少し日数が経ったが、以前から記入しようと思っていたが、何かにつけバタバタして今日になった。以前に記入しましたが、吉野彰さんは小学校と中学校の先輩ですが、文化勲章を授与されました。萩尾望都さんは中学校の先輩になります。文化功労賞を授与されました。同じ中学校の出身で今年は文化勲章と文化功労賞と二人が授与されたのは、心より祝したい。
また、誇りに思います。
「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。
少し日数が経ったが、以前から記入しようと思っていたが、何かにつけバタバタして今日になった。以前に記入しましたが、吉野彰さんは小学校と中学校の先輩ですが、文化勲章を授与されました。萩尾望都さんは中学校の先輩になります。文化功労賞を授与されました。同じ中学校の出身で今年は文化勲章と文化功労賞と二人が授与されたのは、心より祝したい。
また、誇りに思います。
今回のトキさんのブログの書き込みで本名をそこで書き込みするということは、やはり差し控えなければならない。この名前の書き込みは幾度となく行われ、周囲がそのように思っていなかったにせよ、悪い印象を与える。例えいろいろなことがあるにせよ、トキさんは「安東」氏のことをどれだけ知っているのかということが問題となります。一度も会って話したこともないのに、周りが云っているから、間違いないとかという、知らないことを断定する程怖ろしいことはない。私なら会います。そして話合いしてから、許可を得て書きます。
其れほどのことをしなければ、書くことにも最善の注意を払うことが必要である。
それが社会的に認められた人や代表者などは別です。間違ったことははっきりと書くことも必要です。そういう人は絶対権力を持っていますので、やはり書かなければならない。
私がそれ以外に褒めたり、教えを乞うなどとか、悪口ではないことは書く事はありますが、ブログを見られている人は御承知だと思いますが、個人名は書きません。それがブログやインタ-ネットのマナ-です。
私も茲に書く人には合う事も多く有ります。
さて、それに関連していることでもありませんが、私は『谷口雅春先生著作年譜一覧表』においてはブログで書く時には、その場所に行ったりして調べてから書くようにしています。例え、『生命の實相』に掲載されていることでも、確認できることは自分の目でみて判断することが多いのです。それは「古墳」や「遺跡」などの調査など行っていたこともそういう目を養うことの大切さを身に付けたからだと思います。現地に行くと、標高の高低差や近くに川や海がないか、巨大な石はどこから運んだのかなど、あらゆる視点で集中しながら散策します。前回のブログで蘆分から市岡尋常中学校まで歩いてみたいと書いていましたが、皆さんは昔の地図もないのにどう歩くんだと思っておられると思います。ただ、古い地図はありますが細かい所まで掲載していないのです。ただ高低差を利用して歩いていきます。確かに高低差が少ないのですが、それでもどこが一番高いかといいますと、江戸時代には河村瑞賢がこの地を開拓したりしているのですが、その安治川であったら、その安治川の脇です。天井川となっていますので、その脇を歩き、昔の地図を頼りながら想像して歩きます。また当時の遺跡などが残っている場所などもありますから、注意深く観察しながら歩きます。それも亦楽しいものです。
明日は大阪マラソンです。出場しますので、フルに走れるか不安ですが頑張って歩(?)きます。
さて、今回その市岡高校の橫を通る事になっています。それもまた楽しみです。
今回、大阪マラソンだけに絞って応募していましたから、楽しみながら走りたい。大阪の南北と西方向と走ります。ゆっくりと情緒を楽しみながら行きたい。もう既にリストバンドをしています。申込をした時に大会終了まで外せませんと言われた。
