則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2018年10月

讀んで戴ければ幸甚です。

「聖地」巡礼

「学ぶ会」から疎遠になって数年。私はその選択は間違いなかったと思っています。

現在、生長の家教団の実態は眼を覆うばかりの悲惨な状況であります。まるで宗教とはかけ離れた、遊びに興じております。宗教とは名ばかりで、単に「谷口雅春先生」に反目しているだけに思えてしまう。

 それを批判するのはいいのだが、何かそればかりが「谷口雅春先生に帰りましょう」には記載が続く。それよりも「生長の家」の教えに基づくものを書いて欲しい。未だに「教団」に在籍して忸怩たる思いで残っている人も沢山おります。そういう人をまるで「悪」であるかのような記載には何か寂しさを感じます。

 

 以前にも書きましたが、批判を書くのはいいが、それを少しだけに抑えて「生長の家」の素晴らしさを書いて欲しい。

私も「谷口雅春先生」の聖地巡礼ではないが、それに等しいようなことを行っている。それは失われた歴史というのを、顧みたいという思いです。

谷口雅春先生の歴史といえば、「烏原水源地」「藤棚の家」「元住吉神社」など数か所しかありません。そこから「西野田職工学校」「摂津紡績」「滝川小学校」「春日出尋常高等小学校」「蘆分尋常小学校」などをこのブログで紹介しました。

 

このように「聖地」というのを信徒は是非学んで戴きたい。「雅春先生」がどのようにして生きてこられたかというのは『生命の實相』にも繋がるように思います。

間違いの訂正をさせていただきます。

間違いの訂正をさせていただきます。

 

一燈園同人の谷野捨三氏の文章を『光』誌から引用について、「亀の子」様より心強いメ-ルを頂きました。

 

 私も多分日付が異なるのではないかと思っていましたが、確証たるもないので、推定の域から脱していない。ただ、総合的な判断として考えて書きました。

 

 谷野様は大正111月の或る日。

 

私が推測した日が

 

 大正108月です。

 

そこで、私の記載の過ちに気が付きました。大正111月は前年の『靈界物語』筆録を終えて新たに『出口敎祖詳傳』編輯のための作業をされている最中です。

 私の記入したのは大正12年の間違いであります。谷口雅春先生は大正12年1月には大本を去られていましたので、錯覚して書いていました。茲に深くお詫び申し上げます。

さて、大正11年1月とは谷口雅春先生が「一燈園」に行かれたのかどうかでありますが、当時の雅春先生の状況からはそれは「無い」と判断致しました。「大本」における「立替」という時期が刻々と近づいている。11年3月3日若しくは5月5日その正念場が刻一刻となっている。勿論、『出口敎祖詳傳』の執筆もあります。そうしたなかで、果たして「一燈園」に行かれたかどうかであります。


 『靈界物語』の筆録が大正101018日~26日の間に4名とともに筆録されています。

その後、『出口敎祖詳傳』のため大正11年初旬には『神靈界』や大正日日新聞など御寄稿や執筆はされていません。

 

 私が書いた文章で下記の文章があります。当時「谷口雅春先生」はどのような心境であったかが少しでもわかるような内容であります。

 

 雅春先生が大本時代で執筆された『神靈界』や『神の國』を読みました。当時有名な小山内薫氏が大本の会員であったり、武者小路実篤も関心を示したり、芥川竜之介は神諭を読んでいたして、当時の大本の勢いは凄かった。倉田百三なども大本に魅力を感じたのです。

当時の文学博士物集高見は『大正日日新聞』で絶賛している。

これも松江市の出版であった『彗星』や『心靈会』が宣伝をして、一挙に教勢を拡大し、会員は増えていきました。

今では信じられないかもしれませんが、当時の閉塞した世で出口王仁三郎の書いた『大本神諭』火の巻はセンセ-ショナルであったのです。

彗星は何ヶ月にわたり「皇道大本」を宣伝していましたし、「心靈会」は大本特集号を組んで発刊しました。

当時の状況を把握していれば、雅春先生が入信した事がわかります。

『大本70年史』に

そのころ大本では、浅野和三郎を中心としてインテリア層が大本の所説の理論づけをおこなうとしていたときであったから、谷口はまたたくまに、その文筆の才をみとめられるようになり、文筆面で活躍するようになる。そして191920(大正89)年の、かれの文筆活動はめざましいものがあった。彼は浅野の直系として理論活動を展開するのである。

谷口はいう。「天地は審判の火に焼かれている。戦争と飢餓と疫病とは地上に恐るべき勢を以って氾濫している。

世界風邪はどうであったか。食料の欠乏はどうであったか。大火災の頻出はどうであったか。新聞紙は露都の食料欠乏甚だしく・・・人は人を共食し、人肉秘密にて販売せらると報じている。これでも愈愈の時でないといふのか」(「皇道大本の出現と世界の終末」大正87『大本信徒の主張』収録)

谷口の目にうつった当時の世界は、むごたらしくもまた悲惨なものであり、あたかも、キリスト教にいう最後の審判がやってきたかのようにうけとられた。彼はしきりにキリスト再臨論をといたが、それはいまのべたことと関連がある。「最後の審判の惨憺たる状態」を救うキリストはいつ再臨するかという問を提出して、それにつぎのようにこたえている。『聖書』のヨハネ黙示録によると、救世主は世界最後のたたかいとともにやってくる。


だからキリスト再臨の時期が世の立替え立直しのときである。

ところで『法蔵尽経』によると、月光菩薩五十二才が重大なる時期を示すが、王仁三郎は筆先によれば月の大神の霊魂なのだから、王仁三郎五十二才のとき、つまり1922(大正11)年こそ立替えのやってくるときだというのである。

谷口によれば、王仁三郎こそキリストの再臨であり、教祖なおは王仁三郎出現の先駆者であると結論づけられる(「基督再臨の真相」大正910


こうしてキリストこそが王仁三郎であったのです。しかしそれが徐々に雅春先生の気持ちが揺らぐのです。

それは王仁三郎の『靈界物語』の口述であり、正念場である大正1133日、55日であるのです。

 

