則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2018年08月

讀んで戴ければ幸甚です。

しばらくお待ち下さい。

入谷様

 

お写真の本の内容が

とても素晴らしいですね。

全文掲載して頂けませんでしょうか。

 

いつも読んで頂き感謝申し上げます。

今回の内容については全文を掲載させていただきます。少し時間がかかると思いますが、気長にお待ち下さい。

ある方の件についても是非、回答させていただきます。また、「神武天皇聖蹟顕彰碑」も残り7か所(全部は16か所未掲です)も順を追って掲載致します。

『宗教時報』


生長の家は宗教共通の眞理に燈を點ける宗教であって、別派を立てるのではない。今迄に眠っているところの宗教を、目を覺さして、それに命を吹きこむのが生長の家である。だから「敎」と云わずに「家」と云った。

今迄の宗旨をやめてこゝはいらない。祖先の信仰して居ったところの宗教を、それをやめてしまうということは祖先に對して申し訳ないことである。それは恩に背くということになる。ですから祖先の信じて居ったところの宗教を本當に生かして、その光を一層輝かすようにするのが恩に報いる道である。生長の家は何も他宗を浸蝕していつも自分が大きくなろうとするのではないのであります。

 だから自ら七つの燈臺の點燈者といっている。我々は燈をつけて行くのである。そうして各自のうちに宿っているところの生命の本當の光を出すことにしたならば、總ての人間は皆幸福になれるんである。人に出遭って喧嘩でもしようかという時は、屹度むしゃくしゃしている時です。心の中に何となく面白くない時に荒々しい言葉になって、なぐりたくなったりするようになる。心の中が本當に樂しかったら、なぐり合いも喧嘩も怒らない。だから世界の平和というものはどこから成就するかというと、結局總ての人間が自分自身を神の生命である、佛の生命であるということがわかれば、戰爭をしようというような馬鹿らしいことも起らない。互に拝み合いになる。

 

 すべての人間の生命の中に、佛の命、無礙光如来の生命が、燦々と輝いているんだぞということが、心の底に深く自覺出来た時に、ほのぼのとした平和の光が差し昇って來る。そこに明るい微笑が、明るいほめ言葉が人類互いに交わされて來るようになれば無礙光燦々として此處に極楽浄土が現われ、世界に本

當に平和の世界が實現するということになるのであります。

『宗教時報』における雅春先生の御文章 

昭和272月 第48號 「無礙光燦々」2頁~10

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ある方からお手紙を戴きました、その中にこの雑誌『宗教時報』がありました、調べてみると、どうやら谷口雅春先生の御寄稿をされているようである。

それが上図の『宗教時報』です。最後の文章を引用させていただきました。
昭和26年11月22日神田共立講堂においての御講習会の講話の一部です。

送付していただきました、A様に深く感謝申し上げます。


大阪市北区信保町

滝川小学校

元和元年(1615年)の大坂夏の陣があり豊臣家は滅亡しました。

元和三年に、大坂城主となった松平忠明が建立しました。

元和二年には徳川家康が亡くなり、徳川家ゆかりの各地に東照宮を建てていました。

特に、大坂で豊臣氏への思慕の念を払拭させる狙いで重要でした。

江戸後期には大塩平八郎の乱がおこり、焼失しましたが復興されたり、

戊辰戦争の時は長州藩の本営となったり、徳川幕府に関連の深い施設でした。

なお、明治六年に廃絶となり、現在は大阪市立滝川小学校となっています。

神輿と石灯籠は大阪天満宮境内に現存しています。IMG_0338
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谷口雅春先生の小学校二年生の頃に大阪市北区信保町に引っ越しされています。そこで住まわれた期間は短いですが、滝川尋常小学校に通われています。

 

大阪市北区信保町に移転(現在の北区天満)

二学期以降・私立滝川尋常小学校へ転校(現在の滝川小学校・天満一丁目)(造幣局の隣)

 

その信保町とはどのあたりかといいますと
天満
ダブルクリックで拡大をお願い致します。
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電信柱に信保という地名が残っています。

 

