則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2020年02月

讀んで戴ければ幸甚です。

本当の信仰

 自分が救われたいと思って入っている人はまだ信者ではないので、人を救う側に立って、はじめて信者であり神様の側に立つので・・・ただ神誌を読んで、ああいい思想だ、これを応用して、自分が健康になり、自分の仕事が繁昌して、なんて考えている人は、まだ未信者であるといわねばなりません。今は国家にとっても重大な時でありますから、自分だけが助かるのではなく、人に施す側になっていただきたいと切に思うわけであります。

 

 人に施す側になるのでも、自分が神様の御用をしてやっているのだというように、傲慢な考えをもっては、本当にお陰はいただけないのであります。神様から御用をさせていただく、その使命をおゆるし頂く、それを光栄として人を救うことに励むのですね。神様からさせて頂くこの光栄、この有難さですね。この境地になって道をひろめて行くということに本当の法悦という悦びが出て来るのです。こういう態度が信仰には尊いのです。

(昭和42年の新年祝賀式に於ける谷口雅春先生の御挨拶の最後のお言葉)

鉄道唱歌と孝明天皇

鉄道唱歌(東海道線)

東京~国府津

汽笛一声(いっせい)新橋を

はや我汽車は離れたり

愛宕(あたご)の山に入りのこる

月を旅路の友として

 

右は高輪泉岳寺(たかなわ せんがくじ)

四十七士の墓どころ

雪は消えても消えのこる

名は千載(せんざい)の後までも

 

窓より近く品川の

台場も見えて波白く

海のあなたにうすがすむ

山は上総(かずさ)か房州か

 

梅に名をえし大森を

すぐれば早も川崎の

大師河原(だいしがわら)は程ちかし

急げや電気の道すぐに

 

鶴見神奈川あとにして

ゆけば横浜ステーシヨン

湊を見れば百舟(ももふね)の

煙は空をこがすまで

 

横須賀ゆきは乗替と

呼ばれておるる大船の

つぎは鎌倉鶴が岡

源氏の古跡(こせき)や尋ね見ん

 

八幡宮の石段に

立てる一木(ひとき)の大鴨脚樹(おおいちょう)

別当公曉(くぎょう)のかくれしと

歴史にあるは此蔭(このかげ)よ

 

ここに開きし頼朝が

幕府のあとは何かたぞ

松風さむく日は暮れて

こたへぬ石碑は苔あをし

 

北は円覚建長寺

南は大仏星月夜

片瀬腰越(こしごえ)江の島も

ただ半日の道ぞかし

 

汽車より逗子(ずし)をながめつつ

はや横須賀に着きにけり

見よやドックに集まりし

わが軍艦の壯大を

 

支線をあとに立ちかへり

わたる相模の馬入川(ばにゅうがわ)

海水浴に名を得たる

大磯みえて波すずし

 

国府津~沼津(現在の御殿場線)

国府津(こうづ)おるれば電車あり

酒匂(さかわ)小田原とほからず

箱根八里の山道も

あれ見よ雲の間より

 

いでてはくぐるトンネルの

前後は山北(やまきた)小山(おやま)駅

今もわすれぬ鉄橋の

下ゆく水のおもしろさ

 

はるかにみえし富士の嶺(ね)は

はや我そばに来りたり

雪の冠(かんむり)雲の帶

いつもけだかき姿にて

 

ここぞ御殿場夏ならば

われも登山をこころみん

高さは一万数千尺

十三州もただ一目(ひとめ)

 

三島は近年ひらけたる

豆相(ずそう)線路のわかれみち

駅には此地(このち)の名をえたる

官幣大社(かんぺいたいしゃ)の宮居(みやい)あり

 

沼津の海に聞えたる

里は牛伏我入道(うしぶせがにゅうどう)

 春は花さく桃のころ

夏はすずしき海のそば

 

沼津~浜松

鳥の羽音におどろきし

平家の話は昔にて

今は汽車ゆく富士川を

下るは身延(みのぶ)の帰り舟

 

世に名も高き興津鯛(おきつだい)

鐘の音ひびく清見寺(せいけんじ)

清水につづく江尻より

ゆけば程なき久能山(くのうざん)

 

三保の松原田子の浦(たごのうら)

さかさにうつる富士の嶺(ね)を

波にながむる舟人は

夏も冬とや思ふらん

 

駿州(すんしゅう)一の大都会

靜岡いでて阿部川を

わたればここぞ宇津の谷(うつのや)の

山きりぬきし洞(ほら)の道

 

鞘(さや)より拔けておのづから

草なぎはらひし御剣(みつるぎ)の

御威(みいつ)は千代(ちよ)に燃ゆる火の

焼津(やいづ)の原はここなれや

 

春さく花の藤枝も

すぎて島田の大井川

むかしは人を肩にのせ

わたりし話も夢のあと

 

いつしか又も暗(やみ)となる

世界は夜かトンネルか

小夜(さよ)の中山夜泣石(よなきいし)

問へども知らぬよその空

 

掛川袋井中泉(なかいずみ)

いつしかあとに早なりて

さかまき来る天竜の

川瀬の波に雪ぞちる

 

この水上(みなかみ)にありと聞く

諏訪の湖水の冬げしき

雪と氷の懸橋(かけはし)を

わたるは神か里人か

 

琴ひく風の浜松も

菜種に蝶の舞坂(まいさか)も

うしろに走る愉快さを

うたふか磯の波のこえ

 

煙を水に横たへて

わたる浜名の橋の上

たもと凉しく吹く風に

夏ものこらずなりにけり

 

浜松~米原

右は入海(いりうみ)しづかにて

空には富士の雪しろし

左は遠州洋(えんしゅうなだ)ちかく

山なす波ぞ砕けちる

 

豐橋おりて乘る汽車は

これぞ豐川稲荷道

東海道にてすぐれたる

海のながめは蒲郡(がまごおり)

 

見よや徳川家康の

おこりし土地の岡崎を

矢矧(やはぎ)の橋に殘れるは

藤吉郎のものがたり

 

鳴海しぼりの産地なる

鳴海に近き大高(おおたか)を

下りておよそ一里半

ゆけば昔の桶狹間(おけはざま)

 