『大本70年史』ですから、大本の立場になるのは当然であります。

ここでは、私の私論を述べますが『大本教70年史』のなかに

>したがって、「大本教祖の筆先と、仏説弥勒下生生経と基督教の聖書とを相列べて最後の審判の日を研究していた私は、周囲の神懸りたちの興奮した雰囲気と、自分自身の研究とに巻込まれて、矢っ張り最後の審判の正念場は大正1133日、55日と思えるのであった」ともいうのである。(『生命の實相』六巻)

 そして立替えの日がせまり、これを一大事だとわかるもののみが救われる選民なのだ、と彼は説いた。こうした谷口の考えは、当時の大本のなかでもきわめて独特のものであった。だが、その考えもだんだんとぐらついてくる。

 立替=基督再臨は、谷口にあっては、どうしてもそうあるべきものであり、またそうあってほしいという願望と、期待のほかならなかった。けれども、ロシア革命や米騒動などの激変がややおさまり、また官憲の目が光ってみると、彼の考えもしだいに動揺してくる。そのめだった変化は、彼のいう立替えをめぐる解釈の変化にもあらわれてくる。

 「大正日日新聞」の英文欄に、あと数百日以内に立替え立直しがあると主張されているのをみて、彼は、これは正しくないと批判する。

そして筆先によれば、「建替えの最後の日は伸縮自在の日限に来るべき」ものであり、その立替えというのは「天上の事」に属し、この世のことではないのだ。それがいつこようと悔いのない生活をしなければならない、と主張している(「最後の審判の予兆」大正103)。

この段階になると、立替えについてのかつての説を、あっさりすててしまうというかわりかたであった。<

 

これは「大本神諭」を体系的に纏めた谷口先生が当初の「この大本にて世界が救われる」という思いが段々、縮小していくのは矛盾を感じてくるからである。

当初は周りからみれば特異な存在であったことは、薄衣に荒縄で生活しており。「大本の聖フランシス」と自称していた。

だが、それは真剣な思いで入信していることは、前述しましたが、その筆先というのが徐々に薄らいでくる。

谷口先生はあまり『霊界物語』の口述を書いていませんが、大正101019日に突然に筆先が始まり、その異様な感じはトランス状態に入っていたのを順次に口述する人を決め漏らさぬように記述していくのです。それをどうしても離れる要因の最初であるように思います。それは『生長の家50年史』に

谷口先生自身も。この頃の心境を「天香さんと倉田さん―或る日の私と私の妻との対話-」という文章にして、『光』誌(大正118月号)に発表されている。

《私、○○からこの仕事を頼まれて居るが、自分は頼まれたままにこの仕事を奉仕するのが本当に好い事か悪いことか考へずにいられないのだ、何故なら○○が本当に清いものだということが今の私にははっきりと保障出来ない。○○は私の奉仕するこの仕事を利用して何かよくない事を企てるかも知れないような気がするのだ》

 

そうしたのが、次第に矛盾に感じ、大正108月に1週間一燈園の道場に行くのです。

それを王仁三郎に皮肉られて次第に「大本」から離れていくのである。

それは立替説が崩壊してことに一番の要因があり、それを『大本教70年史』に

三代目教主直日の回想によると、1921(大正10)年の秋のある日、谷口は王仁三郎をたずねたが、王仁三郎が不在であったため、直日にたいし、大本は1921(大正10)年に世の立替えがあるといったが、なにもかわったことがない。信者のおおくは家業を放棄し、会社をやめてきているので、いま生活ができなくて困っている。「大本はまちがいであったと天下にあなたの名前で謝罪して下さい」(「おほもと」昭和334)この「回想郎」によっても、谷口をさとらせた根本の原因が、立替え説の崩壊にあったことが明瞭となる。》

 

※ここに記入されている大正10年は大正11年の間違いですが、原文のまま記入しました

 

だが、一般的に考えると『靈界物語』に反発していた人も多くおり、編集者で常に掲載していた人で、大本幹部であった。浅野和三郎・岸一太・小牧斧助・浅野正恭・今井武夫・江上新五郎・岡田熊次郎であるがこの人達は《大本時報》《神靈界》の執筆者である。

勿論、尊王の立場からの論筆である。

 

蘆分尋常小学校

蘆分尋常小学校

谷口雅春先生が幼少時代に通われた「蘆分尋常小学校」ですが、現在は大阪市建設局の所有となっております。

大正6

55日 ◎東京倉庫大阪支店芦分倉庫の大爆発

死者四三名負傷者三五四名、家屋全壊五八戸、半壊六二戸を出し、所有者岩崎

小弥太が百万円の見舞金を提供したことがあつた。

東京倉庫は現在の三菱倉庫である。

これにより、芦分尋常小学校にも類焼した。また大東亜戦争において空襲で被災している。

 

芦分という地名は現在残っていませんが、この地域は昔は芦分と呼ばれ、現在の大阪中央卸売市場もその市域に属していました。水陸両用の利便性もあり、堂島川も橫にあり、卸売市場に適していた。そうしたことが決めてとなり中央卸売市場が開設されました。

 

 

さて、現在はその跡地は大阪市建設局野田出張所になっています。その中に石碑が建っており、写真では上から手を伸ばして撮影しました。日曜日など閉まっていて入る事が出来ません。

芦という字は旧字体の蘆が正解ですが、今回はわかりやすいように芦を使用しました。
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左の角の建物が大阪市建設局野田工営所の建物です。
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芦分小学校という文字は建物内部からしかわかりません。それが下図です。

芦分尋常小学校
https://www.mapion.co.jp/f/cocodene/view.html?token=207d9d8481cf36e6a9d1231de027690b