市岡高校には私はどういうわけか行っていなかった。今回は地下鉄を乗り継いで市岡高校に行ったが、いつかは、西九条駅から大阪市立蘆分尋常小学校付近に渡船乗り場があったそこを乗船して安治川を渡りそこから、田んぼ道を経由して市岡尋常中学に行かれていた所へゆっくりと歩いてみたい。市岡高校付近は弁天町駅からも近くにあり、谷口雅春先生の自叙伝では田んぼが広がった地域であることが想像出来ます。大阪地場野菜の『市岡すいか』の産地として有名であった。元々、江戸時代の1698年頃に市岡新田として開発され、海であったこの場所を開拓された土地ですので、ほとんど高低差のない地域です。(㊟1)
市岡すいかは種まで真っ赤といわれたほど有名であり、谷口雅春先生の時代は市岡尋常中学校付近はまわりがすいか畑の所にポッツンと建っていた。
だが、現在では付近は道路の交差点や高層マンションが林立して、昔の面影など皆無である。
㊟1
大阪湾口の新田開発は、江戸時代から行なわれていたが、とくに元禄ごろから盛んになった。市岡新田は、元禄11年(1698)市岡与左衛門らによって干拓され、湾内では最大規模のものであった。
先日のブログで現在の『生命の實相』を戦前と戦後の比較を行っている。『生命の實相』を讀みながら、皆様も讀んで戴きたい、そんな気持ちになる。もう讀んでゐると怒られるかもしれないが、再度、讀み直してください。そして自分の心境はやはり『生命の實相』しかない。そうすれば、互に悪口雑言を云ったり、あの人が悪いからとか、無くなるのではないかと思う。ただ、最早、『生命の實相』は要らないという諸君は「生長の家」の幹部としては去って欲しい。もし、我こそは「生長の家」だというのであれば、素直に読んで欲しい。確かにこのような教団の責任者は雅宣氏であるが、それを茶坊主のように崇めている諸氏もいる。
生長の家教団は「谷口雅春先生」が創始された宗教である。其の人を「中心」にしなければならないのです。現総裁も「谷口雅春先生」の弟子である。谷口雅春先生が「神のラッパ」であると云われましたが、総裁という人はいないのです。皆が「谷口雅春先生の弟子」であることを自覚すれば、爭い事が減るのです。権力を握ると自分を中心にしたがるのだが、「神を中心」に組織を組めばいいことだけである。それが出来ないのは信仰が出来ていない証拠である。素直に『生命の實相』を讀み、相手に傷つけていないか、相手を本当に拝もうとしているのか。そういうことを何度も何度も確かめることが大切です。
ただ、それを言う私が一番出来ていない。何度も讀み直していこう。実践していこう。
すみません、言わないと書きながら一点だけ申し添えておきたい。
私がこのブログで生長の家総裁谷口雅宣氏に対して暴言を吐き、罵ってもこれでは対立しているとは言わないのです。この場合は修行の足りない私が勝手に思っているだけで、何等対立抗争を生まないわけです。それならばどうしたら対立が生れるかというと、御存知の通り、それに対して私と敵対している人がそれに対して反論や駁論などすれば、双方は対立構造がわかるのです。
しかし、誰がみても、私(W)は総裁に対して悪い点しかみていないと周囲の人が100%反総裁派であるとみていても、それでも対立しているとはいわない。私が勝手に思っているだけであるので、周囲がそれを面白おかしく、囃し立てることがあってもです。また、その周囲のある人(Nさん)が「それにも益して、激しい罵倒をしても、それはNさんが罵倒しているだけで、Wとは全く関係ない。話をしたことがある、また同じ本流派だとしても、全く関係ない。
「安東巌さんや、彼と近い人たちと激しく対立するようになり」
敢て、こうした言葉を出すのは面白おかしくしたいのであろうが、周囲がいくら思おうが、御当人が何等反論されていない現状では「対立」とは言わないのです。
ただ、ここで難しいのはNさんが組織の要職の場合はそのように言わないのです。私のように何の組織に属していない人が云う場合とは異なるわけです。そういうことを理解してブログに書き込まなければならない。
ネット社会で一番怖いのは、平気で個人名を書くことである、ましてや批判していなかったとしても、対比したりするのは社会常識的によくない。
知らない人が見て、どのように感じるかである。トキさんがもし安東さんと同じ立場で批評されたらどうでしょうか?もう肩書もないような人にどこまでも、そういう言動をしていて本当にいいのであろうか。
