則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2019年04月

讀んで戴ければ幸甚です。

「平成」最後のブログの記入

『生命の實相』を蒐集して四十七年。これを纏めて総合的資料集を作製することを昨年の五月から始めている。

 既にこの資料作成については再版(増補改訂版)を発行していることは皆様ご存知だと思います。

この一年間において、資料調査で新たに発掘したものが、何点かあります。

 大本に入信のきっかけとなった『彗星』は全文が判明しました。

 尋常小学校の兵庫県における小学校は兵庫尋常初等小学校大路分校という事もわかりました。また、滝川尋常小学校及び葦分尋常小学校も正式な場所の特定を行いました。

葦分尋常小学校、春日出尋常小学校及び市岡中学校時代のお住まいになられた西九条もある一定地域まで絞り込みました。(現在の大阪市此花区西九条三丁目あたり)

 

また、早稲田大学を中退後に勤めた「摂津紡績 本社工場」も正確な場所も判明しました。現在の浪速区木津川2丁目(芦原公園跡地)

 

 御寄稿なされた本の『生活者』も一冊を残して全てが判明しました。(大正1511月號が未判明)

  著作に関しては立教後の「谷口雅春選集」と『生命の實相』書店版も判明しました。また、一部の資料の追加や修正も何箇所か行いました。勿論、全てを補填して網羅する事は現時点では不可能です。それでもあらゆる『谷口雅春先生著作集』ではこれだけのものは私の知る範囲ではありません。それは自負しています。

 

また、今回は『谷口雅春先生年譜一覧表』は写真を増やして見やすくして、前回出版した『谷口雅春先生著作年譜一覧表』中(前回の改訂版は上・中・下として発行)として出版したが、今回は一つにまとめて『谷口雅春先生著作年譜一覧・レファレンス集』として発刊を考えています。レファレンスは書誌学では定番である。

その本の目次及び索引によりどのような本なのかがわかる。

 

  また『生命の實相』の発行された目次、所謂レファレンスを全てを網羅致しました。これにより、戦前や戦中と戦後の対比する事により、何が削除対象の索引かがわかります。

 

私はこれだけを行っているだけではなく、現在ブログに掲載している『神武天皇』東征を歩くを執筆しながらである。また、歴代天皇の陵墓の訪問とその歴史を勉強しています。

まだ、昨年綴っていた「後南朝」についても途中である。

 だが、やはりこの『谷口雅春先生著作年譜一覧表』だけは出版したかった。

 まだまだ、未完成な部分もありますが少しずつ前進させていきたい。

その為にもこの本を読んで戴いて、是非ともご意見及びご指摘をお願いいたします。間違いも沢山あります。また、この資料が抜けているとか。何でも構いません。

 谷口雅春先生の御著書は未だにどれ程出版されたかという正確な把握が出来ていません。

例えば満州版『生命の實相』は現在わかっているのが三冊の出版ですが、『生長の家五拾年史』をお持ちのかたはご存知だと思いますが四冊出版されていると記入されています。

 

  現在は発刊に向けての作業中です。何かとバタバタしながらですが、二歩前進の一歩後退しながら、何とか進んでいます。

 参考資料も多く所持しているので、その確認もしています。

総頁数は600頁以上の予定です。

今現在お持ちの方もこれから発行する、その迫力を見て頂ければ御納得頂けると思います。どうすれば讀んで戴けるかを模索していますが、著作年譜ですから、著作だけではなく「年譜」にも力を入れています。以前より10頁以上増数しています。

 

前回の朝日新聞の広告記事を無くして、文字ばかりではなく写真も取り入れて見やすく、読みやすい書面にしたい。少し発刊は遅れますが、7月から8月頃に考えています。校正も考えていますので、その時間も考慮してです。「令和
の御代となり谷口雅春先生のお話を実際に聞いたことがないという信徒も多くなりました。

私も少しでも「谷口雅春先生」が悦んで頂けるような事が出来ているのか自問自答しています。四月は二回、国会図書館に行きました。

 色々と調べる事が多くあり今後更に調査する時間も必要です。皆様に御協力をお願いすることも多くなると思います。

次の御代は更に素晴らしい本来の「生長の家」に復帰することを望んで、「平成最後」のブログを終了致します。最後まで読んで頂き感謝申し上げます。

 

皆様、ありがとうございます。

眞理は古いと新しいとを超える

眞理は古いと新しいとを超える

―講義する人と講義を聽く人とに就いて想ふ―

宗教の話を聽聞に來てゐながらそんな話は古いといふ人がある。さういふ人は目新しいことだけが眞理であり、價値があると思ってゐる人であらう。感覺的に新しいものだけを追求するところに宗教も道德も存在しないのである。

 

 宗教家は單に話の新規に追ってはならないのである。また宗教の教へをきこうとする人も、新しい話がききたいと思ってはならないのである。新しい話をききたければ寄席に行って、萬才や落語をきくがよいのである。宗教家に求むるべきものは話の斬新さではないのである。宗教家に求むるべきものはその人の悟りの深さであり、その人の『信』の深さでなければならない。その悟りと信仰とが、話をきいてゐるうちに以心傳心その信仰と悟りとが聽聞者につたはって來て、自然に聽聞者の迷ひが除れ、その影響が肉體の健康状態や、生活環境の變化にも現はれて來るやうでなければならない。話の新規が宗教の値打ではない。以心傳心、悟りを傳へ信仰を深める迫力がその宗教家の講話のなかにあるかないかが問題なのである。兎も角、生長の家の宗教の法話やその教への書籍は、實際、ゆがめる家庭を正しくし、衰ろへた健康状態を恢復し、難治の病氣を自然消滅さしめるだけの迫力があるのである。それは新しいとか古いとか超越した「今生きてゐる眞理」であるからである。

 

 禅宗に公案と云ふものがある。これは單なる「悟りに關するクイズ」と云ふやうなものではない。これは宗教の先輩祖師たちが如何なる時に如何に行動し、如何に問答したかの足跡であって修行の規範となり、それを基本として後輩が自己を脚下照顧して悟りを深めるための基準となるものである。それは先輩祖師の言行であるから「古い」ことはいふまでもない。しかも眞に味へば、津々として新しい味はひが湧き出て來るのである。それを味はふことを知らずして、古い言行ばかり持ち出して話してゐるから「あの講師は古い」と評するのは要するに自己の浅薄さを暴露しているに過ぎないのである。

 

 單に宗教だけではない。藝術でも。眞に深い「美」を内に藏してゐるものは、いくどそれを鑑賞してゐても古いことはないのである。「美」は常に新鮮にして新しいのである。だから例へば先代幸四郎の「勧進帳」などは毎年その同じ出し物を出してもやはりそれを悦んで觀にいくのである。それだけ觀客を聽きつける力がある幸四郎も素晴しいが、毎度それを鑑賞して常に新しい美を見出してあきない観客も、やはり偉ひと思ふ。話の筋の面白さを觀に行ったり聽きに行ったりするならば「勧進帳」などは一度觀れば、「それでわかった。もうよろしい」であらう。しかし藝術を味ふのはそんなものではないのである。

 

 そころが宗教の話をききに行くのに信仰體驗談の筋の面白さや、時々話の中にはいるユ-モアの樂しさを聽きに行く人がある。信仰體驗談は、禅宗でいふ「公案」と同じことで先輩求道者の悟りに到る言行の足跡であり、その足跡を足場として聽聞者は、ちょっとでも悟りや信仰の心境を高めやうと思って、講師がその話の何處に力點を置き何處にアクセントを加へ、如何にそれを開設するかを瞬きもせずに傾聽するやうにしなければならぬ筈のものである。寄席の落語をきくやうに筋の新規をもとめるから「新しい」とか「古い」とかの問題が起るのである。併し、一方講師は默ってゐても聴衆の信仰を髙め得るほどに自己自身の心境を髙めることを心掛けなければならない。「維摩の一默雷の如し」と維摩の悟りが評されてゐる。と言って、講師は話の下手なのが名誉ではない。講師の折角の悟りも聽衆の心境の高い人のみわかって聽衆の心境が惡くて新しい話の筋や巧妙な話術のみにあこがれて來るやうな人には一向わからないやうな話をするのでも困ったものである。そこで講師たるものは話術をみがかなければならぬし勉強をして話材を新しくして感銘を深からしめることも必要である。しかし話術といふものも悟りをはなれて話術といふものが獨立して存在するといふわけでもない。悟りが徹底すれば辯才無礙になることができるのである。話術だけ獨走してしまって中味が空っぽになっては、話術が下手で、中味が充實してゐる方がましである。

