則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2019年01月

讀んで戴ければ幸甚です。

ガバナンス=隷属ではない

トキさんからコメントがありました。感謝申し上げます。

 

 

 ただ、山ちゃん1952様の投稿で誤解を招く部分があります。「ガバナンスができていない」とありますが、彼らは「総裁先生のご指導を信徒に守らせる」という点については気をつけていて、そういう点についてだけは「ガバナンス」を徹底させています。

 

確かにそうです。その通りです。それならば、ガバナンスというのは隷属なのかであります。

最近ニュースで取り上げられる言葉としてコンプライアンスという言葉がありますがガバナンスには統制及び式系統の規律を遵守する意味も含まれているように思っています。

 

そのように考えると現在の生長の家教団は総裁の指示系統は信徒は奴隷の立場であり、服属しなければならない存在であります、それがおかしいと私は思います。一人の人に中心帰一など左翼的な腦で考えている人には「No」であり、それがガバナンスが出来ていないと私が思う理由です。

トキさんの言われるように総裁のみに遵法であり、それ以外はどうでもよいというのはトキさんのいうのもその通りであります。そんなの宗教的におかしいとわかっているが、なかなか実行出来ないのも性である。

総裁の意見が正しいと思っている人は雅春先生の本を読んで欲しい。そこからスタ-トするしかない。

雑感

仕事が忙しく、昨日の夜8時頃に帰宅して日曜日の朝には今度は埼玉県三郷市のほうに行きます。予定では1/282/7までです。会社の方は1月の7日以来出張で出勤していません。22日と3日は休みにする方向で検討しています。休みになれば「古書」に行くように考えています。また親しい友とも語らいたい。

 

聖經『甘露の法雨』の御守り用については沢山の御意見を賜り、深く感謝を申し上げます。

こういう事態が発生するのは、企業であればその「タルミ」というのか「ガナバンス」が出来ていない証左である。その企業であれば、役職の首が飛ぶような重大な出来事であるにも関わらず、生長の家教団は安穏としているしか思えない。責任感とかまったく放棄して、一党独裁の體制が續いている。

 

日産の「カルロス・ゴ-ン」氏も独裁が故に破滅していった。自分の思い通りに部下を操り、お金も遣りたい放題である。しかし、そんな事すれば最後にはこういう運命になるのである。

 

そんなガバナンスが出来ていない人に限って、「立憲主義」「中心帰一」など言いたがる。自分の能力缺如が心配でならないのである。

明治天皇の聖蹟を歩く 西日本編

明治天皇の聖蹟を歩く 西日本編

明治天皇の聖蹟を歩く西日本編

大阪在住の私でもそんなに関心もなく過ごしてきました。以前に書きましたように明治天皇今井行在所に随分と昔に今井町を散策した時にその衝撃を受けたことを憶えています。それから出来る限り行くようにしています。

この行在所には「明治天皇駐蹕之処」の碑があります。駐(ちゅうひつ)という言葉は今は聞かない言葉ですが、天皇様が一時乗り物を留める所です。乗り物とは馬車です。

 

明治天皇は明治10210日・11日に宿泊され、その時に談山神社の山門を移築されたり、馬車が通れるように家の角を大きく曲がりやすくア-ルにしています。またその時に西郷隆盛挙兵(西南戦争)の一報が入ったという。慌てて風呂桶とかを置いていったという逸話もある。

日本全国にある「明治天皇聖蹟碑」は誰も関心も持たれなくなっていますが、昨年に発行されたこの本を読まれることをお薦めします。

 

先日鎌倉御野立處は残念ながら封鎖されています。こういう記念碑は一部の利益ではありませんので公開して欲しい。



「谷口雅春先生」の著作物について

 ブログでは雅春先生の御言葉を謹冩されている人がおられます。それは本当に大切なことなんです。ただ、著作権だけは心配するところです。

私も以前に下記のように記入しました。

 

 

谷口雅春先生の御著書を大切にしない多くの人々

未生様へ

 

ありがとうございます。

 

 ご存知の通り、温故資料館は外見をガラス越しにしか資料を見る事が出来ません。

 

 また、谷口雅宣総裁の意向だと雅春先生の御著書も著作権の紐解かれるのは死後50年とされています。

 

 

 

 その間は見る事も出来ないまま、御本の酸化も進み、デジタル化しなければ戦後数年の御本は数年後には手に持つ事が出来ない程、脆くなり風化が進みます。

 

また、そうした御本は国会図書館にもなく、国会図書館に所有しているのは総発行の30%もありません。

 

 

 

 本の保管は温調システムが整った所でないと到底無理であります。

 

悪口ではないですが、ある団体では雑誌で戦前の本を譲って欲しいと書いていますが、こんな無責任な書き方はありません。

 

 システムも行き届かない場所だと思います。今後公表するのかわからない、それならば譲って欲しいという前にこういう事をいつまでに実行しますのでお譲り下さいならわかります。

 

 また、保存方法も記入していません。あまりに雅春先生の御著書を大切にしない類いであると失礼ながら断言出来ます。

 

 また、社会事業団の図書館は整理が出来ていないということで見せて頂けない。本当にどのようになっているのか疑問を感じます。

 

