則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2018年06月

讀んで戴ければ幸甚です。

交野断層について

一昨日に毎日新聞に

【交野市星田北の天野川堤防では、路面に約100メートルの亀裂が入った箇所があり、18日に砂を詰めて対応したことを府が報告。丸山日登志・災害査定官は「亀裂から雨水が入る可能性があるので、ブルーシートで防がないと堤防が土砂崩れする恐れもある」と指導した。】

 

先日のブログで交野(かたの)断層について述べたが、やはりそうであった。私の見た断層はそれから更に1km南下した所にある。

この交野断層で有名なのは交野山(こうのやま)である。ここは花崗岩の一枚岩があり、そこが山頂となる。それぞれに巨石があり、そこから信仰も生まれている。

この地形は今から100万年に始まった「六甲変動」という地殻変動によって、その骨格が形成された。それぞれの山にある巨石はそうした盛り上がったものが、風化して石が残った。もともと海岸段丘であり、海であった所が隆起して山になった。それは花崗岩がその根拠となる。花崗岩の形成には水分が必要で主にそうした水分は海によって成り立つ。溶岩が水で冷やされ固まりとなる。形成の仕方で石も変化するが、大体昔は海であったことが多い。

さて、その交野断層の南側には巨石で有名な磐船神社がある。ウィキペディアには

 

 

交野市の南端、天野川の渓谷沿いにあり、「天の磐船」(あめのいわふね)とよばれる天野川を跨ぐように横たわる高さ約12メートル・長さ約12メートルの舟形巨岩を御神体としている。 本殿はなく、巨岩の前に小さな拝殿があり、南側(上流)に社務所がある。

 

神社の起源は不明であるが、天照国照彦天火明奇玉神饒速日尊(あまてるくにてるひこあめのほあかりくしたまにぎはやひのみこと = 饒速日命)が天の磐船に乗って河内国河上の哮ヶ峯(たけるがみね)に降臨されたとの伝承が先代旧事本紀にもある。 交野に勢力を保っていた肩野物部氏という物部氏傍系一族の氏神であり、一族が深く関わっていたといわれている。中世以降は、山岳信仰や住吉信仰の影響を受け、現在も境内には垂迹神の住吉大神の四体が連なる本地仏の石仏や不動明王石仏を初め神仏習合の影響が色濃く残されている。

 

この神社には岩窟巡りがあり、巨石の中を通り抜ける。

三回程行ったことがあり、興味のある方は是非参拝して下さい。

 

 

 

昭和4年12月13日は神啓が天下った日

唐松模様に「谷口雅春大聖師三十三年祭」の挨拶の内容が書いている。その中に谷口雅春先生の「13」という数について話をしている。

昭和4年1213日 生長の家の原稿を書き始められた

 あれ?確かに原稿を書かれたのはその日です。だが、どうして原稿を書かれたのかを記入しなければ、その「13」という意味がぼやけてならない。『生命の實相』19巻にちゃんとご記入されている。それを書かなければ「13」がどうして大切な日なのか、信徒には理解出来ない。

 「今起て」とその声はいった。

 その神啓がなければ原稿も書いていない。

 こういう根本的な言葉がどうして抜けるかと云うと、今の雅宣氏を信じている信徒では理解が不能になるかもしれないが、総裁は「神」を信じていないから、それを省略したいという気持ちが発するのです。俄かには信じがたいが、結論からいえばそういうことです。神啓などこれぽっちも信じようとしない人だからです。

 それは総裁が書いた「神を演じる」から始まっている。神というコトバを殆ど発しない。

例えば「神・自然・人間の大調和」と標語ではうたっているが、神ということばは何の役(えき)にもならない飾り物だからなんです。それより「自然」が第一なのです。「自然」さえ唱えれば、神という概念を無くせるような間違った解釈があるのです。

私は今回の大阪北部の地震というのも、体験しながら「自然」というものの、人の命さえ奪うものであると自覚して欲しい。「自然」というのはある面では「美しい」、しかし人間に牙を向け、大洪水や大地震や大津波を起こすのであります。それを「人間」だけの責任に押し付けたりするのも間違いである。

それでは科学文明の未だ発達していない江戸時代ではどうかです。江戸時代の安政の大獄というのがありますが、政治的な問題だけではなく当時の自然災害というのは度々起きている。つまり「安政の大地震」というのがあります。あの時の死者は3万以上ともいわれています。

 1854年から1859年の間に

 185479日(嘉永7615日)- 伊賀上野地震。

18541223日(嘉永7114日)- 安政東海地震(巨大地震)。津波でディアナ号遭難。

18541224日(嘉永7115日)- 安政南海地震(巨大地震)。

1855318日(安政221日)- 飛騨地震。

1855913日(安政283日)- 陸前で地震。

1855117日(安政2928日)- 遠州灘で地震。東海地震の最大余震。

18551111日(安政2102日)- 安政江戸地震。藤田東湖・戸田蓬軒圧死。

1856823日(安政3723日)- 安政八戸沖地震(巨大地震)