 

上記の本は雅春先生が昭和29年に『我々は光明化運動をどう進めるか』で御寄稿された文章です。

 眞理には新しい「古い」はありません。また「今の教え」とかありません。自己がどれほど悟っているかが、講話するのに必要であります。眞理はそれほどの價値があるもので、訥々と講話している人に何度も感激した憶えがあるのも、話術のみが眞理ではないことを立證している。新しい年を迎えるにあたり、「新しい」のが「古い」ということがあります。話術のみを盛んに売り出して講話されている講師もおられるが、よく感想を聞けば「面白かった」という内容でした。それを聞いてやはりそうだったかと、ガックリした経験があります。講話で観衆を「生命の坩堝」にする講師は今は少ない。

穏便に出来ないのであろうか

 

破邪顕性さんが勢いよく下記のように云われています。

 

だから、「和解派」の「トキ」さんの口から、〝共存共栄〟という表現が出たことを知って戸惑いを覚えると同時に、何か「谷口雅春先生を学ぶ会」の存在を認めていただいたようで嬉しくもあったのです。

 

教団も「谷口雅春先生を学ぶ会」も、もはや別々の道を歩みはじめているのです。

 

谷口雅宣総裁の考え方がいいという「生長の家」。

 

尊師・谷口雅春先生の教えこそが本当の「生長の家」。

 

その二つの「生長の家」が並び立って、それでいいのではありませんか。

 

私は破邪顕正さんの主張はその通りであり、今更和解など出来ないと心の底では思っています。和解してどうなるのかというと、現状のままでは混乱だけである。それでも、「生長の家」は旧態依然として変わっていないと主張する人と雅宣総裁で「新しい教え」や「立憲主義」とかで全く異質な集団となった。それぞれの主張を対比して考えてみればわかることである。

 

或る方からメ-ルを頂いた、それは

 

 今の信徒は「谷口雅春先生」の古い話など、それを求めている人はいないからと言われたといふ。

 

たしかに、「今の信徒は求めていない」というのはその通りだと思います。私のように古い文献を漁って、それを記入したりしているような信徒など私自身、全国でも10人もいないと考えています。

「亀の子ブログ」さんや数人である。それを今でも探究して「生長の家」との関わりを考えているような人は最早「考古学」であると揶揄されるであろう。その方に下記のようにメ-ルを認めた。

 

【今の信徒さんはそんな昔の話はいいと言われていますが、現在の状況であればそれも致し方がありません。谷口雅春先生の真理を悟られた経過などどうでもいいのが、現在の状況なのはよくわかります。

 

 『生命の實相』が教団から無くなっても平然と出来るのも、「過去」だからなんです。捉え方の違いなのです。歴史の捉え方が全く違うからなんです。

 

 歴史とは「生命のがり」という生成化育なのです。それをわからないと「天皇」という存在も解らなくなるのです。だから、そんな人は歴史の絲のがりがわからない人です。

 

「生成」とは生長の家では「せいせい」と普通に讀みますが、「なまなり」とは魔性が充分に徹底されていない状態をいいます。魔性とは恐ろしいことですが、物質や現象を捉えて生きているような人だと思います。神は宇宙の実相で生成化育の大生命だといっても解らない人だと思います。】

 

歴史のがりということを考えるのに「元号」という世代の昭和、平成の御代で生きた私は「平成」というのを過去であると断じるのに等しいと捉えています。とりわけて思うのは「天狗になる」事を戒めることです。私も「谷口雅春先生」の歴史を独自で記入していますが、こうして出来るのも「谷口雅春先生」のお蔭であると常に思っています。

ここがオカシイから「変えてやるんだ」とか増上慢の逆上せた気持ちがあれば、それは違いますと断言します。「やらせて戴く」という謙虚な気持を常に持ち維持することが大切です。新編『生命の實相』を出版される当初からそのように主張しております。

 

私は破邪顕正さんの主張は正しいと云いましたが、ただ現状の「谷口家」と「学ぶ会」が疎遠になるのは心苦しい。全国大会でも谷口家から誰も参加されないのは、納得出来ない。(招待されているのかは存じない)もう少し穏便に参加出来るように出来ないのであろうか。それも人格であろう。

 

「間違っている」とわかっても、受け入れる部分もあるであろう。以前に譬えたが、江戸時代に「村八分」という風習があったが、これも日本の独特の制度で考えてみると「温かい部分」もあることを素直に喜ぶ。

『地域の生活における十の共同行為のうち、葬式の世話と火事の消火活動という、放置すると他の人間に迷惑のかかる場合(二分)以外の一切の交流を絶つことをいうもの』なお、残り八分は成人式、結婚式、出産、病気の世話、新改築の手伝い、水害時の世話、年忌法要、旅行であるとされる。

 

みんなに迷惑がかかる行為は、こうして「谷口家」の疎遠になることであろう。どうにか出来ないのであろうか。私は破邪顕正さんの主張は間違いとか思いませんが、文章に「人に厳しい文言」が見られるのは少し違っていると思っています。それと「谷口雅春先生の文章を使用して、相手を戒めるのも、私は心苦しい」正に、この文言も雅春先生の文章で引用も出来ますが、それはさすがに心苦しいのです。

 出来ないと解っていても手探りで「教団」とのがりを何処かで保持して欲しいと私は思っています。

自己撞着も眞の生命を観じて突き進んで欲しい

日野君の思いというのは「生長の家」教団を信じているということである。彼の信仰の原点である「天皇国・日本」も「生長の家」教団からは、三十年前から既に牙城は崩落している。

 その実態を見たくないというのが彼の中にあるのであろう。信じたくないのであれば、それでいい。しかし、何故愛国書を絶版したのか等、辻褄が合わないことは彼も解っている。それでも信じたいのであろう。平成の世に「谷口雅春」先生の御本を再版未定という名の絶版にしても、日野君は平気ではいられないはずであろう。その諸悪の因は「雅宣総裁」にあることも彼は知っている。

 だが、それでも信じたくないのであろう。「雅宣総裁」はそんなことをしないと思っている。いや、そう思わないと己の存在価値の否定にがるからである。あれこれと云っても、既に愛国集団は崩壊して、左翼の陣に則られ様としても平気ではないはずである。だから自己撞着のように「天皇国・日本」を叫んでいるのであろう。「安倍政権反対」もその一貫である。

 彼のような純粋な青年を「生長の家」教団の信徒として、このまま突き進むのであろうか?否、彼は其の点頭がいいから、それはない。自己撞着のなかで、闇の中から、思い切り手を伸ばして、救いを求めるであろう。

 

 天皇陵の参拝を発言してきたのも、泥水からの救いであろう。彼は元々、純粋である。純粋が故に、自分の枠に剣を向けてきたものは、反感せざるを得ないのである。ただ、宗教である「生長の家」を本来の「生長の家」として信仰を求めていることもある。幼き頃から「生長の家」家族として大切に育てられた。そのような人物を大切にしてあげたい。

 呆れるようなこともあるが、なんとか立派に育ってほしい。掲示板では彼に敵対するような言動もあるが、私はどんなことがあろうとも彼を信じている。それが私の役目である。平成の世もあと数日である。どんな、修羅場が来ようと「自分を照り輝く光となって」突き進むだけである。右顧左眄するなかれ、突き進むだけである。自分に疎い状態があろうと、艱難辛苦があろうとも、それを反対に糧として生きて欲しい。

 本来、そんな闇はない、光を差し込めば忽ち消え去る。それを信じて生きてほしい。

佐藤勝身と松本竣介

以前に書いた文章であるが、佐藤勝身と松本竣介(俊介)です。もう少し研究論文として集大成をしていきたいが、前回のブログで書いたように他にやらなければならないことが、多い。

 

佐藤勝身氏といえば「生長の家」では現在『法華経解釈』で谷口雅春先生の共著である。佐藤勝身さんです。その長男が佐藤彬氏であり、次男は佐藤俊介氏です。『生命の藝術』誌 昭和98月(『生長の家新聞』を廃刊にして)→昭和1111月号より『生命の藝術』を改題し『いのち』を創刊→昭和143月号『いのち』を改題し『行』~昭和1610月 号にて終刊

 

佐藤彬は当時では全国講師でもあり、『生命の藝術』の編集を担当した。次男はその兄の手伝いとして編集を行った。佐藤勝身氏は谷口雅春先生に手紙を書いて辞めたとなっていますが、眞相はわかりません。