 本当に多くの奉仕されている御著書は送られきても段ボールのままか、単に書棚に重ねているだけであります。

 

 防虫や酸化防止の処方等をした所等、見たことはありません。確かに国会図書館では函や帯紙やチラシ等ありません。

 

 だが、個人的に譲っても見せてくれるか保証がありません。大概は段ボールの中か事務所の書棚です。

 

 私の知り合いで以前雅春先生の書籍を蒐集していた人はきっちりとパラフィン紙でブックカバ-として包んでおられました。パラフィン紙は昔は蝋紙とよばれていました。グラシン紙に蝋が塗布されており、防湿や汚れの効果があります。

 

因みにグラシン紙は酸性なので却って酸化を早めます。

 

 そういうことであるならば、国会図書館なら間違いなく、著作権の一定の定めのみで戦前版なら都道府県やその市町村で閲覧は可能です。その方が永久に見れるし、一般の人も見れるという特性があります。

 

 温故資料館でも聞く所によると、そういう事も考えていたようですが、今は見せないようにしています。自由に閲覧出来ないのでは何の意味もありません。

 

 要するに「生長の家」は文書伝道です、当たり前ですが一番大切にしなければならない本の管理が行き届いていないのがどうもおかしい。

 

 「雅宣体制」を批判する前に、自分の書棚にある、取り分けて古書の雅春先生の御本を大切にしていない人がほとんどです。

私なら個人的に譲って頂ける人がいましたら、保存は間違いなくします。ブックカバ-(パラフィン紙)による保存と虫防止対策、酸化を防ぐこと。そういう処置はします。

 

 私でも雅春先生の古書は蛍光灯のあまり点灯していない場所と古くて脆くなっている本などは、虫など来ないように本の一冊一冊にカバーをしています。

 

個人で出来る限りを尽力して保存しています。

 

本来なら本の「函」も書物の大切な一部です。また帯紙も大切です。またその中に挟まれた「宣伝用チラシ」も大切なのです。しかし、今のような封鎖的な教団ならば、良い方向に望めることは出来ません。

 

本来ならば八幡書店のように「大本」の根本である『神の國』や『神霊界』等の復刻版を考えるのが妥当だと思います。

 

そんなこと望めないなら、なんとか著作権期限までは保存出来るようにしていただきたい。

 

 

 

 因みに「大本」に行ったときにその資料責任者の言っていた言葉が印象でした。

 

『一旦、社会に発行された書物は閲覧するのが当たり前であるし、後世の責任として悦んで見ていただくことにしています』

 

大本にはその教えに「否定的」な書物もありますが、そんなことも含めて「閲覧」出来ます。「なんと心が広いことでしょう」見習いたいです。

 

今後、個人で所有している「谷口雅春先生」の著作は次第に酸化が進みボロボロになっていく運命であります。著作権保護期間が70年となり、そういう憂いることが、まさに現実となります。

 

 デジタル化や復刻版を進めなければ、今後益々谷口雅春先生の著作や掛け軸など残っていかなくなるでしょう。私は自分の所有のものは「国会図書館」に譲渡します。申し訳ないが私を含めて、あらゆる機関に著作を送っても、乱雑に取扱されているのが現実であります。蛍光灯のある所に「谷口雅春先生」の著作を放置されていたり、虫よけや酸化を防止する対策などとっていないのが大半です。

わたしも出来る限りそうした対策を講じていますが、個人では限界があります。

聖經『甘露の法雨』ゲラ刷りについて

「亀の子ブログ」さんには御多忙中のなか検証をしていただき感謝申し上げます。

 私も頭が下がる思いです。

 さて、通常の「御守り用甘露の法雨」であれば、箇条書きにて印刷されています。今回のゲラ刷りのものは隙間なく、文字が記入されているのと、サイズが小さい。

 となると、ペンダンド用御守りではないかと推測しています。私も所有しているのですが、見つからないので、比較出来ないのですが、大きさは縦で13mmというかなり小さなものです。

 生長の家教団は裁判において敗訴という憂き目となり、販促も自粛しなければならない、そうしたことが世の中に出てはならないものが出た。ただ、焼却されるよりは良かったとも思っています。

 由々しき事態ですが、「亀の子」さんひとりの反応には少し寂しさを感じます。それ以外の生長の家信徒さんはもうどうでもいいのか、生長の家教団の人もこのブログを見て居られると存じます。一言欲しいものです。あれほど聖經『甘露の法雨』の大切さも私以上に御存知だと思います。そんな人から何も言葉が無いのが少し哀しい。

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「ちょうちょう」

歌詞:「小学唱歌集」(1881年)

 

蝶々 蝶々 菜の葉に止れ

菜の葉に飽たら 桜に遊べ

桜の花の 栄ゆる御代に

止れや遊べ 遊べや止れ

 

おきよ おきよ ねぐらの雀

 朝日の光の さきこぬさきに

 ねぐらをいでて 梢にとまり

 あそべよ雀 うたへよ雀

 

1947年以降の歌詞

 

ちょうちょう ちょうちょう

菜の葉にとまれ

菜の葉にあいたら 桜にとまれ

桜の花の 花から花へ

 とまれよ遊べ 遊べよとまれ

 

