則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2020年03月

讀んで戴ければ幸甚です。

何故、反安倍を称えるのか?

私は生長の家教団でも「反安倍」である。しかし、考えて見れば「憲法改正」は安倍首相が首相の間でしか今後将来出来ない、出来る保証がないというのは専門家でも一致した意見である。

 しかし、憲法改正でも駄目であれば「憲法復元改正」など夢のまた夢である。何の確証もなしに反対している輩が多いのに、どうしょうもない。確かに一部では意見が合わないのは政治では当たり前である。そんな事言えば、会社など務められない。会社では自分の意見に賛成する人など皆無であろう。それをあれが賛成できないから駄目だと、野党の駄々である。

 安倍首相が「憲法改正」を発言しているのを応援しようよ。

 反対するのは良いが、具体的にそれなら出来る方法を提示して欲しい。提示も出来ないのに反対は我儘でしかない。それをプランに机上に乗せて議論してみようではないか。本当に出来るのかどうかである。維新で賛成する人がいるからとて、憲法改正など出来ない。

 世の中に「自分の我儘」で政治機構がどうなっているのか、世論がどのように作用しているのか、それにより、新聞などのマスコミの攻勢がある。それを寄り戻す力があるのかである。そんなこと、今迄「生長の家」で政治と関わった歴史がある、裏切りやなど当り前の世界である。そんなことを目の当たりにして、純粋な青年はそれでも「反安倍」といえるかであろうか。

明治天皇聖蹟碑 川口運上所址

富島 明治天皇-1

明治天皇聖蹟碑 川口運上所址/大阪府外務局址

『明治天皇聖躅 川口運上所址 富島外務局址』と刻まれた石碑と, 説明板がある。
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江戸末期に 日本は長い鎖国を解き, 神奈川・函館・長崎・兵庫・新潟 の5港を開港し, それぞれに 運上所を置き, 続いて 江戸と大阪にも運上所が置かれた。運上所とは港への物の出入りを管理する機関で, 外交事務や関税を取り仕切っていたが,1872(明治5)年には 全国の運上所の呼称を“税関”と改められた。

 

それぞれの運上所開設時期は 次の通り。

兵庫(神戸)1858(安政5

箱館(函館)1859(安政6

神奈川(横浜)1859(安政6

長崎(長崎)1863(安政3

築地(東京)1867(慶応3

川口(大阪)1867(慶応3

新潟(新潟)1869(明治2

 

慶応3(1867)828, 大阪税関の前身である川口運 上所が, ここ川口の地に設置されました。

  当時の運上所は, 現在の税関事務と外交事務を行っていました。 慶応4(1867)51, 「五代友厚」(初代大阪税関長, 後の 初代大阪商工会議所会頭)が「外国官判事」に就任し, 運上所の事務を行 うようになりました。

  明治5(1872)1128(税関記念日), 全国の「運上所」 の名称は「税関」に統一され, 川口運上所は大阪税関となりました。

  大正9(1920)511, 大阪税関は港区の築港に移転し, この地に大阪税関富島出張所が設置され, 現在に至っています。

 

大阪税関発祥の地址

 

慶応3(1867)828, 大阪税関の前身である川口運 上所が, ここ川口の地に設置されました。

当時の運上所は, 現在の税関事務と外交事務を行っていました。 慶応4(1867)51, 「五代友厚」(初代大阪税関長, 後の 初代大阪商工会議所会頭)が「外国官判事」に就任し, 運上所の事務を行 うようになりました。

明治5(1872)1128(税関記念日), 全国の「運上所」 の名称は「税関」に統一され, 川口運上所は大阪税関となりました。

大正9(1920)511, 大阪税関は港区の築港に移転し, この地に大阪税関富島出張所が設置され, 現在に至っています。

 

大阪税関発祥の地跡

 

慶応3(1867), ここ川口の地に大阪税関の前身 である「運上所」が設置され, 翌慶応451, 外国官 判事「五代友厚」(初代大阪税関長, 後の初代大阪商工会議 所会頭)・同「陸奥宗光」の両人が事務をとり開所しました。

明治5(1872)1128, 運上所の名称が 全国的に「税関」に統一され, 大阪税関となりました。 (現在, この日を税関記念日としています。)

大正9(1920), 大阪税関は港区築に移転した ため, この地に富島出張所が設置され現在に至っています。

 なお, 「運上所跡」を示す石碑が, 当庁舎の後背地に 建てられていますので, 見学ご希望の方は, 当所 職員(管理担当)までお申し出ください。

 

大阪税関 富島出張所

 

この地域は江戸時代は小さな島であった。そのため富島とよばれている。此処には現在では大阪中央市場があるがそこまでの安治川を渡船により渡るしかなかった。その名称が“富島の渡し”という。明治天皇聖蹟碑から120m西側にある。
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大阪中央卸売市場付近の安治川にあった渡しです。安治川が河村瑞賢によって開削された当初はこの渡しは無く、この地の少し上流側に安治川橋が架けられていました。明治初期になると安治川周辺は外国人居留地として整備され、それに合わせて二代目の安治川橋が設けられました。この橋は当時少なかった鉄製で、大型船の通行時には橋桁が旋回するという立派なもので市民に親しまれたといいます。しかし、明治18年の大洪水で他の大川に架かっていた橋が数多く流され、その流木が安治川橋の橋桁に堰き止められることで、洪水の被害が拡大する危険性が高まったために爆破されてしまいました。それ以来、この地に渡しが設けられることになり昭和57年まで運航されていました。

 

ちょうど、富島の渡しの南側に河村瑞賢の碑がある。
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雑感余話-⑥