川端康成生誕地とは直ぐ近くにあります。天満宮の南隣です。

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川端康成生誕地

 

孔舎衙

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私の父は明治生まれである。私自身は厳しく、躾されたような思い出はない。だが
長男などは厳しかったと云っていた。

 ただ、明治から大正そして昭和、平成と生きてきたなかで、何かが違うのである。それは言葉でいうのは簡単なのかも知れない。だが、どんなに優しい言葉で諭しても、決定的な違いがあるのです。

 

 それは、ズボッと注入されている「日本精神」というのが違いとしてあるのです。私などは「戦後教育」の渦中で「日本は悪い事を行った」という精神がどこかに残っているのです。どんなに拭い去ろうとも、心の隅に残っているのであります。

 

 「生長の家」で日本の良さや天皇陛下の素晴らしさを勉強してきました、それでもまだまだ勉強したらないものがある。

 

安岡正篤という人物は生長の家の信徒ならば御存知であろう。

例えば

【道徳と宗教ー敬と恥】

  人の人たる所以は、「道徳」を持っていることである。それは「敬」する心と「恥」ずる心に現れる。

  敬する心は、人が限りなく発達を望み、未完成なものに満足せず、より完全で偉大なものに憧れるところから

  生まれてくる。そして、敬する心が生まれると、必ず恥ずる心が生まれてくる。

 

  敬する心と、恥ずる心は相待関係のものである。

  しかし、今日の教育はその大切な敬する心を省みなくなっている。

  それは、戦後西洋教育が「愛する」ということのみを重んじる教育であった、ということが一番の原因である。

  愛というものは、女性―母の特性であります。愛のみを強調した結果、大事なのは母だけと言うことになり

  男性―父の存在価値が次第に薄れて行ったのです。

 

  家庭において、子供は本能的に母親に「愛」を、父親に「敬」を求める。人間は敬する気持ちを持つと、

  自らその敬するものに少しでも近づこうとする気持ちが起こってくる。

  愛とは別の憧憬を、その敬の対象に持つようになる。

  これを「参」―さんずる、まいると言う。これが更に進むと、側近く仕えたくなる。

 

  「侍」-はべるとか「候」-さぶらうとなる。

  日本語の「参った」というのは、単に好きとか、愛するというのと意味が違う。

  相手を敬の対象として、己の理想像として礼讃するのです。

 

  この「敬」の心が主体となり、一連の精神が発達し、作り上げたのが宗教です。人間は敬することを知ると、

  自ら恥ずることを知るようになります。

  そこから、つつしむ、いましめる、おそれる、修める、という心理が発達する。

 

  これが宗教に対する道徳の本義です。従って、道徳の中に宗教があり、宗教の中に道徳がある。

  仰ぐー敬する。省みるー恥ずる。この相対性心理が人間の根本的な「徳」である。

 

この安岡正篤氏は東大阪という所で生れておられます。

東大阪の孔舎衙(くさか)という場所で生れられておられます。孔舎衙といえば古事記を勉強されている人は知っておられると思います。
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「古事記」にある「草香山」と「饒速日山」(にぎはやひやま)を考えてみます。

 

まず、日下と書いてなぜ「クサカ」と読むのかということですが、その語源にはいろいろな説があります。

 

その中で、古くは「日の下(した・もと)のクサカ」という言い方があり、クサカの地が、山越え道を通じて大和の入口にあたる重要な地として一早く開かれ、この地クサカの背後に連なる生駒山から上る太陽つまり日下(ひのした)を「くさか」と訓むようになったという説が有力です。

 

 古代の文献、『古事記』や『日本書紀』の神武天皇東征の物語に、皇軍が日向から筑紫~吉備を経て大阪湾のさらに奥、生駒山のふもと日下の入江にあった「河内国草香邑青雲白肩之津」に上陸したことが書かれていて、大和への入口の地として初めて日下の地が登場します。

 

 皇軍は、大和へ入るため、一度は南下して龍田に出ようとしましたが難行して再び引き返し、直ちに東へ向か

って、膽駒山(生駒山)を越えようとしましたが、これを知った長髄彦(ながすねひこ)は、孔舎衛坂(くさえざか)で激しく防戦したため、皇軍は戦利なく後退し、兄の五瀬命(いつせのみこと)も負傷された。