トキさんは反省をしない人なんでこれ以上は此方が情けなくなる。もうこれでこの話は終る。もう少しじっくりと人を見てあげて欲しい。「實相」を拝んで下さい。
生長の家の幹部だから本当に実行して下さい。
とかく人としては「正義」を云いたがる。
これでもかと「正義の刃」を云いたがる。
「和解論」でもそうである。確かに『生命の實相』にも記入している。だが、一見正しいとみえるものが、そうではない事もある。
何故、「正しく」ないんだ!と怒鳴っていただいても結構である。何が正しくないかというと、そういう人には邪なこころが流れているからである。例えば、「平和論」でもそうである。「平和」を唱えている人ほど、喧嘩好きのことがある。何かにつけ文句をつけ、「平和論」と説くのである。これは自分の「感情」がちっとも平和ではない、常に闘争心がある。そんな人は「人を赦す」とかが出来ないのです。自分の感情が怒りに満ちていては平和も来ない。
それとおなじように「和解論」でもそうです。「和解を解く」のであれば自ら実践すればよいことである。自分自ら「学ぶ会」や「教団」に和解を持ちかけて、「学ぶ会」の人にはネットでもよい「一緒に話合い」したいと要望すればいいのではないか。そういうことをしないで、自分は大上段に構えて「何故。和解しないんだ」と怒鳴っていても、これは誰が見ても駄目な事である。「和解」という「待望」を唱えているだけである。心がちっとも「和解」する心に至っていないから、そういう人が唱えても多くの人が、「あいつまた出来ない事を云っている」という感覺しかでてこないのです。
今回のトキさんの投稿ですが、訃報であるのに「安東」先生をこの場で名前を出すというのは失礼である。何が何でも「安東巖」先生の責任にしたいんだろう。何か哀しくなる。現在役職もない一般人である。そういう常識もトキさんには持ち備えていただきたい。
失礼ながらトキさんに幾ら云っても無駄なのか?和解という事が出来ないのであろう。
日時:2019年11月27日 (水) 11時16分
名前:トキ
多湖周子先生は、長年、透析をされながら活動をされてきたのですが、お元気なキャラだったので、こんなに早く亡くなられるのは驚きでした。
記憶に間違いがなければ、大阪のご出身で、中学生時代から活動に生長の家に参加され、かなり年上の本部講師のご主人と早くに結婚をされました。そのご主人が亡くなられた後も、誌友会を予定通り開催されたというので、筋金入りの信仰者だったと思います。
ある時期から、安東巌さんや、彼と近い人たちと激しく対立するようになり、また、教団の要職を歴任されました。エネルギッシュな方で、疲れ知らずという感じでした。生長の家が好きで、一生を生長の家に捧げたという印象があります。
晩年は、色々な事情で組織会員はお辞めになり、和歌山におられたのですが、積極的に色々なところに出かけておられたという話も聞いていました。突然の訃報に驚いています。
故人の御功績に敬意を表するとともに、ご冥福をお祈り申し上げます。
私は「トキ」さんが時折、平気で「嘘」を書く癖は直して欲しいものである。このような場合には
① 何時対立したのか
② どういう原因で対立したのか
③ その確たる証拠があるのか
名前を列挙する場合はキチンと証拠を携えて書かなければならない。想像や憶測や伝聞などで決して名前を出しては行けない。また『百万運動』をもし言われるならば、牽引したのは「森田征史」元会長である。そこで話が抉れたなら理解できるが、当時の状況ではそうならないのです。当時の組織を知っている私ですから、そういうことが云える。
また、何でもおかしくしたいというなら多少の理解はするが「嘘」だけは書いてはならない。本人が「雅宣氏」に影響されてそのようになったというのが、本当のようである。
「百万運動」以前から同じ出身でしたから知っていましたが、「百万運動」以前から、組織には関わっていませんでした。早く結婚されたので大阪にはいなかった。
私は長く「生長の家」を携わってきましたが、今迄『白鳩』誌という役割を其れほどの大きいものだと知りませんでした。今回の『谷口雅春先生著作年譜一覧表』で作業を進めていくことにより、何と偉大なものであろうかと、知らないというのはこんなに人間を無知にさせるものかを改めて知りました。
