則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2020年04月

讀んで戴ければ幸甚です。

勘違い

トキさんの掲示板に下記の文章がある。何か文章の間違いや記述内容の違いで理解出来ない。ある一点のみを見て「雅春先生」はこのように書いておられると表現したいのであろう。それは理解するが、もう少し全般的にものを見て書いたほうがいい。それは『生命の實相』ならば新修版や豪華版など様々とある、そうしたことを分類して比較検討したことがあるのかどうかであろう。ただこうした間違いは『絶版を考える』さんだけではない。

 

引用書名のうち現在は絶版のものも多数あるので、もしこの本を再刊せられたいと希望される方は発行所へその旨を本書にはさみ込のハガキで御通知ください。 (26518)

日時:20200427 () 1716

名前:絶版を考える

本書に引用せる書名のうち『生命の實相』は“愛蔵版”に於ける巻数である。

 

◎ 引用書名のうち現在は絶版のものも多数あるので、もしこの本を再刊せられたいと希望される方は発行所へその旨を本書にはさみ込のハガキで御通知ください。

 

昭和十四年十二月十五日 初版

 

昭和四十九年九月六日  改訂

 

昔の本来の教えに帰れ、昔の生長の家は善かった、聖典を絶版にするのはもってのほか、という意見が教団否定の方々から出ています。

 

然し乍ら、戦前に初版を出し乍ら、時代に合わせ昭和49年に改訂版を雅春先生自ら出版されています。改定と云われているのですから、時代に合わせた改訂が為されたのでしょう。旧版を持っていませんので比較はできていません。

 

ここで大事なことは

 

『引用書名のうち現在は絶版のものも多数あるので、もしこの本を再刊せられたいと希望される方は発行所へその旨を本書にはさみ込のハガキで御通知ください。』

 

と書かれていて、現在は絶版の者も多数ある、でありますから、引用元の聖典を読もうにも絶版のものが多数あるので読めない。だから希望者が多数あるようであれば再販を考慮します、と書かれているように思います。

 

この本は時代の現象を相手にした真理の書ではありません。人間神の子の根本真理体得のために書かれたものです。「真理の書」でも戦後にかけて絶版になっていた事実があります。

 

この事実をどの様に考えておられるのかご意見をお聞きしたいものです。

 

さて、ここで何カ所か指摘しておかなければならないことがあります。とりわけて重要なことが

 

①“「眞理の書」が戦後にかけて絶版になった”と書いていますが、これは間違いなのです。絶版では決してないということです。

それは、再版や重版が出来なかったということです。表現では全くその意味が異なってきます。それならば、戦後から版を重ねて「谷口雅春先生」の御著書が再版されたことがあるかということです。

同じ名前でも、装丁が異なります。戦後ならば普及版や新版として発行されています。

でも、同じ装丁で重版を重ねる著作は残念ながら、一冊もありません。疑うならば、自分で調べて下さい。私は何十年にわたり調査しています。

 

②次に愛蔵版では現在「再刊」という表現がありません。また戦前の初版を記入しているのが、新修(普及版、特製版)でその表現はあったと思います。愛蔵版では戦前の初版は記入していません。たぶんこの部分が何かと勘違いしているのだと思います。
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また、昭和十四年十二月十五日 初版という『生命の實相』の初版がない。この当時は何版か重ねて発行日のみ変更していて、それでも初版発行となっています。※下記を参考

また、昭和四十九年九月六日  改訂と記入しているが、日付が6日というのは聖典というのは発行日では極めて少ない、多くは1101525日という発行日である。ただ、そういう日付もたまにあるが、本当にたまにあるだけである。

上記の表現では『生命の實相』の愛蔵版であるのかどうかも疑わしい。また、愛蔵版が改定版と記入しているのかどうかも疑わしい。ただ何かと勘違いしているのだけは理解出来る。例えば、谷口雅春選集など『人間死んでも死なぬ(改訂版)』など何冊か改訂版が発行されている。その他の著書は数字で再版とか何版と記入している。

 

 だが「絶版を考える」さんは最初から躓いている。

【本書に引用せる書名のうち『生命の實相』は“愛蔵版”に於ける巻数である。】

意味が理解出来ない。

また

【◎ 引用書名のうち現在は絶版のものも多数あるので、もしこの本を再刊せられたいと希望される方は発行所へその旨を本書にはさみ込のハガキで御通知ください。】

 

この表現だと「引用書名」であるから、『生命の實相』とは限らない。別の本の可能性もある。「聖典」としているがその根拠がない。「引用書」というのはハガキに記入された本ではないかと推測出来る。また『生命の實相』において引用書を記載した表現は愛蔵版においてはない。私はそういう表現は未だ見たことが無い。

はがきに記載しているならば別の本であろう。

それを再版、重版希望の場合はハガキを出して欲しいということだけであろう

 

このようなことを記述するならば、きっちりと調査して本当にそうなのか、またその根拠となる寫眞など添付することが大切である。

そうしないと私や、読んでいる人は意味が理解出来ないのです、多くの表現でも重要な間違いあれば全てが信用できなくなる。啖呵を切るのはいいが、間違いならば再度訂正してほしいものである。



黑布表紙版 20  S.10.1.25~16.12.15 昭和10年度発行第1巻~12巻、昭和12年度13巻~15巻、昭和16年度16巻~20   光明思想普及会

 

 

  

 

四六判

当初は何版という記載はなし(各『生命の實相』にて記載(一部のみ有)

1巻  總説篇・實相篇(版により異なる)

S10.1.25

 

406

S10.4.29/S10.9.25/S11.9.5/S12.7.1/S18.3.25(17版納本)8000

2巻  光明篇・生命篇

S10.2.25

 

415

S10.6.10/S12.7.1

3巻  聖靈篇・實證篇

S10.5.25

 

408

S10.7.6/S10.12.20()/S12.5.20/S12.7.1/S18.5.15(8.9版発行)8版と9版が同時発行

4巻  生活篇・觀行篇

S10.10.25

 

411

S12.7.1/S14.5.20/S16.9.2517版)/S17.7.2518版発行)

5巻  靈界と死後の救ひ

S10.5.25

 

429

S10.7.25/S12.7.1/S10.1.25/S16.5.20(第13版)

6巻  萬敎歸一篇

S10.1.25

 

402

S10.4.25/S10.6.25/S12.5.20/S12.7.1

7巻  敎育篇・倫理篇

S10.6.25

 

406

S10.7.25/S12.7.1/S18.5.15(第13版)限定5000

8巻  人生問答篇

S10.3.25

 

410

S10.5.20/S12.5.15/S12.7.1/S16.9206/S18.5.157版    S12.7.1には頁399

S16.9.20

399

S18.5.15

367

9巻  宗敎問答篇

S10.8.25

 

429

S12.5.20/S12.7.1/S14.5.20

10巻  神示を受くる迄

S10.6.20

 

437

S10.9.25/S12.7.1

11   經典篇・參考篇・宗敎問答篇

S10.11.25

 

432

S12.7.1/S14.2.18/S14.8.1

12巻 常樂篇・經典篇・參考篇・質疑篇

S10.12.15

 

415

S12.7.1/S14.2.18

13   敎育實踐篇

S12.7.01

 

466

S12.7.18/S12.8.25/S14.2.18

14巻  久遠佛性篇・眞理體驗篇

S12.7.01

 

510

S12.7.18/S14.2.18/S14.7.20

15巻  女性敎育篇・兒童光明篇・聖典講義篇

S12.7.15

 

538

S14.2.18/S14.6.20

16巻  神道篇・經濟生活篇

S16.9.01

 