 

これは、東方の日(太陽)に向かって進んだための不吉である、として草香津へ引返し、盾を立て並べて雄叫びしたので、この津を「盾津」と改めた、という話はよく知られています。

 

 この地域は少し高低差があり日下という場所は少しだけですが山なりになっているのです。その証拠として一番盛り上がっている土地の部分に日下遺跡(日下貝塚)があります。ここで、多量の貝塚や人骨や馬の遺骨なども出土しています。

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 昔からの精神というのか、その土地の風土というのか身土不二というべきなのか、そういう場所で生誕すると「安岡正篤」氏のような日本精神がどっしりと根付いたものが注入されるのです。

 

 ただ、そのときに必要なものは勉学することなんです。何もしなければ何も残らないし、反対に悪く考える場合がある。

歴史は精神の縦の糸で結ばれている。

後鳥羽上皇が病気になった際に、弘川寺の空寂上人が祈祷したところ、病気が治ったので後鳥羽上皇は来山し、「山深みこのはの下の隠し水なかれの末は滝つ瀬の音」の歌を残しています。

 

西行は空寂上人を慕って訪れ、ここを終の棲家(ついのすみか)にしたのです。境内に西行塚が残されています。

 

江戸時代、その西行を慕って「今西行」と呼ばれていた歌僧・似雲(16731753)が弘川寺を訪れ、西行塚を発見しているのです。

その似雲法師はこの弘川寺に仕える形で西行の横に葬られています。

 

また、松尾芭蕉はその西行に憧れて、奥の細道では同じ道をたどっている。西行は1118年~1190年、芭蕉は1644年~1694年、約500年の歴史の流れが西行の憧れとして生まれた。

 

歴史というのはそういう精神の縦の糸で結ばれている。

「神武天皇鳥見山中霊畤聖蹟顕彰碑」-③

「神武天皇鳥見山中霊畤聖蹟顕彰碑」-③

 

鳥見山中霊畤(とみのやまのなかのまつりのには)顕彰碑

霊畤と書いて「まつりのには」と呼ぶ、ここは以前にこの碑の山頂へ登りましたときにこのブログでも発表致しました。
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昨年の2月19日に行った時に撮影したものです。



外山(とび)のホームペ-ジから抜粋致します。

 

先ずはじめに、霊畤(れいじ)とは、「まつりのにわ」という意味です。そして、大嘗祭とは、新天皇が即位後最初に行われる新嘗祭の事です。それを行う場所を、霊畤と言います。

 大嘗祭、新嘗祭共、今年の新穀・新酒をもって先祖の神々をお祀りするという意味においては同じですが、大嘗祭は、皇位継承と重大な意義を持っていて、大嘗祭が行われて始めて皇位継承の名実共に備わるといわれ、御一代御一度の極めて重大な式典であります。

 初代天皇の神武天皇が国家平定の基盤を造られ、橿原市に於いて初代天皇として即位された折、大嘗祭が桜井市で行われました。すなわち、大嘗祭が日本で最初に行われた場所が鳥見山とみやま山中の鳥見の霊畤とみのれいじなのです。

これは、一般的な普通の歴史上の遺跡などとは一寸違っていて、国家形成の意義からも実に重大な発祥の史跡であるといわれています。今から50年位前、橿原市で紀元2600年祭が行われた際、我が町の鳥見山が、霊畤伝承地としての国家の認証を受けています。

 保田與重郎氏は、「鳥見山がこの聖蹟に指定せられたのは、中古以来も山中の数々の祭祀遺蹟の証があったのである。大和平野の中での独立の山としては、大和三山と鳥見山の他にはない。天つ神を祭る場所は独立の山といふ習俗例はあった」と記されています。
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今回(8/12)の撮影ではレンズが曇っていて、はっきりと写っていませんでした。