前回に書いた『著名な女流作家と女流歌人を輩出した『白鳩』』と題して書くうちに、「凄いな」感歎が湧き出でて聲を發する。光明綜合雑誌『いのち』でもそうであったように、『白鳩』というのは凄い雑誌だということをその時に初めて知りました。
サブタイトルに「柳原白蓮、與謝野晶子、平塚らいてう、北見志保子、川上小夜子、生田花世、茅野雅子、中河幹子等が挙って寄稿した『白鳩』誌」としたのですが、これらは一流の女流作家であり、短歌では名の知れた人物であります。『いのち』では市川房江が文章を寄せて居たりしていましたが、やはり書いたり、書き写したりするうちに「女性運動」としての「オピニオンリ-ダ-」雑誌であったことは間違いない。
現在、戦前と戦後の『生命の實相』対比を行っています。驚くべきことに、少しづつ変更している箇所が多くあり、いっこうに前に進まない状態である。
戦後の「占領軍の検閲」は日本人を雇い従事した人間は延べ4000人を超える。少し前に「NHK」でも放映していたが、「日本人が日本人を監視」する社会であった。
それは日本が敗戦した後にすぐに実行されました、それが昭和20年(1945)9月10日「言論及ビ新聞ノ自由ニ関スル覚書」が発令され、報道検閲が開始されます。GHQは、それに反発した朝日新聞等を発禁にしました。この処分以降、 朝日・毎日など各紙が急速に左傾化していきました。しかも昭和27年までそうした「圧政」された状態が続くのですから、本当に大変な世の中でした。そうした中で谷口雅春先生は執筆追放に遭い、長く「愛国」や「憂国」なども書けない状態でした。
アメリカによってもたされた大きな被害、すなわち大量破壊兵器です「原子爆弾」の使用や毒ガスの使用など「新聞記事」には掲載出来ないのです。本当にそんなひどい状態が「検閲」においてもなされるのです。
GHQの憲兵によって占領期間中に1000人以上の人が米国人によって婦女暴行があり、毎年平均350人の日本人が殺された。そのような占領期間中というのは「圧政時代」であり、そのなかで憲兵に從うのも已む得ない状態であったということです。
また、最初に書いたように検閲は日本人によってなされるわけですが、その4000人の名前も明かになりました。2013年11月5日放送「知られざる“同胞監視”~GHQ・日本人検閲官たちの告白」~」私はその検閲の状態が今もなお続いていることを、はっきりと日本人は自覚しなければならない。その呪縛というのが「日本惡論」であります。そういう状態がいつまでも続くのは本当に情けない。
谷口雅春先生の戦前の書物には検閲を逃れるために色々な対策を講じられてきた。
戦前の検閲対象には「安寧妨害」とする検閲があった。それは
【教説を妄信するの結果或いは医療を妨害し、又は人心を誑惑する等の虞ある言説を弄し、更に又教勢を誇称せんとして畏くも皇室皇族の御事に言及する等のことある等注目すべき事象をも見つつある実情なり。】
やはり教説の妄信というのは「病気は無い」などというのは医療妨害にあたるということである。
① 医療妨害的布教活動
② 風俗壊乱的布教言動
③ 人心誑惑言説
このような観点からみていくと『超宗教を建つるまで』という谷口雅春先生の御著書の伏字というのが検閲対象であることが理解出来る。
この数か月比較ばかりを行っているので、推定だが怪しいところがありました。
『超宗教を建つるまで』408頁の5行目~8行目です。文字を消しているのです。「----------------」こうした形になると『生命の實相』でもそうでしたが、次回発行する時にはこのような形式で修正を対処したりします。
この部分を讀んでみても理解出来ないのです。發行間近に指摘されて、慌てて活版の一部をこうした形に組替えたのではないか。通常考えられない事ですので余程慌てて発行されたのであることが理解出来る。伏字には通常「〓」ゲタと呼ばれる書法が使用されるが、字數やその他問題があったのであろう。
さて、その「伏字」も反対に今では読めます。『生長の家三十年史』二十八頁、『神の真義とその理解』115頁・116頁にその伏字された文字が