1856114日(安政3107日)- 江戸で地震。

1857714日(安政4年閏523日)- 駿河で地震。

18571012日(安政4825日)- 伊予・安芸で地震

185849日(安政5226日)- 飛越地震。

185878日(安政5528日)- 八戸沖で地震。

185915日(安政5122日)- 石見で地震。

1859104日(安政699日)- 石見で地震。

 これは山の破壊などとは全く関係ありません。自然への憧憬もいいですが、「自然」はそうした何の罪もない人に襲い掛かることがあります。自然を讃歌するのもいいが、根本的なことに少しは気付いた方がいいのかもしれない。

阪神大震災での予兆

以前に住んでいた川西市は高台になっており、その地盤は岩盤の上成立っていると聞いていました。その証拠に少しの揺れでも感じたことです。例えば人間が感じないとする震度1でも敏感に揺れたと感じたりすることがありました。

 三重県の伊賀のあたりで震度2という速報があった時に地震が起きたことを感じていました。ニュ-ス速報で地震は間違いなかったと確認したほどです。

 阪神大震災の折、猪名川と云う地域で何度も地震の前触れともいうべき予兆を感じていました。1995年1月17日の前年の9月頃から地震を何度も頻繁に起こっていました。しかしその殆どが震度1とか震度2とか言われていましたが、それが反対に分かったのは、その家屋の立地条件だと思っています。そうした群発地震は少々の事では起床しない自分が少しの揺れでも起きていたのでよく覚えています。約2か月続き、それから暫く治まったのですが、再び小さな揺れがあり、震災前は反対にそれほど地震もなくホットしていた記憶があります。

 

私はいつも書くように古墳などの探訪をライフワ-クにしています。随分前に今城塚古墳(一部では継体天皇の墓と呼ばれている)に散策したときに、古墳に地滑り跡の痕跡があるのです。吃驚してその内容を読んでみたことがあります。それはたぶん、慶長伏見地震(1596年)の地震の痕跡だと思われます。墳丘の盛土の多くが内濠へ滑落した痕跡であります。

この北摂に地震があったんだと、そう思ってそれが頭から記憶が離れなかったことです。
だから地震というのは周期的に起るのも事実です。ただ、記憶から無くなるだけで、今回の地震が大阪北部でも地震が起るのだということを確認しました。

 


生駒断層帯の北部の交野断層

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昨日は私用で私市ハイキングに参加してきた。参加人数も30名、吹田市役所駐車場に集まってJR河内磐船駅で降車。ゆったりとした歩行は少々、我慢が必要だ。速度と休憩の多さにアングリである。だが初心者もいるので仕方がない。それも承知の上で参加している。

 さて、ここで途中にある崖で度々足を止めていた。それは完全な断層であるからである。極めて高い断層で驚いた。巨石とそれに連なる断層の迫力はあるが、はっきりとわかるので私市ハイキングに行くときはこうした断層を見る事も必要である。

 交野断層ともよばれているが、生駒断層から縦に層のように重なり合いその近くに交野山(こうのやま)、国見山と連なる枚方断層がある。

 昨日はすごい断層だなと思いながら、歩いていたがまさか地震になるとは思わなかった。私市のゴルフ場の周りに何カ所か確認できます。

今回のこの交野断層帯が影響したのではないかといわれると、地震の誘発では確かに考えられる。高槻市の南部である。有馬高槻断層帯からは少し離れている。だが箕面市も震度6弱であることから、そこにある断層は表層のように出てきている。その爲に種々の断層のズレは地層の奥深く入り組んでいる。それが関節か直接かはわからないが、上町断層の影響があったのは確かである。

また、交野断層も今回の地震との関連もあります、地中奥深く結びついているのであろう。有馬高槻断層のズレに亀裂が入り今後、上町断層や生駒断層に影響が出てくるような気がします。

詐欺に注意

詐欺に会う所であった、私は吹田市役所と結構電話があり、市役所からの電話には慣れていた。昨週の金曜日、朝から電話があり、そのやり取りを行っていた。

昼から市役所の職員と名乗る電話があり、期間外の還付があるという。欲深い自分はついつい貰えるものはと思い、信用してしまった。ただ不思議なことに振り込み先の指定してきたが、その銀行の取引がなかったので、三菱UFJ銀行でないと困るということで、本日の月曜日の朝9時~10時に電話をする、三菱UFJから電話するということで聞いた。今朝オカシイなと思って市役所に電話すると「それ、詐欺ですよ」と言われた。

 