千島学説と生長の家

千島学説というのを御存知ですか?
そういう私も名前は聞いた憶えがあるような状態で、詳細は知りません。それがある書物により詳細に知ることが出来たのであります。それは『ガンの精神的治癒』という千島喜久男先生の著である、ここに「谷口病理論と千島細菌自然発生論」として谷口雅春先生の御言葉が引用されているのです。年代と何月號もわからず、『白鳩』誌の「女性のための智慧毎日の箴言」のなかに千島先生の論文が掲載されている。何年の何月号かを御存知の人がおられましたら教えて下さい。
 
これは元々、『精神科学』の昭和394月號に池見酉次郎博士の検診を受けた結果「ガンが治った」という論文にその当の先生が反論するという。そこで昭和398月号で雅春先生は「癌は本来存在しない,あるのは症候群に過ぎない」という題にて病気本来無しの見地から文章を発表されたのです。(『心と癌』谷口雅春先生著作の64頁を参照)また『精神科学』昭和4012月号では「ガンの精神的治癒() 」 千島喜久男先生が発表されているのです。翌年の1月号では「ガンの精神的治癒() 」を引き続き発表された。
 
今の「生長の家」教団ではそうした癌が治るというのも云いづらい雰囲気がある。それを学問的に裏付されたのが千島先生である。この千島先生の言葉に
 
【谷口総裁は“ガンに対する恐怖心を去ることがガン征服の第一歩である”と言われているが、全くその通りである。恐怖心は無知や信念のないことの別名である。生命について正しい知恵と正しい信仰をもつものがガンに対する無用の恐怖心を去るために根本的な必要条件である。谷口雅春総裁は“癌のような塊りが肉体にあらわれるのは、必ず「心」に塊がある。自分の心の中の抑圧感情が蓄積され症状となって具象化するものである”と洞察されている。私はこれに全幅の賛意を表したい。】
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『人類の偉大なる成長を希うて』

谷口雅春先生御寄稿

 

『新時代』大正15年3月号

 

『人類の偉大なる成長を希うて』

 

偉大なる進歩を遂げようと思う者は、偉大なる心を有(も)たなければならない。心狭き者は偉大なる進歩を遂げる事は出来ない。彼は心を広くゆたかに有たねばならない。彼は神の如き心を有たねばならない。彼は太陽の如くあらゆるものにおおらかな心をもって光を投げかけねばならない。

 

 

 

  太陽の心に呪詛はない。太陽は光を受取るものにも、光を受取らない者にも無差別に照らすのである。……呪詛は呪詛を招き、祝福は祝福を呼ぶ。吾等は万人を祝福しなければならない。……

 

  人は丑の刻詣りをして他の人の運命を傷けようと思うようなことは滅多にないであろう。

 

 また神社の杉に呪い釘を打つことも滅多にないであろう。しかし眼に見えない呪いの釘が其の人の腦髄から放射して誰かの心臓を一つすら突き刺していない人は殆んど無いであろう。

 

 呪詛の最も陥りやすき形式は、『ケチをつける』心である。『ケチをつける心』あるものは大いなる運命から祝福されない……

 

当時の宗教は暗い思想があった怨念思想の中から出てきたものは「暗い」「陰気」なものであった。神社の杉に釘を打つのは貴船神社に逸話がある。今も尚、釘を打つ人がいる。

 橋姫ではないが、貴船で呪詛をして呪い続ける思想は当時の天理教でも違う形であった。

明るい面とそうした暗い面との二面で対峙している思想を全くの改革である新思想として光明一面の世界として捉えたのは生長の家谷口雅春先生だけであった。


言向和平=ことむけやはす

爾天皇、亦頻詔倭建命「言向和平東方十二道之荒夫琉神・及摩都樓波奴人等。」而、副吉備臣等之・名御友耳建日子而遣之時、給比比羅木之八尋矛。比比羅三字以音。故受命罷行之時、參入伊勢大御神宮、拜神朝廷、白其姨倭比賣命者「天皇既所以思吾死乎、何遣西方之惡人等而返參上來之間、未經幾時、不賜軍衆、今更平遣東方十二道之惡人等。因此思惟、猶所思看吾既死焉。」患泣罷時、倭比賣命賜草那藝劒那藝二字以音、亦賜御而詔「若有急事、解茲口。」

