東京で下記の行事が開催された。
私は本当に嬉しかった。
谷口雅春先生の歴史を繙く時に繋がりが分からないことが度々あります。例えば小学生の時代に大阪市西九条に住まわれておられたのですが、これが市岡尋常中学校まで殆どがその西九条という地域でのお住まいです。しかし、どこなのかがわかりません。また、摂津紡績時代ではどうだったのか、どこに住まいされていたのか、分からないのです。大阪市福島区野田方面ではないかと推測しているが、はっきりした情報がありません。今年、ようやく「摂津紡績」の場所を確定できたのですから、これからしっかりと情報を摑んでいきたい。
ただ、尋常小学校についてはわかります。また大本時代など反対に分からないことがあります。そういうことを確定するようにしていかなければならない。
第43回錦糸町深川「生命の實相」勉強会
三十日のことば ♠ 貧しい執筆者の生活始まる
それから私は、浅草区小島町という所へ家を捜して、金銀の装身具の彫刻をする餝職(かざりしょく)の人の家の二階に越したのであります。その家も貧しかったらしくその二階には台所もなかったし、私たちは水屋もタンスも何も持たなかった。二室つづきだったが押入れにも襖はなかった。私たちは押入に入れたガラクタを隠すために、襖代りにむしろをぶら下げたけれども、台所の道具をおく所もない。それで天上の桟(さん)と天井板とが少し隙間が空いている所へ縄を通して、その縄に籠をぶら下げて、その籠の中に茶碗やら食器をぶら下げておったのであります。そこで、私がまず執筆したのが、あの『聖道へ』という論文集でした。それが出版されて初版の印税が二百円ほど入ったことを憶えている。それは半年あまりかかって書いて、やっと二百円ですから、きりつめて切りつめて生活していたわけであります。
三十一日のことば ♠ 神は人間の運命を修正し給う
その時分家内は妊娠したのであります。それは望外の悦びを私たち夫婦の間にもたらしました。私たちは、まだ見ぬ腹の中の子供をどんなに、愛したことだろう。心臓弁膜症で仆(たお)れて、あんなに体が弱かった妻だからもう子供は生まれないであろうと思っていたのが妊娠したのだから一入(ひとしお)嬉しかったのだった。その町の道路に面した所に石像の観音様が数体お祀りしてある霊場があって随分信者のお詣りのある観音様であった。私たちはそこへ子供の安産の為に毎日お詣りしたのを覚えている。
*****************************************
早速、(行方氏が)旧浅草区小島町に出向いたところ、その観音像は今でもあり、地元の方々に大切にお祀りされていました。
その霊場の写真を添付致しましたので、ご覧ください。
小さなお堂に入りましたら、私(行方氏)は何かを感じました。この観音さまは、私たち生長の家信徒にとりまして、子宝の観音さま、安産の観音さま、祈願成就の観音さまと思いますので、誌友の皆様、ぜひこの機会に一緒にお詣りしましょう。
そのあと、谷口雅春先生が関東大震災を被災された旧浅草区松葉町に行きます。
谷口雅春先生は、身重の身の輝子先生と、そこから上野恩賜公園に避難されていますので、私たちも上野恩賜公園まで歩きます。