則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2019年07月

讀んで戴ければ幸甚です。

再度「擬陵」について

「「擬陵」という考え」にコメントがありました。

http://tecnopla1011.blog.jp/archives/79737866.html#comments

--

Posted by 日野智貴

 

仰られることは判るのですが、最近、FBFで天皇陵発掘反対の理由として

 

「天皇陵を発掘すると、万世一系が間違いであることが証明される恐れがある。神話は守らないといけない。」

 

等と言っている人間がいました。そういう人間は、神話は学問的検証に耐えられない虚構であると思っているようです。

 

しかし、私は確かに天皇陵の比定には間違いもありはしますが、万世一系の証拠はこれからどんどん見つかってくると思います。

 

ところで、天皇陵に指定されていない古墳の中には、古くから仲哀天皇陵の説がある五色塚古墳、継体天皇陵であるという有力な学説の存在する今城塚古墳があります。

 

これらの古墳は公園になってしまっているわけですが、仲哀天皇陛下や継体天皇陛下への祭祀は宮内庁が別の古墳で行っているのだから、他の人が「仲哀天皇陵だ!」とか「継体天皇陵だ!」とか言っている古墳は別に公園にしても構わない、等ということでは無いはずです。

 

神社でも式内社の比定には複数の説が存在することは珍しくありませんが、その場合も双方の神社の説を尊重して参拝する、というのが当然のマナーなわけです。

 

宮内庁は、天皇陵の可能性が指摘された古墳については、もっと積極的に陵墓参考地にしないといけない、天皇陵の可能性が指摘されているのに公園にしてしまうような今の行政ではいけないと思うのですが、山ちゃん様の意見を伺いたいです。

 

コメントありがとうございます。

 

神話というのは日本の財産であり、その點は守護しなければならないと思いますが、私は畏れているのは、権威というのであります。それは例えば、仁徳天皇陵をヘリコプタ-で廻って見学しようとする輩であります。例えば、永年に亘って仁徳天皇というのは祭祀が行われています。ここは皇室祭祀の厳かな場所であります。

 

仁徳天皇陵で「正辰祭」宮内庁が初めて取材許可 1613回目の命日

 

 世界最大級の墳墓で、宮内庁が仁徳天皇陵に指定している堺市の大山古墳(5世紀中ごろ)8日、仁徳天皇の没後1613回目の命日祭「正辰祭」が行われた。

 皇室が祖先を慰霊する私的祭祀の一つ。全国の天皇陵や陵墓参考地など約600カ所でそれぞれ年に1度行われているが、国民の目に触れる機会はほとんどなかった。宮内庁は今回、共同通信に対し、メディアとして初めて取材と撮影を許可した。

 堺市などが大山古墳を含む「百舌鳥・古市古墳群」の世界文化遺産登録を目指し、同庁に陵墓の情報公開を望む声が高まる中、天皇陵での祭祀の実態を知る貴重な機会として関心を集めそうだ。

 仁徳天皇陵は3重の堀と堤に囲まれており、正辰祭は一般の人が立ち入れない最も内側の堤上にある拝所で行われた。

 午前10時、同庁書陵部古市陵墓監区事務所(大阪府羽曳野市)の職員や地元関係者ら12人が手を清めた後、堀にある橋を渡り、巨大な墳丘の前方部を臨む拝所へ。

 鳥居の前に設けられた台に供物の米、酒、海の幸のするめ、山の幸のリンゴとミカンと大根、塩、水を載せた五つの三方を職員が一つ一つ丁寧にささげ、参列者全員が拝礼。職員らは終始無言で、静寂が包む中、儀式は約20分で終了した。

 同庁によると、供物費は皇室の私的経費である内廷費から支出される。

 古代の天皇の命日は文献の没年月日を当時の太陰太陽暦から現在の太陽暦に換算。仁徳天皇は28日に当たるという。

 学界には仁徳天皇を古代中国の史書「宋書」に記された「倭の五王」の1人とみる説や、父の応神天皇と同一人物とする説があり、墳丘の年代や被葬者像をめぐって議論が続いている。

 

 上記は、スポニチ(Sponichi Annex)より転載させて頂きました。

 

年に一回の正辰祭が行われている。仁徳天皇のお亡くなりになられたのが、二月八日ということで毎年行われている。これには近くの住民達も清掃とかの協力があり、各御陵もそのようにして行われています。それを土足で踏み込むような行為は辞めて頂きたいということであります。

 

ただ、考古学者という多くの人は余りにも勝手であります。何が勝手であるかというと、例えば宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定(じじょう)されている所謂「箸墓古墳」ですが、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王、「卑弥呼」の墓とする(一部の邪馬台国畿内説)説もある。築造年代は3世紀末から4世紀前期とする説もあるが、卑弥呼が死亡したとされる3世紀中期との時期にずれがあることや、古墳の規模および様式が魏志倭人伝の記述と異なっている。しかし記述や其処を訪問すると、卑弥呼の墓と看板があがり、誰もが「箸墓古墳」は「卑弥呼の墓」と称して憚らない。

 

それに対して、考古学者は何ら文句を言わない。それがおかしいというのです。『魏志倭人伝』だとすると、全てを信じてしまう。『古事記』『日本書紀』に記述してあるとすると、俄かに疑義を抱くという、曲った思想であります。

 

 例えば、『陵墓参考地』ですが、それは大いに行うべきだと思いますが、高槻にある『今城塚古墳』のように荒れ果てた、古墳をみると情けなく思います。行かれたと思いますが、そういう古墳は『陵墓参考地』に治定すればいいのではないかという古墳は沢山あります。

 

 現在のように宮内庁であるならば文句は言うが、その市の教育委員会の粗末な治定にはゲンナリとしてしまう。それに文句をいう考古学者はゼロであるのも情けない

 

 また斉明天皇陵が有力地とされている牽牛子塚古墳(けんごしづかこふん)は、奈良県高市郡明日香村大字越にある古墳。形状は八角墳。国の史跡に指定され、出土品は国の重要文化財に指定されている。ここは小さい古墳ですが、私は斉明天皇陵に間違いないと思っています。ただ、確定していない部分もありますので、いろんな意見があります。この付近には古墳も多く存在しますので、是非行かれたらいいと思います。

 

 擬陵という考えですが、「長慶天皇」などはそうです。長慶天皇は傳稱地や陵墓参考地、旧陵墓参考地などその数は大変多い天皇であります。最近になってようやくその存在が知られ天皇として認められるようになったのであります。

 

長慶天皇陵(嵯峨東陵)→京都府京都市右京区嵯峨天龍寺角倉町

  

 長慶天皇陵(旧河根陵墓参考地)→和歌山県九度山町丹生川

 

 長慶天皇陵(旧相馬陵墓参考地)→青森県弘前市紙漉沢字山越174

 

  長慶天皇陵(南帝陵・御首塚)→奈良県十津川村上野地

  

  長慶天皇陵(御陵山)→富山県南砺市安居4941

 

 長慶天皇陵→富山県南砺市下梨2497

 

 長慶天皇陵→富山県砺波市庄川町隠尾

 

 長慶天皇陵→岩手県二戸市浄法寺町御山久保33-1

 

 長慶天皇陵→鳥取県鳥取市桜谷

 

 長慶天皇陵→群馬県太田市新田上田中町154

 

 長慶天皇陵→奈良県野迫川村弓手原

 

 長慶天皇陵(御陵石)→徳島県板野町大寺亀山下66

 

 長慶天皇陵→愛媛県東温市牛渕

 

私は物的な論証で出土しない場合は「擬陵」として認めたほうがいいのではないかと思っている。先日、青森県まで長慶天皇陵だとされていた「旧相馬陵墓参考地」を訪問しましたが、やはりそれを「証拠」がないからだとかで、それに「駄々を捏ねる」発言は、古来から信じてきた人達に大変失礼であります。

 

神話というのは、物証だとかだけではなく、その「精神」を大切にしたいわけであります。日本人が先祖代々信じてきたものを、その物証がないから信じないというのは、反対にオカシイのです。

