則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2019年05月

讀んで戴ければ幸甚です。

北支光明化祈願の神想観

「北支光明化祈願の神想観修行」と題しつぎのごとく呼びかけられたのである。

 《妖雲暗澹いま北支一帯は荒掠と恐怖の巷と化してゐる。荒掠と恐怖と戦乱とがその地を脅やかしてゐるのは、その地に「大なる明るさ」が欠けてゐるからである。言ひかへればその地に天照皇大神(あまてらすおほみかみ)が岩戸隠れをされてゐるからである。天照皇大神(あまてらすおほみかみ)よりも「大いなる明るさ」はない。天照皇大神、ひとたび岩戸より出御まし稜威(ひかり)あまねくその地を照せば蒼蠅(さはへ)なす兵匪(へいひ)もたちまち沈静に帰するは必定である。ここに生長の家家族は互ひに聯盟して祈りの精神波動を北支の地に送り。その地に天照皇大神の岩戸出御を冀(こひねが)はんとするのである。吾らの立場として戦乱に対する超物質的治療はこれである。この祈願は生長の家本部にては既に始めてゐる。参加希望の誌友諸君は十二月中毎夜十時より、満州の方向を向き四十分間神想観の形式にていつもの招神歌を唱へて打坐し、静座半ばにして精神の統一し来れる時、次の祈願歌を心に繰返し念じつつ、北支一帯が天照皇大神の光に遍照されて神神しく平和なる光明遍照の世界なることを現にありありと心の底深く思念せられたい。

    祈願歌

厳かに岩戸ひらかれ稜威(みいつ)照る吾が天照皇(すめ)大御神》(『生長の家』第三輯第一号)

 

※文中で蒼蝿(さはへ)というルビについて辞書を引くと「うるさ」「ぎんばえ」「あおばえ」「そうよう」とあり、「さはえ(へ)」と云うコトバが見当たらなかった。

 

さて、「北支光明祈願の神想觀」とは「基本的神想觀」に祈願歌を挿入するという方法である。

 

今回、ブログにて「北支光明化祈願の神想觀」は『生長の家五拾年史』に掲載されていた。(頁256)御指摘いただきました貴女に深く感謝申し上げます。

また、己の勉強不足と『生長の家五拾年史』をしっかりと讀んでいなかったことを暴露したような形となった。申し訳ございません。

「亀の子」さん頑張って下さい。

亀の子ブログにこのように書いています。

 

さて、今回、間が空いてしまった大きな理由は、谷口貴康先生が御自身のブログで発表された記事(今日現時点では削除)を読ませていただき(2日がかり)、それについての反響があまりにも酷いと感じたため、複数の本流派掲示板もお気に入りから削除した次第である。

 

 

 しかし、小生自身も大きな衝撃を受けたことは確かであり、観のコペルニクス的転換を迫られるものであった。そのことが、前回、三途の川の石橋が遠ざかっていくような感じで、「生長の家」といふものが次第に自分から遠ざかっていくような感じを受けたものである。

 

 

 はたして「生長の家」とは何だったのか?

 

 彼のような高潔な人物でも、このように苦悩していくのである。私は今回「破邪顕正」氏の書いた文章とそれに同調した人にどうしようもない、哀しみと慟哭を観じて、「生長の家」は人を蔑む宗教なのかと自問自答してしまう。

 

 私はそれ以前に何度も「破邪顕正」氏にこのブログで忠告していた。だが、聞き入れられず、残念である。氏の唯我独尊のような尊大な「コトバ」となってしまったことに深く悲しむ。

 

今後はそんなことのないようにしてもらいたい。「亀の子」さんには心機一転頑張って欲しい。私は現在『眞理』の目次の詳細を記入している。それにいつも勇気を与えられている。

「谷口雅春先生」に叱咤激励されている気持ちになる。だから感謝ばかりがこの心に入ってくる。嫌な事が現象界に現れど、眞理のコトバが雲散霧消して、何もそんな争いや闇が無くなる。

「東京オリンピックマーチ」

「東京オリンピックマーチ」も古関裕而氏である。この行進曲は本当にいい曲です。

私が小学校時代に感じたのが、日本がいよいよ「世界に翔る」という雄大なイメ-ジでした。

https://www.youtube.com/watch?v=F3ZGwt9aQxc

古関裕而と父は同じ年で誕生日も同じ

私の父は明治生まれである。

人の爲に、国の爲にすることを勧めて子供に説いていた。

満州事変や支那事変と召喚されて、国の爲に戦地に赴いた。だが、決して暗い話や残酷な話をしなかった。戦争における失敗談や生死を彷徨いながら、トラックを病氣になった兵士を運んだことを笑いながらしていた。