歌詞(日本語)

 

 

ほたるの光 まどの雪

 書(ふみ)よむつき日 かさねつつ

 いつしか年も すぎのとを

 あけてぞけさは わかれゆく

 

とまるもゆくも かぎりとて

 かたみにおもう ちよろずの

 こころのはしを ひとことに

 さきくとばかり うたうなり

 

つくしのきわみ みちのおく

 うみやまとおく へだつとも

 そのまごころは へだてなく

 ひとつにつくせ くにのため

 

千島のおくも おきなわも

 やしまのうちの まもりなり

 いたらんくにに いさおしく

 つとめよわがせ つつがなく

 

現代では戦後教育の爲一番しか歌われない。

 

童謡・唱歌『ちょうちょう(蝶々)』は、明治維新以降の日本の音楽教育において初となる音楽教科書「小学唱歌集」(明治14年)上で初めて日本で広められた(原曲は外国曲)。

 

江戸幕府15代将軍・徳川慶喜が1867年に大政奉還を行ってから5年後の1872年、学制が発布され、小学校の一教科として唱歌(音楽の授業)が定められた。

 

しかし、当時は音楽を教えられる教師もおらず、十分な音楽教材や設備もなかった時代。実際に音楽(唱歌)の授業が行われることはなかった。

 

アメリカへ伊沢修二を派遣

 

それから2年後の1874年(明治7年)、アメリカの教育体制を学ぶべく伊沢修二(いさわ しゅうじ/1851-1917)がアメリカへ派遣された。

 

帰国した伊沢は1879年、音楽教員を養成する日本初の機関「音楽取調掛(のちの東京音楽学校)」を設立。日本における音楽の教育体制は着々と整えられていった。

 

日本初の音楽教科書「小学唱歌集」

 

そしてついに1881年(明治14年)、日本初となる「小学唱歌集」が刊行された。選曲にあたっては、アメリカにおける音楽教育の第一人者ルーサー・メーソンの助力を得て、『ちょうちょう(蝶々)』、『蛍の光』、『むすんでひらいて』など、外国曲のメロディに日本語の歌詞をつけた和洋折衷の楽曲が数多く取り入れられた。

日本で最初に学校に取り入れられた唱歌は「ちょうちょう」がありますが、戦後にGHQ政策により変更されました。
そんな一つでも私たちは戦後における弱体化政策が日本で行われたことに気が付くことが必要です。

聖經『甘露の法雨』のゲラ刷りが

前のブログで記入しましたように携帯紛失で記入したものがコピ-出来ないでいますが、今回は東京の古本屋で驚くことがありました、それは聖經『甘露の法雨』のゲラ刷りです。御守り用ですが、約250枚の六段です。

どこの出版かは記入されてはいませんが、世界聖典普及協会の前の段階の印刷所から持ち出されたものを勝手に古本屋に売却したものと推測しています。本来はそんなことは契約違反である。どうしてこんなことになったのか。

呆れるしかない。

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非業の死 護良親王と用堂女王

産経新聞から抜粋させていただきます。今回は携帯に書いていた文章が携帯を紛失したため、文言が抜粋ばかりで申し訳ございません。
護良親王は大塔宮とよばれ、奈良にあります大塔村はその名を誇りと思い村民が付けた名前であります。
後醍醐天皇といえば、楠木正成などを思い出しますが、沢山の皇子が全国に散らばって、いつぞや建武の志を持っていたとされています。静岡県や長野県そして今年行った熊本県と各地に皇子の墓があります。

 

鎌倉に眠る大塔宮護良親王 語り継がれる非業の死

 

鎌倉市二階堂に、非業の死を遂げた後醍醐天皇の皇男子(息子)の墓がある。眠るのは鎌倉幕府倒幕の功労者、大塔宮護良(おおとうのみやもりよし)親王。父が天皇親政の建武政権を成立させると、その倒幕の功から征夷大将軍に任じられたが、倒幕最大の功労者の一人である足利尊氏と対立し、鎌倉に長期幽閉された末に殺害された。近くには護良親王をまつる神社「鎌倉宮(ぐう)」もある。紅葉のシーズンを迎え、今後一層多くの人出が予想される古都・鎌倉だが、同墓周辺は静謐(せいひつ)が保たれており、歴史ファンにはおすすめの穴場スポットという。
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 各種の歴史関連資料などによると、護良親王は延慶(えんぎょう)元(1308)年に誕生。6歳のときに京都・大原にある天台宗の三千院に入った。11歳になると、比叡山延暦寺に入り、20歳で天台座主(ざす)(第116世、118世)となる。

 

 ◆足利氏と対立

 

 後醍醐天皇は鎌倉幕府を討つべく挙兵。これに呼応して、還俗した護良親王や楠木正成らも挙兵したが、後醍醐天皇は幕府に捕らえられ、隠岐の島(現・島根県)に流される。護良親王らはその後も倒幕勢力を募って戦いを続け、足利尊氏らの大きな武勲の後押しで鎌倉幕府の倒幕に成功した。

 