故、到尾張國、入坐尾張國造之・美夜受比賣之家。乃雖思將婚、亦思還上之時將婚、期定而幸于東國、言向和平山河荒神及不伏人等。

ここに出典せる「悉言向和平山河荒神及不伏人等」が【言向和平(ことむけやわす)】古事記 中-4 景行天皇

 

「悉言向和平山河荒神及不伏人等」訓読すると

「やまかはの あらぶるかみ および まつろはぬ ひとらを ことごとく ことむけやはす。」言霊和平とも書くようです。

 

意味としては、「ことごとく山河の荒ぶる神、及び伏さない人たちを和平の言葉を向ける。」

 敵も武力でなく“言葉で悪をも抱き参らせる。”=愛で全てを包み込むことで、調和を図ることです。

 

景行天皇はその皇子「日本武尊」で有名です。私も愛知県や三重県までその「日本武尊」の痕跡を辿って参拝や資料などを調べました。

 

また、景行天皇に関しては何度も御陵参拝を実施させていただきました。勿論、陪冢についても何度か行っていますので、その陵墓の形式は頭に叩き込まれています。

 

さて上記のなかで下記の文章は日本武尊と倭比賣命との文章が印象的です。

 

亦頻詔倭建命「言向和平東方十二道之荒夫琉神・及摩都樓波奴人等。」而、副吉備臣等之・名御友耳建日子而遣之時、給比比羅木之八尋矛。(比比羅三字以音)。故受命罷行之時、參入伊勢大御神宮、拜神朝廷、白其姨倭比賣命者「天皇既所以思吾死乎、何遣西方之惡人等而返參上來之間、未經幾時、不賜軍衆、今更平遣東方十二道之惡人等。因此思惟、猶所思看吾既死焉。」患泣罷時、倭比賣命賜草那藝劒(那藝二字以音)、亦賜御而詔「若有急事、解茲口。」

 

「ヤマトタケル」が西の国を平定するといった

「景行天皇」の命令を果たし都に帰ると

「景行天皇」は「ヤマトタケル」に次の命令を言い渡しました。

 

景行天皇「よくぞ西の国を平定してくれた。」

今度は東の国だ。

東の国にも荒々しい神々が多く

これらを平定してきてくれ」

 

そう言うと吉備の民の祖先であります

「ミスキトモ(御友耳建日子みすきともみみたけひこ)」

をお供に付け東の国へ派遣しました。

 

その時に「比比羅木之八尋矛(ひいらぎのやひろぼこ)」

という矛をお授けになりました。

 

「景行天皇」の命令を受け

「ヤマトタケル」は早速東国へと出掛けることになりましたが

まずは伊勢神宮へお参りに行き

おばで伊勢の大神様にお仕えしている「ヤマトヒメ」を訪ね

次のように言いました。

 

ヤマトタケル「『景行天皇』父上は、

私が早く死ねばいい…とでも思っているのでしょうか?

西へ遣わせ荒々しく強く悪い神々を退治させたかと思いきや

帰ってきてまだ間もないのに

今度は東の国の悪者たちを退治してこい!と

兵隊もほとんどくださらずに

東の国にも沢山居る荒ぶる神々を退治してこいなんて

考えれば考えるほどに

父上は私が死ねばいいと思っているとしか思えません」

 

「ヤマトタケル」は泣きながらそう訴えると

「ヤマトヒメ」は「ヤマトタケル」に「草薙(くさなぎ)剣」と

小袋を授けて言いました。

 

ヤマトヒメ「もし危険な目に遭いどうにもならないときがあったなら

この袋の口をほどきなさい」

 

「ヤマトタケル」は伊勢の地より東の国へと出発しました。

 

ここからはいよいよ「青垣山」の話となるわけです。

さて、上記の平定というコトバで訳されているのですが、それが「言向和平」なんです。それは何をもって「平定」とするかというと「言向」なのです。武力とかではなく、あくまで「調和」をもって事を為す。その言葉には

 

古事記上の巻にある下記の言葉である。

かれ 建御雷の神返りまゐ上りて、葦原の中つ國を言向(ことむ)け平(やは)しし状をまをしき。

 