460

 

17   随喜篇・道場篇

S16.10.05

 

473

S16.10.25

18   下化衆生篇・幸福生活篇・功德篇

S16.10.25

 

419

 

19   幸福篇

S16.11.25

 

413

 

20   佛敎篇・家庭敎育篇

S16.12.15

 

448

 



目次と本文の頁数の違い

今回、『谷口雅春先生著作年譜一覧表』作成において、私も全く気がつかなかったが、目次と本文が一頁づつずれていることを「或る方」から御指摘いただいた。

それが『生命の實相』頭注版35巻である。

私はたまたま、本文にて頁数を記載していたので間違っていなかったが、目次のみ信用すれば間違いをそのまま表示することになった。

 レファレンス集を作成するにあたり、本文を尊重するようにしているが、目次と本文の頁数の違いが多い。また、内容も違う場合もある。

 その頭注版『生命の實相』は初版から訂正されずにきた、その重版55版までは間違いを確認した。

 

 「そんなことどうでもいいではないか」という人もいると思います。私も随分以前まではそんな考えでした。それが、徐々に変わったのが、リファレンス作成する頃からと、その「或る方」からの指摘からです。それにより、随分と意識改革が出来ました。

 

 書誌學においてはそういう「そんなことぐらい」という気持ちは絶対にダメなんです。そういう「そんなことぐらい」という自分に甘くするような気持では、他人など批判出来ない。

 

  偉そうなことを言って申し訳ないが、その「或る方」というのは、以前に私が「これは間違っている」と反対に指摘した人である。

 「人から間違いを指摘されると」腹が立つこともある。だが、私は本当に感謝できるのです。間違いそのものを認めるのではなく、そういう指摘をして下さった人がいることに感謝することです。

 

 話の観点は異なるが、私は谷口雅宣総裁という人が「生長の家」教団の根本要因を変節しようとしている。だが、反対に感謝しなければならないことにも気がつかなければならない。勿論、可笑しい事はドンドン指摘すべきだと思うが、それにより、ああ「こんな間違いして恥ずかしい」と思うのはいいが、相手を蔑んだりしてはいけない。そんな気持ちがどうしても出てしまうが、己の「蔑むような心」が反対に相手から「蔑んだりされることになる」

  それならどうするのであるかというと、それにより反対に「谷口雅春先生」の御著書でそんなこと書いている、いや、これは違うぞとはりきって勉強する自分がいる。

「ああ、有難いな。谷口雅宣氏の間違った解釈で勉強させていただく、有難いな」

「それにより、いっそう深く勉強出来た」

「ありがとうございます」

 

さて、『生命の實相』頭注版 第35卷の目次と本文の違いを下記に記載させていただく。

 私は偶然にも初版を所有していましたので確認が出来ました。高校生時代にアルバイトして購入した初めての『生命の實相』でした。
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『生命の實相』頭注版 第35 (下化衆生篇・功德篇 上) 昭和41610日発行 ※初版発行から55版まで目次が一頁ずれている。( )内目次表示

第三十五巻目次

はしがき

凡例

下化衆生篇哲学の実践

第一章生きて生活する哲学/3

第二章生命の特殊性と科学精神批判/41

第三章世に勝つ原理/68

第四章実在・理念・国家・人間/100

第五章粟粒結核も親の心で治る/116

功德篇宝樹華果多し<上>

無限力の発現/151/152

道を求めて/155/156

死の宣告を受けて/158/159

家庭光明化す/163/164

言葉の力/168/169

ありがたい心/173/174

わが光明信条/177/178

感謝は癒やす/180/181

歓びの日々/183/184

光を招ぶ教育/188/189

三島由紀夫の『文章読本』

『文章読本』という本は三人の文豪が書いている。一人は谷崎潤一郎の『文章讀本』、そして三島由紀夫の『文章読本』、そして川端康成である。川端康成は『新文章讀本』。それぞれの観点の違いはあれど無理矢理に対峙など出来ない。

 より情緒的な官能的文章は三島由紀夫ではないかと思う、伊藤整や川端康成、森鴎外、また古文とよばれる『土佐日記』『源氏物語』等様々な文章を引用しながら書いている。

男文字と女文字との違い、散文と韻文などいろいろとある。

そこで面白い三島由紀夫の『文章読本』の文中に變に納得する文がある。それが下記である。

 

 次に私が森鴎外に学んだのは擬音詞(オノマトペ)を節約することであります。だいたい関西の人の方が、東京の人と比べると日常会話にも擬音詞をよく使ひます。

 

 【ぼんやりした顔をぬっと突き出して帰ってきたところを、いきなり襟を摑んで突き倒し、馬乗りになって、ぐいぐい首を締めあげた。「く、く、く、るしい、苦しい、をばはん、何すんねん」と柳吉は足をばたばたさせた。蝶子は、もう思ふ存分折檻しなければ気がすまぬと、締めつけ締めつけ、打つ、撲る、しまひに柳吉は「どうぞ、かんにんしてくれ」と悲鳴をあげた。蝶子はなかなか手をゆるめなかった。妹が婿養子を迎へると聴いたくらゐでやけになる柳吉が腹立たしいといふより、むしろ可哀想で、蝶子の折檻は痴情めいた。隙を見て柳吉は、ヒ-ヒ-声を立てて階下へ降り、逃げまはった揚句、便所の中へ隠れてしまった。】

       (織田作之助『夫婦善哉』)143

 

なるほど、確かに大阪のほうが擬声語というのをよく使う。上方文學から流れをひいているのかである。近松門左衛門や井原西鶴のような大阪出身だからなんだろうか?

 

さて、今回の引用した三島由紀夫『文章読本』ですが、これが大変珍しいのです。それは、中央公論社から出版されているのですが、実は最初に出版されたのが、『婦人公論』の新年号付録として出版されている「レア」な本なんです。まさかと思ったが確かに間違いない。安価で手に入れたのだが、貴重品である。ワクワクするものです。
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『日本書紀』にみる疫病の防止方法

崇神天皇

日本書紀の現代語・口語訳の全文から抜粋

黒字は原文、赤字は現代語訳

 

五年、國多疾疫、民有死亡者、且大半矣。

崇神天皇即位5年。国内に疫病が多く発生して、民(オオミタカラ)の大半(ナカバスギ=半分以上)が死亡しました。

 

六年、百姓流離、或有背叛、其勢難以德治之。

即位6年。百姓は流浪し、なかには背くものもありました。(国が荒れる)勢いはすさまじく、徳(ウツクシビ)を持って治めることは難しいほどでした。

 

是以、晨興夕惕、請罪神祇。

そこで眠らず朝まで神祇(アマツカミクニツカミ=天津神・国津神)に(疫病がやむように)お願いをしたのです。

 

 

先是、天照大神・倭大國魂二神、並祭於天皇大殿之。然畏其神勢、共住不安。

これより先に、天照大神(アマテラスオオミカミ)・倭大国魂(ヤマトノオオクニタマ)の二柱の神を天皇が住む宮殿の中に並べて祀っていました。するとこの二柱の神の勢いが強くて畏れおおくて、共に住むのは落ち着かなくなりました。

 

 

故、以天照大神、託豐鍬入命、祭於倭笠縫邑、仍立磯堅城神籬。神籬、此云比莽呂岐。

そこで天照大神(アマテラスオオミカミ)を豊鍬入姫命(トヨスキイリヒメノミコト=崇神天皇の娘)を付けて、倭の笠縫邑(カサヌイムラ)に祀りました。そして磯堅城(シカタキ=地名か施設名かは不明)に神籬(ヒモロキ=神が降りる場所。後には神社を表す)を立てました。