 後醍醐天皇は京都に戻り、天皇親政の建武政権を成立させると、護良親王を征夷大将軍に任じる。だが、護良親王は征夷大将軍の地位を欲していた尊氏とは相いれず、逆にとらわれの身となって鎌倉・東光寺に幽閉。諸説あるが、9カ月間、幽閉された末に暗殺されてしまったと伝えられる。

 

 護良親王の首は、やぶの中に捨てられ、近くにあった理智光寺の住職がこれを埋葬したともいわれる。同寺は明治の初めに廃寺となり、寺の跡地にある護良親王の墓は現在、宮内庁が管理している。

 

 閑静な住宅地の一角に墓の碑があり、その後ろの小高い丘の上まで長い階段をのぼると、墓はある。
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 一方、天皇親政の下に王政復古を実現させた明治天皇は明治2(1869)年、短期間だったとはいえ天皇親政の政権の成立に尽力しながらも、不幸な最期を遂げた護良親王に思いを寄せて、東光寺跡地に神社造営を指示。自ら「鎌倉宮」と名付けた。6年には、初めて鎌倉宮に足を運んでいる。

 

 ◆きょうだいの墓も

 

 鎌倉宮から北西に約2キロ離れた北鎌倉駅のそばにも、宮内庁が管理する皇族の墓がある。鎌倉市山ノ内にある東慶寺の墓地で眠るのは、後醍醐天皇の皇女子(娘)で、護良親王のきょうだいである用堂女王(じょおう)。同寺は明治の初めまで女性が住職を務める尼寺だった。江戸期末までは縁切り寺や駆け込み寺と呼ばれていたことで知られる。

 

 用堂女王は出家して用堂尼となり、護良親王の菩提(ぼだい)を弔うために同寺の住職となったとも伝えられる。以後、この寺は「鎌倉御所」や、「松岡山」の山号から「松岡御所」「松ケ岡御所」などと称されるようになったという。




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 鎌倉で非業の死を遂げた親王と、その菩提を弔ってこの地に没した尼僧とのきょうだい愛は、2つの墓を通じて現代に語り継がれている。墓を管理する宮内庁は「親王、女王ともに命日には、当庁の非常勤職員らが命日祭である正辰祭を行っています」と話している。

 

                   ◇

 

【用語解説】後醍醐天皇

 

 正応元(1288)年に誕生した。第96代天皇であり、南朝の初代天皇。鎌倉幕府が滅びた後、後醍醐天皇が始めた天皇中心の政治「建武の新政」は長続きせず、離反した足利尊氏と戦って敗れると、奈良・吉野に逃げて南朝を開き、足利氏が擁立した京都の北朝と対峙(たいじ)した。延元4(1339)年に崩御。息子の大塔宮護良親王は「だいとうのみや」「もりなが」と読むとの説もある。

後嵯峨天皇皇子 顕日王分骨塔

長い出張から帰宅した。途中、東京や鎌倉に寄った。その寄ったのは観光であったが、単なる遊びではない。

最初に鎌倉の建長寺に寄った、ここは後嵯峨天皇皇子 顕日が修行した場所であります。御嵯峨天皇には鎌倉と特に関係ある皇子が四人いられます。お一人が二条を寵愛した後深草院。もうお一人は第六代将軍宗尊親王ですが、後二人、高峰顕日と亀山天皇がいられます。年齢順に高峰顕日、宗尊親王、後深草院、亀山天皇のご兄弟です。

 

仏国とよばれ 高峰顕日といわれております。下記は抜粋ですが、どのような人物であったかご理解いただけると思います。

 

後嵯峨院の皇子という。母は不詳。字は高峰、諱は顕日。

 康元元年(1256)、出家。東福寺の円爾弁円(聖一国師)と来朝僧兀庵普寧(ごったんふねい)に学んだ後、関東を行脚し、下野国那須に庵を結ぶ。弘安二年(1279)、上野国長楽寺で無学祖元に謁し、以後弟子となる。同四年、鎌倉建長寺において無学より伝法衣を授かる。弘安六年(1283)、北条時宗を大檀越とし、那須黒羽に雲巌寺を開山。同寺には仏国を慕って多くの僧が集まり、その中には夢窓疎石もいた。晩年は鎌倉浄妙寺・建長寺他の住持を務めるなどしたが、正和四年(1315)那須に帰り、翌年十月二十日、雲巌寺にて遷化。七十六歳。仏国国師と諡号され、のち応供広済国師と追諡された。墓は雲巌寺境内にある。

 『仏国禅師集』(「仏国国師御詠」など、標題は様々)がある。風雅集に二首、新続古今集に一首。冷泉為相との交際が風雅集所載歌から知られる。

 

奈須の山中に庵むすびて、住み給ひけるころ

 

月はさし水鶏くひなはたたく槙まきの戸をあるじがほにてあくる山風(禅師集)

 

【通釈】月は隙間から射し込んで入れろと言い、水鶏は叩くように鳴いて入れろと言う。そんな我が庵の槙の戸を、まるで主人ぶった様子で開ける山風よ。

 

【語釈】◇水鶏 水辺に棲む小鳥。初夏の頃、戸をたたくような声で鳴く。◇槙の戸 杉や檜の板で作った粗末な戸。

 