古事記の全体を通じて「言向」というコトバが見出されます。

『生命の實相』書店版について

立葵様

 

ご返事が遅れました、先日の『白鳩』誌の創刊号の件です。

 

合掌

 以下の文言は、周知のことで的外れかもしれません。無知と浅薄さを暴露するだけで笑はれるかもしれませんが、怖々と申し上げます。

422日付のブログ御本文を引用させていただきます。

 

ここで確認しておかなければならない事があります。それは『生命の實相』の書店版という言葉が有るか否かであります。この昭和10年代は『生命の實相』が書店版で販売されていなかった時代です。

 

 本当に今さら申すまでもないことなのかもしれませんが、昭和1137日発行の『白鳩』誌創刊号の復刻版の「表2」(おもて表紙の裏面)に、当時の各種各版の『生命の實相』の広告の左下に「書店版」11冊の紹介がありました。

 

これが、書店版といふ言葉があったかどうかとの問題御提起と関連してゐるのかわかりません。勘違ひでしたら、一笑に付して御放念下さい。

再拝

 

 

確認させていただきましたところ、おもて表紙の裏面にちゃんと記載されておりました。

私も全く見ておりませんでした。ありがとうございます。
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『智慧の言葉』がこれだけでは、確かに谷口雅春著作集かどうかまではわかりませんが、『生命の實相』の書店版として出版されたことは間違いありません。


その表示があるのが朝日新聞東京版朝刊昭和10年3月31日において『生命の實相』書店版という名称がでてきます。昭和10年代では既に書店版は発行されております。
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何故、書店版が発行されたかというと、下図の昭和10年2月9日号朝日新聞に掲載されております、
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拡大して見て下さい。

 

尚本書(『生命の實相』)は書店になし、直接本部又は下記支部同人宛御申込下さい。という表記でもわかるように書店においてはその当時は発行されておりませんでした。

 

ただ、書店版としては『生長の家三拾年史』『生長の家五拾年史』に記載はありますが、発行する時にわかりやすいように表現したのではないかと推測できます。当時の『聖典』『雑誌』などに於いても「書店版」という記載はあります。
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「谷口雅春著作集」『生命の實相』書店版

出世前・生・死・死後の研究  生命の芸術社

 -この一篇を今井楳軒老師の古希の慶びに献ぐ- (谷口雅春著作集第一篇) 函 

9.7.01    

 

 

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生命の烈風(いのちのはやて)  生命の芸術社

(谷口雅春著作集第二篇) 函

9.9.5

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46

いのちのはやて          生命の藝術社

(谷口雅春著作集第二篇) 函

10.5.25

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生命の奔流              生命の藝術社

(谷口雅春著作集第三篇) 函

10.3.21

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新生活の出発              生命の藝術社

(谷口雅春著作集第四篇) 函

10.4.21

410

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地湧の浄土              生命の藝術社

(谷口雅春著作集第五篇) 函

10.5.21

 

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生命の神秘              生命の藝術社

(谷口雅春著作集第六篇) 函

10.5.21

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本當の敎育               生命の藝術社

(谷口雅春著作集第七篇) 函

11.6.25

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光明の思想               生命の藝術社

(谷口雅春著作集第八篇) 

10.9.21

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生命の行方          光明思想普及會

(谷口雅春著作集第九篇) 函

10.10.25

 

429

 

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生ひ立ちの記             光明思想普及會

(谷口雅春著作集第十篇) 函

10.11.25

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智慧の言葉        光明思想普及會

(谷口雅春著作集第十一篇)函

10.12.15

 

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光明の生活法        光明思想普及會

(谷口雅春著作集第十二篇)函

10.12.15

 

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光明主義           光明思想普及會

(谷口雅春著作集第十三篇)函

10.12.15

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五條市にある地名の「大塔」とは大塔宮(護良親王)後醍醐天皇の第三男

五條市のホ-ムペ-ジより抜粋

うっそうとした森林におおわれていたこの地域にも鎌倉時代にはかなりの人口が入り、前述の集落が形成されて経済活動も始まっていたようで、南北朝から室町幕府のころ、殿野で土地の売買が行なわれていたことが西教寺の蔵する古文書によってうかがわれます。

