則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2018年09月

讀んで戴ければ幸甚です。

鵜戸陵墓参考地(吾平山上陵)

鵜戸陵墓参考地(吾平山上陵)(あひらのやまのみささぎ)

天津彦彦波瀲武鵜草葺不合尊(神代3代)(あまつひこひこなぎさたけうがやふきあえずのみこ)

 

鵜戸神宮内から参拝致しました。

吾平山の山頂にあります。当日山はぬかるんでいて靴は泥を吸ってしまった。しかも下り坂で、丸太階段が崩壊して滑ってしまった。帰りは波切神社に寄った。

 

鵜戸神社はカップルも多くいて、一人の私はそんなことを無視して、吾平山上陵を目指した。
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下図は波切神社です。
すごい所にあります。登山に慣れているので楽しんで行きました。
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北川陵墓参考地

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北川陵墓参考地(きたがわりょうぼさんこうち)

該当御方:瓊瓊杵尊

 

西郷隆盛宿陣跡北

可愛岳の登山口です。西郷隆盛の宿陣跡になっています。NHKで西郷隆盛の放映で人気があります。その北隣になります。
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無礙光燦々

以前の記入した内容です。今囘、ある御方様が私の遅々と進まぬ謹冩に御記入戴きました。本當に深く感謝申し上げたい。完璧な旧字體を操りご記入戴き感謝し切れない。茲に掲載させていただきます。(全文)

無礙光燦々

生長の敎團敎 谷口雅春

 

生長の家は光明思想といわれて居りまして、明るいばかりで暗いものは一つもない。嬉しい樂しい敎えであります。私の歌に

     たゞよえる雲の彼方にまんまるに

         すみきる月ぞわが姿なる

と云うのがありますが、雲が暗たんとたれこめているように見えて居りましても、月にむら雲がかゝつているように見えて居りましても、未だ曾て雲がかゝたことはないのであります。實は地球に雲がかゝつているから、お月樣が雲がかゝつたように見える。

 

お月樣の本當の姿は、ち實相は圓滿、れいろうとして、どこにも雲がかゝつていないのであります。我々の生命の實相、ち生命の本當の姿というものは實にれいろう、圓滿なものであつて、不幸に遇つたこともなければ病氣にかゝつたこともない。罪を犯したこともなければ又これから罪を犯すということもない。病氣になるということもない。月がれいろうと輝いているのは太陽の光が反射してこちらに見えるのだと又人が圓まんなのは神樣の命をうつしているからそういう姿に見えるのだという人もありましよう。  

 

肉眼で見える姿は映しの姿で、本當の人間の姿ではない。本党の人間の姿というものは肉眼では見えない、月も我々の眼球に感じて、眼球の奧の盲膜に映じて、それを神經に感じて、心にうつして見ているのであつて、じかに月を見た人はない。それと同じで我々の命も見せてくれといつても見えやしない。見えないのが本當の姿であつて、見えているのは眼球というレンズを通して見ているのであつて、近眼の度のきつい人には月が二つに見えたりする。

又亂でいびつに見える人もある。又もつとひどい人になるとそれも見えない人もある。見える姿の奧に本當の月があり、本當の完全な命がある。その本當の姿の途中に色々の雲がかゝりまして、その雲の厚いうすいによつて或人は病氣に現われ、或人は弱な體に現われ、或人は貧乏に現われ、金持に現われ、いろ現われて居るのですが、しかし我々がそれに執われて居つたならばいつ迄經つても本當の命の完全さというものはわからないのであります。その現れを越えて、その奧にあるところの、たゞよえる雲の向うにまん丸にすみ切る月を把んだ時に、初めて我々人間の命の實相というものは素晴しいものだな、完全なものだなあということがわかるのであります。

 

私は昨日、政治界で頗る立派な地位にいらつしやる人とお目にかゝつたのですが、その人が仰つしやるのに、自分は戰爭はどうしても嫌いである。何とかしてこの世界を平和にしたい、戰爭のない世界にしたいと思うのであるが、それには宗敎の力に俟たなければ駄目だと私は思う。私は政治家であつて、宗敎というものは知らぬけれども、ともかく人類が互いに愛情の關係に於て結ばれなかつたならば、どうしても地上に平和というものを持ち來すことは出來ないように思う。一體どうしたらこの世界から戰爭をなくして平和の世界を實現することが出來るであろうか、それを宗敎家に聞きたいと思つてお目にかゝつたのであると言われたのであります。

 

皆さんも平和という問題、人類から戰爭をなくするという問題については非常に關心を持つて居られると思う。人類から戰爭を無くするのには一體どうしたらいゝのであろうか。ユネスコはどういつているか。戰爭は先ず人間の心の中に出來上つて、それが形の世界に現われるのである。こういつて居るのであります。生長の家ではユネスコの始まる二十年も前から、戰爭は心の世界に、想念の世界に起るのであるということをいてきた。月のように圓滿完全な本當に平和な相がそれが人間の本當の相、世界の本當の相であるのですけれども、しかしながら本當の相を見ないで心の世界に戰爭を畫く、丁度月の前にむらと雲が現われるように、人々の心の中に戰いが畫かれる。そうするとやがて現象界に戰いが始まつてくるのであります。心の世界に戰いを畫かぬようにしたならば戰いが出て來なくなる。その心の世界に戰いを畫かすまいと思うならば、どうしたらいいかというと、言葉の力というものを知らなければならない。

 

生長の家は言葉の宗敎であるといわれているのであります。生長の家は萬敎歸一であつて何敎でもいゝのであります。何敎でもいゝのでありますが、キリスト敎でも、ヨハネ傳の冒頭に「始めにことば言あり、ことば言は神と共にあり、ことば言は神なりき、萬のものこれによりてなり、成りたるものこれによりて成らざるはなし」と書かれている。始めにことば言あり、始めというのは一切のものの始めであります。一切の根源のことばであります。一切のものゝ根源は言葉である。言葉が一切のものを作るのである。だから總てのものが出來ることを「成り」と云うのは「鳴り」ひゞくことであります。つまり言葉の振動で一切が「成る」ということであります。すなわち一切のものは言葉の振動が結晶して出來た―結晶という言葉も變だけれども、わかり易く言うと言葉の振動が具體的な形をもつて現われているのが、それが肉眼に見えるところの事物であります。この湯呑でも、湯のみは言葉が集つて出來ていない、陶器を作る土が集つて出來ているんだというかも知れませんけれども、實は言葉によつて出來ているんです。「これは湯のみなり」という。

 

その「なり」というのは「鳴り」ひゞくということで、それを口語で言うと「湯のみと云うもの」と云う。それは「云うもの」であるから言葉の塊なんです。普通「言葉」というと我々は口から出るだけのものを「言葉」と考えるのでありますけれども、キリスト敎の聖書に「始めにことば言あり」とこう書かれているところの始めのことば言というのはまだ地球も太陽も天體も生れていないところの一番始めにあつたところのことば言であります。だから、それは宇宙に充ちているところの大生命といおうか、神といおうか、佛といおうか、不可思議というか、妙というか、ともかくれいろう不可思議な大生命が充ち充ちて居つて、それが或る運動を起した。丁度ラジオの波のように波を起した。ち大生命の波の振動、これを稱して言葉というのであります。

 

皆さんの言葉を出すというのもやはりそうなんです。皆さんが口から言葉を出すにしても皆さんの生命の振動である。生命の振動は必ずしも聲帶が振動して耳に聞えなくても、それはやはり言葉の中に入るのであります。皆さんが今日は共立講堂で講演會があるんだ行こうと考えるとすると、口に出さないでも心で思うとすると、その通りに言葉を心の中で思うでしよう。心の中に言葉を思いうかべ、思いの振動が起るんです。その想念の波というもの、思いの波動というものが言葉なんであります。陶器造りが、心の中にある形を思い浮べて、お茶をのむのに便利な姿に拵えようと思つて、思いの波がこりかたまつてこういう湯呑の役に現われたのでありますから、この湯呑はやはり言葉のかたまりであります。言い換えると心の波のかたまりであるということなんです。總てのものはコトバち心の波のかたまりによつて出來ているものであるということがわかると、言葉を大切にせねばならぬことがわかるのであります。言葉の力というものは非常な力を持つているのであります。

 

太平洋戰爭なども言葉の力で始まつた。ABCD包圍態勢で包圍圈を縮められて、どこかの一角に血路をひらかぬと日本の生きる道はないと云う風にラジオや新聞によつて、國民の心が言葉の力で戰爭にあふり立てられた結果初まつたのである。だから戰爭を無くしようと思つたならば、よき言葉を使わなければいけない。ソ連が攻めてくる攻めてくると毎日言つて居たならば本當に攻めてくるんです。そんないらんことを言うことはないのが好い。お互いに惡口を言つて居つたら終いに喧嘩になるのは決つている。モスクワ放送を聞いているとアメリカは侵略國であると盛んに放送する。それを聞くと日本人の中にも三分の一位はそうかというものも出て來る。これは結局言葉の力である。それをあべこべに言つて御覧なさい。

 

日「アメリカは平和愛好國である。素晴しい立派な國である。道義の國である」とソ連から放送する。アメリカもソ連と同じように「ソ連は平和愛好國である」とほめたゝえる放送をする。互に言葉の力で讃美する。そうすると、お互の感情がよくなつてお互いに手をつなごうということになる。どうしてもこの世界をよくするのには言葉の力をもつと善用することをしなければならない。ところが殘念ながら、思想の自由、言論の自由ということが尊ばれて居つて、どんな思想でも、どんな言論でも自由に發表し得るところの自由が認められている。しかしながら言葉というものは、そういう素晴しい力を持ついるものですから、正しい方向に使つたならば素晴しいよき效果が現われるのですが、惡い方向に使つたならば驚くべき、原子爆弾よりも恐ろしい慘害を與えることになる。

 

現在憲法に於ても言論の自由が認められている時代ですからそう云う惡い言葉を使う自由もみとめられているから、言論を統制することは出來ないのは仕方がない仕方がないから、吾々は吾々に惡しき言葉に對抗出來るところの善き言葉しか書かない立派な一大新聞を拵えたいと、こうその政界の偉い人に私は言つたのですよ。とにかく今迄の新聞、雑誌、ジャーナリズムは惡いことばつかり大きく書いている。

 

この頃の新聞を見て御覧なさい。やれ盗だ、職事件だと惡いことばつかり書いている。あれは事實の報道ではあろうけれども、その結果は言葉の力によつて、惡いことを拵えるということになるんだ。例えば青酸加里で自殺したなんということでも、それを書くと、そんなに簡單に死ねるのならば一つ青酸加里を買つてやろうかということになるんですね。

 

 

私は早稲田の文科に居った時分に、オスカーワイルドというアイルランドの有名な文豪の作品が好きでありまして、手に入る限りその人の著述を讀んだものでありますがその論文の中に「倫敦の霧は詩人がこれを認めて言葉によつて表現した時に初めて存在に入ったのである」と言つた一があります。それは言葉によつて表現される迄は存在しないのであります。それは物理學的にはロンドンの霧がどんなにあつても、それを認めなかつたならば、認められて言葉に現われる迄は人間の心理體驗としては存在しない、心に認められないものは物理學的に如何にあつても存在しないのである。

 

そうしてそれを言葉によつて表現したならば「人生はその言葉を模ほうする。藝術は人生に先立ち、人生は藝術を模ほうするのである」こうオスカー・ワイルドは書いているのであります。言葉によつて表現されたものを、人間はそれを讀むとその眞似をしたくなる。例えばダヌンチオの「死の勝利」という有名な小がある。あれを讀んだ文士の森田草平氏と或る女性とが、その「死の勝利」を模倣して原山中へ假空の心中をするために出掛けて往つたと云うことは有名な話である。この實話が森田氏の「煤煙」とか「未練」とか云う作品に書いてあります。つまり小と云う言葉の藝に書かれたものは、その文學的價値が髙ければ髙いほど人間を引ずつて行つて、それに書かれている通りの行動を模倣にさせるところの強制する力があるのです。

 

最近「チヤタレー夫人の戀人」という作品が有名になつている。猥褻文書であるとか、文學として表現されたものだから猥文ではないとかいろの議論が新聞を賑わしているのであります。私は遺憾ながら讀んだことがない。だからそれを批評する限りではないけれども、私のような立場からは批評している人が一つもない。それは言葉の強制力が如何に人生にその表現された行爲の模倣を強制させるかと云うことです。若しあの小に猥褻な場面が精細に生きと、如何にも文學的に表現されているというならば、それを讀んだ人はその場面と同じようなことをしたくなる。

 

これは心理學上の暗示の法則であり、人生は藝術を模ほうするのである。人生は言葉の文學を模ほうせずにはいられない。言葉に書いた通りのものが形の世界に現れてくるということになる。これが心理學でいうと暗示感應である。吾々は不用意にものを讀むですね。そうすると書かれている言葉のあらわす觀念がぱつと我々の心の中に入つてくる。これがち暗示であります。催眠術で「君は眠くなる」と言うとそのまゝ眠くなつてしまう。言葉が人間の體を左右するのである。だから左翼の人が彈壓されても、機關紙を押收されても押收されても機關誌を出すでしょう。これは言葉をいうものが非常な武器であるということを知つているからであります。

 

言葉は世界を革命する。人間の病氣を治すぐらいのことは何でもない。それが立派な藝術家の書いたところの素晴しい文章を以て讀を引ずつて行くことが出來るならば、人間の心などというものはどうにでも出來るということになつている。それが出來きない位なら文章家ではない。結局言葉というものは人間の心を動かす。又我々の肉體の微妙な細胞の運動も言葉によつて振動するということができるのであります。「太初にことば言あり」の言葉の力は太陽系統を動かし、地球を動かし、世界中の人心を動かす力があるんです。その「ことば言吾らに宿りて肉體となり給へり」とヨハネ傳に書かれている。ち吾々の言葉の力は太陽を造り地球を造つた言葉が宿つているのであるからこれによつて我々が人生に幸福を齎らそうと不幸を齎らそうと自由自在だ。言葉の武器というものを忘れて居つて、その言葉で不幸を表現しながら人間が本當に幸福になろうと思つても駄目なんです。言葉で戰爭を表現しながら平和を招來しようと思つても駄目なんです。原子爆彈よりも言葉の力の方が強い。原子爆彈は破壞するのにも使えるし、文化の向上にも使用出來るが、それをどちらに使用するかを決定するのは言葉の力だ。言葉が一切を支持するのである。ですから皆さんが幸福になろうと思つたら、先ず「私は幸福だ」と唱えることなんだ。「先生私は不幸なんです。

 

不幸なのにどうして幸福だなんて唱えられますか」という人があるかも知れませんが、そうじやない。この講演の冒頭に言いました歌のように、「たゞよえる雲の彼方にまんまるにすみきる月ぞ我が姿なる」であります。雲は漂うて居つても、お月樣はまだ一度も雲がかゝつたことはないのである。人間は正面から見ると雲かゝつたお月樣のように不幸に見えて居つても、本當に不幸の人はない。そう見えているだけなんだ。假のすがた相だ! 假の相はの相だ! 本當の相は完全圓滿な人間である。なぜかというと、人間は何處から生れたかと言うと、神の生命が此處に姿を現わしているのである。決してアミーバーが進化して來たんじやない。物質の分子が偶然に澤山集つてこんな形になつたと思つている人があるかも知れませんけれども、物質というものは勝手に動いて或る一定の形に並ぶということはあり得ないことなんだ。物質を一定の何らかの形に並べるのには少くとも精神的要素が物質の排列を指導しなければ秩序整然たる形にはならない。

 

例えばこゝに一握りの豆があるとして、それは心を用いずに出鱈目に掌から落したら、無茶苦茶に並ぶしか仕方がない。何べん落しても人間のように目が横につき鼻が縱につくように並びやしない。それは無限の時間を利用してやつている間には其處に無限の機會があるから、一度や二度は偶然鼻が縱につき目が横につき、横目縦鼻のこんな人間が出來ることがあるかも知れませんけれども、何千何萬という人がみんな揃うて同じように目が横に鼻が縱になるという、そんな馬鹿なことはない。一定の形に並んでいるのは、これは物質を並べるところの思念の力、ち精神的模型というものがあつて、その模型に從つてそれが並べたものでなければならない。總てのものは物質でできているように見えているけれども、實は物質でできていない。

 

神の生命が現われている。神は見えないけれども、生命が見えないのも同じであります。實相は見えないのであつて、それが現わしている現象だけを吾々は見ることができる。その現われを見ることによつて、奧にあるところの命が、智慧がそれが素晴しく圓滿完全な立派なものであるということを類推してわかるということになる。その現象の奧にある生命こそが皆さんの本當の實物だ、皆さんの實物實體は、神の命がここに現われているのである。これを生長の家では縱の眞理(↑心理)といつている。終始一貫變らないからである。これは織物に喩えると、經糸みたいなものであつて、終始一貫變らない。眞直だ。人間は神の命で完全で圓滿だ。終始一貫眞直につき通つているのが本當の人間の實相である。

 

ところが、それが念の交錯によつてその姿が變つて來る、これを生長の家では橫の眞理と云つている。これは織物の緯糸みたいなものであつて、ちようど織物の模樣が、緯糸の交錯によつていろの形が浮び上つて來るようなものであります。

 

 

人間の本當の相は終始一貫、完全な命である。これは終始一貫しているから「縱の眞理」と云います。それにどうして不完全な姿が現われて來るかと云う原理が、「橫の眞理」と云います。唯心所現の理であります。心に畫くものが形に現われて來ます。心に戰爭を畫けば戰爭が現われる。心に不幸を畫けば不幸が現われてくる。だから心の世界に惡いものを畫いてはならない。

 

「私は神の子なんだから幸福なんだ。佛と一體だから幸福だ」こういう風に常に思うようにするんですよ。そう念ずることが今迄佛敎で、「南無阿彌陀佛」と唱えた言葉なんだ。ち南無阿彌陀佛とは「私は阿彌陀佛と一體だ。だからもうに救われているのだ、幸福だ」と唱えることになつている。それを途中から間違えて、身投げをしたり、打首になる時に唱える言葉にしてしまつた。それは法然、親鸞のあらわれた時代は保元の亂、平治(↑和)の亂相次いで起り、更に天災地變も加わつて、兄弟互に敵となつて相殺戮する地獄相がつゞいた。それでこのような淺ましい世には生きて居りたくないので、寧ろあの世に行つた方がましだ。此世には到底救いはないという氣になつた。その時代に法然上人、親鸞聖人が出て來て念佛の功德をといたものですから、その救いをあの世のこと、後生だけを救うのが阿彌陀佛のお力だと誤解されることになつた。それは時代のやむを得ない傾向だつた。併し阿彌陀佛というのは西方極樂淨土だけに押し込められているようなそんなちつぽけな佛樣じやない。

 

盡十方無礙光如來といつて、ありとあらゆる方角を盡くつくして照りわたり、どんなものでも障碍物にならないで、鐵筋の中でも、煉瓦壁の中でも、人間の骨の中にでも、神經系統の中にでも充ちているところの無礙の光であるところの佛樣である。だから阿彌陀佛、無礙光如來といわれている。光と云うのは智慧の光であります。「佛の光は智慧の光にして」というように親鸞聖人は敎行信證の中で言つて居られますが、あらゆる物質を、自分の智慧のまゝに完全に並べる不思議な智慧の光、これが阿彌陀佛の光、その光が私のうちに、皆さんのうちに宿つて皆さんの命となつている。皆さんの命が阿彌陀佛の命なんだ。人間のうちに阿彌陀佛の命がいらつしゃる。開山、宗は別として今迄の佛敎の布敎者にいろの奇蹟が現われなかつたのは何故であるか。或いは終戰後成宗敎が氣息えんとして寺院敎團の維持に困つているという態になつているのは何故であるかというと、これは阿彌陀佛を西方極樂淨土に押し込めてしまつて、阿彌陀佛はお寺にいないのであると説いているから、そういう間違いが起る。

