則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2020年05月

讀んで戴ければ幸甚です。

「こんな子供、産まなきゃよかった」

生長の家教団の総裁谷口雅宣氏を見て、「嗚呼、なんて幸せであろうな」と思う人はどれ程いるのであろうか。それと対比するのが、家族の恥となるが、私の家族の長男である。兄弟とも会おうとしない。いつも独自の考えで、本人はそんな家族に迷惑をかけているとも思っていない。母親の葬儀にも出ていない。父親の亡くなったのが27年前である。その時以来、兄弟とその長男との確執が生れた。自分でなんでもするのはいいが、葬儀代などの拠出など自分の懐から出さない。呆れ果てた行動である。姉がその行動で怒りだした。それから兄弟の喧嘩である。姉の言うのも正論である。私も当初は長男に対して怒っていた。だが10数年前であったが、父親の墓で偶然にあった。墓参りしていたのである。

 

 その時の容貌を見て愕然とした。髪の毛は抜け落ち、病気の為か顔が腫れている。「私はこんな長男に怒っていたのか」と思うと自分が情けなかった。それからは用事の或る時は連絡するようにしている。それまでは自分から連絡するのも嫌だった。

 

 許すとか、そんな傲慢な気持は無い。悪いがそんな感情ではなく、「可哀想な気持」である。それは長男が起こした問題は大きいが今更怒っても仕方がない。何故、今迄の怒る気持ちが崩壊したのかわからなかったが、それ以来、そんな怒るような感情はおきない。

 母親がいつも長男に言っていた

「こんな子供、産まなきゃよかった」

 

私も母親と喧嘩してこの言葉を一回言われたことがある。その時以来、自分は「親不孝」ものであるという後悔がある。だからそれ以降、恩返しだけはしたいという観念がある。

だからこそ、毎年盆の墓参り等の親戚関係は私が訪問するようにしている。

 

谷口雅宣氏も母親である谷口恵美子先生の気持ちに立った行動をするようにしなければならないが「一生、親孝行も出来ない」人になるのかである。そう思うと可哀想である。

 

なんでも好き放題に出来て幸せそうに見える人は本来の心証をみていない。親孝行出来ないという「可哀想な人」である。また、本来の総裁という人物にもなれない人である。「法燈継承」なども実際していない。だから言葉で云い訳ばかりして、本来なら「苦しい人生」であろう。だが、法外のお金が「眞理」など一切説かない人に入金されるのだから、総裁職はやめられない。

まあ、情けない人だと私はみるが、見えない人も世の中には沢山いる。崇め奉るようになっている。彼の廻りは何でも云う事を聴く人もいる。慾と慾が相互の関係を補助しているのです。そんなものは本来の信頼でもない。

谷口雅春先生の講話で忘れられない講話がいくつかある。その一つが「国の爲、命をすてる、それより大なる愛は無し」である。三島由紀夫が亡くなったときに、いくつかの話をされていますが、『やまと新聞』の掲載された時にいくつかを最近読み直してみると、先生の気持ちが痛いほど理解できる。

 

さて、取り止めのない話で、まとまっていない文章ですみません。

最初に家族の長男のことを書いた、それと対峙するように谷口雅宣氏という人を少しだけ書いた。それは少し似ているからである。若い時は、それなりに親孝行もしていた。だが、兄の友達関係でその思想が歪められた。それは兄が悪いからそうなっただけである。雅宣氏もそうである。高校生時代は愛国の話もしていたことが記憶にある。純粋であったが、それからいろんな取り巻きが彼に影響を与えた。今では完全に歪み切った人生となった。

 

しかし、私は『生命の實相』という聖典を読みながらいつも思うのだが、理解しにくいところも何カ所かある。そういう言葉や歴史を振り返りながら勉強させて戴いています。

そうすると、わからないことがわかるようになるのです。不思議です。

 

総裁はもう少し『生命の實相』勉強をすればいいのに、でもそんな気持は毛頭ないように見受けられる。たぶん、讀んでゐないのであろう。彼の文中でそういうのを「フト」感じてしまう。そういう「フト」した思いというのは、私は総裁に対しては行動パタ-ンや思想、思索などほぼ100%的中している。

 

私も今更遅いが、母親に「こんな子供、産まなきゃよかった」などと云われない人生を送るように心掛けている。総裁は残念ながらそれが出来ていない。また、今後、親孝行で改心するような雰囲気でもない。何のために総裁は生きているのであろうか。

私は彼の人生を観て「可哀想」しか言葉が出ない。

野ウサギとの遭遇

今日は山登りとは違います。用事で川西の方に行きました。そこで大阪府箕面市の舗装道路で夜730分頃高山という地域から箕面森町に抜ける道で前方に当初、イタチかなと思ったのですが、ヘッドライトで反対に逃げないで立ち止まる動物。イタチとは動きが全然違う大きさも大きい。車を7m程近付けても逃げない。直ぐにその動きでわかったが、野ウサギである。この地域は鹿が多いのだが、時折猿も出没する。鹿の突然の飛び出しを考えて、ゆっくり走行していた。先日、このブログで山鳥を紹介したが、今迄野ウサギがいるのは知っていたが、なかなか出会えない。初めて見た。夜行性であるので遭遇するのは難しい。道路に突然飛び出したので驚いたが、前方の距離もあったので少し観察することが出来た。

https://www.google.co.jp/maps/@34.8984169,135.4825173,3a,75y,181.79h,90t/data=!3m7!1e1!3m5!1szm2WEZIbMeYbVMMAIw3x2Q!2e0!6s%2F%2Fgeo1.ggpht.com%2Fcbk%3Fpanoid%3Dzm2WEZIbMeYbVMMAIw3x2Q%26output%3Dthumbnail%26cb_client%3Dmaps_sv.tactile.gps%26thumb%3D2%26w%3D203%26h%3D100%26yaw%3D214.42365%26pitch%3D0%26thumbfov%3D100!7i16384!8i8192?hl=ja

 

野ウサギと出会った箇所です。

日本国が心配である

「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」において、ようやくコスモスさんが安倍総理の応援の書き込みがあり安堵している。現在の反動勢力は憲法九条の勢力と同じように、「憲法改正」を行う安倍首相を徹底的に遣り込めるために、少しのことでも針小棒大に書き込み、その真相も探らず、ウソ報道の垂れ流し状態です。憲法九条の会と同じように「マスコミ」や「タレント」などを使って「反安倍」キャンペ-ンに必死です。

 

 本来は中国の日本領土の侵略が本当に目の前に迫っていることを国民に知らせる方が重大である。マスコミはその責任すら放置して、中国の意のままに動いているしか見えない。

 

 私達は今回の武漢ウィルスで中国からの帰還飛行機で日本に帰ってから何人か検査も受けないでそのまま帰宅を許してしまった。もし、ウィルスが陽性であったらと思ったらゾッとします。殺人を起す可能性のある人物を放置するしかない。現在の憲法ではどうすることも出来ないことを顕著に現した一つです。現憲法の爲、国民を抑制することも出来なかった。

本当にこんな憲法を改正するしかない。

 