久々の六甲全山縦走

昨日は六甲全山縦走を単独で実施した。

出発が遅れたのと思ったより脚が動かないので時間がかかった。

 歩くしか出来なかった、須磨浦公園から六甲最高峰まではゆったりと歩いた。そこからは走った。

六甲山最高峰で午後5時20分です。通常の山道を歩きたかったが懐中電灯の明るさが弱く、ヘッドライトと合わせても少し暗かったので、アスファルト道を走る事にした。

それが、約13キロの道を思い切り体重もかかり、荷物も重たく。帰宅途中の電車内では脚が痺れたように痛みがくる。山道を強行した方が良かったのかもしれない。

ただ、時間が少しかかるので迷ってしまう。結局は目的地を逆瀬台駅とした。逆瀬台一丁目のファミリーマートでゆっくりと休憩したら、もう走る気力は失せていた。まだ1.6kmある駅までゆっくりと歩いた。

 荷物が重たかったのは宝塚で温泉に行こうと決めていたからです。その温泉も入れず、疲れだけがどっぷりと身体に滲みた一日でした。逆瀬台駅に着いたのが7時54分。

 走行距離は48km、万歩計は84397歩。

今年に一月に14万歩(86km)ある。5月の鯖街道縦走76km、それ以来の長距離であった。

 

 ただ、成果もある。脚が動かなかったが、サウスロード分岐での地道の石階段で脚にきてしまう。一気に乳酸がたまり、スピ-ドが落ちてしまう。今回はゆっくり歩いたので、順調に動いた。反対に従来より早く歩けた。

通常、56kmと神戸市などは「六甲全山縦走大会」での表記していますが、実際はそんな距離はない。

 
 この記事を書いているのは翌朝ですが、脚の痛みもなく。昨日の夜の痛みはなんだったのであろうか。でももう少し以前のように午後4時に宝塚へ着ければベストである。菊水山や摩耶山までの道のりはもっと早く歩かなければ、午後4時など無理である。以前より3時間遅かった。練習不足である。


須磨浦公園  7:55
高倉台団地  8:42
横尾山    9:23
妙法寺交差点 9:56
高取山    10:36
鵯越駅      11:17
菊水山    12:19(昼食)
鍋蓋山    13:24
市ケ原    13:50
掬星台             15:26(休憩)
六甲ガ-デン       16:38
一軒茶屋前       17:21
逆瀬台駅          19:56



正義とは

正義とはなんであろうか?

「生長の家」教団がこのように分断し、分裂するとは過去の知る私にとり、“まさか”の出来事である。その“まさか“が起るのは此の世である。

片や現在の教団はオカシイという。片や現教団は「生長の家」の信仰は変わっていないという。不思議である。真っ向から対立するのだから、どれが「正義」なのかわからなくなる。

 

 「生長の家」在籍しているときは「雅宣先生」と呼んで決して悪口も言わなかった。だが、一歩外に出ると、実は「雅宣氏」の思想に付いていけなかったのが本意であったという。

何か男らしくない。

 

ただ、言えるのは現教団の教えは谷口雅春先生の教えから逸脱しているのはたしかである。『生命の實相』を疎んじていたのも事実である。愛国運動から撤退したのも事実である。左翼に傾倒しているのも事実である。

 

総裁自身が親に中心帰一が出来ていないのも紛れもなく眞實である。それらを総合しても現教団が「オカシイ」ということも事実である。

 

こういう事は一人の「生長の家」の教えを知らない人間が「生長の家」をぶっ壊してしまったのである。

 

長く「生長の家」のみ教えにふれてる人はオカシイとは気が付いていても、なかなか言えない。一歩飛び出すことも出来ない。その気持ちも分からないことはない。

今更、飛び出しても「生活」が出来ないのです。

 

外部からはいくらでも云える。自分が内部にいたことを思い出し、「生長の家」の本来の素晴らしさを語って欲しいものである。対立抗争でものを考えると「調和」というのが抜けてしまうのです。今さら「対立」からは抜け出せない。「共存」など不可能である。そう思う方が気持ちも楽である。
それより、「生長の家」の素晴らしさを語ろう。

春日出尋常高等小学校の跡地

谷口雅春先生の小学校時代の多くは西九条という地域にお住まいでした、この地域は大正時代の初めは鉄工所が多く存在していました。

何故、この地域に鉄工所が多いのかわからなかったのですが、この地域を探索すると、その謎が解けました。

それは「大阪鐵工所」という大きな企業があったからです。谷口雅春先生が通われた「春日出尋常高等小学校」のすぐ向かいにその「大阪鐵工所」があったのです。

 

その「大阪鐵工所」というのは

 

1881年(明治14年)41 - イギリス人実業家・E.H.ハンターにより、大阪鐵工所(Osaka Iron Works)として創業。

現在は「日立造船㈱」という大企業です。

 

https://www.mapion.co.jp/f/cocodene/view.html?token=21e868d677853f3d96395fa5b24926b5

矢印の部分が「大阪鐵工所跡」の石碑があります。

 

地図の上部にある春日出中学校が「春日出尋常高等小学校」の跡です。

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上部地図の下側中央左の囲み部分です。(春日出尋常高等小学校)
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『日立造船株式会社発祥之地』の石碑
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六軒家川水門
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上図は六軒家川沿いから写真を撮りました。(中央の白い建物が春日出中学校)崖のように見下ろす所に中学校があります。
六軒家川は天井川です。海抜0m地域に学校があります。
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 《……私の記憶は主として蘆分尋常小学校に四年間ゐだことを思ひ出すのです。諸方の学校を転々として移りましたが、大阪西区西九条といふところで、主として父が鉄工業をいとなんでゐて、そこに、ささやかな工場があった関係で、私たちの住所はつねにその近くへもどって行ったらしいのです。蘆分尋常小学校を修了すると、春日出町にある春日出尋常高等小学校の高等科へ入学しました。(中略)高等小学二年から中学へ入学志願をいたしました。》



「谷口雅春さん旧い御縁」からの検証

前回のブログで一燈園同人の谷野捨三氏の文章を『光』誌から引用させていただきました。

そこで気になったのが、雅春先生との出会った日付であります。谷野氏も書いて居られるように不確かな情報もあり、記憶を辿ったということであります。

 

 青年谷口雅春さんが、鹿ヶ谷一燈園を来訪されたのは、記録がないので、正確には不明ですが、種々の情況から推定して、大正十一年一月の或る日であったと思います。

 

 時に数歳は天香さん、五十一歳、谷口さん、三十歳、谷野、二十六歳であった筈。

 

