次

第一篇 天鼓鼕々―青年を鼓舞する言葉―

第一章 向上への協力者/3

第二章 人生は鍛えらるべき鋼鐵である/6

第三章 魂の向上について/8

第四章 大いなる冒險の壯途に發とう/10

第五章 行爲の價値について/13

第六章 心に偉大を描け/15

第七章 青年の眞の若さ/17

第八章 大いなる抱負を/20

第九章 靑年の夢と理想/22

第十章 眞の勇氣について/25

第十一章 言葉の連鎖反應/28

第十二章 向上への指標/31

第十三章 幸福なる道/34

第十四章 絶對的立場/37

第十五章 青春の苦惱と歡喜/39

第十六章 自分の運命を自己限定してはならない/42

第十七章 高き希望に向って翔せよ/46

第十八章 自然と人生/48

第十九章 善のみを觀よ/51

第二十章 純粹なる生活を求めて/53

第二十一章 奴隷は民主主義生活者ではない/56

第二十二章 「人間」を完全に解放せよ/58

第二十三章 人間觀を轉囘せよ/61

第二十四章 愛のない信頼について/64

第二十五章 人生に花園を創造する力/67

第二十六章 眞の者たらんとする青年/70

第二十七章 自己の内にある「無限」を働かすこと/73

第二十八章 成功の基礎となるもの/76

第二十九章 永遠なるものへの憧れ/p79

第三十章 愛する者/p82

第三十一章 進歩に抵抗するもの/p84

第三十二章 汝の最も大切なるもの/p87

第三十三章 理想の力/90

第三十四章 宇宙の理性としての神/91

第三十五章 新しき信仰/94

第三十六章 宗教心の極致/95

第三十七章 常に汝の若さを保て/103

第三十九章 内在の歴史としての神話/106

第四十章 〝法則〟というもの/109

第四十一章 動・反動の法則について/111

第四十二章 祝福する者は祝福せられる/114

第四十三章 流動の相において生活を捉えよ/116

第四十四章 靑年が雄辯になるためには/119

第四十五章 雄辯の種々相/122

第四十六章 民族精神の交換輸血の反應/125

第四十七章 巣立ち行く人々へ/128

第四十八章 青年會躍進のために/131

第四十九章 魂の内なる輝きとなる金言/134

第五十章 宗教のあるべきすがた/136

第二篇 天言滔々―人生問題に關する講話―

第五十一章 言葉と運命/143

實相と現象/143

見えるものは皆相存在で實相ではない/146

誰も戰爭を欲しないのに何故戰爭が起るか/147

萬物の本質はコトバである/150

大東亞戰爭はかくの如くして起った/153

家庭の調和・不調和も言葉の如何で起る/156

言論の自由はどの程度に許さるべきか/157

藝術は人生に先立つ/159

第五十二章 人類・國家・社會・家庭における愛の實現/165

唯物論は殺人を合理化する/165

唯物論では生命の尊重はあり得ない/167

理想は唯物論から湧いて來ない/170

人類と國家と國民との關係/173

空想的人類愛と平和論/176

日本國は侵略戰爭をしたのではない/17

第五十三章 如何に生きるべきかの問題/185

人間は獣類ではありません/185

使命とは何でしょう/186

具體的人間としての精神と行爲の規範/187

人間が生きる「場」における關係/188

唯物論の世界には理想も道德もない/189

何故、事物は辯證法的に内部に矛盾契機を含むか/189

生命は常に現不滿足/190

内在の完全理想の實現要請としての現不滿足/191

大自然界も大生命の理想の展開/192

樹木にもそれぞれの理想が實現しつつある/193

それぞれの理想はそれぞれの地域で生かし合うべきで他を征服しようと思ってはなりません/194

日本民族は日本的理想に生きるべきです/195

日本には日本の秩序がある/196

第五十四章 事物を生命の面から眺めよう/198

第五十五章 新しい價値の創造/205

魚を釣る老人と靑年/205

價値の創造のみが幸福を創造する/210

善き仕事は榮え、惡しき仕事は滅びる/212

みずからの靴を磨く帝王/214

みずからのものをみじからの手で/216

第五十六章 貞操・忠節・感激・生甲斐の根據/219

感激や愛情は唯物論では湧いて來ない/219

國家は國民を株主とする營利會社ではない/220

日本國民としての感激はどこから湧いてくるか/221

國家には對する貞操/223

時代に便乗してはならぬ/224

價値感の起る根據/227

生甲斐(ち、生命の價値自覺)について/228

第五十七章 人間の自主的權威と運命について/230

現在意識・潛在意識・人類意識/230

人間の自主的權威/232

人間の苦痛を神の豫定と考えてはならない/233

疫病神の入つた「パンドラの箱」/236

第五十八章 先ず精神の獨立と自由を/240

信仰とは事物のえざる本質の把握である/240

魂の「治」である眞の信仰/242

靑年の宗敎は新生の宗敎でなければならぬ/244

信仰生活と日常生活との關係/246

正しき信仰は不完全を見ない/248

現象にまどわされるな/249

現實生活から逃避するのは本當の信仰ではない/250

現在の環境が魂の道場である/253

勝利者となるための信仰/255

常識の障壁を打破る者のみ眞の精神の獨立を得る/257

精神の「自由」とは何ぞや/258

第五十九章 愛國心について/260

フランス人の烈な愛國心/260

愛國心の要素について/264

民族に對する誇り/265

國の文化に對する誇り」を棄てるな/267

同胞を階級によって分割してはならない/269

日本民族の精神的歴史を尊重しなければならない/270

國の國土及び文化を愛せよ/272

第三篇 天華芬々―輪讀するための眞理―

第六十章 高次の自我と低次の自我について/279

第六十一章 青年はこのようにありたい/285

第六十二章 問題に面したときの受け方について/290

第六十三章 肉體は「靈なる人間」に仕うべきこと/295

第六十四章 「個」と「全」との相について/300

第六十五章 常に新しく展開する世界と人間/305

第六十六章 永遠の價値を求めて/309

第六十七章 問題に對處する道/314

第六十八章 靈の乘馬について/319

第六十九章 機會は「今」常に到る處にある/324

第七十章 泥と塵との中の寶/329

第七十一章 あなたの運命の構築について/334

第七十二章 光に波長を合わす生活/339

第七十三章 逆境の與うる祝福について/344

第七十四章 青年は老大家に優る/349

第七十五章 心に太陽を有て/356

第七十六章 若人に埋藏されたる寶/366

過去の偉人を超人化してはならない/366

自己矮小化を止めよ/367

幼時に平凡でも偉人になった人々/369

天才の定義について/371

深く自己を掘り下げよ/372

第七十七章 靜けさの美德について/374

第七十八章 敎養ある全人となれ/381

人間は多いが“人”は少ない/381

個性ある完全人となれ/385

常に理想目的に向って邁進せよ/386

盆裁のような人間になるな/387

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