則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2018年02月

讀んで戴ければ幸甚です。

メ-ルありがとうございます。

ブログの書き込みありがとうございます。

「北円堂の秘密」はしりませんでした。教えて頂きありがとうございます。

「南円堂」は西国33カ所霊場で有名ですが、その北側で以前に行った時は中門跡の北側は工事中で見逃しています。それでも何回も行っているので拝見させていただいたことは何回もあります。ただ五重塔に目が奪われてしまっています。

これからの奈良公園はいろいろな行事があります。二月堂のお水取りは3月初めから行われています。国家の安泰繁栄と万民の幸福を祈願して行われる十一面悔過法要です。

残念ながら私は「お水取り」には行ったことはありません。行った人から聞くと、人だらけで反対に見えないということを聞いていますので腰がひけています。

高畑町

 岡潔の晩年は奈良市の高畑町で暮していた。この場所は昔の新薬師寺の境内にあり、北側には春日大社の広大な鎮守の森がある。そこには禰宜の道が3か所あり、春日大社の官職が通る道があります。高畑町には神官の住んでいる住居が多い。

 

また、新薬師寺には国宝の十二神將は見事しかコトバが出ない。この新薬師寺には5回程参拝させていただいているが、いつも感動する。

 

岡潔の家はこの新薬師寺から近い場所にあった。また志賀直哉の旧居があります。また東側には滝坂の道があり、柳生街道に繋がる。奈良町にも近くにあり、奈良の新しいスポットとして色々な新店舗が進出している。

 

日々のつれづれより抜粋

 岡潔先生は昭和53年(1978年)31日の明け方、この世にお別れしましたが、終焉の地となったのは、新薬師寺にごく近い奈良市高畑町の家でした。高畑町に移る前は同じ奈良市内の法蓮佐保田町の貸家に住んでいましたが、昭和41年(1966年)8月末、高畑町に新居ができあがり、引っ越しが実現しました。転居通知の日付を見ると827日になっています。そのおり庭先に12畳ほどの広さの離れを建てて、お念仏のための道場にしました。岡先生は光明会のお念仏の徒でもあり、戦後まもないころからしばらくの間、熱心にお念仏に打ち込んだ一時期がありました。光明会というのは、明治期に浄土宗門内に現れた山崎弁栄(やまさき・べんねい)上人が唱えた「光明主義」を慕う人たちの集まりです。

岡先生が光明主義のお念仏に最初に取り組んだのは昭和14年(1939年)ころのことですが、このときは長続きせず、いつのまにかやめてしまいました。ところが先の大戦の際の敗戦の衝撃をよほど深刻に受け止めたようで、戦後、新たな気構えで心身を傾けていくようになりまた。光明会は各地にありましたが、奈良では松倉道場や安田道場で定期的に光明会の例会が開かれていて、岡先生も出席していましたが、引っ越しを機に念願の岡道場が成立したのでした。原則として毎月第三日曜日に「青年学生光明会」の例会が行われました。岡道場は数学研究室も兼ねていましたから、「数学念仏道場」などと呼ばれることもあ

天才―岡潔

読売テレビ・日本テレビで明日(223日(金)夜9時)【天才を育てた女房】が放映される。実は岡潔は生長の家(谷口雅春先生)とは思想が大変近い。


昭和51年の年初の『聖使命』新聞に掲載されている。

 

 昭和51年(1976年)の年初、「生長の家」の機関誌「聖使命」(115日)に、岡先生の発言を紹介する記事

 「人類救済と日本歴史 此の世は造化放映の映像」

が掲載されました。「聖使命」の記者が岡先生の談話を記録した記事のようですが、末尾に、「本論を詳述した「春雨の曲」が今年の夏出版されます」と附言されているのが目に留まります。この『春雨の曲』は第4稿を指すと思われます。夏までに出版したいという岡先生の望みがうかがわれるメモですが、これは実現せず、改稿の試みが続けられました。

 

また、岡潔先生の講演録では―日々のつれづれ―より抜粋

 

日本民族の使命

 

 この頃の教育では、日本民族はつまらない民族で、前にやっていたことは、みな間違っているから、アメリカのようにやらなくてはいけないと教えているように見えるが、日本民族が真実、そんなつまらん民族なら、千年や2千年教えたところで、大脳前頭葉という道具は、それほど発育しやしません。

 

 まして、その大脳前頭葉を使っていく心がそんなにきれいになるとは思われません。到底、千年や2千年の教育では間に合わない。教育がすぐ効果を上げようというのだったら、その民族は優れた民族でなくてはならない。但し、その優れ方に様々あるでしょう。だから、自分の優れたところに、早く目覚めるように子供を教えるのがよい。目覚めれば、あと力がついてやれます。

 

小我と日本国新憲法

 

 ところで、日本国新憲法の前文は、小我こそお前である。それは万古の真理である。尊厳な事実である、と言って、これによって、憲法・法律を作っている。そして、これを裏打ちするに、アメリカ人デューイの思想をもってし、それによって、社会通念を作り、さらに新学制をしき、以来、今日なおこれを大事にし続けている。それから20年にもなる(1967年当時)。この日本国新憲法の前文は、1300年もの間、仏教が言い続けてきたこととは正反対、それが、たった明治以来80年でケロッと忘れてしまうというのはおかしいことです。

 

 新憲法の前文では、人が、自己中心に行為する姿は尊厳であると言っている。こんな馬鹿なことを思う日本人があるはずがない。日本において、善行といえば、人のためにする行いであった。自己のためにするという匂いが少しでもすれば、日本人はそれに対して実に敏感であった。自分はエゴイスティックに振舞っても人に対してはそうであった。

 

 それが、戦後わずか20年で、自己中心に行為する姿が尊厳である、などという作文のできる日本人がいるはずがないと思って、だんだん調べていってみると、進駐軍が示唆して、アメリカ憲法から取って文章を書き、これに日本国新憲法前文という表題をつけさせたらしい。後も進駐軍の示唆や命令ですし、戦後20年の歴史は、この1つの事実によって要約できるくらいです。

 