 

亦以日本大國魂神、託渟名城入命令祭、然渟名城入、髮落體痩而不能祭。

日本大国魂神(ヤマトオオクニタマノカミ)は渟名城入姫(ヌナキノイリヒメ=崇神天皇の娘)を付けて祀りました。しかし渟名城入姫は髪が抜け落ちて祀ることが出来ませんでした。

 

七年春二月丁丑朔辛卯、詔曰「昔我皇祖、大啓鴻基。其後、聖業逾高、王風轉盛。不意今當朕世數有災害、恐朝無善政、取咎於神祇耶、蓋命神龜以極致災之所由也。」於是、天皇乃幸于神淺茅原、而會八十萬神、以卜問之。是時、神明憑倭迹々日百襲命曰「天皇、何憂國之不治也。若能敬祭我者、必當自平矣。」天皇問曰「教如此者誰神也。」答曰「我是倭國域所居神、名爲大物主神。

崇神天皇即位7年春2月15日。

崇神天皇は言いました。

「昔、私の皇祖(スメミオヤ)は鴻基(アマツヒツギ=天から与えられた支配権=皇位)を開いた。その後は聖業逾高(ヒジリノワザイヨイヨタカク=聖人としての仕事はとても立派)で、王風轉盛(キミノノリウタタサカリ=王者の風格もまた立派なもの)だった。思うに、私の世代になって、よく災害がある。おそらく朝(ミカド)に良い政治が行われていないから、神祇(アマツカミクニツカミ=天津神・国津神)が咎(トガ)を与えているのではないか。どうにか命神龜(ウラ=占いのこと)をして、災いを起こす理由を見極めよう」

天皇は神淺茅原(カムアサジハラ=桜井市茅原?桜井市笠の浅茅原?とも)に行って、八十萬神に占いで問いました。このときに神明憑倭迹々日百襲姫命(カミヤマトトトヒモモソヒメ=孝霊天皇の娘)が憑(カカリ=神が憑くこと)して言いました。

「天皇よ。 どうして国が治まらないことを憂うのか? もしも私をよく敬い、祀れば、必ず国を平穏にしよう」

崇神天皇は問いました。

「そのようなことを教えてくれるのは、どこの神ですか?」 神は答えました。

「私は倭国(ヤマトノクニ)の域内(サカイノウチ)にいる神、大物主神(オオモノヌシノカミ)という」

 

時、得神語隨教祭祀、然猶於事無驗。天皇、乃沐浴齋戒、潔淨殿而祈之曰「朕、禮神尚未盡耶、何不享之甚也。冀亦夢裏教之、以畢神恩。」是夜夢、有一貴人、對立殿戸、自稱大物主神曰「天皇、勿復爲愁。国之不治、是吾意也。若以吾兒大田々根子令祭吾者、則立平矣。亦有海外之国、自當歸伏。」

 

神の語(ミコト=言葉)を得て、教えの通りに奉りました。しかし、それでも効果がありませんでした。天皇は沐浴齋戒(ユカハアミモノイミ=水を浴びて汚れを落とし、肉食をせず穢れないようにする)して、宮殿を清め、祈りました。

「わたしは、神を敬い奉るのですが、いまだに尽(コトゴト)く効果がありません。どうして、これほどに私の祈りを聞き入れてくれないのですか? 効果が無さ過ぎます。お願いですから、また夢の中で教えてください。神の恩(ミウツクシビ=神の愛)を!」

 

この晩の夢に、一人の高貴な人物が現れました。宮殿の入り口に向かって立って、大物主神(オオモノヌシカミ)と名乗りました。

「天皇(スメラミコト)!!

また憂いているな。

国が治まらないのは、わたしの意思だ!!

もし、我が子、大田々根子(オオタタネコ)に私を祀らせれば、たちどころに国は平穏になる。また海外(ワタノホカ)の国があり、自然と従うだろう」

 

秋八月癸卯朔己酉、倭迹速神淺茅原目妙姫・穗積臣遠祖大水口宿禰・伊勢麻績君、三人共同夢而奏言「昨夜夢之、有一貴人誨曰『以大田々根子命爲祭大物主大神之主、亦以市磯長尾市爲祭倭大国魂神主、必天下太平矣。』」天皇、得夢辭、益歡於心、布告天下、求大田々根子、卽於茅渟縣陶邑得大田々根子而貢之。天皇、卽親臨于神淺茅原、會諸王卿及八十諸部、而問大田々根子曰「汝其誰子。」對曰「父曰大物主大神、母曰活玉依媛。陶津耳之女。」亦云「奇日方天日方武茅渟祇之女也。」天皇曰「朕當榮樂。」乃卜使物部連祖伊香色雄爲神班物者、吉之。又卜便祭他神、不吉。

 

(即位7年)秋8月7日。倭迹速神淺茅原目妙姫(ヤマトトハヤカミアサヂハラマクハシヒメ)と穗積臣(ホヅミノオミ)の遠祖の大水口宿禰(オオミクチスクネ)と伊勢麻績君(イセノオミノキミ)の三人が同じ夢を見て、天皇に報告しました。

「昨夜、夢を見ました。 一人の高貴な人がいまして、教えてくれました。

『大田々根子命(オオタタネコノミコト)に大物主を祀る主(カムヌシ)として市磯長尾市(イチシノナガオチ)を倭大国魂神(ヤマトノオオクニタマノカミ)を祀る主(カムヌシ)すれば、必ず天下太平となる』と(夢の中の高貴な人は)言いました」

天皇は夢の辞(コトバ)を得て、ますます喜びました。

布(アマネ)く天下(アメノシタ)に命じて、大田々根子(オオタタネコ)を探すと、すぐに茅渟縣(チヌノアガタ)の陶邑(スエムラ=和泉国大鳥郡陶器荘…大阪府堺市陶器山の西)に大田々根子(オオタタネコ)を見つけました。天皇はすぐに自ら神淺茅原(カムアサジハラ)に出向いて、諸王卿(オオキミタチマツヘツキミタチ=王さま達)と八十諸部(ヤソモロトモノオ=沢山の「伴」の主張)が集まって、大田々根子(オオタタネコ)に尋ねました。

「お前は、誰の子か?」

大田々根子(オオタタネコ)は答えました。

「父は大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)といいます。

母は活玉依媛(イクタマヨリヒメ)といいます。

(活玉依媛は)陶津耳(スエツミミ)の娘です」

また言いました。

「奇日方天日方武茅渟祇(クシヒカタアマツヒカタタケチヌツミ)の娘です」

天皇はいいました。

「わたしは、栄えるだろう」

すぐに物部連(モノノベノムラジ)の祖先の伊香色雄(イカガシコオ)を神班物者(カミノモノアカツヒト=神に捧げるものを分ける人)にしようと占うと「吉」と出ました。

ついでに他の神を祀ろうかと占うと「吉」と出ませんでした。

 

十一月丁卯朔己卯、命伊香色雄而以物部八十平瓮作祭神之物。卽以大田々根子爲祭大物主大神之主、又以長尾市爲祭倭大国魂神之主。然後、卜祭他神、吉焉。便別祭八十萬群神。仍定天社・国社及神地・神戸。於是、疫病始息、国漸謐、五穀既成、百姓饒之

 