 

阿彌陀佛は今こゝにいらつしゃる。皆さんの生命の中に、私の生命の中に、盡十方無礙光如來がましますのです、ありとあらゆるところに滿ちておつて、皆さんを生かさずに置かない。我々の生命が阿彌陀佛の命であつて、に救われているのである。佛の生命であるから始めから救われて居るのであつて、これからも救われるのである。始めから無礙光であるから陰は一つもない。罪深い人間だという人があるけれども、生長の家に言わせると罪深い人間なんというものはない。罪深い人間という言葉を使うと罪深い人間が現われて來る。ち言葉の力なんです。つまり言葉によつて罪が作られるんだ。

 

戰爭中日本は一等國民という名前をつけられた。そうしたら言葉の力でともかく日本國民らしい秩序整然として居つた。列車のガラス窓でも一枚も破れて居らなかつた。ところが終戰になつて占領軍がやつて來る。日本國民は四等國民であるという名前を付けた。それから德川夢聲がそれにシンニューをかけて日本國民は八等國民であるとどこかで書いた。そうすると八等國民の態が現れた。これが言葉の力です。汽車と云う汽車の窓硝子は悉く叩き破られてしまうと、洗面所の前のねじ釘でしめつけた鏡でさえどこかへ行つてしまう。我々が腰をかけるビロードの布が切りさかれてしまう。實に慘たんたる四等國民、八等國民の態があらわれた。併し敗戰國民という名前をつけるまでは秩序整然として居つた。つみ罪びと人だと云う名前をつけると罪人の態があらわれる。言葉が大切なのです。言葉の力というものは世界を動かし、人心を昂揚する力があると同時に、人心を頽廃させる力がある。

 

そうして家庭を調和させる力もあれば、家庭を紊亂させる力もある。或は病氣を治し健康ならしめる力がある。これは言葉の中にあるんですよ。それで不幸の人でも幸福だと常に唱えるようにすれば幸福が現われて來るんですよ。

 

凡て事物は、心から總てのものが起つて來るんです。心の一番の源は何となき感情の動き、それがやゝ具體化して想念ということになつて來る。その想念が心に畫かれ、言葉に發しられると、それが愈々形になつて現れ、行動になつて實物化する。一番の源は何となき感情の動きということなんだ。これは男女の戀愛でも同じであります。ちよつとあの人とちらつと見合つた時に、何となき感情の動きが起つて來るんです。それが段々に具體化して來る。感情が昂揚し合つた瞬間に新しい生命が生れる。生み出す力は感情の力だ。何となく嬉しい樂しいという氣持が起ることが一番大切なことなんです。

 

朝起きて「私は嬉しい、神の子が生きていると、阿彌陀佛がこゝに來ている」というような氣持をもつて、一日々々を出發せしめたら、いゝことの他起りようがないということになつて來るのであります。それにはやはり言葉の力を使う。朝起きた時に「私は神の子、嬉しい、いゝことが來る、いゝことが來る」こういう風に思うんです。そうるすといゝことが來るのです。

生長の家は宗敎共通の眞理に燈を點ける宗敎であつて、別派を立てるのではない。今迄の眠つているところの宗敎を、目を覺さして、それに命を吹きこむのが生長の家である。だから「敎」と云わずに「家」と云った。今迄の宗旨をやめてこゝはいらない。先の信仰して居つたところの宗敎を、それをやめてしまうということは先に對して申し譯ないことである。それは恩に背くということになる。

 

ですから先が信じて居つたところの宗敎を本當に生かして、その光を一層輝かすようにするのが恩に報いる道である。生長の家は何も他宗を侵蝕していつも自分が大きくなろうとするのではないのであります。だから自ら七つの燈臺の點灯者といつている。我々は燈をつけて行くのである。そうして各自のうちに宿つているところの生命の本當の光を出すことにしたならば、總ての人間は皆幸福になれるんである。人に出遭つて喧嘩でもしようかという時は、屹度むしやくしやしている時です。心の中に何となく面白くない時に荒々しい言葉になつて、なぐりたくなつたりするようになる。心の中が本當に樂しかつたら、なぐり合いも喧嘩も起らない。だから世界の平和というものはどこから成就するかというと、結局總ての人間が自分自身を神の生命である、佛の生命であるということがわかれば、戰爭をしようというような馬鹿らしいことも起らない。互に拝み合いになる。

 

 

すべての人間の生命の中に、佛の命、無礙光如來の生命が、燦々と輝いているんだぞということが、心の底に深く自覺出來た時に、ほのとした平和の光が差し昇つて來る。そこに明るい微笑が、明るいほめ言葉が人類互いに交されて來るようになれば無礙光燦々として此處に極樂淨土が現われ、世界に本當に平和の世界が實現するということになるのであります。

相手を見下していいのか

昨日はある方とお会いして、一日「谷口雅春先生」の自伝において調べたりしておりました。

私自身、まだまだ、調べていないところもあり分かり次第、このブログに発表していきたい。

 私のように、谷口雅春先生のことを研究して居られる人がいることを心強く思いました。

その人の内容もまたお聞きしたい。今後どのようになっていくのかを楽しみにしています。

 

それ以外でまだ『生長の家五拾年史』で記入されていない内容とかがあります。こうした内容を附記して記載していきたい。

 

 私は其の人の話を聞きながら「この人はこういうことをすることが天分だ」そのように思い、そのコトバを伝えました。

 

名前とか内容とかは明かせないことなんで、お許し戴きたい。また、ブログで発表しますので、御推測をお願い致します。

 

また、あの管理人様が必死に書いているが、それは後々記入させて戴くことにしたい。また、以前の私が質問した内容も答えていないのに、どうして人間と云うのは「自分の枠」でしか考えないのか、こういう人間はっきりいうと、自分勝手である。

 

私が最近は相手に質問をしないことにしている。しかし、いきなり、出入り禁止のようなことをしたりしてその理由はあると思ってトキさんの内容を重複したが管理人に投げかけて質問を記入した。はっきりとは答えていない。それが理由というのが書いていない。

 

書いている内容は其の人がたぶんするかも知れないという、予断が占めている。ただ、それは悪いことでもない。そういうことは私を含めてしていることである。

ただ「トキ掲示板」が嫌いで仕方がないのであろうが、それならば幼児の駄々を捏ねるのと同じである。

坊主憎けりゃ袈裟まで憎いと同じ分類なのかもしれない。全ての人を同一視して見るしか出来ないのであろう。

 

また今回の相手(私を含む)を卑下して、そして見下して、そして「低レベル」であると断言するような人物にどのように応えたらいいのか、はっきりいえば「低レベル」の私が答えることではない。自分で考えればいいとも惟う。また、先日の「トキ掲示板」で低レベルと記入した内容が私と同じで推敲が足りていないので、結局「低レベル」だけが印象に残っているだけである。

男狭穂塚陵墓参考地・女狭穂塚陵墓参考地

男狭穂塚陵墓参考地(おさほづかりょうぼさんこうち)

該当御方:瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)

 

女狭穂塚陵墓参考地(めさほづかりょうぼさんこうち)

該当御方:木花開耶姫(このはなさくやひめ)
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陵墓参考地という文字が何故だか消えています。
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 171号古墳は女狭穂塚の陪冢とされていますが、全体像をれないまま、今日中に帰宅するため寫眞撮影はしていません。また今度訪問する時の楽しみにしたい。

西都原古墳群で唯一の方墳です。一辺25m高さ4.5mで二段築成されています。墳頂平坦部は円筒埴輪列が取り囲みその内部に家形埴輪や盾形埴輪が列をなして立てられていました。しかし内部に人を葬った跡は見られません。第一次調査大正元年12月から翌年1月・平成10年から平成12年祭発掘調査整備されました。

 墳丘の表面は川原石(葺石)で覆われています。無題
171号古墳

 

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上図で171号古墳の位置がわかります。

後醍醐天皇皇子 懐良親王

後醍醐天皇の皇子、皇女は大変多くいます。

私が陵墓で訊ねた箇所は◎

ただ、下記は宮内庁管轄の陵墓です。

神奈川県

後嵯峨天皇皇子 顕日王分骨塔

後醍醐天皇皇女 用堂女王墓

後醍醐天皇皇子 護良親王墓

富山県

◎後醍醐天皇皇子 恒性王墓

長野県

◎後醍醐天皇皇孫 尹良親王墓(宗良親王皇子)

◎後醍醐天皇皇孫 尹良親王墓 陪冢い号 仙人塚 

◎後醍醐天皇皇孫 尹良親王墓 陪冢ろ号 仙人塚

◎後醍醐天皇皇孫 尹良親王墓 陪冢は号 仙人塚

静岡県

◎後醍醐天皇皇子 宗良親王墓

◎後醍醐天皇皇子 元選王墓

京都府

◎後醍醐天皇皇子 尊良親王墓

◎後醍醐天皇皇子 世良親王墓

鳥取県

後醍醐天皇皇女 瓊子内親王墓

熊本県

◎後醍醐天皇皇子 懐良親王墓

 

 

後醍醐天皇の正式な系図はわからない。沢山の皇子、皇女がいるためである。自分の考えを廃れないようにするために、統幕という気持ちを全国各地に根付かせる爲です。

 

ウィキメディアから抜粋します。

后妃・皇子女皇后:藤原(西園寺)禧子(後京極院、1303-1333 - 西園寺実兼女 皇女(1314-?

皇女:懽子内親王(宣政門院、1315-1362 - 光厳天皇後宮

 

皇后:珣子内親王(新室町院、1311-1337 - 後伏見天皇皇女 皇女(1335-? - 南朝系図は幸子内親王とする

 

女御:藤原(二条)栄子(安福殿) - 二条道平女

典侍:藤原(五辻)親子(中納言典侍) - 五辻宗親女 皇子:満良親王(花園宮・常陸親王?

 

典侍:源氏(大納言典侍) - 北畠師重女

典侍:藤原氏(新按察典侍) - 持明院保藤女

典侍:某氏(帥典侍讃岐) - 父不詳

掌侍:藤原氏(勾当内侍) - 世尊寺経尹女 皇女

 

掌侍:菅原氏(少将内侍) - 菅原在仲女 皇子:聖助法親王 - 聖護院

 

後宮:藤原(阿野)廉子(三位局、新待賢門院 1301-1359 - 阿野公廉女、洞院公賢養女 皇子:恒良親王(1325-1338 - 後醍醐天皇皇太子

皇子:成良親王(1326-1344 - 征夷大将軍、光明天皇皇太子

皇子:義良親王(後村上天皇、1328-1368

皇女:祥子内親王 - 斎宮

皇女:惟子内親王 - 今林尼衆

皇女?:新宣陽門院 - 『大日本史』は後村上天皇皇女とする

 

後宮:源(北畠)親子(民部卿三位) - 北畠師親女、一説に日野経光女・経子 皇子:護良親王(尊雲法親王・大塔宮、1308-1335 - 梶井門跡、征夷大将軍

皇女:姚子内親王 - 今林尼衆

皇子 - 南朝系図は尊性法親王とする

皇女 - 近衛基嗣室

 

後宮:藤原(二条)為子(権大納言局) - 二条為世女 皇子:尊良親王(一宮、?-1337

皇子:宗良親王(尊澄法親王、1311-1385? - 天台座主、征夷大将軍

皇女:瓊子内親王(1316-1339

皇女

 

後宮:藤原(洞院)実子 - 洞院実雄女 皇女

 

後宮:藤原(洞院)守子(1303-1357 - 洞院実泰女 皇子:玄円法親王(?-1348 - 一乗院

皇子?:最恵法親王 - 妙法院

 

後宮:憙子内親王?(昭慶門院、1270-1324 - 亀山天皇皇女皇子:恒性(越中宮、1305-1333 - 大覚寺

皇子:無文元選(1323-1390 - 遠江方広寺開山

 

後宮:藤原氏(権大納言三位局・霊照院、?-1351 - 二条為道女 皇子:法仁法親王(躬良親王、1325-1352 - 大聖院

皇子:懐良親王(鎮西宮・筑紫宮、1329-1383 - 征西将軍

皇女

 

後宮:藤原氏(遊義門院一条局) - 橋本実俊女 皇子:世良親王(?-1330

皇子:静尊法親王(恵尊法親王) - 聖護院

皇女:欣子内親王 - 准三后

 

後宮:藤原氏(少納言内侍) - 四条隆資女 皇子:尊真(醍醐宮) - 南朝系図は杲尊法親王と同一人とする

 

後宮:藤原氏(大納言局) - 洞院公敏女、一説に正親町実明女 皇女 - 南朝系図は瑜子内親王とする

 

後宮:藤原氏(左衛門督局) - 二条為忠女? 皇女 - 今林尼衆

 

後宮:藤原氏(権中納言局) - 洞院公泰女? 皇女 - 南朝系図は貞子内親王とする

 

後宮:藤原氏 - 吉田定房女

後宮:藤原氏?(坊門局) - 坊門清忠女? 皇女:(用堂?

 

後宮:源氏 - 堀川基時女 皇女

 

後宮:源康子(飛鳥井局・延政門院播磨) - 源康持女

後宮:源氏(若水局) - 源康持女、康子妹

後宮:源氏 - 堀口貞義(貞満の父)女? 皇女 -吉水院宗信妻、尊寿丸母

 

後宮:某氏(昭訓門院近衛局) - 父不詳 皇子:知良王 - 『南朝紹運図』は守永親王と同一人とする

 

生母不詳皇女:用堂(?-1396 - 東慶寺5世住持

皇女 - 六条有房室、上記何れの皇女か不明

皇子?:竜泉令淬(?-1366 - 万寿寺住持

皇子:賢光光遍寺5代住職

 

上記のような本当に大変な皇后、皇子、皇女です。そのなかで、今回は九州を一つの国にしようと画策した男がいます。それが後醍醐天皇皇子 懐良(かねよし、かねなが)親王です。

 

 懐良親王

     「大保原合戦(筑後川の戦い)の征西将軍宮」

          参照:九州古戦場巡るより抜粋

 

「懐良親王」(13291383)かねよししんのう(かねながしんのう)

「親王」は南朝「後醍醐天皇」十六皇子。

 僅か九歳(八歳とも)にて征西大将軍(征西将軍宮)。「親王」は1342年九州の南朝方を統率するため九州へ。北部九州沿岸での九州入りは襲撃のおそれ極めて高く、これを回避するため南の薩摩から九州に入る。

 「親王」は谷山城(鹿児島市)に滞在の後、1347年九州西海岸沿い「葦北」あたり経て肥後南朝方「菊池武光」の菊池本城(隈府城)に入る。

 

 「親王」は筑前、筑後の幕府方や足利直冬らと対峙する一方、正平3年(1348)豊後高崎城を攻める。九州南朝の勢いに大友氏は一旦南朝方に下るが、将軍家の意向に沿い「大友氏時」は北朝に帰順、南朝に対抗する。この大友氏に菊池武光は、文和4年(正平10年・1355)高崎城を攻め大友氏は南朝に下るも再び北朝方につく。以降「武光」は何度となく豊後の攻め入る。延文年(正平13年・1358)にも挟間口、赤松口より高崎城に迫るが敗退。高崎城の備えは強化されていた。標高629m天嶮の要害、高崎城は落ちることは無かった。

 

  延文4年(正平14年・1359)「懐良親王」三十歳、この「懐良親王征西将軍宮」を奉じる「菊池武光」軍に、武家方「少弐頼尚」が一大合戦を繰り広げた「筑後川の戦い(大保原合戦・日本三大合戦の一つ)」に南朝方が大勝。1361年(正平16年)「少弐氏一族」を一掃「大宰府に征西府」を開き、九州南朝方は全盛期迎える。 同、1361年「斯波氏経」が九州探題として入るが4年余りで九州去る。後の「渋川義行」は上陸すらしなかった。

 応安3年・建徳元年(1370)「今川了俊」九州探題として下向、了俊の子「義範」は高崎城にいる。「菊池武光」は高崎城を100回以上に亘って攻めたが防禦が強化された「高崎城」は落せなかった。

 

  九州入りした「了俊」は北朝方武士団の結束の強化を進め、南朝勢の包囲網を狭めていく。中元元年・応安6年(1373)大宰府の「菊地武光」軍は遂に下る。

 

 13年に亘った「大宰府征西府・懐良親王」は「良成親王」に「征西将軍」を譲り高良山に引き、さらに八女郡矢部へに隠退、矢部でなくなったとされる。(星野村の大円寺に入ったとも)

 

 九歳にて九州に来た「懐良親王」都遥かに居て、40年に及ぶ九州での南北朝の抗争の果て、1383327日 五十五歳にて没したとされている。

 「懐良親王」の墓所は数箇所あり、九州には八代市「宮内庁管理」「悟真寺」の墓陵が今のところ公式の墓陵である。

 其の外「星野村、大円寺」「久留米市、千光寺」とある。

 「親王」は矢部(星野谷とも)で没したとされているが、宮内庁公式陵墓は八代市である。

 言い伝えでは、正平2年(1347)薩摩谷山発った「懐良親王」は、同年1214日肥後に入り、八代の高田(現、奈良木町)に10日留まったとされる。

 その後、大宰府に征西府を敷くが、やがて大宰府を追われ、「良成親王」が征西府将軍となり、宇土落城後 元中7年(1390)八代に入り「高田征西府」敷いたとも言う。現在この場所は小さな公園で、「懐良親王御所址」の碑が立つ。

  八代市の墓陵が公式であるが、星野村「大円寺」のものも有力という。

 

 今回は懐良親王の宮内庁の陵墓に行きました。
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https://www.mapion.co.jp/m2/32.493474529631065,130.64246175854785,14/layer=map3d










磐之媛命は平城山に登ったか?