アジア安全保障などに関する研究を行う米シンクタンクが発表した新報告書によると、中国共産党政権が日本の尖閣諸島に軍事侵攻するのは、もはや「時間の問題」だという。

https://www.youtube.com/watch?v=mR2IS4uX-sU

破綻寸前の教区も少なくない。

トキさんが書いているが、私はその通りであると思っている。

現在、各地の教区の財務状況は急激に悪化しており、職員の雇用ができない教区も出てきております。教化部の建物が維持できない日も遠くないと危惧されます。その時、おそらく、土地と建物を売却し、小さな建物に移るか、あるいは、教化部の敷地にマンションや商業ビルを立てて、その一角を教化部として使用するか、という事態が起きると思われます。

 

 また、よせばいいのに本部が強行する「造化の三神」も、おそらく信徒の失望を招くのは必至です。大幅な退会者を生じる結果になるのでしょう。まあ、本部にしたら、まともな思考力のある信徒は独裁の邪魔になるので、宗教奴隷・・・ではなくて、中心帰一ができている志操堅固の信徒のみが残ればいいと考えているのかもしれません。確かに、常軌を逸する思考をする幹部はいますが、大半の人がバカにしているのが現状です。 

 

 詳しい人から2年前に聞いたが、財政破綻の教区が次第に多くなっている。また会員減少が止まる事知らないようである。全国の教区で県をまたいで兼務している教化部長が全都道府県を合わせると59箇所、兼務は13か所ある。しっかりした講師もいないが、教化部長には給与は増えてもやりたくない。事務局長のいない教区は4か所からみても如何に弱体な組織になっているかがわかる。また、ソ-ラパネル等の導入により、教化部会館の新館の価格が割増しとなる。そんなにソ-ラパネルとかしても、返却の目途も厳しいようである。

 練成会の参加者も減退である。世話役の方が参加者より人数が多いとはなんともいえない。そんなこと知ってか知らずかはわからないが、有望な職員も夢を失い、トキさんのような人が多い。

 

 10年前に宇治で『谷口雅春先生の著作』の展示を行ったことがある。勿論、楠本加美野先生の認可のもとである。当時の練成部も見たことのない著作もあり、驚いていた。

 楠本先生が在職中であるから出来たことであり、今では不可能である。本は700冊程展示した。

一年前を振り返る

昨年令和元年613日~16日間たった4日間でしたが、南相馬市ボランティア活動センタ-で東日本大震災のボランティア活動に従事させていただいた。震災以来、ボランティア活動をやり続けておられます。

センタ-長の松本さんは本当に素晴らしい人である。人生をボランティア活動に捧げておられ、人の役立つことを率先して行っておられます。また来月位に参加させていただくように考えている。

 松本さんは参加した人の名前を記載されておられ、その日付に私が参加したこともわかります。

 昨年の616日に浪江町の飲食店経営されていた店の中に瓦礫や廃材のようなものを搬入した。その時の記録がある。

【松本センター長の今日の所感・呟き】

 

今晩はお疲れさまでした。お陰様で南相馬市での活動は今日も順調です。

 

最近、浪江での瓦礫撤去のご依頼が少しずつ増えてきましたが、環境省などとの搬出ルールの違いに戸惑っています。ルールに乗るには申請手続きの準備などもあり時間がかかりそうだ。

 

小高復興に集中して活動を継続して、申し訳ないが浪江町での活動を休止するか…?悩ましい所です。

 

今日も活動有難うございました。

帰還困難地域であったところが解除となり、そこからの依頼も増えてきている。
 このブログを見られている人も増えて来ましたが、東日本大震災の復興にはまだまだ時間がかかります。未だに災害ボランティアに草刈りや瓦礫の撤去、家屋の手入れ等があります。

草刈りにしても大阪に住んでいる私達の考える範囲が桁違いに違う。雨の降る中河川敷の土手の草刈りを行ったが、幅が7メ-トルの斜面で70m程の先まで刈込をしなければならない。2メートルに伸びた草樹が刈込器に巻き付いて大変だった。しかも斜面である。そこの箇所は一人担当した。それでも昼過ぎに終った。午後からも草刈りで浪江町の近くの廣い敷地を所有する農家であった。
 
 帰還困難地域も解除となっている。徐々に作業も進めていかなければならない

 今はコロナで中止だが六月から行うということになっている。

 吹田市も社協から「助け愛隊」ということでボランティア養成を行おうとしていたのですが、企画もこのコロナで中止になったりしています。

賭博性のあることはみんな行っている。誰が咎めることが出来るのか

黒川検事長の賭け麻雀疑惑報道もニュースを騒がせていますが、賭け麻雀や賭けゴルフは違法行為です。

「賭博をした者は、50万円以下の罰金又は科料に処する。ただし、一時の娯楽に供する物を賭けたにとどまるときは、この限りでない。」

 

私の場合は偶々、運が良かっただけで、私も賭博性のある勝負事は好きですので、行っていた可能性も充分にあります。それは、毎週の如く、兄弟が麻雀を実家で私の寝ている橫でやっていたからです。

自分の性格が分るので、頑なに拒否していたのと、仕事が忙しかったことと、青年会運動をしていたからです。

だから、国会議員さん、貴方も付き合いでやったことあるんじゃないのですか?賭けゴルフは賭けなければゴルフは面白くないので、ゴルフやっている人は大概、賭けています。金額が少なくてもそれは違法性があります。また、パチンコもグレゾ-ンです。

私から言わせれば「違法」です。しかし、パチンコは言わないのは、国会議員さんは金を貰っている。

 

また、産経新聞と朝日新聞の記者の名前をどうして伏せているのか。こんなことおかしいと思うのだが、マスコミはその違法性を問わない。それは、こういうことを常習的にマスコミ連中がやっているからです。そうでないと「ネタ」がもらえないからです。

 

赤信号、皆で渡れば怖くない。とありましたが、こんなことで一喜一憂するより、中国の違法性を追求する方が政治的に重要であることを忘れている。

 

ただ、朝日新聞や毎日新聞もそうだが、中国に接待して情報を貰っていることを聞いている。中国の悪い事を「悪い」と云えない。国会議員もそうである。売国連中ばかりで、この行く先の日本が心配である。


 賭博性のあることはみんな行っている。誰が咎めることが出来るのであろうか?

常軌を逸した行動

“常軌を逸する”という言葉がありますが、下記はまさしく、その指令となります。

《谷口雅宣総裁の指導する現教団は、4月7日付通達で、全国の教化部の「實相」額の前に同総裁創作の経本を安置した「七重塔」の縮小模型、及び「造化の三神」社殿を設置し、礼拝の言葉も「實相の御額を通して宇宙の大生命に礼拝いたします」から、「造化の三神と七重塔を通して宇宙の大生命に礼拝いたします」に変更するよう命じました。》

 

勿論、今迄にそうした言動が何回も見られたのであるが、そうした言動を顕著に見られたのが二十数年前の大阪の講習会であった。確か大阪ド-ㇺで開催した講習会でいつもは雅宣氏の話など、聞く価値もないことは理解していたが、対驗談ということで昼から帰宅もしないで聞いていた。体験はある中年女性で大阪難波の宗右衛門町でスナックのママをしておられる。奇蹟的な体験をして、「谷口雅春先生に感謝致します」奇蹟的な病気の完治だと思ったが、それに雅宣氏は怪訝そうな顔をして言葉を発した。「そういう奇蹟とかいうのはあまり発言してもらっては困る」というよう発言であった。場内が騒めいたことを憶えている。

 「また、余計なことを言っている。お坊ちゃんは駄目だな。」

そんなことを呟いた覚えがある。

 