めぐみ熱田(あつた)の御(み)やしろは

三種の神器の一つなる

その草薙(くさなぎ)の神つるぎ

あおげや同胞四千万

 

名だかき金の鯱(しゃちほこ)は

名古屋の城の光なり

地震のはなしまだ消えぬ

岐阜の鵜飼(うかい)も見てゆかん

 

父やしなひし養老の

滝は今なほ大垣を

三里へだてて流れたり

孝子(こうし)の名誉ともろともに

 

天下の旗は徳川に

帰せしいくさの関ケ原

 草むす屍(かばね)いまもなほ

吹くか伊吹(いぶき)の山おろし

 

山はうしろに立ち去りて

前に来るは琵琶の海

ほとりに沿ひし米原(まいばら)は

北陸道(ほくろくどう)の分岐線

 

米原~京都

彦根に立てる井伊の城

草津にひさぐ姥が餅(うばがもち)

かはる名所も名物も

旅の徒然(とぜん)のうさはらし

 

いよいよ近く馴れくるは

近江の海の波のいろ

その八景も居ながらに

見てゆく旅の樂しさよ

 

瀬田の長橋横に見て

ゆけば石山觀世音(かんぜおん)

紫式部が筆のあと

のこすはここよ月の夜に

 

粟津(あわづ)の松にこととへば

答へがほなる風の声

朝日将軍義仲の

ほろびし深田(ふかだ)は何(いず)かたぞ

 

比良(ひら)の高嶺は雪ならで

花なす雲にかくれたり

矢走(やばせ)にいそぐ舟の帆も

みえてにぎはふ波の上

 

堅田(かたた)におつる雁(かり)がねの

たえまに響く三井(みい)の鐘

夕ぐれさむき唐崎(からさき)の

松には雨のかかるらん

 

むかしながらの山ざくら

にほふところや志賀の里

都のあとは知らねども

逢坂山(おうさかやま)はそのままに

 

大石良雄が山科(やましな)の

その隱家(かくれが)はあともなし

赤き鳥居の神さびて

立つは伏見の稲荷山

 

東寺(とうじ)の塔を左にて

とまれば七条(しちじょう)ステーション

京都々々と呼びたつる

駅夫のこえも勇ましや

 

ここは桓武(かんむ)のみかどより

千有余年の都の地

今も雲井の空たかく

あふぐ清凉紫宸殿(ししんでん)

 

東に立てる東山

西に聳(そび)ゆる嵐山

かれとこれとの麓(ふもと)ゆく

水は加茂川桂川(かつらがわ)

 

祗園清水(きよみず)智恩院(ちおんいん)

吉田黒谷(くろだに)真如堂(しんにょどう)

ながれも清き水上(みなかみ)に

君がよまもる加茂の宮

 

夏は納凉(すずみ)の四条橋

冬は雪見の銀閣寺

桜は春の嵯峨御室(おむろ)

紅葉は秋の高雄山(たかおやま)

 

琵琶湖を引きて通したる

疏水(そすい)の工事は南禅寺

岩切り拔きて舟をやる

知識の進歩も見られたり

 

神社仏閣山水の

外(ほか)に京都の物産は

西陣織の綾錦(あやにしき)

友禅染の花もみぢ

 

扇(おうぎ)おしろい京都紅(べに)

また加茂川の鷺(さぎ)しらず

みやげを提(さ)げていざ立たん

あとに名残は残れども

 

京都~神戸

山崎おりて淀川を

わたる向うは男山

行幸(ぎょうこう)ありし先帝の

かしこきあとぞ忍ばるる

 

淀の川舟さをさして

くだりし旅はむかしにて

またたくひまに今はゆく

煙たえせぬ陸(くが)の道

 

おくり迎うる程もなく

茨木(いばらき)吹田(すいた)うちすぎて

はや大阪につきにけり

梅田は我をむかへたり

 

三府(さんぷ)の一(いつ)に位(くらい)して

商業繁華の大阪市

豐太閤(ほうたいこう)のきづきたる

城に師団はおかれたり

 

ここぞ昔の難波(なにわ)の津

ここぞ高津(こうづ)の宮のあと

安治川口(あじかわぐち)に入る舟の

煙は日夜たえまなし

 

鳥も翔(かけ)らぬ大空に

かすむ五重の塔の影

仏法最初の寺と聞く

四天王寺はあれかとよ

 

大阪いでて右左

菜種ならざる畑もなし

神崎川(かんざきがわ)のながれのみ

淺黄(あさぎ)にゆくぞ美しき

 

神崎よりはのりかへて

ゆあみにのぼる有馬山(ありまやま)

池田伊丹(いたみ)と名にききし

酒の産地もとほるなり

 

神戸は五港(ごこう)の一つにて

あつまる汽船のかずかずは

海の西より東より

瀬戸内がよひも交じりたり

 

磯にはながめ晴れわたる

和田のみさきを控へつつ

山には絶えず布引(ぬのびき)の

滝見に人ものぼりゆく

 

七度(ななたび)うまれて君が代を

まもるといひし楠公(なんこう)の

いしぶみ高き湊川(みなとがわ)

ながれて世々の人ぞ知る

 

おもへば夢か時のまに

五十三次はしりきて

神戸のやどに身をおくも

人に翼の汽車の恩

 

明けなば更に乘りかへて

山陽道を進ままし

天気は明日も望(のぞみ)あり

柳にかすむ月の影

 

【山崎おりて淀川を

わたる向うは男山

行幸(ぎょうこう)ありし先帝の

かしこきあとぞ忍ばるる】

 

全般的に理解が出来るのも年の功なのかもしれない。

たぶん大阪人でないと理解出来ない

はや大阪につきにけり

梅田は我をむかへたり

国鉄開業当時は「梅田駅」「梅田ステ-ション」と呼んでゐた。
現在ではJRのみ

「大阪駅」それ以外の鉄道は「梅田駅」です。

鉄道唱歌の「大阪」と「梅田」が混ざった歌詞にそれがあるのが面白い。


上記の“行幸ありし先帝”のというのも、男山というのも何処を指しているのかが理解出来ます。ここ数年参拝出来ていないが、数年前には初詣で毎年通っていた石清水八幡宮。孝明天皇は如何に日本を護ろうと考えていたのか、いつも参拝の時はそのように考えてお参りしています。その孝明天皇のことを考えると感涙します。