 

そんな父だから、私が幼い頃は厳しい父であったが、年を経て温厚な父となっていった。どんなことがあろうとも、人様の悪口は謂わない。人が困っていることを進んで行っていた。犬小屋作って欲しい、煙突の掃除、道路の補修。壁の修理。本当に近隣の困りごとを何でも行っていた。

 

その父が亡くなって、27年が経つ。私の家系でわかるのが、文久31229日の菊蔵さんという人です。

それから、遡って三代を経て、父は明治42811日生まれです。

 

そこでいつも思い出すのが、古関裕而なんです。誕生日が同じなのです。父も「古関裕而」のような顔だちで男前でした。だから、とりわけ軍歌になると「父」を思い出して「泣けて」きます。

 

「大阪タイガ-スの歌」「巨人軍の歌」「ドラゴンズの歌」など球団の歌だけではなく、前回に紹介した「紺碧の空」や「暁に祈る」も数々あります。

今回は「暁に祈る」と「愛國の花」の古関裕而の作曲した歌を紹介させていただきます。

 

暁に祈る

松竹大船映画「暁に祈る」主題歌

 

 作詞:野村俊夫

 作曲:古関裕而

 歌唱:伊藤久男

制作:滝野細道

 

 (一)

ああ あの顔で あの声で

手柄頼むと 妻や子が

 ちぎれる程に 振った旗

 遠い雲間に また浮かぶ

 

 (三)

ああ 傷ついた この馬と

飲まず食わずの 日も三日

 捧げた生命 これまでと

月の光で 走り書き

 

(二)

ああ 堂々の 輸送船

さらば祖国よ 栄えあれ

遥かに拝む 宮城の

空に誓った この決意

   (四)

ああ あの山も この川も

赤い忠義の 血がにじむ

故国(くに)まで届け 暁に

 あげる興亜の この凱歌

 

https://www.youtube.com/watch?v=uGv7yjSH3Fc

この「暁に祈る」を昭和15年に映画化されており、この時に関わった人物に「栗林忠道」がいる陸軍省馬政課に所属しており、映画の指導をした。

 

愛 国 の 花

 作詩 福田正夫  作曲 古関裕而

 昭和13 

 

1 真白き富士のけだかさを

  こころの強い楯として

  御国につくす女等は

  輝く御代の山ざくら

  地に咲き匂う国の花

 2 老いたる若き諸共に

  国難しのぐ冬の梅

   かよわい力よくあわせ

  銃後に励む凛々しさは

  ゆかしく匂う国の花

3 勇士の後をあとを雄々しくも

  家をば子をば守りゆく

  優しい母や、また妻は

  まごころ燃える 紅椿

   うれしく匂う国の花

 4 御稜威のしるし菊の花 

   ゆたかに香る日の本の 

   女といえど生命がけ 

   こぞりて咲いて美しく 

   光りて匂う国の花 

 

https://www.youtube.com/watch?v=9o8b7FGi9Mo

いろいろと素直ではない所はあるが、それもある面は大目に見て欲しい。

日野君についていろいろ書いたが、私が彼の年代では彼の方が思考能力は私を上回っている。いろいろと素直ではない所はあるが、それもある面は大目に見て欲しい。

 彼は下記の文章を書いている。多少の私の考えと違いは在れども、「雅春先生」の御文章に疑問を持ち、それを探究する気持ちというのが、彼の年代では必要である。

 

事実、雅春先生は「日本民族原生論」という、歴史学的には全く証明されていない話を主張していて、私はそれを聞いた時、流石の雅春先生も人類史の成果をご存知ない故の誤りではないのか、と思ったものですが、今ではいや、雅春先生の言われる通り日本民族はアフリカ発祥の他の民族とは違い、物理的に日本列島に突如として湧いてきたのである、という風に信じています。

 

 私のように確立された「天皇論」を至上するまで、そこに到達するまでは幾年も試行錯誤の連続であった。だから、「天皇」を一旦否定したこともあった。否定はしたが、それを疑義として肯定するまで、問い續けた。そこから、天皇陵や御製に行きついた。

 

 私も再度、谷口雅春先生の天皇観を広く知って戴くために、今後ブログにて広報していきたい。

何故、多くの人が日野君とは議論にならないのか

日野君はまず、相手の批判や自分の正しさを述べるのが論法である。それでは話合いが出来ないのである。しかも、独断過ぎる論法である。

たとえば、私は謂わば「一元通念」という言葉を書いたが、日野君は「一元史観」という言葉で否定した。なんで、そんな違う言葉を使うのか?