 権力を欲しいままにしてきた今迄、今回の“常軌を逸した”ような行動は狂気にしか映らない。お坊ちゃんで世間の常識を知らず、我儘放題にしている人間が、本人は気が附かないし、自分は正常だと思っているがゆえに手の施しようがない。「立憲主義」など唱える独裁者しか考えようがない。独裁者ほど「自分は好き放題に出来ない」と考える。

 

 “もう68歳になったのか?親孝行でもして、ちゃんとしろ”という人は廻りにはいない。

発祥兵庫の神戸市立図書館には谷口雅春先生の御本が一冊しかない

「生長の家」谷口雅春先生関連で私は公共図書館や国立図書館に行く機会が多い。そこで目立つのが「谷口雅春先生」の書籍の少ない事である。何故、こんなに少ないのかを嘆かざるをえない。

 例えば「大本敎」の亀岡道場においてはその施設は亀岡市です。そこでの図書館は亀岡市立図書館ですが、当り前のように「出口王仁三郎」の著作があります。この関係で調べたのですが、98冊あったのです 

 

さて、神戸市立図書館では私は神戸市立中央図書館に3回程行った。そこで調べたのが、「谷口雅春先生」の御著書です。そこではなんとか一冊はありました、戦前の著作です。灘区図書館ではさすがに多量にあり、「谷口雅春」というコ-ナ-もあるだろうと思って行った。ここは誇りにかけてもあることを信じて行った。此処は「発祥道場」のすぐ近くです。生長の家の地元です。

だが、愕然とした、全く見当たらない。さすがに呆然である。何故無いのであろうか。

コ-ナ-もないし、本もない。

それは、今迄兵庫教化部として其処まで考えていないし、考えが及ばないからです。そんなこと誰かがやることだ、私には関係ないということが根本要因なのです。勿論、図書館に行っていないということです。それは悪い事ではないが、「ああ!谷口雅春先生に申し訳ないな」ということが、頭に及ばない。

私がこのようなことをいえば、反論されるであろう、

「私は図書館も行く余裕がない」

「貴方は図書館に行けて」

だが、そんなことを言う前に、それ以前に図書館など行ったことが無い人の言葉である。

 

 ただ、最後にこれだけは言っておこう。神戸市立図書館には「谷口雅春先生」の御本が1冊しかないということです。須磨、灘、中央、兵庫、北、西、垂水、北神、三宮、東灘、新長田と11カ所あるのですが、そのなかのたった一冊である。

大阪市立図書館では谷口雅春先生の本が98冊ある。

少しだけ弁護すれば兵庫県全体だと130冊はあります。

ただ、少しは考えて欲しい。

検証するには時間、経費、手間を労する

「生長の家」谷口雅春先生の御生涯を学ぶ上で大切なことは、自分勝手な判断で決めないことです。例えば私が一つのテ-マを決めたのが「ヴァキュームオイルカンパニ-」に入社されたきっかけは「朝日新聞の廣告がきっかけとされていますが、その朝日新聞という廣告を実際見た人はありません。それを調べようと思ったのです。

 

私も調べて見ましたが、「神戸又心日報」という新聞社に行きつきましたが、それでも社名とか記載がなく益々疑問が湧いてきました。以前に書いたことですが、これを調べるために、「大阪市立中央図書館」で朝日新聞大阪版の半年の期間にわたって調べましたが、これといった情報もなく、『朝日新聞』ではないのではないかという疑問すらわきました。そこで更に再調査で「西宮中央図書館」で「朝日新聞」神戸版について調査しましたが、これもしっかりした「廣告掲載」もなく断念しました。次に『兵庫県立図書館』に行きました。ここでは「朝日新聞」神戸版の再検証と「神戸又心日報」について調査しました。そこで該当するのがその「神戸又心日報」という新聞にあったのです。日程についても該当します。これからは「クレセントビル」(「ヴァキュームオイルカンパニ-」所在地)の開館した日付など詳細に検討すればある程度までわかってくると思います。更にそこからはそうした検証したものを神戸では詳しい人に訪ねたいと思っています。そこまでしないと本来はいけないものです。私も『谷口雅春先生著作集』を作成する時がそうであって、徹底的に調べました。

 

なんでもそうであるが、一つのもの調査する場合には「ある団体」だけ調べても何にもならない、それは決して悪い意味ではなく、大袈裟に取り上げたりしていることが多く、しかもそういう場合は風聞が多い。どこにも資料がなく、あの人だったら間違いないという、勝手な思い込みです。それで何回も失敗しているからです。

しかも、私は今も検証中である。既に四十年を経とうとしている。それほど検証するのは時間や経費や手間が労するということです。

 

「ヴァキュ-ム・オイル・カンパニ-」の考証-

堀江ファミリー YouTubeラジオ配信

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昨夜、午後8時頃昼間に自宅ポストにチラシを投入して戴いた堀江さんである。

LINEでは知っていたのだが、そのことも忘れて「自宅待機」していました。


 

 そこでちょうど、午後8時、ベッドにて聞こうと布団の上で用意していたが、どういう訳か、上瞼と下瞼の誘惑には勝てず、そのままzzz。起きたのが午前2時ごろ。

 

 多分、ここを御覧の皆様が思っておられることがよくわかります。

「お前にそんな高級な趣味があるのか?」

「そんなこと聴く事あるのか」

「信じられない!」

 

 まあ、よく私も性格が理解出来ない。皆様の御意見もごもっともです。
 自分で自分の性格が理解出来ていない。それでも、朝から聞いております。

 今回は父親の堀江政生氏とその子供の堀江恵太君。三人の子供様がおられ、私がいつも話するのがお母さんです。

 恵太君はバイオリン担当ですが、小学生の時から知っていて、近くの集会所でミニコンサ-トしていただいたことがあるのも懐かしい思い出である。

https://www.youtube.com/watch?v=2iXxV0dYKvE

一部だけ書いても眞實は見えない

終戦後、大阪で講師として活躍されたK氏が、突然独立し、一派を立てたことがありました。

 

 この事件について、当時を知る元本部講師の人に尋ねると、

 

 「当時は本部職員と言えども給与が低く、生活のために内職をしていた人もいたぐらいです。

 Kさんは、お子様も多く、生活が苦しかったので、それが背景になって独立をされたのでしょう。

 

 トキさんが上記のように書いているが、これは以前私が書いてゐた内容である。その本部講師と書いてあるが、私がお宅に訪問させていただき直接聞いた内容です。その時に承諾を戴き、その内容を見せたことがある。また、辞職された方は本部講師 栗原保介氏である。萬成書房の出版に尽力された人です。

 

 ただ、美談とかではなく当時の大阪青年会では私が入信した時に噂として聞いていましたが、真相もわからないまま、年月だけが流れました。その真相というのが、青年会の人達を連れて別の会派を建てられたということです。当初はあまり印象もよくなく、何故他の人を巻き込むかのかが私の謎でもありました。それが何人もいた青年会が皆んな引き連れて残された幹部が二人だったという厳しい状況でした。給料も少ししかなく大変であったが、それだけ書いたのであるならば、「大変だっただろう」と同情もあるかも知れないが、やはりそこだけを引出して書くのはよくない。

 また、それらの別の会派に行った人は名簿や住所の書類などと一緒に持って行った。こんなことすれば栗原氏が指示したと云われるであろう。

 反対に書かない方がいい。私も時代背景も含めて年次にて書きました。

 