今回の『谷口雅春先生著作年譜一覧表』は生長の家及び谷口雅春先生の紹介本が記載していますが、批判本も同時に紹介して記載しています。どうして批判文をという疑問があると思いますが、それに堂々と反論出来るからです。この人は勉強不足だなとか、反対によく知っているなとかがわかるようになります。その姿勢を勉強させていただいたのは「大本敎」であります。堂々と批判文も図書館で信徒に讀ませるようにしているからです。この人は勉強不足だからとかそんな勝手な思い込みなどがないのです。ただ、記載しているだけで、本文をもし掲載するならば、当時の説明文を記載しながら私なら掲載します。

今回『続々 甘露の法雨』の昭和1811月號と現在発行の比較も致しました。ただ、これを掲載するには当時の歴史的な状況を説明しなければいけません。歴史的な把握が必要なので、現在は保留しています。

また、昭和28年に巻き起こった佛教会における「生長の家」の対立なども当時の『大世界』など読みました。『親鸞の心』に対する批判が凄ざましい。

戦前では『邪教』との批判も轟々としたものでした。その本を読みました。それに対して『理論』を以て正々堂々とした谷口雅春先生でした。さすがに『國譯大蔵経』を読む。(国民文庫刊行会 全31巻)を読破された程ですから、其の辺の佛教の僧と互角に議論出来る。いやそれ以上ではないか。そのように思わしていただきました。

雑感余話-⑤

私はこれまで「谷口雅春先生」の歴史を垣間見る時に「もう新しく発見するものはない」と諦めていたのが正直な感想である。既に『生長の家参拾年史』『生長の家四拾年史』そして『生長の家五拾年史』とその歴史の體系はほぼ整理されている。これ以上のものを発掘するのは不可能だと考えていた。あの五拾年史編纂を従事された阪田先生でさへ、「これ以上新たな発見は難しい」とも聞いていた。だが、『彗星』の発見から、『市岡高校の学内行事』や『變態心理』における谷口雅春先生が『生命の實相』に引用された御文章が見つかった。

 『變態心理』については或る方から引用文章が『生命の實相』に掲載されていますよ。という御指摘を戴いて初めて知ったのです。勿論その時点では『神靈界』に掲載されていることは知っていた。それは

 『神靈界』大正八年九月一日「大本靈學座話」=皇道大本雑話()=で発行した内容で「死靈の誘惑」と題して『變態心理』の八月號の『自殺者の心理』の内容について引用されています、更に『生命の實相』(愛蔵版1272頁に「須磨の飛脚」にて実話として『變態心理』の中から紹介されておられます

 またそれ以外にも沢山ある。まさかこんなに見つかるとも思っていないし、新たな発見は今後様々な分野で役に立つと思っている。しかし考えて見れば、もしそれを指摘していただける人が居なければ、わからないままになっていたということである。

 

 神樣の配合というのは、本当にありがたく、奇蹟とも呼ぶべき事象が私には次々と顕れる。だから、私が偉いとかではない、そうした指摘を戴ける人が偉いだけで、私はこうすればいいではないかという「アイデア」だけである。

 

 『學生生活』という雑誌もそうである、その或る方の意見で私は調べて見ようと考えた。

 しかし、そのなかに偶然にも小田村寅二郎氏の『いのち』の雑誌の記載を発見したのである。しかも、その雑誌が私の家から直ぐ近くの『関西大学図書館』に蔵書としてある奇蹟である。『變態心理』でもその『関西大学図書館』にあった。

 

 その『いのち』誌と『學生生活』との関連は昭和141月號において、「東大法學部學生處分問題に抗議す」編集部や「學生生活」中河與一とかの論文で見て頂いても御理解していただける。さて本題である『いのち』誌の廃刊であるが、それが『學生生活』三月號に「雜誌『いのち』の廢刊について」に記載がある。

 【日本主義綜合雜誌『いのち』は二月號限り廢刊さられることゝとなつた由である。その二月號は小島威彦氏の論文は「汪兆銘聲明を駁す」の一文が内務省圖書課の方針によつて削除の運命に立ち至つた。而も右小島氏の論文は内容的に何ら變改することなく、末梢的字句の修正のみで本誌前號に掲載さられたことは當局の良心的検討によること言ふ迄もないが、我等の陣営の一歩前進ではなくとも後退せざりし記念であつた。その『いのち』が右の削除をうけつゝその號限り廢刊するに至つた事は一抹の寂寥を感ぜざるをえない。のみならず小田村兄が河合教授の講義内容を發表したことのため光榮ある無期停學處分に附せられたのもこの『いのち』への執筆であつたし『いのち』は本年正月號に特に多大の紙面をさいて小田村兄のために正しき辯論をやつてくれたのである。かく重ね重ねの故ある『いのち』の廢刊は遺憾至極といふ外はない。(後略)】

『いのち』という雜誌の小島威彦氏の論文「汪兆銘聲明を駁す」の一文が内務省圖書課の方針によつて削除という憂き目が大きく、光明思想にも大きく変更せざるを得ない岐路にたたされるのです。

 

 『市岡高校』の歴史についてもそうである。大阪中央図書館に寄った時、全く別の調べものをしていた。それは『婦人界』等の雑誌のコピ-を職員に依頼して、その空き時間に書棚を見廻った。その時に大阪市立高校の棚があり、その分類として北区や西成区といった分類である。そこに引寄せられるように、その書棚にある書物を見出した。『市岡中学校・高等学校百年』という小冊子である。これも偶然である。その年表をみて、やはり驚かされる。

 しかも、時間が空いて、それから見つかるまで5分もかからなかった。偶然である。

 

 私は『谷口雅春先生著作年譜一覧表』は是非読んで頂きたい、私が勝手に判断するような言動は差し控えた。あくまで、歴史に基づいた著作集であることです。岡正章さんが書かれている。

【その間、平成16年(2004)に 『歴史から何を学ぶか――平成15年度生長の家教修会の記録』 というのが刊行されている。これは谷口雅宣・当時生長の家副総裁が監修して編纂され、それまでの生長の家の運動を振り返り、『三拾年史』・『四拾年史』・『五十年史』を否定するような内容のものであった。今回の歴史編纂というのも、これを引き継ぐものになる可能性が高い――ということは、谷口雅春先生が神の啓示を受けて始められた真性の生長の家はくらまされ、人類の霊的進化を滞らせてしまう内容のものになる可能性が高い――と思われるのである。】