 磐之媛命は平城山に登ったか?少し検証致します。この検証するにあたり、この付近を地形の凹凸や距離観など様々な知識が必要です。
 それにこの道は奈良街道ともよばれ、平城山(ならやま)という歌まであります。御陵やその遺跡、奈良市内にもすぐ近く、聖武天皇御陵や光明皇后の陵墓もあります。そこは北へ向かってなだらかな坂道となっています。それを登り切ると黑髪山(平城山)となります。
奈良山と書く人がいますが、それは間違いです。正式には平城山です。(JR平城山駅(ならやまえき)が西側にあります)

 

 管理人様(谷口雅春先生に帰りましょう)が下記のような事を記入しているが、これを読んだ瞬間に疑問が湧いた。山に登ったのか?という疑問です。私はその平城山付近を探究するために何度か訪れていますので、その間違いを説明致します。

(ⅲ) 仁徳天皇の皇后が、奈良山に登って詠んだ歌  

 

つぎねふや 山城川を

宮上り 吾(わ)が上れば、

青土(あをに)よし 奈良を過ぎ

小楯(をだて) 大和を過ぎ

吾が 見が欲(ほ)し国は

葛城高宮

吾家のあたり。 

 

(山また山の 山城川を

 御殿の方へと 私が遡れば、

 うるわしの 奈良山を過ぎて

 山の続く 大和を過ぎて

 私の 見たい所は

 葛城の高台の御殿 

 故郷のあたりです。 

 

  これは石之日売命(磐之媛命)は嫉妬深いといわれ仁徳天皇が八田皇女(やたのひめひこ)を宮中に入れたため、それを知った磐之媛命は宮中に帰らず(木国へお出掛けの帰途)、今の山城の上狛あたりではないかと推測致します。そこに下り立った。それは大坂の堀江から船で登った爲です。この辺りから陸上で南下しますと、元正天皇陵や元明天皇陵があります。ちょうど、このあたりから少し北側(現在の町名でいえば州見台や梅美台付近)からなだらかな斜面になってきます。そこが楢(なら)の山の口であると推測します。平城山(ならやま)は想像するような山ではなく、なだらかな坂です。

 私はこの平城山を検証するために、この付近を探索したことがあります。この付近は明治時代に大仏鉄道というのが走っていたのです。現在の奈良駅から加茂駅までですが、その坂を蒸気機関車を走らせるために当時は四苦八苦したようです。この平城山というのは奈保山、那富(なほ)山、黑髪山、那羅山とも呼ばれています。この山の頂上付近に聖武天皇皇太子 那富山墓があります。

 

ただ、山というより小高い丘のような感じです。平城山に登った時の歌と記入していますが、那良の山の口が正解のように思います。またこの平城山の南側は奈良ドリ-ムランドが開発したため、昔の面影が残っていませんが、西側には應神天皇皇子大山守命 那羅山墓)があります。この辺りまで黑髪山と云われています。

その名前の由来は

 

「開化天皇の孫に、狹穂彦と狹穂姫という兄妹がおられ、妹の狹穂姫は、第十一代垂仁天皇の皇后になっておられた。天皇位を狙っていた狹穂彦は、妹の狹穂姫に、謀判に荷担して天皇を殺すようそそのかすが、天皇を愛していた狹穂姫は天皇を殺すことが出来ず、企てが露見する。天皇は狹穂彦討伐の軍をおこし、狹穂姫は兄の軍に走る。その時姫はみごもっていた。妃を愛する天皇が、攻めあぐんでいるうちに、姫は「稲ゆぎ(稲を積んで造った応急の城)のなかで、皇子を産まれた。姫はその皇子に「誉津別命(ほむつわけのみこと)」と命名して天皇方にお渡しし、自らは、追手から逃れるため、黒髪を切って山に埋め、古い衣をまとって逃去したという。皇后が黒髪を埋めたところから、この山が黒髪山と呼ばれ、稲城の古事から、五穀の神「保食の神」を招請し、転じて稲荷になったと伝えられる。」

 

 さて話は違った方向へ行きましたが、磐之媛命の話に戻します。

 

 山代から廻って、那良の山の口(平城山のふもと北側)に着いた時、こう歌を詠みました。

 

「つぎねひや 山代河(やましろがは)を 宮上(みやのぼ)り 我が上れば あをによし 那良を過(す)き 小楯(おだて)を 倭を過ぎ 我が見が欲し国は 葛城(かづらぎ) 高宮 我家(わぎへ)のあたり」

 

平城山に登った時に歌ったものではない。その証左として

 

このように歌って帰りになって、しばらく筒木(つつき、綴喜、筒城)の韓人(からびと:百済からの渡来者)の奴理能美(ぬりのみ)の家に泊まりました。

 

その時の歌が

山代の筒木の宮に 物申す 吾が背の君は 涙ぐましも

 

この筒木と云う場所は現在の同志社大学京田辺キャンパス内にあるといわれている。

 京田辺キャンパス及び多々羅キャンパスといわれている。

多々羅都谷は、継体天皇が511年から518年に置いた筒城宮が地名の由来といわれる。

 

 この那良から14km程あります。歩いては4時間程かかるのではないかと推測出来ます。

 

小高い山にわざわざ登って、引き返すよりその手前で詠んだと云う方が正解のような気がする。

 また、現在の御所市にある葛城の高宮にも行ったことがありますので、その風景が浮かびます。

 管理人様には深く感謝申し上げたい。他にも少し違うのではないかと思われる箇所があったが(後日検証します)、古事記に造詣が深い管理人様だから間違いはないと思います。低レベルで推敲出来ない私ですからお許し戴きたい。

https://www.mapion.co.jp/f/cocodene/confirm.html?
矢印あたりが頂上です。
登り坂は地図の北あたりから始まります。町名に奈良坂町という町名があります。

再度、記入します。

「谷口雅春先生に帰りましょう」の管理人様のことで再度発言させていただきます。

下記の文章で「低レベル」と断じています。そうなると、私も低レベルなんだと思っています。私はそういう自覚があるから大丈夫ですが、他の皆さんはショックでしょうね。

「人間神の子」と教えられ、両親に皆の心に神様が宿っていると教えられました。

ましてや「谷口雅春先生に帰りましょう」とタイトルを付けているのですから、本当にいいのだろうかと考えます。

何度でも言います。「トキさん掲示板」のトキさんと常連投稿者の方々は低レベルです。言葉に対する真剣さ本気さのレベルが低すぎます。「会員改め生命の実相信者」さんは「トキさん掲示板」のレベルで投稿なさらないよう、必ず真剣さ本気さのレベルを上げて投稿してください。

 

こうした発言がどうして出るかというと今迄の発言である程度までは容認出来ます。だが、個人的なブログと違ってタイトルに谷口雅春先生という言葉が付いている。

管理人は自分の言葉に酔っているような感じがします。

強引な遣り方に辟易

ここの管理人(谷口雅春先生に帰りましょう)は厳格であると同時に反論を許さない傾向にあります。それなら、私が温故資料館の資料について教えて欲しいと云っただけで拒絶するに等しい。

下記の文章は強引なやり方ですが、私なら「天皇の歴史が欺瞞に満ちている」という文章なら拒絶するのかもしれませんが、世界紅卍字会という質問にはヤフオクなどで記入されているので、それと同一視されて記入されているので、「生長の家」とは関係ありません。と答えたらいいだけであります。また、わざわざ嫌味たらしく下記のように「トキ掲示板」を紹介するなど、どこまで根性が曲がっているのかと思います。それとも、私の方が管理人のような高尚な人と違い、反対に根性が曲がっているのかであります。

 

日時:2018年09月23日 (日) 19時24分

名前:ステパノ

谷口雅春は世界紅卍字会ですか?

 

ウェブ空間には本管理人とちがって非常にやさしい管理人さんが管理・運営しておられる「トキさん掲示板」

https://bbs5.sekkaku.net/bbs/toki2.html

あるいは

http://jbbs.shitaraba.net/study/11346/

がありますので、そこに投稿して活躍されることをお勧めします。

 

ご参考まで。

 

暗黒の近代史 (10301)

日時:2018年09月24日 (月) 02時56分

名前:ステパノ

天皇の歴史が欺瞞に満ちているので教育勅語は今日ではまさに世界遺産と言われていいでしょう。民心を統率するため当時文才に長けた者が理想像を描いて文章にしたのでしょう。欧米の支配者(イルミナティ)が日本を事実上治めていくには先ず長州薩摩土佐肥前を懐柔し天皇中心の国家を作り上げて、近代日本をこのような国家にしてきました。その末裔が今も日本を支配しているということです。その結果民は常に犠牲となって苦しめられていることは庶民だからわかりますよね。

 

管理人の言い訳には高尚するしかない。

だれが「谷口雅春先生に帰りましょう」の掲示板が「学ぶ会」と関係が無いと思っているのでしょう。そんなこと思っているのは「管理人」だけです。組織からの掲示板ではないだけで、副代表やそれに準ずる人が多く書いています。本当に真面目に発言しているとは思えません。また、学ぶ会に所属していない人で誰が書いているのでしょうか。少数だと思っています。そんなことわからないのか、反対に不思議である。

 

山ちゃんさんも似たようなものです。山ちゃんは本掲示板と「学ぶ会」に直接の関係がないことを知っているはずなのに、「私はそういう組織には馴染めない」などと、あたかも本掲示板が「学ぶ会」直属の掲示板であるかのように書いておられる……。山ちゃんも志恩さん同様、まだまだ真剣な推敲が足りません

神武天皇「東征」ル-トを歩く⑯

 神武天皇聖蹟崗水門(をかのみなと)顕彰碑

水門顕彰碑についてですが、

【神武天皇社】 神武天皇東征時の滞在地「岡田宮」跡とされる。 
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 【神武天皇社】

 【鎮座地】 福岡県遠賀郡芦屋町正門町 

 【御祭神】 神倭伊波禮毘古命(かむやまといわれひこのみこと)【神武天皇】

 

 【御由緒】

 神武天皇社の歴史は古く、「古事記」には「岡田の宮」と称され、「神武天皇が1年余り滞在された」と記載されている。「日本書紀」にも記載があり、この頃から里人が社殿を建立し祀っていたという。幾度も兵火で焼失したが、延享3年(1746年)に再建され、大正11年(1922年)には県社に昇格した。

 昭和17年(1942年)には、社用地が陸軍飛行場として徴用されたため、現在地に移転させられた。昭和20年(1945年)、空襲により社殿が焼失したため、御神体は産土神の岡湊神社に遷された。

 平成12年(2000年)には伊勢神宮より御用材を受け、社殿が再建された。

神武天皇社入口左手にある「神武天皇聖蹟崗水門顕彰碑」の裏面には「神武天皇甲寅年舟師ヲ○ヰテ筑紫國崗水門二至り給ヘリ聖蹟ハ此ノ地附近ナルベシ」とあり、この地は岡田の宮の地にあたるといわれます。

 鳥居は文化5年。神社は米軍の爆撃で焼失したままでしたが、平成12年に復興されました。(管理=岡湊神社-電話093-223-0216)

 

 

【神武天皇社案内板の記載】

 神武天皇社

   (神日本磐余彦天皇)

 平成十二年二月八日(皇紀二千六百六十年)遷座祭

 神武天皇の御分霊を奉斎す。

 御神殿の材料は伊勢神宮よりの撤下材を拝受使用。

 

 昭和二十年六月米軍の焼夷弾により社殿は焼失し、終戦後、宗教法人となり

御神体は芦屋の産土神、岡湊神社に奉斎し今猶当社にて祭祀は続けられています。

    連絡先 芦屋町船頭町

    岡湊神社社務所223-0216

 https://www.mapion.co.jp/f/cocodene/confirm.html?

古事記からの引用

 

アシヒトツアガリ宮で食事

 

豊の国の宇沙に着いたとき、宇沙の住民の宇沙都比古(ウサツヒコ)・宇沙都比売(ウサツヒメ)が足一騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)を作って大御饗(=食事)を献上しました。

 

その土地…宇沙から出発して、筑紫の岡田宮に着いて、一年滞在しました。

 

筑紫の岡田宮を出発して、

安芸国の多祁理宮(タケリノミヤ)に着いて

七年滞在しました。

 

日本書紀から引用

 

太歳甲寅11戊午年春3

 

太歳甲寅11月

11月の9日に神武天皇は筑紫国(ツクシノクニ)の岡水門(オカノミナト=福岡県遠賀郡の遠賀川河口)に到着しました。

 

 

◆神武天皇東征時の滞在地の「岡田宮」とされるニ社

 【神武天皇社】 福岡県遠賀郡芦屋町

 【岡田神社】 北九州市八幡西区

 

【一宮神社】

当社は王子宮(現在地)、諏訪神社(現御手洗公園)、大歳神社(現三菱化学構内)の三社を合せ祀り一宮神社と称します。

 王子宮は古事記のいわゆる、神武天皇御東征の砌、一年間この地において天神地祗を祀り、国の安泰を祈った場所といわれています。表参道二の鳥居南側に、神籬磐境の斎場があり神武天皇が御自らお祭りをされた遺跡と伝えられています。

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『生命の實相』布装携帯版レファレンスー②


『生命の實相』布装携帯版

生命の實相. 21 (經典篇)  昭和331015日發行

はしがき

凡例

第二十一卷 目次

神示(靈魂進化の神示)

經典篇 『甘露の法雨』講義

第一章 神と佛と靈/3

第二章 物質と實在と/55

第三章 知慧と無明と罪/111

第四章 人間の實相及び假相/162

 

生命の實相. 22 (聖語篇・精神分析篇)  昭和331115日發行

はしがき

凡例

第二十二卷 目次

聖語篇 智慧の言葉/1

精神分析篇 精神分析による心の/119

佇立地獄の患者/121

ブロイエルの催眠法/124

ステケル氏の自由會話法/126

ユング氏の聯想試驗法/127

ステケル氏の自由單語法/127

病氣でありたい意志/128

精神分析の質問の仕方/129

彼の遅刻/131

彼の夢/132

妻の祕密/135

復讐の激情/136

患者の夢の分析/138

正しき生活病氣を全治せしむ/142

其の他の治驗例/143

精神分析實施上の注意/144

醫者への愛/149

勝利の慾望/149

公衆恐怖症の解剖/157

私の取扱つた復雜な治驗例/166

 

生命の實相. 23 (常樂篇・經典篇第2・宗敎問答續篇)  昭和331215日發行

はしがき

凡例

第二十三卷 目次

常樂篇 久遠常樂の生活/1

第一章 常樂生活への道しるべ/3

第二章 無限能力を汲む道/12

第三章 不壊の生命を/24

第四章 生きとほしの生命/46

第五章 全面的自由としての宗敎的の救ひ/77

經典篇二 聖經『天使の言葉』講義/91

―特に『近視は治る』原理に及ぶ―

宗敎問答續篇 人生の惱みに答ふ/173

一、繪を畫くのを使命と感じながら境遇に苦しむ人に/175

二、未婚靑年の性慾の解決/182

 

生命の實相. 24 (參考篇・質疑篇)  昭和34120日發行

はしがき

凡例

第二十四卷 目次

參考篇 心が肉體に及ぼす力/1

心が肉體に及ぼす力/3

想像の作る病氣と想像の治す病氣/12

健康を左右する暗示の力/20

愛は癒す力/30

人間は何故老衰するか/32

長く若さを保ちし人々/42

精神力にて老衰を防ぐ法/45

質疑篇 眞理の應用及び拾遺/69

一、實生活に應用する自己暗示法/71

二、現象なしの自覺に就いて/91

三、殉死殉道の意義と價値/102

四、神に三義ありとは如何なる意味なりや問ふ/103

五、金光敎を生かしつゝ生長の家を信じたい/108

六、人間神の子の完全さに就いて/118

七、時間、空間の觀念は何處から起るか/127

八、物質に知性なきか/130

九、周圍を生かすために働かないのは好いか/132

十、個人の念は全人類の信念を超克し得るか/135

十一、偏食は不可であるか/139

十二、生命と靈魂と肉體との關係/152

十三、神佛一體なりや又別異なりやを問ふ/156

十四、個性は何處から來るか/158

十五、完全圓滿と無限生長との觀念は兩立し得るや/160

十六、『實相の心』と『僞存在の心』『實相生命』『現象生命』/163

十七、病氣を起す潛在意識は如何にすれば除き得るか/169

十八、念の感應・人生空無・久遠本佛/180

十九、方便法と眞實法/192

二十、佛敎は靈魂の存在を否定す生長の家は靈魂有る如くくは如何/197

二十一、大生命に歸入すれば個性生命は消滅するか/201

 

生命の實相. 25 (敎育實踐篇上)  昭和34215日發行

はしがき

凡例

第二十五卷 目次

敎育實踐篇 人間を作る法 <上>

第一章 人間敎育の根本的生觀/3

第二章 無軌道の敎育法/54

第三章 解放と引出しの敎育/73

第四章 唯物敎育の問題/94

第五章 左翼思想を轉向する道/123

第六章 入學難と就職難に勝つ法/153

第七章 優良兒の創造/179

第八章 人間無罪宣言/190

 

生命の實相. 26 (敎育實践篇下)  昭和34315日發行

はしがき

凡例

第二十六卷 目次

敎育實踐篇 人間を作る法 <下>

第一章 常不輕菩薩の敎育/3

第二章 實相の開顯に伴ふ靈驗/28

第三章 藝術敎育の眞髓を語る/61

第四章 宗敎敎育を如何に施すか/112

第五章 生命の敎育の成果を語る/163

 

生命の實相. 27 (久遠佛性篇上)  昭和34年4月15日發行

はしがき

凡例

第二十七卷 目次

久遠佛性篇 常樂宗敎の提唱〈上〉

第一章 常樂宗敎の提唱/3

第二章 宗敎の奇蹟的功德は何處から來るか/17

第三章 生きて歩む宗敎/40

第四章 あなたは既に救はれてゐる/100

第五章 神の子の自覺に點睛す/120

第六章 維摩經及び涅槃經に現れたる『肉體無』/132

第七章 久遠を流るるいのち/149

第八章 吾等の祈祈願及び修養/181

 

生命の実相. 28 (久遠佛生篇下・眞理體驗篇)  昭和34510日發行

はしがき

凡例

第二十八巻 目次

久遠佛性篇 常樂宗敎の提唱〈下〉

第一章 久遠佛性・實相莊嚴世界/3

眞理體驗篇 近眼・色盲等は治るか

第一章 近眼・色盲等は治るか/123

第二章 體驗者みづから記す/171

 

生命の実相. 29 (女性教育篇)  昭和34615日發行

はしがき

凡例

第二十九卷 目次

女性敎育篇 母・妻・娘の聖書

第一章 女性の觀點を一新せよ/3

第二章 『女だから』と云ふ言葉/16

第三章 妻を『養ふ』と云ふ言葉/24

第四章 無限供給の經濟の立て方/34

第五章 家庭幸福への道/47

第六章 結婚前の娘及び母への注意/60

第七章 ダリヤの花に題して/80

第八章 本來一つのもの/96

第九章 深切行に就いて/115

第十章 空想的人類愛より實際的人類愛へ/136

第十一章 レヴューの精神分析/151

第十二章 家族全體を健康にする方法/175

 

生命の実相. 30 (児童教育篇・聖典講義篇)  昭和34715日發行

第三十巻 目次

はしがき

凡例

兒童敎育篇 子供への光

第一章 革新的な兒童敎育の仕方/3

第二章 芽生を培ふ敎育法/45

第三章 人間の模倣性と敎育/72

第四章 革新的敎育法の效果を語る/99

聖典講義篇 山上の垂訓の示す眞理/143

 

生命の実相. 31 (宗教戯曲篇上)  昭和34915日發行

第三十一卷 目次

はしがき

凡例

耶蘓傳

第一幕 ヨルダン河畔/3

第二幕 王宮前の露臺と廣場/15

第三幕

第一場 ヨルダン河畔/35

第二場 ヨルダン河畔/44

第三場 途上/58

第四場 ヨルダン河畔/60

第四幕

第一場 麥畑の丘/68

第二場 途上/89

第三場 子供の病室/91

第四場 ユダとキリスト/104

第五幕

第一場 海岸/110

第二場 旅人宿の前/126

第三場 宿屋の樓上/144

第四場 エルサレムの獄舍/157

第五場 總督ピラトの法廷/163

第六場 ヨセフの所有せる墓地/175

 

生命の実相. 32 (宗教戯曲篇下)  昭和34915日發行

序 自然と生命と藝術

凡例

第三十二卷 目次

釋迦と維摩詰

第一幕 佛土の嚴淨/3

第二幕

第一場 場泉のほとり/25

第二場 吠舎離國果樹園/38

第三場 菩薩衆/48

第三幕 天女の舞/53

月愛三昧

第一幕

第一場 宮廷前の廣場/76

第二場/83

第二幕

第一場 尼蓮禪河畔/95

第二場 第一場に同じ/104

第三幕

第一場 阿闍世太子の室/107

第二場 宮中の廊下の一部/119

第三場 宮城の内苑/122

第四幕

第一場 韋提希妃幽閉の室/129

第二場 阿闍世の室/137

 

生命の実相. 33 (随喜篇)  昭和341015日發行

はしがき

凡例

第三十三卷 目次

隨喜篇 把住と放行

第一章 生命を禮拜する/3

第二章 放つもののみ生きる/30

第三章 眞如を生きる/43

第四章 人間觀の革命/61

第五章 善と幸福との一致/88

第六章 幸福の爲の對話/107

第七章 肉禮の否定・無限力の肯定/131

 