 しかし、この会派も暫くして解散したようであるが、どうなったか不明である。

ただ、その経過がわかるので、再掲したい。

 

2016712日記述

青年会の活動を長く携わり、現在の青年会を見るときに歴史のなき現在の青年会に情けなさと退勢した現教団の目標指針の喪失を憂れうる。

内憂外患に何も出来ない覇気のない現在の青年会、歴史も憲法も『古事記』『日本書記』も語らず、万葉集を語らず。「天皇陵」の参拝も行わない。そんな青年会に何が魅力あろうか。

憲法を語り、明治維新を語り、近代民主主義を語り、神社で早朝神想観を実施した。私達緒先輩。

駅前でタスキを掛け、生長の家の素晴らしさを語った青年会。

日の丸行進を実施して、街頭を日の丸で埋め尽くした諸先輩。

一週間寝泊りして見真会を開催した緒先輩。

我等の時代は如何に活動をしたのか。

荒廃した戦後の日本にいち早く敢然と起ち上がったのが我ら生長の家青年会であった。

 

黎明期の時代・澎湃とした時代(大阪を中心に書きます)

昭和217月。谷口雅春先生の御意志を受継ぐ為に起ち上がったのが川島滋と伊藤公雄を中心としたメンバ-が「生長の家学徒連盟」(MSSA(メンタルサイタル・サイエンス・スチュ-デント・アソシエ-ション)であった。昭和22年には彼らは月2回の研究会を開催していくまでになったのであった。

昭和22817日には駅前伝道を前に午前中に例会を開催、80余名の参加者があった。この時代には創価学会を遥かに凌駕した会員数であり。頼もしい青年会は戦後の曙に燦然と輝く実績を残したのである。その後上本町六丁目の交差点にて男子10名、女子9名で伝道した。

この当時は進駐軍にたむろする若い女性をパンパンやパン助と揶揄し、そうした日本人の若者に颯爽とした青年会がいた。これが大阪青年会であり、「大阪青年会」の幟を建て、生長の家の素晴らしさを街頭で語ったのである。『生長する青年』昭和2210月号に当時の状況が記載されている。

参加者は大崎華子・川島滋・伊藤公雄・南川次郎・司忠司・河合・栗原保介・栗原久子その他である。

『生長する青年』の創刊(229月)

◎同誌を中心とする青年組織を「全日本生長の家青年会」とする旨を発表

◎同誌11月号に谷口雅春先生「生長の家青年会の歌」を発表

◎同誌12月号に同歌譜を発表(昭和22916日夜)

昭和229月に谷口雅春先生執筆追放となる。これ以降当局の指示により雅春先生を教祖、清超先生を教主と呼ぶようになる。

『全日本生長の家青年会規約草案』の発表(『生長する青年』2210月号より)

昭和22119日~11日 戦後初の御講習会(大阪中央公会堂)1775名(『生長の家50年史』より)

昭和2315日にこの日本をどうにかしたいという憂国の気持ちがトタン屋根がまだ立ち並び、チンチン電車が通る。大阪駅前で街頭伝道に起つ。(『生長する青年』233月号より)

昭和23327日・26日「全日本生長の家青年会第一回全国大会」(赤坂 本部)

大阪青年会から3名参加(伊藤公雄・川島滋・大西・浜中藤平)(3名は『生長する青年』に記載)《全国大会》

・赤坂檜町の生長の家本部道場にて開催(代議員130名結集)

・初代会長に谷口清超先生御就任

・宣言・綱領及び規約決定

※この頃意見の不一致から阿倍野青年会と分裂(3月)

この当時青年会支部数は75

昭和235月 堺支部発足

昭和235月 都島支部発足

昭和238月第一回西日本青年会 青年幹部研修会(京都南禅寺)

この頃には大阪・吹田・都島・堺・東淀川等が青年会活動(岸和田と城東は未確認)

昭和24年はGHQの公職追放の故に全国大会中止(この年雄弁大会有り)

《西日本錬成道場開設記念練成会・生長の家全国青年大会》

・二代目会長に徳久克己氏

・「全国雄弁大会」第一位 小路博視 

昭和23年は青年会が陸続と発足し、黎明期の青年会に相応しく朝日が昇る太陽の如く、不安になりながらでも、青年会でこの日本再建を求めたのである。

昭和24年11月21日 特別講習会  谷口雅春先生・ハ-ドマン博士

会館開設(2ヶ月早めになる開設)

※この頃 栗原保介部長引退(この引退は経済困難とみられる。生長の家の奉職者は今のような給与体系ではなく僅かな手当てで活動していた)

昭和241121日西日本地区青年雄弁大会

・谷口雅春先生・清超先生御臨席

◎総務 中村弘(その後東京へ)いつ頃かははっきりしない。

4人組(川島、浜中、大西、伊藤)もこの頃(8月頃)に来なくなる。(清超先生暴言事件)栗原保介と帯同したといわれる。

◎青年会の名簿、資料等4人組に持ち去られる。大阪青年会に残るのは吉倉修三氏と若原氏の二人のみ。

前年の末頃から新生青年会を設立しようとする働きがある。

発起人 ・山崎雄蔵・糀谷昇次郎・中島澄人・若原郁郎・吉倉修三

昭和25115日  谷口雅春先生御講習会(日程が50年史では1/25記載?)

見送る際に尊師から大阪青年会に賜ったお言葉

団野芳比質問(青年会代表として)

私達生長の家大阪青年会は今後どの方針で進んで行けばよいのでしょうか。

雅春先生

「一つの神をそのまま一途に生きて行けばよいんですよ」次いで「あまり利害関係にとらわれすぎたんだね」

昭和25122日・23日  新生青年会設立(発会式)  青年部長 河田博  奉仕部長 中島澄人

昭和253月  吉倉修三氏が中心となり都島に九畳の道場を建設

昭和254月 1日 大阪青年会雄弁大会 吹田 谷本恒夫 第一位

2月時点では7支部が活発に活動

吹田・都島・堺・岸和田・城東・阿倍野・東淀川・

※西日本青年会中央部役員(2月に)

中島澄人・奥田敏郎・吉倉修三・若原郁郎

 

 トキさんが時折、人が見て間違うような書き方です。これも仕方がない、もしトキさんが聞いた人は多分私と同じであろう。大阪青年会の大先輩として尊敬もしており、自宅に何回か訪問させていただいた。

 このコロナ騒動が終息したらお伺いしたい。

 

萬成書房についても再掲

 


P1150538

こころ我を生かす    萬成書房(冊子)

12.25

 

 

47

 

 

我が心の王国       萬成書房(冊子)

11.20

 

 

62

 

 

いのちのゆには      萬成書房(冊子)

12.25

 

 

47

 

 

 

幸福の原理                  発行所 萬成書房 (大阪府豊中局区岡町57

5.10

 

308

B6

(注28



萬成書房は西日本における生長の家出版会社である。(西日本出版会社は昭和23年から25年までの間に豊中市岡町(栗原保介本部講師宅)にて出版。
上六の印刷所(星丘重一郎邸)
連合軍司令部の司令により、京都教化部が西日本の拠点でした。
栗原保介本部講師は『白鳩』誌創刊号にその名前があります。
本部講師といえども生活苦で本部講師を辞任されています。それとともに「生長の家」もさられます。惜しい人物であります。