この鉄道唱歌は現在は変更されたりしています。

 https://www.uta-net.com/movie/179065/

下記は正統な歌詞です。是非聞き比べて下さい。

https://www.nicovideo.jp/watch/sm942103






四宮政治研究所から抜粋させていただきます。

孝明天皇と石清水八幡宮

 

頻繁に外国船が来航するやうになった幕末期の外患の危機の際し、孝明天皇は、弘化四年(一八四七)四月二十五日、石清水臨時祭を挙行された。野宮定祥(ののみやさだなが)を勅使として派遣され、神前に「宣命」を捧げられた。

 

その「宣命」には「近時相模国御浦郡浦賀の沖に夷の船の著(つき)ぬれば、その来由を尋るに、交易を乞ふとなむ申す。それ交易は、昔より信を通ぜざる国に濫りに許したまふことは、國體にも関わりれば、たやすく許すべきことにもあらず。…肥前国にも来着なとなむ聞し食(め)す、利を貪る商旅が隙を伺ふの姦賊が情実の知り難きをイかには為(せ)むと、寤(さめ)ても寐(ね)ても忘れたまふ時なし、掛けまくも畏こき大菩薩、この状を平く安く聞こし食して、再び来るとも飛廉(ひれん・風の神の名)風を起こし、陽侯浪を揚げて速やかに吹き放ち、追い退け攘ひ除け給ひ、四海異なく、天下静謐に、宝祚長く久しく、黎民快楽に護り幸い給ひ、恤(あは)れみ給ふべし、恐れみ恐れみ申し給はくと申す」と示されてゐる。

 

孝明天皇は、「寝ても覚めても外患を忘れる事は出来ない、外国船が来たら風波を起こして撃退し、四海に異変なく、天下は平穏で、國體は安穏で、国民の幸福を護り給へ」との切なる祈りを八幡大神に捧げられた。

 

さらに、孝明天皇は、嘉永三年(一八五〇)には、「萬民安楽・宝祚長久」の御祷りを伊勢皇大神宮・石清水八幡宮など七社七寺に捧げられた。また、神佛に祈りをささげられると共に、幕府に対してしっかりとした対策を講じるやうにとの「勅書」も下された。

 

孝明天皇が、外患に際して日本国の祭祀主としてとご使命を果たされたことが、その後の明治維新の断行・日本国の独立の維持の基盤となったのである。

 

孝明天皇は文久三年(一八六三)三月十一日、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と賀茂御祖(かもみおや)神社行幸攘夷祈願を行はせられた。これには、征夷大将軍・徳川家茂および在京中の諸大名が供奉した。

 

国難にあたり、特に神祭り・神事を盛んに行はせられるのは、天皇の国家御統治の有難き事実である。孝明天皇の国家・国民を思ひ給ふ大御心、御祈りが、草莽の志士達を決起せしめ、明治維新の原動力となったのである。

 

天皇が御所の外に行幸あそばされるのは、江戸初期の寛永三年(一六二六)年に、第一〇八代・後水尾天皇が、徳川秀忠・家光に謁見されるために二条城に行幸あそばされて以来のことであった。まことに畏れ多い申し上げやうであるが、あへて申せば、徳川武家政権は、上御一人日本天皇を京都御所に幽閉同様のご状態に置き奉ったのである。

 

孝明天皇は、同年四月十一日、石清水八幡宮に行幸になり、神前において征夷大将軍・徳川家茂に攘夷の節刀(天皇が出征の将軍に下賜する刀)を賜らんとされた。これは神前で幕府に攘夷の戦争を決断させる目的であったと傳へられる。

 

これを長州の策謀と断じた将軍後見職・徳川慶喜は、将軍・徳川家茂には病と称させて供奉させず、自身が名代として行列に供奉する。しかも、慶喜も石清水八幡宮まで来ると、腹痛と称して山下の寺院に籠もってしまふ。天皇は慶喜に社前まで来るよう召されたが、腹痛を理由にとうとう社前へは行かずに済ませてしまったといふ。病気(おそらく仮病であらう)を駆け引きに使って、神前での攘夷決行の誓ひを回避したので慶喜の奸智であり政略であったといはざるを得ない。

 

この石清水行幸には多くの民衆が集まった。中でも大阪から京都に「夥しく登り」、宿屋は一杯になり、祇園の茶屋が客を部屋に詰め混む有様であったといふ。民衆は天皇に強い仰慕の思ひを持って集まり、神聖なる祭祀主日本天皇こそが日本国の唯一の君主であることを自覚したのであった。

 

賀茂行幸・石清水行幸において、二百三十七年ぶりに民衆の前にお姿を現せられた天皇は、征夷大将軍・各藩主の上に立たれる日本国の統治者であらせられるといふ天皇のご本質を顕現せられたのであった。言ひ換へれば、賀茂行幸・石清水行幸は、天皇を中心とする日本國體が正しく開顕する第一歩となったのである。

 

孝明天皇は、安政五年(一八五八)五月十五日「石清水社法楽(神仏習合の祭典))に、「寄山神祇」と題されて次のやうに詠ませられた。

 

「八幡山かみもここにぞあとたれてわが國民をまもるかしこさ」

 

文久二年(一八六二)十月十六日の「石清水御法楽」には、「薄風」と題されて次のやうに詠ませられた。

 

「夕嵐吹くにつけても花薄あだなるかたになびくまじきぞ」

 

孝明天皇の國と民を思われる仁慈の大御心こそが、国難打開・維新断行の原動力だったのである。

旧第四師団 明治天皇聖躅 臨時軍事病院跡

大阪鎮台本営趾(2017年(平成29年)にレストラン等が入居するミライザ大阪城に改修され、同年1019日にオープン。)

鉄道唱歌の東海道第157番の劇中にて、「三府の一に位して 商業繁華の大阪市 豊太閤の築きたる 城に師団は置かれたり」と歌われた第4師団司令部は、大坂城本丸に置かれていた。前身の大阪鎮台本営も本丸に置かれ、1885年(明治18年)より本丸に移築された和歌山城二の丸御殿の一部(紀州御殿)に入り、第4師団創設以降も司令部は紀州御殿に入っていた。191871日、兵器部が大阪陸軍兵器支廠内仮事務所を閉鎖し司令部内に移転し事務を開始。