(即位7年)11月13日。伊香色雄(イカガシコオ)に命じて、物部(モノノフ=物部氏の武人)は八十平瓮(ヤソヒラカ=平たい皿)で神に奉るものを作りました。それで大田々根子を大物主大神(オオモノヌシノオオカミ)を祀る主(カムヌシ)としました。また、長尾市(ナガオチ)を倭大国魂神(ヤマトノオオクニタマノカミ)を祀る主(カムヌシ)としました。その後に他の神を祀ろうと占うと「吉」と出ました。すぐに別に八十萬群神(ヤソヨロズノモロカミ)を祀りました。天社(アマツヤシロ)・国社(クニツヤシロ)・神地(カムドコロ)・神戸(カンベ)を定めました。

すると疫病が止みはじめました。

国内がようやく鎮まりました。

五穀(イツツノタナツモノ)が稔って、百姓は賑やかになりました。

 

大田々根子とは三輪神社にある大直禰子神社の祭神である。私も申し訳ないがまだ其の点が疎い。崇神天皇とは何かと問われれば、日本を統一した天皇しか思い出せない。その祟りとは何かを『日本書紀』をもう少し勉強したい。

 

 今回のコロナウイルスで『日本の感染症の歴史』において「天平の疫病」の大流行を記入しましたが、『日本書紀』の中に崇神天皇の時代に人口の半分が死亡したという記事です。

 

私はそこを単に神話であると、断じて関心も寄せない事ではいけないと思い。今回は失礼ながら抜粋のみにしましたが、もう少し『日本書紀』崇神天皇を学習しなければならないことを思った。

ここで書いてあることは、やはり「先祖祀り」である。八十萬群神の神を祀るということは「先祖」「兄弟」「友人」「すべての生きとし生けるものを祀る」ことである。全てに感謝することが、『日本書紀』では教えてくれているように思う。

谷口雅春先生の古い写真


私の家に或る、谷口雅春先生、谷口輝子先生のお揃いの古い写真があります。

奈良公園で写された写真ですが、戦前なのか戦後間もない頃なのかが不明です。(どうやらそのことが判明しました、下図を参照をお願いします)

ただ、何故私の家にあるのかがわかりません。IMG_4433

 

このブログを発表させていただいたのち、早速御回答を戴きました。『光を見つめて―谷口輝子先生九十年の足跡』18頁の記録写真と同じ時のものではないかということで、さっそく両寫眞を対比して見比べてみました。間違いなく奈良公園で同じ写真ではありませんが、例えばその寫眞では雅春先生の左側の「a bald head」の橫の男性です。そのパナマハットのような帽子をかぶっている男性は私の所有している寫眞では雅春先生と寄り添ったパナマハットをかぶっている男性。また「a bald head」の人はそれぞれの寫眞に写っています。
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上図は『光を見つめて』から

また、『光を見つめて』の一番右側でパナマハットをかぶっておられる男性が私の所有している右側のパナマハットをかぶっておられる男性と同じではないかと思います。

ということは、昭和111115日の寫眞だということがほぼ間違いないように思います。

ただ、そんな古い写真がどうして見つかったのかですが、考えられるのが『船越縫次郎』先生のお宅に訪問したときに戴いたのではないかと推測しています。

雅春先生の笑っておられる寫眞が私が大変に好きなものです。


御幸通り

御幸通りというのは天皇陛下がお通りになった道を指すことが多い、とりわけて明治天皇がお通りなったことを記念してその名が付けられたものが多い。全国にその名があります。

 

たとえば、姫路の御幸通りは

1903年(明治36年)に現在の姫路競馬場にあたる城北練兵場で明治天皇行幸のもと閲兵式が行われた。この時、姫路駅から城北練兵場へ至る道路を行幸に因み、御幸通と名付けられました。

広島市にも明治1884日に明治天皇行幸を記念して新しい道をこの名前を付けられました。

静岡市では静岡御用邸があり、西上の帰途などで度々、静岡御用邸に御宿泊され、その二階から「富士山を眺めておられた」という。

静岡市葵区追手町にその静岡御用邸があったが、戦災で焼失しています。現在はその御用邸と静岡行在所が明治天皇聖蹟碑として残っています。その横の通りが御幸通りです。

東京の御幸通りは有名です。皇居の和田倉門から東京駅に通じる幅員73メートルの道です。

でも、一番有名なのは三重県伊勢市の御幸道路です。

明治天皇の行幸を記念して造られた道路です。外宮から内宮までの5.5kmの道路です。御幸通りとも呼ばれています。


 ※本文で間違いを御指摘いただきました。感謝致します。
「御行幸」に「御」の字が附かないということです。二カ所ありましたので、訂正させていただきました。
 このような御指摘に深く感謝申し上げます。間違いがあればどんどんと指摘をお願いします。

なお、「御幸通り」は「みゆきどおり」とよんでいます。

UFO?

アメリカ国防総省は、高速で上空を移動するUFO=未確認飛行物体だとする映像を公開しました。写っている物体が何なのかはわかっていないとしています。https://t.co/h9s6zCGqve#nhk_newspic.twitter.com/RtPPvFwTQK

 

NHKニュース (@nhk_news) April 27, 2020

 

アメリカ国防省がUFOだとする動画を公開し話題になっています。動画は以前ニューヨークタイムズなどが公表し、話題になっていたもので、2011年と2015年に撮影されたものです。今回、アメリカ国防省が正式に公開し話題になっています。

 

 それに対して河野太郎防衛相が会見している。

朝日新聞から

河野太郎防衛相は28日の記者会見で、米国防総省がUFO(未確認飛行物体)の可能性がある映像を公開したことについて、「万が一、遭遇した時の手順をしっかり定めたい」と述べ、防衛省と自衛隊も対応の準備を進める考えを明らかにした。ただ、河野氏自身はUFOの存在を信じていないという。

 

 河野氏は会見で「米国防総省が画像を出したので、米側から真意や分析を聞きたい」と述べた。自衛隊はこれまでUFOに遭遇したことはないとした上で「(UFOとの遭遇が)あった時に映像が撮れるなら映像を撮るし、報告があるなら報告をする。どのようにするかは航空自衛隊などとも相談してもらいたい」と語った。

 

 日本政府は20182月、UFOについて「存在を確認したことはない」「我が国に飛来した場合の対応について特段の検討を行っていない」との答弁書を閣議決定している。

 

 一方、河野氏は「正直言うと、私はあまりUFOを信じてはいない」とも明かした。超能力や心霊現象を信じるかとの問いには「企業秘密」と述べるにとどめた。

私なども、何かがいるのではと思うが、UFOかどうかは信じていない。だが、公的な機関でこのように考えられているというのも興味はある。

焼津に神武天皇像

昨年の6月に静岡県焼津へ立ち寄った。それは斎場にても焼けなかった『甘露の法雨』の件についてです。焼津図書館や小泉八雲資料館に立ち寄った。

 しかし、本件のニュ-スで初めて知ったのだが、焼津に「神武通り」という通りがあることです。あれ?神武天皇と焼津との関連は、ハテ?

 大正天皇即位で建立された大正元年である。
その時に神武天皇像が立地されたようです。しかし、その後「焼津神社」に移された。

 さて、下記の疑問ですが、当時の『金属類回収令』である。「神戸大佛」など有名なものから、釣鐘(梵鐘)や二宮金次郎銅像や個人の拠出されたものなどがある。東京台東区谷中の徳富蘇峰の胸像など台座のみ残されたものもある。

 だが、さすがに「神武天皇」を拠出するようなことは当時では出来ないだろう。国民的な感情でそんなこと行えない。だが仏像だったらいいのかであろう。ただ、天皇が発布する条例ですから、その初代を溶解するなど出来ない。まあ、それが結論であろう。

 

 ただ不思議なのは焼津市と神武天皇との由来である。全くないのであろうか?

大和武尊と間違える?そんなことはないだろう?