ただ、佐藤俊介氏はインタ-ネットではそれとともに辞めたと書いているが、最近の博士論文で吉井宏平氏や小沢節子の「15年戦争と芸術家」との意見が微妙に異なる。

 

佐藤俊介は後ほど松本禎子氏と結婚し、養子となり名前も松本俊介、そして松本竣介と変えています。

松本竣介とは難聴で36歳という短い人生ですが、画家では大変有名な人です。

 

『生命の藝術』の編集して2年、次第に画家として多忙を極めて、その当時の思いが忘れられなく、雑誌の編集していたこともあり、自ら『雑記帳』という雑誌を作っています。

 

定斎屋の薮入り様から抜粋

佐藤勝身「泥の道へ傘をたゝんで土下座してしまつたのです」

 

 『生命の教育』の昭和1012月号は第1巻第5号。「左翼転向者の座談会‐思想教育の問題‐」が載ってゐる。出席者は谷口雅春・佐藤勝身、中林政吉・小西茂國・佐野哲生・山口悌治・村上幸一郎、佐藤彬・松本恒子。左翼が転向して如何にして生長の家に縁ができるやうになったかを話してゐる。

 

 佐藤勝身の小見出しは「私の体験は書物に魅せられて」。

 

正則の文学的教育を受ける余裕を持つてゐない為に、教科書代用として、当時青年の間に愛好されてゐた『萬朝報』といふ赤新聞を読んで居たのでありました。その新聞を読んでゐると、其の中には宗教家として内村鑑三、それから思想家には幸徳秋水、堺枯川といふやうな人があり、殊にその堺枯川の丸みのある文章、幸徳秋水の如何にもかう秋水の如しと申しませうか、素晴しい才気煥発的な筆致といひますか、それから内村鑑三氏の実に熱のある宗教的な文章を好きで読んでゐました。(略)この社会主義といふ思想に引ずられて、今考へて見ると畏れ多いことまでも考へたりしたこともありました。(略)朝日新聞か日本劇場のある辺に小さな長屋のやうなものがあつた、そこで『平民新聞』といふ小さな新聞を出したのでありました。そしてこの両人の思想に憧憬を持つてゐた私は引きつヾきその新聞を耽読して、本当に斯うでなければならぬ、さうしてこれこそ本当の偽らざる人間としての生活だといふやうな感じを益々熱烈に持つやうになつたのでありました。

 

 そんな佐藤に転機が訪れる。まだ舗装前の泥深い道路を、神田橋から内堀沿いの道を、坂下門の方に向かって、蝙蝠傘をさして歩いてゐた。門からは近衛の儀仗兵と馬車が出てきた。

 

 

その頃は徳大寺サンと云つたと記憶します、その当時の侍従長が馭車台を後にして畏つて居られ、相対されて、申すも畏いことですが、 明治天皇さまがお乗りになつて、お頬髯を深くお垂れさせられた龍顔に咫尺し奉つたわけでした。さうしましたらこの刹那、私は雨の降つてゐる泥の道へ傘をたゝんで土下座してしまつたのです。龍顔を拝したてまつゝた瞬間に、そこにぴつたり手をついて、さうして何といふのか判りませんでしたが辱けなさに泪零るゝとふやうな、何の理由もなくたヾ止め度なく泪がこぼれるのでした。お馬車が通り過ぎてしまつたものですから、起き上りました、袴はすつかり泥まみれでした。人が見たら、さぞおかしかつたらうとも思ひました。社会主義カブレの私が何故かういふことをしたか、何か知りませんが、このさうしなければならなくなつた自分がそこにあつたのでございます。

 

 この後に主義者の文章を読んでも何とも思はなくなり、生長の家に繋がる。一般人でも、明治天皇を見かけられる環境だったことがわかる。他にも親や軍隊への反抗、貧乏等から左翼になった体験談が話されてゐる。

 

 奥附を見るとこの佐藤勝身、編輯兼発行者の名前としても載ってゐる。転向者が『生命の教育』を編輯してゐたことになる。赤い主義者も陛下の赤子。

 

◆松本竣介 年譜

1912年(明治45年)

419日、東京府豊多摩郡渋谷町大字青山北町7丁目27番地(現在の渋谷区渋谷1丁目61号)に佐藤勝身とハナの次男・佐藤俊介として生まれる。

1914年(大正3年) 2

父・勝身の林檎酒醸造の事業参画に伴い、一家で岩手県稗貫郡花巻川口町大字里川口第13地割170番地(現在の花巻市南川原町)に移る。後に、花巻川口町館町(現在の花巻市花城町一区)に移る。

1919年(大正8年) 7

4月、花巻川口町立花城尋常高等小学校(現在の花巻市立花巻小学校)に入学。

1922年(大正11年) 10

3月、父の関係した貯蓄銀行開設にともない、一家は郷里の盛岡市紺屋町に移る。
4
月、岩手県師範学校附属小学校(現在の岩手大学教育学部附属小学校)に転校。

1925年(大正14年) 13

3月、附属小学校を卒業。
4
月、岩手県立盛岡中学校(現在の盛岡第一高等学校)に入学。のちの彫刻家舟越保武と同学年。 入学直後、流行性脳脊髄膜炎にかかり、聴覚を失う。

1926
(大正15年・昭和元年) 14

102日から再登校、中学1年生を繰り返す。
この頃、大正12年に設置された測候所下の、岩手郡浅岸村大字新庄第4地割字山王33番地(現在の盛岡市山王町)に移る。

1927年(昭和2年) 15

春、父・勝身から写真道具一式を贈られる。
3
歳違いの兄・彬は、友人・古澤行夫(のちの漫画家・岸丈夫)のすすめにより、油彩道具一式を買い竣介に贈る。
6
月から8月にかけて、《山王風景》や《山王山風景》を描く。
この頃、盛岡中学校の弓術倶楽部に属し、部活動に励む。

1928年(昭和3年) 16

春、盛岡中学校に絵画倶楽部が創立され、入部する。
12
17日、岩手日報に投稿した詩「天に続く道」が掲載される。画業に専心することを決めた心情を述べる。

1929年(昭和4年) 17

3月、中学3年を修了して間もなく、盛岡中学校を中退する。
4
月、兄・彬の東京外国語学校ドイツ語部入学を機に、母・ハナに付き添われて上京、現在の豊島区西池袋に住む。
太平洋画会研究所選科に入り、鶴田吾郎、阿以田治修などに指導を受ける。

1931年(昭和6年) 19

6月、石田新一、薗田猛、勝本勝義、田尻稲四郎らと太平洋近代芸術研究会を結成する。麻生三郎、寺田政明も参加。太平洋近代芸術研究会の研究会誌『線』を発行する。誌名は竣介が命名。
9
14日、会誌『線』第2号を発行し、同号で廃刊となる。
北豊島郡長崎町字並木1336番地(現在の豊島区長崎1丁目20番地)に転居。
この頃から谷中にある茶房リリオムに仲間たちと通い始める。
この頃、父・勝身が谷口雅春の主唱した「生長の家」の運動に傾倒し始め、兄・彬、竣介にも影響を与える。

1932年(昭和7年) 20

4月、太平洋近代芸術研究会の中心メンバーとともに赤荳会を結成。北豊島郡長崎町北荒井(現在の豊島区要町1丁目)の雀ヶ丘に貸しアトリエを共同で借り研究所とする。
この頃、靉光との交流も始まる。
5
8日、兵役免除を受ける。
9
月頃、赤荳会内で衝突があり、会が解散する。解散後も、仲間はリリオムに集い、交流は続く。鶴岡政男、難波田龍起、麻生、寺田らも集まる。

1933年(昭和8年) 21

4月、第5回北斗会美術展に《肖像》など5点を出品。
8
月、兄・彬が「生長の家」の機関誌『生命の芸術』の創刊に携わる。竣介も10月から193610月の最終号まで「でつさん」「人間風景」等の文章や挿絵を寄稿し、編集にも携わる。

1934年(昭和9 22

24日、慶應義塾大学予科英文学教授の松本肇(後の夫人・禎子の父)死去。肇は生前『生命の芸術』を通して兄・彬と交流があったことから、この時、肇の次女・禎子を知る。
6
月、第6回北斗会美術展に《風景A》など3点を出品。
夏、「生長の家」の出版物を販売する「光明思想普及会」設立に際して、父・勝身と母・ハナが上京し、一家は渋谷区原宿2丁目170番地8号(現在の渋谷区神宮前3丁目14-15番地)に移る。竣介も光明思想普及会の宣伝広告や編集の仕事を手伝う。
12
月、NOVA美術協会の機関誌『NOVA』第2号に「画室の覚え書き」を寄稿。
鶴岡、難波田らとの交友を深める。