その旧第四司令部庁舎は終戦までは軍の司令部がおかれ、大阪市警察庁本部、大阪府警察本部を経て、地域の歴史を扱う博物館の先駆的存在として運営されてきたが、大阪歴史博物館の開館にともない2001年に閉館しています。

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佐賀の乱・西南の役

4師団の前身は大阪鎮台。創設時の歩兵連隊は、第8、第9、第10及び第20連隊からなる。創設間もない鎮台時代から佐賀の乱・萩の乱・西南の役に従事。隷下連隊は江戸や地方と違って士族や農民が少なく商人の割合が多い大阪連隊だったが、西南の役では示現流で斬り込んで来る薩摩武士相手に多大な損害を出すも奮戦し、明治天皇直々にその勇敢勇戦さを賞されている。
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明治天皇聖躅 臨時軍事病院跡
草で覆われて見えないですが、「明治天皇聖蠋」と書かれています。後ろにみえるのが旧第四師団の建物です。軍事病院として利用されていた時に明治天皇御巡幸です。
紀州御殿の橫にあり、大阪城の本丸跡にあります。


大阪城本丸跡(紀州御殿趾)明治天皇駐蹕之所

私も知りませんでした、大阪城の本丸跡が明治時代に紀州城の二ノ丸御殿の一部が移築されていたことを…

 

大阪城観光ガイドから抜粋

旧第四司令部庁舎があり、西側には日本庭園があるこの広場が本丸と呼ばれる場所です。ここに江戸時代に本丸御殿、明治時代に紀州御殿がありました。

城の中心部を本丸と言い、大坂城の本丸には天守の他、政治を行うための御殿がありました。豊臣時代の本丸御殿は大坂夏の陣で焼失し、その後、徳川幕府によって本丸に盛り土をほどこし、再び築かれました。

 

幕末には十四代将軍徳川家茂が長州戦争の指揮をとるなど、重要な歴史の舞台にもなっています。

 

1868年(慶応四年=明治元年)、明治維新の動乱で本丸御殿は全焼し、明治18年、敷地に和歌山城二の丸御殿の一部が移築されましたが(紀州御殿)、これも1947年(昭和22年)に焼失しました。
紀州御殿
右にうっすらと見えるのが大阪城です。
手前が紀州御殿です。
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現在の大阪城
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参考:本丸御殿跡の説明文を一部抜粋し要約

 

天守の向かい側一体を本丸と言い、江戸時代に本丸御殿がありました。特に江戸時代1665年(寛文5年)徳川大坂城が落雷の為焼失したため、その後はずっとこの本丸御殿で政治を行っています。

 

幕末に新政府軍と旧幕府軍との間に戊辰戦争が起こり、本丸御殿は焼失しました。

 

その後本丸は何もない状態が続きますが、明治18年に和歌山城の紀州御殿の一部を移築します。これは紀州御殿と呼ばれていました。その後、残念ながら1947年(昭和22年)に紀州御殿も焼失し、現在の何もない状態になっています。

 

紀州御殿御座所の下の補足によると、明治天皇が大阪城を訪れた時に紀州御殿を行在所としています。

 

明治天皇は明治20年と明治31年の大阪行幸の際、大阪城に入り紀州御殿に宿泊していました。その時の御座所は第二次大戦終結まで保存されていたそうです。

 

現在、本丸跡には「明治天皇駐蹕之所」碑があります(上の写真参照)。駐蹕(ちゅうひつ)とは車を少し止めるという意味なので、紀州御殿に行在所として使用したことを意味します。

紀州御殿は天臨閣に改名

 

昭和6年に大阪城天守閣が復興し、第四師団司令部庁舎の完成以後に、紀州御殿は迎賓館として利用されました。

 

昭和天皇も紀州御殿を行在所とした時に、「天臨閣(てんりんかく)」という名前に改称されています。

光格天皇御製

光格天皇(コトバンクより抜粋)

第一一九代天皇。閑院宮典仁親王の第六皇子。幼称祐宮、名は師仁のち兼仁。後桃園天皇崩御の際、同天皇の養子となり、安永九年即位。博学能文で知られ、作詩、管弦に長じた。また朝儀再興に力を入れ、幕府に働きかけて古制の復活に努め、在位中に石清水社・賀茂社の臨時祭を再開した。また実父典仁親王に太上天皇の尊号を宣下しようとして幕府の反対に遭い断念を余儀なくされた「尊号事件」は後の尊王思想に大きな影響を与えた。天保11(1840)崩御、69

 

獨述懐

君が代に あはずばしらじ たらちねの 道のをしへに こめし心も

 

よしやたゞ 道の恵に まかせ置て おろかなる身も 猶わけてみむ

 

社頭榊

ひくまへに 君が代いのる 袖かけて 三宝の榊 かほりきにけり

 

みづ垣や神のゆふしで ふく風に かほりもきよく なびくさかき葉

 

今回、『學生生活』を讀んでゐると、澤山の御製を掲載している。そう謂えば、最近は御製に觸れる機會も少なく、まったりと生活しているな、そう感じる。光格天皇は多くの御製を殘して居り、最近はそれを讀誦することもない。このブログにて掲載して勉強していこうと思います。

眞理は何囘でも讀む

谷口雅春先生は眞理と言うのは「何回も讀まなくてはならない」と繰り返して述べられておられます。

 若い時でもそうですが、一回讀めば理解しているのでもういいや、と自己の慾に限界を付けて、そこで閉じてしまう。私もその一人である。

 眞理と雖も二回讀むということは無かった。

「私は既に理解している」そういう増上慢があった。だが理解しているのは「その本を読んだ」ということだけで、内容について全く思い出せない。

 私は現在、微細にわたり『生命の實相』を讀んでいるが、全く新鮮で、今迄読んだことのないように新鮮である。それは過去では「読んだ」という自己満足だけが支配している胸中がそうさせているのです。

 しかし、「行」はどうかというと、全く怠っている。それでは、讀んでいないのと同じである。よく、私が発言する内容ですが、眞理はそうであっても現実はなかなかそういう訳にはいかない。とまるで悟り切ったような話をする。

 私は現在、そのような眞理と向き合うようにしている。二十歳代で讀んだ『生命の實相』と現在讀んでゐる『生命の實相』が全く異なった文章になるのが不思議である。

 二十歳代では「さっぱりわからなかった」言葉も理解出来るのである。その世代の様子が「ありありと理解」出来るのも年の功であるのか?