谷口「私は谷口雅春と申す者で、最近まで大本教におりましたが、感ずることありまして、大本を去りました。天香先生の御本を読んで大変感動いたしましたので本日御教え頂こうと思い、お訪ねいたしました。よろしく」

 

さて、日付についてですが、大正111月の或る日と書かれています。

『生長の家五拾年史』によるとその当時は東京浅草区小島町にある飾職人の家の二階に移られ、そこで谷口雅春先生は『聖道へ』の本に収録されてゐる宗教論文を執筆されるのである。その頃の谷口先生夫妻の生活は貧しく厳しいものであったといふ。

 

と記入されているように、京都の鹿ケ谷に『一燈園』に戻られる生活的な余裕があったかどうかであります。

 

また大正11213日には『聖道へ』東京・新光社より出版されている。京都に行かれる余裕がなかったように思える。

 

そこで、『生長の家五拾年史』の記載で日付は少し前となるが、まだ「大本」に居られる時であるが

 

大正108月に西田天香著『懺悔の生活』を読み京都鹿ケ谷の一燈園を訪問、一燈園の同人と共に托鉢をする。

 

と記載されている。また年齢も大正108月ならば谷口雅春先生は30歳です。また『光』誌の大正109月号の「一燈園だより」には『懺悔の生活』が出版されてより、一燈園に訪れる人が多くなったことが書かれてをり、その中で「宗教家としては大本教にあって色々深い研究と体験を重ねてゐられる谷口正治さんがきて呉れて矢張托鉢までして五日間共禱された」と記載があります。

 

ここから、あくまで推定ですが、まだ「大本」を去られていない大正108月であったように思います。『懺悔の生活』を読んで大変感動したと記載しているように、『生長の家五拾年史』においても、西田天香著『懺悔の生活』を読み京都鹿ケ谷の一燈園を訪問と記載している。符号することを思えば、間違いないのではないかと思います。つまり、訪問された時は「大本」に在籍されていた時ではないか。

 

その鹿ケ谷の一燈園を訪問したことは「出口王仁三郎」著の『靈界物語』にも皮肉に記載されている。

 

「鰐口邪冬が一等厭へ行って」

 

 

以上、私のあくまで推論ですが、検証してみました。違いがありましたら、教えて下さるようお願い致します。

大阪府勤労者山岳連盟のダイトレ

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昨日は久しぶりのダイトレである。今年の4月に大阪府山岳連盟のダイトレに参加した以来である。

丸木階段に圧迫されるが、挑戦してみる。台風21号の影響が大きい。先週は箕面に行ったが、崖の崩壊と倒木。茨木市の泉谷付近は林道でアスファルトだが、3キロで20本の倒木には走る気力も奪う。

京都トレイルも倒木で通行止めになっている箇所が何ヵ所かあると聞いている。

先の音羽山三山はそんなに倒木は少なかった。竜門岳も倒木より、小さな枝が登山道を埋め尽くしていたので走ることは出来ない。

今回は葛城山から弱音を吐いていた。

もう止めよう!

しかし、次の金剛山で止めよう!

金剛山の登頂では右膝上の筋肉が硬直したり、左の膝上の側面部が硬直して、まともに歩けない。ただ、それも暫くすると歩ける。

そんな事を繰り返しながら金剛山に登っていました。

ただ、ゆっくりだったら歩けるので、午後130分に第二ステージに到着した時に迷いましたが、最後迄完走しようと思いました。

ゆっくりだと4時間で行けると聞いたので、530分だとまだ日が沈んでいないので大丈夫だと最後迄頑張って歩こうと決意した。

 

しかし、ここまで止めようと何度も思った原因がある。スタ-トからの最初の段階で「竹ノ内街道」の手前の山道の下りで大きく躓いて、転倒するというハプニングがあり、側頭部を樹木の根っこから15cm程切った、切株の箇所の側面に頭を打った。それが数センチずれていたら、大変なことになっていた。

 ここで脚が上っていないことが自分ではわかっているつもりでも、身体のいうことがバランスがとれていない。明らかに練習不足である。

週に23度は12kmランニングを実施していても、本格的な山道は異なることをマザマザと見せつけた。二上山の登りでも結構しんどかった。
走行距離約38km


20kmコース 116名
30kmコ-ス  74名
40kmコース 237名

その40kmでの完走です。最悪な状況でしたが136位でした。葛城山でトン汁を食べて、金剛山の手前の湧き水の所でゆっくり休んで、金剛山で紅茶を戴き、杉峠でぜんざいを戴き、休憩時間は30分以上でした。こんなに脚が痛くて、息が切れて前に進めない状況で自分でもよく歩けていたと思っています。

雑感

私はそんなに偉くもなく、『古事記』においてもそれほど博識でもない。

大学教授などには足許にも及ばないは当たり前である。

 

ただ、私が『古事記』に魅了されたのは、その歴史と憧憬である。今回の磐之媛命についても「直感」でオカシイと感じました。それは何回かその地に訪れて、その雰囲気を摑むことが私には大切に思います。

 

岡山県の造山古墳で古墳の頂上に石棺があったのですが、それは足守川の支流から上げたものだと推測できるが、この石棺は花崗岩で出来て居り、大分県から運ばれたようである。

ボランティアガイドが説明して戴いたのだが、この石棺の大切さを説明したのは私であった。

 それが、しばらくして新聞にその石棺が重要であることを掲載していた。それ以降に再び訪問した時には、祠のように屋根を付けて保存していた。

 

 今回、「谷口雅春先生に帰りましょう・第二」の管理人様が丁寧に説明して戴いたことに感謝申し上げたい。

 また、『古事記』の説明において、少し違うのではないかという箇所もありますが、後日それを述べたい。勿論、原文からの引用ですので、その時には確認をお願い致します。

谷口雅春さんとの旧い御縁

故 谷口雅春さんとの旧い御縁

          谷野捨三(一燈園同人)