生命の実相. 34 (道場篇)  昭和341115日發行

はしがき

凡例

第三十四卷 目次

道場篇 辨道聽き書

救ひは念佛によらず/3

道をき道を聽く場合の態度/4

一切の生物は本來調和してゐる/6

實相は實相を招び出す/7

生命を生かす道/10

生命の眞を生きるとは/15

苦しみは縛ることから起る/16

たゞ他の爲に働け/18

相手の心は自心の影/19

眞の宗敎とは/20

も罪も假存在/24

心は無い/32

自分の尺度を捨てよ/38

罪の自覺に就いて/67

神の子の標準を出せ/76

他の爲に生くる歡び/100

一切の生物相侵すこと無し/105

神の供給を拒むな/110

佛敎と生長の家の一致を知る/116

盲ひてゐて見える眼/120

實相は汝の中にあり/124

言葉は癒やす/126

痛みは有難いと思へ/150

一切を受容れる心が大切/151

父母未生前の本來の面目悟る/153

是色の意味は?/166

無限供給と無數の治驗例/176

治る人と治らぬ人の體驗/194

痛くない所に禮を云へ/203

罪業本來なし/219

光明の斷片語集/222

神の言葉は理窟ではない/238

 

生命の実相. 35 (下化衆生篇・功徳篇上)  昭和341215日發行

はしがき

凡例

第三十五卷 目次

下化衆生篇 哲學の實踐

第一章 生きて生活する哲學/3

第二章 生命の特殊性と科學精神批判/43

第三章 世に勝つ原理/72

第四章 實在・理念・國家・人間/106

第五章 粟粒結核も親の心で治る/122

功德篇 實樹華果多し

無限力のの發現/157

道を求めて/161

死の宣告を受けて/164

家庭光明化す/170

言葉の力/175

有難い心/180

我が光明信條/184

感謝は癒やす/187

歡びの日々/190

光を招ぶ敎育/195

 

生命の実相. 36 (幸福生活篇・功徳篇下)  昭和35120日發行

はしがき

凡例

第三十六卷 目次

幸福生活篇 幸福生活への根本眞理

第一章 幸福の扉の開き方/3

第二章 ありのまゝの生活/39

第三章 無礙の大道/60

第四章 廻心の原理/83

第五章 腹の立たなくなる法/110

功德篇 實樹華果多し〈下〉

豊作受賞の吾が家/137

姪の無痛分娩/138

『生命の實相』に救はる/141

敎育上にこの効果/145

感謝から希望へ/148

一時的治療は駄目/153

子供の昇天/155

花咲き實を結ぶ敎育/164

『實相』拜讀十萬頁・業病消ゆ/173

脊椎カリエス去る/179

無限供給の有難さ/184

迷夢より醒めて/194

無痛分娩の體驗/200

妻の無痛分娩/202

 

生命の実相. 37 (幸福篇 上)  昭和35215日發行

はしがき

凡例

第三十七卷 目次

幸福篇 毎日の修養

一月 新に生まる/3

二月 衣を更へて/33

三月 彌ゝ生ふるいのち/75

四月 若葉寄り繁る/97

五月 陽めぐりいづ/127

六月 紅白むすぶ/159

 

生命の実相. 38 (幸福篇 下)  昭和35315日發行

はしがき

凡例

第三十八卷 目次

幸福篇 毎日の修養〈下〉

七月 眞諦成就/3

八月 八方禮拜/37

九月 苦難既に無し/71

十月 圓滿具足/93

十一月 更に新芽を含む/121

十二月 陳きもの自ら謝る/161

 

生命の実相. 39 (仏教篇)  昭和35415日發行

はしがき

凡例

第三十九卷 目次

佛敎篇 いのちの解脱

第一章 『いのち』の自由/3

第二章 釋迦の成道/28

第三章 寂光を更に超えて/52

第四章 佛敎と基督敎と斯くして融合す/80

第五章 華嚴經序講/145

第六章 即身成佛の眞理/160

 

生命の実相. 40 (家庭教育篇)  昭和35515日發行

はしがき

凡例

第四十卷 目次

家庭敎育編 家庭と敎育の基礎

第一章 愛兒の能力と夫婦陰陽の調和/3

第二章 拝み合ひの生活/28

第三章 無痛分娩の方法と心掛/43

第四章 蝦兒を無痛分娩した話/56

第五章 胎兒及び胎兒以前よりの敎養/75

第六章 配偶の觀相學的選び方/92

第七章 そのまゝ素直に有りがたい/122

第八章 或る結婚式場での話/152

第九章 愛兒の健康への近道/161

第十章 此の敎育法で成績をよくした體驗/184

 


『生命の實相』布装携帯版レファレンスー①

『生命の實相』布装携帯版

生命の實相. 第一巻 (總説篇・實相篇 上) 昭和311110日發行

默示

『七つの燈臺の點燈者』の神示

携帶版『生命の實相』に序して

初版 序文

第一巻 目次

篇 七つの光明宣言

七つの光明宣言

『七つの光明宣言』の解/3

實相篇 光明の眞理〈上〉

第一章 近代科學の空是色展開/43

第二章『生長の家』の健康學/59

第三章 あるゆる人生苦の解決と實例/78

第四章 心の世界に於ける運命の形成/115

第五章 生きた事實を語る/146

第六章 愛と眞理によつて更正せよ/171

第七章 『生長の家』の超生理學/199

 

生命の實相第二巻 (實相篇 下)  昭和311210日發行

はしがき

凡例

第二巻 目次

實相篇 光明の眞理 <下>

第一章 『生長の家』の超藥物學/3

第二章 無礙自在の『生命の本性』を發揮せよ/53

第三章 『生長の家』の神人論/103

第四章 讀んで魂の歡ぶ話/121

第五章 神への道しるべ/145

第六章 經濟問題の解決/174

 

生命の實相第三巻 (光明篇・生命篇 上)  昭和32125日發行

新修 「序」

凡例

第三巻 目次

七つの燈臺の點燈者の神示

光明篇 生命に到る道

第一章 一切の宗敎を生かす『生長の家』/3

第二章 『生長の家』は大和精神の源泉/24

第三章 『生長の家』とは何であるか/37

第四章 生長の家は何を信ずるか/61

生命篇 生命圓相の眞理〈上〉

第一章 果たして物質的治療は病氣を征服し得たか/85

第二章 生きる力の神祕/121

第三章 心の平和に到達する眞理/146

第四章 『生命』は愛と智慧とによつて生く/174

第五章 思念の力/187

 

生命の實相第4 (生命篇 下) 昭和32215日發行

凡例

第四巻 目次

生命篇 生命圓相の眞理<下>

第一章 人間は『肉體』でない話/3

第二章 眞理は爾を自由ならしめん/25

第三章 祖國愛は神の道/47

第四章 愛の神による運命の修正/66

第五章 生命磁氣を語る/94

第六章 現代醫學を語る/120

第七章 死線を超えた實話/176

第八章 『無』の經濟と『無』の醫學/210

 

生命の實相第5 (聖靈篇 上) 昭和32325日發行

はしがき

凡例

第五巻 目次

序詩 天使の言葉/1

聖靈篇 燃えさかる聖靈の火 <上>

第一章 烈しき聖靈の焔/27

人間は神の子/27

無限能力を發現する法/27

手のひら療治/29

自己の内部に頼りきれ/30

生氣術/30

たなすえの道/32

服部仁郎氏の肺炎三日で治る/33

話だけでリュ-マチス治る/33

全ての民間療法を漁る/35

賃家探し/36

六年間の重症喘息入癒ゆ/38

手のひら療治に活が入る/39

手のひらの効く効かぬの原因/42

人に宿る治す聖靈/43

言葉の力で一日二十五杯の飯が食へる/46

過食健康法/47

少食健康法/49

すべての健康法を捨てゝ眞の健康を得/50

空手の生活/51

指の不随治る/53

八十三媼の腰が伸びる/54

按手一囘にして五年間のリュ-マチス癒ゆ/55

人を赦した時二十年の慢性下痢癒ゆ/59

第二章 聖火盛岡を過ぐ/63

『生長の家』を読んで胃癌治る/63

危難を脱す/65

動物の本能危険を豫知す/68

心調へる人の生活/69

笑門福来/70

癇癪は病を招く/70

心が治る/72

ポスタ-病氣を作る/73

三病院悉く診斷を誤る/74

脱臼した肘關節が動き出す/75

一言たちまち幼兒の『夜泣き』を治す/77

醫藥賣藥不要となる/77

第三章 聖火帝都を過ぐ/80

一語よく蕁麻疹を治す/80

慢性の歯痛癒ゆ/81

精神病者を治す/82

欲するもの自然に集まる/83

精神病者を抱き寢して癒す/87

按手一囘で蓄膿症を治す/90

神經衰弱と肺病治る/90

指の壓傷治る/91

顔面神經痛を治す心/92

心靈現象/93

靈魂離脱現象/94

切斷せるアキレス腱の復活/95

努力の再吟味/99

糖尿病治る/101

醫師みずから藥の服用を拒む/101

水を注射して胃痙攣が治る/102

按手一瞬にして神經痛治る/103

天空に合唱の聲聞ゆ/104

第四章 聖火北陸を過ぐ/107

按手一回、結核を治す/107

腎臓結核治る/109

聖典で神經衰弱を自癒した杉江重誠氏 多勢の病ひを癒す/110

愛深き冷淡/112

座に激痛去り歩いて歸る/114

腎臓結核癒ゆ/115

脳溢血で半身不随の患者を癒す/116

聖典を應用し、舟橋醫師脳溢血を治す/117

念の感應にて七尾へ敎祖を招く/120

夢に施術を受けて盲腸炎治る/123

一觸視力囘復す/127

一触たちまち小兒の痙攣止む/128

聖典讀誦の功徳/128

第五章 『ねばならぬ』を解放する宗敎/130

生長の家とは何であるか/130

宗敎本來の使命/131

『救ふ』と云ふ本當の意味/132

解脱/132

各宗門は家に入る通路/133

生長の家とは何/135

天理敎と眞宗を和解させる/136

天理敎の『心定め』の眞義/137

解脱と云ふこと/138

手のひら療治に活が入る/140

家庭苦は病氣の因/141

胃癌の原因/142

食べないでも生きられると云ふ自覺で胃癌治る/145

『なければならぬ』を捨てよ/146

良人が聖典を讀んで妻に感應する/152

一燈園の洋服部と生長の家の洋服部/153

我を出して失敗す/154

再び生命の流れに乗る/156

肉體も環境も我が心の影/159

老眼鏡が不要となる/160

第六章 聖火京都を過ぐ/166

喘息を征服した話/167

醫療を廢して肋膜炎を治す/169

十數年來の常習頭痛治る/170

善にも心が引掛かれば惡となる/171

現象を見ずに實相を見れば心が落付く/173

行雲流水の心/174

一讀痔疾治る/176

聖典讀んで神經衰弱が治り白髪が黑變す/178

第七章 宗敎を生活に生きる生長の家/180

夫婦の精神葛藤から起る病氣/181

宗教同志爭うな/183

天理敎が生活に生きる/184

何を食ひ何を飲まんと煩ふ勿れ/185

阿字觀に新境地を得/188

有島武郎氏に生長の家を知らしたい/188

キリストの敎へ全部が生きる/190

佛敎が生活に生きる/190

聖典を一夜に讀んで近眼が治る/191

曹洞宗が生活に生きる/194

南無阿彌陀佛の眞髄が解る/196

身成佛/198

法華經の眞髄/199

金光敎が生活に生きる/200

肋骨カリエス治る/202

視力恢復す/205

體量加す/206

毛髪黑變す/206

反駁に答へる/208

神懸りの筆/212

愛兒の實相を觀て挫骨を癒す/215

實相の念と現象との關係/218

『物質無』の話/220

人間の正しい食物/222

 

生命の實相第6 (聖靈篇 下・實證篇)  昭和32325日發行

はしがき

凡例

第六巻 目次

聖靈篇 燃えさかる聖靈の火〈下〉

第一章 宗敎上の『罪の赦し』に就いて/3

わが實相の中ににすべては在る/3

祈りの功德/4

に成る天國/5

神想觀の極意/6

法藏菩薩はに成佛した/8

十字架でに罪は消えた/8

信心とは拜み倒すことではない/9

神はに至愛/9

神はに全智/9

神はに無限の善/10

神はに無限の智慧/10

實相十全の惠みを見よ/14

神を本當に好きになるには/15

神と人間との間に水を注す間違った信仰/17

罪を消す道/18

『罪の赦し』の本當の意義/21

本來罪なし/24

イエスの治療法/24

五官的陶醉と宗敎的法悦を混同すな/25

實相を顯現する祈り/26

かなへられぬ祈り/28

罪を罰すると云ふ意味/30

罪の破壞/32

に救はれてゐる實相常樂の家庭を見よ/40

主の祈りの解釋/41

無限生命の源泉を汲む道/44

第二章 心に従つて展開する地上天國/47

危險を脱す/47

實相無礙の態の展開/48

二男を就職せしむ/49

夫婦の執着/51

念の具象化/52

心に從って家相變る/53

こちらの心で相手の出方が變わってくる/54

家賃をくれる/57

地代をくれる/57

心に從って賣掛金集まる/60

自立する生命の悟り/61

不幸と見える事が幸福の先驅である/64

神想觀で入學試驗に成功す/68

懺悔する/68

店員まで變る/68

必需品必ず來る/70

歌の會に髙點/71

第三章 無限能力をひらく道/73

に救はれてゐる/75

表の説き方と裏の説き方と/79

自分は悪いと自分は無いと/80

言葉の力/81

家族に禮を云へ/82

神經衰弱を治した經驗/83

鋼の心になるな柳の心になれよ/85

神は求むるものよりも一層善き物を與へ給ふ/87

心に從って如意自在の世界/91

息子を就職さす/94

ゐながらにして物事を成就す/96

各内臓を部分品扱ひにして失敗す/98

重症神經痛を治した話/101

佛心がないから病む/102

半身不随を治す/105

胸の病ひを治す/108

中耳炎を叱って治す/110

言葉の注射/111

母の實相を見に歸る/116

借家探し/118

つひに義母の實相を見る/121

實證篇 生長の家の奇蹟について

信徒行傳と一對の奇蹟/127

上海戰亂中の奇蹟/132

日本軍の運送船呉淞砲臺下を無事通過す/133

靈感にて暗中に浮標を指摘す/133

狙撃しても當らぬ/134

讀誦三時間にして慢性胃腸病を治す/135

實相の顯現頻々/135

心の夜明けて/137

敎祖を迎へて/138

聽講後神示をききて/139

心無碍を得て/145

再び神示をきゝて/146

京都の講演を聽きて/148

悪靈の祟りを去る/150

生長の家大神の神德/151

幼兒が寢るようになる/154

どこにゐても幸福となる/155

盛岡のお講演を聽きて/157

神想觀の體驗/161

神想觀修行中觀世音を拜す/163

遠隔治療の効果/165

更生の一路へ/166

第一囘熊本誌友會/169

熊本支部にて救はる/173

聖典『生命の實相』中の法華經を語るを讀む/175

病苦七年痕跡を止めず/176

家庭全て救はる/178

醫藥を發し體量二貫目を増す/180

聖典に救はる/181

聖典『生命の實相』を讀む/182

二十一年間の惱みを脱す/183

一躍大覺者となる/184

ブラジルの便り/185

性格の明るさを增す/187

不思議な體驗/188

三年病臥の身、今は十六時間勤務に服す/189

貴殿に一々共鳴/191

『生命の實相』を讀む/191

 

生命の實相第7 (生活篇)  昭和32520日發行

はしがき

凡例

第七巻 目次

生活篇 『生長の家』の生き方/3

(一) 朝の時間を生かせ/4

(二) 朗かに笑つて生きよ/22

(三) 日時計主義の生活/27

(四) ひとの生命の實相を禮拜せよ/30

(五) 神の子の自覺に超入せよ/34

(六) 『今』を全力を出して戰ひとれ/57

(七) 背水の陣を布け/63

(八) 深切の生活を生きよ/81

(九) 常に心に善念を把持せよ/96

(十) わが心の王國を支配せよ/107

(十一) 取越し苦勞する勿れ/118

(十二) 生長と平和と幸福は愛より生ずる/132

(十三) 思ひ切りよく、押し強く、勇敢に斷行せよ/136

(十四) 斷じて失敗を豫想せざる者は終に勝つ/153

(十五) 共通的生命の歡喜のために働け/171

(十六) 艱難を光明化せよ/189

(十七) 天地の開ける音を聞け/206

(十八) 家庭生活を光明化せよ/215

 

生命の實相第8 (觀行篇)  昭和32615日發行

はしがき

凡例

第八巻 目次

観行篇 神想觀實修本義

第一章 心の根本的調律法/3

第二章 『神想觀』實修の形式並に注意/17

第三章 無限智慧を感受する道/41

第四章 無限生命に汲む道/73

第五章 無限供給を受くる道/115

第六章 神想觀の助業としての感謝行/184

 

生命の實相第9 (靈界篇 上)  昭和32715日發行

はしがき

凡例

第九巻 目次

霊界篇 生命の行方

第一章 差別心より觀たる靈界の消息/3

靈魂および靈界の研究法/3

靈魂の幻影化の實證の蒐集/3

靈視能力による靈界探檢/4

靈媒による靈界通信の蒐集/6

水晶體凝視法(クリスタルゲ-ジング)/8

卓子傾斜現象(テ-ブルタ-ニング)/9

生命磁気/10172833

叩音、敲音、拍音(タップ又はラップ)/12

無痛刺針現象/1317

催眠術/121317

暗示感應(事實に反する)/14180181

靈魂遊離による千里眼現象/14181922

純粹透視現象(其の差違)/15

暗示不感應(事實に反する)/1718

催眠態と降靈態との區別/18

靈界人(スピリット)の出現/22

死體捜査現象/26

靈能養成法(靈魂の訓/2845

テ-ブル通信/31

靈聽筆記現象/31,32

送靈法、鎭魂法の諸用式/24,30,33,36

複體・幽體/38,39

靈魂の色澤/40,41,128,150,169

靈魂の形態/43,68,196,210

動物の幽體/43

靈覺養成と斷食及び減食の關係/50

天眼通(靈眼)/51

天耳通(靈耳)/51

直覺及び直感/51

悟道と苦行/51

天理敎祖大本敎祖等の神懸り/51

靈界遊行/36374247495253

神足通/52

他心通/52

善靈、惡靈、低級靈/53

極樂淨土/54

靈界の言語/54

靈魂は雨に濡れるか/57

靈媒力の養成/63

物理的心靈現象と高級靈/64

物理的心靈現象と高級靈/64

靈魂の服装/68

透視と精神感應との區別/73

出世と受胎の神秘/73

受胎の進行中の透視/76

性交の心靈學的意義/76

不完全な肉體發生の原因(先天的不具者等)/78,131

前世の罪障消滅法/79

受胎と生殖細胞の分裂/81

雙生兒發生の原理/82

胎兒の性別の決定/83

、半産の原因/85

動物の受胎/87

死期(とその修正)/88,102,133

死の恐怖と靈魂の高下/88

靈魂の再生(生れ更り)/89,130137,185,187,190

死後の審判/92

臨終の平和又は不安は死後生活の豫感を現はす/94

死の自覺なき靈界移轉/97,196

急激死の攝理/99,108

肉體の進化/101

自殺/106

普通死/109

運命と業運の神秘/104106

靈界通信に現れたる靈界の態の眞僞/108

/109-112

苦痛の生命に於ける意義/113120

苦痛の身代り/115

偶然の死/116

罪障の消滅/117

招靈の現場、光景/117118

靈魂の階級、品等/121

若い靈魂/121

靈體の進化/99,176,179

肉體のカルチュアと靈魂の高下/122

藝術/123-128

地上の藝術/123

靈界の藝術/124

音樂/125128

繪畫/127

靈魂の友情、親和/125,147,157

嬰兒死と靈魂/129

死産の意義/130

子宮内生活の意義/130

早産兒の靈魂/136

不具出産の意義/132

個性の存續と價値/138

善き靈的放射は靈魂の進化を助く/151

前生の記憶/160

靈魂と微生物/163

靈魂と疲勞と休息/171

天人の五衰/165166

靈魂の攝取する栄養素/165

地上の運命の修正/166,168,169212

靈魂の創造數/167

個性の發揮と全體の調和/171

宗敎の價値/173

佛敎の價値/173

物理的心靈現象の説明/175-178

念冩現象の機構/175-178

心靈寫眞の機構/179

念傳(思想傳達、遠感現象、讀心術)/180,181

靈媒的能力の正體/182

幽體遊離の難易と靈魂の高下/183

火葬と埋葬とが靈魂に及ぼす影響/186188,190

進化と死體/191

木乃伊(ミイラ)の靈魂/192

物質主義者の靈魂/193

靈界通信に錯誤の起る原因/198200

歐州大戰の預言/201

靈界會議の光景/210

地上の運命の修正/211

靈魂の國籍/213

世の終りの預言/217,223

豫言の誤る原因/217222

將來の事件に關する靈示/223

政治的覇権は白人種より黄人種へ/228

人間靈魂の更生及進化の週期/229

 