 本来は「現実」という私の言葉が「眞理」を阻害しているのです。「認めるものは顕れる」というのが感じられる。しかし、それではいけない。別に私は「現実逃避」する気持ちは全く持ち合わせていない。本来はそれがイコ-ルでなければならない。それを今後、行わなければいけないと思う。あまり屁理屈を付けていうことではないが、正直にそのように思える。

 

 先日來、このブログで「谷口雅春先生」の調べたい事が集まるものであるということで、『旧制市岡中学校』の資料や『變態心理』という資料など、谷口雅春先生の思想を知るが上にも大切な資料である。しかし、普段勉強していないと、そんな資料も「流れて」しまうのです。それをシッカリと握っていくのもあらゆるものに「アンテナ」を受ける準備をしておかなければならない。そこで「何か」を感じるのが「大切な」ことであると私は思っています。それは決して自分一人の作業ではなく、沢山の人々の補助があるから出来るのです。

 

 そのような人にいつも感謝をしている。私はそのような人に「恩返し」をしようといつも思っている。

 今回、『學生生活』という資料も本来「生長の家」と何等関係ないと思うのが普通であるが、私は「これは間違いなく関係する」という断言が心の中であった。それはこのような『谷口雅春先生』の歴史を深く調べて行くと、「理解」が出来るのです。

 本当に神様に感謝しなければならない。

『專賣』谷口雅春先生の寄稿

『專賣』谷口雅春先生の寄稿

昭和12年十二月號 第三百四號 62頁~73頁 「無限幸福への道」發行所 財団法人專賣協會


この雑誌は以前に「日本の古本屋」において見かけていたが、そのままで忘却していた。ある方からの御指摘で「そうだ、これを機会に購入しようと決意した」

谷口雅春先生はいろんな雑誌に御寄稿されておられます。私も知らない雑誌や新聞などにも寄稿されていると推察しています。

 今回、この雑誌を『谷口雅春先生著作年譜一覧表』に掲載していこうと思っています。
 また、全く知らない谷口雅春先生の御文章があるのではないかと思っています。そのままそれが「世の中」に知られないままに放置されてしまうと、今後「生長の家」の歴史として、封印されたままになると憂いています。

 度々、其の事をこのブログで書いておりますが、私の力が不足しているため、個人の単なる趣味にしか捉えられないのが本当に残念であります。


 本来は「生長の家」教団が行わなければならない事です。しかし教団には期待しても享楽に呆けているだけで、「唯物史観」の見本のような存在にしか、私は見えません。いくら「谷口雅春先生」のことを語ろうと、それを保存し、継承していくことを放擲しているしかみえないのが、私の視点です。

 しかし、私がこれを使命として行うのも現在の「生長の家」教団の歴史を放置しているお蔭かもしれない。


 それより、貴重な資料をもしお持ちであれば、教えて戴きたい。

宜しくお願い致します。

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光明綜合雜誌『いのち』はどうして廢刊の憂き目にあったのか

光明綜合雜誌『いのち』はどうして廢刊の憂き目にあったのか

 今回、偶然に違う人を検索をしていた、その人は打越孝明氏(明治神宮国際神道文化研究所主任研究員)という人物について詳しく知りたいということで、著作である『明治天皇の聖蹟を歩く』―西日本編という著書を昨年の八月頃に購入していて、『明治天皇聖蹟』を巡ることをしていきたいという願望があった。そこでその著書で打越孝明氏を探究していくと『日本主義的学生思想運動資料集成』という本の存在に到達してこの書を初めて知った。それは綜合24冊になるという重厚なる本の編纂されておられることがわかった。私の知り合いにも尋ねたりしていたが、著作が見れないかどうか図書館などを検索していた。丁度、私の家からすぐ近くにある『関西大学図書館』が所有しているので、二日間にかけて閲覧をしてきた。

 『日本主義的学生思想資料集成』というのが戦前の東大を中心とした高校生、大学生の雑誌です。雑誌名が『學生生活』『新指導者』『思想界』である。この扱う本の意図などが記載されているのが、小田村寅二郎著『昭和史に刻むわれらが道統』(日本教文社刊、1979年)です。

 この本は主に戦前における帝大(東大)の「小田村事件」関連から、それに反駁する小田村寅二郎氏、その他の学生や著名人が発刊したといっても過言ではないのです。この雑誌を出版する動機というのが『いのち』という雑誌の昭和139月號で「東大法學部に於ける講義と學生思想生活」小田村寅二郞 (頁151161)これが東大法学部を揺るがす大問題となったわけです。(その詳細についてはここでは省きます。)それが「小田村事件」といわれています。その『いのち』誌と『學生生活』との関連は昭和141月號において、「東大法學部學生處分問題に抗議す」編集部や「學生生活」中河與一とかの論文で見て頂いても御理解していただける。さて本題である『いのち』誌の廃刊であるが、それが『學生生活』三月號に「雜誌『いのち』の廢刊について」に記載がある。

 【日本主義綜合雜誌『いのち』は二月號限り廢刊さられることゝとなつた由である。その二月號は小島威彦氏の論文は「汪兆銘聲明を駁す」の一文が内務省圖書課の方針によつて削除の運命に立ち至つた。而も右小島氏の論文は内容的に何ら變改することなく、末梢的字句の修正のみで本誌前號に掲載さられたことは當局の良心的検討によること言ふ迄もないが、我等の陣営の一歩前進ではなくとも後退せざりし記念であつた。その『いのち』が右の削除をうけつゝその號限り廢刊するに至つた事は一抹の寂寥を感ぜざるをえない。のみならず小田村兄が河合教授の講義内容を發表したことのため光榮ある無期停學處分に附せられたのもこの『いのち』への執筆であつたし『いのち』は本年正月號に特に多大の紙面をさいて小田村兄のために正しき辯論をやつてくれたのである。かく重ね重ねの緣故ある『いのち』の廢刊は遺憾至極といふ外はない。(後略)】