 教育の方針は、国によって民族によって別であるべきだと思います。日本民族の場合、真我に目覚めやすいということが長所ですから、早く、真我に目覚めさすように教えなければいけない。大体、日本民族は優れた民族であるだけでなく、人類をその滅亡から救うという重い使命を担わされている。私達は何よりもそれを自覚し、そうであることに誇りをもたなければならないのです。でなくては、教育はできない、そう思います。

 

日本民族の自覚

 

 大体、日本民族は、天御中主命あめのみなかぬしのみことから数えると、30万年にはなると思う。 ― 人類あって以来60万年100万年とも言われていますが ― それが物質が自分ではなく、心が自分だと初めから気づいているというのは実に早い。だから、日本民族は、私は、他の星から来たのだろうと思います。ともかく、日本民族の中核の人は心が自分だと思っている。だから日本民族は心の民族です。心は合わされば1つになる。これが心の民族の特徴です。

 

 日本人は日本民族の心というものの、この強い力にひかれて、だんだんそうなっていくのです。これが同化作用ですが、その同化の度があまり進んでいない、十分同化してないのです。しかし、そういう人達だと、自分が日本民族の一人だということに、本当に目覚めることは簡単にできる。それで、真我に目覚めたことになっている。これが一番早い。

 

 その後、深めるには、仏道の修行とか、いろいろといるのですが、まず、目覚めるには日本民族の一人であるということに目覚めるのは、極めて早くできる。それで、既に、真我に目覚めたことになる。これが一番早い。だから、子供を真我に目覚めさせようと思えば、民族の詩であり歌である歴史を教えるということが、何にも増して大事なことだと思う。

 

 

澎湃とした時代に一途の光

青年会の活動を長く携わり、現在の青年会を見るときに歴史のなき現在の青年会に情けなさと退勢した現教団の目標指針の喪失を憂うる。

内憂外患に何も出来ない覇気のない現在の青年会、歴史も憲法も『古事記』『日本書記』も語らず、万葉集さへも語らず。「天皇陵」の参拝も行わない。

天皇陛下を仰慕して已まない精神は何処かと消失したのであろうか。

そんな青年会に何が魅力あろうか。

憲法を語り、明治維新を語り、近代民主主義を語り、神社で早朝神想観を実施した。私達緒先輩。

駅前でタスキを掛け、生長の家の素晴らしさを語った青年会。

日の丸行進を実施して、街頭を日の丸で埋め尽くした諸先輩。

一週間寝泊りして見真会を開催した緒先輩。

我等の時代は如何に活動をしたのか。

荒廃した戦後の日本にいち早く敢然と起ち上がったのが我ら「生長の家青年会」であった。私はそれを誇りに思い、敢然と起ちあがる先駈けとしての役目を見失って欲しくはない。

陸続として誕生する青年会。希望に満ち、これから担う日本の夜明けを感じる。

この内容は以前にこのブログに掲載しました、それを更に加筆しましたので是非御一読をお願いいたします。

 

黎明期の時代・澎湃とした時代(大阪を中心に書きます)

 

昭和217月。谷口雅春先生の御意志を受継ぐ為に起ち上がったのが川島滋と伊藤公雄を中心としたメンバ-が「生長の家学徒連盟」(MSSA(メンタルサイタル・サイエンス・スチュ-デント・アソシエ-ション)であった。昭和22年には彼らは月2回の研究会を開催していくまでになったのであった。初代の総務は奥田氏であった。

 

昭和22817日には駅前伝道を前に午前中に例会を開催、80余名の参加者があった。この時代には創価学会を遥かに凌駕した会員数であり。頼もしい青年会は戦後の曙に燦然と輝く実績を残したのである。その後上本町六丁目の交差点にて男子10名、女子9名で伝道した。

この当時は進駐軍にたむろする若い女性をパンパンやパン助と揶揄し、そうした日本人の若者に颯爽とした青年会がいた。これが大阪青年会であり、「大阪青年会」の幟を建て、生長の家の素晴らしさを街頭で語ったのである。『生長する青年』昭和2210月号に当時の状況が記載されている。

参加者は大崎華子・川島滋・伊藤公雄・南川次郎・司忠司・河合・栗原保介・栗原久子その他多数。

 

『生長する青年』の創刊(229月)

◎同誌を中心とする青年組織を「全日本生長の家青年会」とする旨を発表

◎同誌11月号に谷口雅春先生「生長の家青年会の歌」を発表

◎同誌12月号に同歌譜を発表(昭和22916日夜)

 

昭和229月に谷口雅春先生執筆追放となる。これ以降当局の指示により雅春先生を教祖、清超先生を教主と呼ぶようになる。

『全日本生長の家青年会規約草案』の発表(『生長する青年』2210月号より)

昭和22119日~11日 戦後初の御講習会(大阪中央公会堂)1775名(『生長の家50年史』より)

昭和2315日にこの日本をどうにかしたいという憂国の気持ちがトタン屋根がまだ立ち並び、チンチン電車が通る。大阪駅前で街頭伝道に起つ。(『生長する青年』昭和233月号より)

昭和23327日・26日「全日本生長の家青年会第一回全国大会」(赤坂 本部)

大阪青年会から3名参加(伊藤公雄・川島滋・大西・浜中藤平)(3名は『生長する青年』に記載)《全国大会》

・赤坂檜町の生長の家本部道場にて開催(代議員130名結集)

・初代会長に谷口清超先生御就任

・宣言・綱領及び規約決定

※この頃意見の不一致から阿倍野青年会と分裂(3月)

昭和233月には「大阪学徒聯盟」の名称を大阪青年会と改名しています。

その言葉があります。

昭和234月号  「生長の家大阪靑年会会報」

巻頭の辞

                     企画部長 伊藤 公雄

 全日本生長の家青年会全国大会を眼前に控へ(この原稿は3月中旬に書かれたと思います)大阪学徒聯盟は名称を大阪靑年会と改めて新しく立ち上がることになった。基礎確立から発展活躍の時期を迎へ一年間よく基礎を固めてくださった。温和な奥田総務より、生長の家青年会を創始した情熱あふるる川島総務へとバトンが引渡された。

 