 

生命の實相第10 (靈界篇 下)  昭和32101日發行

はしがき

凡例

第十巻 目次

靈界篇 生命の行方<下>

第一章 平等心より觀たる靈界の消息/3

靈魂と外國語/1516

自働書記現象の光景/24

靈界の神秘/40

靈の超時空性/13434758

テーブル通信の光景/43

人間の地上の使命/49

人間の本質/54

智慧と神秘/56

生命の本源/56

神性/57

と奇蹟/57

靈魂論者と無靈魂論者/58

心靈現象の起る目的/60

心靈現象の缺陷/61

靈媒現象の解/6469

恍惚状態(トランス状態)/65

靈言現象の機構/66

靈界通信の目的/68

靈媒が靈魂の思想を混信する/69

神懸りの音楽演奏/8089

使命のための死期の訂正/98

靈魂自身自己の死の刹那を語る/106

人間は神の子/110

惡の非實性/110

靈魂自身自己の埋葬を語る/112

苦痛は非實性/114

第二章 個性生命の存續と其の物質化/123

第三章 悟らぬ靈魂を救ふ道/137

第四章 幽明境を超ゆる念の感應/165

引導を渡す/165

彌陀の四十八願/163

對他力/167

至心信樂/168

臨終の一念/170

肉體の無意識と靈魂の無意識/176177

夢の現象/179

念の世界が現實に映る/182

まじなひ/186

物質無の/190

萬敎歸一/201

 

生命の實相第11 (萬敎歸一篇 上)   昭和321110日發行

はしがき

凡例

第十一巻 目次

萬敎歸一篇 眞理の扉を開く <上>

第一章 『生長の家』より觀たる『創世記』/3

第二章 『生長の家』より觀たる法華經/122

第三章 萬敎一つに包容す/185

 

生命の實相第12(萬敎歸一篇 下)  昭和321210日發行

はしがき

凡例

第十二卷 目次

萬敎歸一篇 眞理の扉を開く <下>

第一章 萬敎一つに包容す <承前>/3

第二章 我等を淨土に救ふものは何か/47

第三章 南無阿彌陀佛の實生活化/94

第四章 古典に現れたる宇宙構造の中心理念/155

第五章 禮拜三味禪/197

第六章 入龍宮不可思議境界/220

 

生命の實相第13 (倫理篇 上) 昭和33110日發行

はしがき

凡例

第十三卷 目次

 

本當の敎育についての講演/3

倫理篇 永遠價値の生活學 <上>

第一章 永遠價値の生活學序/57

第二章 第一の神性隱蔽/80

第三章 第二の神性隱蔽と其以後/106

第四章 自心の展開としての客觀世界/116

第五章 實相を隱蔽する驕慢と自卑/130

第六章 價値の本質/139

 

生命の実相第14 (倫理篇 下・教育篇)  昭和33215日發行

はしがき

凡例

第十四卷 目次

倫理篇 永遠價値の生活學〈下〉

第一章 悔改の倫理/3

第二章 僞我と眞我の甄別/22

第三章 自他一體と個性生命/35

第四章 和解の倫理/57

第五章 ロダンの鼻缺け像の倫理/68

第六章 戀愛・結婚・夫婦生活の倫理/82

第七章 家庭の宗敎生活化/96

第八章 無軌道の倫理/117

教育篇 『生長の家』の兒童敎育法/133

 

生命の實相第15 (人生問答篇 上)  昭和33315日發行

はしがき

凡例

第十五卷 目次

新生活への出發 ―幸福なる生活への序曲―/3

人生問答篇 人生の惱みを解く<上>

第一章 家庭爭議の解決を語る/23

第二章 生活に顯れた神通妙用/56

第三章 生きる道の座談會/93

第四章 基督の偉さと奈翁の偉さ/131

第五章 戀愛・相性・方位・家相/154

第六章 念の集積・業の流轉・念の憑依/174

 

生命の實相 第16 (人生問答篇 下) 昭和33415日發行

はしがき

凡例

第十六卷 目次

人生問答篇 人生の腦みを解く〈下〉

第一章 念の病氣に及ぼす力/3

第二章 治す念波の話/34

第三章 『みんな一體』の信仰を語る/54

第四章 酒・煙草・異性/129

第五章 國と家庭を良くする話/159

第六章 人生に出發する人達への講話/187

 

生命の實相第17 (宗敎生活篇) 昭和3351日發行

はしがき

凡例

第十七卷 目次

宗敎生活篇

第一章 生活に生きる宗敎/3

第二章 天國淨土を實現する道/66

第三章 『無』もない世界に入る話/130

第四章 眞理に救はれ行く人々/187

 

生命の實相第18 (宗敎問答篇) 昭和33615日發行

はしがき

凡例

第十八卷 目次

宗敎問答篇

第一章 肉體と境遇をよくする道/3

第二章 南泉猫を斬る生活/50

第三章 神の無限供給を語る/90

第四章 天地一切と和合する生活/121

第五章 種々の宗敎問題に答ふ/153

 

生命の實相. 19 (自傳篇)   昭和33715日發行

凡例

第十九卷 目次

自傳篇 神示を受くる迄〈上〉

幼少時代/3

少年及び靑年初期/16

藝術至上主義時代/39

燐憫愛への轉向/56

工場生活時代/111

轉身/133

 

生命の實相第20 (自傳篇 下・聖詩篇)   昭和33810日發行

凡例

第二十卷 目次

自傳篇 神示を受くる迄〈下〉/1

轉身〈承前〉/3

關東大震火災に逢ふ/53

肉體及び物質の否定/94

聖詩篇 生長の家の歌/169

聖經甘露の法雨/171

生きた生命/192

光明と暗黑/194

夢を描け/196

花園にて/200

光明の國/202

或る日の生命の國/207

太陽の讃歌/224

生長の家々/225

神の御手/226

裸身の讃へ/228

捨身の讃へ/229

 

 

田中靜壱大将と甘露の法雨

田中静壱大将と甘露の法雨

中公新書クラレ 歴代陸軍大将全覧(昭和編/太平洋戦争期)
半藤一利、横山恵一、秦郁彦、原剛 共著 P179より抜粋

*この本は4名の歴史家の座談会形式でまとめた本ですが、生長の家
が登場したので、ご紹介します。

田中静壱大将の部より

 田中大将は、フィリッピンを守備する第14方面軍の司令官として赴任
しましたが、セブで発熱し病状が悪化します。

(原)18年5月初旬、東城(首相)がマニラに来て田中の病気が重いのに驚き、参謀
本部付の発令になります。(中略)そのまま第1陸軍病院に入院しますが、衰弱は増す
ばかりでした。天皇は田中に特に葡萄酒を下賜し「とくに大将に進級せしめよ」と言われ
田中は9月に大将に親任されるのです。

(横山)10月になると、血圧、体温が極端に下がり、軍医もサジを投げました。その
月末、夫人が信仰している「生長の家」の中島講師が面会謝絶の病室を訪れ、この宗教の基本聖経である「甘露の法雨」を枕頭で読み始めます。中島が読み終わると、田中の瞳に希望と歓喜の光が溢れ、その夜、寝汗をかかずに安眠し、翌日から食欲もまし、体力を回復していったそうです。

(半藤)本当は死ぬはずの人が治っちゃうのでしょう。なんとも不思議な話ですよ。
田中を調べていくと「生長の家」が出て来るので、書きづらくて書きづらくて。
「そんな事があるのか」とも書けないし。

(以下、略)

ちなみに、病気が奇跡的に回復した田中大将は、東部軍司令官になり、終戦時の
近衛師団の反乱を見事に鎮圧したあと、責任をおい自決されています。この田中大将がいなければ、クーデターは成功し、戦争はあと数ヶ月継続した可能性が高いと言われています。

 

この話は谷口雅春先生が繰り返しお話して戴きました。

『生長の家30年史』にはP2

 

「国家に対する貢献というので思い出しましたが、日本の今日あるは、あの昭和20815日、愛国の近衛兵が叛乱を起し終戦の詔勅放送の録音盤を奪取して終戦を防礙し、最後まで抗戦を継続するように計画し、時の近衛師団長森赳中傷を射殺してついにク-デタ-を敢行し永久抗戦の大事に至ろうとしていたのを、東部軍司令官田中静壱大将の叡智ある果断にてそれを制止し得たことによるのであって、あのまま近衛師団の反乱軍が終戦の詔書を阻んで、ク-デタ-を行い抗戦をつづけていたならば、その後の日本がどうなっていたろうか。

また国内戦が起こったときの悲惨はどのようであっただろうかと考えると肌寒い感じがするのであります。

まったく、当時の日本を救ったものは田中静壱大将の功績だと言うほかはないのでありますが、この田中静壱大将は、その三年ほど前、不治の腎臓の大患にて南方派遣軍より飛行機で日本に走還され、医師も手の施しようのない状態であったのが、時の生長の家教団理事長中嶋與一氏のただ一回の枕頭に於ける法話と、聖経『甘露の法雨』の読誦とによって病気回復し、現職に復帰しておられたので、この日本を救う大功を樹てることが出来たのであります。

まことに田中大将は終戦時の大事のために生長の家の神の神護によって生かされたのだということができるのであります。

田中大将は近衛兵の鎮圧を終り、日本軍の全面的無条件降伏の玉音放送が無事におわる事を見定め、軍全体の運命に殉ずる意味と、「わが任務了れり」という意味にて、静かに心臓部に拳銃を当てたまま収容として昇天されたのであった。

故大将の前にある机上には聖経『甘露の法雨』が按かれてあった。

殉死に先立ち聖経を誦せられたものだと考えられる。」

 

このようにお書きになられています。

また『新講 「甘露の法雨」解釈』にはさらに詳しく

「あとで「同じように天皇陛下の平和愛好の御心を説いた近衛師団長森赳中将を射殺しながら、何故田中静壱大将を射殺しないで帰順したか」と叛乱軍の将校に聞いてみたら、「あの時、田中大将は右手に紫色の袱紗に包んだ天皇陛下の御諚をもって来ておられた。それで田中大将は天皇陛下の御名代として来られた、そして"天皇陛下の御心はこうじゃ"といわれたように受取られた。

これを射ち殺したら天皇陛下に銃を向けたことになる。

自分たちは天皇陛下に背く心はない。

ただ重臣たちが自分の命が惜しいために無条件降伏による平和回復を計画しているのは許しがたいので、天皇陛下の御心のままに戦争を継続しようと策していたのだ」と答えたそうである。

 

田中静壱大将の右手に握られていたのは実は、紫色の帙に入った聖経『甘露の法雨』だったのである。

まことにこの聖経は、あの危機一髪の瞬刻限に、日本の国を滅亡から救い、世界に平和をもたらし、日本民族を救わんがために、霊的錯覚を生ぜしめて、聖経を紫色の袱紗に包んだ天皇陛下の御諚の如く感ぜしめられたのであった。

『甘露の法雨』の国家的、人類的な大功徳はかくの如しである。」

 

さて、次にこの『甘露の法雨』は昭和512月に発行の『生長の家』誌に「生長の家の歌」と題して掲載した自由詩三題が聖経『甘露の法雨』のもとになっている。「神」「霊」「物質」の三章です。

この詩を一冊5銭のパンフレットにしたのであるが(新講「甘露の法雨」解釈P13)売れ行きは悪かったのです。

 

「その頃生長の家の信者になる人は余り芸術とか、文字とかいうことに興味のない人が多かった。

本当に宗教的な救いが欲しいので、文学のようなものはいらん、詩というようなものはいらんというような意味からでありましょうか・・・・」

昭和62月の『生長の家』誌になると自由詩ははじめて『甘露の法雨』という題をもって顕れます。

 

『法華経』普門品第25(観音経)の一句に観世音が「甘露の法雨をそそぎ給ひて煩悩の焔を滅除し給ふ」とあるのを詩の題にしたのでは無いと断っています(『神秘緬より観たる生長の家40年史』より)

この『甘露の法雨』を所持していると危険から自然に避けることとなり、病気を癒し、事業は繁栄し、家族円満となり、祖先が喜びます。

その体験が陸続と顕れています。

180924

このフィリピンにおいての腎臓の不治の病が治癒したことを中嶋與一先生のお話から抜粋させていただきます。

無血終戦の偉勲者田中静壱大将のこと

中嶋與一(元生長の家本部總持)

昭和十八年十月二十九日、陸軍大将田中静壱氏夫人の操さんが生長の家本部へ訪ねて来られました。その日、谷口雅春先生は九州御巡錫中にて、私が本部道場の指導を受持っておりました。操夫人が訪れた時には私はすでに道場へ出ていたので、受付が「道場へいらしゃい」と言ったのですが、「待たせていただきます」と言われ、四畳半ほどの薄暗い部屋で約三時間待ったようであります。

 私が道場から下がって会ってみますと、その用件は「夫が病気で重態です。すでに諦めてはおりますけれども、何か心の中に苦しみがあるように思えるのです。可哀そうで見ていられないので、その心の苦しみを取去って安心させてあの世へ送りたい」ということでありました。

「病院はどちらですか」

「陸軍第一病院でございます」

「軍人さんですか」

と尋ねますと、夫人は名刺を出されました。見ると「陸軍大将田中静壱」とあるのです。

「はあー、これは軍人さん、大将閣下ですね。すみませんが、私はお断りします。誰か他の講師を紹介しましょう。」

と、椅子から立って部屋を出ようとしますと、夫人はあわてて、

「なぜでございます。」

と詰寄ってこられました。

「私は近頃の軍人さんは大嫌いです。」

と言いました。というのは、その時分、私は牛込の憲兵隊や名古屋の憲兵隊から呼び出されて、「お前は"海ゆかば"の歌はいけんちゅうて講演しとるそうじゃな」と、さんざん油をしぼられ、その頃は身体に油気が少なくなっていた上に、さらにしぼられたので意識が不明瞭になったほどでありました。そこで、

「私は軍人恐怖症で、ことにあなた様の御主人は大将さんですから恐ろしいです。とてもお会いする勇気がありません。」

と言いますと、夫人は、

「私の夫は大将でございますけれども至極やさしい人でございます。お友達から貴方様を紹介されましたので主人もお待ち致しているのでございますから、是非お願いします。」

と懇願されるのです。

「そのお友達というのは誰のことですか。」

「東條大将の奥さんです。」

ここにいたって私はいささか狐につままれたような気持ちになりました。

「はあー、少し変ですねえ。私は東條夫人は新聞でお顔を知っているだけですが」

「奥さんもそう言っておられました。お会いしたことはないけれども、毎月この雑誌の文章を読んで知っているだけなのですが、きっといい指導をして下さると言って紹介して下さったのです。」

その雑誌は『白鳩』でありました。夫人は「主人は貴方様を神様の次のような御方と思って会いたがっております。」

と言われ、その言葉にそそのかされて私は逢ってみようかという気になったのです。十月三十一日午後五時頃、病院を訪ねたのでありました。病室の入口には「面会禁止」とあり、その下の机には山のように名刺がおいてありました。

病室に入ると、将軍が寝台に長い体を横たえて、目をとじております。その傍らに腰をかけ、ちょっと挨拶の言葉をかけてみたけれども返答がありません。額に掌をあててみると相当熱い。「お熱があるようですね」と言ってみたのですが相変わらず、黙然としているのです。こうなると心持ちがわるくなって「さようなら」をするところでありますが「主人が待っている」という夫人の言葉をまにうけて腰をあげることができない。しばらく考えこんでおりますと、フト何気なくポケットに手が行って『甘露の法雨』をとり出したのであります。

そこで、「これから生長の家の聖経『甘露の法雨』を読みますから、閣下はそのままの姿勢でお聴き下さい。」

と宣言して読みはじめたのであります。二人の位置の関係上、私の右の掌は将軍の額に当たり、聖経をくりひろげる左手は胸部に置いている恰好でありました。最後に「聖経終」と読み了えたとき、田中大将はカッと目をあげて、案外やさしい声で、「ありがたいお経ですね」と言ったのです。それから私は『甘露の法雨』の講義をやったのであります。田中大将はフィリピンへ出征中、その年の三月十二日に発病し、三十九度を越す高熱がつづいているにもかかわらず病因が不明、マラリアに似ているが病因が発見出来ず、ついに八月六日、飛行機にて東京の陸軍病院へ送還されたということでありました。

 

将軍の語ったところによりますと、アメリカ駐在武官としてワシントンに在ったころ、マッカーサー氏(当時佐官)と親交があり、その友人を今では敵とすることになった、悪因縁でしょうね、と自嘲されるのでした。また田中大将は、こうして病臥していることは天皇陛下に相すまない、同時に多くの兵を戦場の露と消えさせることも、その遺族に対しても申しわけない、といとも悩ましげに話されるのです。そこで私は、因縁というものにとらわれているのは"迷い"です。迷いは無い、真理のみが実在である。人間は神の子で無限力、健康であるのが実在であって、われ病めりという心の迷いが映し出されているにすぎないのです。閣下は大忠臣です。けれども陛下にすまない、すまないと言いながら今病気で死んでは田中陸軍大将は病気に負けてしまったことになる。

 

"肉体は心の影""われに使命あり"と敢然と心中に唱えれば「言葉は神なり」、すべてのものこれによりて成るのです。私の言葉は決して間違っていません。たとえ大いなる槌をもって大地を損することがありましても、私の言葉は壊れることは断じてありません、と言い放ったのであります。すると将軍は一つ一つうなずいて聴いて、そして最後にニッコリして「有難うございました」と一言いわれたのであります。

 

翌十一月一日、朝七時に田中大将夫人から電話が入りました。その要旨は、主人は昨夜グッスリ眠り、今朝は上機嫌に目を覚まし、これまで出しぶっていた尿が快調に出て大層心持ちがよろしい、また熱も三十七度に下り、私としましては嬉しくて、たとえようもございません。これは奇蹟です、涙がこぼれて仕方がありません、というのです。その日、もう一度病院を訪ねると、将軍はちゃんと寝台に端座して私を待っておられました。そこで再び『甘露の法雨』の講義を致し、以後毎日講義をつづけたのであります。講義中は実に真面目に謹聴せられ、その態度はさすがに立派でありました。

 

ある日、病院の廊下で一人の看護婦から呼びとめられました。その人は田中大将を看護している三人の看護婦の中の一人でした。「先生、毎日ご苦労様です」と挨拶されてから彼女が私に語ったことによると、長い間閣下は一言もお言葉がなく、何をしてさしあげてもあの大きな目でジロッと御覧になるばかりでした。それが、先生が来られてからというものガラリと態度が変わり、検温が終りますと「有難う。ごくろうだね」と笑顔をむけられるようになったというのです。今まで病室へ行くのを三人で譲り合って、誰も行きたがらなかったのが、この頃では皆で行き、将軍をまじえて大声で笑い合うようになり、こんな嬉しいことはありません、というわけです。