 

 また、薩摩討伐の件でもそうである、そんな事知っているよと後から云うのは卑怯な論法である。また、これは学者のなかでも「いろいろな論議」がある。私は病氣で亡くなられたと思っている。と書けばいいだけである。

 

また、本当に歴史書をもっと通読してほしい。そうでないと相手を理解させることも不能である。不毛な論争になるからである。それともっと「素直」になって欲しい。謝れとは言わないが、もう少し謙遜という人柄になって欲しい。

 

 現在のままでは、議論にならないのだ。私は仲哀天皇や蘇我馬子を論じていない。日本は言葉が無い時代から、言霊を信じて、その言語で天皇信仰を行っていたと私は信じている。

それが、オカシイというならば議論はするが、別の方向に議論が曲がってしまう。

 

 私が論じたら、そんな事知っているという。

私はこれでは日野君とは論議出来ない。

他の人と論議が合わないのもよくわかる、ほとんどの人が日野君とは話出来ないのは、今回を通じてもよくわかる。日野君と論議にならない議論をして、「もう日野君」と話したくなくなるのもよくわかる。こちらの質問にはきっちりと答えないで違う事をいう。そんなこと平気で出来る神經を疑う。

 

相手に謝意できるような「感謝の心」を持てるようになればまた、論議しよう。そうでないと、小生意気な「ああいえば、こういう日野君」になっては論議にならない。

 

また「天皇陵」に関しても私の方が知識としてはあります。日野君は間違って書いていることがあるが、反対にそんな間違いをどんな本か「インタ-ネット」みたか知らないが、もう少し調べて書かなければならない。何処かは勉強して自分で調べて研究して下さい。

 

もう少し謙虚になるのであれば「言います」取敢えず、今回をもって、暫くは返答はしません。

返信に感謝

古田史学について

 この件は「日野君」は自分の間違いを訂正しないのですね。

 

田中卓先生の論文は読まれたのか、読まれたうえでそれよりも正しい説があると思ったのか。

私は古田武彦先生の学説を基本的には支持しているが、継体天皇を神武天皇の子孫と認めない立場は支持していない。(ちなみに古田先生は神武天皇実在説である。「歴史学界はみんな神武天皇架空説だから実在説は非科学的」という方は神武天皇実在説の論文を読まれたうえで判断してほしい。)

 

と書きながら、一元通念である古田学説とは違う。

 

まず「一元史観」の定義についてですが、天皇陛下を中心に歴史を観ずるという点では、私は明白な一元史観であります。

 

 それならば、古田学説とは根本的に異なる。

普通はそれを訂正する。

併し、訂正しないのである。それは日野君の悪評がどうしてもこれまで通りに出て来るのです。それは日野君自身が損をするのです。

 

次に

 

どうして仲哀天皇陛下は熊襲に殺されたのか、という話です。

 

これには諸説があることを御存知ではない。

仲哀天皇が筑紫の橿日宮に移り、熊襲征伐について論じた。特に皇后が神懸かりとなって「熊襲は空しき國である。それよりも海の向こうに新羅国があるが、これは目も輝くほどの金銀彩色にみちた國であるからこれを伐にこしたことはない」と云った。

しかし天皇はこれを疑って決行しなかった。そしてにわかに病氣になり亡くなられた。

私はその説もあることを知っており、中身は不明であり、それを片方のみ書くのは間違いである。

 

 また、律令国家についてもそうです。教科書通りに書かれるのであれば、日野君の通りであるが、「一元通念」ならば、もう少し付加して書かなければ意味がない。蘇我馬子だけ書いても、当時の日本の状況を指摘することにもならない。明治維新でも同様である。私もその點は「学術」を高めなければ、日野君のことばかり指摘するのは出来ない。

同窓会幹事会

同窓会の幹事会で昨日は半日を費やした。

今回で毎年実施するようになって、5回目である。

どうすれば、多くの同窓生が参加出来るかに「工夫」を凝らして、どの人にも参加して良かったとなるかを考えている。会場も今迄の方法も変更していく。

 

 そんななか同窓生は有名人が多い

正露丸の社長の息子

直木賞作家の高村薫

セコムの社長

神戸大学 教授

同志社大学 教授

 