遂に大阪靑年会は大阪府全体に渡って眞に実質的に活躍する時が來たのである。新しく青年会として発足して半月も経たぬ間に、早くも大阪府の各地に於て支部結成の産声があげられた。

 

堺、住吉、吹田、生野、中野等続々と結成されたのである。之等の支部及び之等に相継いで生れる各支部は一体如如程華々しい活躍をするであろうか。

私は今、心から之等の支部の活躍を期待してゐるのである。「前進せよ!よき若人よ」と私達に御言葉を下さった谷口先生に対し、心からなる感謝を捧げると共に、御期待に沿ふべき青年会たらんことを御誓ひ申し上げなければならない。

私達の前途は光明に輝いてゐる。会員諸兄妹よ!しっかりと手をつなぎ合って人類光明化運動に邁進しようではないか。

 

役員紹介

総務      川島 滋

企画部長   伊藤公雄

委員      大橋 実 行事企画

委員      村上 シズ 会報編輯

役員      北川 道雄 会員連絡

文化部長   浜中 藤平 

役員      田中 義郎 行事記録

役員      小林 雄介 寫眞記録

役員      大崎睦子 図書貸出

文化部役員  伊藤文雄 運動具取締

文化部委員  中村 弘 同好会壁新聞

文化部委員  伊地智 延江 同好会

経理部長    尾西良一

経理委員    石川辰子 会計簿整理

経理役員    高井昭子入会申込受付

経理役員    井上蘭子書籍販売

経理役員    鈴木テイ

 

この当時青年会支部数は75

市役所の交渉で

 今日の午後7時から地域住民と市役所職員との説明会が終了した。土曜日にも拘わらず6名の職員が参加して、夫々の住民の質問に応えて頂いた。

この会議をもつまで約半年の間、アンケ-トや市役所の対応に尽力した。

結果として、私達の念願であった話を聞いていただける。

今回は全てを通して、市会議員には頼らなかった。反対に市会議員が発言してもやらなかった事案も私を通じて、実行していただいたことが、大きな自信ともなった。

市会議員は頼りないというのもわかった。平成29年度は大きな仕事として二つの事案が実行できたことが嬉しい。勿論、みなさんの税金ということも忘れないで、住居で困っておられる人に手助け出来たことを誇りに思う。

桓武天皇御母御陵






光仁天皇夫人 贈太皇太后 天高知日之子姫尊(新笠) 大枝陵


地図では桓武天皇御母御陵となっています。


この新笠という言葉は高野新笠で有名な言葉です。以前に私はこの高野という地名を訪れてみたことがあります。神功皇后の陵墓の北側なんです。


 


ウィキペデア参照


父の和乙継は、百済系渡来人氏族の和氏(姓(かばね)は史)であるが、生前の位階・官職は不明。光仁天皇即位後に高野朝臣と改姓した。母の土師真妹は、土師氏(姓(かばね)は宿禰)であり、桓武天皇即位後に大枝朝臣と改姓した。延暦8年までに父母ともに死去しており、ともに正一位が追贈されている。


 


続日本紀延暦81228日条に、


「皇太后姓は和氏、諱は新笠、贈正一位乙継の女(むすめ)なり。母は贈正一位大枝朝臣真妹なり。后の先は百済武寧王の子純子より出ず、皇太后曰く、其れ百済の遠祖都慕王は河伯の女日精に感じて生めるところなり、皇太后は即ち其の後なり。」


とあって、和氏が武寧王の子孫であることが記されている。日本書紀によれば継体天皇7年(西暦513年)「百済太子淳陀薨」とあり、純と淳陀が同一人物ではないかと考える学者も存在する。ただし、朝鮮側の資料には武寧王の子として純、もしくは淳陀に比定できる人物が存在していない。このことから和氏が武寧王の子孫であるかどうかは、疑問であると水野俊平は主張している。


 


また、純太子の没年と高野新笠の推定生年(720年頃)には約200年の開きがあり、和氏が百済系渡来人としても百済王氏のような新来の渡来人ではなく、相当な古来で日本化した帰化氏族だといえる。和乙継の牧野墓は奈良県広陵町にあるバクヤ塚が推定されているが、これは馬見古墳群に属する「古墳」であって築造年代が異なる。


 


高野近傍には土師氏の根拠地である菅原伏見、また秋篠がある。ここには菅原寺、秋篠寺などが営まれ、また長岡京が大枝におかれたことからみても、母方の土師(大枝)氏一族は重んじられた。一族は大江朝臣・菅原朝臣・秋篠朝臣などを賜姓され、貴族として以後長く活躍した。一方、高野朝臣と改姓した父方和氏一族のその後は、ほとんど知られていない。


 


高野新笠の子である桓武天皇の子孫は現天皇家や皇族に繋がっているだけでなく、臣籍降下して源氏や平家の武家統領などになった子孫もおり、高野新笠の血筋は繁栄した。平成13年(2001年)、今上天皇は続日本紀に高野新笠が百済王族の遠縁と記されていることについて述べ、いわゆる「韓国とのゆかり」発言をおこなった


もうひとつは淳和天皇御母陵です。


桓武天皇夫人 贈皇太后 旅子 宇波多陵といいます。


淳和天皇の陵墓は小塩山の山頂にあります。


 

淳和天皇 ウィキペディアからDSC_0230
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2歳にして生母を失ったために、これを哀れんだ桓武天皇は有能な女官であった文室与伎の妻・平田孫王に親王の母代わりとして育成させたという。延暦17年(798年)4月に元服し、三品兵部卿となる。その後、大同元年(806年)治部卿、大同三年(808年)中務卿 となる。


 


弘仁元年913日(8101014日)、薬子の変後に廃太子された高岳親王(平城天皇の子)に代わって立太子した。


 


弘仁14427日(82369日)、即位。これに伴い、大伴氏が伴氏と改姓している。天皇の御名と同姓なのは畏れ多いと大伴氏が判断したからだといわれている。


 


天長10228日(833322日)、仁明天皇に譲位し退位。


 


清原夏野ら良吏の登用を積極的に行い、地方の政治の荒廃を正した。また土地対策を行い、税収の増加に努めた。また、『令義解』や『日本後紀』の編纂が行われた。表面的には比較的平穏な時代であった。