1935年(昭和10年) 23

1月、第5NOVA美術協会展に《並木道》など3点を出品し、同人となる。『NOVA』第3号にも「画室の覚え書き」を寄稿。
9
月、第22回二科展に《建物》を出品し、初入選を果たす。

1936年(昭和11年) 24

1月、第6NOVA美術協会展に《洋館》とデッサンなど15点を出品。
2
3 日、松本禎子と結婚し、戸主として松本家に入籍、松本姓となる。淀橋区下落合4丁目(現在の新宿区中井)に新居を構え、義母・恒、義妹の泰子、栄子と同居する。
この頃、自宅のアトリエを「綜合工房」と名づける。
9
月、光明思想普及会から退く。
同月、第23回二科展に《赤い建物》を出品。
10
月、『生命の芸術』が10月号で廃刊となる。高見順、佐藤春夫、高村光太郎、長谷川利行、福沢一郎、靉光、麻生ら多くの作家、画家が随筆や素描を寄稿する。
同月、以前から禎子と構想を温めていた月刊の随筆雑誌『雑記帳』を創刊。発行所はアトリエ「綜合工房」。同誌には林芙美子、萩原朔太郎、高村光太郎らが文章を、藤田嗣治、福沢一郎、鶴岡らが素描を寄せ、原奎一郎は経済的にも援助する。また、自ら「雑記帳」等の文章や素描を手掛ける。

1937年(昭和12年) 25

1月、第7NOVA美術協会展に《有楽町駅付近》や《婦人像》など21点を出品。
4
4日、長男・晉が誕生するも、翌日、死去する。
9
月、第24回二科展に《郊外》を出品。
11
月、赤荳会およびリリオムのメンバーと共に、黒豆会を結成し、毎月会合を開く。
12
月、『雑記帳』を第14号をもって廃刊する。

1938年(昭和13年) 26

この年の前半に、柳瀬正夢『無産階級の画家ゲオルゲ・グロッス』(鉄塔書院、1929年刊)から人物像を模写し、研究する。
9
月、第25回二科展に《街》《落合風景》の2点を出品。

1939年(昭和14年) 27

2月、第7回フォルム展に《建物》など5点を出品。
7
13日、次男・莞が誕生する。
9
月、第26回二科展に《序説》を出品。
11
月、第1回六藝会展に《夕方》を出品。

1940年(昭和15年) 28

3月、第2回九室会展に《N駅近く》《黒い花》の2点を出品、以後会員になる。
8
月、第27回二科展に《お濠端》《都会》を出品し、特待を受ける。
10
月、銀座・日動画廊で初個展となる松本俊介個展を開催し、30点を出品。
同月、紀元二千六百年奉祝美術展の第2部西洋画に《街にて》を出品。

1941年(昭和16年) 29

3月、『みづゑ』1月号に掲載された座談会記事「国防国家と美術」に反論し投稿した「生きてゐる画家」が同誌4月号に掲載される。
5
月、盛岡で松本俊介・舟越保武ニ人展を開催し、《横浜風景》など30点を出品。
8
月、第1回岩手美術連盟東京展に《盛岡風景》を出品(のち同展は盛岡へ巡回)。
9
月、第28回二科展に《顔(自画像)》《画家の像》を出品、会友になる。

1942年(昭和17年) 30

2月、日動画廊で松本俊介第2回個人展を開催し、《議事堂のある風景》など35点を出品。
9
月、第29回二科展に《立てる像》《小児像》の2点を出品。
10
月、盛岡で澤田哲郎・舟越保武・松本俊介三人展を開催し、10点を出品。
この年、花巻時代の友人・砂賀光一の紹介で池袋の「レディ美容室」、蒲田の喫茶店「ブルーハワイ」、巣鴨のクラブ「世紀の翼」、五反田の「バー・ゴールドウィン」等の壁画制作の仕事をする。

1943年(昭和18年) 31

4月、麻生、靉光、寺田、鶴岡、大野五郎、糸園和三郎、井上長三郎と新人画会を結成し、第1回展に《鉄橋附近》など5点を出品。
9
月、第30回二科展に《三人》を出品。
11
月、第2回新人画会展に《並木道》などを出品。

1944年(昭和19年) 32

この頃、初めて「俊」から「竣」へサインの文字が変えられている。父・勝身のすすめであるという。
2
3日、理研科学映画(豊島区西巣鴨)に第三製作部描画課員として勤務、後に動画課へ移る。
5
9日、召集を受けた靉光の壮行会に出席。
9
月、第3回新人画会展に《りんご》などを出品。

1945年(昭和20年) 33

3月下旬、空襲が激しくなり、家族を島根県松江市に疎開させ、義妹・栄子とアトリエに残る。
同月、空襲により、理研科学映画は神奈川県大船に移る。
4
月、長女・洋子が誕生する。
9
月、前月の終戦を受けて理研科学映画が解散する。
同月、盛岡出身の友人・池田平吾の経営する中学通信教育の会社、育英社を手伝う。
11
月、盛岡で松本竣介・舟越保武ニ人展を開催し、《りんご》など数点を出品。

1946年(昭和21年) 34

1月、美術家組合を提唱する「全日本美術家に諮る」と題する文章を自費で印刷し、画家や知識人に郵送。
2
1日から育英社に毎日勤務するようになる。
3
月、『美術』第3巻第3号に「全日本美術家組合の提唱」が掲載される。
4
21日、日本美術会の創立に参加。
11
月、日動画廊で松本竣介・麻生三郎・舟越保武三人展を開催し、《少年像》など20点を出品。
同年から翌年にかけて、小川未明、林芙美子らの著書や雑誌の装幀、挿絵を手掛ける。

1947年(昭和22年) 35

1月、家族が疎開先から帰京。
同月、新人画会の麻生、鶴岡、井上と自由美術家協会に参加、会員になる。
6
月、第1回美術団体連合展に《少女》など3点を出品。
7
月、第11回自由美術家協会展に《人》《パイプ》など5点を出品。
10
月、岐阜で松本竣介・麻生三郎二人展(舟越保武も出品)を開催。
同月、長女・洋子死去。
12
月、育英社が解散。
同月、風邪をこじらせクルップ性肺炎にかかり、体調を崩す。

1948年(昭和23年) 36

2月、自由美術会員新作展に出品。
同月、次女・京子が誕生する。
5
月、高熱をおして、絶筆《彫刻と女》《建物》《建物》の3点を完成させ、第2回美術団体連合展に出品。
6
8日、持病の気管支喘息による心臓衰弱のため自宅で死去。法名「浄真院釈竣亮居士」。
現在、島根県松江市奥谷町の真光寺に、妻・禎子(201111月死去)とともに眠る。

ふと思う

松本俊介という画家を御存知でしょうか。『生命の藝術』とかの編輯に携わっていた人です。

父親は佐藤勝身です。当時幹部であった佐藤彬も俊介の兄であります。「生長の家」の立教後のことで調べていたのですが、どうしてもこの佐藤兄弟のことが頭から離れません。トキさんがよく戦前は良かったと書くが、確かにいい面としては「直接の雅春先生の指導」があったからだと思います。

だが、マイナス面としては当時、給与体系など個人の給与としては低賃金であり、それにより、戦後間もなくして、生長の家を去った人もいます。松本俊介は「谷口雅春先生」に手紙を残して「生長の家」を去ったといわれています。

もう少し勉強することもあり、当時の状況を知ることは後日にしたいと思っています。

 

「柳原白蓮」については二人の方が熱心に調べていただいております。「柳原白蓮」は戦後になり「平和運動家」として左翼の思想家に乗せられたり、正田美智子妃との結婚に激しく反対したりしましたが、愛国的な要素はごっそりと抜け落ちています。こういうことは誰かが調べて欲しいものです。

そのことで何か知らないが「藤田嗣治」という人を思い出す。日本画家であり「戦争の絵」を描いたりしていましたが、戦後「戦争を賛美」していたと揶揄され、嫌になって「フランス」に移住しました。

日野君へ

日野君へ

コメントありがとうございます。

 

さて、日野君はどうして『本流派』と云われる掲示板に参加するのですか?