   『光』誌 昭和6011月號 頁811

先般、六月十七日、生長の家総裁・谷口雅春先生が帰光されましたことを新聞で知り、一燈園、西田天香さんとの旧い深い因縁もありますので、現一燈園当番、光泉林理事長であり、西田天香さんの孫である、西田武さんが、本葬七月二十二日、長崎県の総本山へ会葬なさったが、その御礼の意も兼ねてか『生長の家』誌編輯室から、「一燈園西田天香さんとの囚縁の一文」をとのお求めがありました。現在「若かりし日の谷口青年と天香さんとの初対面」を知っているものは、

多分私だけと思いますので、老残の気力を鞭打ち、朧げな記憶を手繰り草することにいたしましたが……さて。

 青年谷口雅春さんが、鹿ヶ谷一燈園を来訪されたのは、記録がないので、正確には不明ですが、種々の情況から推定して、大正十一年一月の或る日であったと思います。

 時に数歳は天香さん、五十一歳、谷口さん、三十歳、谷野、二十六歳であった筈。天香さんの処女出版『懺悔の生活』は大正十年七月五日であったが、この本が思いもかけぬ当時のべストセラーとなり、鹿ケ谷の平凡なささやかな建物一燈園へ潮の如く見学、求道の客が押しよせて応接、指導に、テンテコ舞の状態となりました。

 天香さんは「折角、細々ながら托鉢生活の火を燃していたが、この頃のように生木がどんどん火の上に被さってはどうなるかわからぬが、これもおひかりまかせ、来る人は拒まず去る人は追わず、一宿両(一泊と夕と朝との二食)だけは無条件で御供養するが、それ以上の滞在は托鉢に出て貰います。これがこの道場の清規です」と、皆に申されていました。

 青年谷口雅春さんも『懺悔の生活』の潮の渦に巻き込まれたお一人であった。当時の大本教の先生方は多く長髪羽織袴であったように、谷口青年もそれに似た服装であったと思う。

 その日は、珍しく天香さんも旅から鹿ヶ谷へお帰りになっていたので、天香さんをとり囲んで、おひかりの間で、四、五十人の男女が皆、自己紹介。天香さんの感話、質問、応答、座談会が開かれてあった。この時の、谷口青年と天香さんとの対話を思い出して書いてみましょう。

 

谷口「私は谷口雅春と申す者で、最近まで大本教におりましたが、感ずることありまして、大本を去りました。天香先生の御本を読んで大変感動いたしましたので本日御教え頂こうと思い、お訪ねいたしました。よろしく」

 

天香「こんな混雑して、取りみだしたところへおいで頂き、何ぞ参考になることがございまし少つか、何なりともお質ね下さい」

 

谷口「一燈園では、たのまれたら、どこへでも、又どんなお仕事でも托鉢に応じられますそうですが」

 

天香「一応は、そういたしておりますが、必ずしもそうと定めてありません。たのまれても応ぜぬこともあり、たのまれぬ所へも行くことがあります。おひかりのお指図にしたがって”といったかよいかも知れません」

 

谷口「日常ありそうな卑近な例でお質ねいたしますが、托鉢に寄せて頂いたお宅の奥様の仰せで、庭掃除のゴミをお隣りのゴミ箱ヘコッソリと捨てて下さいとたのまれたら、どうしたらよいでしょうか」

 

天香「“コッソリ…お隣りの……”などという反道徳に応じてならぬことは当然で、おひかりの命で順うべきであるが、又、托鉢者は謙譲の道も忘れてはならぬ。そこで、その不道徳のことをもたのむ奥さんに、念のため、お尋ねしておいては如何でしょう。“私は無器用なたちでコッソリなどということが下手でバレるかも知れません”と謙譲に申しなさい。

 

そしてバレたら私の不手際でしたと、自分の罪としおわびなさい。それだけ尽してもお気付にならぬ奥様なら、托鉢をお拒りして、一燈園へかえりなさい」

 

谷口「なる程、托鉢道はそれほど謙譲に守るべきことがわかりましたが、先程の托鉢の依頼のお二人共女性でしだから組し易かったのですが、暴力団から暴力の加担をたのまれたと仮定して、托鉢者はどうしますか……」

 

天香「仮定の問題を仮定でお答えするのだから力がありませんが、こんな話があって、この話の小さな真似ごと位は、出来ぬことはありません。

 昔、鎌倉時代に無住禅師という高僧がいて、その説話集『沙石集』という本の中に、ある道楽坊さんが盗賊団へ入って菩薩行を行じた話があるのです。ある所に坊さんでありながら

破戒無、誰も相手にせず、嫌われ者にも仏縁があったばかりに、心機一転して生涯悪に強ければ善にも強く一変した。

けれども、そんなことは誰も知らないので相手にしてくれないから、昔の悪事を逆に利用して盗賊団へ入ったのです。どのように普薩行をしたか―

⑴ 狙いをつけた家を昼の内によく見ておく。

 自分が一番先に潜入する。

 家人を起して大事な物だけを持って逃げ出さす。

⑷ 賊に抵抗するな、抵抗すれば殺傷するだけだと教えておく。

⑸ 盗品を仲間と山分けする時、自分は新米だからと辞退する。

⑹ 新入者があれば止めよと訓して入れず。

⑺ 老盗にはそろそろ娑婆に戻りなさいと勧める。

 

 ある時、この盗賊団も遂に一網打尽に捕えられ入牢したが、或夜、奉行の夢枕に仏が立ち。“この盗賊の中に一人活仏がいるからよく調べよ”とのおつげがあった。

奉行が再調査をしても、それらしい者が見当らぬ。只一人、元僧という奴がいるが、僧が盗人になるとは最悪と判じたが、尚然しと仲間に聞いてみると、彼の行動か全然異っているので、奉行は驚き釈放しようとしたが、彼は“己は天下の御法を破った者なれば、皆と共にお仕置になりたい”と言って死んだという。

 キリストの十字架のようですね。托鉢者は棄恩入無為だから悪を拒絶する勇気も要るが、悪をおのが罪として十字架を背負う勇気も要るのです」

 