 


だが、その即位は天皇個人が望んだ皇位継承ではなかったとされている。『日本後紀』によれば、大同元年51日(806522日)に大伴親王(当時)が父帝の死を機会に臣籍降下を願い出て皇太子(平城天皇)に慰留されている。天皇は桓武天皇の皇后(藤原乙牟漏)所生ではなかったが、生母が皇后と同じ藤原式家の出身でかつ異母姉妹にあたる皇后所生の高志内親王を妃として恒世親王を儲けていた。平城・嵯峨両天皇を除けば恒世親王が桓武天皇嫡系にもっとも近い皇族(臣下を母とする平城天皇の高岳親王や嵯峨天皇の正良親王(仁明天皇)よりも近い)であったが、父親である大伴親王を飛ばして皇嗣に立てる訳には行かなかった。そのため、嫡子ではない大伴親王への皇位継承の可能性が浮上した。親王は平城・嵯峨両天皇が自己の異母姉妹(桓武天皇の内親王)との間に男子を儲けた場合に自分や恒世親王が他戸親王や早良親王のように皇位継承争いに巻き込まれることを危惧して上表を出したと考えられているが、桓武天皇嫡系に准じた恒世親王の皇位継承権の喪失につながるこの上表は受け入れられるところとならなかった。


 


だが、淳和天皇は即位後恒世親王ではなく、嵯峨天皇の嫡子であるとして正良親王を皇太子に擁立した(高岳親王は薬子の変で廃太子)。在位中に恒世親王が病死したため皇位は正良親王(仁明天皇)に継承されたが、仁明天皇は淳和上皇と正子内親王(嵯峨天皇の皇女)の間に生まれた恒貞親王を皇太子に擁立した。淳和上皇は有力貴族の後ろ盾のいない息子恒貞親王が仁明天皇の皇太子になったことに不安を抱いていたとされ、忠実な側近藤原吉野に親王の後事を託して崩御するが、その不安は承和の変として現実のものとなった。


 


承和758日(840611日)、崩御。死にあたり、薄葬を遺詔としたため京都大原野西院に散骨された。


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Divine Education and Spiritual Training of Mankind

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昭和31年の出版の本です。

ただ、日本と違い発行日とかはわかりません。

序文には

Fenwicke LHolmes

Joseph Murphy

DrAlfred WParker

 

ホルムスは生長の家では有名です。また「心の法則」など「マフィ-の法則」で有名なジョセフ マ-フィ-です。

最後のアルフレッド W パ-カ-は詳しいことはわかりません。



神武天皇聖蹟顕彰碑

神武天皇聖蹟顕彰碑というのを御存知であろうか?

西日本を中心に19ヵ所あります。

そういう私も実は3カ所しか訊ねたことがなく、いずれは全箇所の訪問とともに神武天皇の東征までの歴史を語っていきたい。

 

その3箇所というのは一つ大阪天満宮の境内です。難波之碕(なにわのみさき)顕彰碑。

次に奈良の三輪神社の北の狭井神社の近くにあります。狭井河之上(さいがはのほとり)顕彰碑。

そして鳥見山中霊畤(とみのやまのなかのまつりのには)顕彰碑です。これは以前にこのブログで発表しました。

この顕彰碑は神武東征を知るために必要な所です。丁度私は大阪といういい場所に住んでいるので、そういう歴史的な場所を報告することは必要だと感じております。

先の明治天皇行在所というのもそうですが、次第に歴史から消えようとしています。

また明治天皇駐之處の碑(めいじてんのうちゅうひつのところのひ)でも地名の語源ともなった習志野地名発祥の地にこの明治天皇駐之處の碑があります。

「御駐蹕」とは、天皇が行幸の途中で一時乗り物を止めて一休みすることを言います。全国にその跡がありますので、是非明治の想いを感じながらその跡を偲ぶことも必要ではないかと思います。

    

名   称

推考地 (旧名)

顕彰碑所在地


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 菟狭(うさ)顕彰碑

 大分県宇佐郡

大分県宇佐市大字南宇佐  宇佐神宮北側

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 崗水門(をかのみなと)顕彰碑

 福岡県遠賀郡蘆屋町

福岡県遠賀郡芦屋町   
神武天皇社境内

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 埃宮(えのみや)多祁理宮(たけりのみや)
 顕彰碑

 広島県安芸郡府中町

広島県安芸郡府中町宮の町多家神社南側長福寺の南方

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 高嶋宮(たかしまのみや)顕彰碑

 岡山県児島郡甲浦村

岡山県岡山市宮浦字高島 新岡山港FT沖の無人島

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 難波之碕(なにはのみさき)顕彰碑

 大阪府大阪市

大阪府大阪市中央区天神橋2丁目         
大阪天満宮境内

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 盾津(たてつ)顕彰碑

 大阪府中河内郡孔舎衙村

大阪府東大阪市日下町6丁目、孔舎衙小学校東側

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 孔舎衛坂(くさえのさか)顕彰碑

 大阪府中河内郡孔舎衙村

大阪府東大阪市日下町8丁目山中(標高280m)  大龍禅寺不動院前より谷川に沿って登り北側の尾根上を目指す

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 雄水門(をのみなと)顕彰碑

 大阪府泉南郡樽井町・雄信達村

大阪府泉南市男里    
天神の森公園内

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 男水門(をのみなと)顕彰碑

 和歌山県和歌山市

和歌山県和歌山市湊北町1丁目          
水門吹上神社境内

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 名草邑(なくさのむら)顕彰碑

 和歌山県海草郡・和歌山市

和歌山県和歌山市広原、 和歌山市消防学校東側の丘上

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 狭野(さぬ)顕彰碑

 和歌山県新宮市

和歌山県新宮市佐野3丁目佐野王子碑南西側

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 熊野神邑(くまぬのかみのむら) 顕彰碑

 和歌山県新宮市

和歌山県新宮市阿須賀町、 阿須賀神社境内

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 菟田穿邑(うだのうかちのむら)顕彰碑

 奈良県宇陀郡宇賀志村

奈良県宇陀市菟田野区宇賀志

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 菟田高倉山(うだのたかくらやま) 顕彰碑

 奈良県宇陀郡政始村・神戸村

奈良県宇陀市大宇陀区守道高倉山頂

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 丹生川上(にぶのかはかみ)顕彰碑

 奈良県吉野郡小川村

奈良県吉野郡東吉野村小、丹生川上神社中社、摂社丹生神社北側

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 鵄邑(とびのむら)顕彰碑

 奈良県生駒郡

奈良県生駒市上町、出垣内バス停東南の丘

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 磐余邑(いわれのむら)顕彰碑

 奈良県磯城郡桜井村・安倍村・
 香具山村

奈良県桜井市吉備、春日神社北側

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 鳥見山中霊畤(とみのやまのなかのまつ
 りのには)顕彰碑