 

自分の先祖は行き着く所は天皇という名前に到達するという人もいます。私の祖先も残念ながら「江戸後期」でプツッと途切れてしまいます。しかし、前回に書きましたように、江戸前期には「家系」というのが売買されてきました。ただ、多くの人はそれを信じており、例えば源氏の末裔であると信じている人はそれはそれでいいというのです。粗探しするようなものではないと思っています。

「擬陵」という考え

仁徳天皇陵について下記のような新聞が発表した。

 

 世界文化遺産に登録が決まった「百舌鳥(もず)・古市古墳群」(大阪府)について、日本考古学協会など考古学や歴史学でつくる14学協会の代表が23日、大阪市内で記者会見し、一体的な保護対策や公開、学術的な名称の併記などを要望した。

 

  構成資産のうち中核となる複数の巨大古墳は宮内庁管理の「陵墓」で、一般に公開されていない。また、それらは「仁徳天皇陵古墳」などの名前で推薦されたが、学術的に被葬者の多くは確定していない。

 

  学会側は「陵墓の多くでは宮内庁管理地と外側の民有地や史跡に分かれ、全域を統一的に保存するシステムは構築されていない。名称も、学術的に認定されたような先入観を世界に与えてしまう」と問題視。(1)構成資産の十分な保存・管理と公開を原則とした活用(2)刊行物や教育文化施設での学術的な観点に基づく名称の併記、などを求めた。(朝日新聞)

 

これは考古学という学者などは、日本の全体の縦の歴史というのを考えないのである。仁徳天皇陵というのが特定されたかわからないから駄目であると、駄々を捏ねているのである。

 例えば、自分の先祖には源氏を祖とするという家系があるといっても証拠など殆どない家系が多いのであります。私の親戚にも「菅原道真」を祖先とする家系図を所有する家があるが、成程、辿って行けばそれに突き当たる。江戸時代初期にはそうした家系を売買するようなことがありました。本人の実力よりも家督を重んじていた時代ですから、そういうこともありました。

 

 ただ、私の考えでは実際に“大きな古墳”がある。この事実と昔から先祖は「仁徳天皇」であると考えていた人が多かったということであります。否、あれは「大仙古墳」と昔から云っていたという人も書籍に書いている人もいますが、長い歴史の上で、「仁徳天皇」の御陵であると言った人が多いのが事実であります。それを証拠がないからと云って“採用”出来ないというのは「考古学」の悪い考えであります。物証のみを信じるからそうなるのです。昔からの傳稱というのは、色々な場所を巡ると大切な事が分かってきます。また「擬陵」ということを述べました。再掲させていただきます。

 

 仁徳天皇陵に関してですが、別の掲示板にて標様が書いていることもあり別の次元にて考察していきます。

 

以前にも書いていますが、現在の御陵というのは古代はほとんどがその御陵として人物が確定できないとして無理やり古墳と言う名称を使っている所が多いのです。

それは伝御陵のように明治以降に変わったものやら、様々あるのです。

例えば仁徳天皇陵は大仙という地名だったからそういう地名を古墳に付けているのです。しかし考えてみればそんな古いものがなかなかわからないのが普通です。

わからないから、伝承であってもそういうことを古代から日本人が思っていたということが大切なのです。

 

私はその点、擬陵という考えで巡拝します。そこに日本人の魂があるという考えなんです。

 

例えば、何何家というお墓で明治以前のお墓などなかなかわからないものです。余程武士の出身とかでなければ明治以前は残っていない所が多いのであります。

家系図においてもそうなんです。江戸時代でも苗字が許されない身分であると殆どが残っていない。また明治初期に勝手に苗字が変えられていたとかあります。

だから家系図もデタラメがあるのです。

 

しかし、先祖代々の墓を拝むときここに先祖様がおられると思って拝みます。そうしたものも擬陵と同じなんです。無理矢理に墓の中を暴こうとはしません。

そういう考えはシナ人です。

仁徳天皇陵として長年拝んでいるわけですから、それが違うという証拠もないわけなんですから、証拠がないから違うというのはおかしい。

無理やり暴こうとするのは、考古學で名前が欲しいだけの大学教授が多い。変な名誉のようなものが欲しいだけなんです。

そういうのに反論できないのはなんともいえない。

「風が吹けば桶屋が儲かる」

先日ある方に「宇治別格本山」は無くなっているという噂を「学ぶ会」の人から聞いたという話です。私は先日ある用事で「宇治別格本山」で行きましたが、そんなことはない。職員は少なくなっているが、そんな「無くなっている」ことはない。「学ぶ会」の本部でもそんなことは言ってはいないと思う。

 

ここで、實に人間の可笑しさが出てくるのです。それは伝聞というものなんです。

しかし、可笑しいからといっても油断だけはしてはいけません。心に隙間があれば「まさか」が起り得る場合があるからです

「風が吹けば桶屋が儲かる」という言葉がありますが、その確率を計算した人がいます。

それが、なんと“0.8%”なんです。

 

それでは「風が吹けば桶屋が儲かる」というのは多くの人は御存知であろうと思いますが、再度失礼ながら書きます。

 

1.大風で土ぼこりが立つ

2.土ぼこりが目に入って、盲人が増える

3.盲人は三味線を買う(当時の盲人が就ける職に由来)

4.三味線に使う猫皮が必要になり、ネコが殺される

5.ネコが減ればネズミが増える

6.ネズミは桶を囓る

7.桶の需要が増え桶屋が儲かる

 51BK1MNXFQL

 

さて「伝聞」というのは實に「人間」を良くしていく場合もあるが、「駄目」にしていく場合もある。

 

トキさんが

大量の退会者が出たそうです (15308)

日時:20190721 () 2234

名前:トキ

 選挙が終わったので、書きます。

 

 教区の事務局によれば、3度目の教団の政治宣言を理由にして大量の退会者が出たそうです。おそらく、他の教区でも大量の退会者が出たことは容易に想像できます。最初、「今回のみ」と言っておきながら、何度も同じような宣言を出すので、さすがに「大嘘付き」という印象を持ち、信用できないという事になったのでしょう。

 

 そうなると、現場の幹部は、ますます本部の方針に疑問を感じるようになります。

 

 教区では、一人でも多くの新人を、という方針で伝道をしています。ところが、せっかく会員を増やしても、総裁が思いつきで好き勝手な方針を決めたら、それに反発して大量の退会者が出ます。

 

 これでは、せっせと伝道をしている現場の人間にしたら、賽の河原で小石を積み上げているような感覚になります。そのため、なんとか本部のアホな方針を信徒には隠そうと努力しているのですが、何せ、今はネットというものがありますから、信徒には知れ渡り、結果、大量の退会者を出すだけの結果になります。

 

 この先は、どうなることやら、いい加減にして欲しいと思います。

 

ただ、トキさんを擁護すれば確かにこれは事実であるが、「トキ」さんはいったい「谷口雅宣」総裁を擁護しているのか、「学ぶ会」を援護しているのか、どちらなんだと思うであろう。しかし、このような「トキ」さんの言葉を発言する人は実際のことを考えると多い。  
 

地方などでは多くはそうした発言であろう。内部では決してそんなコトバを発しないが、親しい人だけには眞實を話をするであろう、ウワベだけでは人間はわからない。あの、スリ-パ-・セルという総裁の言葉である。

 

あの言葉の意味をなすのは「総裁」は信徒の誰も信用していないという言葉の裏返しになるわけです。それ以前には「原理主義」という言葉で古参の信徒を排除した。これも内部を恐れているわけなんです。それは、おのれ自身が行った過去を見ればわかるのであるが、あまり善徳を積んでいないことは誰が見てもわかるであろう。實の母を排除するのであるから、なんという人間であろう。人を信用できないから、そんなコトバが出てくるわけです。

 