【補記】若き日、放浪の末、奈須(那須)に庵を結び、住んでいた頃の歌。来訪者は月や鳥、戸の開け閉めは風任せという風流生活。仏国は後年、この地に雲巌寺を再興開山した。

 

那須の庵にて、月を見たまひて

 

しげりあふ峰の椎しば吹きわけて風の入れたる窓の月影(禅師集)

 

【通釈】峰に繁り合う椎の木を吹き分けて、風が我が庵の窓に月の光を入れてくれたよ。

 

題しらず

 

出づる峰入る山の端のとほければ露に宿かる武蔵野の月(禅師集)

 

【通釈】昇った峰から、沈む山の端まで、あまり遠いので、草葉の露に宿を借りるよ、武蔵野を行く月は。

 

題しらず

 

我だにもせばしと思ふ草の庵になかばさし入る峰の白雲(風雅1757

 

【通釈】自分一人だけでも狭いと思う草庵に、真中の方まで入り込んで来るよ、峰の白雲は。

 

【補記】山の高所に庵をしている趣。雲を擬人化した「なかばさし入る」が飄々として面白い。

 

題しらず

 

夜もすがら心のゆくへたづぬれば昨日の空にとぶ鳥の跡(風雅2075

 

【通釈】夜を徹して心の行方を探し求めていると、まるで昨日の空に鳥影の飛び去った跡を追うかのようで、虚しいことよ。

 

【参考歌】鑁也「露色随詠集」

うかれいづる心のゆくへたづぬれば浅茅が原の雪の白雲

 

御入滅ちかづきて、月をみ給ひて

 

月ならば惜しまれてまし山の端にかたぶきかかる老いのわが身を(禅師集)

 

【通釈】月であったら惜しい気持になろうが。ちょうど山の端に沈みかかるように、寿命の終わりかけた老いの我が身を。

 

【補記】「月ではないのだから、何も惜しむことなどありはしない」との達観。

 

この建長寺にある墓には分骨されたものです。正式に墓としてあるのは栃木県大田原市雲厳寺にあります。

京都には門跡跡として寺院は沢山ありますが、こうした時の幕府の影響を受け、鎌倉で禅僧として生涯を生きた皇子がいることを知っていただきたい。
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下図からは顕日王分骨塔です。
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途中にはあの大阪の安治川での治水に関わった河村瑞賢の墓に詣でた。このような場所に立派な墓があるとは驚きです。谷口雅春先生が大阪西区の西九条にお住まいの時に小学校で教師が河村瑞賢のことを発言していたと記入しています。

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 また、建長寺半僧坊の高台から綺麗な富士山が見えました。
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「明治天皇鎌倉御野立所」

正月の中日だというのに、この賑わいは驚きました。それは鎌倉駅から北へ700mの鶴岡八幡宮です。祭神は応神天皇です、それ以外に比売神、神功皇后となっています。

 

さて、この境内の中にひっそりとあるのが明治天皇の鎌倉行幸であります。明治六年四月十五日に初めての陸軍攻防演習がこの鎌倉の鶴岡八幡宮の大臣山から閲兵して行われました。現在は柵の中には入れませんが、明治天皇になられても、陸軍としても初めての攻防演習がこの鎌倉の地にて行われました。

「明治天皇鎌倉御野立所」とあります。明治天皇閲兵の處です。

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本住吉神社の初詣

住吉大神宇宙浄化の神想観

 

「招神歌」四首朗唱

住吉大神出(すみのえのおおかみい)でまして宇宙を浄め給う

あー、おー、うー、えー、いー、

住吉大神わが日の本を浄め給う

あー、おー、うー、えー、いー、

住吉大神われらすべての心を浄め給う

あー、おー、うー、えー、いー、

「気合」イユーッ、

(ここで、念ずる言葉を各自黙念する)

住吉大神宇宙を浄め終わりて天照大神出ましぬ

「光明思念の歌」二回朗誦

 

今年の初詣は本住吉神社だけであった。風邪で本当に寝正月であった。私の心の管理が行き届かなかった、自業自得である。

それでも、本住吉神社にお参りできたことは幸運である。住吉大神の御加護を戴いた。

 

今年は自宅で「谷口雅春先生の御写真」を飾るようにしていきたい。以前まで飾っていたのですが、引き出しに入れてそのままになっています。

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下図は正式に許可を戴き撮影しました。
蘆分尋常小学校跡地の石碑です。
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下図は春日出尋常小学校跡地の春日出中学校です。
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『人間性の解剖』について補記

「谷口雅春先生に帰りましょう」に下記の記載がありますが、少し補筆しておかなければならないところがあります。

それは、GHQ政策により執筆追放という憂き目に遭われた谷口雅春先生は「精神分析の講義」の編輯を栗原得二先生に依頼し、それで発行されたのが下記の『人間性の解剖』です。

昭和27915日発行では同じ著書の名前で谷口雅春著、栗原得二編輯となっています。本来は谷口雅春先生著でありましたが、占領政策の影響で名前が出せなかった。

 

『 人間性の解剖』  栗原 得二 著  自 序 (10523)

日時:20190105 () 0030

名前:明鏡

 