 奈良県磯城郡城島村・桜井町

奈良県桜井市等弥神社南側

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 狭井河之上(さいがはのほとり)顕彰碑

 奈良県磯城郡三輪町・織田村 

奈良県桜井市茅原    
狭井神社の北

 


橿原神宮の散策と今井町

建国記念の日に橿原神宮に参拝してきました。2時頃でしたので参拝者も少なくゆったりと拝礼出来ました。

昨年は耳成山と天の香久山と畝傍山の登頂と神武天皇陵と綏靖天皇陵、安寧天皇陵、懿徳天皇陵の参拝と橿原神宮の参拝をしましたが、今回は家を出たのも遅くなったので、神武天皇陵と綏靖天皇陵、安寧天皇陵、懿徳天皇陵の参拝と橿原神宮の参拝だけとなりました。
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それでも、いつものように御陵の参拝は簡略することは出来ませんでした。

さて、橿原神宮で販売していました『漫画 神武天皇御一代記』を購入しました。

漫画家の久松文雄氏が書いています。古事記も漫画で描いておられます、これも読みました。

私はそれより「ス-パ-ジェッタ-」です。まだ白黒の画面で放映され「未来の国からやってきた」懐かしさのほうが大きい。「流星号」「マッハ15のスピ-ド」とか

 

https://www.youtube.com/watch?v=FTI3eO735MQ

 
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『漫画 神武天皇御一代記』

 目次

  1 神武天皇高千穂宮に御降誕

  2 高千穂宮に於ける東征御前会議

  3 寶船美々津御解纜速吸之門に至る

 4 孔舎衛坂の激戦

  5 熊野灘の御危難

  6 高倉下フツノミタマの剣を奉り危難を祓う

 7 頭八咫烏先導を給る

 8 道臣命詔を奉じてエウカシを註す

 9 吉野御巡幸と土豪の帰順

  10 丹生の川上朝原の祭

  11 國見丘の戦い

 12 忍坂の大室にヤソタケルを舞い打つ

 13 登美の瑞光(金鵄)

  14 饒速日尊ナガスネヒコを誅して帰順

  15 奠都と宮殿造営

  16 立皇后

  17 御即位の礼

  18 鳥見山中霊時

  19 天王崩御

  20 八紘をおおいて宇と為さむ 

 

 

その後、橿原の八木西口まで歩き、途中「今井町」に寄りました。

ここは5回程来ていましたので、10年振りの今井町は喫茶店やお店も多く点在するようになっていたので、驚きました。約30名を連れてきたことが懐かしさも相まって楽しくなりました。
今井町の通りです。戦国時代の街並みが随所にあり、観光地としても有名です。昔の寺内町と呼ばれている所です。大阪でも各地にありますが、これほど残っているところは今はありません。大阪の富田林も残っていますが、やはり今井町は凄い。
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今井町
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明治天皇今井行在所は稱念寺にあります。
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明治天皇駐蹕之處



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わろてんか

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わろてんかはNHKの朝ドラ
電車までが全面広告?
吉本の影響??


『詳説 神想觀』


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生長の家の

 神想觀は
『詳説 神想觀』昭和32年11月1日発行には

「基本的神想觀」

「神を讃へる神想觀」

「蓮華日寶王地觀」

「如意宝珠觀」

「浄圓月觀」

「四無量心を行ずる神想觀」

「自己禮拝の神想觀」

「和解の神想觀」

「神を愛する神想觀」

「随時随處神想觀」

「最も簡単にして本質的な神想觀」

「絶對者と一體(ひとつ)になる神想觀」

 

詳説 神想観(増補新かな版)244頁 昭和45725日発行

「竜宮・平和・普賢観」

「大日本神国観」

「伊勢神宮の神前に於ける神想観」

 

詳説 神想観(増補新かな版) 昭和57年6月 56版より254頁(追補)

「祈り合いの神想観」

「住吉大神宇宙浄化を祈る神想観」

 

『新版 詳説 神想観』 平成16120日発行

 

亀の子ブログでは『大調和』有留弘泰著を紹介されています。

『無限供給を実現する神想觀』を披瀝されていますので、是非読んで下さい。


函から取り外すとデボス加工の光輪卍字十字架がある。懐かしさと誇りがそこにあった。
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則天去私-4

私は御存知の通り、谷口雅春先生著作一覧を作成しました。この著作集は詳細に書きましたので、ほぼ95%は網羅していると思っています。しかし100%では決してありません。

知らない著書等がまだあるということです。

そこで、いままで御寄稿された文章はどうかというと、それについては約90%網羅してきました。

残りの10%は意外と知らない御寄稿が沢山あるということです。また抜けているものもあるのです。それは時代背景なども大きく影響されていることも事実ですし、雑誌などの御投稿はあらゆる雑誌にされていて、こんなにも多いのかと驚きます。

 

つい最近でも『生長の家参拾年史』において下記の御著書を著作集に入っていないことに気が付きました。それは

 