 反論されるのに、どうして「いつまでも」書き続けるのですか。そういうのが周りに反感を撒き散らすこととなっているのです。論理的に説明出来ないのは、ある程度は理解しています。「反安倍内閣」を貫くのもいいが、威勢はいいが他人の論理だけに偏っているような気がします。私も直に『安倍晋三』という人物を見て来ましたが、日野君のいうような人物ではないことは確かです。それは100%です。人物像や政策や法案を通す能力や「いろんな人をブレ-ン」に付けて行動されています。驚くような行動力です。いままでに首相になられた人でも一番であると感じています。日野君には失礼だが、どれだけの政策を実行されたかあまりにも御存知ではない。知らな過ぎるのも「マスコミ」の影響かも知れないが、私は勉強をしないで叫んでいるのは見っとも無いように見える。まるで「立憲民主党」のように見えてしまう。其の点もう少し大人にならなければ恥である。

 今回、私は谷口雅春先生の『やまと新聞』における原子力発電の賛成する言葉を『古事記の預言せる石油危機を探る』で全文を公開して、その意図を読者に探ろうと考えたのですが、讀んでいないのを実感した。自分で調べて発言するという基礎をやらなければ、どうしても弱い言葉になってしまう。

 『神武天皇「東征」ルートを歩く』ということで、シリ-ズで発表していますが、『古事記』『日本書紀』の原文を使用し、その傳稱地といわれる所を歩き、発表しています。全体的には読者には関心ないことなのかもしれないが、メ-ルとかで勉強になりますということで戴く。

 

それでは、現在の「自民党政権化」と比較するのはどうしても「民主党時代」となります。

まず第一点

①あの民主党時代との外交能力です

 有名なアメリカとの関係は確かに最悪でした。鳩山首相の時代は沖縄の米軍基地は「最低でも県外」の発言は今でも尾を引いてしまい。アメリカでは沖縄だけではなく日本に嫌悪感さえ出て来たのはたしかです。オバマ大統領は鳩山首相に完全にソッポを向いてしまった。

一方では鳩山首相は「中国の属国になります」という宣言で当時の小沢一郎が483人の大使節団を率いて訪中。胡錦涛に、「私は、人民解放軍の野戦軍司令官である」と宣言したことはシュックであった。二度と共産党や立憲民主党と云う時代にしてはならないと思った。

 共産党もしかりである、未だに「マルクスレ-ニン主義」を唱え、世界で「共産党」という独裁主義はいけないということを認知しているなかで、そういう主義を唱えているというのが不思議な人達である。

 

「尖閣諸島中国漁船衝突事件」では中国に当時の菅首相は遠慮して当時の動画を放送しない。日本のとった行動は何一つ悪くはなかったが、管首相の行動により、最悪の状態になった。そこから中国は『尖閣諸島は中国の固有の領土である、核心的利益である』といわれ、今でもその状況は脱しきれないでいる。

 当時、中国は急に『レアア-ス禁輸』を打ち出し、日本経済は大打撃を受けた。

また、「東日本大震災」での対応のまずさである。東電は管首相から「撤退せよ」と云われたが、爆発のおそれのある、現場で不眠不休の処置で対応していた。菅さんは「全員撤退せよ」と東電は言ったといったが、あとでわかったのが「事故処理に必要な人間だけ残して後は引上げします」と云ったことがわかる。

 菅さんは東電事務所で当時の社長を「シミズ」と何度も呼び捨てににして、周囲にはこれでも一国の総理かと疑問を呈した。こういう人には任せられないというのが大方の印象であった。

 野田内閣に至っては。20127月、ロシアのメドベージェフ首相が、北方領土、国後島を訪問。日本国民は激怒していました。これで、日ロ関係は、悪化。2012810日、韓国の李大統領が、竹島に上陸。814日、彼は、「日王が韓国に来たければ謝罪せよ」と発言。日本国民は激怒し、日韓関係は最悪になった。そして、2012911日、野田内閣は「尖閣購入」を宣言。日中関係は、「戦後最悪」になってしまいます。

 それと同時に中国の反日騒動が起こりました。「ユニクロ」などの対応は本当に悪かった。こんな最悪な政権はなかった。アメリカ、ロシア、韓国、中国と外交も最悪であった。それが韓国は別としても、アメリカとの関係は持ち直しています。ロシアとの「外交」もなんとか出来る状況になっています。

 「金融政策」は雇用の促進と産業界の促進である。民主党政権はその逆を行っていた。

 スーパ-堤防といわれる、低地地域には絶対に必要な政策を「民主党政権」で削除してしまった。その矢先に「東日本大震災」が起り、「ス-パ-堤防」の必要性をマザマザと感じた。

 

②現在はかなりの「経済成長」を実現しました。

 しかし、それでも反対なことをいう人もいます。それはさておき20092012が民主党政権時代です。比較して下さい。

  • 国民所得(要素費用表示)(Excel形式:90KBファイルを別ウインドウで開きます

  • 家計貯蓄率(Excel形式:237KBファイルを別ウインドウで開きます シート(4)a 所得の使用勘定 参照

  • 制度部門別の純貸出(+)/純借入(-)(Excel形式:51KBファイルを別ウインドウで開きます

    やはり、反対とか云う前に「どうして反対か」を説得力ある言葉で云わなければならない。そうでないと相手は反論するばかりで、却って逆観念を植え付けてしまうことを勉強して下さい。

     

     私の「谷口雅春先生著作年譜一覧表」は人生を賭しての勉強であります。今後、それを踏襲して戴く人も少なくなっています。また天皇論についてもそうです。歴代天皇を学ぶことを行っている人も少なく、「谷口雅春先生の精神」を継承する人も殆どいません。

     

     私の『歴代天皇陵墓』を参詣することも、現在は行っている人は見かけません。何故なんでしょうか?「教団」とか「本流」とか云う前に「天皇陵」などを参ることを心掛けることが必要だと思っています。それが何故出来ていないのかというと、関心がないからです。

     歴代天皇との絲というがりがないからそうなるのです。仰慕する気持ちがないからなんです。残念なことですが、これが現実です。

     

     「天皇国・日本」というがその精神は「雅春先生」の考えを継承しなければ意味がありません。夥しい谷口雅春先生の書籍が焚書坑儒されているなかで、どうすればいいのかを考えて欲しい。

御顕斎-①

今、生長の家の信徒で「顕斎」と云ってもご存知でない方が大半だと思います。

私はこの顕斎に奉納芸能の進行係で一週間奉仕させていただきました。

 

この「顕斎」というのは昭和531121日から28日の間、長崎総本山において開催された生長の家において実に重要な大祭であります。龍宮住吉本宮・鎮護国家出龍宮顕斎殿 落慶鎮座奉祝大祭です。横綱若乃花の土俵入りや創作曲の「日本誕生」「住吉大神御出御」が曩祖太鼓の若者によって打ち鳴らされた響きは顕斎殿にこだました。

 

プログラムとしては21日午後2時より神殿祭、午後4時まで鎮座祭が執り行なわれました。

 

22日は生長の家秋季記念日祝賀式典、午後から曩祖太鼓。

 

23日~28日までは落慶鎮座奉祝大祭

 

また生長の家の後援による“泥かぶら”が上演された。その上演されたのは旧道場近くの中学校体育館によって開かれた。また各駐車場において“神々の「祭り」”ということで長崎の竜踊り、岩手県の鬼剣舞、島根県の海潮山王寺、愛媛県の伊予漫才、岩手県の鹿踊り、地元西彼町の龍神祭、島根県津和野の鷺舞、鳥取県の傘踊り、岐阜の谷組踊り、大分県の草地踊り、長崎県の黒丸踊、新潟の鬼太鼓、伊勢太神楽、京都の六斉踊、兵庫の梯子獅子、岡山の備中神楽、山口の君が代踊、香川のさぬきばやし、長崎ののんのこ節、熊本の虎舞、宮崎の高千穂神楽、宮崎の臼太鼓踊、鹿児島小原節、沖縄舞踏など日本全国各地の伝統芸能が披露された。また九州物産展も開催された。

 

23日から28日の6日間は日本全国の信徒55千人が馳せ参じた、駐車場はバスですぐに満車となり約250台のバスから一斉に仮トイレに駆け込む姿が長蛇の列を成したのは、私にもイラつきを覚えさせたのは今も脳裏に鮮明と蘇る。私は“神々の「祭り」”の実行委員であり、時として、配膳担当にもなった。この6日間は四先生の御指導による祈り合い神想観において大いなる愛念として如意宝珠を授かるという光栄に浴した。

 

練成道場での出入りで一挙に人が動くため、靴が無くなることもあり、私も誰かが間違って履いていたようで、もう一人しきりに私と同じように靴を捜している人がいた。よく見ると現総裁の谷口雅宣先生であった。互いに靴が無いのですねと笑った。