今は昔と違って、インタ-ネットを通じて、いろんな情報が飛び出す。あのアメリカ大統領のFacebook により、電撃的な北朝鮮訪問が実現出来た。だから、伝聞ではなくSNSで実際に写真を貼付したりして、よりリアルなことで発言するのもよしである。

 

伝聞というのは「誇張」したり「嘘」が入る場合がある。だから誰かに確かめたりするのがいいのである。「私は出来る」という確信もいいが、その確信というのは結構「確かめたり」「検証」することをしない。自分の思いだけで自由に発信する場合は自分のブログではよいが、掲示板などであくまで「自分の主張」が正しいと意見するのもよくない場合がある、意見する場合は根拠(左右)や「確信」が必要である。

 

 「答えを決めるのは、(中略)『法律家共同体』のコンセンサスです」。憲法解釈は、国民が選挙を通じて選んだ政治家ではなく、憲法学者が決定するというのである。

 

著名な憲法学者の長谷部恭男氏が発言した言葉である。いったいこの憲法学者は何様であろう。一定の尺度しか法律をみれない、この「憲法学者」は私の考えで断じていい。「憲法学者」ではない。物事には「様々」な考えがあり、それを排除する必要のある意見もある、だが重要な場合もある。それを見究める能力がなければ、駄目である。

 

最近の「学ぶ会」誌の或る人の意見に疑問も多い。それは違うであろうという意見である。その人は幹部の人だから、周囲の人は何も言えない環境になっているからである。現在の「雅宣」氏の環境に似ている。こんな時どうすればいいのであろうか?

 

意見を云えば「村八分」にされる。排除されるであろう。

 

私はそれこそ自分が要職だからこそ、意見を聴く姿勢というのが必要である。自分がなんでも知っているのではなく、他人の意見を聴いて間違っているかどうか、確かめることも必要である。それにより、より斬新な意見も出てくるであろう。間違っていることが本当に発見することもある。意見を云って下さる人を反対に重宝すればいい。自分の弱点を云う人に感謝することである。否、弱点ではなく「大切なこと」を知らして戴ける人である。それを自覺して進めばいいだけである。

 

何事にも「総本山」「宇治別格本山」が“無い“というようなつまらない噂に左右されることなく、人に云う前に自分で確かめる必要がある。別に行かなくても「インタ-ネット」や電話があるのだからそれによって確かめればいいだけの話である。

『生命の實相』單行本という存在

戦後昭和23年頃から30年にかけて“『生命の實相』單行本”という名称で『生命の實相』全集以外にそういう存在があったことも知らない人も多い。

谷口雅春先生は『明窓浄机』戦後篇において、(頁135136)は

○久しく待望されてゐた『生命の實相』第一巻及び、その書店單行本版『生命の神祕』が愈ゝ發行されました。(後ろから2行目)

 

私はその『生命の實相』單行本というのは、どれがどの本かを知らなかった、ただ知らなかったと謂えど、20巻の中から8巻程はわかっていたが、それ以外は全く知らない。本のはしがきに書いているのですが、書いていない場合も多くあります。私はその存在を知っていたのは『生長の家三十年史』に記載があるからです。

ただ、それが何巻かは記入されていない。また10巻しか記入されていない。それを理由にまったく不明の儘にしていた。

 だが今回『谷口雅春先生著作年譜一覧表』作成にあたり、間違って同じ一巻に二つの本を入れてしまった。ある方から指摘を戴いて、嗚呼、調べないでいた結果である。

 今日はそれに時間を割いた。それでも九巻、十二巻、十五巻~十八巻は不明です。もし御存知であれば教えて下さい。

また、その下段にある「谷口雅春選集」の本を選定するにあたり、出版年月日を記入しました。但し、『聖道へ』は戦前に出版された本を再版されています。

『生命の實相』単行本版

第一巻

生命の神秘 

 

第二巻

生命に到る道  

 

第三巻

現實の救ひ  

 

第四巻

光明の健康法    

 

第五巻

人間の運命

 

第六巻

地湧の浄土       

 

第七巻

生活の値打       

 

第八巻

運命の神秘 

 

第九巻

 

 

第十巻

神を見るまで     

 

第十一巻

『甘露の法雨』講義

 

第十二巻

 

 

第十三巻

人間を作る法

 

第十四巻

久遠生命の道 

 

第十五巻

 

 

第十六巻

 

 

第十七巻

 

 

第十八巻

 

 

第十九巻

毎日の修養  日輪めぐる

 

第二十巻

あなたの愛兒

 

 

 

 

谷口雅春選集

第一巻

神癒への道

S24.11.10

第二巻

幸福の原理

S27.11.22

第三巻

生命の謎

S26.6.10

第四巻

心と運命

S28.9.13

第五巻

健全の眞理

S274.25

第六巻

親鸞の本心

S28.9.20

第七巻

聖道へ

 

第八巻

人間性の解剖

S24.2.01

第九巻

人間死んでも死なぬ

S28.2.20

第十巻

優良兒を作る

S28.3.20

第十一巻

善き人生の創造

S28.12.12

第十二巻

人生は心で支配せよ

S24.2.01

第十三巻

美しき生活

S23.5.10

第十四巻

祈りの科學

S24.12.25

第十五巻

戀愛・結婚・母性

S27.3.20

第十六巻

愛と光との生活

S24.1.20

第十七巻

運命の原理

S21.10.01

第十八巻

靜思集

S22.12.25

第十九巻

限りなく日本を愛す

S28.11.20

第二十巻

善と福との實現

S23.12.20

第二十一巻

光明の健康法

S25.8.25

第二十二巻

生活と人間の再建

S29.4.28

第二十三巻

叡智の斷片

S24.2.01

宇治の事件と地名

京都アニメで悲惨な事件があって久しい。

 私はあの辺りをかなり詳しく散策したことがあるので地形はよくわかる、また宇治川がすぐ南にあるので、水害とかで昔から苦しめられた地域でもある。あの「太閤堰」も直ぐ近くにある。

 ちょうど菟道稚郎子御陵(うじのわきいらつこ/うぢのわきいらつこ)の横に遺跡として残っている。

 ただ、宇治川をはさんで南側にも巨大な太閤堰があったことが知らされている。

 

 京都の難しく読みづらい言葉として一口(いもあらい)という言葉がありますが、宇治川が氾濫するとこの地域の南側がすぐに巨椋池がありますが、その一帯が湿地帯となり、住めるような地域でもなかった。ただ現在の京阪宇治線付近になると標高も高くなり、街道も発達して、往時から行き来があったのではないかと推測出来る。一口はその巨椋池の西側にあり、「忌みを祓う」という語源ではないかという説は信憑性がある。湿地帯というのは毎年川が氾濫し、洪水だけではなく、疫病が流行り、そうしたことを神仏の助けを借りて、人々は信仰を篤くしていったのではないか。(”いもあらい”とパソコンのキーボ-ドで打てば「一口」と出て来ます)

 

 この六地蔵にも「小野篁」というこの世とあの世を行き来した人物が来て、六像を祀ったとされている。何故祀ったのかというと、沢山の人々が洪水とかで亡くなって、それを祀る為ではないかと思います。(小野篁に関しては六道珍皇寺や千本ゑんま寺など行かれたらその人物像に触れることが出来ます)

 

 この地域は六地蔵の大善寺や黄檗寺など有名な寺院も多いが、昔はこの地域は藤原家の菩提寺が沢山あった。

 六地蔵、木幡、黄檗と広範囲にある。現在、宮内庁の「宇治陵」の管轄には

藤原温子/藤原穏子/藤原安子/藤原遵子/藤原(女皇)子/藤原懐子/藤原詮子/藤原彰子/藤原超子/ 藤原(女成)子/藤原妍子/藤原威子/藤原嬉子/藤原寛子/藤原歓子/藤原茂子/藤原苡子/藤原生子/敦実親王/敦道親王(以上陵墓制札による)

  

 藤原冬嗣/藤原基経/藤原時平/藤原兼家/藤原道隆/藤原道長/藤原頼通/藤原師実

 