Divine Education and Spiritual Training of Mankind

これは昭和31年に出版されているのですが、雅春先生の英語版なんです。

勿論、英語版なども私も15冊程所有していますが、此の本は最初の英語訳なのです。

ただ発刊日はわかりません。もう少し詳しく調べてみます。

戦前における内務省の検閲-7

ここで著者の希望と記入していますが、明らかに内務省警保局の干渉があったことはわかります。それは、前記に示したように「淫詞邪教」ということであります。

それを予め察知して、其の対象となる項目を自ら切り取ったということであります。

なんと、悲しいことなんでしょうか、自らの著書を切り取るということは本当に断腸の想いだったということは想像できます。戦前の言論弾圧はこうした厳しさがあり、更に戦後のGHQによる検閲や言論統制はそれに増して厳しいものでした。

 

さて、話を戻します。『生命の實相』菊判装と『生命の實相』頭注版と比較してみます。社会運動の状況」より

菊判装6

頭注版

1718

禁書の理由(『運動の状況』の文章)から個人的に推察してみます。

81

349行~3511

生長の家は無薬無病の思想は医療妨害的布教言動

92

50

巽忠蔵氏の胃腸病の治癒は『社会運動の状況』昭和13年に記載あり。

宮崎県

光明思想普及会取締役   巽 忠蔵

112日夜宮崎市に於ける講演会(聴衆約150名)に於いて「勝たずば生きて還らじと」と云う軍歌があり今や多くの兵士が死んで来ますと云って出征して

居るが之は間違って居る「自分は『必勝生還』と言う事

が本当であると思う」と講演す。

133

P113

胃下垂の治療における方法

164

P158159

6年間の瘤が神想観にて治癒

279

18巻 P105

医療を尽くしても治らなかった小水が神想観で治癒

391

24P145

不治と言われる糖尿病も治る。

431

掲載なし

内容が変更のため、戦前黒布表紙版14巻から

文部省当局方面でも次第に教育に宗教を以て賦活しなければ本当の教育が出来ない。文部省に意見をのべたからだと思います。

 

 『生命の實相』菊判装第二巻

これも内務省の調査では知らされていない検閲です。

切取られいますので、二頁となります。

九巻のように添付されたメモのようなものもありませんので、やはり自主的に削除を行ったのではないかと思います。それはあまりに切り取られた頁が多いのです。但し、これはあくまで私の推測です。

 

 


本菊判装『生命の實相』第二巻

經典篇(一)聖經『甘露の法雨』講義

  第一章  神と佛と靈
  第二章  物質と實在
  第三章  智慧と無明と罪
  第四章  人間の實相及び假相

經典篇(二) 聖経『天使の言葉』講義

(一~一二)(12

生命篇  生命圓相の眞理

第一章   果して物質的治療は病気を征服

し得たか

第二章    生きる力の神秘

第三章    心の平和に到達する眞理

第四章    『生命』は愛と智慧とによって生く

第五章    思念の力

第六章    人間は『肉體』でない話

第七章    眞理は爾を自由ならしめん

第八章    祖國愛は神の道

第九章    愛の神による運命の修正

第十章    生命磁気を語る

第十一章  現代醫學を語る

第十二章  死線を超えた實話

第十三章 『無』の經濟と『無』の醫學

 

この中から

3740頁  聖經『甘露の法雨』講義

179186頁 聖經『天使の言葉』講義

194198頁 聖經『天使の言葉』講義

222232頁 生命圓相の眞理

361370頁 第十章 生命磁氣を語る


 

多量の頁が一度に切り取られています。

あまりにも、その頁数の多さに眩暈を起こしそうです。

 

 

「内交」の本

次にですが、戦前には出版された本を内務省に「内交」という制度があり、現在では国会図書館の納本制度と同じで、知的所有権を国会図書館において保存していただくということを「内交」ということばでよんでいました。

国会図書館から抜粋させていただきます。

 

明治81875)年に、納本事務を文部省から内務省へと移管する内容の太政官布告が発布されて以来、出版法が廃止される昭和24年(1949)までの間、出版された図書は内務省へ納入することとされていました。内務省交付本(内交本)とは、内務省へ納入された図書のうち、旧上野図書館*に交付されたものを言います。

旧上野図書館では内務省を通しての受入だったため、「納本」の語を用いず、「内務省交付」略して「内交」の字が用いられました。現在の当館蔵書にも「内交」の受入印の見えるものがあります。

 

次頁にその「内交」というハンコが押しているのが国会図書館にあります。『神を審判く』という立教以前の著作ですが、大正12721日の発行で内務省が押している日付が721日だとわかります。

戦前における内務省の検閲-6

 

P1180298

昭和13728日発行の『百事如意』ここでは「無限供給の神示」が省かれています。

 

 『生命の實相』信の巻について

 『生命の實相』信の巻は削除済のスタンプを押している著作は所有していませんので菊判装からそれを探ってみます。

 

菊判装で第九巻に削除済の印鑑がおされているのですが、その目次で第二巻と同じ目次があることが下記に示しました。

 


本菊判装『生命の實相』第九巻

女性教育篇 母・妻・娘の聖書
 第一章  女性の觀点を一新せよ
 第二章  『女だから』と云ふ言葉
 第三章  妻を『養ふ』と云ふ言葉
 第四章  無限供給の經濟の立て方
 第五章  家庭幸福への道
 第六章  結婚前の娘及び母への注意
 第七章  ダリアの花に題して
 第八章  本来一つのもの

 第九章  親切行に就いて

 第十章  空想的人類愛より實際的人類愛

 第十一章 レヴュ―の精神分析

 第十二章 家族全体を健康にする方法

 第十三章 花嫁学校に於ける講和

家庭教育篇 家庭と教育の基礎
 第一章  愛兒の能力と夫婦陰陽の調和
 第二章  拝み合ひの生活
 第三章  無痛分娩の方法と心掛
 第四章  蝦兒を無痛分娩した話
 第五章  胎兒及胎兒以前よりの教養
 第六章  配偶の觀相學的選び方
 第七章  そのまゝ素直に有りがたい
 第八章  或る結婚式場での話
 第九章  愛兒の健康への近道
家庭教育篇 家庭と教育の基礎
 第一章 愛兒の能力と夫婦陰陽の調和
 第二章 拝み合ひの生活
 第三章 無痛分娩の方法と心掛
 第四章 蝦児を無痛分娩した話
 第五章 胎兒及胎兒以前よりの教養
 第六章 配偶の觀相学的選び方
 第七章 そのまゝ素直に有りがたい
 第八章 或る結婚式場での話
 第九章 愛兒の健康への近道
佛教篇 いのちの解脱
 第一章 『いのち』の自由
 第二章 釋迦の成道
 第三章 久遠流るゝいのち
 第四章 維摩經及涅槃經に現はれたる『肉體無』
 第五章 宗教と科學に就て
 第六章 即身成仏の眞理