以上のような話が次から次へと展開して、夜の何時頃まで続いたか、その頃時計のある者は殆どないので、記憶がない。一月の京都は底冷えがするが、暖房のある時代ではない。

宿両餐の客と同人を混えて八十人位はあったであろう。

 

翌朝は、皆、未明に起きて、竹箒を持って外を掃く者、雑巾を手に内部を拭く者あり、終りの合図で禅堂に座して、朝課。終れば朝食も頂かず托鉢に出かけるのである。私は計らずも谷口青年を河道屋へ案内する役が当ったのである。河道屋は鹿ケ谷から約一里位あり、その三分の一位の距離は電車を利用、三分の二は歩行で、小一時開かかります。

 

 河道屋へ若くと直ぐ朝食、谷口青年は羽織袴を河道屋の印袢纏に着替えて“そばぼうる”を焼くカマ場へ入って作業にかかります。仕事は誰でも出来る単純なことで、梅花型にぬいた生の蕎麦ぼうるを鉄板に並べるだけですが、油断をすると、眼前に職人さんが型貫きした蕎麦ぼうるの山ができるので、息も次がず敏捷にやらねばならぬのです。仕事を終えて夕食も頂いて、明日の電車切符と、風呂賃を頂いて帰るのですが、今日も一日、光から許されて活かせて貰ったと法悦に

浸りながらの谷口さんとの遊歩は、已に六十四年の昔となっても忘れ得ないのです。

 

 青年谷口さんは、物知り、話題の豊かな雄弁な青年紳士でした。その後六十余年、一度もお会いしなかったが、さすがは一宗を開く方であった。優れた方に御縁があった、その光縁に今も感謝いたしております。私は明治三十年生れですから、谷口さんより四つ下の弟でした。

 

※「蕎麦ぼうる」というのは、京都の銘菓です。

「蕎麦ぼうろ」として知られています。京都丸太町かわみち屋として喧伝されています。
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紆余曲折して眞實を捉える

人間というのは、下手に偉くなったりするとこういう事をいう

「何故、お前は俺の言う事がわからないんだ!」

 

「これだけ説明しても分からないのはどうしょうもない」

 

人の好い人は

「どうして貴方にこれがわからないのか、残念な思いだけが残る」と嘆息する。

 

善意をしても「悪意」しか読み取らない人もいる。

「目立ちたいから公共清掃を無料でするのだ。」

「一人、いい子ぶっている」

「欲があるからそんなことするんだ」

 

いい方向に考えを向けない人もいる。

 

「相手を分からしたいという思いが、反対に相手からの反抗に逢うことがある。」

「主張しなければ、わからない人がいる」

 

私はそれが反対に傲慢だったりするのではないかと考える。しかし、発言しなければ「相手も分からない場合もあることも確かである。

 

 とかく、自分がこのように思うという場所に靡くのは樂である。だが、それを飛び出していくのも勇気が必要である。
紆余曲折しながらも眞實に飛び込むことも必要である。

ある大学教授の「谷口雅春論」

下記の文章は天理大学の山田教授である。多くの参考文献は島薗進教授の文章からの抜粋が多い。これは参考文献が散逸していることもあり、ある特定の文章にのみ依存していく傾向があることが読み取れる。

だが、明らかに間違いがあることもこの文章にはある。

鎮魂帰神で谷口は狐の霊の言葉を語った。そして、養父に殺意を抱いたり、愛人に執着していたのは彼自身ではなく、谷口に憑依していた狐の霊であると理解することで一時の安寧を得る。

 

私が調べたなかではそうでないことは『皇道靈學講話』の御文章や『大本新聞』『神靈界』などで明らかである。また和歌などを詠むとそうでないことがわかる。

そうであっても、こうして谷口雅春論という話題がでるのは、ある面はいいことである。

 

【天理大学国際学部教授 山田政信】

生長の家の教えと実践(2)

谷口雅春の生い立ちと青年期の体験

創始者谷口雅春は1893 年に神戸市で生まれた。幼い頃、兄弟の中でただ一人養子に出されるも、中学時代を特待生として過ごした。その頃、養父母の物質的欲望に反抗し、精神的安寧を求めるようになったという。彼は兄弟とは「別の運命を受け、その寂しさのうちに却って神を想ふやうになり、その寂しさと憧れとを文章で訴へるようになった」(島薗1988: 72 への引用)。

 

大学進学にあたって、養父母は経済的な豊かさを求めて医者か軍人になることを勧めたが、谷口は苦しみながらでも人生を理解することが美しいと文学の道を選んで、大正元年、早稲田大学英文科に進んだ。

西欧の文学者の思想に中学時代以来の反抗心と気高いものへの憧れを重ね合わせ、実生活では劇的で深みのある「より美しい人生」を求めた。それは、犯罪歴を持つ貧しい少女との同棲生活に看取される。彼にとってそれは愛の実践であると同時に、経済的繁栄と安逸を至上の価値とする養父母への反逆だった。

 

養父母から仕送りを断られた谷口は、結果として退学を余儀なくされる。後に、彼はそのような過去を軽薄な文学青年の愚行で、自己中心的な快楽だったと述懐している(島薗1988: 75)。

 

その後の谷口は、挫折を抱えながら田中守平の太霊道や木原鬼仏の耳根円通法などの「心霊療法」を研究するようになり、25 歳の頃、それらを通じて大本教を知る。学生時代から疑問を抱いてきた貧富の差や弱肉強食が当然とされる社会のあり方に対して、彼は大本の教えがそのような社会悪を根底から取り除き、人間的な社会秩序をもたらしてくれると理解した。そして、同教団の鎮魂帰神法が霊の実在を科学的に実証するという考え方にも魅了された。そこで彼は「宗教と哲学と科学との間に眩い黄金の橋」が架けられたと感じたという(島薗1988:78 への引用)。

 

そのような体験を通じて谷口は、高貴なものを追求する「本来の自己」と本来の自己から遠く隔たった現実の「偽りの自己」とを区別するようになり、「本来の自己」に目覚めることで理想に献身する「義なる自己」を目指すことができるようになった。対立する二つの自己を捉え、それらの和解を導く論理は、生長の家の救済論として結実している(島薗1988 参照)。