 木幡の近くには上記(8人)の藤原家の人が祀られているが、どの人がどの場所であるかがはっきりとわからない。ただ、宇治橋からすれば宇治川が北側に水が流れており、東側が山になっている。その為標高も高くなり、宇治陵も大きくなっている。道元もこの木幡で生れたとされている。(山間に生家といわれている場所があります)

 

 さて、京都には「四神相応」という言葉があるが、宇治は京都からすれば南側にあたる。

【北】玄武 背後に高い山

【東】青龍 東に清き流れ

【南】朱雀 広く開けた湿地帯

【西】白虎 大きな道が続く

 

その南側の朱雀である地域は巨椋池があり、湿地帯でもあった。
history02_p02

 

 

宇治(うじ)は菟道(うぢ)が本来の語源である。「うち」とは「中(うち)」であり、宇治別格本山を行かれたらわかりますが、宇治川に北側は開けていますが、その三方は山に囲まれている、己がその中心に座しているような心境になる。

 目を閉じてみれば、まるで極楽浄土の世界觀があったのではないか。それが「宇治鳳凰堂」でないかと思っています。

 

また、橋姫伝説を御存知であろう、あの「丑の刻参り」で有名である。これには全く真逆な二説がありますが、宇治橋の守り神であるのは確かであります。

 

◆『平家物語』による橋姫 日本伝承大鑑より抜粋

ある公家の娘が嫉妬のあまり貴船神社へ詣でて鬼になることを願った。そして7日目に貴船の神託があり、姿を変えて宇治川に21日間浸かれば鬼と化すという。そこで女は髪を松脂で固めて5つの角を作り、顔には朱、身体に丹を塗り、頭に鉄輪をかぶってその3本の足に松明をつけ、さらに両端に火をつけた松明を口にくわえて京の南へと走り、宇治川に浸かって生きながら鬼となったという。そして念願通り、人々を取り殺したという。さらに室町期に後日談が作られ、この橋姫は安倍晴明によって封じ込められ、源頼光四天王の渡辺綱らによって退治された。そして祀ってくれるならば京を守護すると言って宇治川に身を投げて龍神となったという。このあたりの伝承や創作から謡曲『鉄輪』が作られ、丑の刻参りに繋がっていったと見るべきである。

 

◆『山城国風土記 逸文』による橋姫 日本伝承大鑑より抜粋

つわりがひどい橋姫は、夫に海草を採ってきて欲しいと頼む。そして夫が海辺で笛を吹いていると、美しい龍神が現れて婿に迎えてしまう。そして3年経ってようやく橋姫は夫の所在を尋ね当てる。夫は竜宮の火で作られたものを食べることを嫌い、老女の家に食事に来るという。そこで二人は再会するが、泣く泣く別れることになる。その後、夫は橋姫の元に戻ってきた。

このときに夫が詠んだとされる歌が、詠み人知らずとして『古今和歌集』に収められている。「さむしろに衣かたしき今宵もや 我をまつらん宇治の橋姫」

この悲劇のヒロインの流れを汲むのが『源氏物語』第四十五帖【橋姫】に登場する大君と中の君であると推察できるだろう。

 

 

これを読んで頂きました皆様、極楽浄土と餓鬼の世界、つまり六道の地蔵菩薩の六分身をいう。生前の行為の善悪のいかんによって,人は死後に,地獄,畜生,餓鬼,修羅,人,天という六道の境涯を輪廻,転生するといわれる。そうした世界觀がこの宇治や伏見という地域に根付いていたのではないかと推測しています。極樂の世界にあるなかで、人の心の醜い處、地獄や畜生の世界を現実に持った人。本来そんなものは「無い」とはいえど、「現象」世界では醜い世界が蔓延している所があります。

 

今回の京都アニメでは若い命が失われています。犯人は自分の「心」だけを唱え、それを勝手に正しいと解釈して犯行に及んだとされています。今回の選挙に関連しても同じことがいえます「安倍政権」を自分が気に入らないからという理由で「愛国掲示板」に書き込みをしていました。ああ、この人は世間知らずのボンボンである。少し間違えると「犯人」の世界觀と同一になってしまう。

 

一言云いたい、安倍政権ではなく「日本」を護ってくれる政党であろう。こんな人には「日本觀」が缺如している。どうしたら「日本が救われるのか」谷口雅春先生の書物を讀むと、そのあたりのことがわかるのですが、とても残念であります。そういう人は「片手落ちの日本觀」なのです。その片方が無くなってしまうと、間違った解釈になってしまうのであります。

 

大善寺とは

京都市伏見区桃山町西町にある浄土宗の寺、大善寺の通称。境内地蔵堂に等身の石地蔵立像を安置する。もとは六体あったものか。小野篁(おののたかむら)が冥土で生身の地蔵菩薩を拝し、娑婆に帰って一木で六体の地蔵尊像を刻み、ここに安置したと伝える。また、大善寺付近の地名。京都市と宇治市とにまたがる。


宇治陵は一号(遥拝所)から37号まであります。二回程巡拝しました。

https://umap.openstreetmap.fr/ja/map/map_164538#15/34.9249/135.8089

相手を拜む心

私のような個人的に「谷口雅春先生」という偉大な人物にふれ、様々な事柄を探究していくと「生命の實相」に日付や名称などの間違いがあります。ただ、それを修正するかどうかは、個人的な見解に分れるものだと思います。ただ、後世においての間違いはやはり修正すべきだと思っています。『生命の實相』はそのままにして欲しい。

 

 私が指摘した『尊師 谷口雅春先生の偉大なご生涯』の綾部新聞という記載ですが、今年の4月にその本を見た時には、修正されずにそのままで販売されていました。間違いを指摘したのが、昨年の59日でした。しかし、修正しなかったのか、忘れたのかわかりませんが、やはり考えるべき点であると思います。

ただ、私でもそうした編纂に直に関わると、言い訳ですが間違いが多く山積してしまう場合があり、それを考えてみると人を責めるようなことはしないようにしたい。

 

ただ、その編集長の心づもりというのが大変大切になってきます。それは素直な気持でいる人物かどうかであります。幸い私の場合はそういう「間違いの指摘」は大変有難いと思っている人物ですので、ドンドンと指摘して欲しい。今回も見て頂く人物も多く有り。本当に有難いなと思っています。間違いは早く修正するようにしています。

 

 その心づもりというのは意外と出来そうで出来ない。それは自我というのが強い場合に起ります。自分が正しいというのを強調しすぎて、多くの人との調和を生かせなくなる場合です。そこで大切なのは「ひょっとして私、間違っているかもしれない」という気持ちも反対に大事になります。そこからもう一度調べるのも大切なことであります。

 

そうした素直な気持が大切なんです。それと度量も必要です。それは間違った相手を責めるのではなく、拜む事です。相手を拜むことにより、本当の真我というのが見出せるのです。

常に相手を責めたり、責任追及をしていても、自分の實相(本当の心)が心に満足というものがあるかどうかであります。それにより、自己が満足出来ても、相手が不快になったり、傷つけられたりしていないのかを考える。

 

今回の『霊性の目覚め』という事について、そのように観じたのです。

『霊性の目覚め』について

私はその件についてある方から詳しく説明を受けました。

内容は前に書いた内容と詳細を付け加えた内容です。

 

 それは、私の出版した『谷口雅春先生著作年譜一覧表』の挨拶文で私の知人が書いていたことに触れ、

「この内容は違うのだ」

「実はこういうことなんだ」

『霊性の目覚め』についても説明を受けました。しかもその説明で、谷口清超先生が『聖使命』で詳しく説明していた内容もお聞きしました。

 

 まあ「本音の時代」さんは納得しないのであろう。まあそれは致し方ない。

 

 ただ、私ならば「きっちりと調べます」『聖使命』新聞があるならば、それを探します。

 また、当時の「谷口貴康先生」にお聴きします。

 