 『 人間性の解剖 』  栗原 得二 著 ( 昭和2421日発行 ) 日本教文社

左翼思想の総裁

私が以前から一貫して云っている言葉は、「左翼総裁」であるということです。

これに関して貴康先生はそのような考えではないと云っておられたのも事実であります。だが、その左翼として私が観点として捉えるのが、自然環境といいながら「物質世界」のみをとらえて、それに齷齪しているからであります。また天皇保持である自民党に対して、天皇否定の政党を応援する。

 

 その一点をみても左翼であると断じていい。立憲主義を特集として、「天皇国・日本」を蔑ろにしている雅宣氏、これは誰が見ても左翼である。きっと貴康先生も現在は総裁の癌替えは左翼だと思っていると思います。

 それよりも、愛国的なものの否定は次第に組織に入り込み、谷口雅春先生が築かれた「生長の家」教団は完全に崩壊するでしょう。残るのは「共産党」=「生長の家」として別組織であると思っています。

 

 それに今も「和解」などと云っている「トキ」さんをみると責任というのを感じていないと思います。自分の責任というのが全くない。組織に所属して「責任感」のない姿は情けない。

 

 昨年度は総本山であまりにも悲しいことを体験したことを書きました。ただ飛田給練成道場にも行ったのですが、そこでは懐かしく話をして和んでいました。私にはまだ多くの教化部職員や本部職員にも知り合いがいます。我慢して勤めている人も沢山おります。

 

何年か前に本部職員を辞職したいがという相談を受けた時には、まだもう少し我慢して勤めたほうがいい。子供も小さいのでその方がいいと発言しました。

 

それより、今回調査してわかったことは、雅春先生の偉業は次第に無くなっているということです。本住吉神社の向には「創価学会の大きな会館」がある。図書館では全く偉業が伝わっていない。「谷崎潤一郎」はあれども「谷口雅春先生」ほどの人を「コ-ナ-」として設置しないのはおかしいと思っている。

谷口雅春先生の住まいされた住吉村を探る。

 谷口雅春先生の立教以前の歴史というのは、未だ不明な部分があります。それは何處に住まわれたかということです。下図の年譜と地番を検証していくと、地名の違いなどが出てきたが、大体の位置はわかったが、正式に此処だと云う確証は難しかった。

法務省では現在の地名から過去に遡ることは可能であるが、過去の住所からは不可能であると説明受けた。

その為に現在はっきりと住所のわかる地名は藤棚の家のみである。

もし御存知の人が居られたら教えて頂きたい。私も安易に考えていた、見つかるだろうという甘い考えである。しかし、法務局や図書館に行っても、これほど資料がないのも珍しい。なにしろ地図がない。(他の資料館が所有されているのではないか)

さて、添付資料の地図でわかるように引越しされたのは周囲100mもない圏内であったことがわかります。

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武庫郡住吉村字梅ノ木859-1

現)住吉宮町5・6丁目

 

この梅ノ木という地名はこの付近に梅ノ木古墳があったが、現在は消滅しています。

 

下記で武庫郡という名前は消えます。

御影町御影柳900

現)御影中町1丁目

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住吉村字八甲田690

現)神戸市東灘区住吉宮町6丁目17-2

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住吉村字八甲田695-2

現)住吉宮町56丁目
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695-1と695-2とが地番である。

藤棚の家から見眞道場としての大きさをもてるような大きな家です。

 

住吉村について

『日本書紀』にある、神功皇后の三韓征伐からの帰途に船が進まなくなり、神託により住吉三神を祀ったと記される「大津渟中倉之長峡(おおつのぬなくらのながお)」の地が当地であり、当社が住吉三神鎮祭の根源であると伝え、そのために古くから「本住吉」と呼ばれるとしている。「大津渟中倉之長峡」の地は現在の住吉大社であるとする説が有力であるが、当社では住吉大社も当社からの勧請であるとしている。本居宣長も本住吉神社の主張を支持している。

 

『古事記』より

時、坂王・忍熊王、共出菟餓野而狩之曰狩、此云于氣比餓利「若有成事、必獲良獸也。」二王各居假、赤猪忽出之登假、咋坂王而殺焉。軍士悉慄也。忍熊王謂倉見別曰「是事大怪也。於此不可待敵。」則引軍更返、屯於住吉。時皇后、聞忍熊王起師以待之、命武宿禰、懷皇子横出南海、泊于紀伊水門。皇后之船、直指難波。于時、皇后之船𢌞於海中、以不能進、更還務古水門而卜之、於是天照大神誨之曰「我之荒魂、不可近皇居。當居御心廣田國。」以山背根子之女葉山媛、令祭。亦稚日女尊誨之曰「吾欲居活田長峽國。」因以海上五十狹茅、令祭。亦事代主尊誨之曰「祠吾于御心長田國。」則以葉山媛之弟長媛、令祭。亦表筒男・中筒男・底筒男三神誨之曰「吾和魂、宜居大津渟中倉之長峽。便因看往來船。」於是、隨神教以鎭坐焉。則平得度海。

 