完全に騙された。被害こそなかったが、市役所と電話を頻繁に行っていたため信用したのと、三菱UFJ銀行というコトバに信用した。

私も騙されないと思っていたが、案外騙されるものだ。

ただ、金額を振り込めといえば、多分拒否はする。性格が厚かましいのが詐欺の予防になるが、ついついお金が貰えるという甘い言葉に欲深い自分は恥ずかしい。

地震の怖さ

今日の地震は東日本大震災の時のショックを受けています。東日本大震災時はちょうど名古屋の安城市にいたとき、仕事中で長く地震が起きたので、屋外に緊急避難した。名古屋でも相当揺れたので当時の福島や岩手などこの何十倍の強さで揺れたのではないかと推測できます。

 また、阪神大震災の時は兵庫の川西市にいました。この地域も相当ひどく揺れました。ちょうど朝早くから仕事していたのですが、その事務所は細い家屋で、それが撓るように揺れ、バキバキという音が聞こえ、今でも倒れそうな状態であった。棚は倒れ、机は歪み、パソコンは落ち、家財道具は床に散乱。直ぐに、玄関を開け外の状態を見た。

 静けさの中に信号機が点滅している。不気味なほど静かであった。

最初の1時間はテレビも点いていたが、それから停電である。直ぐに帰宅して家の状況を確認した。

今も小規模の揺れがある。

揺れるたびに怖さがある。ちょうど阪神大震災の前兆の時と同じように恐怖心が蘇る。

下図は百円ショップで床に商品が流れ落ち、今日は休みである。DSCPDC_0003_BURST20180618114325108_COVER

有馬高槻断層と上町断層のクロスした部分が震源

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今回の地震について

今朝、758分に自宅で大きな地震がありました。本棚から本が多量に崩れ、棚などの上にあったものが沢山落下しました。

さて、今回の地震は有馬・高槻断層の一部のプレ-トが歪んだものであると推測出来ます。これまで過去3000年間で3回で、ほとんど地震など起きない地域でもあった。前回に上町断層の件で記入しましたが、今回の地震はそのクロスした部分で発生しています。

上町断層はちょうど大阪平野を中心に南北に走っている。またその断層が豊中と吹田を結んだ断層がある。その断層は豊中北部から吹田の江坂を通り上町台地と繋がる。大阪の人ならば新御堂筋といえばわかるように、現在は北大阪急行電鉄と並行に走っている線である。

名前も佛念寺山断層という。今回はその豊中北部からちょうど高槻あたりまで入り組んだ断層がある。そこが地震の震源といわれている。現在、新名神高速道路が走っている所が断層である。

今年の23日にブラタモリが放映されていたのが、有馬温泉です。その時にも有馬断層のことをタモリさんがいわれていました。その断層のお蔭で関西の奥座敷が誕生したといっても過言ではない。その断層の東側が有馬で西側は高槻と上町台地とのクロスしたあたりはポンポン山があり、そこに断層がある。今回の地震はほとんど地震の無い所で起きている。
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長老

トキさんが興味深い書き込みをされています。

中身はその通りです。吉倉先生は先日久しぶりにお会いさせていただきました。楠本先生も近々お会いしたいと思っています。

さて、現在91歳の吉倉先生は矍鑠として元気にお過ごしです。いつまでも、長生きしていただき、そして色々の事を教えて頂きたい。また、会いにいきたい。

昔は確かに長老や全国講師としてすごい先生がおられました。糸井英太郎先生の講話を聴いたことがありますが、迫力はすごかったのを憶えています。

こうした、長老だった人を生長の家は簡単に剥奪するのはおかしい。一番剥奪しなければならない人がTOPにいる。

 

これはどうかと思います。 (2705)

日時:20180615 () 2239

名前:トキ

 現役の本部講師の方は迂闊なことを言えませんが、退職をされた本部講師の方とお話をした事があります。

 

 まず、多くの本部講師の方は、現在の本部方針に当然のことながら失望をしています。特にある年齢以上の方の多くは、やる気をなくしています。退職する日を心の中で指折り数えて待っている人もいます。そういう人が退職して仮に地方講師になったとしても、バリバリやる気になるとは思えません。

 

 それに、聞いた話では、以前と違い、本部講師を退職しても、地方講師の資格を必ずもらえるとは限らないと言います。

 

 例えば、大阪教区の知人に聞いた話ですが、吉倉修三先生(長老)は、講師資格がなく、そのため、ご講話などができないと言います。生長の家宇治別格本山の知人に聞いた話では、楠本加美野先生(長老)も講師資格がないと言います。ご本人達に確認はしていませんが、私が調べた範囲では、それらの情報はほぼ確実ではないか、と思われます。(もし、事実でなければ、ご指摘をお願いします。)

 

 ここで信徒の方もご存知ではないかもしれませんが、「長老」というのは長年の功績に対する「尊称」とも言うべきものですが、講師の資格とは別の地位と名称です。ただ、昔は、「長老」になると、「特命全国講師」などの資格をもらえたので、自由にご講話やご指導ができたのですが、最近は地方講師の資格すらもらえないのです。

 