「どうも医学上からは自然分娩は頗る難しいとせられています。」
「医学上からはそう診断されておったのですが」
上記の文字が検閲にひかかった。
例えば、検閲している状況では、既に印刷されてしまった場合には「切取り」つまり頁をハサミで切取る作業です。
今回の『超宗教を建つるまで』では378頁で終了していますが、附錄の前の部分でそのように切り取った跡がみられます。
また。印刷前であると、今回の伏字とかで検閲を逃れる方法をとったり、余裕があれば、頁ごとや、その部分を別の言葉に入替たりしています。
『超宗教を建つるまで』408頁
今回は「医学上」というのはまさしく、「医療妨害的布教活動」にあたるのであります。生長の家教団は谷口雅春先生の著作としては三度の検閲や禁書というのを体験する。
① 戦前の検閲
② 戦後GHQの検閲
③ 谷口雅宣氏による発禁
あまりにも残酷なことである。こんな状態で平気で「谷口雅春先生」という言葉を云えるものである。慟哭で胸が張りけそうである。
今回は戦前の黑布表紙版『生命の實相』における検閲とその対処を比較検討してきた。嫌になる程検閲されている。今回ブログで発表したかったが、一部の人を除き、あまりにも関心がない。それなら本を出版して発表しようと考えが変わって来た。またアマゾン出版の予定で、残念なことがある。それはA4サイズでの頁数の制限である。色々調べると、頁数が膨大となる。現在上下で700頁を予定しているが、このまま進むと800頁を超えてしまう。如何に項目で削除するのかを考えていきたい。A4で309ペ-ジまでです。
800頁を超えてしまうというのは、戦前と戦後の比較では既に70頁です。黑布表紙版の比較ではプラス30頁です。現在の構成している頁数は700頁です.
どうにか、いろいろな分野で「谷口雅春先生」という巨大な哲學や宗教そして倫理学など様々な分野に於いて博識であり、最も尊崇に値する人物である。それを知らしていかなければならない。
その尊崇する人物に対する教団の尊師に対する仕打ちというのか、自分で自分の首を絞めるような遣り方にどうしようもない歎きが出て来る。
「谷口雅春先生に帰りましょう」でコスモスさんは激しく訴えておられる。それに賛意する人は少ない。でも叫び続けなければならない。このような愛国者を増やしていかなければならない。
合掌 有難うございます。
雅宜総裁の真の目的は、祖父でもある谷口雅春先生の創始された生長の家そのものを、この世から抹殺する事であるとすれば、
今回の運動方針は大成功なのでしょう。何故ならますます信徒が離れて行く事、イコール限りなく縮小して行く宗教団体生長の家。
それ程の思いならまず総裁が、生長の家なるものから離れて行けばよいものを、権力だけは欲しい、宗教団体生長の家が有する資産を利用して、
自分の思うように運営して、政治結社、環境団体に変えたい思いがあるからではありませんか。
一言で言えば、「卑怯」そのものです。この上ない腹黒でもあります。その結果はいずれ、顕れて来るでありしょう。
以前は、これほどの強固な団体はないと考えていた。だが現在は「享楽」に遊び呆けているイメ-ジしかない。谷口雅春先生という言葉も次第に無くなってくる団体。
私は宗教や修養団体を色々な調査や研究の爲に訪問したが、(天理教、PL教団、黒住教)これほど「生長の家」という不親切な団体はない。一燈園では原本資料を手で触らしていただき、コピ-まで了承していただける。その内容は谷口雅春先生が書かれた、「ハガキ」である。
「大本」でもそうであった。ほとんど禁止事項などはなく、昔の資料などを見せて頂く事が出来ます。
何が違うのか、「生長の家」ならばそういう昔の資料を見せて欲しいといえば、にべもなく断られるだろう。
どうしてそんなことになったのかといえば「尊師(祖師)などを大切にしていない」その一言であろう。現在の情況でみれば、どうみても「大切にしていないことがわかる」
一燈園では「西田天香」氏の大きなパネルが何枚も貼られているのが、玄関を入るとわかる。一枚だけではない、至る所にある。それほどの思いが伝わる。しかも対応していただける事務員の人は皆親切である。以前、休みに訪問したが、閉館しているのにも拘わらず、嫌な顔をひとつもしない。そして開館していただいた。