あの『歴史から何を学ぶか――平成15年度生長の家教修会の記録』は谷口雅春先生の否定であり、生長の家の歴史そのものの否定でもある。なんら参考にはならない。編纂史とは言えない類のものである。

今後においても期待出来るものではない。

【しっかりと歴史を踏まえた運動をすべく広報・クロスメディア部で編纂中だと語った。】

とも書いているが、どんなものが出来るのか初めからわかる。過去を否定しなければ「谷口雅宣」という存在がなくなるからである。

 

それならば、私が出版するものと比較すれば、一目瞭然であろう。

生長の家は「天才」ともいうべき「谷口雅春先生」という存在は学校では首席であり「摂津紡績」に於いても機械技術においても長けていた。大本に行けば、入信間もなく、編集責任者と講師である。大本の靈學において體系をおこなったのも「谷口雅春先生」である。

その「天才」という人は宗敎においても革命を行った。私は今の信徒の人に是非それだけは知らせたい。こんなに凄い人であることを…。

「いのちの歌」

竹内まりやのこの歌を何回か聞いた。NHK竹内まりや MusicLife 特別編でも一昨日か放映していた。紅白歌合戦での歌唱は大反響を巻き起こした。

「いのちの歌」

https://youtu.be/OYgC1-5Efr0

また、「人生の扉」僕もそういうことを感じる年代なん 

谷口雅春先生の読売新聞への投稿

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谷口雅春先生の新聞への「読者欄」への投稿というのも長い歴史を調べていても下記の一件のみである。もし他に知っているひとがおられたら教えて下さい。

誰かが同新聞に「谷口雅春」という名を語って投稿されたようです。その反証というべき投稿が下記です。

 谷口雅春先生は宗教化であり、現実主義であります。世界情勢なども勉強されて、世界の趨勢を把握されており、極めて情勢把握をされておられます。今からその年代を考えてみると、安保条約を継続してよかったと多くの国民が考えますが、当時は中立平和国家というのが無想のように国民に流されていた。そんな人はより現実を直視出来る能力を持ち合さなければならない。その為にも、世界情勢や国内に迫る侵略を企む中国情勢に関心を寄せなければならない。

 

『読売新聞』への投稿 昭和35629日 朝刊3頁 “気流”

中立主義は戦争を誘発

▽二十七日の本欄に私の名で、中立主義的立場の投稿がのせられているが、これはだれかが私の名をもって投書したもので私の投稿ではない。宗教は不殺生であり戰爭反対であるが、私は戦争を起らないように日米安保の必要を強調する。

▽①日本の自衛隊は有刺鉄線ほどの力しかないから、近隣の強国が有刺鉄線を破って侵入しようと思ったら、いつでも侵入できる。そのような野心を誘惑しないように、有刺鉄線にアメリカという高圧電流が通じていることを、明らかにしたのがあの新安保である。

②新安保は米ソの衝突のさい日本も巻き込まれるというが、米ソが真に水爆戦で衝突したら、第三国も中立国もともに全滅であって、日本が中立主義をとっていても決して安全ではない。

③現在の世界平和は信頼で成り立っているのではなく力のバランスで平和が維持されている。日本がアメリカの防衛線から脱落したら、ソ連の方が優位になり平和のバランスがくずれてかえって危険である。

④日米安保を結んだら日本を攻撃するぞというソ連のおどかしに驚いて「日米新安保」は戦争につながる」という標語が小学生にまで行き届いているが、日米安保条約があればソ連は日本を攻撃した場合、全面的原水爆戦になり、米ソとも全滅することをフ首相も知っているから、ソ連は新条約によって日本を攻撃することはない。

⑤隣国では中国が弱国チベットやインド国境で現に交戦または武力紛争を起しているから、日本が弱国になればかえって戦争を誘発する。(東京都渋谷区・生長の家総裁・谷口雅春67

信保町という町名

谷口雅春は尋常小学校時代二年生の時に現在の天満という所に住まわれていた。ここは天満宮からも近く、江戸時代にはこの地域には「天満組惣会所」というのがあった。これは江戸でいう町年寄に相当します。
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 大坂にも町年寄はいますが、惣年寄の配下となる。

 17世紀中ごろまでに成立した大坂三郷の町の行政を担当したのが、町人の中から選ばれた三郷惣年寄とその下に属する町役人であった。大坂三郷の統治は、大坂城代-大坂町奉行-惣年寄-町年寄-町民(町人・借家人)という体制で行われた。

 それらの惣会とは

惣代は元来、町々の町代であり、町代が順々に町奉行に赴いて、郷内の用事をしていたため、町奉行所では惣代といっていた。しかし、町々の用事が多いため、町奉行所にでるのは迷惑であるといって、人を雇って出頭させた。ところが、雇人が事務に熟達してきて、雇人だけで用がすむようになり、これを町奉行所で惣代とよんだ。

この付近は天満と呼ばれていたが、なかには商人では薬を売る稼業もあり、この信保町の隣には典薬町という名前があるが、これも薬を生業とするものである。

 何故、「藥」と疑問の人もおられると思いますが、大阪の道修町(どしょうまち)は本社がある薬関係の企業が大変多い、

カイゲン

小林製薬

塩野義製薬

大日本住友製薬(旧大日本製薬+旧住友製薬)

武田薬品工業

田辺三菱製薬(旧田辺製薬+旧三菱ウェルファーマ)