『いのち』という雜誌の小島威彦氏の論文「汪兆銘聲明を駁す」の一文が内務省圖書課の方針によつて削除という憂き目が大きく、光明思想にも大きく変更せざるを得ない岐路にたたされるのです。IMG_3927
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いのち
昭和13年9月號の『いのち』「小田村寅二郎」の記載した「東大法學部に於ける講義と學生思想生活」が掲載されています。

明治天皇聖蹟-④明治天皇大演習御統監之地

明治天皇御行幸で奈良の橿原神宮に来られた際に「今井行在所」では場所が曲がり切れないので拡張したという話が今でも語り草になっています。

 

明治10年(1877)、明治天皇は、御父孝明天皇の十年祭を行うとともに、初代神武天皇の畝傍山東北陵(うねびやまのうしとらのすみのみささぎ)にご参拝するために関西へ行幸しました。

 

2月10日、天皇は神武天皇陵に近い今井行在所(あんざいしょ)(称念寺)に到着されました。称念寺では、天皇の御代替りなどに舞われる国栖舞(くずまい)が天覧(てんらん)に供されました。

 

翌11日は紀元節(きげんせつ)です。幕末、それまで定かでなかった神武天皇陵が現在の地に定められ、明治6年には紀元節が制定されました。『日本書紀』に記された神武天皇即位の日を建国の紀元とし、その日を太陽暦に換算して2月11日を紀元節としたのです。欧米の文物を取り入れて文明開化が進められていたこの時期、天皇は我が国の悠久の歴史に思いをいたして紀元節を制定されたものと拝されます。

 

天皇は、この紀元節に神武天皇陵にご参拝し、明治日本の安泰を念じられたのでした。 

 

  みそぎして君がまつれる畝火(傍)山

    神もうれしとうけ給ふらむ

 

行幸に供奉(ぐぶ)していた熾仁(たるひと)親王が天皇のご参拝を言祝(ことほ)いで詠んだ歌です。

 

この日の夜、地元の人々は畝傍山の山腹に提灯で「幸」の字を描き、天皇のご来訪を奉祝しました。

 

 さて、明治天皇大演習御統監之地は明治411111日(1908)に陸軍の大演習があった。明治天皇はこの地に立ち統監した。この関係で予算は奈良県が拠出しなければならなかった。IMG_3805
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大和三山と橿原神宮周辺

今日(2/11)は紀元節の佳き日。例年通りに橿原宮に行ってきた。今回は大和八木駅から耳成山(耳梨山)と香久山(香具山)と畝傍山(畝火山)と神武天皇陵、綏靖天皇陵、安寧天皇陵、懿徳天皇陵とそれと以前から気になっていた「安寧天皇社」である。安寧天皇陵の南側にコンモリとした丘のような所がある。そこが「安寧天皇神社(社)」である。よくみかけるのが「神武天皇社」というような「社」が付く神社です、例えば「清和天皇社」や「神武天皇社」というのがある。昨年初めに「孝昭天皇社」とかある。

神社という名前が付くのもあるが、珍しい。写真を撮ったので掲載していきたい。ただ、昼から用事があったので急いで廻った。走行距離が20キロ、最近はよく走っているので、爽快である。近鉄大和八木駅に810分なんとか午後12時に橿原神宮前駅に到着した。写真撮影もしているので、要所ではゆっくりした。

 

 大和八木駅に着くなり、南の方から愛国歌が流れる。最近は取締が厳しく、遠慮しながら流しているようである。此処には「金鵄像」が待ち受けている。さて、最初に耳梨山である。

勿論、正確な表現は耳成山であるが、色々な表現を古代では使用していた。耳無山でもそうである。(耳成山の南側に耳梨池がある)

中大兄皇子の長歌である、原文をそのまま記入すると

 原文: 高山波 雲根火雄男志等 耳梨與 相諍競伎 神代従 如此尓有良之 古昔母 然尓有許曽 虚蝉毛 嬬乎 相挌良思吉

 

香具山は畝火(うねび)雄々(をを)しと 耳成(みみなし)と相(あひ)争ひき 神代より かくにあるらし 古(いにしえ)も しかにあれこそ うつせみも 妻を争ふらしき

 

何かこの言葉がス-と這入って来るのです。畝火(畝傍)というのが「大和三山」で一番高い山です。円錐の山で遠くから見ても「畝傍山」だと感ずる。ただ葛城山の麓からみる大和三山でもはっきりと「畝傍山」がわかる。藤原京を中心に添え、ちょうど三角形の頂点を結んだような配置となっている。

 

 この耳成山は頂上まで8分位であっという間に着く(標高139m)、途中に耳成山口神社に参拝してきた。この神社は「山口神社」としていつが、八合目位に在り、山麓ではない珍しい神社である。祭神は高皇産霊神(高御産巣日神、たかみむすびのかみ)大山祗神(おおやまつみのかみ)である。

 それと 明治天皇大演習御統監之地 明治411111日(1908)に陸軍の大演習があった。明治天皇はこの地に立ち統監した。(明治天皇聖蹟-④)に記載。

 

 その後、南下して醍醐町という周濠の所を通り、藤原京に出た。

 

宮都を写真撮影して、東側にある古い集合住宅のような箇所に出た。この地は到る所に水郷があり規模は小さいが、住宅のあらゆる箇所に水路がある。私の仮説であるが、藤原京は水の関係で衛生面で宮都が長く続かなかったと思う。今でも藤原京は泥濘地域が多くある。

 

 その後、香久山へ向けた、香久山駅(JR)はこの字である。また観光目印にもこの字が多いが、橿原市のパンフレットは「香具山」である。

 

 原文

高市岡本宮御宇天皇代 [息長足日廣額天皇]

天皇登香具山望國之時御製歌

山常庭村山有等  取與呂布 天乃香具山 騰立 國見乎為者 國原波 煙立龍 海原波 加萬目立多都 怜A國曽 蜻嶋 八間跡能國者(A 扁左[][] は外字)

 