 生長の家の歴史を少しでも知っている人なら、この措置に言葉を失うでしょう。現在、ご存命の先達では、このお二人は功績という点でも、実力という点でも、右に出る人はいない存在です。ご高齢であるという点を考慮に入れたとしても、講師資格を与えない理由が考えられないです。私の知る限り、お二人とも、本部に弓を引いたこともなければ、総裁を批判する言動もしていません。生涯を通じて、生長の家のために活動をされた方です。信徒に絶大な人気を持っているお二人の講師資格を取り上げているのは教団にとっても損失です。

 

 これはどうかと思います。

 

 悪意に考えたら、信徒に人気があり、かつ、谷口雅春先生のご指導を直接受けた先達の存在が、現在の本部には「邪魔」なのかもしれません。媚びへつらう講師が量産されたら本部は安心かもしれませんが、信徒は深く失望をするでしょう。

 

 楠本先生、吉倉先生のような超大物ですら、退職したら講師資格を取り上げられるのでしたら、普通の職員の場合は「言うに及ばず」。現役の時に、少しでも疑われるような言動をしたら、講師でいられなくなる危険性があるみたいです。

 

 この話が事実なら、本部講師と言えども、迂闊なことを言えないのです。

 

谷口雅春先生の尋常小学校・尋常中学校そして夜間学校の地図からみる足跡

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上図の地図は大正117月の大阪市此花区西九条界隈の地図であります。

勿論、雅春先生の歩まれし歴史を御存知の方はすぐにわかるでしょう。小学校の最初に通われた蘆分尋常小學校が右下にあります。

左側にその小学校の卒業されました春日出尋常小學校があります。ピンク色に囲った部分が住まいされた場所ですが、西九条だけでは検討がつかず、電話帳で石津鉄工所で調べてみましたが、わかりませんでした。

明治42年から大正12年まで職業別など13冊を見ましたがわかりませんでした。

上記(右上)にある職工學校というのが後の西野田職工学校です。摂津紡績にお勤めの時に夜間学校に通われていました。その時代も同じ西九条に住まわれていました。

地図を見られて大阪人だったら、疑問に思われるでしょう。当時はまだ大阪環状線ではありません。その為に黒太の線が当時市電が走っていた路線図となっています。下に安治川がありますが、自宅からであれば安治川隧道という日本で初めての沈道トンネルがあります。戦時中(昭和19年建設)の建設なので雅春先生の市岡尋常中學校に通われた通路が右側にある中之島を経由して行かれたのか不明ですが、たぶん冨島の渡し船というのが近くにありましたので、それに乗船されてかよわれたのではないか。(芦分尋常小學校の近くから、大回りして通っておらましたのか?)


地図をダブルクリックすれば大きく鮮明になりますので、ご確認お願いします。

下図はその豊島の渡し船跡の位置です。現在の地図から
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また、摂津紡績に通われた通路は大阪市電で西九条から玉川4丁目、そこから南下して芦原橋までだと推測できます。
明治40年頃の市電路線図
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應神天皇陵と八幡信仰-②

應神天皇については平成1010月、金大中韓国大統領を歓迎する宮中晩餐会での御言葉のなかで

《日本書紀からは、様々な交流の跡がうかがえます。その中には、百済の阿花王、わが国の應神天皇の時、百済から経典に詳しい王仁が来日し、應神天皇の太子、莵道稚郎子(うじのわきいらつこ)に教え、太子は諸典籍に深く通じるようになったことが記されています。この話には、当時の国際社会の国と国との関係とは別に、個人と個人との絆が固く結ばれている様が感じられます》

この当時での漢字や機織機(はたおりき)などが日本に入ってきました。また橿原市の孝元天皇陵の横にある劒池などは渡来人により開墾されたと記載ある。

以前にこの池は孝元天皇陵に参拝した時に石川池と劒池のことが記入されていましたので、これが應神天皇時代のものかと少し驚きました。

また、應神天皇については『少年日本史』平泉澄著や『新輯 日本思想の系譜』小田村寅二郎編に詳しい。

また、『物語 応神天皇』田中繁男著に詳しい。

生長の家の冷遇性

「生長の家」教団の封鎖的な体質に驚かざるを得ない。先日、総本山の温故資料館に一部の資料の公開をお願いしました。公開といっても、判サイズと頁数と発行月日だけです。内容について一切ふれておりません。だが途中で裁判とかいうコトバが度々、その責任者から出てきました。

嗚呼、やはり知らせない意向なんだなと思っていました。私はこうした閉鎖的なというより封鎖的というコトバが適切ですが何とも的外れな処置にガックリしました。でも、やはりそうなんだ。自分たちの「我」が取りつかれたようにその人の本質を捉えるのだと納得しました。

こんな人が本当に人々を救えるのであろうか?そんなことすら考えてしまいます。

 