扶桑薬品工業

丸善薬品産業

和光純薬工業
道修町にオフィスのある製薬会社(前項に挙げられた企業は除く)。
伊藤由製薬
乾卯栄養化学
イワキ
エビス薬品
小野薬品工業
関西薬品
興和
小城製薬
金剛薬品
シオエ製薬
鈴粉末薬品
関商
第一三共(旧第一製薬+旧三共)
ダイト
大鵬薬品工業(大塚製薬系列)
高砂薬業
田村薬品工業
DSファーマバイオメディカル
天藤製薬(武田薬品工業と販売提携)
東洋製薬化成
常盤植物化学研究所
日新化成
ニプロファーマ
日本新薬
日本製薬
日本バルク薬品
日本粉末薬品
日野薬品
富士化学工業
富士カプセル
堀江生薬
丸三薬品
丸善製薬
三国
八ツ目製薬
山善製薬
横内製薬
米山薬品工業
ワイス

道修町(どしょうまち)とは

 

道修町といえば薬屋、薬屋の町といえば道修町といわれます。

それほど有名ですが、では、一体いつごろから道修町は薬問屋の町になったのでしょうか。

 

道修町は、秀吉の頃すでにある程度町の形ができていたようです。

 薬種問屋が集住し始めたのは、寛永年間(162444)に堺の小西一族の小西吉右衛門が道修町に薬種屋を開いて以来といわれています。

 

享保7年(1722)八代将軍吉宗が大坂で病に倒れ、道修町から献じた薬で病状が回復したので、薬種商124軒に中買仲間の免許が与えられ、薬の町としての地歩を確立しました。

それ以来ずっと薬問屋の町として発展し続けています。

 

その薬を売る商売で「しんぽ」という薬を売っていた。そこで「しんぽ」の当て字として「信保」という漢字が割り当てられた。

 

 豊臣秀吉時代から天満は「天満青物市場」と知られ、近くの天満宮には「ガラス発祥の地」の石碑がある。また「造幣局」も近くにある。江戸時代からこの付近は賑わっていた町工業としてです。薬も必需品でそういう「しんぽ」という薬を売っていた人が多いため町名を「信保」と名付けた。
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道修町には少彦名神社があります。小さな神社ですが立派な神社です。
少彦名は『古事記』『日本書紀』に記述が有ります。

『古事記』では神産巣日神(かみむすびのかみ)の子とされ、『日本書紀』では高皇産霊神(たかみむすびのかみ)の子とされ、系図史料には天湯河桁命の子とされる。


暗峠

昨日、暗峠(くらがりとうげ)の登り坂で一人の老婆と若い女性が縁石に腰を掛けていた。私はこれから下りですか、それとも登りですかと問いかけた。すると

「これから登りなんです。」

「昔からこの暗峠を登りたかったんだ」

「今迄、登れなかったのだが、今回勇気を出して登ることにしたのだ」

「初めて登るが、しんどい、でも南生駒駅まで頑張る」

お年は60歳を超えているのではないか。

私は立派だと思った。私も久々に昨年の夏に登った時に息も絶え絶えで峠まで4回程長めの休憩をした。脚も動かなく、時間がかかった。下り坂の途中で生駒駅までに目標を変更した。

この道は立派な国道である。国道308号線で急勾配の有名な道でもある。「酷道」とも呼ばれ、ネットなどにて動画で見れます。

私は鍛えているので休憩なしで一気に登れる。また走って登る強者(つわもの)もいるが、さすがにそれは無理である。しかし、此れ位は大丈夫であるが、問題は下り坂である。今回は暗峠から南生駒駅まで駆け足で下ったが、さすがに、それが脚の麻痺を起す。体重を減らすのが今後の課題である。そうでないと、下り坂が体重の五倍の力が加わって膝が厳しい。

  芭蕉は1694年(元禄7年)9月9日前泊をした奈良をたち、暗峠を越え大坂に入った。途中、この暗峠で詠んだ
『菊の香に くらがり登る 節句かな』
の句碑が大阪側の登り坂にある。この道中が芭蕉の最後の旅であった。
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勇気ある行為、何が間違っているのか。

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少し前に産経新聞に掲載されました愛知県一宮市立中学校校長のブログです。

 

 

産経ニュース 2015.2.22 

神話や建国記述「間違ってない」「感動した」 一宮市教委の注意で削除の中学校長ブログに激励

http://www.sankei.com/life/news/150222/lif1502220014-n1.html

 

≪愛知・一宮市立中学校長のブログ全文≫

2月11日は建国記念日です。そこで、今日は日本のルーツ、日本の起源について、お話をしたいと思います。日本の建国は、今から2675年前の紀元前660年2月11日、初代、神武天皇が即位した日が始まりです。世界一広いお墓、大仙古墳で有名な、16代仁徳天皇が、ある日高台に登って遠くをご覧になられました。すると人々の家からは、食事の準備のために煮炊きする煙が少しも上がっていないことに気付いたのです。

 

仁徳天皇は「民のかまどより煙がたちのぼらないのは、貧しくて炊くものがないのではないか。都がこうだから、地方はなおひどいことであろう」と仰せられ、三年間、税を免除されました。

 

税を免除したために朝廷の収入はなくなり、宮殿は大いに荒れました。天皇は衣を新調されず、茅葦屋根が破れ、雨漏りがして、星の光が屋根の隙間から見えるという有様でした。

 

三年がたって、仁徳天皇が同じ高台に出られて、遠くをご覧になると今度は、人々の家々から煮炊きする煙が盛んに立つのをご覧になり、その時、仁徳天皇がこのように言われたということです。

 

「高き屋に のぼりて見れば煙立つ 民のかまどは賑わいにけり」

 

そして、一緒におられた皇后に「私は豊かになった。喜ばしいことだ」とおっしゃったということです。

 

皇后はそれを聞いて「陛下は変なことをおっしゃいますね。衣服には穴があき、屋根が破れているのに、どうして豊かになったといえるのですか」

 