「国見」の歌

大和には群山あれど とりよろふ天の香具山登り立ち 国見をすれば国原は煙立ち

立つ 海原はかまめ立ち立つ うまし国そ あきづ島大和の国は

 

「大和にはたくさんの山々があるが、特に頼もしい天の香具山に登り立って国見を

すると、広い平野にはかまどの煙があちこちから立ち上がっている、広い水面には

かもめが盛んに飛び立っている。本当によい国だね(あきづ島)この大和の国は」

(小学館「日本古典文学全集萬葉集」巻一より)

 

私も最初は「海原」というのがわからなかった。だが原文を讀むと理解出来た。「國原」である。「海」というのは『古事記』『日本書紀』にはよく出て来る漢字であるが、その語源と「当時」香具山からみた藤原京付近は泥濘の地であり、池があちこちにあり、それが國原のように感じたに相違ない。私も何度も尋ねているが、やはり香具山だけではない、藤原京の周辺も何度か歩いた。その高低差を脚で感じて、古代を感じながら歩いてみた。

紀元節の歌の三番に

第二章

うなばらなせるはにやすの。いけのおもよりなほ
ろき。めぐみのなみみしを。あふぐ
けふこそたのしけれ。

海原と書いているが、池の面よりと書いている。海原というのは草原のような場所をさす。

 

 また、大和の枕詞である、蜻蛉島は現在では蜻蛉など飛んでいないが、それを感じたのが現在の御所の秋津という地域である。トンボが沢山飛来している。

 

 香具山はそんなに高くない山であるが、所々で山が見える、私は畝傍山がはっきりと見えた。何か近いのに、遠く感じた。

 

 現在、香具山の南側の田んぼのような所で発掘調査している。藤原京の遺跡が出て来るんだろう。

 

 さて、畝傍山を登頂するのにル-トで迷った。道を迷うとかではない。神武天皇陵を先に参拝して、その後、綏婧天皇陵で畝傍山を一周するかどうかで迷ったが、それを止めて、二カ所の御陵参拝を先行して橿原神宮に参ることにした。参拝の人数はそれほど多くは感じなかったが、参拝した時は1040分である。それから懿徳天皇陵に参拝した。そのあと安寧天皇社とネットでは記載されているのである。とりあえず、そこから向かうことにしたが、近道で東側から登ったが、竹林で道を塞いでゐる。近くで訊ねたが、知らないということです。ほんの10mでも参拝しないのである。そこから西側に大きく周回しながら辿り着いた。細い路地には何の目印もない。手前に軍人さんの墓があるだけである。人一人の細い道は直ぐに階段、それを登ると「社」がある。昔は近くで祀っている人も多かったのであろう。

 

 その後、安寧天皇陵に参拝。そして畝火山口神社に参拝して、畝傍山に登頂であるが、少し髙い山だが15分位で登れた。あまり時間がないので、初めての下り道を利用した。急な下りの道があった。そこを下った。昔、畝傍山の北側を登ったときは、そんな道を登ったな…そんな思い出に浸りながら下った。登山口はイトク古墳のある所が登山口であった。

 

 その後、再び橿原神宮境内に入って、橿原神宮前駅まで歩いた。
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近鉄大和八木駅の金鵄像です。
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耳成山を西南側から撮影。
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耳成山登山口です。案内板が目立ちます。
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八合目にある「耳成山口神社」です。
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耳成山の頂上に到着
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耳無の池
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醍醐町周濠地である。
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藤原京から耳成山を撮影。木が邪魔。
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醍醐の住人達の供養です。

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持統天皇文武天皇藤原宮趾です。こんもりした小さな丘にそれはあります。
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藤原京
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左側にこんもりと見えるのが「畝傍山」右側に遠くの山が「二上山」です。左に岩橋山、葛城山と連なっています。
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何だろう?
以上、藤原京です。
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高殿町です。昔はこの付近も藤原京でした。床下式の住居があったことを想像させてくれます。
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香久山という表記
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林野庁は香久山、文部科学庁が香具山
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国見台とされている。天香山という表記です。
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「畝傍山」を撮影。頂上の手前です。
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香具山と表記
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香久山と表記
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香具山と香久山という表記
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香具山では三角点が見当たりません?
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東側から「香具山」を撮影。道路のすぐ後ろが遺跡発掘現場です。
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藤原京の南側です。本薬師寺があった場所です。
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本薬師寺趾です。
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人数が少ない時間でした。神武天皇御陵です。
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宮内庁書陵部です。
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神武天皇陵を横から撮影
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綏靖天皇御陵でした。
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橿原神宮でした。
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懿徳天皇陵です。
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安寧天皇神社です。
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安寧天皇陵です。
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畝火山口神社です。
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畝傍山は三角点がありました。
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出雲と大和

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「亀の子ブログ」で興味のある研究をしている。『生長の家』という題字である。いつの間にか私も慣れてしまって、そこまで気持ちが行き届かない。

 

 「そういえば、そうだな」そんな感想を持ちつつ、

このような立派な人に「生長の家」を委ねて行かなければならない。

 

昨日は「紀元節」で大和三山の登頂と橿原神宮と「神武天皇陵」「綏天皇陵」「安寧天皇陵」「懿德天皇陵」と「安寧天皇神社」という所に行ってきた。神武天皇陵までは参拝する人もあるが、それ以外は殆どいない。

 

昨年は「神武天皇聖蹟」に各地を訪問して、私は誰よりもその思いがあると確信している。

 

 本年で『日本書紀が編纂されて1300年』東京国立博物館では『出雲と大和』という展示を行っている。

 

令和2年(2020)は、我が国最古の正史『日本書紀』が編纂された養老4年(720)から1300年という記念すべき年です。その冒頭に記された国譲り神話によると、出雲大社に鎮座するオオクニヌシは「幽」、すなわち人間の能力を超えた世界、いわば神々や祭祀の世界を司るとされています。一方で、天皇は大和の地において「顕」、すなわち目に見える現実世界、政治の世界を司るとされています。つまり、古代において出雲と大和はそれぞれ「幽」と「顕」を象徴する場所として、重要な役割を担っていたのです。

 「幽」と「顕」を象徴する地、島根県と奈良県が当館と共同で展覧会を開催し、出雲と大和の名品を一堂に集めて、古代日本の成立やその特質に迫ります。

 