 

 焼津市の焼津神社に建つ神武天皇像にまつわる謎を地元住民が調べている。1913年、大正天皇即位と同市の神武通りの整備を記念して通り沿いに建てられたとされるが、戦時中の金属供出を免れた理由や通り沿いにあった当時の様子が分かっていない。住民は情報提供を求めている。

  調査しているのは神武通りにある菓子店「角屋」の松村剛志さん(37)と映像製作などに取り組む又木克昌さん(58)。地域の歴史を後生にきちんと伝えようと、3月から住民への聞き取りや資料調べを始めた。

  「焼津市史」などによると、1910年、当時の焼津町全域が浸水する豪雨災害があり、現在の昭和通りと神武通りが整備された。これと大正天皇即位を記念し、名古屋から神武天皇像が運び込まれたという。焼津とゆかりが深いヤマトタケルと間違えたという逸話も残る。

  1950年、像が建っていた場所に公会堂を新築することになり、焼津神社に遷座(せんざ)された。

  疑問も浮上した。戦時中、近くに建つ地元の水産翁服部安次郎の銅像が軍に供出され、大々的な決別式を行った記録が残る一方、同じ銅製の神武天皇像が供出を免れた経緯が分かっていない。又木さんは「誰かが隠したのではないか」と推測する。

  神武通りに建っていた当時の写真も見つかっていない。「神武さん」として今も住民に親しまれる像。松村さんは「庶民歴史の記録を残すのに力を貸してほしい」と情報を求めている。問い合わせは角屋<電054(628)3870>へ。

 

植村宗一のこと

以前から疑問に思っていたのですが、植村宗一(直木三十五)氏のことです。何が疑問かというと、谷口雅春先生が明治4448日に早稲田大学高等予科に入学されているのですが、その後、明治4573日早稲田大学高等予科を首席で修了し、特待生となる。(20歳)となっているのです。その後大正元年に早稲田大学文学部英文科乙組に進学。早稲田時代の同級生に植村宗一、西条八十、青野季吉、坪田譲治、木村毅、岩淵辰雄、細田源吉、】細田民樹等がいる。と記載されている。あれ?旧制市岡中学では一年先輩ではなかったのか?

植村宗一は市岡卒業後、第六高等学校(岡山)を受験するも、初日の数学のみで放棄し、薬局勤めの後に奈良県吉野郡白銀村奥谷の小学校で代用教員になっています。その後早稲田大学英文科に入学したのが、明治44年の20歳頃となっています。暫くして仏子須磨子と同棲し、長女が誕生しています。生活苦から月謝を滞納して除籍となるのですが、その後も学校には通い続け大学の卒業写真には堂々と顔を出して写っています。

これをみて同級生というのを納得した。

 

人生はいろいろあるのですが、直木賞といえば知らない人がいないほど有名ですが、その直木三十五の代表作といえば、殆どの人は知らない。

昭和9年に肺結核・脊髄カリエスに犯されて入院し、43歳で永眠するのです。

 

 第六高等学校といえば谷口清張先生の出身です。また白銀村というのは知らなかったので調べて見ると、西吉野村(現在の五條市)です。それなら何回か行ったことがあるので知っている。賀名生(あのう)で南朝を調べるために二回程行った。そういえば女優の尾野眞千子氏もここの出身。丹生川に挟まれて谷にはいくつかの家があるが、多くは山の方に住まいされている。自然そのものの所である。

 

 菊池寛がこの直木賞を作った。(芥川賞も同じ)菊池寛も大学時代は養子縁組で資金の援助を受けて、明治大学に入学するも3ケ月で退学して、徴兵逃れで早稲田に籍を置き、文学の道を志すために第一高等学校の入学準備をしてゐる時に養父にばれ、養子縁組を解消されたが、父親は借金して学費送金でなんとか進学もできた。

 当時の作家は武骨者も多く、その分人物像は楽しい。当時は「事変中は国家から頼まれたことはなんでもやる」と宣言し、「文芸銃後運動」をはじめているが、当時はそれが当たり前である。今の時代の人にはわからない感覺であろう。

無限供給を受く爲には先づ『爭ひ奪ふ心』を止めよ

無限供給を受く爲には先づ『爭ひ奪ふ心』を止めよ

 

不平不満で世の中を終ろうとするのであろうか。

あいつが悪いと云って、相手の行動で動かされようとしている自分にどうして気がつかないんだ。

爭いの心をどうして、捨てられないのであろうか。

文句を云って、自己満足している人生なのか。

それより、自分がどう世の中にしていこうであろう。

自分がどのように世の中を建設していくかであろう。

不平不満は誰でも云える。

相手があんなに悪い事していると、人間というのは自分をほっといて、相手の悪い事ばかり、気にする。

反対にこんなに良いことがあることを認めようとしない。

認めたら、自分の尊厳が奪われるのか。

自分の名誉が奪われるのか。

自分の社会的責任が奪われるのか。

そんな奪われるような小さな存在なのか。

相手がこんなに悪い事したとしても、相手を罵って、自分はこんなに素晴らしいと云えるであろうか。

本当の幸せというのは、相手が苦しい時に手を差し伸べるが愛ではなかろうか。

自分の自慢することが「愛」ではない。

相手を相手を本当に赦すならば、温かい言葉をかけよう。

闇の言葉では人は変わらない、「光」の言葉で再生する。

明るい言葉で世の中を変えよう。

和顏愛語讃嘆でいこう。

忘れてしまいたい事でも、愛語でいこう。

「争い奪う」言葉は止めよう。

一人で労働組合にて総裁の不当に立ち向かうことも一考である。

〈去る2020122日の参議会において、七重塔の設置基準の改定をはじめ、教化部の主となる道場(拝殿)の實相額の前に、七重塔の縮小模型、並びに“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りのお社を設置して祭祀することなど、宗教上および運動についての重要な決定がなされました。〉

 

〝實相額の前に、七重塔の縮小模型、並びに“造化の三神”の神霊符を納めた三社造りのお社を設置して祭祀する。

 

さて、先日この件に関して、少しだけふれた。本来は谷口雅春先生の御著書にて否定していかなければならないのだが、破邪顕正さんが行っているので、重複するのでここでは書かない。

 

 だが不思議なのが、「ときみつる會」が否定もなにも行わないで沈黙を守っていることである。

 また、信徒のなかでも否定されている人が沢山いると思うが、どうして唯々諾々で従順しているのか不思議である。以前にここで書いたように、一人でも裁判を起せるのである。そんなに費用かけずにいけるのである。それには労働組合を作ることである。

 

 ひとりで労働組合と疑義をもたれるかもしれないが、左翼とかそんなこと関係なしに、労働の不当は中小企業や零細企業などでは当たり前のように行われております。大概は黙認して辞めざるをえない。

 

 以前にこの件で提唱して、断じて挫けずに行って欲しいといいました。その気持ちは今も変わりません。信徒は随えというのは不当なんです。このように「祭神」など変更する神道系宗教など、余程でない変更を行っていません。以前に書いた内容というのが下記です。本部職員及び教化部職員様へ「ある提案」を2016-09-24

 

【教化部職員で谷口雅春先生を尊敬され、現在の雅宣総裁をどうしても考えの違いから退職等を考えておられる人に提案させていただきます。

 

二週間程前にある友人から「JAPAN UNION」という名前を聞きました。これはインタ-ネットで調べるとわかりますように、一人でも組合に加入出来るシステムです。

 

やはり、現在の職員でも不当解雇や不当な左遷など留まること知らない。本部職員や教化部職員は勿論『学ぶ会』誌を読むことは出来ません。そういうのがわかると、処遇は大変悪くなります。