その有名人でも「参加して良かった」と思えるような同窓会の企画にしていきたい。今の幹事のメンバ-は全て同じクラスであるから、気が合う。昨日はさすがに気持ちのいい酒であった。

謙虚なる生活

日野君について前日に書いたが、内心は「生長の家」の信仰を大切にした「心の持ち方」にチェンジして欲しい。

若いからだからと思うが、相手を峻別し、それに批判をする。彼の書いている文章を讀むと人間というのが嫌になる、そんなに自分が正しいのかである。自分が正義で自分に反対する勢力は全て「惡」だと捉える考え方。もうウンザリである。私も批判された人間である。   

そのブログは今も消去されていない。そんな事より「祈り」をして欲しい。どんな憎む相手も己が心の影でもある。

 

今のようなことを書いて、相手に賞讃されたか、「よく言ってくれた」と感謝されたのか?「日野君は若いのに実に偉いね」と本心から言われたのか。みんな内心は「両親」が可哀想であると思っている。家族の事考えなくてはいけないのに・…

 

多くの書き込みは日野君に対する罵倒と「馬鹿にするような文言」である。そんなことにも「耳を傾けようとしない」それこそ増上慢である。有頂天となり、相手の批判を心の拠り所にして快感を覚えるような人間は社会にいる。そんな人間にはなって欲しくない。謙虚であり、真摯である姿勢が必要である。

 

自分のどの箇所が相手の批判となっているのであろうか?どうすれば相手から受け入れられるのか。社会はある面、「皮の面を被った人」が大勢いる。そんな人すら、この人間のいう事は本当に信用できると言わせしめるような「太っ腹」な人間になって欲しい。

 

私は「谷口雅春先生」の「生き方」について自分なりに徹底的に調べている。また勉強もしている。毎日がそんな生活である。だから、「谷口雅春先生」の年譜については、貴方が一番よく知っていると言われるようになった。しかし、私は一番でも二番でもなく、謙遜した生活に埋没したい。そうでないと「何のために」こんな生活をしているのだろうと考えるからだ。常に「人の爲になる」と「日本の爲」になる生活をしていきたい。

「ヴァキューム・オイル・カンパニ-」のH.E.ド-ント氏とは

「ヴァキューム・オイル・カンパニ-」といいますと谷口雅春先生が最初にお勤めになられた会社です。

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新クレセントビル

 そんな事言われなくとも解っています。と直ぐに反論があります。

その当時の「ヴァキューム・オイル・カンパニ-」のゼネラルマネージャーの名前を御存知ですかというと「そんな事まで知るかいな」とまたまた怒られそうですが、実は以前に「ヴァキュ-ム・オイル・カンパニ-」の考証-②に付いて書いた時にその事を書いているのです。

「ヴァキュ-ム・オイル・カンパニ-」の考証-②2019/05/25

http://tecnopla1011.blog.jp/archives/79219274.htm

 

この「スタンダ-ド・バキュ-ム・オイル」ですが、これが「バキューム・オイル・カンパニ-」であることは資料でわかりました。この支配人はH.E.ド-ントという人物で「六甲山」を中心に登山を趣味とされていました。

 

明治44年(1911)、H.E.ドーントを中心に当時の在留外国人たちによって神戸カモシカクラブ(The Kobe Goat Mountain of Club)と名付けられた山岳会が設立された。

 

HE・ドーントについては

『神戸ゆかりの50 part2』に「1894年に初来日。居留地のオイル会社に勤務」とあり。

『人物評伝編:日本ゴルフ全集7』に「明治37年に来日、スタンダード・バキューム・オイルの日本総代理店の支配人」とあり。

『神戸ゴルフ倶楽部100年のあゆみ』に詳述されている。

 

谷口雅春先生のお勤めされた「ヴァキュ-ム・オイル・カンパニ-」は当時の支配人がH.E.ド-ント氏であることまではわかりました。

 

その居留地の場所は未だはっきりしません。旧居留地38番館についても下記の記載もあります。

 

ウィリアム・メレル・ヴォーリズの設計で1929年にシティバンク神戸支店として建設された。1階をシティバンクが使用、2階には独逸染料、バイエル薬品が入居、3階に帝国酸素が入居していた。その後2階のドイツ系2社が退去し、2階、3階を帝国酸素が使用した。

 