 

こうして田中大将自身は日増しに恢復し、また操夫人は各方面へ『生命の実相』を配ったのであります。退院した田中大将は、やがて東部軍管区の司令官として軍務にいそしむようになったのです。昭和二十年八月十五日、終戦の御聖断が下ってからもなお戦争続行を主張する青年将校たちの叛乱が起こりました。その叛乱をめぐって重要な役割をし、後に監禁された私の以前からの知人からも、次のような驚くべきことを聞いたのであります。

 

その日、正午から陛下の御放送が行われるという直前、叛乱軍の幹部将校七名によって、今上の御命を頂戴し幼い皇太子を擁立し戦争を続行する、との密議が行われたといいます。かかる激越な行動に移らんとした青年将校たちを説得し、とり静めたのが田中静壱大将であったことは、総裁先生のお話によって、つとに知られるところであります。かくて陛下の歴史的な放送により、事なく終戦を迎えたのであります。

 

想うに、今上の御命をお救い申しあげるについて田中静壱大将の偉勲は無上であると申しても過言ではないと思います。その田中大将は、すでに昭和十八年に病にて絶えるはずであったと思われるのが『甘露の法雨』によって救われたのでありますから、田中静壱大将を通じて住吉大神のご使命が具現せられたということであります。

 

陛下には田中大将の働きに対し、八月十五日午後五時十五分、蓮沼侍従武官長侍立の上拝謁をたまわり、

「今朝ノ軍司令官ノ処置ハ誠ニ適切デ深ク感謝スル。今日ノ時局ハ真ニ重大デ色々ノ事件ノ起ルコトハ固ヨリ覚悟シテイル。非常ノ困難ノアルコトハ知ッテイル。シカシ斯クセネバナラヌノデアル。田中ヨ、コノ上トモシッカリヤッテクレ」

との優渥なるお言葉があったと承わっております。しかして八月二十四日、一切の使命を完うして、田中大将は極楽浄土へ移籍せられたのでありました。

              「生長の家四十年史」より     昭和四十四年十一月二十二日発行

 

更に『ああ!皇軍最後の日』塚本清著 昭和281220日初版(非売品)には

将軍の陣頭指揮は、間断なく続けられていったのであったが、不幸にして、重なる疲労は遂に将軍をして病床に伏するの已む無きに至らしめたのであった。

だが、生来負けず嫌いの将軍は、病を押して討伐を続けられたが、如何にせん、三月以降(昭和18年)は遂に立つこと能わず、マニラの病院に入院されることになった。

病名は、マラリヤといい黄疸といい、或はその併合症だともいわれ区区であった。入院後も将軍の気力は毫も衰えることはなかったが、体躯の衰弱は日増しに加わっていった。

将軍病篤し

前略  八月六日空路マニラを出発、羽田飛行場に無念の帰還をされたのである。高度五千の空気の稀薄は病体には大きく影響し、帰還後は三十九度を越える高熱が続いたのである。

将軍は直ちに若松町の第一陸軍病院に病因不明のまま収容された。

だが、帰還後も将軍の病勢は一向に捗々しなくなり、秋に入り、衰弱は一層その度を加えていった。

将軍は、再度の予備役願を出されたのである。この願を受けた東條陸相は中将のままで将軍を予備役にすべく、陛下に奏上申上げたのである。

陛下は将軍の病勢をいたく御心痛になり、恩賜のブドウ酒を賜れるとともに、特に大将に進級せしめよ、とお言葉を賜った。

陸軍省人事局は直ちに大将進級の手続きをとった。病床の身にありつつも、多年の功労を嘉し給う特旨に依って、将軍は大将に進級されたのであった。

比島から帰還された将軍の戦況奏上も、杉山元帥が将軍に代わって奏上された程であり、茲に全く、将軍の病勢は死を待つのみと思われたのである。

嗚!忠勇至誠の将軍、遂に病の床に斃れられるのであろうか―。

将軍起死回生す

世に起死回生と云う言葉があるが、これはぴったり田中大将の場合に云うことが出来る。

十月に入って大将の病状の悪化の一途を辿り、遂に主治医の大釣軍医も絶望してしまった。血圧は六十に下り、体温は三十五度四分以上は昇らなくなった。大将の危篤の報は伝えられ、軍医も

『尽くすべきは尽くしましたが―』と最後の言葉を残したのであった。

「ああ、何とかして夫をもう一度丈夫な身体にして、御国のために働かせなければならない」と、枕頭にある操夫人は、常日頃から信仰している『生長の家』に中島講師を訪ねられたのであった。

昭和十八年十月二十九日の夜だった。翌日中島講師は病室を訪れたが、一切面会禁止で、絶対安静の札がかけられてあった。扉外に立った中島講師は『大丈夫です、大将に霊気が溢れていますから』と言明して室内に入り、静かに大将に黙礼した後、「甘露の法雨」を取り出すと、静かに瞑目して中島氏の「甘露の法雨」を聴かれていた。

中島氏が読み了ると、大将は瞳を開かれたが、その瞳の中には、数分前まで、誰しも認めることの出来なかった、希望と歓喜との光があった。そのあとで大将はいくつかの質問をされたのであったが、中島講師は、その一つ一つに対し生命の實相をゆっくりと語られた。

この日大将は、人間は物質にあらず、肉体にあらず「生命(いのち)」である。その生命は神なる大生命と直通のものであるのを単的に「人間神の子」というのであって、肉体はその生命が起す波動、即ち心のかげである、病気になるのも心からであると同時に、癒えるのも心からである。境遇というも、運命というも、同時に心が先であり、凡て心が支配する、ということが真理だと理解されたのであった。

従来から観音の信仰に厚い大将には観音の教理に似た「生長の家」の理念は容易に了解する事が出来たのである。

大将の精神的の悩みは、いま戦争が激しくなりつつあるにもかかわらず自分は軍人として病床に臥していて働けないことは天皇陛下に対して相すまない。また自分は部隊長として軍隊を指揮して闘ったがその度に多くの部下を戦死せしめたのは、その本人に対しては勿論、遺族に対しても誠にお気の毒であり申しわけがない。

今日本では国民生活が段々圧迫してみんなが苦しんでいる際に、自分は病気と言い乍ら、病院にいて安閑として何の不自由なく手当を受けている事は、まことに申しわけない等等の為、心は常に悶々の情で閉じ込められていられたのであるが、聖書にも、「一羽の雀でも神の御心なしには地に墜ちず」とある如く、一切は神の摂理であると判られたのである。人間の一生は使命遂行の為だ、使命が終わるまでは肉体は続くのである。釈迦は八十五歳だが、イエスに至っては三十歳になるやならずで現世における肉体使命が終幕になっているのだ―

こうして中島講師の第一日の話は終わったのであったが、突然、翌朝、中島氏の耳を破ったのは、操夫人の報告の電話であった。

昨夜ははじめて将軍はグッスリ寝られ、寝汗が出なくなり寝巻を着更えることもなく、久しく出なかったお小水が朝になり二回も出たと言うのであった。

その日から中島講師は大将の病床を見舞っては「甘露の法雨」の講義をつづけられたのであった。長男の光祐氏も、死ぬる前には人間は一時よくなることがあるから気をつけて下さいよと、操夫人に語られたが、その言葉も取越し苦労となって、急に食欲が増進し、自然排便もあり、ぐんぐん体力は恢復に向っていったのであった。

絶対安静の大将の身体も、五日、十日と日を追うて寝台の上に起き上がれるようになって来た。遂に一ヶ月日には、寝台から降りて立ちあがれるようになられた。

十一月末には更に寝台の周囲が歩行出来るようになり、遂に軍医までも絶望とまで思われた大将の肉体は、不屈の精神力に依って眼に見えて健康をとり戻されたのである。

以前から大将は、両親に似て信仰の厚い人であったが、この時以来「甘露の法雨」を離されたことがなく、自決の机上にも、この「甘露の法雨」は置かれていたのである。

田中大将-2田中大将-3
田中大将-4

田中静壹大将の記功碑であります。兵庫県たつの市の竜野公園にある石碑であります。頂上には赤とんぼ荘があり少し下った所には小さな動物園があります。

田中静壹大将顕彰会が昭和50年に建立した石碑ですが、そうした責任者がお亡くなりになればこの石碑が残るだけであります。今や石碑だけが残るだけで「三木露風」「三木清」などが有名となり記念館や資料館があるが、田中静壹大将はこの石碑がたつの市に残された。また「嗚呼玉杯の花うけて」の矢野勘治も有名である。たつの市出身の著名人の名に田中静壹氏を大きく掲載して欲しいものであるが、名は小さく掲載されている。日本を救った軍人は、「軍人」というだけで肩身が狭い思いをしなければならないのが、戦後教育なのか。石碑だけでも救われているといえば悲しいが、確かにそうである。諸外国ではこうした軍人は宝として鄭重に保存し伝える。

たつの市役所、たつの図書館及び田中家の皆様には突然の訪問にも関わらず、気楽に応じていただきましたことに感謝申上げます。

なお、田中静壹の慰留品は現在は姫路自衛隊機地に保管されています。

 

 

 

中島與一先生  『無血終戦夜話』  田中静壱大将と『甘露の法雨』

御申訳けもなき御無沙汰申上げて居りましたのに、おしかりもなく御文給はりかたじけなくおなつかしきに唯々涙のみにございました。先生の御恩は決して決してお忘れいたして居りません。倅達も常に語りましては感謝のみ致して居ります。

 去る二十四日五年回忌をおつとめ致して居りました時お焼香に来られた方が『大将は中島先生の御手でお治りになさったそうですね』と申され又新しく先生を思い出したので御座います。先生も二十四日に御追憶新になさって下さいました御由、これも神さまの御引きよせと嬉しく存じ上げました。

 八月十五日の東京日々新聞、八月号の小説泉九月号文藝春秋に大将自決の真相が発表されました。御覧頂きましたでせうか。

 
 存命中常に先生の御噂を申しながら職務に忙殺心ならずも御無礼いたして居りましたが最後まで甘露の法雨は手元はなさず死につきました。

 十八年十月二十九日はじめて先生の御厄介になりましてあんなに立派な霊、体共に浄化させて頂きましたのもあの日の為にお残し頂いたのだと、誠に一家一同感激いたして居りました。

 一度御目もじ申上げてすっかり先生にお耳に入れ度存じますが唯今は郷里にて百姓に専念いたして居ります。もし当地方へ御通過あそばしました節には是非とも御立寄り頂き度一同お待ち申上げて居ります、長男、次男、四男、孫、嫁と十三人の大家族、女中合わせて十四人、終戦のおかげにて皆々一緒にむつまじく過して居ります。

 申遅れましたが先生御宅様にては御長男様未だ御帰還なき御様子何とも御申上げようもなき御事にございます。何卒御奥様御令嬢様方へも山々御よろしく御伝え頂き度お願い申上げます。

 尚ほ本日白鳩、生長の家御送附にあずかりありがたくお厚礼申上げます。白鳩、生長する青年は月々拝見させて頂き、いつもいつも有難き生長の家に感謝させて頂いてをります。

 また三男は目黒区平町四小林家に養子に来り、嫁や母(私の妹稲荷たみゑ、これは元の衾町の私宅に居ります)は稲荷と共に月々のお会合には必ず出席させて頂いて居ります。私は田舎で生命の實相は必ず毎日十頁づつ拝読いたし丁度三回目繰返して居ります。

 先ずはとりいそぎ御厚礼のみ。               かしこ。田中操

 中島先生お前に

 『先生は私のためには生命の恩人です。後で聞いたら医学上では死ぬる以外に何の見込みがなかったそうですよ。それを先生に助けて頂いたのですからね』 と云われたので、私はそれを打ち消して

 『閣下、それは違います。閣下の生命の恩人は私ではなく閣下御自身の生命です。生命が生命を生命したのです。生命があったからその生命の力によって閣下自らが復活せられたのです。その復活は何の為かと申せば、それは使命遂行の為です、閣下には何か大きな使命(Great mission)がおありになるにきまっています。これからその重大使命を遂げられなければならないために肉体保存の必要があるので、この奇蹟的快復がなり立ったと私は確信しているのです』 とお答えしたのであった。

 サテ田中大将の使命は何であったろうか?この疑問は容易にとけなかった。終戦前後私は東北地方巡講中であったので新聞を見るヒマも余りなく、田中大将の自決のことも余程日数を経過した後で耳にしたので、あの時の復活は自決のためであったのであろうか、単なる自決ならばそれは個人感情の最後の精算でしかない、そのための復活? と考えた時聊(いささ)か寂しさを感じたのであったが、それ以外に考え直す資料がなかったので、その侭にして置いたのだった。

 従って瀕死の容体、医学上は絶対駄目だった肉体が、復活という言葉がふさわしいが如くに全く奇蹟的に快復せられた事にも、大した意義を発見し得なかったし興味も薄らいだので、今日まで文章で発表しなかったのであったが、此度フト新聞雑誌で八・一五事件の真相の記事を読んで始めて一切の神秘的意義が判明したので、ここに書きつらねて神の御心の深遠にして宏大なることを知って頂く便りとしたいと念願して筆をとることにしたのである。

 『八・一五事件』とは何か? 簡単にいえば昭和二十年八月十五日ポツダム宣言受諾に反対し飽まで戦うという一部青年将校達が、血気に逸り常識を失い団結して、聖断を翻へしめんと企て遂に暴動化し、時の近衛師団長森赳を射殺したのをはじめ、あらゆる暴逆行動に出て一時的快感を味わんとした暴挙を云うのである。この行動が押し拡められ、深刻化したならば、天皇の身辺も危殆に瀕し、日本の国を全く崩壊せしめる力となったに違いないのであったのを、即発寸前に食い止めて、天皇陛下を安泰におき、日本国を滅亡から救いとったのが、東部軍管区司令官田中静壱大将であった。

 大将の大なる使命(Great mission)なるものは實にそれであったのである。偉なる哉偉なる哉田中大将の功績、どんなに称賛しても到底たたえ切れないほどなのである。その日の田中大将の行動は神慮そのままが現われたようであった。先ず近衛第一連隊営庭にては、渡邊連隊長に対し・・・・・・(中略)・・・ 続いて、軍旗奉焼の問題を大将ただ一人の責任とする扱い方を了し、二十四日の埼玉県川口の放送所を占領した予科仕官学校の生徒に対し峻烈極る訓示をして、これらを鎮めた。

 この歴史的大変革に際して、以上の大仕事をなし遂げる者は田中大将を措いて他に求め得ないので医者で分からない病気になり、ヒリッピンから東京へ帰ったことが第一の摂理であった。操夫人が生長の家本部を訪れる摂理は第二であり、私が『甘露の法雨』の講義を十一月いっぱいに亘って聴いて貰ったのが第三の摂理であった。そして奇蹟的に健康を快復せしめたのと高級霊の指導であったことが分って大変嬉しくなったのである。

 操夫人にもこのことが分ったらしく前記した近信中にも『あんなに立派な霊、体共に浄化させて頂きましたのもあの日の為にお残し頂いたのだと誠に一家一同感激いたして居ました。』と認めて居られるのである。あの日のためため誰かこれを予知し得るか、ただ神慮あるのみ、尊い極みであった。

 自決の意義は、現世に於ける肉体的使命を完了したので、もはや霊界に昇天すべきだと大悟せられたためではあるけれども、自決を選んだ理由は遺書の一節に 『将兵一同に代り閣下に御詫び申上げ皇恩の万分の一に報ずべく候閣下並に将兵各位は厳に自重自愛断じて軽挙を慎まん以て祖国の再建に邁進せられん事を』 とある。

 即ちイエスキリストが十字架にかかったと同様多くの人達の身代りであった。今や高級の霊界より平和日本、民主日本の建設のために善良なる霊波を放送されつつあることが分かるのであり、その霊波が時間空間の枠を通して必ず実現することも一点の疑いを挿む余地なきことも分かるのである。

 以上を書き終って振り返って見れば田中大将の霊の目醒めを促した摂理は甘露の法雨の中のコトバであったことが分かるのである。若しこれなかりせば大将の肉体は遅くとも十八年十一月中には北ぼう一片の煙と化して了った筈であったことを思う時、春秋のひっぱふを借りるまでもなく『甘露の法雨』克く田中静壱大将をしてこの偉業を完成せしめた。といっても決して過言でないと、私は固く信じているのである。

  中島與一先生  『無血終戦夜話』  田中静壱大将と『甘露の法雨』  より

 

第十章 大いなる使命のために

人の生命と全体の生命

 私が兵庫県の龍野市へ講習に参りましたときに、會場にきて一番前で熱心に話をきいておられた一婦人がありました。あとで昼食のときに、地元の幹部がこの婦人を私に紹介して「田中操夫人です」と申されました。田中操さんは故田中静壹大将の未亡人で、龍野が郷里である関係上、戦後はずっとここにお住いになっているということは私も前からきいて知っていましたが、お目にかかるのはその日がはじめてでした。その日操夫人は私と共に食事をとられ乍ら、色々の事を話しておられましたし、それから講習會での体験談の時にも発表されたことなどから、田中大将がどのようにして病を得、叉その病から立上り、其後大きな仕事をして昇天されたかということをくわしく知ることが出来ました。私達は一人の人間の生命は決して孤立したいのちではないという事をよく承知しているのでありますが、故田中静壹大将の場合のようにまざまざと、一個の人間が全日本の運命に大きく関係していることを示している実例は少ないとおもうのであります。

分裂した治療の悲劇

田中静壹大将が病にかかられたのは昭和十八年の三月十二口、フィリッビンに従軍なさっていた時でありましたが、その症状はマラリヤに似ているが菌を発見出来ず、間接的に高熱がつづいていたのでありました。当時田中さんは骨と皮とにやせ細って内地の陸軍病院に入院せられて治療をうけられましたが、衰弱の度は加わる一方であって、もう息を引きとるのは時間の問題であるとさえ言われたのでありました。しかも当時東京の第一陸軍病院で六人の選り抜きの軍医さんが診断をして命名した病名が何と、「不明熱」というのであって、血圧は六十、順温は発作時以外は三十四度五分に下り、脈拍はほとんど手に感じなくなってしまったのでありました。

どうしてそんな奇妙な症状になったのかと申しますと、これはあとになって田中大将が発病当時のことを夫人に話されたのでわかった事なのですが、最初は何のことはない風邪であったのです。しかし当時陸軍中将であり、しかも軍の要職にあった田中さんには軍医がつきっきりで、単なる風邪であり乍ら無闇やたらと注射をしたのだそうです。

それも一人の医者ならば統一的な治療もやれますが、次から次へと別の軍医が来て、別の注射をやって行くのです。遂には東京から軍用機で軍医がわざわざフィリッピンまではせつけて、注射をするという具合であって、全く分裂した治療法を個人の肉体に對してほどこしていたのがわるかったらしいので、その結果不明熱という悲劇的な結果となったのでありました。

 

播かれた種子は生える

 しかも当時天皇陛下は田中中将の病篤しとおきき遊ばされて、大変心をおいためになり、特に異例ではあるが大将に昇進させるという発表が出されましたので、当時の新聞はもう田中大将は死ぬるのだ。いや既に死んでいるのだとして、号外を刷って用意しました。そしてしきりに操夫人に電話をかけて来ては、大将が死んだかどうかその実状をさぐり、いちはやく「田中大将死す」の第一報を出そうと、夫人の言葉尻をつかまえる工夫をこらしていたのでありました。一方そのような危篤状態がしばらくつづいていました間に、操夫人はかつて読んでいた『生命の實相』にたよる以外にもう道はないという事を自覚なさいまして、軍医にその旨を申しますと、軍医はもうとっくに「不明熱」で手をあげているところでありますから、「どうぞ奥様心残りなく何なりとおやり下さいませ」ということになったのであります。