 第七章 寂光を更に超えて

 第八章  勝蓮華世界の蓮華王座

この削除済は

第八章 勝蓮華世界の蓮華王座の章の四「大生長の家」に就いての神示か、五 久遠日本の發見

の項目に切り取った跡がある。

つまり、『生命の實相』信の巻の目次は

事変版ビロ-ド表紙版・人造羊皮版

信の巻

佛教篇 いのちの解脱
 第一章 『いのち』の自由
 第二章 釋迦の成道
 第三章 久遠流るゝいのち
 第四章 維摩経及涅槃経に現れたる『肉體無』
 第五章 宗教と科學の不敬性
 第六章 生長の家と醫療問題

 第七章 寂光を更に超えて

 第八章  勝蓮華世界の蓮華王座

基教篇   新約聖書の示す眞理

第一章 山上の垂訓の示す眞理

第二章 白馬に跨れる神の王

第三章 日本國體と旧約聖書との問題

神道篇   日本國の世界的使命

第一章 古事記講義

第二章 皇軍の倫理

第三章 世界秩序の崩壊と再建

第四章 戦勝祈願の倫理

第五章 理念のための戰争

第六章 余の國家主義

幸福生活篇 幸福生活への根本眞理
 第一章  幸福の扉の開き方
 第二章  ありのままの生活
 第三章  無礙の大道
 第四章  廻心の原理
 第五章  腹の立たなくなる法



 

ここで菊判装の第九巻と信の巻の共通項目は佛教篇「いのちの解脱」です。

この中の佛教篇の第八章  勝蓮華世界の蓮華王座の部分が削除対象となったのである。

つまり、③ 『生命の實相』信の巻は

蓮華王座の章の四「大生長の家」に就いての神示か、五 久遠日本の發見が発禁の対象となった。

 

 

② 生命の實相 第二巻 黒布表紙版

この御著書についても「削除済」の本を所有していませんので、菊判装から何がその禁書とされたのかを探ります。

それでは『生命の實相』第二巻の目次を列挙させていただきます。


全集第二巻『光明篇・生命篇』

戦時廉価版『生命の實相』二巻

聖典讀誦の功徳(はしがき)

『七つの燈臺の點燈者』の神示

光明篇  生命に到る道

第一章   一切の宗教を生かす『生長の家』

第二章  『生長の家』は日本精神の源泉

第三章  『生長の家』とは何であるか

第四章  『生長の家』は何を信じるか

生命篇  生命圓相の眞理

第一章   果して物質的治療は病気を征服し得たか

第二章   生きる力の神秘

第三章   心の平和に到達する眞理

第四章   『生命』は愛と智慧とによって生く

第五章   思念の力

第六章   人間は『肉体』でない話

第七章   眞理は爾を自由ならしめん

第八章   祖国愛は神の道

第九章   愛の神による運命の修正

第十章   生命磁気を語る

第十一章  現代醫學を語る

第十二章  死線を超えた實話

第十三章 『無』の經濟と『無』の醫學

 

ここで注目すべき事柄があります。小さな紙に

『生命の實相』菊判装第六巻

81

92

133

164

279

391

431

の各頁は著者の希望により削除いたしましたから悪からず御諒承下さい。

ということは

菊判装第六巻の目次を確かめると

本菊判装『生命の實相』第六巻

 

光明篇  生命に到る道

第一章    一切の宗教を生かす『生長の家』

第二章    『生長の家』は日本精神の源泉

第三章    『生長の家』とは何であるか

第四章    『生長の家』は何を信じるか

宗教問答篇  生活に生きる宗教

第一章  生活に生きる宗教
第二章  天國浄土を實現する道
第三章  『無』もない世界に入る話
第四章  眞理に救はれ行く人々

第五章  肉體と境遇を良くする道(報恩行)
第六章  南泉猫を斬る生活
第七章  神の無限供給を語る
第八章  天地一切と和合する生活
第九章  種々の宗教問題に答ふ

質疑篇   眞理の應用及び捨遺

1、  現象なしの自覺に就いて

2、  殉死殉道の意義と價値

3、  神に三義ありとは如何なる意味なりや問ふ

4、  金光教を生かしつつ生長の家を信じたい

5、  人間神の子の完全さについて

6、  時間空間の觀念は何処から起るか

7、  物質に知性なきか

8、  周囲を生かすために働かないのは好いか

9、  個人の念は全人類の信念を超克し得るか

10、   偏食は不可であるか

11、   生命と靈魂と肉體との關係

12、   神佛一體なりや又別異なりやを問ふ

13、   個性は何處から来るか

14、   完全圓滿と無限生長との觀念は兩立し得るか

15、   『實相の心』と『偽存在の心』 『實相生命』と『現象生命』

16、   病気を起す潜在意識は如何にすれば除き得るか

17、   念の感應・人生空無・久遠本佛

18、   方便法と眞實法

19、   佛教は靈魂の存在を否定す、生長の家は靈魂在る如く説くは如何


戦前における内務省の検閲-5

こうしたのが大きな理由であるが当事の新興宗教の多くは弾圧を受けるのである。

下記の文章は今回の『谷口雅春先生著作年譜』の文章ですが

 

平成22年に内務省警保局「社会運動の状況」という資料を窺い知ることが出来ました。そこには宗教弾圧ともいうべきものもあり谷口雅春先生は「近況報告」でその旨を書かれている文面があります。昭和14年あたりから削除済という御著書が見つかります。そのタ-ゲットのような御著書が菊装版『生命の實相』であります。この本には何冊かには「削除済」という印鑑が押されています。その文章が

 

【『生命の實相』第二巻(昭和14625日発行)(菊装版)は内容中に医療妨害、

人心惑乱等 安寧を妨害するものありたる為、718日削除処分せられたり。(社会運動の

状況昭和14年度版 より抜粋)内務省警保局】

 

それでは「内務省警保局」というのはどのように検閲していたのか?