すると「国とは民が根本である。その民が豊かでいるのだから、私も豊かということだ」と言われ、天皇は引き続き、さらに三年間、税をとることをお許しにならず、六年が経過して、やっと税を課して、宮殿の修理をお許しになりました。すると人々は命令もされていないのに、進んで宮殿の修理をはじめ、またたくまに立派な宮殿ができあがったといいます。

 

この話は神話であり、作り話であるという説もあります。しかし、こうした神話こそが、その国の国柄を示しているとも言えるのです。

 

こうした天皇と国民の関係性は、何も仁徳天皇に限ったことではありません。敗戦直後の1945年9月27日、124代昭和天皇はマッカーサーと会見をしました。そして、その会見で昭和天皇はこのようにマッカーサーに話したのです。

 

「今回の戦争の責任はすべて自分にあるのであるから、東郷や重光らを罰せず、私を罰してほしい。ただし、このままでは罪のない国民に多数の餓死者が出る恐れがあるから、是非食糧援助をお願いしたい。ここに皇室財産の有価証券類をまとめて持参したので、その費用の一部に充ててほしい」と述べたのでした。

 

それまで、天皇陛下が、多くの国王のように、命乞いに来たのだろうと考えていたマッカーサー元帥は、この言葉を聞いて、やおら立ち上がり、陛下の前に進み、抱きつかんばかりにして陛下の手を握り、「私は初めて神のごとき帝王を見た」と述べて、陛下のお帰りの際は、マッカーサー自らが出口まで見送りの礼を取ったのです。

 

このように、初代、神武天皇以来2675年に渡り、我が国は日本型の民主主義が穏やかに定着した世界で類を見ない国家です。

 

日本は先の太平洋戦争で、建国以来初めて負けました。しかし、だからといってアメリカから初めて民主主義を与えられたわけではありません。また、革命で日本人同士が殺しあって民主主義をつくったわけでもありません。

 

古代の昔から、日本という国は、天皇陛下と民が心を一つにして暮らしてきた穏やかな民主主義精神に富んだ国家であったのです。

 

私たちは日本や日本人のことを決して卑下する必要はありません。皆さんは、世界一長い歴史とすばらしい伝統を持つこの国に誇りを持ち、世界や世界の人々に貢献できるよう、一生懸命勉強に励んで欲しいと思います。

(以上、転載)

 

愛知県一宮市の市立中学の男性校長(56)が、学校のホームページ上のブログに、神話に基づく日本建国の由来などに触れながら、自国に誇りを持つよう訴える記事を掲載したところ、市教育委員会から「神話を史実のように断定的に書いている」との注意を受け、記事を削除していたことが21日、分かった。学校側には教職員組合から抗議文も出されたが、「校長は間違っていない」「感動した」などと記事内容を評価する声も多数寄せられているという。ブログ記事は削除しなければならない内容だったのか。(河合龍一)

 

 市教委や校長によると、校長は建国記念の日を前にした9日、朝礼で「日本の起源」について話し、同日午後に、その基になった原稿をブログに掲載した。

 

 記事では冒頭、日本の建国について「初代神武天皇が即位した日が始まり」と記し、16代仁徳天皇が家々から炊事の煙が上がらないのを見て民の窮乏を知り、税を免除して自らもつつましく暮らしたという「民のかまど」の話を紹介。「この話は神話」と断った上で「こうした神話こそが、その国の国柄を示しているとも言える」と書いた。

 

その上で「皆さんは世界一長い歴史とすばらしい伝統を持つこの国に誇りを持ち、世界や世界の人々に貢献できるよう、一生懸命勉強に励んでほしいと思います」と締めくくっていた。

 

 記事を批判する電話が12日に1件寄せられたことを受け、市教委が校長を注意。校長は「生徒や職員に迷惑をかけたくない」として自ら記事を削除した。

 

 中学社会科の学習指導要領では「神話・伝承などの学習を通して、当時の人々の信仰やものの見方などに気付かせるよう留意すること」と明記されている。

 

 校長は「神話を通じ、子供たちに『自分より人のため』という古代からの日本人の精神性を伝え、自国に誇りを持ってもらいたかった」と話した。市教委学校教育課は「部分的に読むと史実と受け止められかねず誤解を招く」としている。

 

 市教委にはこれまで「偏向教育だ」という匿名の手紙が1通寄せられたほか、一部報道を受け、賛否の電話が十数件あった。学校側にも海外在住の日本人を含め、電話やファクスが多数寄せられ、大半が記事を評価したり、「削除する必要はない」などと校長を激励したりするものだという。

元公立小学校長で狭山ケ丘高校(埼玉県)校長の小川義男氏は「神話と断っている上、学習指導要領にも即しており、何の問題もない」と指摘している。

「錦糸町深川『生命の實相』勉強会」に期待する。

 信天翁さんの下記の書き込みが『谷口雅春先生を考えましょう』に掲載されていた。

「生長の家創始者谷口雅春先生を学ぶ会」の理念に「尊師谷口雅春先生の御教えを忠実に学び継承し、広く普及伝達する。」とあります。

 

この理念に沿い、特に「立教の原点に立って」を重く受け止めて、真理を学んでいます。

 

雅春先生が始められた生長の家教団の教えがなぜかくも変質してしまったのか、本当の教えとは何なのか、こんなことで生長の家の教えがこの世からなくなってしまっていいのか、という絶望感の中で教団を離れた人間が、雅春先生の教え自体にも問題があったのではないかとまで思い悩み、その解決の糸口を模索しもがきながら、その答えを再度雅春先生の「聖典」(立教時のものも含む)に求め広く読みこむうちに、今起こっている出来事は「生長の家」の教えが千年、万年と続く教えとするための、いわば雅春先生の言われるお釈迦様に対する提婆達多(※)なのだということを直観、そしてそれを乗越える道しるべは、生長の家がこれまで幾多の危機にめぐり合う中で、神智に導かれ乗越えて来た雅春先生の生きざまにあるのだと気づきました。

 