現代譯

「もしも事を成すことができるのならば、必ず良い獣(シシ)を得るだろう」

二人の王はそれぞれ假(サズギ=神を招く一段高い棚)に居ました。赤い猪がたちまち出て假(サズギ)に登って、坂王(カゴサカノミコ)を食い殺しました。軍士(イクサビト=兵士)は皆、怖気付きました。忍熊王(オシクマノミコ)は倉見別(クラミワケ)に語りました。

「これはこれから成す事の大きな怪(シルシ)だ。ここで敵を待つべきではない」

すぐに軍を引いて、更に帰って住吉(スミノエ)に駐屯しました。そのとき皇后は忍熊王(オシクマノミコ)が師(イクサ=軍隊)を起こして待っていると知っていて、武内宿禰(タケノウチノスクネ)に命じて、皇子を抱いて、(神功皇后に対して)横を通り、南海(ミナミノミチ)から出て、紀伊水門(キノクノノミナト)に泊まりました。皇后の船は、直に難波へと向かいました。

皇后の船は海で回って進むことが出来ませんでした。そこで務古水門(ムコノミナト=兵庫県尼崎市武庫川)に帰って占いました。すると天照大神(アマテラスオオミカミ)は教えて言いました。

「私の荒魂(アラミタマ)を皇后の近くに居られない。その御心(ミココロ)は広田国(ヒロタノクニ=摂津国武庫郡広田神社=現在の兵庫県西宮市大社町)に居るべきだ」

すぐに山背根子(ヤマシロノネコ)の娘の葉山媛(ハヤマヒメ)に祭らせました。また、稚日女尊(ワカヒルメノミコト)が教えて言いました。

「吾(ワレ)は活田長峽国(イクタノナガオノクニ=摂津国八部郡生田神社=現在の神戸市生田区下山手通)に居る」

そこで海上五十狹茅(ウナガミノイサチ)に祭らせました。

また事代主尊(コトシロヌシノミコト)が教えて言いました。

「吾(ワレ)を御心の長田国(ナガタノクニ=摂津八部郡長田神社=現在の神戸市長田区長田町)に祀れ」

それで葉山媛(ハヤメヒメ)の妹の長媛(ナガヒメ)に祭らせました。

また、表筒男(ウワツツノオ)・中筒男(ナカツツノオ)・底筒男(ソコツツノオ)の三柱の神が教えて言いました。

「吾の和魂(ニギミタマ)を大津(オオツ=大きな港のこと)の渟中倉(ヌナクラ=地名だが未詳)の長峽(ナガサ=地形)に居る。行き交う船を見ていた」

そこで神の教えのままに鎮めて祀りました。

するとすぐに(進めなかった船が)平和に海を渡ることができました。

 

地名の変遷

住吉村

明治29年以降の武庫郡の地図

 

明治29年(1896年) 41 - 郡制の施行のため、武庫郡・菟原郡・八部郡の区域をもって、改めて武庫郡が発足。下記の町村が本郡の所属となる

大正15年(1926年)71 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。

S21住吉村地図

昭和21年の地図

 

その地名は下記である。

観音・茶屋・空・西・吉田・山田・住之江・反髙林(たんたか)

梅ノ木・柳・兼松・畔倉・瀬川・堀内・後塚・塚前・浜新田・新兵衛新田‣鬼塚‣新堂‣小原田‣西口‣宮西‣八甲田‣宮前その他

上記以外にもありましたので、辻が変ると町名も変わるという。

また、昭和1375日の台風による被害は深刻な出来事でした。山から石が転げて流れてくるように、土砂流ではなく土石流の被害は住吉村の半分近くが壊滅したといわれている。死者33名である。

いまでもその石が点在している。(垣根などに使用)

 

その為、はっきりした地図はどこかにはあるのだが、神戸中央図書館と東灘図書館にはなかった。

 

谷口雅春先生年譜

大正121213日 神戸の養父母のもとに帰る(神戸市夢野町3丁目40-1)

大正132月    生田神社に日参された帰り道、永田文進堂でフエンウイック、ホルムス著“The Law OF Mind IN Action”入手

大正13417日 清貧道(せいひんどう)から無礙道(むげどう)への転機となる論文、「個人における『宣光社』的はらき」を執筆

大正131125日 ヴァキューム・オイル・カンパニー入社

※ホルムスの本によって、心の力でどうにでもなれる、ことを知った先生は就職を祈られたのであった。1ヶ月程たった或る日、養家では節約のために新聞は取っていなかったのに、誰が借りて来たのか、眼の前に一枚の「大阪朝日新聞」がひろがっていた。何気なく見たそこに高級翻訳係募集の記事があった。応募されて俸給100円と希望したところ、語学力の優秀ということで即座に170円支給される事になった。

『神の牙城に迫る』(『神を審判く』を自費出版。

大正14113日 梅ノ木の家を見つける(武庫郡住吉村字梅ノ木859-1)……22ヶ月在住

※現在の住吉宮町5丁目・6丁目付近

正式の地番は住吉村梅ノ木8591

※住吉大神に導かれて心の法則を学ばれるのである。会社に就職されて経済的には良くなられたのに、健康的には家族がともに苦しまれたのであった。

 