谷口雅春先生はどのように思われるかを考えない。私はこうしたブログに掲載するのはそうした封鎖的な体質を明かにせんとしたいという思いなんです。これは失礼ながら「生長の家社会事業団」にも言える事なんです。先日、図書館の閲覧をお願いしましたが、ダメであるという返答でした。裁判とかいっていましたが、それなら何時ならいいのかと聞くと、今はダメだというのです。

だが、その二年前にも行って、断られていました。突然だから駄目だと言われたのです。それならと今回は予約して行こうと考えました。

だが、やはり駄目でした。

私はそんな封鎖的な団体には雅春先生の大切な本を寄贈もしたくないし、こちらからは資料は渡さない。何故、各団体がそうなるのかというと「我」なんです。自分たちだけの言い分で信徒を大切にしない。大切なのは裁判なのです。

 

だから、此処に何回か記載するように「国立国会図書館」に寄贈したい。

裁判も勿論勝訴したい気持ちはわかりますが、そんな我慾なことを誰が喜ぶのでしょうか、勿論現教団の雅宣氏が一番悪いのだが、それに媚びを賣る人物も情けない。

 

私は以前に宇治別格本山で資料の閲覧を行いました。(谷口雅春先生の御本800冊展示)をたった一日だけでしたが、当時の総務には深く感謝申し上げたい。それにしても「大本」や「一燈園」とかの温かさとは全く異なる。冷遇である。

「大本」では名も知らない人にも親切に対応していただき、大本から資料提供を頂きました。見て頂くのは当たり前ですといわれました。

「一燈園」では奥の資料室から雅春先生から西田天香先生の息子様に宛てた手紙まで手にさわって、コピ-までOKでした。

大本では分派もあります。だが、どの分派も丁寧に対処して頂きました。

数年前に「天理教」に行きましたが、親切な対応に深く感謝したい。

 

昔は「生長の家」が一番親切な団体だった。親身となり相談にのり、最後まで世話していただいた。入会して欲しいから親切にするんじゃない。貴方に治って欲しいからするのです。

 

だからこそ地域の世話人となり、いろんな人の世話をして近所からも尊敬をうける人物が生長の家の人でした。私はそのような人物になりたい。

『日本言靈學略解』②

ウ聲はイ字の形に上下齒かみ合ひたる其の息を口を噤(つま)へて内に籠らせたる韻(ヒビキ)であって、内に生命を啣(ふく)む聲である。ア聲が伊邪那岐命(イザナギノミコト)のコトバなるに對し、ウ聲は伊邪那美命(イザナミノミコト)のコトバである。

 ウ字は内に含む形(ワ)に、一點()の微(かすか)に芽吹かんとする(さま)を象徴する。生命(いのち)内にこもりて、大重量の物を持ち上げんとする時にも自然に発生する聲はウ-ムである。

 

 ア聲は外に顯(あらは)れずして内に充實する。ア聲は外陽(ぐわいやう)、内陰の聲、ウ聲は内陽、外陰の聲である。

 

エ(ヱ)

 エ聲は天地陰陽の生氣(イキ)合(がっ)して生じたるイ聲が、上顎と下顎と、天地稍(やや)離れて分れいづる聲である。片仮名エは、〓間(てんちかん)稍(やや)開きて中より一點の言葉の分れ出でんとする相(すがた)を象(かたど)りたるものである。

 

 イ―と衝撃たる聲がエ-と分れ出でたるがエ聲であるから、エ聲には分(ぶん)を割り分つ活(はたら)きがある。枝(えだ)は木の岐(わか)れたるものであり、江(え)は水の分れたる者であり、兄(え)は人の分れ出でたるものである。選(えら)むは物を頒(わか)ち出(い)だすのである。彫(え)るは彫刀(てうたう)で切り分つである。餌(え)は食物を分ち與(あた)へたものであり、笑(え)むは顏の分れたる破顔を意味する。

 

 イより來れるエ(ちイエ)がエであり、ウより來れるがエ(ちウエ)であって、分つ活(はたら)き又は分れる活(はたら)きは同様である。

 

 『嫣(えん)』は『笑(え)む』であり、ニコニコであり、破顔である。『涎(えん)』は唾液の分れ出たるものであり、『(えん)』及び『烟(えん)』は火(ひ)より分れ出たるものであり、『厭(えん)』『(えん)』はいとひて遠くに分ち押しやらうとする意味であり、『遠(えん)』もまた同様である。演繹(えんえき)は中心より遠方へ推論を分ち出さうとするのである。垣(え)はカキを作りて互ひに分つ意味である。

 ※いとひは厭うであり、「いやがる」とか「さける」という意味がある。

 

オ(ヲ)