生長の家が東京に進出するあたりから「著作物」を検閲するようになったのですが、昭和10年頃には「皇道大本教」の二度目の弾圧を警保局から受けているのです。それは

 昭和10年(1935年)128日、早朝4時。

 綾部と亀岡の大本の神苑は武装した警官隊によって包囲されました。その数は合わせて500人以上もの大部隊です。

 

 腕に白布を巻き、白たすきを斜めにかけ、決死の覚悟で神苑内に突入した警官隊は、三代教主補・出口日出麿(37歳)を始め幹部信者を次々と拘束し、警察署に連れていきました。留置された人の数は綾部・亀岡合わせておよそ300人にものぼります。

また”ひとのみち教団”(現PL教団)も同様であります。

 

昭和11年、特高警察に目をつけられ、不敬罪の名目で開祖とその息子・御木徳近(みき とくちか)は逮捕・投獄される。昭和12年には解散命令がだされ、御木徳一は不幸にも獄中で病死する。

ともに「神道系」宗教であります。

勿論、「天理教」「金光教」もしかりであります。警保局より目を付けられていたのであります。

それでは「生長の家」においてどのような事例があるかというと

 

昭和17116日別府市松屋旅館における座談会の席上誌友藤川スミ(50)は体験談発表に際し「私は子供に対してお前達は飛行機乗りになろうと、大臣になろうと一生懸命勉強して天皇陛下に尽くして下さい。お母さんは如何勉強して偉くなっても皇后陛下になれないのだからと言っている」云々の言辞を弄したるを以って当時臨席せる警察官において直にその発言中止せしめ引続き本名を調べたる処、不用意の失言と判明せる為、大分県警察当局において厳戒に止めたり。

資料としては内務省警保局『社会運動の状況』昭和11年~17年に「生長の家」をいかに監視したかの文章が残っています。

 

講習会や講演会や誌友会など様々な監視があったことが記載されています。

*************************************************************************************

※神示のなかで出版物の検閲の厳しかった戦前に於いては、当時少部数の雑誌に発表されたときに、時の内務省警保局の検閲課から注意があり、若し書籍として発行せられるならば直ちに発禁が明らかであったために、そのまま『生命の實相大聖典』編纂の時にも『聖光録』編纂のときにも神示の全部を収録したいと思いながら、それを差し控えなければならなかったので、その儘伏せられていたものである。(『秘められた神示』はしがきより)

 

それは雅春先生の戦前の書物に"削除済み"という判が押されている本があります。これは内務省という印刷がされているが、「特別高等警察」(特高警察)も内務省の管轄である。治安維持法の実行部隊も内務省である。だから常に印刷出版には"内務省の検閲"があったのである。

そのため事前にそうした検閲にひかからない書物として出されていたのです。

 

ちょうど『秘められたる神示』などはまさにそうである。「豪華版『生命の實相』」などには検閲対象にされる言葉をあえて掲載しなかった。それを出版してしまうと、全てが弾圧を受けるのである。そういうことを把握しないで「生長の家」は語れない。

 

また、戦後において『平和版 生命の實相』の刊行の予定がありました。昭和21年『生長の家』誌12月号の5頁に掲載された「平和版『生命の實相』自費出版会員募集」という記事の中で、《唯今最も入手困難で、最も渇望されている、読んで病いが治り、運命が好転する無数の体験例ある(中略)生長の家聖典「生命の實相」全二十巻を、戦時のみに適せる心構の部分を省き、他は悉く完備せる厳密なる著者自身校訂の永遠定本の聖典を実費にて配本せんとする会です。》

 

『生長の家』誌 昭和22年3月号に「『平和版生命の實相』の自費出版計画も延期の止むなきに至りました」(『明窓浄机 戦後篇』31頁所収)と書かれているように、この平和版『生命の實相』の発刊は実現しませんでした。

 

戦前における「生長の家」の著書で禁書となったのが国会図書館の調査では下記の著作がその標的となりました。

  1.  百事如意

  2.  生命の實相 第二巻 黒布表紙版

  3.  生命の實相 信の巻 

  4.  生命の實相 第六巻 菊判

     

    但し、私が調べた結果も発表させていただきます。

    上記の四著作から更に、

  5. 『生命の實相』菊判装第二巻

  6. 『生命の實相』菊判装第九巻

    が発禁の著作であります。

     

    ただ禁書といえども、古書をお持ちの人はわかると思いますが、検閲の済んだ本は削除済というスタンプが押され、その頁を削除している。

    その本自体を焚書にするような事はしなかったのは禁案番号なしとしている戦前の禁書であります。生長の家の御本は多くはそうした被害を免れているのですが、やはり厳しいものがあります。

    下図は削除済のスタンプを押した『生命の實相』菊版装第六巻と第二巻

     

     

     百事如意

    上記に記入した『百事如意』ですが、『百時如意』と記されているだけで、どの書物か判断は難しい部分があるのですが、判の大きさが記載されているのと発行禁止の年月日が記載されているので、

    昭和11421日発行の『百事如意』であることがわかります。

     

    それではこの著書のどこが発禁処分となっているのかを探ってみます。

     偶然にも警保局のハンコは押されてはいないのですが、二冊所有の片方には「無限供給の神示」が無残にも切り取られているのです。

     

    「無限供給の神示」昭和755日神示

    ただ、その当時に既に発行されていて「無限供給の神示」が記載された『生命の實相』にはその難を逃れたものも多くあります。

    P1180303

    昭和11421日発行の『百事如意』

    P1180296     P1180297

    上図は「無限供給の神示」が記載  上図は目次に記載されているが鋏で切り取られている

     

    昭和15220日発行の『百事如意』であるがこれには「無限供給の神示が

    記載されていたのだが、下図のように剥ぎ取られています。

    (印刷した後に気がついて剥がしたか、その部分を省いて印刷したのでは

    ないかと思います)

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