(※)釈迦に何故提婆があるのか(『新生の書』p219

何故、釈迦牟尼仏には敵討する提婆があり、キリストには主を売る反逆の弟子ユダがあり…三界は唯心の所現、環境は心の影と云ふ原則から云ふならば、…釈迦の心の反影としての意地悪の提婆があると言い得るだらう。…光の前に行はれる乱行は業の自浄作用である。滅せんとする際の最後の自壊過程である。…一層浄めて、その魂を向上せしめるのである。神の計画は深慮遠謀。凡慮の及ぶところならずと知るべきである。

 

この観点から、この勉強会では、様々な危機に面した雅春先生が、如何に神に祈り、導かれて解決していかれたかを大きな柱として学んでいます。

 

毎号の「学ぶ」誌に加えて、雅春先生の赤裸々な心境が吐露された御文章を、『生命の實相』『真理』の聖典は勿論、谷口雅春著作集、谷口雅春法話集、谷口雅春選集はいうに及ばず、真理の吟唱、神示講義、明窓浄机、さらには五十年史、四十年史、三十年史、時には戦前の聖典、過去の「生長の家」誌、その他雅春先生が書き表わされた書物雑誌から渉猟し、さらには、輝子先生、恵美子先生、清超先生、服部仁郎先生、山口悌治先生、吉田國太郎先生、徳久克己先生、藤原敏之先生、楠本加美野先生等の諸先生の著作にもあたり、問題に直面した先生のご心情を読み取り、どのようにして解決の糸口をみつけられ、その中でどのような真理を体得されたのかを追体験し、その真理を我が情感として、生活に、光明化運動に、生かせるようになるまで深く学ぶことを目標としています。

 

 

この三月からは生長の家の原点である「甘露の法雨」がなぜ「聖経」となったのかを、『生命の實相経典篇』『甘露の法雨講義』『新講「甘露の法雨」解釈』はいうに及ばず、年史や「甘露の法雨」発表当時の「生長の家」誌まで当りながら学んでいます。そして、「聖経」となる経緯を知れば、そこに働きかけておられる神界の生長の家の大神、観世音菩薩が実感され、あらためて「聖経甘露の法雨」がありがたく日々読誦出来るようになることを目指しています。

 

これは本当にとても大切なことで応援したい。ただ一つ追加するならば、自分達だけが知るのではなく、ブログや印刷などで広範囲で広めていくことが大切なのです。いままで、生長の家では広範囲に知らせることが苦手な部分があり、自分たちのグル-プだけで済ませて満足している。それでは「生長の家」を本当に知りたい人を知らしめることが出来ないのです。

 

現在、私は出来る限り広範囲に知らせる爲にこのブログを活用するだけではなく、集めた資料を何人かに配布して、自分だけ知ることを避けるようにしております。また、勉強した内容をブログなどで知らしていくことが必要です。しかも、自分達やその周辺だけを知ってもらっても仕方がないのです。私は今回、一ヶ月で集まった色々な資料を複写して、何人かに渡しております。それだけでも300枚以上になります。この作業はこれから先も続けていきます。

 

また、本の出版もその一貫となります。ただ、本に掲載出来ない内容もその90%もあります。それも大切な資料なのです。

欲望の相対

この本はまだ読んでいないが、読んでみたいと思っている。それが『ある一生』である。
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産経新聞(327日 モンテ-ニュとの対話 「随想録」を読みながら)を見て読んでの感想であるが、人間というのは慾望の塊である。その「巨魁」という慾望に満足しても、満足というのがないほど欲求する動物である。権力を把持すれば、自分の慾を発揮して満足するが、そう云う場合に時として、他人に迷惑をかけることがある。前に「サル化した人間」として書いたが、理性のなき人間は動物と同じである。

その理性とは「智慧」であり、「生命」であると思う。しかし、時として人生は「荒波」の如く、人を貶めることがある。しかし、多くの人はその「荒波」に責任を転嫁して自己正当化する。

 

そこで慾望は羨望となり、いつまでも追い求めてしまうのである。しかし、その人には「その人にしか出来ない」大切なものがきっとある。それを見出したときその人は幸せだろう。

 

 

名もなき男の人生に感銘(産経新聞から抜粋)

 新型コロナ禍の日々が続く。前回も書いたことだが、自分が感染源となって他者を死に至らしめることだけは、なんとしても避けたい。特に感染しても症状が出ないか、軽くてすむと言われている若者に言いたい。たとえ大人が嫌いであっても、欲望に突き動かされた行動で感染し、結果として「世代間戦争」を引き起こすのは勘弁してほしい。お願いだから。

かくいう私は、休日は人混みを避け、庭仕事と読書と音楽鑑賞にいそしんでいる。先日は庭仕事のあとで以前から気になっていたある小説を手に取った。BGMはCD11枚組みで1500円という価格にひかれて数年前に購入したアントン・ブルックナーの交響曲全集。ロベルト・パーテルノストロという指揮者が、ドイツのロイトリングン・ヴュルテンベルク・フィルというオーケストラを振ったものだ。第4番から順番にかける。オーケストラは不器用だが、ブルックナーの素朴さをたっぷりと味わわせてくれるのでけっこう気に入っている。

 

 手に取った本は、オーストリアの作家、ローベルト・ゼータ-ラ-(1966年~)の『ある一生』(新潮社)だ。きっかけは昨年9月1日付の東京新聞に掲載された書評だった。評者はドイツ文学者にして名随筆家の池内紀さん。池内さんは掲載の2日前に亡くなっている。まるで置き土産である。「孤独な男の生涯 淡々と紡ぐ」という見出しの付いた書評は、こう締めくくられる。《あらゆる欲望装置のそろった現代にあって、すべて他人との比較でなりたつ社会にあって、このような孤独者の物語が成立するとは!》

 すぐにモンテーニュの言葉を思い起こした。

 