※この梅の木の家は、借りた人が五代にわたって結核で亡くなったことを、近所の人から聞いた輝子奥様は、家主に願って畳を新しくしてもらったりした。又、生命保険医より先生は30代で死ぬと言われた。このとき先生は死んでなるものか、生き抜いてやると決心された。(先生が転居されて後に入居した人も死に、その後借り手がなく取り壊された)

 

大正14610日 ホルムス著『如何にせば運命を支配し得るか』翻訳実業の日本社より出版

大正15 8月  柳ノ川の家に転居(御影町柳900)27ヶ月在住

正式の地番は御影町御影柳900

  • 現在の御影中町1丁目付近

 

昭和3年 自宅に於て、月一度日曜日に「求道者の会」を開催、この頃「雅春」と改名された。

※毎朝5時に、勇湯(いさみゆ)の朝風呂に入られて、本住吉神社に日参された。(往復600米の道のり)体を浄めて社前で皇室の弥榮と、日本の隆昌を祈られた。

 

※そして遂に「物質は無い、肉体は無い、罪なし、病無し、迷い無し」光明一元の世界を悟られたのであった。

 

昭和41213日 2回目の盗難の後「今起て!」の神啓を受けられ、生長の家の執筆開始さる。

 

※盗難のため、たった一枚の背広を染めて(奥様と先生はお二人で絞りあって)着用、会社に行ったところ、会社で「イヨー、谷口君オニューだね」と言われた。

 

まもなく藤棚の家に転居(住吉村字八甲田690)24月在住 

※この藤棚の家は現在、神戸市東灘区住吉宮町6丁目17-2となっている。

 

生長の家創刊号1.000部、納本さる。

※知人、同窓生などに送本開始、乳母車に積んで住吉郵便局に送りに行く、帰りにはカラの乳母車には恵美子先生が乗って帰るのを楽しみにお手伝いをされた。

 

昭和531日  立教の日(創刊号発行日の奥付に記載された日)

71日  神想観発表

111日  招神歌発表

114日 ◎神示・生長の家の食事

     121日 甘露の法雨発表

昭和6115日  ◎ 完成の燈台の神示

45日  ◎萬敎歸一の神示 

56日  ◎新天新地の神示

530日 ◎ “心の法則”と“平和への道”の神示

626  ◎ 歸幽の神示

95日 ◎ 神示・生死の教え

927  ◎ 大調和の神示

928日 ◎最後の審判に就いての神示

125日 ◎信仰生活の神示

昭和7111日 ◎ 聲字實相の神示

24日  ◎自他一体の神示

29日  ◎上求菩提・下化衆生の神示

314日 ◎ 『いのちゆには』の神示

315日 ◎ 使命邁進の神示

410日 ◎ 無相圓相一切相の神示

5月頃   境目川(サイメガワ)の家に転宅(住吉村字八甲田695-2) )……24ヶ月在住

この時点で住吉村字八甲田ではなく住吉村(住吉町)の八甲田と思われる。(地番参照)

※現在の住吉宮町56丁目

55日  ◎無限供給の神示

527日  ◎久遠天上理想國實現の神示

77日  ◎萬敎包容の神示

731日  ヴァキューム・オイル・カンパニー退社

812日  ◎懺悔の神示

92日  ◎ 實相金剛身の神示

1110日  ◎無病常樂の神示

1125日  ◎本来生、不滅の神示

昭和816日  ◎ 梅の花の神示

125日  ◎自然流通の神示

316日  ◎至上者の自覚の神示

     61     實相を観ずる歌発表

85日  ◎本当の信仰に就いての神示

915日  ◎霊魂進化の神示

不明     ◎ 児童教育に関する神示

    1225日  『生長の家』合本第二巻『久遠の實在』を出版。

昭和9829日  谷口雅春先生東京に出発さる

830日  入京された

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昭和31年の地図に旧地番が掲載されているので新しいが使用した。
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大正12年地図です。この当時大日本帝国陸地測量部があり、その大体の地図はあるのですが図書館には無かった。





風邪で寝正月

今回、伊勢から帰宅した後。買物を済ませて就寝は夜7時頃です。

寝ずに一晩歩き続けたのですから、相当疲れが溜っていた。

 

 車に乗って、信号待ちの一瞬寝てしまっている。こんなこと初めてである。相当、疲労困憊である。しかも、風邪がひどく正月三が日は寝正月である。せきがひどく、苦しいのです。熱はそんなにないのだが、身体が倦怠感と疲れと風邪が相俟って、何も出来ない状態でした。

入谷様には今回の100kmウォ-キングでコメントをいただいておりましたが、ご返答が遅れてすみません。

 もし次回行うならば、一人で160kmをしてみたい。これは伊勢講ということが昔ありまして、伊勢参りは大阪の玉造稲荷神社を起点として、榛原までの道と今回の伊勢本街道があります。走行距離が160kmなので相当しんどいですが、何時かはやってみたい。

 

 ただ、私は阿闍梨のような厳しい修行には挑戦出来ませんし無理です。(笑)時間がやたらと長く歩いても中々到着しないのが印象でした。

 

その前の和歌山駅までの80km走行より、今回の方がしんどかった。山道が何カ所かあるとかではなく、いろんな人が参加しているので、それに合わせなければならないのが辛かった。

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