 その時はあまり確証もなく書けなかったのですが、今回その資料が見つかりました。

そのゼネラルマネージャーという人は何かで有名なのです。六甲登山する人はその名前は聞いたことがあると思います。「ド-ントリッジ」です。

それと六甲山で芦屋ロックガ-デンは岩登りの発祥の地だといいます。その地を開拓したのも日本人の名付け親は藤木九三氏(1887~1970年)。当時まだ珍しかった登山用の綱・ザイルを駆使し、岩場の開拓や技術指導に当たるなど近代登山の父としても知られる。その藤木氏とともの六甲山の山々を開拓したのもH.E.ド-ント氏である。芦屋ロックガ-デンは近代登山発祥の地ともされています。

また、新神戸から布引を通り摩耶山の道には「ド-ントリッジ」というH.E.ド-ント氏の名前が付けられている。

この道はドーントさんが好んで歩いたからドーントリッジの名がついたと言われている。

 

イギリスから遠く離れた日本に来て、六甲山に愛着を感じた人がいる。

HEDAUNT

カナダ山岳会会員、日本山岳会会員、イギリス地学協会会員、神戸アルペンクラブ会員、神戸かもしか山岳会設立 雑誌「INAKA」の発行18刊まで発行

日本アルプスの紹介者であるウエストンの推薦によってイギリスの山岳会に入会が許されている。あだ名はベルゴート、山狂い。

 

ゴルフの名手であり、グルームが作った神戸ゴルフクラブでは名手として鳴らしていた。ゴルフ場脇に別荘を作り、ドーントロックと称してよく友人たちを招待しては六甲山を歩いていた。夏はゴルフ、閉鎖される11月からは登山と徹底的に六甲山を遊んでいる。

大正2,3年に掛けてはほぼ毎土、日と祭日が登山に明け暮れるくらい山を楽しんでいる。六甲登山は大正2年から大正11年まで170回の登山記録が残されているという。

大正13年に日本を去るまで日本の山に親しみ、赤石山脈、剣岳などにも足を伸ばしている。

「プレイランド 六甲山史  昭和59年刊」

 

ただ残念なのが大正13年に日本を去っています。谷口雅春先生が「ヴァキュ-ム・オイル・カンパニ-」に入社されたのが同年の1120日頃とされています。

残念ながら会っていたという確証は得られませんが同じ「ヴァキュ-ム・オイル・カンパニ-」という会社で登山を趣味として山道を開拓したイギリス人と日本の光明化運動に尽力された谷口雅春先生、何か因縁を感じてしまいます。

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『観世音菩薩讃歌』について

立葵さんが記入されておられる。

もしもこの「讃歌」が初めは歴史的仮名遣で書かれてゐたのを現代仮名遣に改めただけだったのでしたら、非礼をお詫び申し上げます。

 

実際は立葵さんも御存知である。「現代的假名遣」で書かれたのが『観世音菩薩讃歌』である。それは「唐松模様」の2012527日の

 

これまでの論文方式とは異なる詩の形式を使って--言い換えると、左脳的な言語ではなく右脳的な表現を使って、観世音菩薩について説くものがあってもいいと考えるに至った。それを読むことで、観世音菩薩の何であるかを論理的にではなく、直感的に感得してくださる読者もいるのではないかと期待している。今後数回にわたり、「大自然讃歌」に続く長編詩として本欄で発表させていただこうと思う。この長編詩「観世音菩薩讃歌」も、前回のものと同様に「聖経に取って代わるもの」を意図していない。諸処に聖経から引用しながら、聖経では触れられていない方面への補強を試みている。

 

そのシリ-ズを讀んで行くと「現代的假名遣」で書かれているのがわかる。

「善」の項目で

猛獣走りて鹿を倒し

カマキリの鎌、小虫を捕らうれども、

その結果、必ずしも悪に非ず、

善に非ず、

定められたる法則の産物にすぎざるなり。

 

何か違和感がある。「猛獣走りて」鹿を倒すなど、オカシイとしか言いようがない。自然の鹿は走っている姿を見たことが無いのであろう。テレビで「アフリカ動物王国」などを見て書いたのであろうが、私は「登山」や「トレッキング」で何回か「鹿」が疾走してゐる姿を見ている、その見た感想であるが、蹴り上げる後ろ足で、10m程前で着地する。驚くべき跳躍力である。それを追いつく「獣」など日本にはゐない。

 

 また、上記では「現代的假名遣」ではない、単に「聖經 甘露の法雨」を真似ただけである。右脳的な表現を使って書いただけであるから、そこから「奇蹟」など生れようがない。