「宗教団体」であるべき「生長の家」は爪の垢を煎じて欲しい。これが宗教の原点でもある。「人に親切にする」ことである。宗教の目的は何であるかということである。
尊師を大切にし、人々に深切行に徹して欲しい。
反安倍でもない、人にまず、深切をすることである。
「信徒行事要目」をもう一度毎日唱えてほしい。そして脚下して欲しい。
「令和二年の運動方針」をみて考え深く、そのように思った。
一、天地一切のものに感謝すべし。
皇恩に感謝せよ。汝の父母に感謝せよ。汝の夫又は妻に感謝せよ。汝の子に感謝せよ。汝の召使に感謝せよ。一切の人々に感謝せよ。天地の万物に感謝せよ。
二、そのままの心を大切にすべし。
そのままは零(れい)なり、一切なり、○(まる)なり、円満なり、無礙(むげ)なり、無限供給なり、調和なり、病なきなり、一切の不幸、災厄、病難はそのままを外したるときあらわれるなり、顧みてそのままの心に復るとき、一切の不幸は滅す。
三、何事にも真心を出すべし。
憂患は外界より来るに非ず。真心顕れざるを憂患と言う。内に真心なきに非ず。それを顕(あらわ)さざるに過ぎず。真心とは全心なり、全力なり、一所懸命なり。「今」を生かすなり。真心あらわすとき、直ちに此処が天国浄土と化するなり。
四、一切の人に物に事に行き届くべし。
真心顕(あらわ)るれば自然一切の人に、事に行届くなり、人には必ず深切なるべし、和顔なるべし、声やさしく愛語すべし、如何なる小事にも行届くことを心掛けよ、若(も)し行き届かざることあらば弁解すべからず。真心を顕(あらわ)すことを怠りたる自分の罪なりとして懺悔(ざんげ)すべし。
※相手の事を「深」く思い、「切」実に接するという意味
五、常に人と事と物との光明面を見て暗黒面を見るべからず。
暗黒面と見る心ある時、その人に暗黒あらわるるなり、光明面を見る心ある時、その人に光明あらわるるなり。人を陰にても誹(そし)るべからず。善(よ)き面を見つけて賞賛すべし。凡(すべ)て事と物とに不平言わず、感謝すべし。
六、常に自我を死に切るべし。
常に肉体本来なく、物質本来なく、自我本来なく、唯神の生命、今此処(ここ)にあらわれて生くると思いて感謝して作務すべし。
七、人生を神生となし常に必勝を信じて邁進すべし。
自我を死に切りたるとき、既に「我」なく神の生命のみ生くるが故に、決して失敗を予想せず、明るき心にて日々の業務に獅子奮迅(ししふんじん)すべし。失敗と見ゆることも真の失敗に非ず。樹は落葉したるうちに春の花の用意整いつつあるなり。
八、毎日一回は必ず神想観を実習して、心を光明化すべし。
辞世の句
今よりははかなき身と嘆かじよ千代の住み家を求め得つれば
山寺は花も紅葉も長月の中々によし心ちらねば
山にきて終のすみかを定めきて心にかかる雲も晴れにし
遺言書
葬儀は菩提寺である樹敬寺で行うが、なきがらはそちらに送らず、伊勢松坂の中心部から二里ほど離れた山室山に夜中密かに葬れ。墓所は宝樹院と山室山の二ヶ所に設けたい。私は山室山を真の墓だと思ってはいるが・・・・寛政十二年七月
小高い山を登って行く。何ともいえない憧憬である。
關景之奥域が途中にあります。
墓碑に彫られた文字は本居宣長の字
橫に岩に彫られた観音像
伊勢湾を望む
松坂城から約8kmの小高い山の上にある。そこから伊勢湾が望める。本居宣長という江戸時代における四大家の一人である。『古事記』を現代にもわかりやすいように譯した人物でもある。私は『古事記』を分り易く谷口雅春先生が解釋なされていますが、それでも『万葉集』を勉学してその基礎として行わなければならないことを痛感している。それは賀茂真淵でもそうであるように、本居宣長も「万葉集」を規範として『古事記』を解釋行った。
本音の時代さんが書いていた下記の文章