 また、鎌倉幕府における北条氏の不臣から討幕の計画を立てられた後醍醐天皇は、第三皇子である護良親王の助けによって「建武の中興」を成し遂げられましたが、護良親王は鎌倉幕府の追跡を逃れて笠置山、赤坂城等を経て、少数の従士とともに熊野に落ちられる道中、当地にしばらくの期間身を置かれたと伝わります。

 山伏姿に身をやつし苦難の末当地に到った親王は、この地方の豪族であった竹原八朗、戸野兵衛らの助けを得てここから全国に令旨を発したことで、建武中興の大業成就を叶えたとされています。

 このことから、当時この地域には竹原、戸野ら、力を持った一族がいたことがわかりますが、広い耕作地を持つ地域ならまだしも、人里を遠く離れ、道も未発達な秘境の地であった当時、すでにこうした一族が存在したことには何らかの理由があったものと想像されます。

 周辺の十津川村や野迫川村等、周辺に源平の争乱に係る落人の伝承があることから、大塔町地域においても武将、一族が隠れ住んだことは想像されますが、太平記では山伏姿の大塔宮に戸野兵衛が語った言葉として「平維盛を我が先祖がかくまった」とあることから、あるいは源平の争乱以前よりこの地に居を構えていた一族がいたとも考えられます。

 これを示すものとして、鎌倉初期の平家物語では「吉野とつかはの勢ども馳集て云々」、保元物語には「吉野十津河のさし矢三町、遠矢八丁のものども云々」と、この地域から南都衆徒ととして精兵が集められたとする記述が見られることからも、保元の乱の時代には、この地域に弓の名手が多かったらしき様子がうかがわれ、また辺境でありながらも中央権力との連絡が取れる階層の一族であったことがわかります。

 

 この護良親王の名前こそが、大塔宮であります。そこから名前をとり「大塔」という名前を残しております。今は大塔村という名前こそはなくなりましたが、道路標識には「大塔」方向といえば現在の五條市の北側あたりを指していることがわかります。

 

延慶元年(1308年)、尊治親王(後の後醍醐天皇)の子として生まれる。

 

 護良親王といえば、三千院の奥に梶井門跡の墓標があります。その大塔と云う名は岡崎(京都)の動物園あたりに八角九重塔が高さ80mとされている高さに建立されたため、その名を「大塔」と付けたのも頷けます。

 

 6歳の頃、尊雲法親王として、天台宗三門跡の一つである梶井門跡三千院に入院した。大塔宮と呼ばれたのは、東山岡崎の法勝寺九重塔(大塔)周辺に門室を置いたと見られることからである。

天川村の「南朝」掲示

天川村を御存知でしょうか?

みたらい渓谷や洞川温泉や大峰山寺など世界遺産があることで有名な場所なんですが、そのなかでも「南朝」に力を入れていることです。

たとえば、下の写真ですが「観音峰山登山口」には下図のパネルが飾っています。IMG_0266
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また、下図には観音平には石碑が建てられています。

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南朝最後の砦
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天川村のホ-ムペ-ジには

 

高い山と深い谷によって形成され、冬季もきわめて寒冷である天川村。古くは人々が定住するにはいたらなかった土地でした。また、高天原に所以するとされる「天ノ川」という名称が、この地方の河谷に名づけられたという伝承があり、そもそも定住することがはばかられた一種の「聖域」だったとも考えられています。

 

そして、このことが修行者たちの「行場」が開かれるきっかけとなり、約1300年前の役行者による大峯開山以来、山岳修験道の根本道場として栄えてきました。弘法大師空海との関わりも深く、大峯山で修行した後、高野山へ至ったその道程には、空海にまつわる多くの史跡・伝承が残されています。

 

また、大峯連山のひとつ、弥山に祠られた弥山大神の歴史もきわめて古く、天河大辨財天社の隆盛とともに聖域化され、これらに前後して「天ノ川」という河川名が生まれたといわれています。南北朝時代には、南朝方の重要な拠点として後醍醐天皇、護良親王、後村上天皇、長慶天皇、後亀山天皇などを擁護しつづけました。村には現在、十三通もの綸旨・令旨が残されています。