書く勇気に感服

どうも、最近は「インタ-ネット」の普及で少しだけ知ったら、それで理解したように錯覚する。本当に「理解」するとは、そんなものではないことは、谷口雅春先生のみ教えを学んだ人ならば御理解いただけると思う。

 

あの日野君は独自の学説を展開している、ただ全体的に上っ面だけで、その中身や信憑性が乏しい。あんなものを貼り付けるならば、恥ずかしいとは私の考えである。

もう少し自分で理解した上で、勉学して「根拠」のあるものにしなければ、多くの人から「そっぽを向かれるだろう」

 

さて、「古田学説」と呼ばれるものを支持するようなことを書いていたが、申し訳ないが、どれだけ理解したのか疑問である。「古代史」を勉強もしないで、○○学説を信じていると言われても、その「学術」はどれほどあるのか、「表面の薄い膜」だけを理解して、全てを知ったと勘違いしているのに過ぎない。信頼できるものと、そうでないものとが古田学説にはある。ただ、「神武天皇実在」についてもそうである。どれほど理解しているのか、「生長の家」での言霊での解釋とその理解が必要である。私など「神武天皇」を勉強すればするほど、頭が混乱してしまう。「この言葉」はどう理解すればいいのかがわからなく、「神武東征」について筆が止まっているのも。その理解に苦しんでいる。

 

私は「奈良時代」の律令国家の形成から「天皇信仰」が生れたという「日野君」の論は申し訳ないが、否定論者である。「大和なる天皇家の王権が7世紀より前から日本列島の唯一の中心権力者であった」とする日本古代史の「一元通念」を否定した点が最も大きな貢献とされるのが「古田学説」である。

私は現在の近畿説ではないが「一元通念」の論考である。天皇国家を中国から来た「漢字」で理解出来るようになったのが、確かに「奈良時代」であるが、しかし漢字が一般に「日本人」に傳稱するのに相当の時間がかかり、年代もかかる。しかし、その前に日本には「コトバ」があったのは古代学者も否定しないであろう。

その「コトバ」というのが「言霊」であり、そこに含まれる「意味」を理解しなければ、「天皇信仰」は律令から生まれたんだと言われても、「日野君」の独り言である。教科書ではそのように書いているだけである。

 

谷口雅春先生がお書きになられた「悠久の世界觀」を理解しなければ、日野君の歴史観は単なる一人論であり、「生長の家」とは全く関係がない。それを堂々と違う掲示板に貼り付けする勇気だけは私は敬意と感服である。

 

私なんかは「魏志倭人伝」すら否定しているので、古田学説でもない。独自で掘り下げているだけである。また、「陵墓」についても、もう少し理解してから書いて頂きたい。見て居られないというのが、私の考えである。どれほどの「天皇陵」や「陵墓」「古墳」を巡り、その地域性の理解や学術など、様々あるであろう。それを理解していない、単に「あの人が言った」○○論を否定しているだけで、それを「右翼」や「左翼」と云うだけでは何の論証にもなっていない。

 

以前に「黒塚古墳」(天理市柳本)に行って、「三角縁神獣鏡」「刀剣」など見て、反対に疑問を感じてしまった。

夥しい「古墳群」に古代の人の考えを探る人も必要であると感じた。多くは「朝鮮」から渡来してきた等と記入している掲示板を見て、それを否定している自分がいる。ただ、根拠も必要なので「勉強」しなければ書けないのです。

感謝とは

人間というのは時として、物事に有難さや幸福感を「当り前」のように思ってしまう。だから、最初は一生懸命に取り込んでいるが、慣れてしまうとついついその有難味が薄れて来る。

 『眞理』第一巻・入門篇にある第三章 心の舵・心の鑿で「慣れる尊さ恐ろしさ」に記入されているように、何でも「これが当たり前の生活で「慣れる」ことはその人個人は素晴らしいが、増上慢となり、天狗となり、感謝出来なくなってしまうのです。

 物事の感謝は常時把持しなければ、いくら言葉で発言してもその人の行いで「有難さ」を感じているかどうかが判明してしまう。ゴミが落ちて居たら「拾う」とか、席を譲るとかそんな気持ちが出てこないのは、本当に感謝していないからです。

ついつい自分の肉體で「あの人はこういう人」だからと峻別して、仲間外れにしてしまうのも、本当に感謝出来ていない人です。

ヴァキュームオイルカンパニ-の跡地についての疑問とその考証


『生長の家五拾年史』に記載されている“バキュームオイルカンパニ-”跡という図があります。(頁203)

 