 

さて、この「顕斎」の意義は皆様御承知のことですがこの大祭の終わりに近づいた27日に谷口雅春先生は庭園を散策されながら「この美しいたたずまいの中に本当に神様がいらっしゃるのですね」と語られたのであります。まさに聖地に相応しき土地であった。

  

八紘一宇人類一家族成就の祈り

 

          谷口雅春

 

神は無相にして恰も鏡の如く、鏡が鏡面に向った人の貌をそのまま映し出すが如く、それを礼拝する人それぞれの心の相に従って神がわれらに与え給うところの功徳も異ることになるのである。

 

 住吉犬神を祭祀し奉る神社諸方にあれども、住吉大神御出現の意義を正しく把握して、その意義を完うせんがために神祀る神官も教少く、たといかくの如き神官ありと雖も、住吉大神の由緒及び御使命を参拝者に教える神官といいては殆ど稀なり。それゆえに参拝者は住吉大神を唯、鎮守の神として、或は産土の神として、或は安産のための腹帯を賜る神として或は繁栄の神として、自己の個人又は一家の福祉のために参拝する氏子のみ多くして国家一大事の時に方りて天照大御神の稜威の出現のための道を開く宇宙浄化の大神として祭祀し又、参詣し礼拝する人々に至っては絶無といってもよいのである。それ故に龍宮宏大無辺の功徳を内蔵したまう住吉大神の“聊心の鏡”には、鏡面に相対する参拝者の心の相だけの御徳しか顕現せずして今に至り、それが長き習慣となり、折角、宇宙を浄め給いて天照大御神の御光を六合に照り輝かす道を開き給う住吉大神の大徳を埋没せしめて、この侭にては皇国の御光を宇内に輝かす道絶えたり。その諒に乗じて現下、赤き龍の輩日本国の四方に回りてさまざまの策動をなし、天皇は豊芦原の瑞穂国治しめす御使命の御座より単なる“象徴”という人格も神格もなき空座に移され奉り、そのために、天皇の御国ヽ既に皇国の姿失われ、恰も天照大御神の天之岩戸隠れを再現せるが如き暗澹たる国情となり、今や、いつ“赤き龍″の策謀成就して、この国に革命の焔燃えあがるとも計り知れざる情態となっているのである。

 

 この時、この際、妖気漂う革命の暗雲を一掃して、日本国家の礎を安泰ならしめ、『古事記』に預言される如く、豊芦原の瑞穂の国は世々天照大御神の神霊を世嗣し給う天皇の治しめす国なる神定めの日本国の実相を顕現し泰るためには、住吉大神を新たに宇宙浄化・鎮護国家の大神として更めて祭祀し泰り、祭司の心も参詣者の心も共に浄まりて、住吉大神の“御心の鏡”に彼らの向うとき、大神の本来の国家鎮護皇国護持の御使命が完全に発動され妖雲暗雲ことごとく祓い浄められ、“赤き龍“の住み家は最早や日本国土に残る隈もなくなりて、国土安泰、万民泰平を謳歌し、天照大御神の御稜威六合に照り徹りて、神武天皇建国の御理想は実現せられ、ハ紘は一宇となり、万国の民悉く集りて天照大御神の御徳を中心に仰ぎ泰りて永久平和の世界連邦の理想必ずその達成を期すべきことを信じ、茲に実相世界に存する龍宮住吉本宮の型代を地上に造営し奉り、住吉大神を実相世界の秩序に従いて顕斎し奉り、大神の御徳の全世界に光被せんことを冀う。

 

 これを以て生長の家九州別格本山に住吉大神の神殿を建立する所以を明かにしたのである。大神この趣旨を受けて嘉し給い、祭官及び諸民この趣旨に従って住吉大神を礼拝し泰るとき、茲に全世界の浄化は成就し、まことに御心の天上に成るが如く、地上に八紘一宇、人類一家族の永久平和の天国は実現するのである。ありがとうございます。

 

まだ九州別格本山と呼んでいた時期である、住吉大神の神殿建立は谷口雅春先生の悲願であり、信徒の願いでもあった。

 

谷口雅春先生のお言葉       昭和5364

 

おまつりには、顕斎と幽斎とがあるんですが、幽斎というのは、神さまの霊をそのまま“幽”の世界にあらしめて、神様の霊に向ってわれわれ人問の霊が、心を鎮め、精神を統一して、われわれの方が龍宮の方へ入っていくんです。そして、龍宮の諸々の宝を戴いてきて、われわれが宰福な裕かな生活をするんだけれども、そのためにあの宇治の別格本山に、入龍宮幽斎殿というのができているのであります。

 

 しかし、われわれが、神想観をして「われ今五官の世界を去って実相の世界に入る」と念じて龍宮界に入る。実相の世界とは龍宮です。そうして龍宮へわれわれが入って行って、諸々の七宝充満している世界で、その財宝をいただいてきて、浦島太郎のように、永久に若い命をいただいてきても、これは自分の個人の功徳である。しかし“それだけではいかん″という時が末ているのです。それで、この九州の地にですね、長崎の地に土地を見つけることになり、自然とそこへ導かれた訳であります。そしてここに、住吉大神の御社を建てようということになったのであります。四方靖朗さんが、その土地の図面をひろげられて最も平かな地面のところを指さして「此処がいちばんよいでしょうね」と言われたんですが、「そこはいかんよ、ここがいい」と、私はその時、図面をだけ見て言ったのです.それが、此所なんです。あとで、私が指さしたところはどこであるかと、実際と地図とを対照して地名を調べてみると、大神平という所である。そういう所へですね、自然とそニヘ住吉大神の本宮を建てるということになっていたのであります、

 

 かくの如くして、住吉大神さまは、あらかじめ、ここが良いと、場所を撰択された。その場所に、今、住吉大神の本宮が建って七分通り完成した。そこに、入龍宮幽斎殿じゃなくて、出龍宮顕斎戦―龍宮から住吉大神が出てまして、顕斎が行なわれるということになっているのであります。

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こんな時代もあった。

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心の奥底で和解

「折衷案」と云いましたが、トキさんは条件付きの「和解」である。

【本当の和解は互いに怺え合ったり、我慢し合ったりするのでは得られぬ。怺えたり我慢しているのでは心の奥底で和解していぬ。】

 

心の奥底で「和解していない」とは、「和解」というのを条件付けたり、このようにしなければならないと自己限定していては「和解」などは本当の「和解」といわない。

前に書きましたように、「学ぶ会」では「日本教文社」と谷口雅春先生の御本を販売している。(練成会で)「教団」でも光明思想社の谷口雅春先生の御本を購入すればいいだけの話である。そうすることにより、互に交流していく。

 そんな簡単な事が、トキさんは出来ないと云っている。出来ないと言葉では云っていないが、その様に提案した私の案を拒否した。

嗚呼、このトキさんは条件付きで、こうしなければ和解をしないと云っているんだな。よくも恥ずかしくないのか。失礼ながらそう思う。

 そんな条件をつけ、折衷案のような事は「和解」とはいわない。心の底から、自分の心に赦しを得て欲しい。

 何年も「生長の家」の信徒として経験している人でさえ、意地を張り、本当に感謝が出来ない人が多い。

トキさんの「和解」は折衷案である。

「知らずして犯す罪の重さ」というものがあるが、昨日のトキさんの遣り取りで感じるのが、裁判というものはちゃんと準備というものをしておかなければならない、嘘でも「発言したものが優位」となる。片方はそれを「論破する」発言をしなければならない。

 裁判に敗訴したからといって、簡単に「失態」という表現を使うとは反対に目を疑う。論理的なことが出来ないのは「失態」でもなんでもない。単なる勉強不足だけである。

失態とは

人に笑われるような恥ずかしい失敗をすること。体面を失う。

 

教団側はそれほど「体面」を失うようなことをしたかという自覚などはない。だから自覚のない団体に「失態」と外部が発言しても、そのように思っていなければ「体面」も無理矢理維持できる。

 

 さて、私が書いた文面に「教団側」にも現在著作権のある光明思想社の『聖經』や『生命の實相』を購入すればいいと書いたが、私の意見に“賛成出来ない”とトキさんは発言しました。ということは「和解」など言っているトキさんは「四角四面」でこれしか出来ないと発言しているに等しい。それならば何のトキさんの「和解」ということなのか?