大河内行宮趾(おこちのかりのみやあと)後南朝史跡

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右上のガ-ドレ-ルを上っていきます。
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三叉路の左に大河内行宮の行き先を掲示
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右側の鳥居から大河内神社に行けます
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大河内稲荷
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大河内神社
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大河内行宮趾から見る風景
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紀和町 夕陽の丘(小学校趾)
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丸山千枚田(棚田百選のひとつ)

8
14日は恒例行事の大峰山に出掛けて参りました。

前日は大河内に行ったりしていました。

あれ?京都の嵐山の大河内山荘と勘違いされそうですが、三重県熊野市紀和町にある大河内行宮址という所です。

この名前を知っているといえば、後南朝でもより詳しく知っている人です。

この付近は山深い所です、ところが30メートル程離れた所に居住されていると思われる民家を発見しました。本当に山深い山頂にある場所です。この付近にも民家がありますが、後で調べると所帯数9で人口が10人です。

この碑は、自天王550年記念の一環で建てられたもので、裏に村田正志博士の碑文が彫られています。博士がこの地を自天王の行宮としたのは、いはゆる"忠義王文書"乙亥八月六日付に、
「已幸大河内之行宮也」

 次第に過疎化していくことは確実です。

人目を偲んでこの地に行宮址としました。戦前では林業が盛んとなり、近くには小学校が建てられていました。夕陽の丘付近です。学校名は大河内小学校で後に明倫小学校となりました。

 

北山宮尊秀王、 河野宮忠義王の宮都です。以前に紹介しました「三ノ公行宮址」では林道に車を停めて山道を歩きますが、今回は直ぐ隣に駐車場があります。

直ぐ下側に「大河内稲荷」「大河内神社」があります。今もなお、後南朝の思想が伝わっております。

紀和町-1
赤矢印の部分です。



「神武天皇聖蹟顕彰碑」-②鵄邑

この盆休みに「神武天皇聖蹟顕彰碑」に8カ所行ってきました。

そのなかで、鵄邑顕彰碑は大木が顕彰碑に寄って、倒れております。

この付近は富雄という地域であり、富雄は鵄というのが訛ったのではないかといわれている場所であります。近鉄富雄駅は過去には「鵄邑駅」ともいわれていました。この付近は過去には鵄邑という村がありましたが、いつのまにか消えてしまいました。
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天忍穂耳神社は少し山頂にあります。
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天忍穂耳神社
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帰り途中にも撮影しました。
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出垣内のバス停留所のすぐ近くです。

「神武天皇聖蹟顕彰碑」-①

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 狭野(さぬ)顕彰碑

 和歌山県新宮市

和歌山県新宮市佐野3丁目佐野王子碑南西側

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 熊野神邑(くまぬのかみのむら) 顕彰碑

 和歌山県新宮市

和歌山県新宮市阿須賀町、 阿須賀神社境内

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 菟田穿邑(うだのうかちのむら)顕彰碑

 奈良県宇陀郡宇賀志村

奈良県宇陀市菟田野区宇賀志

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 菟田高倉山(うだのたかくらやま) 顕彰碑

 奈良県宇陀郡政始村・神戸村

奈良県宇陀市大宇陀区守道高倉山頂

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 丹生川上(にぶのかはかみ)顕彰碑

 奈良県吉野郡小川村

奈良県吉野郡東吉野村小、丹生川上神社中社、摂社丹生神社北側

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 鵄邑(とびのむら)顕彰碑

 奈良県生駒郡

奈良県生駒市上町、出垣内バス停東南の丘

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 磐余邑(いわれのむら)顕彰碑

 奈良県磯城郡桜井村・安倍村・
 香具山村

奈良県桜井市吉備、春日神社北側

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 鳥見山中霊畤(とみのやまのなかのまつ
 りのには)顕彰碑

 奈良県磯城郡城島村・桜井町

奈良県桜井市等弥神社南側



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