大本に入信してから約3年半の間、谷口は綾部と亀岡の大本

教本部で禁欲的な修道生活を行っている。その間、彼は教団の月刊誌『神霊界』の編集や「キリスト再臨論」の講義を行った。彼の講義は信者の間で有名になり聴講者が増えたが、彼自身は「最後の審判をパスできるほどに浄まるのはいつのことだか見当が」つかないことに苦しむようになる。罪意識が消えないまま、本来あるべき「義なる自己」を振る舞うことは出来ないと考えるようになったからである。

 

「本来の自己」と「偽りの自己」の調和

谷口のこうした苦悩は、「本来の自己」と「偽りの自己」の

不調和を超克することで解決されるべきものだった。28 歳の頃、彼は京都で西田天香が活動している一燈園とその思想にふれることになる。西田は北海道の炭坑で資本家と労働者の間に立ち、労働者の監督をすることで収入を得ていたが、社会的不平等に疑問を抱いて郷里の近江に戻って托鉢を行い、弱者を虐げることのない生活を求めた(谷口1998: 218)。当時は社会科学的なアプローチによる社会変革が論じられた時代だが、西田の思想は闘争による社会変革ではなく、闘争を否定しながら弱者に同情し、憐憫愛を示すことで闘争欲を克服するという立場に立っていた。そのためには自らの罪を省み、人より高い地位に立とうとする思惑を取り払う。そうした懺悔の生活を伝えるための共同生活の場が一燈園だった。

あるべき社会像と現実とのギャップを内省的な方法によっ

て解決するという西田の思想は、「本来の自己」と「偽りの自己」とのギャップに喘ぐ若き谷口に解決の糸口を与えるべきものだったに違いない。しかし、彼にとって一燈園は安住の地とならなかった。「一燈園の生活といえども奪い合いの生活で、本当に調和した生命を生きていないのだと思い、思い切って一燈園の生活にもなりきれなかった」からである(谷口1998:219)。また、世間の利益追求の生活を批判して清貧に甘んじることは彼の本義ではなく、むしろ豊かさの中にあっても全てのものを生かすような境地を求めた(島薗1994: 260 265)。

谷口にとって、いわゆる懺悔は自己抑圧的であり、徹底して

自己を開化させることが自由の境地を得ることにつながると理解した。31 歳になった彼は、フェンウィック・ホルムスの『TheLaw of Mind inAction』を通じてニューソートの考え方を知る。

大本教とともに、このニューソートの思想が生長の家の教えと実践の形成に大きくかかわっている。

ニューソートは19 世紀後半のアメリカで広まった。多大

な影響を与えた人物にフィニアス・P・クインビー(1802 1865)がいる。クインビーは、「動物磁気」によって病の治療が可能だと説いたメスメリズムの実践家だったが、後に心の変化で病気が治るという認識を獲得した。彼の思想は多くの人々に影響を与え、心の変化による「真実」の認識が癒しと幸福をもたらすという思想体系としてのニューソートが生まれた(島薗1994: 267)。

ニューソートでは、恐怖心や自己攻撃を誤ったものとして取

り去り、自己に内在する神性を信じて明るくゆったりした心になることを目指す。生長の家の祈りや儀礼ではこのような思想が如実に反映されている。とはいえ、谷口はニューソートをそのまま継承したわけではない。ニューソートでは「目に見える」現象世界は神の創造物であり、病気や不幸も神のなし給う業だと説く。しかし、谷口はそれは生長の家の思想ではないと言う(谷口1998: 177)。生長の家では、霊界を含め現象世界のでき

ごとは「実相」として「円満完全」であるからこそ、人びとの苦悩は「幻想」に過ぎないと理解される。

【参考文献】

島薗進「生長の家と心理療法的救いの思想」『日本宗教の正統と異端』桜井徳太郎編、弘文堂、1988 年、67 90 頁。島薗進「神と仏を越えて―生長の家の救済思想の生成」『岩波講座 日本文学と仏教』第8巻、岩波書店、1994 年、257 284 頁。

谷口雅春『人類無罪宣言』楠本加美野編、日本教文社、1998 年。

『光』誌の掲載について

 今回の『光』誌の追加記載は「或る方」から御縁を戴き、掲載させて戴く運びとなりました。

私とは違い、眞の信仰者を吟持としてお持ちの方であります。

 その方との御縁もあり、こうして掲載させて戴くことと相成りました。

 再度読み直してみると、考えるべき所がありました。それは大正154月號の「隠れたる純情の人々」と昭和312月號の御寄稿の文章です。またその説明は追々と記入させていただきます。

 

『光』誌というより一燈園との関係は谷口雅春先生が旅立たれるまで続きました。

昭和561月号の書き下ろしの御文章の「みたまの研げた人」においての文章は第34號大正148月號に御寄稿されている文章と繫がりがあります。その文章に45年前に郡是製絲の西田天香氏の聴講についての文章が掲載されています。その45年前とは大正9年か10年頃でまだ谷口雅春先生が「大本」に御入信なされていた頃であります。

 大正102月ころ、西田天香著『懺悔の生活』を読み京都鹿ケ谷の一燈園を訪問されていると『生長の家五拾年史』に記載されていますが、深読みしますと、それ以前に綾部市の記念公会堂において「西田天香氏」の講演に聴講されている可能性もあります。

 

それはさておき、「生長の家」発祥されるまでの御文章は生長の家を形成するまでのシナリオのような感じさえ致します。

 

 末筆で失礼ながら、「或る方」への感謝を更に深くさせて戴きます。

『光』誌 一燈園・宣光社の追加記載

『光』誌

一燈園機関誌『光』-投稿文より

14 大正11(1922)8

「天香さんと倉田さん―或る日の私と私の妻との對話―」

P2831

16 大正11(1922)10

「文化生活と憐愍道―この一篇を敬愛する倉田百三氏に呈する―」『聖道へ』第一篇

P922

26 大正12(1923)8

「光の友へ一つの申出で―業因斷滅の根本的な實行方法について―

P2330

30 大正13(1924)3

「愛と戀と」

P3334

 