なるほど、そういう観点で見るのもいいのではないかと思う。「古代の人」は「神」としての幽を観じ、その祀りごとを行う顯祭が政治である。

明治天皇聖蹟-③明治天皇砲艦之所-天保山

新型コロナウィルスの影響は観光地においてはっきり現れている。先日大阪の観光地である「大阪城」と「海遊館」に行ってきたが、入館者が少ないのに驚いた。こんなに少ないのは「海遊館」に関しては初めてである。

今回の行ってきた目的は『明治天皇聖蹟』を調査するためである。海遊館の隣接する「天保山」は数年前までは「日本で一番低い山」として国土地理院地図に記載されていた。現在は宮城県仙台市宮城野区の日和山で3m、天保山4.53mです。その天保山に堂々と建立されているのが下図です。

 

明治元年に次々現れる諸外国の船など内憂外患の時代に御視察されました。

1868(明治元)年 明治天皇の大阪行幸と第1回観艦式(大阪市港区ホ-ムペ-ジより抜粋)

 

 

江戸幕府が倒れ、1868(慶応4)年、最後の将軍徳川慶喜が天保山から敗走すると、明治天皇自らが軍を率いて大阪に来られ、326日天保山台場から各藩の軍艦をご覧になり、これが日本で最初の観艦式となりました。このとき、天皇はおよそ500年ぶりに京都を離れたのでした。

 

現在、天保山にはこの時の記念碑「明治天皇観艦之所碑」が立っています。






下図は海遊館から見る大阪湾

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ジンベイザメが壁面で泳いでいます。右に人がみえます。
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中村古峡氏への反駁

「心理學者の妄論」小倉七美―靈魂の問題は心理學の領域外―中村古峡氏もって如何とする―

 

ということでブログにて掲載させていただいたのですが、實はこの掲載以前に『神靈界』にて『變態心理』にて掲載されるのではないかという雰囲気が当時の新聞などを賑わしていた。それを云えるのが『神靈界』大正八年七月十五日掲載の谷口雅春先生の御記載の「つかれたる人」(實話)での

「その頃丁度新聞が大本の惡口を盛んに書き立てゝゐました。好奇心に駈られて素見し半分は私の宅へ遣って來る人もあれば、病氣を直して貰ひたい目的でやつて來る人も出來て來ました。」

 

 この「つかれたる人」というのは「憑かれたる人」ということで揶揄しているのですが、谷口先生が大本に入信されたのが大正八年一月中旬頃だと推測できますが、「大本」教団内で中村古峡氏が来訪したのが大正七年九月です、「大本」ないでの糾弾というのがそれなりに「噂」として拡大していたのではないか。

 

 それが大正八年六月一日號『神靈界』での谷口雅春先生の「大本靈學より觀たる變態心理」ということで、神靈療法について碩学であった先生が堂々と反論しているのです。

 

 内容は当初は讀んでみていても理解出来なかったが、最近は『變態心理』など当時の状況の心理學を讀むうちに次第に理解出来るようになってきた。何れは公開してその真相を発表していきたい。当時の神靈學や憑依霊、潜在意識や顕在意識などの理論説明出来る人は雅春先生以外は見当たらない。それは公開したら御理解できると思います。

『生命の實相』大聖典は飾り物の價値しかない?

下記の投稿を“視て”どのように思うのであろうか?

通常ならば“見て”と書くのであろうが、今回は敢て、この字にしました。

 さて、その投稿というのが

 

大聖典も只の古書 トキさんが買ってあげたら (22753)

日時:20200202 () 1609

名前:どうでもいいですが

信徒の子孫にとって「大聖典」と仰々しい名のついたものでも、大した価値あるものと認められないと云うことでしょう。

 

日常読むための真理の書と云うよりも、飾って置くものとしての価値を高めるために、大層な装丁のものを売り出したと云うことでしょう。

 

雅春先生は付加価値の付け方が商売上手であったようです。

 

『生命の實相』大聖典はここで書かれているような、野暮ったいものでもないし、商売上手とかでもない。この人は“全く勉強をしたことがない”からこそ云えるのであろう。どれ程の苦労をされて作られたかを…、またどれ程の價値があったかを知ることもないだろう。

 

 以前にも書いたが「ある団体」に訪問した時の衝撃的シ-ンでしたが、誰も居ない机に無造作に開かれており、使いまわしのような状態で『生命の實相』大聖典が開かれて置かれていた。

 

 果して何をしたいのか、日頃は「谷口雅春先生」と口にする。人を結構批判している。そんな団体の本部がこんな状態でしたら、本当に情けない限りでした。

 

 しかし、よく考えれば、この人の云っていることも“合致”するところもある。殆どの人は『生命の實相』大聖典は飾り物でしかない。本当にそれでいいのかである。黑布表紙版との違いや菊装版では大聖典の縮尺版との記入があるが、果たしてそうだろうか?一言一句変更なしなのか、もし変更されているとしたら、どうして変更したのかである。また、已む無く記載されなかった「神示」です。何故、記載されなかったのかです。そんなことも検証すら出来ていない。

 

 今後、私が大きく「検証」する内容です。それは「神示」と合わせて検証することとなります。“個人”“団体”の所有されている『生命の實相』大聖典は飾り物の價値しかない。こんなことで本当にいいのであろうか?

理屈無の天皇観

生長の家における「天皇陛下」の御心ということを考えると、いつもこれで満足というのがない。先日ある勉強会に出席したときに熱心な元信徒さんがおられた、現教団には分かれて、新教連に所属されておられる。

 あることがきっかけで、「天皇陵」という話をしたことがあった。その方は一度ども、どの「御陵」も参拝したことがないと云われていた。参拝しないから「天皇の御心にかなわない」とかではない。参拝しない人でも立派に信仰されている人もいる。だからということではない。参拝している人でも現代の考古学者のような観点の違いもあるから、そこに何が秘められるであろう。私は現在の歪んだ思想の歴史観というのを、唯物的歴史観から唯心的歴史観への相異ということから学ばなければならない。私のような理屈先行では「天皇観」などまだまだ達成感など得られない。理屈無の「天皇観」である。そこには「その人」の生きた歴史観がなくてはならない。

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