また、私の聴いた先輩を紹介しますので、礼を尽くして聞いてください。今回の「学ぶ会」誌で問題なのは風聞での内容を書いていることです。もう少し調べてから書くようにしないと、それを信じる人がいることなんです。それはW先生の話です。

夫々の事情というのがあります

私はこの件で前にその理由を軽く書きました。また下記の文は初版でも張り替えられた文章です。初めの文章内容は少し違いますが、変更した理由も谷口清超先生が『聖使命』にお書きになられています。簡単に云うと「多額な税金」が個人にかかるからです。変更した内容も考えてみれば納得出来る内容なのです。「学ぶ会」代表で元日本教文社社長がこんなことを書くのはおかしい。少しは自分自身の責任というのを感じないのであろうか。

「事情通」の書かれていることはその通りであります。校正をしっかりしないと少し曖昧さの残る文章でしたので、そのような処置は正しい。

 

聖典重版保留第1号 『霊性の目覚め』は昭和61年2月末、谷口清超先生の直接の指示 (「学ぶ誌」平成30年5月号に掲載された学ぶ会代表の記事)

学ぶ会の代表は何故、そのようになったのかを一番よく知っている人です。知れば書かないのが通常であります。

 

 

『霊性の目覚め』初版 171頁

 ここは生長の家が東京に移転して最初の、東京における拠点になった歴史的存在の土地であり、記念の建物であるから、そんな歴史的な記念の土地および家は保存しなければいけない。生長の家の永久の歴史的史跡として、保存すべきところであるという訳で、「これは本部で保存します」ということにしてあるんです。

 これは、寄付したら、私は固定資産税が要らんのですが、先生は税金逃れのために寄付した形をとったと勘ぐる人があるといかんから、僕は生きとる間は、僕が税金を払うから、それで死んだら、創始者の記念すべき住宅になるという、そういうことにしてあるんです。だから、わたしは“待たずして持っている”。(拍手)

雲巌寺 顕日王墓 後嵯峨院皇子

雲巌寺 顕日王墓 後嵯峨院皇子

八溝山地のふところ深く、清らかな渓流に沿う境地に、臨済宗妙心寺派の名刹、雲巌寺があります。

 

 筑前の聖福寺、越前の永平寺、紀州の興国寺と並んで、禅宗の日本四大道場と呼ばれいるこの雲巌寺、俳聖松尾芭蕉は『啄木(きつつき)も庵(いお)は破らず夏木立』の句を残しています

 

当国雲岸寺(なぜか芭蕉は雲岸寺と記しています)の奥に仏頂和尚山居跡あり~。芭蕉がどうしても見たかったという、仏頂国師が書き残した句は『縦横の五尺にたらぬ草の庵、むすぶもくやし雨なかりせば』。いかに小さな庵であったかが、想像できます。

 

 以前に鎌倉の建長寺で顕日王として分骨された陵墓を紹介させていただきましたが、今回は最後の庵となった雲巌寺です。墓までは通行禁止となっている為、参拝は出来ませんでしたが、風光明媚な場所でも知られている。

 

後嵯峨院の皇子という。母は不詳。字は高峰、諱は顕日。

 康元元年(1256)、出家。東福寺の円爾弁円(聖一国師)と来朝僧兀庵普寧(ごったんふねい)に学んだ後、関東を行脚し、下野国那須に庵を結ぶ。弘安二年(1279)、上野国長楽寺で無学祖元に謁し、以後弟子となる。同四年、鎌倉建長寺において無学より伝法衣を授かる。弘安六年(1283)、北条時宗を大檀越とし、那須黒羽に雲巌寺を開山。同寺には仏国を慕って多くの僧が集まり、その中には夢窓疎石もいた。晩年は鎌倉浄妙寺・建長寺他の住持を務めるなどしたが、正和四年(1315)那須に帰り、翌年十月二十日、雲巌寺にて遷化。七十六歳。仏国国師と諡号され、のち応供広済国師と追諡された。墓は雲巌寺境内にある。

 『仏国禅師集』(「仏国国師御詠」など、標題は様々)がある。風雅集に二首、新続古今集に一首。冷泉為相との交際が風雅集所載歌から知られる。

 

月ならば惜しまれてまし山の端にかたぶきかかる老いのわが身を

 

夜もすがら心のゆくへたづぬれば昨日の空にとぶ鳥の跡

 

しげりあふ峰の椎しば吹きわけて風の入れたる窓の月影
IMG_2727
IMG_2728
IMG_2729
IMG_2730
IMG_2731
IMG_2732
IMG_2733
IMG_2734
IMG_2735
顕日王の墓の前
IMG_2736
IMG_2737
IMG_2738

https://www.mapion.co.jp/f/cocodene/view.html?token=d249e3ed18f03bd99cac0a0c87d71667

闇の宗教

「生長の家」失われた35

生長の家は「生政連」を脱退してから、おかしくなっている。私は「生政連」を脱退するのを別に反対しているのではなく、そのやりかたが余りにも、急拵えの産物であるかを知っている。何の生政連の地方幹部も知らないまま一方的に通達のみで報告した。

 

谷口清超先生の生政連の活動停止宣言(昭和58715日)

<<このような状況に於いては、吾々の運動は立教本来の布教使命の自覚と人類光明化運動の根本的な基盤確立が欠くべからざるものとの観点から、出来るだけ多くの国民の中に『人間神の子』と実相日本の霊的使命を伝道し、全世界の組織網を確立する事が急務と考え、生政連活動は停止されたのであって、決して後退したのではない。

 

 それは新たなる前進である。今後は、人間神の子の真理・真理国家日本の理念を自覚した国民をもっともっと多数生み出すことにより、そうした国民の正信がおのずからに、政治家は勿論、凡ゆる階層の人々に反映され、生活・教育・家庭・事業、政治の変革が実現するような状況をつくり出して行こう、とするのである。

 

 それはこれまで以上に幅広く、根の深い雄渾な活動への重大な第一歩と云えるであろう。こうした目的を達するためには、生長の家の各組織を拡大・充実させつつ、飛躍的な教勢拡大を図るほか、安易な道はどこにもあり得ない。そしてそれこそが、人類光明化運動の原点でもあるのだ。吾ら信徒一同、この原点に立ち、菩薩行に邁進したいと決意を新たにする次第である。>>

 

 実際はどうであろうか、教勢は1/4も減退し、更にこれからも減少の一途を辿ることは、誰がみても明らかである。ここでいう『真理国家日本の理念』とは如何なるものであるのか?

 それを現総裁は継承しているのであろうか?勿論、真逆なことを行っている。谷口雅春先生の御意志など全く無視をして、自己勝手流の唯物論的な宗教に成り下がっている。

 それを崇める信徒も居るのだから、笑い種である。これこそ「カルト宗教」そのものではないか。やることなすことが全てマイナス要素となっているのが現状であろう。情けなくなるような現実であることは、信徒も大半が知っていることであろう。

 

 また、今般の選挙では「野党を応援しない」という通達を三度出している。どこまで「谷口雅春先生」を裏切る行為が出来るのであろうか、将来「生長の家」を悪魔に売った人物として言われるだろう。まあ、この人に云っても無駄な事は承知である。普通はいろんな意見を聴くものであるが、ドグマに犯され、立憲主義も出来ない、野暮な人である。また、嘘を付くことにより、悪循環になっているのであろう。本当の宗教家は「ウソ」はつかない。

教えて下さい。

 下記の二点、御存知の方が居られましたら教えて下さい。

 

昭和2730年頃にある雑誌に「日本を救ふ道」という論文を書かれています。

『限りなく日本を愛す』に収録。(『解放への二つの道』にも収録)

どの雑誌か御存知の方がおられましたら教えて下さい。

 

また『光雲』という雑誌に多分昭和281月号に谷口雅春先生の御文章が掲載されています。

 その雑誌の発行されたのはどの出版社かを御存知の方がおられましたら教えて下さい。(『解放への二つの道』に記載されていますが、はっきりした年代が記入されていません。

『生命體國家としての日本』

やはり、谷口雅春先生の著作を讀まないと下記のような質問がでるのだと痛感した。

 

実相世界には「国」も「国境」もないのですか?