五月二十五日という日

 五月二十五日という日は皆樣は御存知であろうか、この掲示板において記入しています。「楠木正成」の命日である。その同じ日に元号法制化を願って銃弾自殺を計られたのが「影山正治氏」であった。昭和54年であった。再掲させて戴きます。


 私は谷口雅春先生の愛国心というのは言葉に表せない究極の愛国心者であることは誰もが納得されることだと思います。しかし谷口輝子先生の愛国心はそれに同じであり、下記の文章は『理想世界』昭和五十四年八月号に掲載された文章ですが、それとともに『影山正治大人追悼集』五十五年五月二十五日発行にも掲載されている文章であります。

 

【影山正治氏は余程嬉しかったのか、死去された前年の十一月二十一日の落慶式のことを大東神社の鎮座祭で挨拶(五十四年四月一日)で云っておられる。是非ご拝読したい御文章です。

 

瑞玉串と捧げまつりて

      谷口輝子(生長の家谷口雅春総裁令室)

 

五月二十五目は、私にとって強烈なショックを二回受けた日であった。昼食を終へてテレビを見てゐると、婦人局長の田中さんより電話がはいった。

 

 「古川恵偉先生は只今十二時二十八分昇天されました……」

 

 

 悲しみを帯びた優しい声が私の耳を打った。私はかたはらにゐる夫に飛び付かんばかりにしてそのことを伝へた。

 

 前回の電話で田中局長は、

 

「昏睡状態の古川先生を、婦人局から浅村さんと石沢さんとが御見舞に和歌山市に伺ひましたところ、眼をつむって居られた古川先生に二人が『私たちの声が聴えたら、眼を開けて下さい』と申し上げましたら、古川先生は眼を開けられまして、涙を流されたさうでございます。昏睡からお覚めになったやうでございます」

 

 田中局長のうれしさうな声に私の心も明るくなった。私は西彼町の亀岳郵便局の速達受付時間に間に合ふやうにと、朝食をすますとすぐペンをとって、和歌山の中谷病院に入院中の古川さんに手紙を書いた。私は古川さんにまだまだ生きていて欲しかった。

 

 

「私より十歳若い貴女なれば、私より先きに死んではいけません……」

 

 などと激励のつもりで書いた。しかし、その手紙は朝の九時ごろ出したのだから、和歌山市の病院に着く前に、古川さんの訃報の電話が私を驚かしたのであった。

 

 そのおどろきの鎮らないうちに、また東京の和田理事長からの電話が、私に追ひうちをかけるやうに鳴り響いた。

 

 「奥様、大東塾の影山正治さんが、大東神社の境内で今朝割腹自殺をなさいました・・・・」

 

 その言葉こそ、古川さん以上に私は自分の耳を疑った。

 

 古川さんは昏睡状態だと聞いた時一度驚いてゐるので、もしやといふ思ひもあったが、影山さんの自決は「何故? 何故?」と解らなかった。

 

 翌る二十六目、東京から知らせて来たとて、ここの本山から持参された影山氏の遺書と辞世の歌を披いて見た。

 

 

 一死以て元号法制化の実現を黙祷しまつる

 

民族の本ついのちのふるさとへはやはやかへれ戦後日本よ

 

身一つをみづ玉串とささげまつり御代を祈らむみたまらとともに

 

 ああ、解った。影山さんらしい死であった。国民の大多数が元号の法制化を願ってゐるが、革新政党やキリスト教徒が反対してゐる現状であるが、近いうちに参議院でいづれかに決定することになってゐる。

 

 影山さんは、その決定前に死を急がれたのであらう。五月二十五目は、南朝の大忠臣楠木正行公のゆかりの日であるので、勤皇の志士の集団である大東塾では、その日は楠公祭日としてゐられると聞いてゐたが、永い間の念願の大東神社も四月落慶されたし、一身を元号法制化のために、みづ玉串として捧げるのに、好機到来といふわけだったであらう。

 

 しかし私は、立派な愛国者の一人を失ったことが惜しまれてならない。生きてゐて、祈って祈って、運動をしつづけて、あの熱誠あふれた文章や言論をもって、天皇国日本の実相顕現が確固たる姿となるために、働きつづけて欲しかった。

 

 三島由紀夫さんが割腹死された時も、私はその死が借しまれてならなかった。生きてゐて、その名筆をもって、日本の若者を赤化から引き戻して欲しかったと痛歎した。

 

 影山さんは、一時的の感情の昂奮で自決するやうな人ではないから、かねてから充分考へて、覚悟を定めての決行と察しられるが、去年の六月二十三日に、ここ長崎の私たち夫婦の住む家を訪れて下さり、次いで生長の家練成道場を訪ねて下さった、あの目の、元気な和やかな御顔が忘れられない。

 

あの日の影山さんは、三男正和さんをはじめ一行八入でやって来られた。私たち夫妻と一時間ばかり応接室で語り合ってゐた。お互ひの心を理解し合ってゐることは楽しいものである。胸襟を開いて笑顔で言葉を交してゐると、時間の経つのは瞬く間のやうであった。やがて私は御一行を案内して、建立中の住吉本宮へ御案内した。影山さんは「近いうちに自分の方でも建てようと考へてゐる神社の参考に」と言って、石段を上って扉の中まではいり、つぶさに内部まで拝見して居られた。

 

 ゆっくりと、つぶさに拝観を終られると、私は練成道場へ御案内した。私の案内を、老齢のゆゑにか、ひどく恐縮されて、「もう此処までで結構です」と言はれるので、私は道場の玄関前で別れの御挨拶をした。見送ってゐると、御一行はずんずん場内に入って行かれ、二階へ上って行かれた。私は一人で帰路についた。

ああ、あの時が、この世での永遠の別れだったとは誰が考へようか。

 

 大日本帝国が、惨めな敗戦の日を迎へてから十日目の八月二十五日であった。影山正治さんの父君影山庄平翁が、塾生とともに代々木原頭で十四名、皇居に向って割腹自殺を果された。戦ひつかれて、精神的に肉体的に疲弊困憊してゐだ日本全国の国民は、大きな衝撃を受けて奮ひ立った。女ながらも私は、あの時の昂奮はひどかった。

 

 「天皇陛下。臣らの力及ばずして敗戦に到らしめました。御詫び中上げ奉ります」

 

 といふ影山翁たちの意志表示たったやうに私は記憶してゐる。

 

 その時、長男の影山正治さんは戦地に居られたやうに記憶する。

 

 影山正治さんは国学院大学の学生時代に、父君影山庄平翁が生長の家に深い関心をもってしばしば谷口先生のことを語ってをられたので、それが縁で“生長の家”の思想にふれられたのだといふ。その後、どれほど“生長の家”への理解を深められたか知るよしもなかったが、後日、何かにつけて次第に接近して来て、天皇を尊敬し、目本の国体護持への熱い祈りに於いて、心を一つにすることが出来た。

 

 五十三年十一月二十一目であった。この日は午後二時より我が生長の家本山では神殿祭が挙行せられ、それが終ると引きつづいて鎮座祭が行じられて、めでたく国家鎮護を目的とする住吉本宮の落慶大祭は終った。

 午後四時四十分頃、私たちは本宮の顕斎殿より出て、新練成道場の大食堂に於ける祝賀パーティに出席した。

 

 空は晴れ渡り、その空を映した金龍湖の青い水の中を、色とりどりの錦鯉が泳ぎまはってゐた。四方の山々は緑の中に黄葉紅葉の色を織りまぜて、床しい錦をひろげてゐたし、広い境内の砂は白く清々しかった。