  《我々の欲望は、その手元にあるものには眼もくれず、それを飛び越えて自分が持たないものを追いかける》(第2巻第15章「我々の欲望は困難にあうと増加すること」)

 

 欲望は文明創造や世界を豊かにする経済活動のエンジンである。これなくしては何も生まれない。ただしもろ刃の剣だ。お釈迦様や孔子の時代、いやそれよりずっと昔から、欲望との付き合い方は、人類にとっての難問だった。はっきりと言えるのは、欲望だけに生きる者は、必ず欲望に裏切られ、下手をすると破滅する、ということだ。

 

 さて、『ある一生』はこんな物語だ。

 私生児として生まれたエッガーは母を亡くしたため1902年の夏、アルプス山麓の町で農場を経営する家に引き取られる。4歳だった。冷酷な養い親に酷使され、粗相をすると鞭でしたたかに打たれる日々。あるとき鞭は足の骨を砕き、エッガーは足を引きずる体になる。障害がありながらもたくましい男に育ったエッガーは、養い親の家を出て、森林限界のすぐ下にある小屋付きの土地を借りて自立した生活を始める。食堂で働く女に恋をし、自分の気持ちを山肌の火文字に託して求婚する。町はスキ-場開発で沸き立つ。ロープウエー建設会社に雇われたエッガーは黙々と仕事をする。だが、幸福な日々は長くは続かない。雪崩が小屋と妻をのみ込んでしまう。やがてヒトラーの戦争が始まる。エッガーはソ連に送られて捕虜となり、8年もの虜囚生活を送る。帰郷したエッガーはあらゆる半端仕事を請け負って暮らし。やがて山岳ガイドとして生計を立てる。79歳になったエッガーは、おおむね満足のいく人生だったと感じながら、自宅の小用で息を引き取る。

 

 名もなき男の淡々とした素朴な物語を読み終えたとき、言いようのない充足感に包まれ、気がつけば心は凪いでいた。このとき流れていたのは、第7番の第2楽章だった。

 2014年に刊行された本書は、ドイツ語圈で80万部を超えるベストセラーとなり、昨年6月に刊行された邦訳のこれまでの発行部数は5千部。新潮社宣伝部の吉川昌代さんによれば、海外文学業界内では「すごいね!」と言われる数字だという。

 

誰にも奪えぬそれぞれの瞬間

印象的な場面や言葉はいくつもある。たとえば、エッガーが牧草地に毛布を敷いてあおむけになり星空を眺める場面。著者はこう描く。

 (そんなとき、エッガーは自分の未来のことを考えた。なにひとつ期待していないからこそ、果てしなく遠くまで広がっている未来のことを》

 17歳で徴兵検査に呼び出されたおり、働き手を失うことを恐れた養い親が、強硬に異議を申し立てそれが認められたとき、エッガーは心の中で冷酷な養い親に感謝する。その理由を著者は次のように記す。

 《人生で失うものなどなかったが、それでも、人生からまだ得られるものはあると思っていたからだ》

 そして極めつきは、エッガーが生涯心に留めていた言葉である。

  《人の時間は買える。人の日々を盗むことはできるし、一生を奪うことだってできる。でもな、それぞれの瞬間だけは、ひとつたりとも奪うことはできない。そういうことだ。さあ、とっとと出て行ってくれ!》

 

結婚したエッガーは、妻を守るためにもっと仕事がほしいと、ロープウエー建設会社の部長に掛け合う。彼の仕事ぶりを熟知していた部長は、仕事を増やす代わりに時給を3割増しにすると返答し、そのうえで口にしたのが右の言葉だ。

 どんな人生であろうと、自分が主人公の美しい瞬間や歓喜の瞬間は数え切れぬほどあるはずだ。その瞬間瞬間を存分に味わうことができたなら、エッガーのように人生を振り返ることができるのだろう。それができないのは、欲望に起因する際限のない不満足感と将来への不安にさいなまれ、それを解消するために「いま」という貴重な時間を消費しているからだろう。

 欲望の自粛が求められるコロナ禍を、自身の欲望を見つめなおし洗いなおす機会にできればいいのだが。庭で中腰になって雑草を引いているとき、自分の尻と妻の尻がぶつかって互いにつんのめり、「ごめん」と言いながら笑い合った。こんな瞬間を大切にしながら生きてゆけたらいい。

 ※モンテーニュの引用は関根秀雄訳『モンテーニュ随想録』 (国書刊行会)による。(文化部 桑原聡)隔週掲載

「学ぶ会」をこれ以上貶める事を止めていただきたい。

私は以前から、破邪顕正さんにこの掲示板で忠告をしているが、聞く耳を持たない。それは致し方ないにせよ、少しは利口であるのかどうか試されているのであるが、どうも裏切られる。

 元職さんが“生長の家「本流復活」について考える(続したらば版)”に書いているが、全くその通りである。多くの掲示板を閲覧している人が「和解」に捉われているわけではない。

 破邪顕正さんの「大上段からの物言い」「上から目線の発言」に反発している人が大半である。自己を正統化して「自慢話」や「批判」にはウンザリしかない。それがわからないのかそれとも無知かである。我慢することも大切である。私のような軽率な人間ならば何となく理解してもらえるかもしれないが、副代表である。「学ぶ会」の多くの幹部や会員は真面目な人が多い。それを台無しにするような発言は控えていただきたい。

 

日時:20200323 () 2113

名前:元職

表題の通り、いつまであんな名前で書き込み続けるんだろうか

 

新たな教団が出来たのならば我が道を歩み、多少の批判など気にしなければ良いのに、勝手に解説して和解すべしという意見に

 

「和解派」などとレッテルを張って語る。

 

語ることは自由だが、その解説が間違っていたら新教団の恥になるという事が分らないのであろうか。言葉が軽すぎる。

 

新教団の、副理事長とでも言える人間が匿名で言いたい放題を言うことを、真実の指導者であるA氏は何故注意しないのであろうか。

 