オ聲は|(たて)と-(よこ)と+(むす)びて、その+(むす)びの中心からオ-と押し出す聲の相(すがた)を象(かたど)ったものである。だからオ聲は中心にすぼまって小ぢんまりと出る聲で、ア聲の如くには明るさなく、イ聲の如くには鋭さがなく、エ聲の如くには幅がなく、寧ろウ聲に類似してゐるが、ウ聲の如くには内にのみ籠ってゐないで、ア聲の如き朗かさで、たゞ口を小さく丸めただけであるから、小さな孔をあけて、内から徐々に押し出すやうな韻(ひびき)である。だから、婦人の虔(つつまし)やかな笑ひは此のオホゝ……である。笑ひにもアイウエオの五聲がある。

 

 アハゝ……は、どこまでも朗かに、内に含まず、隠すところない邪氣のない笑ひである。

 

 イヒゝ……は鋭く、人を刺す如き諷刺の笑ひである。

 

 ウフゝ……は、笑ふまいとして、内に含みながらも、止むを得ず爆発したときの笑ひの聲である。

 

 エヘゝ……は、イヒゝの刺激的な笑ひよりも柔かなのは、上齒と下齒の衝撃が緩和されて開いてゐるからであるが、分つ韻(ひびき)なるが故に、批判、解剖の意が含まれてをり、諂諛(へつらひ)的嘲笑(てうせう)的に感じられるものである。

 

 オホゝ……は、口を丸くして、小さく笑ひを上品に押し出すのであって、邪氣はないが、開放的ではない。

 

 ア聲よりもオ聲に轉じたる聲『オ』は、朗かに停(とどこほ)らず、上品に、細く長く伸びるのであるから、尾(オ)、緒(オ)、小(オ)、弟(おとうと)、及び『玉の緒』(心の糸)の外れ、縮み、凝るを表す。恐(おそる)(緒外(おそ)る)、竦(おぢる)(緒縮(おぢ)る)、怒(おこる)(緒凝(おこ)る)等の『オ』は、細く押し出されたる意味であるから、『ヲ』聲でなくて『オ』聲であるべき筈である。然るに現在では『オ』聲と『ヲ』聲を混同して、細く小さき意味なる痴(おこ)、小父(おじ)、などに偉大を意味する『ヲ』を用ふるかと思ふと、大いなる意味であるのに『ヲ』を用ひずして『大いなる』『多い』などと使ってゐる。『ヲ』はウ聲が内に籠りて急に押し出されたる爆發音なるが故に、小さき孔より徐々に押し出す聲『オ-』よりも偉大なる韻(ひびき)を有する。

 

 その發音時の口の形も、上唇が下唇を大きく蔽ひて、口の横擴がりは大きく『オ』聲を發音する際の小さく噤(つぼ)めたる口形とは全然異る。『オ』聲は小さく上品に、細く長く引き、『ヲ』は大きく爆發して、下に物を壓する力がある。『男々(をゝ)しい』『峯(を)の上(へ)』『雄(を)』などはワ行の『ヲ』である。『何々……。をする』の『を』がワ行の『ヲ』であるのは『何々を。……』と下に物を壓した心持が含まれてゐるのである。

 

 ※は山ちゃんが注釈致しました。

 

應神天皇陵と八幡信仰-①

日頃、私達は八幡さんにお参りに行くといえば、私などは石清水八幡をすぐに思い出す。私の家からは少しだけ遠いが京都の八幡市にある。大阪との県境にあり孝明天皇が黒船来航の折に外国船が来たら荒波をおこして追い払って欲しいと祈願した場所でもある。

だが、應神天皇が祭神であることは意外としられていない。

應神天皇が何故八幡神になったのか?これについては未だはっきりしていない。だが、八幡を祀っている神社は全国44.000社ある。その祭神というのはすごいことである。

 

應神天皇について詳しく知っている人は少ない。また、ネットでは古墳が全国2位ということだけで本質までほど遠い。現在百舌鳥・古市古墳群として世界遺産に登録ということで話が出ているが、私はこんな世界遺産はおかしいと思っている。

古墳を大切にしない人々が何故世界遺産なんだ。羽曳野市役所はその古墳の崩壊した場所に建築されている。実際の行政の行っていることと人々の乖離や行動そのものが疑問というのを感じています。

左翼的な思想をもって何が世界遺産なんだと私は思う。その辺のことも今後書いていきます。

 

 四宮政治文化研究所から抜粋

頻繁に外国船が来航するやうになった幕末期の外患の危機の際し、孝明天皇は、弘化四年(一八四七)四月二十五日、石清水臨時祭を挙行された。野宮定祥(ののみやさだなが)を勅使として派遣され、神前に「宣命」を捧げられた。

 