 

 招かれてパーティに集った人々の顔は喜びにほころびてゐた。古い信徒の人たちは、じっと見つめてゐると、あら、あの人は誰さんらしいといふほどに相貌の変ってゐる人も何人もあったが、誰も誰も、にこにこした顔ばかりであった。私たちのテーブルの左方には異民族のブラジル人が五十名ばかり、背丈が高くて色白の人、色の黒い人たちが、白い歯を見せてカメラを向けてゐる。

 

はるばると、わざわざブラジルより大祭に来られた人たちであった。

 和田理事長によって開会の辞が述べられ、副総裁の挨拶が終ると、私たち夫婦の手によって鏡開が行はれた。私たち夫婦は槌を手にして鏡を打った。

 

 この時、大東塾の塾長影山正治さんは祝辞を長々と述べられ、そして鄭重な感謝を捧げて下さった。言葉が終ると「乾盃っ」と大きな声で暖ばれた。

 

 場内いっぱいの男も女も、日本民族もブラジル民族も、アメリカ人、カナダ人も、一斉に盃もつ手を高々と挙げて、笑顔をほころばせて盃をかたむけた。

 乾盃し終ると、集った人々は海外代表の挨拶を熱心に傾聴したり、田村五郎君の詩吟にうっとりしたりしてゐたが、やがてあちこちのテーブルヘ散って行き、山海の珍味を珍しげに楽しげに箸にしてゐた。

 

 影山さんの音頭で、さまざまの民族が一斉に顔をほころばせて盃をあげた。

 

 ああ、それは、あの日一日のことではなく、今後の毎日の在り方であって欲しかった生き永らへて、もっと、もっと音頭をとりつづけてゐて欲しかった。

 

 今朝ほどの本山の良本総務の知らせでは、「『落慶式』の映画には、藤本刀匠のそばに、影山さんがハッキリ映って居ります」

 

 とのことであった。広島県の無形文化財である藤本昭さんは、住吉本宮の御神体である『護国の神剣』の制作者である。その人のそばにハッキリ影山さんが映ってゐるといふことは、偶然とは思へない、深い因縁を感じる。

 

 

  「元号法制化」が為されなかったならば、

 

 

  「天皇国日本」の形が崩潰に傾いて行くことを、愛国者たちは憂ふるのである。「天皇国日本」であることを無視して、キリストに関係のある西暦のみを用ゐようとする人々は、それは日本人の魂を失った人々だといへよう。

 

 影山さんは、天皇への忠の証として忠臣大楠公の命日五月二十五日、そして父君ら十四烈士の割腹の日二十五日に自決せられた。

 

 身一つを、みづ玉串として捧げまつられたやうだけれど、魂は十四の御霊らと協力して「元号法制化」の実現のために努力するつもりのやうに拝察する。

 

ああ、今頃は、十五の御霊は天翔けり、日本の空の暗雲を吹き払ってゐられるだらう。         (五月三十一目記す)

    ―『理想世界』昭和五十四年八月号に掲載-

 

『私の日本憲法論』には附録として「谷口憲法論に寄せられた識者の辞」があるのを御存知であろうか?

殆ど所持されているが、失くしてしまわれた人も多いのであろう。

 

そこで、茲に掲載致します。

 

谷口憲法論に寄せられた識者の辞

日本恢復悲願の書

東京水産大学教授                                 相 原 良 一

本年は明治元年よりかぞへて百一年で、満百年になるので、明治維新百年祭が朝野を挙げて祝はれる年である。この年の年頭に当って本書が刊行された意義はまことに深い。

 

 明治維新の幕は徳川幕府の大政奉還に続く王政復古の大号令によって切って落された。復古が即ち維新であった。「古」が「新」であるとは、言葉の上では矛盾であるが、それが矛盾でなく「我国未曾有ノ変革」として大いなる前進たり得た歴史の秘密は那辺に求められるか。大号令には「諸事 神武創業ノ始二原ツキ」とあって、過去三百年の幕藩体制はもとより、七百年の武家政治、更に千年の摂関政治をさへ否定して、天皇親政の我国の本来の面目に復り、はじめて、近代的統一国家形成へ大きく進み得たのである。「復古」は決して逆行や反動を意味するのではなく、かへって本然の姿に復るといふ意味で偉大な進歩であった。この故に「御一新」と呼ばれ「維新」といはれたのである。

 

 従って、大号令に続く「五箇条ノ御誓文」も、「版籍奉還」も「廃藩置県」も、すべて天皇といふ国の中心に帰一しまつるといふ尊皇の精神によって貫かれてゐた。維新の成果たる大日本帝国憲法もこれによって成立した。今日明治維新百年を祝ふ最大の意義は、この尊皇の伝統を復活強化するにある。

 

 本書『憲法の正しい理解』の刊行は、まさに、この要望に最も的確に応へるものである。けだし本書は、著者が「祖国を愛し、日本の将来を憂へて、目本の伝統的理想実現のために、憲法問題をいかに考へ、いかに対処すべきかを折々の問題をとらへて発表して来られた論文・檄文を編纂したもの」であるからである。

 

 しかも本書には、折々の論説の編纂にもかかはらずで一貫するものがある。

 

 ―それは真の日本恢復の悲願である。維新のための復古は、本書においては戦後二十余年の誤謬の是正であり大日本帝国憲法の復元である。ところで帝国憲法の復元といへば、多くの人々は今なほ反動と驚き、時代錯誤となすであらう。かういふ一般の人々の疑問に対して、著者は、多くの学者・評論家の論説を引きつつ、情理を尽して、懇切丁寧に説得される。

 

 維新の中心明治元年から二十二年にして憲法発布、翌年帝国議会開会即憲法実施、続いて教育勅語煥発が行はれた。丁度それと同じく、今日、戦後二十二年(昭和四十二年)にして紀元節の復活たる「建国記念の日」の制定を見、続いて明けた本年、明治維新百年祭を迎へる。

実に不思議な歴史の偶然といふものである。われらは、ここに「大二皇基ヲ振起」すベく、維新の結晶「大日本帝国憲法」に復帰するの道を開かねばならぬ。このためにこそ本書はひろく読まるべきであり、殊に若い人々の愛読を勧める

              (二六二八年立春の朝)

 いつかしきのりに復らでかりそめの安きを偸み移ろふべしや

(仮名遣原文のまま 「聖使命」紙昭和四十三年二月十一日号)

 

明智の洞察で示す

  日本国民の生きる道

ジャパンタイムズ論説顧問

   斎 藤   忠

 

憲法はいうまでもなく、国の基本法。したがって、憲法に問する問題は、国民をあげての最大の関心事であらねばならない、もとより、一部の憲法学者の論議にのみゆだねて設けることではない。

 

 まして、今日の日本国憲法というものは、第二次大戦における日本の敗戦にその淵源を持ち、戦後の特殊な国際的国内的事情の中にその出生を享けてきた。これが日本の命運にどのように重大な関連を持つかは、その制定の歴史的背景となった事情をあきらかにして、はじめて正確に理解し得ることであろう。

 

 日本国憲法というものの本質をあやまりなく理解し、評価することは、その条文や語句の解釈だけでできるはずのものではない。これを日本敗戦の歴史に照らし、これを戦後の現実の中に置き、その生成の事情を追い、その背景となった苛酷きわまりない占領政策の精神を究め得て、はじめて正しい把握は可能であろう。