大切な事でしょう。でも、国について書かれた聖典が絶版されていてわかりません。

どうか、教えて下さい。私は、なんだか、とても、おかしいと思います。

 

このような質問はよくありがちなものです。抽象論のような概念でその国とかは本来無いとか、全てを否定したら「好い国になる」と間違った概念は、そういう思想が出るのは「その人にハッキリした國の概念がないからそうなるのです。」

ヘ-ゲルのようなそれぞれの国民が作り出す「精神」というのを前面に押し出すような考えは私達日本人にはないそれはキリスト敎という「宗教的觀念」がはっきりしているなかで、自由というのは闘争の中から生み出している考えがある。

所謂、「弁証法」とか「観念論」がある。

『解放への二つの道』にはそうしたなかで、客観的に存在する世界は、永遠不動の世界ではない。全ての事物は発展過程の内にあるという。マルクス唯物弁証法を唯一の「眞理」であると言わしめた。(頁119

 

 人間が永遠不動の完全な世界などは人間の唯の空想に過ぎない。そんなものは存在の眞實を捉えていない。

 この人には『生命體國家としての日本』として捉えるならば少し理解していただけるのではないか。

新選谷口雅春選集第五巻

下記の目次は以前に掲載させていただいたのですが、頁数はなく詳細が必要と思い、今回掲載させていただきます。

こうした掲載は当時の時代状況もありますが、それを秘密にしたり、発行停止にするのは私はいけないことであると思っています。
全文は著作権に於いて禁止行為ですので、目次ならば何の違反にもなりません。出来る限り沢山の人に見て頂きたい。これも『谷口雅春先生著作年譜一覧表』のごく一部の掲載です。いずれは全文も見れるように、また発行出来るようにしたい。