その「宣命」には「近時相模国御浦郡浦賀の沖に夷の船の著(つき)ぬれば、その来由を尋るに、交易を乞ふとなむ申す。それ交易は、昔より信を通ぜざる国に濫りに許したまふことは、國體にも関わりれば、たやすく許すべきことにもあらず。…肥前国にも来着なとなむ聞し食(め)す、利を貪る商旅が隙を伺ふの姦賊が情実の知り難きをイかには為(せ)むと、寤(さめ)ても寐(ね)ても忘れたまふ時なし、掛けまくも畏こき大菩薩、この状を平く安く聞こし食して、再び来るとも飛廉(ひれん・風の神の名)風を起こし、陽侯浪を揚げて速やかに吹き放ち、追い退け攘ひ除け給ひ、四海異なく、天下静謐に、宝祚長く久しく、黎民快楽に護り幸い給ひ、恤(あは)れみ給ふべし、恐れみ恐れみ申し給はくと申す」と示されてゐる。

 

孝明天皇は、「寝ても覚めても外患を忘れる事は出来ない、外国船が来たら風波を起こして撃退し、四海に異変なく、天下は平穏で、國體は安穏で、国民の幸福を護り給へ」との切なる祈りを八幡大神に捧げられた。

 

さらに、孝明天皇は、嘉永三年(一八五〇)には、「萬民安楽・宝祚長久」の御祷りを伊勢皇大神宮・石清水八幡宮など七社七寺に捧げられた。また、神佛に祈りをささげられると共に、幕府に対してしっかりとした対策を講じるやうにとの「勅書」も下された。

 

孝明天皇が、外患に際して日本国の祭祀主としてとご使命を果たされたことが、その後の明治維新の断行・日本国の独立の維持の基盤となったのである。

 

孝明天皇は文久三年(一八六三)三月十一日、賀茂別雷神社(かもわけいかづちじんじゃ)と賀茂御祖(かもみおや)神社行幸攘夷祈願を行はせられた。これには、征夷大将軍・徳川家茂および在京中の諸大名が供奉した。

 

国難にあたり、特に神祭り・神事を盛んに行はせられるのは、天皇の国家御統治の有難き事実である。孝明天皇の国家・国民を思ひ給ふ大御心、御祈りが、草莽の志士達を決起せしめ、明治維新の原動力となったのである。

 

天皇が御所の外に行幸あそばされるのは、江戸初期の寛永三年(一六二六)年に、第一〇八代・後水尾天皇が、徳川秀忠・家光に謁見されるために二条城に行幸あそばされて以来のことであった。まことに畏れ多い申し上げやうであるが、あへて申せば、徳川武家政権は、上御一人日本天皇を京都御所に幽閉同様のご状態に置き奉ったのである。

 

孝明天皇は、同年四月十一日、石清水八幡宮に行幸になり、神前において征夷大将軍・徳川家茂に攘夷の節刀(天皇が出征の将軍に下賜する刀)を賜らんとされた。これは神前で幕府に攘夷の戦争を決断させる目的であったと傳へられる。

 

これを長州の策謀と断じた将軍後見職・徳川慶喜は、将軍・徳川家茂には病と称させて供奉させず、自身が名代として行列に供奉する。しかも、慶喜も石清水八幡宮まで来ると、腹痛と称して山下の寺院に籠もってしまふ。天皇は慶喜に社前まで来るよう召されたが、腹痛を理由にとうとう社前へは行かずに済ませてしまったといふ。病気(おそらく仮病であらう)を駆け引きに使って、神前での攘夷決行の誓ひを回避したので慶喜の奸智であり政略であったといはざるを得ない。

 

この石清水行幸には多くの民衆が集まった。中でも大阪から京都に「夥しく登り」、宿屋は一杯になり、祇園の茶屋が客を部屋に詰め混む有様であったといふ。民衆は天皇に強い仰慕の思ひを持って集まり、神聖なる祭祀主日本天皇こそが日本国の唯一の君主であることを自覚したのであった。

 

賀茂行幸・石清水行幸において、二百三十七年ぶりに民衆の前にお姿を現せられた天皇は、征夷大将軍・各藩主の上に立たれる日本国の統治者であらせられるといふ天皇のご本質を顕現せられたのであった。言ひ換へれば、賀茂行幸・石清水行幸は、天皇を中心とする日本國體が正しく開顕する第一歩となったのである。

 

孝明天皇は、安政五年(一八五八)五月十五日「石清水社法楽(神仏習合の祭典))に、「寄山神祇」と題されて次のやうに詠ませられた。

 

「八幡山かみもここにぞあとたれてわが國民をまもるかしこさ」

 

文久二年(一八六二)十月十六日の「石清水御法楽」には、「薄風」と題されて次のやうに詠ませられた。

 

「夕嵐吹くにつけても花薄あだなるかたになびくまじきぞ」

 

孝明天皇の國と民を思われる仁慈の大御心こそが、国難打開・維新断行の原動力だったのである。

 

八幡(はちまん、やはた、やわた)とは、応神天皇の神霊『八幡神』のこと。あるいはその『八幡神』を祀った神社(『八幡宮』、『八幡神社』)、またはそれを由来とした地名である。

 