ここに記載されていませんが、JR三宮駅南側の位置にあるということが載っています。ただ、この写真が本当にあるのかどうかが疑問でした。神戸市中央区京町という地名です。

 ここは有名な“神戸旧居留地”の跡地であります。

 

 昭和2065日の神戸大空襲は、神戸の港や市街地を壊滅しました。旧居留地の建物は、126区画のうち約70%が破壊されました。

 

 『生長の家五拾年史』では少し不確かな部分がありますので、「発祥の地にようこそ」という「兵庫教区栄える会」のホ-ムペ-ジに写真が掲載されているのが下図であります。この写真は戦前であるという人もいるかもしれませんが、道路の縁石とかは戦後に整備されたものです。戦前には縁石など、居留地の動画をみるとありません。
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上図では二階で仕事をされたことを記載されています。

昭和31年では住宅地図がありますが、それを「神戸市中央図書館“でみたのですが、どうもそのような建物がありません。昨日は「神戸まつり」賑やかな神戸の街を歩いてみましたが、あの写真の景色などありません。
それでは下図に昭和31年の住宅地図を掲載します。
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京町は西側しか掲載していませんが、東側ではないことが地図で判明していたので、敢えてその部分のみコピ-しました。

 日本銀行の前に京町交番があるのですが、そこでもお巡りさんと話をしたのですが、10年前からこの地を知っているが、そのような建物がないということです。(上図の地図とは日本銀行も交番も京町の道路を挟んで反対側に移転しています。)

 それでは、10年以上前には取り壊しになったのか、それとも阪神大震災で崩壊したのかであります。

それでは京町の古い写真(明治後期から大正初め)の写真を見て頂きます。
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居留地時代の京町
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 2011年の写真です。すべて京町の通りを撮影されています。山は六甲の山が写っていますが、それは形は変わっていません。


 ただ、谷口雅春先生が勤務されたビルは6階建てのように思います。そんな高い建物は写真では見当たりません。

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上地図より見たものです。

戦後間もない頃の写真ですが
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1959年の写真です。
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1936年の旧居留地のスケッチ図です。

現在のガイドブックを参考に見て下さい。
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  私は本当にバキュームオイルカンパニ-が京町の通りにあったのかが反対に疑問でした。


 そこで「昭和初期の旧外国人居留地の考察」藤岡ひろ子著の学術論文を讀んでみると興味ある文章があった。

それは(23頁)

【自治行政の中核となる市政庁には市政委員会がおかれ行政をおこなう行事職、警察、消防署などが自治的に配置された。神戸の場合は38番館にそれらが置かれていたことが、1885年時のジャパンダイレクトリ-によって確認される。制度解消後、そこにはニュ-ヨ-クの石油商社のバキュ-ム・オイルカンパニ- オブ・ロチェスタ-や、インタ-ナショナル・バンキング・コ-ポレ-ション等が立地したことが、1919年のダイレクトリ-に記載されている。】

 

 となると、38番館がバキュームオイルカンパニ-の場所となり、番地名も明石町となる。

 インタ-ナショナル・バンキング・コ-ポレ-ションは旧ナショナルシティバンクオブニュ-ヨ-ク神戸支店であり、現在のシティグル-プである。

 ただ、現在は「神戸大丸百貨店」です。t60-000map
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もし、私の論証が正しいのであるならば、あの写真はいったいなんだったんであろうか。疑問を感じてしまう。私もあの写真はどうもおかしいと思っていたので、行って確認しました。
疑問は
①道路の縁石とその歩道
②6階建という疑問
③ガソリンスタンドらしきものが(三菱マ-ク)ある疑問
④写真があるということは現在も保護の爲に建立されている可能性を探る。
⑤街路灯が新しい
①~⑤の全てが解消できなかったので京町ではないということで探究しました。

注)もし、間違いであれば直ぐに訂正させていただきますので確かな情報お知らせください。

参考資料 神戸市立中央図書館・「昭和初期の旧外国人居留地の考察」藤岡ひろ子著・神戸旧居留地ホ-ムペ-ジより抜粋・旧居留地38番館・『生長の家五拾年史』「兵庫教区栄える会」のホ-ムペ-ジより抜粋


軍歌―日本を鼓舞して熱狂した当時―

「青年日本の歌」は青年会でよく歌った。実はこれは「軍歌」でありながら、歌われることが軍から禁止された歌(1936年)でもあった。

 

 

青年日本の歌

 

作詞・作曲:三上卓

著作権:無信託

 