新選谷口雅春選集
5巻 をんな生ける意義あり

昭和4121

はしがき

1章 女性の本來のすがたを知る章

章のはじめのコトバ/2

その1 女性はもつとくならねばならぬ

コトバの正しいはたらきを身につけて/3

人生相談の色々の手紙から/6

此の世界は男性ばかりの世界ではない/7

妻である前にひとりの人間として/8

離婚は神の道に背くか/9

もっと深い宗教的解決法/11

その2 女性が職場て働くのは本性ではない

最近の婦人論の偏向/14

女性のあたりまへの願ひ/17

男女同権といふことは/19

女性の地位が不安定なのは/19

女性自身の本當の仕事/21

母となることが女性の役割/22

その3 それでも女性は倚りかゝる―古事記神話にあらはれたる女性優位について―

昔は女性は太陽であった/25

男性と女性との天分の相違/28

兩性の交合の意義/29

神話とはどんなものか/31

アメリカに何故小兒マヒ患者が多いか/33

女性が勝てばかうなる/35

“左利き”の心的原因/36

それでも女性は“たよれる男性”を求める/36

その4 女はやはり女であること

自ら去った妻の場合/40

素直に受入れる心になったとき/41

女なるものの理想像/45

心が變れば肉體も柔く温くなる/49

その5 科學と共に進歩する女性

夫や子供に取り残されてはならない/52

忍從の女から考へる女へ/55

人間が地上に出現した目的/56

家事もまた藝術ではある/56

家庭生活に向かない婦人は/58

結婚生活を營まねば靈魂の發達が偏るか/59

アメリカの女性の歩みから/60

2章 幸せな結婚のための章

章のはじめのコトバ/66

その1 新しき家庭を造る人のために

女性の魂の奥底からの願ひ/67

落着くべき婦人の本當の座/68

男性の魂の底なる眞の願ひは/70

人間は孤獨でゐれば堕落する/71

家庭の理想像を心に描いて上昇する悦び/72

“家庭”を築きあげて行く悦び/73

茶道の“わび”は日常生活の中にある/75

主婦の家庭の食事のことにもっと關心を/76

その2 結婚はもつと愼重でなければならない

經濟力のある若い女性は覘はれてゐる/79

ある覘はれた女性の話/81

覘はれた女性第二話/83

愛情は他の男にあったのに/85

結婚は眞に愛する相手とすべきもの/88

その3 感傷や同情で結婚してはならない

『わが愛の記』によせて/92

“犠牲的力み”は相手を不幸にする/95

妻は夫から叱られたいもの/98

代償的生活だけでは滿足できない/100

その4 夫婦互ひに良き半身となるには

日本の女性が結婚してしまふと/107

西歐の家庭生活/109

夫婦が永久に仲よく暮すには/113

生長の家の夫婦生活/115

その5 あなたは良人の魂の願ひを知つてゐるか

人生劇場に於ける男女の役割/118

“女らしい”といふ特徴は?/119

妻に頭を下げないのは良人の缺點ではない/121

かく柔い母性愛の郷愁/122

良人をあまり強く把んではならない/124

慾情を昇華して純粋の愛となる年齢/126

良人の暗默の願ひを無視してはならない/127

その6 夫婦の道を象徴する正月の行事に就いて

心の鏡としての鏡餅/130

水火・陰陽の調和/131

本來平等と位相随順/132

一體となったものは腐らない/133

偕老同穴のよろこび/134

古代からの日本人の生活理想/135

妻の幸せは“女であること”/136

3章 家のなかでの夫と妻の座についての章

章のはじめのコトバ/144

その1 夫婦の倦怠感と離婚について

何故離婚が増加したのであらうか/145

良人は妻を性快感の對象にしてゐるのではない/148

性感の増減は肉體の問題ではない/152

新しき結婚/153

夫婦の倦怠期を避けるには/155

その2 離婚の原因は女性の心の中にある

捨てられるのは貞操觀がよろめいてゐる/159

對象の新寄性と肉體の魅力/160

“性”的索引力は必ずしも變愛ではない/162

打算で愛のない結婚をしてはならない/163

『病める丘』に出てくる敦子/165

その3 離婚沙汰の起つた場合

妻の言ひ分/170

形に現れる前に/171

良人を迎へる妻の姿から/174

良人の實相を信じたとき/177

4章 苦しみの中に光を見出すための章

章のはじめのコトバ/182

その1 良人が放蕩生活に陷つた場合

汝みづからを知れ/183

心はすべての造り主/185

言葉は萬物を造り出す/187

夫婦・母子・嫁姑の問題を解決した實例/188

良人の實相を拜むといふこと/191

良人の放蕩が止った實話/194

良人の態は妻の想ひの反映であった/202

その2 良人が不治の性病に罹つた場合

暗黑の中を照らす光/204

戰火のショックを受けて/205

生長の家にふれる/207

醫師が潜伏黴毒と診斷す/208

夫の不理解が妻の壁/209

夫婦の協力は日常の働きかけから/212

/215

夫の實母に祈る/216

つひに病氣消える

病氣になりたい意志

“病氣”と稱する“隠れ蓑”/220

神への無条件降伏の心境/222

つひに“實相”獨在の眞理を知る/223

その3 嫁と舅・姑關係の明暗

嫁は“家”の中の他人か/226

心の世界は一つ/228

かたくなな姑もかうして變った/230

5章 母となるよろこびのための章

章のはじめのコトバ/236

その1 もつと女性の人權と母性を保護せよ

堕胎の公許によって/237

この事實をみよ!/241

日本婦人は家庭で奴隷化されてゐる/243

“子づくり”から“國づくり”へ/244

その2 惡阻と分娩時の苦痛を避けるには

快樂分娩は實際に可能か/246

何故惡阻が起ったりするか/249

快感分娩の體驗/252

人工的な力みはいらない/256

その3 子寶を得る心境と無痛分娩

ここにこんな人が/259

結婚二十年めの三十七歳で妊娠/260

無痛で男兒を安産/268

四十二歳で再び無痛分娩/273

不妊症といふのは/276

妊娠や出は健康のはたらきである/278

6章 明日の愛と幸せをつくるための章

章のはじめのコトバ/282

その1 夫に死別し娘を嫁がせた淋しい婦人の生きる道

“ひとり住ひ”の婦人の場合/283

生活の明るい面をみつめることから/288

“すでにある幸福”を發見するのは/290

社會に向って新しい愛の心を/293

その2 鮫肌を苦にしてゐる自殺未遂の女性

生まれつき皮膚のガサガサで劣等感に惱む娘/297

親に逆らひ立つ心/300

親の再婚を憎んで/301

裝の娘に逢ふ/302

“父”とか“母”とかは肉體のつゞきではない/308

深い懺悔と𢌞/311

父母に詫びて鮫肌は消えた

7章 近頃問題になつた事柄を考へる章

章のはじめのコトバ/316

その1 酒亂の父(良人)は殺すほかに道はないか

原因はどこにあるか/317

バタヤ部落における少女の父親殺し事件/318

洋子の話/319

母フミの話/323

妻の心境の分析/325

夫を拜み父母と和解して夫が更生した實話/326

その2 不良兒童は本當はゐない

―教育大學教授草島時介氏の長男の場合―

“この息子をどうすればよかったのか”/334

“不良性格”と認めてしまったのが失敗/336

“少年の街”エディ少年はかうして善良になった/338

彼に内在する“正義感”を見出して/340

ある花嫁學校の生徒の實例/343

草島時介氏の場合/346

子を愛しながら、何故、子に背かれるか/347

十餘年の極道生活から起ち上った靑年ぼ話/351

その3 家庭的愛情に惠まれない婦人のために

新しい運命を開拓せよ/357

孤獨な魂/359

前世につながる宿命/361

愛と深切をつくすことで境遇が變る/366

その4 〝働き三昧〟と〝遊戲三昧〟

働くことと遊ぶこと/368

近頃の價値理論の偏向/370

目的を離れた價値はない/371

人間は何のために存在するか/374

“働き”が尊いのは/375

“遊び”の積極面/377

“働き三昧”と“遊び三昧”/378

日々是好日/380

嗚呼忠臣楠子之墓

masasige3

 これだけ楠木正成の事を知っていると思っていたのが、こんなことも知らないのかと自分自身を嘆いた。

それは「嗚呼忠臣楠子之墓」ですが、これは楠子だから、正成と正行の事だと勝手に思い込んでいた。

 

此処で何も疑わずに思い込んでいたので、間違いにも気が付かない。

 

75日の産経新聞に

 

 大事がなせたのは文武に秀でた帝の徳のためで、自分の微力は何ほどの功績もなかったというのである。正成の尊皇意識は後世、水戸光圀を感動させ、湊川神社の起源となる正成の墓所造営へつながる。

 <嗚呼忠臣楠子之墓(ああちゅうしんなんしのはか)>

 境内に立つ墓碑の碑銘は、光圀の筆によるもの。但野氏は「『子』とは『先生』という意味で、光圀という人物が、それだけの表現で正成公を絶賛したことに重みがあるのです」と強調する。

 

私の知識不足を嘆くしかない。DSC_0044
DSC_0046
DSC_0047
DSC_0045
DSC_0048
水戸光圀像
201603241652027c0

 

「飯山の昼行灯」より抜粋させていただきました。

■ 明治天皇御製「湊川懐古」

    あだ波を ふせぎし人を みなと川 神となりてぞ 世をまもるらむ

 

 

 ■ 吉田松陰ゆかりの楠公墓所 ~吉田松陰と楠木正成公(楠公)~

    松陰は、楠公墓前に 4 度も参詣しており、墓碑の拓本を表装し、松下村塾に掲げて久坂玄瑞、高杉晋作、入江九一、吉田稔麿など

   沢山の門下生に楠木正成公の話を熱く語って聞かせ、尊皇攘夷に駆ける彼らを奮起させました。

 

 

   ~墓所に参詣した幕末の志士たち~志士達の楠公に寄せた思いや楠公墓前で誓った決意の歌などの一端の御紹介 です。

 

   久坂 玄瑞   「湊川にて みなと川 身を捨ててこそ 橘の香しき名は世に流れけん」

     入江 九一   「桜井の その別れ路もかかりけむ いまのわが身に思ひくらべて」

     吉田 稔麿   「日頃ながさん私の涙 何故に流れるみなと川」

     坂本 龍馬   「湊川にて 月と日の昔を忍ぶみなと川流れて清き菊の下水」

 

 

 ■ 水戸光圀公による楠公墓碑「嗚呼忠臣楠子之墓」

    元禄五年(1692)に、権中納言徳川光圀公(水戸黄門)は、家臣佐々介三郎宗淳を、この地に遣わして碑石を建て、光圀公みずから

   表面の「嗚呼忠臣楠子之墓」の文字を書き、裏面には明の遺臣朱舜水の作った賛文を、岡村元春に書かせて、これに刻ませました。

 

 

   大楠公御碑賛 読み方

      忠孝著乎天下日月麗乎天天地無日月則晦蒙否塞人心廢忠孝則亂賊相

      尋乾坤反覆余聞楠公諱正成者忠勇節烈國士無雙蒐其行事不可概見大

      抵公之用兵審強弱之勢於幾先決成敗之機於呼吸知人善任體士推誠是

      以謀無不中而戰無不克誓心天地金石不渝不爲利囘不爲害故能興復

      王室還於舊都諺云前門拒狼後門進虎廟謨不臧元兇接踵構殺國儲傾移

      鐘功垂成而震主策雖善而弗庸自古未有元帥前庸臣專斷而大將能

      立功於外者卒之以身許國之死靡佗觀其臨終訓子從容就義託孤寄命言

      不及私自非精忠貫日能如是整而暇乎父子兄弟世篤忠貞節孝萃於一門

      盛矣哉至今王公大人以及里巷之士交口而誦説之不衰其必有大過人者

      惜乎載筆者無所考信不能發揚其盛美大德耳

        右故河攝泉三州守贈正三位近衛中將楠公贊明徴士舜水朱之瑜字

        魯之所撰勒代碑文以垂不朽

 

 

   忠孝は天下に著き、日月は天に麗く。天地日月無ければ、則ち晦蒙否塞し、人心に忠孝を廢すれば、則ち亂賊相尋ぎ、乾坤反

    覆す。余聞く、楠公諱は、正成、忠勇節烈、国士無雙なりと。其の行事を蒐むるに、概見すべからず。大抵公の兵を用ふるや、

    強弱の勢を幾先に審らかにし、成敗の機を呼吸に決す。人を知りて善く任じ、士を體して誠を推す。是を以て謀中らざる

   なく、而して、戦克たざるなし。心を天地に誓ひ、金石渝らず。利の為に囘はず、害の為にれず。故に能く王室を興復して、

    舊都に還す。諺に云ふ、前門に狼を拒ぎ、後門に虎を進むと。廟謨臧からず。元兇踵を接し、國儲を構殺し、鐘

    を傾移す。功成るに垂んとして主を震す。策善しと雖も而も庸ひられず。古より未だ、元帥前をみ庸臣専斷して、大将

    能く功を外に立つる者有らず。之を卒ふるに身を以て国に許し、死に之くに佗靡し。其の終りに臨み子に訓ふるを觀るに、從容と

   して義に就き孤に託し命を寄するに、言私に及ばず。精忠日を貫くに非ざるよりは、能く是の如く整ひて暇あらんや。父子

    兄弟、世々忠貞に篤く、節孝一門に萃まる。盛なる哉。今に至るも王公大人より、以て里巷の士に及ぶまで、口を交へて誦説

    して之れ衰へざるは、其れ必ず大いに人に過ぐる者有らん。惜しいかな、筆に載する者孝信する所なく、其の盛美大德を發揚

    すること能はざるのみ。

       右は、故河攝泉三州の守、贈正三位近衛の中将楠公の贊、明の徴士舜水朱之瑜字魯の撰する所なり。勒して碑

       文に代へ、以て不朽に垂る

神武天皇「東征」ル-トを歩く㉜-高倉下(たかくらじ)―

『古事記』『日本書紀』での神武東征の役割では「高倉下」という人物がどうしても、表立って出てこない。私は不思議で仕方がなかった。何故であろう。

高倉下、この名前が『古事記』『日本書紀』から出典したときには、何の意味かわからなく、どうしても謎が解けないまま、神武天皇の東征が立ち止まったまま、時間が経過した。