31 大正13(1924)5

『心靈界』浅野和三郎主宰 谷口雅春編輯 発行所神靈科學研究會假事務所 廣告宣伝

「個人に於ける『宣光社』的はたらき」

文章の最後に以下次号とあり

 

2

P1831

32 大正13(1924)6

「個人に於ける宣光社的はたらき」                                

※ 第31輯と第32輯に二回に同じ題名で投稿文(32号は、”宣光社”は『』無し)

P18~22

 

33輯 大正13年(1924)年7

三部作『聖杯』 第一部 『神を審判く』 

4

34輯 大正13年(1924)年8

4

34 大正13(1924)9

「奉仕者の雰圍氣に就いて」                                         

 P27は引き続き文章

P612

P271頁のみ)

37 大正14(1925)1

「失業者たちの不幸に泣く―資本家達の良心に訴ふる言葉―」

P1420

39 大正14(1925)3

「或る奉仕生活者の夢―神と青年との對話―」   

P611

40 大正14(1925)4

「無相の行者」の境地について」 托鉢三昧についての意見

P1824

 

41 大正14(1925)5

「藝術美以上に美しきものへ―『標立つ道』を通して觀たる善と福との一致の信仰に立つてからの倉田百三氏―                                              

P1524

43 大正14(1925)7

「無相無縛の境涯へ」    

P915

44 大正14(1925)8

「雰圍氣は語る」   大正14624日ご記入 

P2125

52 大正15(1924)4

「隠れたる純情の人々」鳥谷部陽太郎・谷口晴惠

P3236

56 大正15(1926)8

「神と偕に生くること 倉田氏の『善悪を横に截る道』及び伊藤氏のその駁論を讀みて」

P817

58輯 大正15(1926)10

ホルムス氏原著谷口雅春氏譯 第一篇「如何にせば運命を支配し得るか」

第二篇「と偕に生くる道」廣告宣伝

4

59輯 大正15(1926)11

ホルムス氏原著・谷口雅春氏譯 第一篇「如何にせば運命を支配し得るか」・

第二篇「神と偕に生くる道」廣告宣伝

4

60輯 大正15(1926)12

ホルムス氏原著・谷口雅春氏譯 第一篇「如何にせば運命を支配し得るか」・

第二篇「神と偕に生くる道」廣告宣伝

4

62 昭和2(1927)2

「『亡者』を読んで―呪はない生活の提唱―」

P1318

64 昭和2(1927)4

「再び『呪はざる生活』に就て」

P2732

65 昭和2(1927)5

「大調和の世界―生存は果して罪障なりや― 」妻子二人インフルエンザで40度の熱と記載 S2.4.29

P917

69 昭和2(1927)9

「迷ひ」                     S2.9.1

P3135

71 昭和2(1927)11

「かど掃き」                  S2.9.27

P1623

76号 昭和3(1928)4

「一つの提唱」              

P1823

79輯 昭和3(1928)7

『自我主義・生命』光瀬俊明編輯(平易な『道』の雑誌)の推薦狀として谷口雅春先生が御寄稿

4

80 昭和3(1928)8

「靈魂浄化過程の一要素としての苦痛の意義」  S3.7.1

『自我主義・生命』光瀬俊明編輯(平易な『道』の雑誌)の推薦狀として谷口雅春先生が御寄稿

 

P2127

4

83 昭和3(1928)11

「若き人道の戰士へ」  光瀬俊明氏への推薦狀を記載したが経営している会社が倒産したことに対しての御文章   この文章のあと西田天香氏の「谷口さんの文を読んで」

P3136

 

P3639

84輯 昭和3(1928)12

昭和三年度『光』誌の谷口雅春先生御寄稿された御文章の目次

P48

96輯 昭和4(1929)12

『生長の家』誌創刊號 宣伝廣告 月刊パンフレット

4

97輯 昭和5(1930)1

『生長の家』誌創刊號 宣伝廣告

4

119輯 昭和6(1931)11

『生命の神祕』谷口雅春著 生長の家出版部発行 廣告宣伝

4.

130 昭和7(1932)10

「無一物の醫學を語る」                                             

P2838

 

571号 昭和43(1968)8 (これより号と記載)

「明窓浄机- 一燈園の天香さんと金光敎の高橋正雄さんの憶い出」  『生長の家』第八号より 抜粋記載      

P2427

 

 

588号 昭和45(1970)1

「法喜をもって妻と為す」  谷口雅春著『維摩経解釈』より 抜粋記載      

P3435

 

589号 昭和45(1970)2

「仏教的善と民主主義-全沖縄軍労組の闘争に思う-」  中外日報45125日より一部転載 

P41

 

 

590号 昭和45(1970)3

「“元を正す“政治の姿勢」  中外日報4531日より一部転載 

P3

 

605号 昭和46(1971)6

「借金は払ったらよい」  『生長の家』6月号より一部転載 

18

626号 昭和48(1973)3

「十字架の道」  『生長の家』誌44輯第3号より一部転載

P6P8

633号 昭和48(1973)10

「“生かされてゐる“といふこと」  『生長の家』誌44輯第6号より一部転載

P13~P15

720号 昭和56(1981)1

「みたまの研げた人」  書き下ろし  綾部市 記念公會堂=郡是製絲

P19~P20

570号 昭和43(1968)7 ※谷口輝子先生

「天香さんとキング牧師」  『白鳩』第6月号より 抜粋記載  

P26~30

 

「生命の歌」

日本作曲年鑑(昭和12年)に於ける雅春先生の作詞の掲載

 

「生命の歌」谷口雅春先生作詞 江藤輝作曲 頁7377 頁143

昭和12118日 大日本作曲協会編 共益商社

 

ある日

輝く光明が

わが胸に降って来た

歌にも

手にも

足にも

花が降るようにおちて来た

わたしは光のうちに埋って

呼吸(いき)苦しいほど光明を吸ふ

やがてそれが私に「生命」だとわかった

 

この曲は国会図書館の資料にて埋もれていたものです。その為、当時から年数が経ち、忘れられている曲であります。

『谷口雅春著作年譜一覧表』には記載しています。

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