 何故そのとき操夫人が『生命の實相』にたよる他なしと決心なさったかといいますと、それは丁度昭和十年頃のことでした。田中夫人は御姉妹から『生命の實相』を知らされ、平素から秘かによんでおられたのでありますが、其当時憲兵司令部の総務部長をしておられた御主人にみつけられて、「お前、何をよんでいるか」と問われたことがありました。「有難い『生命の實相』という御本をよんでいるのでございます」と申しますと、御主人もその『生命の實相』をよみはじめられましたが、しばらくすると丁度其当時、警視庁が大本教の不敬事件をあげたものでありますから、御主人は「憲兵隊の幹部の官舎で、こういう宗教の本をもっていると、すこぶる危険であるから、はやく焼いてしまえ」とおっしゃりはじめました。奥さんは「あなたももっと読んでごらんなさい。とってもよい事が書いてあるんですから」と言いましたが、其当時の田中さんは、ただ本を焼くことにのみ熱心でありましたので、奥さんは仕方なく親戚の方のところへ『生命の實相』をあずけておしまいになりました。

そのようなことがあってから八年たった後、御主人が大病をしたときに操さんはその『生命の實相』をもって来て、二ヵ月ほど御主人の枕許でよんでおられたのでありました。そしていよいよ「何でも心残りなくやりなさい」という事になった時に、夫人は早速東京の生長の家の本部においでになりまして、丁度そのとき谷口雅春先生は九州へ御旅行中であられましたので、中嶋先生に面会なさり、明日の三時におうかがいしましょうという約束を得てお帰りになったのでありました。

 

神癒

その翌日の三時に中嶋先生がおいでになりました時は、軍医さんが「面会時間は五分間ですよ」といいまして、その約束で中嶋講師は田中大将の病室に入りました。すると田中さんは「この汗を止めていただけましたらねえ」とまるで蚊の鳴くような声でおっしゃるのであります。その当時でもまだ田中大将は三十度の熱から発作時には四十度近い熱が一日に三、四回出る状態でありました。その度に病衣がびしょびしょにぬれてしまうほどの汗をかき、敷布もべったり濡れてしまうのであります。それを取り替えるのに、三人の看護婦と奥さんとで非常に努力し、そのたびに病人は大きな苦痛をうったえておられたのであります。中嶋先生は、それを聞いて「これは自壊作用ですから、熱は出るままでいいんですよ。汗はいくら出ても結構なんですよ」とおっしゃいまして、それから『甘露の法雨』を誦けてその目は帰られたのであります。

ところが何とその晩は、六ヶ月間三回四回はげしい悪寒があって四十度の熱が出ては又ひっこむという状態で、その度の汗で非常に苦しんでおられたのでありますのに、その晩はそれっきりぴたりと汗がとまって、熱も三十七度台に下ってしまったのであります。これは奇蹟というしか仕方のない治り方でありまして、単なる精神の暗示療法でもなければ、精紳安定によって肉体がいやされて行ったというような生やさしいものでもない-全くの神癒だったのであります。

 その翌朝になりましてから尿が出ましたが、その尿は千三百グラムで、熱は三十七度台になりました。病人に非常に元気が出ましたので、病院中の凡ての人々はよろこび、つづいて中嶋先生にお礼を申し上げて1ヶ月間つづいて来ていただくように約束なさったのであります。田中大将は「早く電話をかけろ、はやくかけて先生に御報告せよ」といいまして、早朝中嶋先生に電話をかけさせました。そしてその目の三時に再び中嶋先生がいらっしゃるという事になりますと、田中大将はもう二時頃からおくさんにはやく玄関にお出迎えしないのかとそれは大変うるさく言って玄闘へ操夫人をお出迎えに出させるという熱心さでありました。

 そして毎日『甘露の法雨』をあげて、色々の真理のお話をきいておられるうちに、田中さんの健康はめきめきと回復して行かれました。それは肉体的にのみならず精神的にも向上されたのでありまして、大変気持が変られたのであります。それ以来田中さんは生き生きとして明るい感謝の言葉をいわれるようになり、看護婦さんにも「有難う、有難う」とことごとにお礼をおっしゃるようになられたのでありました。このような心の変化こそ、一切のものが好転して、すばらしい真意の実現する必須条件であるという事が出来るのであります。

 このようにしてどんどんよくなって行かれました田中さんは、三ヵ月たったときには完全にもと通りの身体に回復し、次いで陸軍犬學校の校長を拝命せられ、これを五、六ヶ月つとめられましてから、続いて東部軍管区司令官に任命せられたのであります。そしてこの状態のままで終戦を迎えることになりました。

 以上が大体の、田中大将が病を得られてから瀕死の状態になり、それから回復されるまでの概要でありますが、中嶋與一講師が面会をして色々指導なさった状態につきましては、中嶋講師の『光明生活の手引』(日本教文社刊)という本の中にくわしく記されております。

終戦時の使命

 さてこのような状態で昭和二十年八月十五日ボツダム宣言受諾が行われたのでありますが、そのとき、有名なハ・一五事件というのが起りました。それは一部の青年将校達が聖断をひるがえしてあくまでも戦をつづけようと暴動を起し、近衛師団長森赳氏を射殺し、そして、クーデターを決行しようとした事件であります。若しこれが本常に成功しておれば、天皇陛下の御身辺も危殆に瀕し、日本の國も滅亡に近づいたかもわかりませんが、そのとき田中大将は先ず近衛第一聯隊営庭にのりこみ、渡邊聯隊長に對し「君のうけた師団命令は師団參謀のつくった偽命令である。森師団長はすでに殺害された。今後はこの田中が近衛師団の指揮をとるから、部隊をすみやかに解散させよ」といって、二千余名の兵をただちに解散させられたのであります。若しこのようなことが田中大将によって行われなかったならば、近衛師団は暴徒と化し、日本終戦の大偉業は達成されなかったのであると考えられます。其他の暴徒の青年将校に對しても、田中大将はただ人格の力、信念の力によって話しをすすめ、遂に暴動を鎮圧し、玉音放逸は無事十五日の正午に行われたのでありました。この報告を受けられました天皇陛下は、非常におよろこびになりまして「今朝の軍司令官の処置はまことに適切であった」と感謝の言葉を申され、色々の有難い御言葉を田中大将に与え給うたのであります。

 

使命

こうして無事戦は終わりましたが、それから約二十数日たって、大将は或る日机上を整理し、その上に恩賜の軍刀、白手袋、明治天皇の御像、恩賜の煙草、観音経、及び『甘露の法雨』を置かれたのであります。そして安楽椅子を机から一間位はなして、そこに浅く腰をかけられ、自分のうしろにクッションを置き、心臓部に拳銃をあてがわれました。何故一間ほど机から椅子をずらせたかと申しますと、自決したときに自分がうしろに倒れると同時に、脚が上にハネ上り、机をはねとばし、机の上の大切なものが散乱するというような見苦しい事のないようにという思慮の下に、脚の長さだけ椅子を机から誰されたのであります。そして副官を節かに呼ばれました。副官が丁度部屋の扉を開いて入って来られたときに「よろしくたのむぞ」との一言を残して、ピストルを心臓の真中に見事にうち込んだのでした。かけよった副官は、大将をだきおこし「閣下、お見事でございました」と申しました。大将の自決はすでに計画されていた通りを冷静に実行されただけであって、副官も息子さんも、操夫人さえも事の起ることをみな知っておられたのであります。しかしいつそれを決行されるかという事は、最後まで田中大将一人の胸の中にありました。大将は発射後ただちに意識不明におちいられまして、脈拍が完全に停止したのは五分後でありました。非常にらくな往生でありまして、大将の身体は白い麻布であらかじめ血どめの下ごしらえがしてありましたので、全く清らかな遺骸でありました。急をきいてかけつけた杉山元帥なども、その見事な自決を讃嘆なさいまして、その後つづいてこの方も自決をなさったのでありました。

 このようにして、一人の人間が『生命の實相』によって、一度はうしなわれていた生命を回復し、しかもその復活した生命によって偉大なる使令をなしとげ、途に自ら霊界へ旅立って行かれたということは、ただ単に一人の人間が御敦えによって救われたというだけではなく、その一人の生命が何干萬の人々の生命、國の生命をすくったという事になるのであって、それは偉大な仕事であったと言わなければなりません。かくの如く人間の生命は決して自分一人のいのちではない。大きくひろく世界にひろがり、凡ての人々と直結している生命であるという事を自覚して、吾々はそのいのちをもっともよい姿で、紳揉の御意にかなうやり方で発現しなければならないということを強く感ずるのであります。そして一人の人間のいのちを救うことも、このように大きな仕事をなしとげうるのでありますから、二人三人……いやさらに何千萬という人々の心の中にこの永遠不滅の真理をよみがえらせることが出来ましたならば、全世界の精紳を革命し、地上天国を建設するという一大偉業も、やすやすとなしとげられると硬く信ずるのであります。時代はまさに、正しい萬人救いの原理を求めています。いまこそ、正しい宗教がもっとも普遍的な姿で、凡ての人々の胸の中によみがえらなければならない時であります。新しい栄光の世が、今やおとずれようとしているのであります。

 

 

 

『生長の家50年史』から抜粋致します。田中静壹大将の御功績に今や生長の家の信徒の人も知らない。谷口雅春先生はいろいろな書物で田中大将の事を記載されておられます。

 

終戦時における住吉大神の働き

ところで天皇陛下の終戦の詔勅のラヂオ放送が無事に行なはれた蔭には、生長の家大神すなはち住吉大神の御働きがあったことをわれわれは見過すことは出来ない。

終戦の日の午前零時、降伏にあくまで反対して、軍務局の中少佐級にひきゐられた近衛第一師団の一部がクーデタ行動をおこした。彼らは宮城を占拠し、天皇の放送をくひとめ、終戦の「御聖断」を覆さうとしたのである。そのために近衛師団長を殺害して、宮城を占拠したのであったが、東部軍司令官田中静壹大将の沈着な処置によって、クーデターは鎮圧され、無事に終戦の玉音放送が行なはれたのである。もしもこの時クーデターが鎮圧されてゐなかったならば、戦争はそのまま続行し日本全土は焦土と化してゐたであらう。

当時、侍従としてクーデターの渦中に、天皇陛下のお側近く仕へてゐた入江相政氏は、「終戦前夜記」(『侍従とパイプ』に収録)の中で「陛下のお力でさしもの戦争もやめになったが、戦争をやめることをいさぎよしとしない連中がおこしたどさくさも、田中さんのおかげでさうたいした事もなくしづまった。われわれは田中静壹大将の功と恩とを忘れることはできない」と田中大将の功績を称へてゐる。この日本の歴史上最大の危機を未然に防いだといふ田中静壹大将は、『甘露の法雨』の功徳によって原因不明の高熱による危篤から起死回生し、首都防衛の任にあたる東部軍司令官につかれた人である。塚本清著『あゝ皇軍最後の日』によれば、田中大将は病気回復後聖経『甘露の法雨』を片時も離されたことはなく、終戦の一切の処理を終へて自決された時にもその机上には他の遺品と共に『甘露の法用』が置かれてゐたといふ。そして座右の銘として「一ヽ我ハ陛下ノ信任ヲ忝フス ー、我ハ神ノ子ナリ ー、我ハ無限ノカヲ有ス ー、我判断誤ルコトナシ」といふ言葉が半紙に書き記されて、『甘露の法雨』と共に常に携帯されてゐたと言はれる。この座右の銘は、生長の家の真理から採られた言葉であった。かやうな田中大将によって日本の危機が救はれ、天皇の御稜威が輝き渡ることになったのであるが、その奥にこそ住吉大神の神力が大きく働き給うてゐたのである。谷口先生はこの時の経緯についてつぎのやうに教へてをられるのである。

《……原爆投下後、天皇陛下の御前にて終戦の会議があり、ポツダム宣言受諾の陛下の御綻があり、終戦の詔勅を八月十五日正午に日本全国に放送されるために御吹き込み頂いた録音盤を、近衛師団の叛乱軍が奪取して、終戦の詔勅を伏せてしまひ、戦争継続を企ったとき、生長の家信徒である田中静壹大将(東部軍管区司令官)が『甘露の法雨』を奉持して近衛将校を説得して、近衛兵の叛乱を鎮圧し、無事、無血で平和を恢復せしめ得た功績の如きは、まことに、個人では為し得ないところの功績で、田中静壹大将の大胆沈着なる人格のしからしむるところであるとは言へ、携行された紫表紙の聖経『甘露の法雨』が叛乱軍の将校すべてに紫色の袱紗に包んだ「天皇陛下の御淀」と見え、それを携行してゐる田中静壹大将は天皇陛下の御名代として来てゐられると感じたので、反抗することも、狙撃することも出来ず、叛乱を中止して無事無血終戦を迎へるに至ったのでありますが、これこそ田中静壹大将がその時携行された住吉大神の神授の聖経『甘露の法雨』が奇蹟をあらはし給うたのだと感得するほかないのであります。何しろあの時、叛乱・抗戦継続の近衛将校は、叛乱抗戦に反対する者は近衛師団長と雖も射殺してゐるのでありますから、当り前ならば近衛師団長と同じやうに叛乱に反対する田中静壹大将を射殺しないで唯々諾々と田中大将の説得に従ったことは神秘と言へば神秘、神徳と言へぱ神徳であります》(『神の真義とその理解』)

下記の文章は谷口清超先生の『もっと深く愛そう』昭和3395日発行のものです。

田中静壹大将の件は更に詳しく記載されておりますので茲に抜粋致します。

 

第十章 大いなる使命のために

人の生命と全体の生命

 私が兵庫県の龍野市へ講習に参りましたときに、會場にきて一番前で熱心に話をきいておられた一婦人がありました。あとで昼食のときに、地元の幹部がこの婦人を私に紹介して「田中操夫人です」と申されました。田中操さんは故田中静壹大将の未亡人で、龍野が郷里である関係上、戦後はずっとここにお住いになっているということは私も前からきいて知っていましたが、お目にかかるのはその日がはじめてでした。その日操夫人は私と共に食事をとられ乍ら、色々の事を話しておられましたし、それから講習會での体験談の時にも発表されたことなどから、田中大将がどのようにして病を得、叉その病から立上り、其後大きな仕事をして昇天されたかということをくわしく知ることが出来ました。私達は一人の人間の生命は決して孤立したいのちではないという事をよく承知しているのでありますが、故田中静壹大将の場合のようにまざまざと、一個の人間が全日本の運命に大きく関係していることを示している実例は少ないとおもうのであります。

分裂した治療の悲劇

田中静壹大将が病にかかられたのは昭和十八年の三月十二口、フィリッビンに従軍なさっていた時でありましたが、その症状はマラリヤに似ているが菌を発見出来ず、間接的に高熱がつづいていたのでありました。当時田中さんは骨と皮とにやせ細って内地の陸軍病院に入院せられて治療をうけられましたが、衰弱の度は加わる一方であって、もう息を引きとるのは時間の問題であるとさえ言われたのでありました。しかも当時東京の第一陸軍病院で六人の選り抜きの軍医さんが診断をして命名した病名が何と、「不明熱」というのであって、血圧は六十、順温は発作時以外は三十四度五分に下り、脈拍はほとんど手に感じなくなってしまったのでありました。

どうしてそんな奇妙な症状になったのかと申しますと、これはあとになって田中大将が発病当時のことを夫人に話されたのでわかった事なのですが、最初は何のことはない風邪であったのです。しかし当時陸軍中将であり、しかも軍の要職にあった田中さんには軍医がつきっきりで、単なる風邪であり乍ら無闇やたらと注射をしたのだそうです。

それも一人の医者ならば統一的な治療もやれますが、次から次へと別の軍医が来て、別の注射をやって行くのです。遂には東京から軍用機で軍医がわざわざフィリッピンまではせつけて、注射をするという具合であって、全く分裂した治療法を個人の肉体に對してほどこしていたのがわるかったらしいので、その結果不明熱という悲劇的な結果となったのでありました。

 

播かれた種子は生える

 しかも当時天皇陛下は田中中将の病篤しとおきき遊ばされて、大変心をおいためになり、特に異例ではあるが大将に昇進させるという発表が出されましたので、当時の新聞はもう田中大将は死ぬるのだ。いや既に死んでいるのだとして、号外を刷って用意しました。そしてしきりに操夫人に電話をかけて来ては、大将が死んだかどうかその実状をさぐり、いちはやく「田中大将死す」の第一報を出そうと、夫人の言葉尻をつかまえる工夫をこらしていたのでありました。一方そのような危篤状態がしばらくつづいていました間に、操夫人はかつて読んでいた『生命の實相』にたよる以外にもう道はないという事を自覚なさいまして、軍医にその旨を申しますと、軍医はもうとっくに「不明熱」で手をあげているところでありますから、「どうぞ奥様心残りなく何なりとおやり下さいませ」ということになったのであります。

 何故そのとき操夫人が『生命の實相』にたよる他なしと決心なさったかといいますと、それは丁度昭和十年頃のことでした。田中夫人は御姉妹から『生命の實相』を知らされ、平素から秘かによんでおられたのでありますが、其当時憲兵司令部の総務部長をしておられた御主人にみつけられて、「お前、何をよんでいるか」と問われたことがありました。「有難い『生命の實相』という御本をよんでいるのでございます」と申しますと、御主人もその『生命の實相』をよみはじめられましたが、しばらくすると丁度其当時、警視庁が大本教の不敬事件をあげたものでありますから、御主人は「憲兵隊の幹部の官舎で、こういう宗教の本をもっていると、すこぶる危険であるから、はやく焼いてしまえ」とおっしゃりはじめました。奥さんは「あなたももっと読んでごらんなさい。とってもよい事が書いてあるんですから」と言いましたが、其当時の田中さんは、ただ本を焼くことにのみ熱心でありましたので、奥さんは仕方なく親戚の方のところへ『生命の實相』をあずけておしまいになりました。

そのようなことがあってから八年たった後、御主人が大病をしたときに操さんはその『生命の實相』をもって来て、二ヵ月ほど御主人の枕許でよんでおられたのでありました。そしていよいよ「何でも心残りなくやりなさい」という事になった時に、夫人は早速東京の生長の家の本部においでになりまして、丁度そのとき谷口雅春先生は九州へ御旅行中であられましたので、中嶋先生に面会なさり、明日の三時におうかがいしましょうという約束を得てお帰りになったのでありました。

 

神癒

その翌日の三時に中嶋先生がおいでになりました時は、軍医さんが「面会時間は五分間ですよ」といいまして、その約束で中嶋講師は田中大将の病室に入りました。すると田中さんは「この汗を止めていただけましたらねえ」とまるで蚊の鳴くような声でおっしゃるのであります。その当時でもまだ田中大将は三十度の熱から発作時には四十度近い熱が一日に三、四回出る状態でありました。その度に病衣がびしょびしょにぬれてしまうほどの汗をかき、敷布もべったり濡れてしまうのであります。それを取り替えるのに、三人の看護婦と奥さんとで非常に努力し、そのたびに病人は大きな苦痛をうったえておられたのであります。中嶋先生は、それを聞いて「これは自壊作用ですから、熱は出るままでいいんですよ。汗はいくら出ても結構なんですよ」とおっしゃいまして、それから『甘露の法雨』を誦けてその目は帰られたのであります。

ところが何とその晩は、六ヶ月間三回四回はげしい悪寒があって四十度の熱が出ては又ひっこむという状態で、その度の汗で非常に苦しんでおられたのでありますのに、その晩はそれっきりぴたりと汗がとまって、熱も三十七度台に下ってしまったのであります。これは奇蹟というしか仕方のない治り方でありまして、単なる精神の暗示療法でもなければ、精紳安定によって肉体がいやされて行ったというような生やさしいものでもない-全くの神癒だったのであります。