 

 だが、そのような大局的把握は、識見一世を技く達人にして、はじめて為し得ることだ。今日の憲法を論ずる者、ただ条章の技術的解釈を事として、その制定の歴史的事情を忘却し、その占領統治要綱としての本質を看過する。日本国民の鍛大の不幸というべきであろう。

 

 今日、日本が直面する無数の難問題の多くが淵源するところは、実に、日本国民の持つ戦後憲法の本質に在る。日本の運命を救う道は、この憲法を改めるよりほかにはない。

 

 国政を担当する者にとって、何よりも心すべきは、この憲法の問題なのだ。本立って、末ははじめて定まる。国の基本法を正さずして、国政の混乱を救い、民族を守り得るはずがあろうか。

 

 今日、最大の急務は、国民大衆の前にこの憲法の本質をあきらかにし、これに対する国民の正しい理解をかち得ることだ。それは、そのままに、日本の正しい歩みを指示し、民族の興隆と真実の平和に通ずるであろう。

 

 谷口雅春先生の『憲法の正しい理解』は、その意味で、今日の日本が最も必要とする救国の論策である。われわれは、この著書の中に、はじめて、魂にふれ、心に訴える日本国憲法論を発見することができた。

 

 この一巻の著書をつらぬいて脈々として波打つものは、何ものにもわずらわされぬ明智の洞察だ。あくまでも正をふんで恐れぬ万夫不当の気魄だ。

 

 憲法すらも、すでに問題ではない。日本国憲法の主題を借りてここに昭々として示されるものは、日本国民の生きる道である。悠久の歳月にわたって承け伝えてきた祖国の「命」を千載に守りつらぬく道である。

 

    (「聖使命」紙 昭和四十三年四月一目号)

 

現代日本を救う名著

東京工業大学教授                            矢 島 釣 次

日の丸はファシズムにつらなるのだ、自衛隊は軍国化の橋頭堡だ、神話は国家権力増強の戦略だという議論が巷で常識論としてたたかわされ、角棒とヘルメットと催涙弾が毎日のように新聞記事の大見出しとなる。

 

 一方では知名人が汚職で豪壮な邸宅を背景に召喚されていく写真が大きくかかげられ、グループ・サウンズに若き女性の泣きわめくような嬌声がとぶ。

 

 老若男女を問わず、《亡国の民》と化す。優雅な自動車、色彩もあざやかなテレビ、グリーンの芝生を悠然とキャディーをしたがえて歩くゴルファー、これらのことは、うたかたの泡沫のごときものにすぎぬ。

 

 ドストエフスキーは暗い牢獄の中から絶叫した。《最後に只一つだけ教えてくれ! この世に神はあるのか、ないのかを!》

 

世の心ある人々は敗戦このかた間いつづけてきた。

 

 《最後に只一つだけ教えてくれ! この日本の人心の混迷を救う道はあるのか、ないのか!》と。

 

 どうすれば日本人に《祖国愛への回帰心》をいだかしめることが可能なのだろうか。この最も根源的な、しかもぎりぎりの問いにズバリ解答を与えてくれたのが本書『憲法の正しい理解』である。

 

 著者は全学連の行動にみられる心的動機を全面的には否定していない。むしろ羽田事件で暴走車の車輪の下で若い生命に終止符をうった山崎博昭君に慈母のような切切たる愛情をもつ。なぜ彼を死に追いやったか。純粋で秀才であるが故に、罪人の自覚を深刻にもち、《人間は努力するほかはない》、その努力の生活で罪を浄化するのが人間の《生》なのだと著者は山崎君の心情分析を、あくまでもあたたかい目で追跡する。

 

 だが、そこにはキルケゴールではないが、近代人の《病める魂》がある。罪の意識は今一段高められなければならぬ。罪意識の苦悩を克服して《人間本来神の子、罪なし、病いなし》の信仰的姿勢に至らねばならぬ。

 

 《家・郷土・国家》、この祖国という運命共同体は今や喪失されようとしている。各人が権利のみ主張してお互いに相にくみ、カー、クーラー、カラーテレビという唯物的三種の神器に生ける証を求めている。

 

 極度に内省化か要請されているときに、極度に外面的な物質を追い求めている。この根源の一切は《国民主権》という如何にももっともらしい麗句で装飾された《中心なき国家観形成の現行憲法》から発すると著者の口調は烈しい。

 

 愛とは与えることではない。愛とは支えることである。支えるとは、もし落ちるときには、ともに落ちる。そこには《捨身の行》かおる。与えるだけでは、真の行とはならぬ。なぜならば白他の間にある距離が存する。

 

 《支える愛》、これこそ真の愛、大愛というべきであり神愛というべきであろう。著者の説く《天皇の愛》とは、まさに《万民を支える愛》の具現者を意味する。

 

 されば、終戦に際して《自分の体はどうなっても、出来るだけ多くの国民に生き残ってもらって、日本国の再建につくしてもらいたい》と仰せられた日本の天皇に再び元首の座に帰していただき、《大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス》と定められた帝国憲法の有効なることを宣言公布すべきだと、著者はいろいろの角度から説いてつきるところがない。

 

 占領憲法を廃して明治憲法の復活を説くには、非常な勇気がいる。一億亡国の民と化した国土に立って、祖国愛への回帰心を切々と訴える本書は、真の目本の道を示す心の書とよぶべきであろう。

    (「聖使命」紙 昭和四十三年六月一目号)

 

紋三郎の秀

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紋三郎の秀

出演;高田浩吉・角梨枝子・澤村國太郎 

【常州笠間生れの秀五郎は二つ名前の紋三郎の秀とよばれ、賭場の恨みから、恋女房お静を御家人天野に殺された。秀五郎は天野を斬って房州へ旅立った。上総木下の親分魚屋の徳蔵は年老いて病いがちとなり、駈出しの彌太五郎に縄張りを荒されていたが、秀五郎はここに草鞋をぬいだ。祭礼でふと知りあったのがお静に瓜二つの娘お新。しかも彼女は彌太五郎の娘だった。徳蔵と彌太五郎の両家が大喧嘩になろうとした時、秀五郎は単身両家の間に立ち、知恵と度胸と水際立った居合抜で見事に収め、双方の和解が成立した。再び旅立つ秀五郎をお新が追いかけたが、互いに好きだとは口に出さぬ意地の道行となる。途中、御用の声に追われた秀五郎は血路を開いて単身落ちのびた。彼は秘かに生家を尋ねると、母親は死亡し、盲目の父親寛斎を親身に世話しているのはお新だった。そこへ天野の一味大場と橋立、かつて彌太五郎の用心棒だった鷺坂が、捕手の役人達と共に襲いかかった。乱闘の一夜は明け、悪浪人等は秀五郎の幼なじみの御用聞茂吉に捕われ、秀五郎は自首した。お新は彼の帰りを待っている。】

 

初めて、AmazonCDを購入した、それが上記の作品『紋次郎の秀』である。映画は1955年作品で雨が打たれたような作品でモノクロ作品の映画の古さが目立つ。勿論、そんなこと覚悟である。映画でまだ女性はお歯黒のメイクをしていた。ただ、現在では出来ないことも沢山ある。それが背景である、田んぼや山々の景色である。情調的には確かにチャンバラという感じである。でもモノクロは黒沢監督でも『羅生門』など最高である。これは現在の時代映画では不可能である。