折衷案も出来なければ、「和解」など出来るわけがない。信徒が困っていると書いて、光明思想社や社会事業団は「日本教文社」の雅春先生の著作を販売している。だから「教団」も光明思想社の本を購入すればいいだけの話である。

 

トキさんの和解は“条件付き”の「和解」であって、雅春先生のお説き下さる「和解」とは程遠い。今回の話でトキさんと掲示板で話したが、遣り取りして「良かった」と思っている。

トキさんの「和解」というのは条件付きであることがわかった。そういうのは「和解」とは言わないこともわかった。そのコトバをトキさんが使ったらこの掲示板を御覧の皆さんは「折衷案」と思ったほうがいい。「和解」でもなんでもない。

傍観者でいるトキさんに苦言

さすがにトキさんはイヤミではなく、人の事を思って居られています。また生長の家の幹部としても、偉いと思います。感謝申し上げます。

 

おそらく、則天去私さんは、生長の家社会事業団に過去に寄付をされた事実のみで、これを間違いと考えたのでしょう。

 

頭のいいトキさんですから、申し訳ないですが、何を言いたいのかわかりません。馬鹿でもわかるように説明をお願い致します。

民事訴訟法では

312

1.上告は、判決に憲法の解釈の誤りがあることその他憲法の違反があることを理由とするときに、することができる。

2.上告は、次に掲げる事由があることを理由とするときも、することができる。ただし、第四号に掲げる事由については、第34条第2項(第59条において準用する場合を含む。)の規定による追認があったときは、この限りでない。
一  法律に従って判決裁判所を構成しなかったこと。
二  法律により判決に関与することができない裁判官が判決に関与したこと。
三  専属管轄に関する規定に違反したこと(第6条第1項各号に定める裁判所が第一審の終局判決をした場合において当該訴訟が同項の規定により他の裁判所の専属管轄に属するときを除く。)。
四 法定代理権、訴訟代理権又は代理人が訴訟行為をするのに必要な授権を欠いたこと。
五  口頭弁論の公開の規定に違反したこと。
六  判決に理由を付せず、又は理由に食違いがあること。

3.高等裁判所にする上告は、判決に影響を及ぼすことが明らかな法令の違反があることを理由とするときも、することができる。

 

 多分、判決の理由も付せず、構成も出来ていなかったのを放棄していると「教団」を批判しているのでしょうが。教団もよくやると思います。これからトキさんに弁護を「教団」は頼んだ方がいいのかも、自分の勤め先を平然といえるものである。その辺は「思っても」言わない人もいるが、いつもトキさんは傍観者だから言えるのだと私は思います。

 いくら、私の意見に賛成しかねると雖も「最高裁」で確定しているのだから、間違いだと云われても普通は納得するしかない。トキさんは悔しかったのか?

 

  しかも、谷口貴康先生の陳述に寄れば、教団側の主張は過去の教団の顧問弁護士の鑑定と矛盾すると言うのですから、目も当てられません。民事訴訟では、いわゆる弁論主義と言って、当事者の主張が判決の基礎になります。裁判記録を見たら、両者の主張を裁判所が比較した結果として、裁判での教団側の主張のうち、裁判所が認めたのは時効抗弁だけと言う惨状ですから、これを失態と言わずして何と言うかです。則天去私さんはご存知でないからもしれませんが、時効抗弁というのは、単に年数の経過のみを問題とするものですから、援用すればそれでおしまいです。当事者の言動の是非は問題とならないのです。

 

 すいませんが、時効抗弁は残念ながら知っていました。でも私は是こそトキさんは御存知だと思っていますが、35年程前までは「生長の家社会事業団」は「生長の家」という名前が付いているだけで、実態はそんなものでなかった。それと「生長の家神の国寮」に対する「暴行事件」というのもありましたが、生長の家教団は知らん顔です。

 私の地元で「神の国寮」に勤めに行った人がいましたが、理想と現実の違いを驚愕されておられた。本来は「生長の家」の名前が付いているのだから、指導監督する立場であったと思っています。それが出来ていなかった。「生長の家系列法人」とか云う前に、そういう実態を思い出して発言されたほうがいいと思います。

私はそんな傍観者の発言に終始するトキさんの意見は賛成しかねます。

古事記の預言せる石油危機を探る

『やまと新聞』昭和49年1月5日

年頭の所感 古事記の預言せる石油危機を探る
(やまと新聞)

地球文化の一周期が終りに近づき我らは新しき年を迎えんとするのである。

地球にも周期があり、人間にも周期があり、人間の使う資源の供給にも周期があり、そこに秩序があり、秩序の中に神の無言の“指導の智慧”があるのである。周期の終りには、新しき秩序と入れ変るための破壊と混乱とがあるのは、肉体人間が地上生活の一周期が終って、その霊魂が霊界に移行しようとするとき、その肉体にも精神にも擾乱が生ずるのと同じである。精神が既に浄められた人には臨終に際しても精神的擾乱があまり起らないで平和と感謝とが見られるが、生理的秩序の混乱は概ね避けられないものである――それと同じように、地球の一周期の終りが近づいて新しき周期の出発に近づこうとするときには、処々に爆発が起ったり、今まであまり起らなかったところに地震が頻発したりする。

人種の盛衰にも周期があり、今まで勢力を得て地球面を支配してわがもの顔に振舞って来ていた白人種の支配力が後退して、有色民族が勃興伸展して白人種を圧するようになるのである。アラブ民族の連合による白人の文明をその基礎から覆そうとする石油の減産、供給の制限は地上の文明が白人支配から有色民族支配に移行しようとする最初の兆候であるということができるのである。

 世界人類の心はこれによって動揺する。人心の動揺に從って気候も動揺して、これまでになかった気象状態が地球上を訪れて来る。南よりも北の方が温度が高いような変化が頻発する。また諸方に、今まで期待されなかった地域に地震が起ったりする。それは人体が断末魔のときに痙攣が起ったりするようなものである。

 しかしこれらの事は応(まさ)にあるべき事があるのであって別に恐怖すべき事でも驚駭(きょうがい)すべきことでもないのである。地球を支配する生命が新生しつつあり、新しき秩序が生まれて来つつあるのである。人間の肉体の死が悲しむべき事でも、恐るべきことでもなく、それがその人の魂の新生を迎えんとしつつあるようなものである。

 毛虫は蛹(ナサギ)となり、一時、死んだように静止するけれども、やがて翅(はね)が生えて空中飛行をするのである。

 人類の文明も、毛虫が植物の葉をやたらに食して糞(くそ)を諸方にたくさんひり散らして生長するように、多くの地上の資源を食い荒らして、至る所に公害の糞(くそ)を垂れた。その糞のために物質文明は人間から嫌われ、愛想をつかされたのである。しかし毛虫は、そのような過程を通してのみ、美しき蝶となって空中に舞う舞姫として蝶となることができるのである。

 それと同じく人類の文明も、まず精神文化の基盤として物質文明が発達し“衣食”がそれほど労苦することなくして得られる如き起訴状態をつくり置くべき必要から、先ず、西欧のイザナミ文化が先に出発することが、『古事記』に録されたるイザナギ・イザナミの魂の交合による天地創造の物語に秘かに示唆されているところである。そのようなイザナミ(波の文明-物質文明)の先行は、結局は、古事記神話のおいては沫島(あわしま)を生み蛭子(ひる子)を生んで、“本当の人間”の文化とならずして「流し棄てつ」と象徴的に書かれているのである。そして『古事記』はそのイザナミの支配する物質文明が黄泉国(よもつくに)と称せられて、結局、人類の全滅死にまで行きつく運命をもつものとして、その世界を支配する“神”であるところのイザナミ命を、『古事記』神話は黄泉大神(よもつおおかみ)という名称をもって呼び、「蛆たかり蠢ぎて」その全身が雷神に蔽われたる姿にて描き、更に死の軍勢(よもついくさ)-黄泉軍)を引率して、霊の大神なるイザナギノ神を追撃して来るのである。ここにイザナギノ大神はそれを十拳劔(とつかのつるぎ)をもて防ぎ給いつつ、尚のがれて黄泉比良坂(よもつひらさか)の坂本まで来られた。”比良“は昼の転であり、黄泉(よもつ)は暗津(やみつ)の転であり、”暗”の軍隊の急造によって愈々、“暗”が昼の国―光の国に襲いかかる”暗黒”との決戦となるのである。

 これはまことに石油戦争の預言であるのである。アラブの石油減産は吾らから”光”を剥奪して暗黒を地上にひろげることになって、暗黒による世界制覇が実現せんとして吾らに迫って来つつあるのである。

