歴史というのは数年経つと“風化”する。最近では半年や一年で風化してしまうことがある。その為に過去での出来事や事象事項など忘れ去られてしまうことが多い。
自分の団体などを依怙贔屓するのもやむをえない場合があるが、眞實を曲げて迄自己を正統化するのはよくある。その為に、曲ったことでも「正しい」、間違っている事でも「正しい」と教えられる。とりわけて歴史というのは、あらゆる方向から多面的に見なくては駄目だなとつくづくと思う。
今回、第一次大本事件というのをある面からふれたのであるが、そこからの主張も正しい面もあるが、そうでないところもある。そうでない所というのが、悪いと思えば、徹底的に悪口方面でしか見えない。そして相手を罵る。“馬鹿”“邪教”だとか、もう少し違う方向から見れないものであろう。それが一流の精神学の権威ある人である。「憑依霊」や「帰神」や「精神療法」というのをどこが悪いか、どこが正しいのか検証がきちんと出来ていない。
ただ、悪意でしか語れない人は論議出来ない。
そんな人には「精神療法」での“憑依”というのは二重人格でしか見えないのか、戦前までは「イタコ」「梓巫女」「いちじょう」というような「巫女寄せ」および「口寄せ」というような独特の風習というのが各地区にあった。今では青森の方面でしかみられない。
巫女(みこ)が、人々の求めに応じて神霊の尸童(よりまし)となって神意をことばで伝えること。あるいはこの行為を行う巫女のこと。生霊を寄せるのを生口(いきくち)、死霊を呼び出すものを死口(しにくち)、吉凶禍福を判断し、示すものを神口(かみくち)といい、鼓・琴・弓あるいは数珠(じゅず)などを手にして、音を鳴らしながら神霊の降霊を待つ。生口、死口、神口によって多少の変化はあるが、問口(といくち)といって、依頼者が問いかけ、それに対して口寄せさせて答えるものと、一人称で語りかけるものとがある。
そうした、巫女の「口寄せ」というのを、簡単に批判してもいいのであろうか、そういうことを考えてしまうのである。ただ、最近ある宗敎でやたらと、そんなことを宗教として商売するようなものもあるが、これもまた可笑しい。事前に少し勉強して「特定人物」を語るのであろうが、なんでもかんでも行うのには滑稽である。