 その翌朝になりましてから尿が出ましたが、その尿は千三百グラムで、熱は三十七度台になりました。病人に非常に元気が出ましたので、病院中の凡ての人々はよろこび、つづいて中嶋先生にお礼を申し上げて1ヶ月間つづいて来ていただくように約束なさったのであります。田中大将は「早く電話をかけろ、はやくかけて先生に御報告せよ」といいまして、早朝中嶋先生に電話をかけさせました。そしてその目の三時に再び中嶋先生がいらっしゃるという事になりますと、田中大将はもう二時頃からおくさんにはやく玄関にお出迎えしないのかとそれは大変うるさく言って玄闘へ操夫人をお出迎えに出させるという熱心さでありました。

 そして毎日『甘露の法雨』をあげて、色々の真理のお話をきいておられるうちに、田中さんの健康はめきめきと回復して行かれました。それは肉体的にのみならず精神的にも向上されたのでありまして、大変気持が変られたのであります。それ以来田中さんは生き生きとして明るい感謝の言葉をいわれるようになり、看護婦さんにも「有難う、有難う」とことごとにお礼をおっしゃるようになられたのでありました。このような心の変化こそ、一切のものが好転して、すばらしい真意の実現する必須条件であるという事が出来るのであります。

 このようにしてどんどんよくなって行かれました田中さんは、三ヵ月たったときには完全にもと通りの身体に回復し、次いで陸軍犬學校の校長を拝命せられ、これを五、六ヶ月つとめられましてから、続いて東部軍管区司令官に任命せられたのであります。そしてこの状態のままで終戦を迎えることになりました。

 以上が大体の、田中大将が病を得られてから瀕死の状態になり、それから回復されるまでの概要でありますが、中嶋與一講師が面会をして色々指導なさった状態につきましては、中嶋講師の『光明生活の手引』(日本教文社刊)という本の中にくわしく記されております。

 

終戦時の使命

 さてこのような状態で昭和二十年八月十五日ボツダム宣言受諾が行われたのでありますが、そのとき、有名なハ・一五事件というのが起りました。それは一部の青年将校達が聖断をひるがえしてあくまでも戦をつづけようと暴動を起し、近衛師団長森赳氏を射殺し、そして、クーデターを決行しようとした事件であります。若しこれが本常に成功しておれば、天皇陛下の御身辺も危殆に瀕し、日本の國も滅亡に近づいたかもわかりませんが、そのとき田中大将は先ず近衛第一聯隊営庭にのりこみ、渡邊聯隊長に對し「君のうけた師団命令は師団參謀のつくった偽命令である。森師団長はすでに殺害された。今後はこの田中が近衛師団の指揮をとるから、部隊をすみやかに解散させよ」といって、二千余名の兵をただちに解散させられたのであります。若しこのようなことが田中大将によって行われなかったならば、近衛師団は暴徒と化し、日本終戦の大偉業は達成されなかったのであると考えられます。其他の暴徒の青年将校に對しても、田中大将はただ人格の力、信念の力によって話しをすすめ、遂に暴動を鎮圧し、玉音放逸は無事十五日の正午に行われたのでありました。この報告を受けられました天皇陛下は、非常におよろこびになりまして「今朝の軍司令官の処置はまことに適切であった」と感謝の言葉を申され、色々の有難い御言葉を田中大将に与え給うたのであります。

 

使命

こうして無事戦は終わりましたが、それから約二十数日たって、大将は或る日机上を整理し、その上に恩賜の軍刀、白手袋、明治天皇の御像、恩賜の煙草、観音経、及び『甘露の法雨』を置かれたのであります。そして安楽椅子を机から一間位はなして、そこに浅く腰をかけられ、自分のうしろにクッションを置き、心臓部に拳銃をあてがわれました。何故一間ほど机から椅子をずらせたかと申しますと、自決したときに自分がうしろに倒れると同時に、脚が上にハネ上り、机をはねとばし、机の上の大切なものが散乱するというような見苦しい事のないようにという思慮の下に、脚の長さだけ椅子を机から誰されたのであります。そして副官を節かに呼ばれました。副官が丁度部屋の扉を開いて入って来られたときに「よろしくたのむぞ」との一言を残して、ピストルを心臓の真中に見事にうち込んだのでした。かけよった副官は、大将をだきおこし「閣下、お見事でございました」と申しました。大将の自決はすでに計画されていた通りを冷静に実行されただけであって、副官も息子さんも、操夫人さえも事の起ることをみな知っておられたのであります。しかしいつそれを決行されるかという事は、最後まで田中大将一人の胸の中にありました。大将は発射後ただちに意識不明におちいられまして、脈拍が完全に停止したのは五分後でありました。非常にらくな往生でありまして、大将の身体は白い麻布であらかじめ血どめの下ごしらえがしてありましたので、全く清らかな遺骸でありました。急をきいてかけつけた杉山元帥なども、その見事な自決を讃嘆なさいまして、その後つづいてこの方も自決をなさったのでありました。

 このようにして、一人の人間が『生命の實相』によって、一度はうしなわれていた生命を回復し、しかもその復活した生命によって偉大なる使令をなしとげ、途に自ら霊界へ旅立って行かれたということは、ただ単に一人の人間が御敦えによって救われたというだけではなく、その一人の生命が何干萬の人々の生命、國の生命をすくったという事になるのであって、それは偉大な仕事であったと言わなければなりません。かくの如く人間の生命は決して自分一人のいのちではない。大きくひろく世界にひろがり、凡ての人々と直結している生命であるという事を自覚して、吾々はそのいのちをもっともよい姿で、紳揉の御意にかなうやり方で発現しなければならないということを強く感ずるのであります。そして一人の人間のいのちを救うことも、このように大きな仕事をなしとげうるのでありますから、二人三人……いやさらに何千萬という人々の心の中にこの永遠不滅の真理をよみがえらせることが出来ましたならば、全世界の精紳を革命し、地上天国を建設するという一大偉業も、やすやすとなしとげられると硬く信ずるのであります。時代はまさに、正しい萬人救いの原理を求めています。いまこそ、正しい宗教がもっとも普遍的な姿で、凡ての人々の胸の中によみがえらなければならない時であります。新しい栄光の世が、今やおとずれようとしているのであります。

 

 

 

最後にこの文章は補記させていただきます。天皇陛下からの御言葉を記入しております。

田中靜壱大将は815日夕方、陛下は田中大将を宮中に呼び「今朝の軍司令官の処置は真に適切で深く感謝する」と宣られた。さらに「今日の時局は真に重大でいろいろの事件が起こることは覚悟している。非常の困難であることは知っている。しかし、かくせねばならぬのである。田中このうえともしっかりやってくれ」と頼み込んでいます。『昭和天皇発言記録集成』芙蓉書房

 

しかし、ク-デタの一部指揮官に対して「潔く我々は敗れよう。そして責任をとろう。おまえ達のみが責任をとるのではない。軍司令官も立派に責任をとる覚悟を決めている。散り際だけは軍人らしく散れ、これが日本陸軍最後の姿だ」と説いたと伝えられる。『世紀の自決』

 

824

 

御聖断後、軍ハヨク統制ヲ保持ス、一路大御心二副イ奉リアルヲ認メ深ク感謝仕リ候。茲二私ハ方面軍ノ任務ノ大半ヲ終リタル機会二於イテ将兵一同二代リ閣下二オ詫ビ申上ゲ、皇恩ノ万分ノ一二報ズベク候。

閣下並ビニ将兵各位ハ厳二自重慈愛断テ軽挙ヲ慎マレ以テ皇国ノ復興二邁進セラレンコトヲ。皇恩ノ忝ナキニ吾ハイクナリ

 

八月二十四日

                     田中軍司令官

各軍司令閣下

直轄部隊長殿

ある投稿で惟ふ。これが現在の生長の家信徒か―②

安倍首相の改憲案よりも、優れた改憲案があると思います (5451)

日時:20180922 () 1751

名前:tapir

自民党員様

 

憲法改正についてですが、私は安倍首相の案よりも、また九条に手を付けないで護るよりも、もっと日本の平和を守れる方向の改正案があると思っています。

 

私は、憲法9条の改正について、現在見聞きしている範囲では、以下の考え方を支持しています。

 

(以下引用)

「立憲的改憲」九条論

 

 「立憲的改憲」における九条論は、「自衛隊の明記」ではなく、「自衛権の統制」をその本質としています。

 具体的には、自衛隊の範囲を個別的自衛権に明文で制限し、その範囲において「戦力」であり、「交戦権」の主体であることを認める。それにより、二項との矛盾を解消し、立憲主義と平和主義を貫徹しようとするものです。(引用終り)

 

 (小林よしのり、井上達夫、山尾志桜里、駒村圭吾、曽我部真裕 著 (2018)「ゴー宣〈憲法〉道場 Ⅰ 白帯」p19 毎日新聞出版)

 

 憲法の条文に「自衛隊を明記する」のではなく、既存の「自衛権を統制する」という、現実に即した考え方です。

 

 統制する範囲は、武力行使の「旧三要件」の範囲です。

 

(以下引用)

 

(旧三要件)

 

・我が国に対する急迫不正の侵害がある

・これを排除するために他の適当な手段がないこと

・必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと(引用終り)

 

(小林よしのり、井上達夫、山尾志桜里、駒村圭吾、曽我部真裕 著 (2018)「ゴー宣〈憲法〉道場 Ⅰ 白帯」p20 毎日新聞出版)

 

安倍首相の改憲案のように、今のアメリカ依存型の日本国の武力行使のあり方をそのままにして、自衛隊を憲法に明記したら、どうなるでしょうか。

 

イラク戦争の時に、アメリカが「戦争する」といったら、無条件で「show the flag」旗幟を鮮明にする=アメリカ支持を表明して来た日本は、今後「○○国と戦争する」とアメリカが宣言した時に、アメリカのいいなりに、日本の防衛と全く関係のない国との、大義も感じられない戦争に自衛隊を派遣することになりかねません。

 

「『立憲的改憲』九条論」の考え方で改正したときは、どうなるでしょうか。

 

「自衛権の統制」を憲法に明記することと日米地位協定の正常化によって、「日本が戦争したくない」、自国が侵略を受けていないし、大義も感じられない戦争に参戦しないことを、表明できる道筋を開きます。

 

(「我が国に対する急迫不正の侵害がある」場合の「武力の行使」を妨げるものでないことは言うまでもありません。)

 

分かりやすく言えば、自国が侵略を受けた時は祖国防衛のために立ち上がり、必要最小限の実力行使を行う、しかし、自国が侵略を受けていないし大義も感じられない他国の戦争には、参戦しないことを決定できる主体性を持った日本になる、日本の「自主独立」を目的とする改憲です。

 

谷口雅春先生の御悲願は、「憲法改正」を通して、「日本の自主独立」を得ることだったのではないでしょうか。「憲法改正」は重要ではありますが、自主独立の「手段」です。

 

従って、日本の自主独立など必要ない、アメリカ従属体制を強化する結果になっても、憲法の文言を少しでも変えることができればそれでよいという、安倍首相の案に対しては、谷口雅春先生が御存命であれば、断固反対されたことと思います。

 

谷口雅春先生の御悲願を真の意味で達成するには、日本の自主独立、アメリカとの同盟関係を今のように不平等なものではなく対等の友人としての同盟にすることが必要であるとも考えます。

 

その方向に向けての憲法改正を微力ながら、一国民として真剣に考えて参りたいと思います。

 

このような考え方が支流になっているのかどうかは知る由もないが、なんとも人任せな言葉と小林よしのり、井上達夫、山尾志桜里、駒村圭吾、曽我部真裕という左翼の言葉をそのまま信用する恐ろしさ。

自分で八重山諸島等に行って、日本の軍事はどうなっているのか少しでも現実を考えれば、こんな非常識な言葉は出ない。

それではどこが非常識なのか。

①日本の自主独立とはいうが、何を根拠に自主独立というのかである。

現在、東シナ海では日本の領土を中国が領土を奪おうと虎視眈々と窺っている。防衛白書を読めばどれほどの危機かは分かります。

自主独立というのは、軍事を持ちあらゆる事に対等にならなければならない。軍事で脅かされれば、それに対抗処置を取るのが国際的な考えです。それをすぐに戦争と結び付ける馬鹿な連中がいますが、軍事がある程度保持出来れば、そう簡単には手出しはしません。

そういう国際的にどうなのかを考える必要があります。

従って、日本の自主独立など必要ない、アメリカ従属体制を強化する結果になっても、憲法の文言を少しでも変えることができればそれでよいという、安倍首相の案に対しては、谷口雅春先生が御存命であれば、断固反対されたことと思います。

 

おいおいもう少し雅春先生の御本を読んで欲しい。明治憲法復元改正ということから、少しずつ一歩前進させる。それには現実対応を行わなければ、いつまでたっても憲法改正すら出来ません。

貴方が雅春先生が断固反対ということを正面切っていえるかどうかでしょう。それなら、時期的に何時ならできるのですか?

そんなことすら答えられないで、雅春先生は断固反対するなんて言わないでほしい。雅春先生は現実的な考えを望んでおられました。本など読むと、現実的な対応などを考えていたことがわかります。

 たとえば、北方領土をお金にて解決出来ないかとか発表されたこともありました。「やまと新聞」の月曜随想を讀むとそれを感じます。

 

 また、簡単に「自主独立」というが、その自主独立とは何かを考えたことがあるのか。

 戦前から戦中、そして戦後、その中に近衛文麿という首相がいたことを御存知であろうが、あの時期に對露政策というのは欠かせないことであった。ロシアのスパイがアメリカや日本などに潜入していた。有名な「ゾルゲ事件」がそうである。近衛文麿の政策メンバとなり、その情報をソ連に流していた。

「我々のグループの目的・任務は、狭義には世界共産主義革命遂行上の最も重要な支柱であるソ連を日本帝国主義から守ること」尋問調書より

 

だが、実質は日本の共産化であり、ソ連の属国化であったことは知られている。

 アメリカによる対日政策での「二度と日本を起ちあがれない国にする」そうした米国とソ連の巨大国家に挟まれ、戦後というアメリカの国にいつまでもオンブと抱っこでは行けない。

 

 自主独立とは「戦争をしない国」ではなく、いつでも対外的に脅威に持たれる国でなければならない。その場合は戦争という事態もありえます。

 侵略されたら降参するのですか?逃げるのですか?

 

 真剣に考えるならば、戦争ということを現実に考えなければなりません。反対では「人々を守る」ことも出来ません。

 沖縄に中国海軍が武力を持って実際来たらどうしますか?

 

そういうことを考えるのが自主独立なのです。また他国で日本人が駐留しているならば、助けにいかなければいけません。対米依存を止めるにはまずは憲法改正しなければならないことは、本を読めばわかることです。

但し、左翼的な本だけは読まないでください。

ある投稿で惟ふ。これが現在の生長の家信徒か

日時:20180921 () 1333

名前:自民党員

安倍三選となり我が国はいよいよ未曽有の危機を

迎えることになりました。

TPPを推し進め外国移民を受け入れるサヨク政権安倍内閣。

天皇陛下がみずからの御地位をなげうって阻止された

憲法の改正を、安倍内閣はやるそうだ。

 

消費税増税と緊縮財政もどんどんやるそうだ。

 

もはや我々は住吉大神にお出まし頂くしかない。

 

こういう投稿には長い間反論も意見もしなかった。この自民党員と書いているのは、たぶんあの人であろう。

 

この文章は思い込み投稿といって、裏取りやその確証をしないで、好き勝手に書いている。つまり、自分は間違っていても、既に自分が間違っているということをわからないでいる。だから、このような人に反論などしても、耳を貸さないであろう。少しは利口であるなら、こんなこと可笑しいと思って書かない。

 

さて、何が間違っているのか

① 安倍三選となり我が国はいよいよ未曽有の危機を

迎えることになりました。

 

安倍三選がどうして我国に未曾有の危機を迎えるのかを書いていない。だから単なる思い込みである。

 

それよりも私は国際的な朝鮮半島の非核化なんてありえない。それを判断する材料は北朝鮮とアメリカとの会議でもよく聞いて見れば「非核化」などとは北朝鮮の金正恩最高指導者は発言していない。

またトランプ大統領は核について「急ぐことは無い」と政権保証のような言葉を云っている。

これは北朝鮮を当分攻撃しないと発言していることと同じである。

 北朝鮮と韓国の融和政策が引き起こす、東アジアの不安定要素をその要素が増大するであろう。それは何かというと、親北路線の文在寅(ムン・ジョンソク)政権は親北派を政権の事務室に置いた。そこで反対に韓国が北朝鮮化になるのも現実化してきたともいえる。また、中国による北朝鮮の揺さぶりなど様々な不安定要素があるのは事実である。

そうした国際的に未曾有の危機だと云えば頷ける。

 

TPPを推し進め外国移民を受け入れるサヨク政権安倍内閣。

 

たしかにメリットやデメリットもあり難しい問題を含んでいる。だが、現在の弱電では殆どは海外製品である。また車部品も韓国や中国に委ねている部分がある。農産品だけを保護政策をとるのも日本が生きていく道で考えなければならない。確かに肉などはス-パ-では安価で販売されている。それでも、日本の精肉は売れていないということはない。反対に日本生産のものが先に売れているのも事実である。

 

 ただ、安倍首相は「移民を受け入れない」と発言している。ただ、海外の労働者の受け入れ検討はしている。

海外からは身勝手な国と云われているのも理解している。だが、3Kといわれる職業には若い世代は就業したくないという拒絶反応が大きい。そこをどう解釈するのかを考えて書くのがいい。

 

天皇陛下がみずからの御地位をなげうって阻止された

憲法の改正を、安倍内閣はやるそうだ。

 

天皇陛下がみずからの地位をなげうって阻止された。と記入しているが、なんの事か不明である。多分、間違って解釋しているのであろう。本当に地位をなげうったという書き方も酷いものである。本当に左翼が書く内容である。

天皇陛下の御退位は御年齢によることを陛下自らご発言されておられます。

1989年に即位した天皇陛下は、狭心症のための冠動脈バイパス手術や前立腺がんの手術を受けている。昨年8月には「天皇もまた高齢となった場合どのようなあり方が好ましいか」を長年考えてきたと語り、天皇が高齢となった場合に国民の象徴としての公務を滞りなく遂行するにはどうするのが良いか、国民の理解を得たいと求める、異例のビデオメッセージが公表された。

それでもなげうったとウソを書くのか。

陛下のお気持ちなど無視してこういう嘘を垂れ流しするのは怒りを覚える。

 

消費税増税と緊縮財政もどんどんやるそうだ。

 

消費税の増税は民主党政権で国民に発表した内容である。そのときに三党合意という形で約束している。

また、TPPも民主党(当時)の菅首相が交渉をスタ-トをさせたのも事実であります。国際的な約束をそう簡単に破棄出来ない。(アメリカは世界の信用を失っていることも事実です)

また、緊縮財政処置を取るのは政策的には有効の場合があるので、悪くはない。

 

安倍首相は今回の三選において「憲法改正」を唱えた。憲法改正は谷口雅春先生の御祈願である。それを無視した書き方はおかしい。現在の生長の家教団は「住吉大神」を封印している。その証左として「お神礼」を販売していない。何故、そういうことをしているのか、この「住吉大神」隠しである。それを御出仰する意味では賛成である。

 

 こういう自民党党員と名乗りながらどうして安倍政権を反対するのか、現在のマスコミに踊らされ、その発言に一喜一憂し、反安倍を唱えているのも、マスコミの影響であろう。もう少し勉強してから書けばいいのに、勢いだけで書くから、無茶苦茶な文章となる。
これが左翼化した生長の家信徒である。

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