ときみつる会の代表も、新教連の理事長も、匿名掲示板という無責任な場所では発言も、宣伝もされない。

 

あたりまえである。責任のある立場の方は自分の行動や発言を匿名を利用して発言することは恥であると自覚されているからである。

山鳥との遭遇

昨日、宝塚にある中山最高峰の500m程西側にある森林のなかで、雉(後で間違いとわかるのです)を見つけたのだが、雉の雄の特徴とは異なるので、雉であるかどうか確かめる爲に帰ってからインタ-ネットで調べた。

雉は何回も遭遇しているので、雄の羽の綺麗なことは驚く。以前に2m程近くで遭遇したので雉については詳しい。今回遭遇したのは雉とはどうしても異なる。また最初に威嚇の鳴き声は全く異なる。また、雉は森林にもいるが、田んぼに現れて鳴く事が多い。敵となると首を引っ込めて静かに待機していることもある。また、今回は大きさが大きい。雉は60cm位の大きさである。

 今回居合わせた鳥は、鳴き声(羽をこすり合わせる音)が「ドッド」(威嚇)というような大きな音である。勿論、その音で鳥の存在がわかったのです。だから、雉ではないのかな?という程度でした。
 それは山鳥であったことが、ようやく判明した。

 昨日の山鳥は大きかった、色も赤茶色の色で羽が長かった。全長で1mを超えるような大きさで、枯葉を踏む音が大きい。ただ、10m程距離が離れて居り、写真は小さな樹木が邪魔になって撮れない。ただ20秒位で茂みに姿を消した。
  それでは何故、雉と強く思ったかというと、住宅地から近い距離だからそう思ったのと、まさかこんな所にいるとは思わなかった。この地は「猪」がやたらに多いので、鳥といえば雉ぐらいかな?また宝塚市街から4km位である。また中山寺(西国三十三箇所巡礼地)から2.5kmである。あまりにも近いからである。雉ならば住宅のすぐ近くで見かけたことがある。

 

 山には何回も登るが、雉などは見ることがたまにあるが、大阪府北部や猪名川などに行けば、直ぐに見れる。だが今回の山鳥は今迄京都の鷲峰山で一回だけ見たことがあるぐらいで、山鳥などほとんど遭遇するようなことはない。また、鳴き声も聞けたのは本当にラッキ-だと思っている。

 

 登山をすると、一番見かけるのが「鹿」で、次に猿で、次にリスである。イタチなどは滅多に見ることが無い。また、タヌキなども見ることがほとんどない。周囲にいても音がないとわからない。峰床山でノッソノッソと歩いているタヌキが可愛かった。イノシシは山道を夜に歩くと結構多いことがわかる。また福井県の遠敷川でヌ-トリアが舗装された道を歩いていたのには驚いたことがある。また、アライグマも何回か見たことがあるが、タヌキと錯覚することがあるので、尻尾などで判別している。それ以外にテンやムササビや大型の熊もある。ただイタチなどは住宅地に多いので、山林より見かけた回数が多い。
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ランニングについて

ランニングを出来る限り行うようにしているのですが、二月頃は走ると、大変疲れるのです。何故、こんなに疲れるのか不思議だった。その為、走った後の数日間は走らなかった。

それが二日休憩が三日となり、一週間開けても疲れが取れない、走る気分にならない。何故こんなに疲れるのか不思議であった。確かに、ロングランを行ったりしていますが、以前もしていましたが、こんなに疲れなかった。以前まで走れていたコースが途中で脚がいう事を効かない。全く脚が動かなくなるという經驗をした。224日にトレイルとロ-ドを50km走ったが、それ以降は走る気持ちがわかない。一月は疲れることがあったが、長距離80kmを走ったり、25kmを週一で走っていた。

 

今日は40km走ったが、ゆっくりと遅く走った。最後10kmはさすがに疲れたが、家に帰ってもいろいろ仕事したり出来るので、ようやく疲れから脱却出来たのかな?

白鳩会員の進む道

  白鳩会員の進む道

白鳰会員の理想像

 『白鳩』二百号によせて

 吾らは女性が女性なることを信じ、その女性なる本質に敬禮せんとするものである。

吾らは女性が男性に非ざることを信じ、女性の男性化を女性の尊き特質から逸脱堕落せるものとして唾棄せんとするものである。

 吾らは女性の特質が柔と愛と優美と床しさとその毋性的なるものにあることを信じ、その特質に敬し禮し、その特質を長養せんとするものである。

 吾らは女性美が柔き曲線美にあり、その毋性的愛が温く柔く包む愛にあることを信じ、その特性の発揮に協力せんとするものである。

 吾らは一人の女性が或る定まれる一人の男性の半身半霊たることを自覚し、夫婦生活を通して相協力し、互に使命を完了し、此世に神のみ心を實現し人類に貢献せんとするものである。

吾らは女性がその母性的特質を通じて正しき児童教育法を修め、子女を正しき神の子として教養し、その天分を豊かに発揮せしめんことに協力せんとするものである。

 吾らは女性の本質が久遠の伊邪那美なることを信じ、女性(おみな)を言先立ちて相應はずの、夫唱婦和、天覆地載(てんおおいちのす)の真理に則りて生活することが、家を整へ国を成就し、延いては全人類に至福の楽園を招来する道なることを信じ、この道を宣布せんとするものである。

 吾らは女性が、上に夫を頂きて之に仕へ、下に子女その他をはぐくみて善導すべき最も枢要なる位置にありて、上に對する道と下に對する道との模範を示すべき使命を有することを信じ、その使命を辱かしめざらんことを期するのである。

 吾等は女性が白鳩の羽毛の純白なるが如く、純潔そのものが天分なることを信じ、心の純潔と貞操の純潔とを尊敬し、苟もその美徳を汚さざらんことを期するのである。

 

(昭和二十六年四月号二頁)

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