高倉下、人物の名前であるという。兄猾(えうかし) 弟猾・弟宇迦斯(おとうかし)というように人物に“じ“や”し“を付ける。高倉下(たかくらじ)とは

 

『古事記』では

此時、熊野之高倉下此者人名一横刀、到於天神御子之伏地而獻之時、天神御子寤起、詔「長寢乎。」故、受取其横刀之時、其熊野山之荒神、自皆爲切仆、爾其惑伏御軍、悉寤起之。

 

 (現代語訳〉

 さて、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト 神武天皇)は、そこから南に回って行かれ、熊野村に到着されたとき、大きな熊がちらりと見え隠れして、やがて姿を消した。すると神倭伊波礼毘古命は、にわかに正気を失われ、また兵士たちもみな気を失って倒れた。このとき、熊野の高倉下(タカクラジ)という者が、一ふりの大刀を持って、天つ神の御子(神武天皇)の臥しておられる所にやって釆て、その大刀を献ると、天つ神の御子は、即座に正気をとりもどして起き上がり、「長い間寝ていたなあ」と仰せになった。そしてその大刀をお受け取りなさると同時に、その熊野の山の荒ぶる神は、自然にみな切り倒されてしまった。そしてその気を失って倒れていた兵士たちも、みな正気をとりもどして起き上がった。

 そこで天つ神の御子が、その大刀を手に入れたわけをお尋ねになると、高倉下が答えて申すには、「私が夢に見ましたことは、天照大御神と高木神の二柱の神の御命令で、建御雷神(タケミカヅチノカミ)を呼び寄せて仰せられるには、葦原中国はひどく騒然としているようだ。わが御子たちは病み悩んでいるらしい。その葦原中国は、もっぱらあなたが服従させた国である。だから、そなた建御雷神が降って行きなさい』と仰せになりました。これに答えて建御雷神が申すには、『私が降らなくても、もっぱらその国を平定した大刀がありますから、この大刀を降しましょう』 と申しあげました。この大刀の名は佐士布都神(サジフツノカミ)といい、またの名は甕布都神(ミカフツノカミ)といい、またの名は布都御魂(フツノミタマ)という。この大刀は石上神宮に鎮座しておられる。そして建御雷神は、この大刀を降す方法は、高倉下の倉の棟を穿って、その穴から落し入れることにしよう。だから、おまえは朝目覚めて、縁起のよい大刀を見つけて、それを天つ神の御子(神武天皇) に献上しなさい』 と仰せになりました。そこで夢のお告げのとおりに、翌朝私の倉の中を見ると、はたして大刀がありました。それでこの大刀を献上するしだいです」と申しあげた。

(以下略)

 

高倉下とは神を祀る高い庫(ほくら)(秀倉(ほくら)、「ほ」は火や穂のごとく、秀でて貴いという意)の主という意であろう。

『旧事本紀』によると、高倉下は物部氏の祖神・邇藝速日命の子となっている。また鎮魂歌に石上の布都の太刀を歌っているのをみると、宮廷の鎮魂祭儀に物部氏が参与していたと推察される。

この神話は石上神社の神剣をもって神武天皇の御魂鎮(みたましずめ)を図ったものと思われるし、鎮魂儀礼を表現したものであるといえよう。

(日本の神様読み解き事典より)

 150112isonokami02
150112isonokami01

『日本書紀』では

故、天神御子、問獲其横刀之所由、高倉下答曰「己夢云、天照大神・高木神二柱神之命以、召建御雷神而詔『葦原中國者、伊多玖佐夜藝帝阿理那理此十一字以音、我御子等、不平坐良志此二字以音。其葦原中國者、專汝所言向之國、故汝建御雷神可降。』爾答曰『僕雖不降、專有平其國之横刀、可降是刀。此刀名、云佐士布都神、亦名云甕布都神、亦名云布都御魂。此刀者、坐石上神宮也。降此刀

者、穿高倉下之倉頂、自其墮入。故、阿佐米余玖自阿下五字以音汝取持、獻天神御子。』故、如夢教而、旦見己倉者、信有横刀。故、以是横刀而獻耳。」

今回は奈良県榛原にある椋下神社と三重県の伊賀上野にある高倉神社に行きました。

椋下(くらじ)神社
祭神
高倉下命
摂社 金刀比羅神社「大名牟遲命」、愛宕神社「軻遇突智神」、庚神社「猿田彦神」


由緒
 延喜式神名帳宇陀郡の「椋下神社(鍬)」とされる。椋下については、ムクモト、ムクノシタ、クラジなどがある。『神名帳考証』、『大和志』は式内社の所在は未詳としている。
 旧の鎮座地は東南に1kmの標高521mの福地岳の山中「くらかけ」の地に鎮座していたが、何時の時代にか、当地に遷祀されたと伝えている。この福地岳は別名をタカクラ山と言うが、社名のクラジと余りにも合いすぎるので、近世の付会とされている。
 古老の口碑によれば、神武天皇が紀伊国熊野邑に到った時、高倉下が横刀を献上した功によって、高塚邑の八咫烏神社と同時期の慶雲二年(705)に創祀と伝えている。
IMG_2799
IMG_2800
IMG_2801
IMG_2802
IMG_2803

https://www.mapion.co.jp/f/cocodene/view.html?token=0cb7f2deb587300996f7115e454cbd99

高倉神社
祭神 高倉下命 配 倭得玉彦命
境内 八幡社、春日社



注釈    高倉下命の七世の孫倭得玉彦命がこの地に遷り、祖先をここの霊地に祀ったと言う。
 神社前の説明板には垂仁天皇の時代の創建と記されている。本殿左右両殿は天正二年(1574年)の建築である。 丹精をこめて維持されている。
 境内のシブナシガヤは国の天然記念物、また社殿背後の神体山にアヤマスズが自生していると言う。県天然。

 日本最古の補陀落寺町石のある補陀落寺は別当寺。南紀からの勧請の臭いもする。

 倭得玉彦命は卑弥呼の父親との見方がある。邪馬台国建国の謎を解きうる神社の可能性がある。 倭得玉彦命の子に日女命と弟彦命がおり、日女命の孫に乎止与命がいる尾張氏の系図が存在する。 卑弥呼と男弟、また台与にピッタリ当てはまる。

 大和の東の都祁から近江の南の柘植へ出るルート沿いにこの上野市があり、当神社はこの平野の北西に鎮座する。伊賀は縄文、弥生遺跡が多く、銅鐸も発見されている。 
IMG_2780
IMG_2781
IMG_2782
IMG_2783
IMG_2784
IMG_2785
IMG_2786
IMG_2787
IMG_2788
IMG_2789
IMG_2790
IMG_2791
IMG_2792
IMG_2793
IMG_2794
IMG_2795
IMG_2796
https://www.mapion.co.jp/f/cocodene/view.html?token=f09069844d883bb8aace7c4229c4d170

ギャラリー
  • 三度目の谷口雅春先生の検閲
  • 三度目の谷口雅春先生の検閲
  • 三度目の谷口雅春先生の検閲
  • 『野の百合の生きる道』の記載された日
  • 人造羊皮版『生命の實相』地の巻 発行日についての考察
  • 人造羊皮版『生命の實相』地の巻 発行日についての考察
  • 人造羊皮版『生命の實相』地の巻 発行日についての考察
  • 人造羊皮版『生命の實相』地の巻 発行日についての考察
  • 南朝の里、天川村