 

 また、職場内で『学ぶ会』のことを検索することも出来ない。勿論、そうした会合などにも参加が出来ません。また、携帯などで友達などで検索することも控えている人も多くいます。またそれにより辞職した話も多く聞きます。

 

 

 

 だから教化部職員になったために、旧来の友達とは遊ぶことが出来なくなったということも。

 

 また、友達が減ってしまって、悩んでいる人も多くいます。

 

 私達の時代は『赤旗』を購入したり、『共産党』支部に出かけたりしていましたので、何と不当な扱いをうけるのであろうかと思っています。

 

 そのため、ようやく帰宅してから、こちらのブログなどで見ていただいております。

 

それでですが最初に述べましたように「JAPAN UNION」に加入すれば外部からの折衝や交渉も可能となり、権利も認められるようになると思います。

 

 いままで仕方がないと諦めていたことも、団体交渉権として是非相談していただきたい。個人の考えの違いまでこれからも更に「スリ--・セル」として不当な労働条件を強いられます。

 

この労働組合に加入をするにはなかなか勇気がいると思いますが、断じて屈しないようにお願いします。】

 

http://www.jca.apc.org/j-union/

 

やはり、公表すれば反対に大入り満員になる。

大阪ではパチンコ店に休業要請に応じないパチンコ店を公表したが、それでも無視をして営業続けるパチンコ屋は反対に大入りに行列である。どこ行ってもパチンコ店が閉店で公表して開店がわかれば、そこに行けるのである。

前に書いたように病氣であるから、それを取り締まるには全店閉店しかないのです。可哀想であるが「パチンコ」にしか人生を捧げられない人達が意外と多いのである。

アル中でもそうである。病氣に人間にはコロナウイルスよりパチンコ店が無くなる方が怖いのである。しかし、他人に迷惑をかけるという常識が全くないから、病氣といえるのです。

 

法規制が厳格でない場合にこういうことが起るのである。補償とか言い訳が聞こえるが、今後風俗営業許可申請を年次で追加申請性にすればいいのである。義務違反には延長出来ないという形式にすればいいだけである。

 

大阪府が店名を公表したパチンコ店の一部で25日も営業が確認された。堺市内の店舗では開店を待つ客が朝から行列を作った。

 

 

 大阪府は24日、改正新型インフルエンザ対策特別措置法に基づき、休業要請に応じないパチンコ店6店の店舗名を公表した。府による休業要請に応じないため、より強い要請が必要と判断した。同法に基づく施設名公表は全国で初めて。4月末からのゴールデンウイークでの感染拡大を警戒し、外出自粛への協力を改めて呼びかける狙いがある。東京都など他の自治体も店名の公表に踏み切る方針を表明しており、各地に広がりそうだ。

 

「感染のまん延防止のために(店舗名を)公表する。府民には店舗に行かないよう協力をお願いする」。24日午後、府の吉村洋文知事は、記者団に述べた。

 

 吉村氏は同日、店舗名を公表したパチンコ店6店のうち、いずれも大阪市平野区の丸昌会館とだるま屋の2店舗が休業の要請に応じる意向を示したと明らかにした。吉村氏は「感染拡大防止に協力いただき、感謝したい」と述べた。

 

 大阪府によると、府内には約700のパチンコ店があり、府のコールセンターには117店舗について「休業していない」との情報が寄せられた。実際に現地を確認。営業中の店舗もあり、11店舗に22日に文書で休業を要請。5店舗が応じていた。府は、ほかのパチンコ店28店が休業要請に応じない場合は来週中にも施設名の公表に踏み切る方針。罰則はなく、すべてが休業に応じるかは不透明だ。

 

府はこれまで同法249項に基づき、商業施設などに休業に協力するよう要請してきた。同法は応じない場合、452項で行政指導としての要請を行い、同条4項で施設名を公表すると規定。今回の措置はこの規定に基づいたものだ。

 

 

 【関連記事】 企業名公表の指針、各知事に通知へ 休業要請巡り経財相

 

 それでも休業しない場合、知事は同条3項によって行政処分としての指示を出せる。指示をした場合も施設名を公表。吉村氏は「要請に応じなければ指示に移行するが、慎重な判断が必要。手続きがより一層厳格になる」と指摘する。

 

 同法は知事による休業の要請や指示を可能にしながら、事業者への補償は定めていない。吉村氏はこの点について「欠陥法だ。問題意識はある」としたが、「府民の命を守る知事としては、法律にのっとって適切な対応をする」と説明した。

 

大阪府が特措法45条に基づき24日に休業要請し、公表したパチンコ店は次の通り。

 

丸昌会館(大阪市平野区)、だるま屋(同)、P.E.KING OF KINGS大和川店(堺市堺区)、HALULU(同北区)、ザ・チャンスα(同美原区)、ベガス1700枚方店(枚方市)。

 

「丸昌会館」と「だるま屋」は24日、府に休業の申し出をした。府は25日に休業していることを確認したため、公表リストから2店を削除した。

 

堺市堺区の「P.E.KING OF KINGS大和川店」を運営する日本オカダエンタープライズ(大阪市西区)は報道機関向けにコメントを出し「営利追求のため営業を継続するわけではない」と強調した。

 

 同社の正社員と派遣社員は計195人、アルバイトは468人に上り、パチンコ業が政府の資金繰り支援の対象から外されてきたことを挙げ「この状態で休業すると倒産し、従業員や取引先への責任を放棄することになりかねない」と理解を求めた。

 

 コメントの最後には従業員の検温や消毒液の設置などの対応策が列挙され「『パチンコ屋』というイメージのみで判断しないで」「公表を受けて当社店舗に来ることは控えて」と記されていた。

 

 堺市北区のパチンコ店「HALULU」の運営会社の男性社長は24日、自宅前で取材に応じ「営業を続けていたことも知らなかった」と驚いた。「実質な経営からは身を引いていた」とし「休業要請は指示に近い。感染状況を踏まえると当然の措置だ。他の大多数の店が要請に応じる中、営業していたことには責任を感じる」と話した。

 

 大阪府枚方市の「ベガス1700枚方店」を運営するダイハチ(愛知県瀬戸市)は「担当者が休み」として対応しなかった。堺市美原区の「ザ・チャンスα」の男性従業員は「取材にはお答えできない」と話した。〔共同〕

淳仁天皇 淡路陵(あわじのみささぎ)大炊神社他


今回は第47代 淳仁天皇について記入したい。多くの人は何気なしに見ていると思いますが、淳仁天皇の父親の舎人親王は『日本書紀』編纂に参加している。

 この時期においても藤原系の力が強く、この淳仁天皇もそうであるが、孝謙天皇でも藤原家の圧力で傀儡政権のような時代でもあった。ただ、女系の孝謙天皇(重祚)に挟まれたような天皇であった。また道鏡がおり、実権は道鏡や他の人物に多くは握られていた。

 

 また、御陵についても様々な傳稱があり、宮内庁指定では山上としているが、周囲のたまねぎ畑からみても山上とするのは疑問はたしかにある。しかし、何カ所かその傳稱地があり、淡路に於ける淳仁天皇について、大いに勉強させていただけるものがある。

またちょうどこの時期に「天平の疫病」があり、藤原四兄弟全員を死へと追いやった。

ようやく明治になって諡号が決まったことを考えると大変な時代を生きられたのだと思って参拝した。

 

47代天皇 (ウイッキペデアから抜粋します。)

淳仁天皇

1870820日(明治3724日)諡号勅定

 