 その時、光の国を象徴するイザナギノ大神は如何にせられたかというと、『古事記』の神話は、『その坂本なる桃の実を三つとりて、待ち撃ちたまいしかば、(黄泉国の軍隊は)ことごとく逃げ返りき』という風に説いているのである。今ほど「坂本なる桃の実」をもって、暗黒をひろげることによって世界を征服せんとするアラブる神どもを鎮圧して、もとの如く、この世界に光を取り戻さねばならぬのであるが、そのためには「坂本なる桃の実」を必要とする時が来たのである。

 「坂本」とは「栄えの元」である。「桃の実」とは”桃太郎”の神話の中に出て来る生命の河の上流から流れ降って来るところの”生命の樹の実”の哲学即ち『生命の実相』哲学である。その“桃の実“によって”桃太郎”は生まれ出て、鬼が島即ち死の国(黄泉国)を征服し、栄えの国を回復することができるのである。

 今、この日本の国(イザナギノ大神を以って象徴する霊的文化の国)を救うには生命の実相哲学の三つの果実が必要である。それは

「物質、物質に非ず、これを物質という」―即ち天地一切のものは神より出でたるものであるから、”勿体ないもの”であるということを悟って苟くもこれを浪費したり、遣い棄てしないことである

アラブる光を消さんとして吾が国に迫り来つつあるアラブる”暗の国”の軍隊も、実は“暗の国”の軍隊にあらずして“光の軍隊”であり、今まで光を吾らに与えたところの恩恵者であり、これからも、吾々に永く“光”を供給してくれる“光”の友邦である―という実相を見てこれらの国々に真に誠意と感謝の意を以って接することである。

今まで神の生命の延長として地上に生まれ来たろうとしていた胎児を暗から暗に葬ったる吾らの過ちと罪とを彼ら胎児の霊に詫び、彼らの暗黒なる冥界から救い出して“光の世界”にその霊を導き出してお詫を完うするために、国家的な行事として人工流産児霊大施餓鬼を行なうことである。それは築地の本願寺でやってもよいのである。

 アラブがイスラエルとの戦争を契機として今まで石油の形で送って来ていた“光”を我らに送ることを減じ、われらの生活を暗黒にしようとし、現に大いに暗黒の度を加えようとしていることは、「類は類を招き」「与えたものが自分に返ってくる」という、実相哲学(桃の実)から判断するならば、実はアラブが我々に“暗”を与えたのではなく、今まで多くの胎内に宿った聖霊を殺して“暗の世界”に送ったことが、自分の世界に撥ね返り、反映し来っているのである。戦後実に五千万人の胎児の祖霊が暗から“暗の世界”に葬り去られているのである。せめて速かに、堕胎公許の優生保護法を改正して「再び胎児の聖霊を“暗の世界”に葬るようなことを致しません」と懺悔の実をあらわすことが、“光”をこの日本に取戻す道である。

 かくて、この“桃の実”をもって“暗”の国に光をとばし、再び“暗”をつくる過ちを繰返さなくなった時、日本国は再び、石油より来る“光の資源”は勿論、石炭の液化技術の開発、風力や海水の落差の利用、太陽熱や地熱の利用は勿論のこと、原子力より得られる“無限の光”をも安全に公害なく利用し得る技術を開発して日本全土を無尽の光をもって照り輝かし、過去の最も豊かなりし頃の日本よりも、尚一層、光輝く地上天国をこの土に実現し得るに至るのである。今はその新しき地球文化の黎明である。光はまさに昇ろうとしつつあるのである。
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日野君には失望である

水源地? (26483)

日時:20190413 () 0738

名前:ときみつる會会員

その出発点(水源地=生長の家の大神)を埋め立てて全然違う場所に無理くり水源地(造化の三神)を作り、そして目的地(海=天皇国・日本)にたどり着けるべくもなく水源地からの水(信仰・信徒)が消えて行っている状態ですが。

 

それと

>>総裁家は決して分裂しておりません。<<

などとダダっ子みたいな事言わず、皆が求めている質問に論理的に真摯に答えてください。自分が蒔いた種は自分で刈ってくださいね。

 

ちなみに総裁が高知に来られた時、遊ぶ時間はたくさんあるのに母親たる恵美子先生に会わないのはこれいかに?貴康先生は、度々わざわざにお会いに来てますよ。

 

表面しか見れない方に答えても無駄でしょう (26488)

日時:20190414 () 1413

名前:日野智貴

 

 繰り返しますが、川の流れは別れたように見えても、出発点(水源地=生長の家の大神)も目的地(海=天皇国・日本)も同じなのです。

 

 自分の流れが本流であるから、相手はニセモノというような心は、すでに表面しか見ていません。水源地も目的地も一緒であれば、細かいことに捉われるのは迷いです。

 

 カトリックでもプロテスタントでも救われる人はいるし、生長の家でもときみつる会でも救われる人はいる。

 

 オウム真理教は仏教を僭称した詐欺師ですから、それで救われることはないものの、そういう詐欺師を除くと真言宗でも日蓮宗でも浄土宗でも曹洞宗でもどの宗派でも救われる。

 

 雅宣先生が護憲派だという事実無根の妄想に捉われてしまっている方には、何を言っても無駄なのです。ただ、川の流れをゆっくりと見つめていてほしい、としか言いようがありません。

 

日野君は独り頑張っている、だがそういうことは「ここの掲示板でいうより、生長の家総裁に連絡したほうがいい。現総裁に聞けばいいのである。

だからこの愛国掲示板で「雅宣総裁」に反論されている皆様の所でこういう質問は日野君は禮に失している。しかも無駄だとかいうのであれば、こういう掲示板で自分の意見を言わない事である。

私が総裁のブログで反論するに等しい。私はそんなことを書くのは無駄であるからそんな事はしない。

無駄であれば愛国掲示板で意見を書かないことである。意見を吐き捨てるような書き方も失礼であろう。もう少し丁寧な書き方が出来ないのであろうか。

また、私のブログで質問して「丁寧に答えた」が何の御礼もない。日野君には失望である。

いがみ合う感情は教団側が大きい

教団を退会する人が激増している背景 (12144)

日時:20190412 () 1551

名前:トキ

 生長の家教団を退会する人が加速度的に増えています。もちろん、正確な数字は一部の人しか知りませんが、部内の士気も低下しています。今まで総裁万歳を叫んでいた人ですら、講習会の推進はこれ以上できないと悲鳴をあげています。

 

 一般にその理由として、本部が谷口雅春先生の教えを放棄し、独自の環境・リベラル路線に変えたせいだと言われています。これは確かにそうですが、それと同時に無視できないのは、教団側が「聖経」「聖典」が入手困難になっているのに、それに対する対応を全くしない姿勢に多くの信徒が失望を覚えていることです。基本経典の著作権を奪われる(奪われたというのは間違い)①という失態(失態という表現は間違い)をしたのに、誰も責任を取らず、また、その手当(補填)をしないというのは、現在の指導部が基本的な任務すら放棄したと言わざるを得ない事態です。

 

 例えば、「聖経」については、光明思想社が独自の販(版)を出版しており、生長の家社会事業団はこの販(版)を使えと教団に通達をしています。悔しいでしょうが、元々の原因は教団側の失態(これは失態ではない)①にあるのですから、これは受け入れて仕方がないではないかと思います。「聖典」については、あの光明思想社版は独自の編集(編輯)をしているので使えません(版権で使えないのは光明思想社も同様)が、版権の転貸などの交渉は始めるべきではないでしょうか。

 

 つまり、信徒の多くが失望しているのは、生長の家社会事業団の行動も支持できないにしろ、教団側の姿勢も決して褒められたものではない、という点にあるかと思います。

 

 両者の対立が激しいのは理解はしますが、信徒にしたら、「そんなの関係ない!」です。少なくても話し合いは初めて欲しいと思う人は少なくないと思います。
赤字は訂正箇所

 

よく読んでいくと、トキさんには憎悪の感情がそのままコメントとして現されているので、素直な表現だが、間違いは訂正させていただこう。

戦後の戦災孤児に爲に『生命の實相』の版権を譲られたのが雅春先生です。教団の失態とかではありません。

 裁判記録が掲載されているので読まれたほうがいい。

 仲直りなんかは簡単なことです。教団側も素直に「光明思想社」の出版されている本を使えばいいだけである。こんな簡単なことはない。

 社会事業団開催の練成会では日本教文社の谷口雅春先生の御本を販売している。
冷静で公平にみると「教団側」の方が素直ではない感情が大きい、もう少し大人の対応が出来ないのであろうか?

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