 

 さて、この映画を見たきっかけは昭和453月号『理想世界』誌の「私の少年時代から青年時代」のなかに谷口雅春先生が書いて居られる。

 

【“紋三郎の秀が命を捨てて、百人の子分が武装を整えて待っている先方のところへ唯一人で乗り込んで行くというところ、そういうところが吾々の心に、すごく立派に、すばらしく、男らしく、何かこう尊く感ずるというのは、それは何故でしょうか。

そこには、「肉体の否定」があるからである。「肉体の否定」のあるところに「人格の高さ」や「清さ」が感じられる。いい換えれば物質というものに縛られない程度に従って、霊的な「人間の本モノ」がいよいよ一層ハッキリと顕現してそれが尊く感じられるからであると私は考えるのであります。

 

 百人も武装して子分が待ち構えているところへ唯一人で乗り込んで行って、談判がうまくいかなかったら殺される怖れがある。けれども、あの魚屋さんを、自分が居候になって恩を受けたあの魚屋さんを救うためには、その理想のためには不惜身命――命を惜しまず、身を惜しまず――こんな肉体の命なんか惜しくないんだ、肉体なんて価値はないんだ、理想のためには肉体を捨ててもいいんだという紋三郎の秀の行き方に、凄く立派な素晴らしさや尊さが感じられるということは、“人間の本質”が肉体にあるんじゃなくて、もっと肉体を超えたものが肉体の奥に在って、その尊い本質が肉体を否定した正しい行ないというものに或る悦びを感ずるんだというように解釈されるのであります。】

 

 奇しくも昭和45年と云えば、それを鏡に映したような出来事がありました。雅春先生は予言したかのようにその年の1125日市ヶ谷駐屯地に起った。

【おまえら、聞け。静かにせい。静かにせい。話を聞け。男一匹が命をかけて諸君に訴えているんだぞ。いいか。それがだ、今、日本人がだ、ここでもって立ち上がらねば、自衛隊が立ち上がらなきゃ、憲法改正ってものはないんだよ。諸君は永久にだね、ただアメリカの軍隊になってしまうんだぞ。(中略)

おれは4年待ったんだ。自衛隊が立ち上がる日を。……4年待ったんだ、……最後の30分に……待っているんだよ。諸君は武士だろう。武士ならば自分を否定する憲法をどうして守るんだ。どうして自分を否定する憲法のために、自分らを否定する憲法にぺこぺこするんだ。これがある限り、諸君たちは永久に救われんのだぞ。】

三島義挙です。

 

谷口雅春先生は当然のように色々な御本や御寄稿された文章で三島由紀夫を絶賛された。

「肉体の否定」による「国の爲に命を棄てる、これより大なる愛はなし」です。今、「国の爲に命を棄てるような人間はいない」

楠木正成を考える

楠木正成というのはどういう人物だろうか。若くして、そんなことを考えながら歩いたことがある。笠置山・千早赤阪・観心寺・湊川神社と歩んできた。また桜井の駅、四条畷神社も歩いた。どうしても深く学びたいという気持ちと裏腹にそうした楠木正成の精神とはとか考えると、平凡な答えしか返せない。明治維新を動かした精神とは何処にあるのか、坂本龍馬が突き動かした「楠木正成」とは如何なるものであったのか。

吉田松陰をして動かしたものはなんだったんだろう。真木保臣なのか、会沢正志齊であろうか。時代は遡って水戸光圀であろうか。

 

そうした、私の精神が揺れ動いたものはいったいなんであったのかである。大阪府で唯一の村である千早赤阪村で生まれたとされる「楠木正成」。当時は単なる豪族であったのが、明治維新を動かした原動力になったのは間違いない。千早赤阪という地は金剛山という麓にある。一度千早城から金剛山に登ったことがあるが、急斜面の上に建てられた城であった。

その階段も結構辛かった思いがある。熱湯作戦や巨石を落とす作戦で〈太平記〉による尊氏の100万の軍勢に1000人を満たない軍で戦った。

 

最近は「NHK」でも楠木正成を取り上げることが多くなる。現在でも湊川神社では「楠公祭」とか行っている。富田林中学校では校章が菊水であることは知られていない。島本町の町章も菊水である。

 

今回、産経新聞が『日本の心』―楠木正成を読み解く―として本を出版した。

是非読んで頂きたい本です。
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「自分は仏教の基本である戒・定・慧 三学の器ではない」

最近のブログを見ると、情けない思いが出て来る。それは講話など出来るような人格者でもない人間が講話して「天狗」になっている姿である。また、これでもかと谷口雅春先生の御文章を引用して、「ほらみてみろ」わかっただろうと上から目線の表現にウンザリするのである。お前さんいつからそんなに偉くなったのだ。そんな思いが頭を過る。

 

それは文章を引用した谷口雅春先生のお言葉が素晴らしいのであって、自分はまだまだ修行中であり、勉強不足も甚だしい。それを感じなければならないのであって、自慢するようなものではない。また、雅春先生の聖典によっては様々な表現がある。だから勘違いするのであろう。

 

私は「生長の家」は修行などいらないとは雅春先生が書いて居られますが、やはり修行というのは必要ではないかと思うことが屡々ある。雅春先生は苦行などの自分を痛めるようなことは必要ないとおしゃっているだけで、或る程度は“人の飯(めし)を食い”そこで厳しく教え込まれ、「こんなに働くというのが、肉体的には辛いのであろうか」とか、人間関係で悩んだりするのも必要である。その家業を継ぐために、外に修行を出して、10年間位は人に從って生活するのも必要である。

 

随分前に京都市左京区の円山公園の東側にある「吉水草庵(よしみずそうあん)」という所に一泊二日で修行させていただいたことがある。でもたった二日だけでは修行にはならないのですが、スケジュ-ルがほとんど休憩なしで、夏の八月のク-ラ-もない扇風機もない生活がたしかに大変だったが、いい勉強であった。二日目の終了したのが夜の8時頃であった。円山公園から吹く風が少し冷たかった。

 

その場所は「吉水草庵」ですが、安養寺という法然上人が専修念仏の教えを広めんがためにそこに住まいされた所です、その安養寺の裏側に東山のそそり立つ岩石に洞穴があるが、昔は其の辺一体を「眞葛が原(まくずがはら)」とよんでゐた。法然は厳しい修行を積み重ねても、「自分は仏教の基本である戒・定・慧三学の器ではない」ことを痛感するのです。

 

ここでの修行はさぞ厳しかったと思います。洞窟の上から雨水が滴り落ち、湧き水が肌に震えを誘います。ここ「法垂窟」は法然上人が夢枕で浄土宗の祖と仰ぐ中国・唐僧善導大師に出会ったという伝説地とされ、「真葛ヶ原の出会い」「真葛ヶ原の対面」と呼ばれています。比叡山を下り、はじめ黒谷(現在の左京区黒谷・金戒光明寺)と今出川に賀茂の禅房の草庵を結んでのち、青蓮院の寺地であった真葛ヶ原吉水に草庵を結びました。

 法然43歳の時です。比叡山で修行にあけくれた後であります。

 

「自分は仏教の基本である戒・定・慧 三学の器ではない」と感じるのがなかなか難しい、一度、先生と呼ばれれば、有頂天となり増上慢となり、得意気に「講話」などする。話が上手であるが、中身がない。それを分らないのが何ともいえない。本人はそういうことが理解できていない。

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