淳仁天皇(じゅんにんてんのう、733年〈天平5年〉- 7651110日〈天平神護元年1023日〉)は、日本の第47代天皇(在位:75897日〈天平宝字281日〉- 764116日〈天平宝字8109日〉)。

 

漢風諡号は明治時代になってから付けられたもので、古文書では廃帝(はいたい)または淡路廃帝(あわじはいたい)と呼ばれるが、歴代に加えた史書も存在する。諱は大炊(おおい)。

 

人物

 

天武天皇の皇子・舎人親王の七男として誕生する。母は当麻老の娘・当麻山背。だが、3歳で父が没したこともあって、天皇の孫でありながら官位を受けることもなく、存在が注目されることもなかった。

 

756年に没した聖武天皇の遺言によって新田部親王の子の道祖王が立太子したが、天平勝宝9329日(757422日)に孝謙天皇によって道祖王は廃され、4日後の同年44日(426日)、光明皇后(藤原光明子)を後ろ盾にもつ藤原仲麻呂(後に恵美押勝に改名)の強い推挙により大炊王が立太子した。

 

大炊王は仲麻呂の進言に従って、仲麻呂の長男で故人の真従の未亡人である粟田諸姉を妻に迎え、また仲麻呂の私邸に住むなど、仲麻呂と深く結びついていた。

 

また、舎人親王の母である新田部皇女は天智天皇の娘であり、天智・天武の両天皇の血筋を引くことも仲麻呂に推された一因であったとする指摘もある。

 

践祚

天平宝字2年(758年)に孝謙天皇から譲位を受け践祚した。同時に孝謙天皇は、太上天皇(孝謙上皇)となった。

しかし践祚後も政治の実権はほとんど仲麻呂が握り、一族は恵美の二字を付け加えられるとともに仲麻呂は押勝を名乗り、専横が目立つようになる。755年に唐で安禄山の乱が発生した際には九州の警備強化にあたるが、仲麻呂が新羅討伐を強行しようとしこれを許可する(ただし後の称徳天皇=孝謙上皇により実現しなかった)。また官位を唐風の名称に改めたり、鋳銭と出挙の権利や私印を用いる許可も与えた。天平宝字4年(760年)、仲麻呂を皇室外では初の太政大臣に任じた。同年、光明皇太后が崩御するが、仲麻呂は天皇と上皇を盾に平城宮の改築を実施し、翌天平宝字5年(761年)天皇と上皇は小治田宮や保良宮に行幸して保良宮を「北宮」とした。

 

ところが、保良宮滞在中に病みがちとなった孝謙上皇は看病していた弓削道鏡を寵愛するようになり、仲麻呂の進言により天皇がこれを諫めたところ上皇は烈火のごとく激怒し、天皇は上皇と対立するようになっていく。天平宝字663日(762628日)、孝謙上皇は再び天皇大権を掌握することを目的に、「今の帝は常の祀りと小事を行え、国家の大事と賞罰は朕が行う」と宣告した。この宣告によって、政治権力が孝謙上皇のもとに移ったとする見解と、御璽を保持しつづけていた淳仁天皇が依然と権能を発揮していたとする見解があり、まだ研究者間でも確定されていない。また、佐藤長門は孝謙上皇と淳仁天皇の対立の本質を天武天皇皇統でも傍流(舎人親王系)の天皇を自己の「臣」とみなす上皇(『続日本紀』天平宝字810月壬申条)と自己を孝謙天皇の皇太子ではなく「聖武天皇乃皇太子」として即位したとみなす天皇(『続日本紀』天平宝字36月庚戌条)の間に発生した王統及び皇位継承に関する認識の差として捉え、たとえ仲麻呂や道鏡がいなかったとしても2人の対立は避けられなかったと指摘する。

 

追放

天平宝字8年(764年)9月、上皇との対立を契機に恵美押勝の乱が発生、天皇はこれに加担しなかったものの、仲麻呂の乱が失敗に終り天皇は最大の後見人を失った。乱に加わらなかった理由については、既に上皇側に拘束されていたからだとも、仲麻呂を見限って上皇側との和解を探っていたからだとも言われている(仲麻呂は天皇を連れ出せなかった為、やむなく塩焼王を新天皇に擁立することを企てた)。

 

乱の翌月、上皇の軍によって居住していた中宮院を包囲され、そこで上皇より「仲麻呂と関係が深かったこと」を理由に廃位を宣告され、5日後の天平宝字81014日(7641111日)、親王の待遇をもって淡路国に流される。淳仁天皇は廃位、太上天皇は追号されず、上皇は重祚して称徳天皇となった。だが、淡路の先帝のもとに通う官人らも多くおり、また都でも先帝の復帰(重祚)をはかる勢力が残っていた。このような政治動向に危機感をもった称徳天皇は、翌天平神護元年(765年)2月に現地の国守である佐伯助らに警戒の強化を命じた。この年の10月、廃帝は逃亡を図るが捕まり、翌日に院中で亡くなった。公式には病死と伝えられているが、実際には殺害されたと推定され、葬礼が行われたことを示す記録も存在していない。敵対した称徳天皇の意向により長らく天皇の一人と認められず、廃帝または淡路廃帝と呼ばれていたが、『新唐書』日本伝では「大炊」、『宋史』日本伝では「天炊天皇」と記されて歴代に加えられている。これは10世紀に宋に渡った僧・奝然が伝えた『王年代紀』を参照したものである。

 

陵・霊廟

淳仁天皇淡路陵

(兵庫県南あわじ市)

 

陵(みささぎ)は、宮内庁により兵庫県南あわじ市賀集にある淡路陵(あわじのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は山形。

 

記録では、淡路国三原郡(現在の兵庫県南あわじ市の天王森丘とされる)に造営されたという。宝亀3年(772年)光仁天皇は僧侶60人を派遣し、斎を設けて、その魂を鎮めた。宝亀9323日(778424日)に山陵扱いとされた

 

また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

 

そのほか、滋賀県長浜市西浅井町菅浦一帯では淳仁天皇伝説が分布し、淳仁天皇の営んだ保良宮伝承地(現・須賀神社)、淳仁天皇陵伝承地などが存在する。

 

諡号

明治3724日(1870820日)に、弘文天皇(大友皇子)・仲恭天皇と共に明治天皇から「淳仁天皇」と諡号を賜られた。

 

明治6年(1873年)には、同様に配流先で歿した崇徳天皇を祀る白峯神宮に合祀された。

白峯神宮は何回か参拝させて戴いたことがある、サッカ-で有名になったが、京都御所の北側にある。
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ストリュ-トビュ-で見て下さい。

淡路島はため池が沢山あります。ため池はその土地の歴史を感じます。

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野辺の宮 淡路での御所伝承地に鎮座する神社。別名廃帝社。
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市陵墓参考地 

兵庫県南あわじ市市十一ケ所(淡路国三原郡)にある淳仁天皇の陵墓の伝承地。皇室治定の陵墓参考地で、市陵墓参考地という。伝承によれば最初に埋葬された殯斂地という(野辺宮解説板)。通称、丘の松という。近くに天皇を祀る野辺宮や位牌を祀る淡路・宝積寺がある。周辺は淡路国府の所在地と推定され、淡路総社の十一明神神社も近い。



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大炊神社

淳仁天皇が、天平宝字八年(七六四年)十月九日、政治の争いの犠牲となって皇位を廃され、親王の位を賜って「淡路の公」という名で、御母当麻夫人とともに淡路島に配流され、ここ中島大屋所に住まわれたといわれています。

 

配流された翌年の天平神護元年(七六五)年十月二十三日に、この地でなくなられ遺体はここ天皇塚に埋葬されたと伝えられています。

 