【私(谷口輝子先生)が「谷口雅春先生の第一の弟子」と申しました意味は、谷口雅春先生のお弟子のなかで私が文筆の才能が一番優れているという意味ではないのです。大勢の先生のお弟子の中には、私より筆の立つ方はたくさんいらっしゃいます。お話が一番上手だから第一のお弟子かと言いますと、私よりもお話の上手な方はたくさんいらっしゃいます。では、何をもって私が「谷口雅春先生の第一の弟子」であるかということです。
それは、先生のためならいつでも自分の命を投げ出すことができるということです。その意味で私は「谷口雅春先生の第一の弟子」と申し上げたのです。
この輝子先生の言葉に対し、魂の感動を覚えた先生方は数多くいるのだろう。しかし、結果はここまでなのだ。感動はするが、実践はできなかったのです。谷口雅春先生の生長の家が変貌していくときに、自分の命を投げ出すことができなかった先生ばかりです。「第一の弟子」でないから、それでよかったというのでしょうか。命を投げ出すことができる先生が一人いたなら、教団が変貌することはなかったでしょう。
かくいう私は、詫びる立場にさえ立てない、ただ吠えるだけのさもしい人間であります。】
この言葉は私が青年会時代に何回か聞いたことがある。その中で全国大会の結語だったと思う。当時、森田会長がまとめとして発言していた言葉を思い出す。
【谷口雅春先生の崇高な教えは、私はまだ理解出来ないところもあるが、自分は雅春先生の弟子として、もし谷口雅春先生から「森田」死んでくれと謂われれば、「死ねる」と断言されていたことを思い出す】
私は其処まで「信仰を到達」していなかったので、疑問符が付くのであるが本来の弟子としての心境というのは尊師の爲に「死」ねるということではないか。「国のために生命を棄つる愛の実践」そうしたことが本来の信仰ではないかと思う。谷口雅春先生は「生命體國家」としての日本という言葉をいろいろな御著書で書かれました。そこで『愛国は生と死を超えて』(96頁)で曽野綾子さんのベストセラーである『誰のために愛するか』という随想集の冒頭に「愛するということは、その人のために生命を棄て得るということである」
私はその信仰という言葉に「崇高」という言葉を付けて「崇高な信仰」というのは何かという言葉を考えてみたい。
『弟子像』の榎本先生は「山口悌治先生」「吉田國太郎先生」「小嶋博先生」「徳久克己先生」「藤原敏之先生」を列挙されている。勿論高尚な先生であり、其々の碩学を博して居られる。
どの先生方においても、「谷口雅春先生」を崇拝されておられたことは間違いない。『生命の實相』の靈界篇には高級靈ヴェッテリニが降霊会に出現して、画家であるコルニリエの問に対して、このように答えている。
「愛は温かく寛大で他を赦さなければならないけれども、魂の訓練のために峻厳なるところがなければならないのである」
峻厳なる愛を応えたのである。その峻厳なるものとは谷口雅春先生は「愛ふかき冷淡」としてお書きになられている。本当の厳しさというのは「そこの愛」というのがなければ「本当の愛」というのが得られない。上記の先生以外にも「服部仁三郎先生」や「田中忠雄先生」も藝術家と禪の大家である。そうした分野が違うが「谷口雅春先生」に惚れ込んだ先生である。
でも考えて見れば、谷口雅春先生の事をどれだけ知っているのかである。生涯において様々な業績を残されたのですが、幹部と云われる人やそういう信仰を目指している人に問いたい。
私が神戸の新開地で「水木通り」という所に短い期間住まわれていたことがあったが、其処に云ってみて、現在大倉山のある付近まで歩かれた様子など自伝篇に書かれていたが、私もその道を歩いてみたことがあるが、少し上り坂となっており、小学校低学年には大変遠い道のりであったことが推測できる。近年では想像つかないであろうが、湊川が現在の情況とは異なる、それも付加して考えてみた。
烏原水源地なら多くの人が行ったであろうと思います。神戸からでは平野方面から急激な坂を上ると、今までの喧騒とは全く別世界の烏原水源地。現在も緑成す静観の地である。北部には菊水山が聳え、鵯越が近くにあり急峻な地形は誰も寄せ付けないような地でもある。
水源地は一周出来ますので、少しハイキングしてみてはいかがでしょうか。
https://www.youtube.com/watch?v=ebdb_lElf8A
水鳥や鳥の鳴き声が聞こえ、靜かな佇まいは