一、

 汨羅(べきら)の渕に波騒ぎ

巫山(ふざん)の雲は乱れ飛ぶ

混濁(こんだく)の世に我れ立てば

義憤に燃えて血潮湧く

二、

 権門(けんもん)上(かみ)に傲(おご)れども

国を憂うる誠なし

財閥富を誇れども

社稷(しゃしょく)を思う心なし

 

三、

ああ人栄え国亡ぶ

盲(めしい)たる民世に踊る

治乱興亡夢に似て

世は一局の碁なりけり

 

四、

 昭和維新の春の空

 正義に結ぶ丈夫(ますらお)が

胸裡(きょうり)百万兵足りて

散るや万朶(ばんだ)の桜花

 

五、

 古びし死骸(むくろ)乗り越えて

雲漂揺(ひょうよう)の身は一つ

国を憂いて立つからは

丈夫の歌なからめや

 

六、

 天の怒りか地の声か

 そもただならぬ響あり

民永劫(えいごう)の眠りより

醒めよ日本の朝ぼらけ

 

七、

 見よ九天の雲は垂れ

四海の水は雄叫(おたけ)びて

革新の機(とき)到りぬと

吹くや日本の夕嵐

 

八、

ああうらぶれし天地(あめつち)の

迷いの道を人はゆく

栄華を誇る塵の世に

誰(た)が高楼の眺めぞや

 

九、

 功名何ぞ夢の跡

 消えざるものはただ誠

 人生意気に感じては

成否を誰かあげつらう

 

十、

やめよ離騒(りそう)の一悲曲

 悲歌慷慨(こうがい)の日は去りぬ

 われらが剣(つるぎ)今こそは

廓清(かくせい)の血に躍るかな

https://www.youtube.com/watch?v=l21_3GzH914

 

 

権門(けんもん)上(かみ)に傲(おご)れども

国を憂うる誠なし

財閥富を誇れども

社稷(しゃしょく)を思う心なし

 

社稷(国)を思うこころなし。誠にそうである。國を思う心を失ったら「日本人」として失格である。

 

 

高校時代に「若鷲の歌」を替え歌にして運動会の応援歌にしていた。それが好きになった要因です。

昭和18年(1943)   
若鷲の歌

 

 作詞:西条八十

 作曲:古関裕而

 

 歌唱:霧島昇/波平暁男

 制作・編曲:滝野細道

 

(一)

 若い血潮の 予科練の

七つボタンは 桜に錨

 今日も飛ぶ飛ぶ 霞ヶ浦にゃ

 でっかい希望の 雲が湧く

 

(二)

 燃える元気な 予科練の

腕はくろがね 心は火玉

さっと巣立てば 荒海越えて

行くぞ敵陣 なぐり込み

 

(三)

 仰ぐ先輩 予科練の

手柄聞くたび 血潮が疼く

 ぐんと練れ練れ 攻撃精神

 大和魂にゃ 敵はない

 

(四)

 生命惜しまぬ 予科練の

意気の翼は 勝利の翼

 見事轟沈 した敵艦を

母へ写真で 送りたい

https://www.youtube.com/watch?v=r7y9JKAP1Bc

 

最後に「軍艦行進曲」を紹介したい。パチンコ店での常習で流れている曲ですが、作詞は知らない人も多い。また世界三大行進曲であることを知っている人は少ない。 「軍艦」には、行進曲「軍艦」、「軍艦行進曲」、「軍艦マーチ」と三種類の題名が使われています。海軍軍楽隊の演奏会のプログラム、レコードには、行進曲「軍艦」が圧倒的に多いことから、これが正式名称と言えましょう。一般的には「軍艦マーチ」で親しまれているようです。海上自衛隊儀礼曲では、制定時から「軍艦行進曲」となっていました。

三つの使い分けを知っている人も少ない。

軍  艦

作詞  鳥山   

作曲  瀬戸口藤吉

1.守るも攻むるも黒鉄(くろがね)の

  浮かべる城ぞ頼みなる

  浮かべるその城日の本の

  皇国(みくに)の四方(よも)を守るべし

  真鉄(まがね)のその艦(ふね)日の本に

  仇なす国を攻めよかし

 

2.石炭(いわき)の煙は大洋(わだつみ)の

  竜(たつ)かとばかり靡(なび)くなり

  弾撃つ響きは雷(いかづち)の

  声かとばかりどよむなり

  万里の波濤を乗り越えて

  皇国の光輝かせ

 

https://www.youtube.com/watch?v=mTwUiUCO7l0

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