住民は今も、霜よけの「こも」を編み、埋葬場所と伝えられる杉の木の根本にかけ、天皇の霊をお慰めしています。

 

天皇塚の北方に並んで現在、淳仁天皇をお祀りした大炊神社が造営されています。


ストリ-トビュ-では中までは見えません。中央にこんもりとした木が見える所が「大炊神社」です。

https://www.google.co.jp/maps/@34.2889097,134.7457981,3a,37.5y,91.86h,81.84t/data=!3m7!1e1!3m5!1sg0ObxmyFRpiM28qRlyG9CA!2e0!6s%2F%2Fgeo2.ggpht.com%2Fcbk%3Fpanoid%3Dg0ObxmyFRpiM28qRlyG9CA%26output%3Dthumbnail%26cb_client%3Dmaps_sv.tactile.gps%26thumb%3D2%26w%3D203%26h%3D100%26yaw%3D270.0175%26pitch%3D0%26thumbfov%3D100!7i16384!8i8192







「貴方は此処では死なない」という聲

昔、「生長の家青年会」で共に活動していた人が現在はある教区の幹部として頑張っている。それを誉めて讃えるべきことだろうが、あまりにも落差の大きさに落胆してしまう。

 愛国的思考が見られない現在の「生長の家」教団にどうして付いていけるのか、私は疑問でしかない。だが、相手側からすれば屹度、そのように見えないのであろう。そこに幾何に彼が活躍している「生長の家」教団が存在するのかである。

 

 私は小さい時から「神童会」「青年会」「相愛会」と経過して活動してきた。愛国的なことは谷口雅春先生に指導を戴いた。また「母親」が熱心な信者であったことも影響している。でも、一番影響したのが、「谷口雅春先生」の御著書であります。また性格が良いかはわからないが、何でも疑問を持つ性格であったのが奏功したのである。自分で確かめないと気が済まない性格であるから善惡を判断する場合に自分で確かめるのである。だから時間はかかるし、失敗も多く有るが、良かったと思う事も多くある。

 

 それと良き友がいたことも事実である。自分には知らない事が余りにも多く有る。しかしそれを補助して余りある先生もいる。友人もいる。環境が大きく左右したことも事実である。

 その「環境」というのが、多くは「何気なしにフト気が付いて行うこと」なんです。今回の出版予定の本でもそうです。不思議と自然と「要求」する本などが集まるのです。どこからか導かれているように集まるのです。先日、ある雑誌を複写して送付すると、その方から何でその資料が貴方に集まるのか?と詰問されたが、私も不思議で仕方がないのです。しかもその人は大概の「谷口雅春先生」の御本や御寄稿されたものは所有されている。

 そんな不思議なことが起るのも何かに「導かれている」ような気がしてならない。今回も私が作成しているんだという傲慢な気持など皆無である。それを捕捉して下さる人が要ればこそ出来るものである。

 私は健康體である。ここ数年は軽い風邪もない。勿論、その健康の爲に運動もしていることも事実だが、以前は運動していても風邪は引いていた。

 

 それは私が経験した不思議な体験から導かれているような気がしてならない。十九歳の頃,何も鍛えないで計画もしないで、大台ケ原までヒッチハイクで行ったことがある。それから、大まかな計画で尾鷲駅まで行くことにしていた。勿論、こんなに計画不備だから大変であった。現在のようにインタ-ネットもない。詳しい地図もない。無茶苦茶なことであった。だから二度ほど崖から落下してすり傷を身体中にした。その時に擦り傷だけで済んだのは不幸中の幸いであった。ほぼ、死んでいても同然であった。しかも二度も経験した。一度目は何故か浮浪者のような人に追いかけられて、細いトレイルの道を踏み外して一直線で崖の途中まで落っこちたのである。それから、必死になって小さな枝にしがみつくが、1500M級の山地では枝や木々などは乾燥して脆くてすぐに折れてしまう。しかし何かにしがみつかなければ、そのまま落下である。必死だから無我夢中であるからどうして上れたのか不思議である。

 また、季節が秋深まる時で十月二十日~二十二日と計画して行った。テント持参である。

 

 途中、崖が三カ所か崩壊して梯子が前後にその崩壊している道を補助していたが、夜道で懐中電灯でもわからない深さであるから、平気で渡った。しかもテントを作れる場所の爲に往復しているのである。

 

 朝、起きて再度その崩壊した崖から梯子の隙間から覗き込んで下を見ると脚が竦んで怖かったことを憶えている。

 テント内ではテンやリスなどの子動物がテントの上を歩いたり、周りを鹿やイノシシなどが歩いていて結局は眠れなかった。

 

二度目は道が崩壊して、未明の薄暗く、眺望を確かめるために少し崖をよじ登ったが、滑って思い切り5M程下の岩盤に叩き付けられた。意識を失った。その失った時間も憶えていないが、既に身体中が傷だらけである。助かったのは落下は背中から落ちたからである。背中のリュックの中にはテントなどがクッションとなったのである。
 併し幸いにも骨折などはしていない、棘で顔も傷が多く有る。しかし、そこで立ち止まるわけにはいかない。

そこから何とか林道に出て、助かったとおもったが、次の難解な出来事が私を襲った。それは野犬である。二十匹もいる野犬が前方の方で遠吠えしている。しかし、私は前進しか出来ない。脚もようやく動かせる程度で機敏な動きも出来ない。前後を挟まれた時は覚悟したほどである。牙を向いた野犬である。二時間半程野犬に牙をむかれた状態であった、それが10km程、三重県の県道まで続いた。暫くするとライトバンの車に乗せてもらったが、その時に年に数人か滑落事故で亡くなっている情報を聞いて、それから怖さが倍増した。

しかし、助かったという気持ちが大きかった。

その時に不思議な經驗もある。一度目の崖での落下した瞬間でした。「貴方は此処では死なない」という声でした。それなら何処なら死ねるとまではありませんが、何か崖から落ちた時にそんな聲を聴いた。角度が60度もある斜面で何かに手を支えつつ辛うじて落下を防いでいる。何故摑めたのか、それが反対に不思議であった。そんな経験を数年前にもしている。

 

それを何十年経っても忘れられない記憶として残っている。

『実相』という掛け軸はありません。

『谷口雅春先生に帰りましょう・第二』において遠島流也氏が『生長の家參拾年史』において記載されている「宗團法による宗敎届解」を書いている。

ここで、何點かになったので申し添えておきたい。

 偉そうなことは私も云えないのですが、著作で『生命の実相』という本はありません。あくまで『生命の實相』と記入して戴きたい。また『実相』の掛け軸ではなく『實相』の掛け軸です。これが基本なんです。生長の家を長く信仰している人でも、『実相』という表記をされる方がありますが、何とも言えない気持ちになります。ただあとの記入はそのままでも構いません。名前とかで「濱嶋」と書いている人に「浜島」と書いて手紙を書くようなものです。

 

 まあ、細かい處を記載すると折角下記の記載されるのであれば、最後まで舊字體で書いて欲しい。私は今それで苦勞していますので、大變なのは理解出來るが、筋を通して書かれるようにお願いしたい。

 

例えば

最初に,「本尊たる生長の家大神の解説は「宗團法による宗教届解説(『生長の』誌第十一輯第十一號所載)」

と記載されているが正式には

「本尊たる生長の家大の解は「宗團法による宗届解(『生長の』誌第十一輯第十一號所載)」

アンダ-ラインを引いた所が手直しした部分である。

本當はそれ以外にもありますが、私のパソコンでは限界がある。例えば尊」とかあるが出來ない。だからそこまでは言いません。

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