【ともかく、わたしの生まれた土地はこうして満々と紺青の水にたたえられ、浄められて、何者にも侵されずに番人がついていて、それが汚されることから護られているのである。】
さて「崇高なる信仰」とは如何なることであるのか、私は「ブレない」眞のとおった信仰であると思っています。浄土真宗では法然を元祖として、何処も揺らぐことなく師事することが基であります。平安時代末期から変わらない信仰であります。それに「新しい」とかそういう観念はありません。
「生長の家」ならば尊師として「谷口雅春先生」を崇めるのが総裁として相応しい。
そのような信仰をしてこそ「本当の信仰」であると思っています。
最近の別のブログを見ていても、ガックリするばかりである。人の批判やどこかの野党の切れ端をとった「安倍政権批判」には、こんな人には自分の意見というのがないのかである。
何か根拠のない類の論拠を集めて書いている。その発信元や何時にデータを書き込んだのか、その人に許可をもらったのかは何もない。悪いが三面週刊誌より質が悪い。
また、雅春先生の言葉を引用するのはいいが、何処の書物なのかを記入していない。例えば「やまと新聞」の何年何月のものかを記入しなければ価値がない。だから、私はまだ記入していないが全てを調べた。また、その引用元も調べた。そうでないと折角書き上げても「価値がない」その為に、資料を作成するには時間もかかるし、その根拠を調べなければ「自己満足」になってしまう。それでは、単なる個人見解で了ってしまう。誰が当時の「やまと新聞」の担当であったかも聞いている。
ブログで安直な個人見解など書かないでほしい、犬の遠吠えしかない。具体的論点を調べるのに時間も必要だし、それを論破する材料も必要である。人が見て「なるほど」と思わせる文章を書いて欲しい。
また安易な「和解論」に辟易である。それならば、自らが行うことに徹すればいいだけである。何もしないでの平和論に似ていて、このての「和解論」にウンザリである。
今、大嘗宮の儀が執り行われています。日本国にとって大切な日であります。
上皇は歴代天皇の中でとりわけ後奈良天皇が執筆した「紺紙金泥般若心経」をみて「たいへんだったんだよね」という言葉が身につまされる。
『慈悲深く、天文9年(1540年)6月、疾病終息を発願して自ら書いた『般若心経』の奥書には「今茲天下大疾万民多阽於死亡。朕為民父母徳不能覆、甚自痛焉。窃写般若心経一巻於金字、(中略)庶幾虖為疾病之妙薬 (大意:このたび起きた大病で大変な数の人々が亡くなってしまった。人々の父母であろうとしても自分の徳ではそれができない。大いに心が痛む。密かに金字で般若心経を写した。(略)これが人々に幾ばくかでも疫病の妙薬になってくれればと切に願っている。)』との悲痛な自省の言を添えている。(ウィキペディア人物より抜粋)
現在では谷口雅春先生の生涯を調べたり、御著書の内容について深く調べようとする人も次第に少なくなってきた。
勿論、教団による「谷口雅春先生」の否定というのが大きい。何処に否定しているんだという反論もあることは知っている。だが下記に列挙するような事を反論出来れば否定しているとはいわない
①住吉大神の否定 総本山において神符の廃止や総本山においての「聖地」の否定
②愛国の否定 愛国書の絶版
③兄弟の否定 裁判までして兄弟爭いをする醜さ
それ以外にも様々あるが上の三項目だけでも十分に谷口雅春先生を否定しているといえる。そこまで谷口雅春先生を否定して総裁の地位に留まることが出来るのも、生長の家の真理を知らないから出来ることである。
本来は私のような作業は教団が行うことである。でもそれを蔑ろにしていたから、今迄「閉ざされた言論空間」であったのです。戦後のGHQの言論統制よりさらにひどい「言論統制」が現在の世の中で行われている事を信徒は知っているのであろうかである。
もし、知らなければ「無知」である。知ろうともしないのは「生長の家」の真理の否定であると思う。そんな重要なことを蔑ろにしてはいけない。今後、私もそれを知らしていくことに努めたいと思っている、今回このブログで協力者が一人挙手してくれた。本当に有難いことである。