現代では応神天皇とほぼ同一人物として位置づけられている。奈良時代から平安時代にかけての書物に登場することから、この時代から信仰があったと思われる。当時は『ヤハタ神』と訓読みで呼ばれ、『ハチマン』という音読みが登場するのは後の事である。

 

『八幡』の意味としては、『幡=旗』とされており、『八つの旗』を意味するものとされている。神功皇后が三韓征伐の時に対馬に寄った際に、八つの旗を祀ったといわれ、そこから『八幡(やはた)』という言葉が生まれた。

 

なお、一般的に八幡宮(八幡神社)に祀られているのは応神天皇だが、父親の仲哀天皇を祀った八幡宮(八幡神社)も多い。

 

だが、八幡社、八幡宮、八幡大神といってもどれほどの人が應神天皇を思い出すのであろうか?

さて、その應神天皇陵に行ってきました。

仁徳天皇に次ぐ御陵の大きさがあると言われていますが、私はその規模は日本一だと思っています。それは御陵の崩壊と埋もれた箇所があまりにも多い事がその理由です。

体積では日本一だといわれていますが、現在の羽曳野市役所敷地内も應神天皇の陪冢であることは地形的にいっても明らかであります。ただ、そうした名前は国指定の墓であることは記入していますが、それが應神天皇の陪冢であることは隠しているように感じます。

さて、その規模とそれぞれ陪冢をあわせるとどうかである。

連続した災難


先週の29日に現在休職中の私は地域の会長であると同時に、その修繕の行っている。その日は周辺の刈込などの剪定作業を行っていた。朝10時から1230分頃昼休みを挟んで午後110分頃から5時半頃まで刈込をしていた。周辺にはバラの木も多くあり茶毒虫には気を付けていたつもりであったが、刈込中はそれを忘れて剪定をしていた。

 ある時に痒いと思った瞬間におなかを全体にあの毛虫の毛にやられた。痒くてたまらないが、少し我慢しながら最後まで選定作業を続けた。

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 腫れ上がってお腹が怪獣である。普段はこんなにお腹は出ていません。

 

その翌日(30日)、造園関係で高木剪定の関係で高木に印のテ-プを巻き付けていた。ある程度終了間際に斜面で雨上がりのぬかるみを避けて、コンクリ-トの斜面に足をかけた瞬間、滑って身体を倒れと強打を防ぐため瞬間にコンクリ-トに手をついたが、その手が「ボキッ」と音がした。痛くて仕方が無かったが、風呂でさっぱりして、市役所に電話したりして緊急で病院に行った。骨折ではなかろうか?それを否定しつつ、レントゲンを5枚撮った。

診察結果は骨折である。

今も手が剥れている。しかし時間が治してくれるであろう。そのおかげで最近は走っていない。あと少しで復活したい。
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手首の部分が骨折箇所である。
お蔭で二日間はかゆみと痛みで寝れなかった。

言葉の難しさ

最近のブログをみているとその多くはコピ-ペイストである。自分の意見を書けば叩かれるからだろうか?

 【トキさんは「生長の家」ではない】そうした発言に物議を醸している。確かに「天皇性」というのは共産党の造語である。ただ雅春先生も使用なされていることも私は百も承知していました。

そのコトバで思い出すのは「戦う」というコトバです。雅春先生は「戦う」というコトバをあまり使ってはいけないと書きながら『吾が憂国の戦い』という御著書を出されている。若い時代はそうした言葉に迷いながら、「何故」ということで悩んだ時期もありました。

しかし、そういう言葉を何故使わなければならないのかを考えると、日本語の微妙な表現が喪失されているからだと感じます。

 

私はこの「戦ふ」ということばは古事記ですでに引用されている言葉です。

 

「楯並めて 伊那佐(いなさ)の山の 木の間よも い行きまもらひ 戦へば 吾はや飢(ゑ)ぬ 島つ鳥 鵜養(うかひ)が伴(とも) 今助けに来ね」

 

その表現を理解したりすることが大切であります。コトバの表現の魂ともいうべきものを理解することであります。その為に『生命の實相』を敢えて旧仮名遣いで讀むことが必要となるでしょう。何故というと読んでみるとわかります。

正字正假名遣ひには私も随分と慣れました。今では簡単に書くことも出来ます。ここでは少し時間がかかりますので書きませんが、昔の言葉を訳したりする時など書きますので是非見て下さい。

 

また、今回の発言に【「生長の家社会事業団」の名を落としかねない発言は慎みましょう】とかの発言は私など「失格の烙印者」の第一人者であろうと思っています。あまりそんな過激に発言されないようにお願い致します。

 

だから、インタ-ネットではそこまで書かなくてもいいのに、何故書くのであろうかというのをいつも感じています。私が知る講師でもインタ-ネットでは激しい口調で書いていますが、実は穏やかな人であったりすることもあります。以前に日本語について随分書きましたが、今回また改めて書こうと考えています。

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