則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2018年01月

讀んで戴ければ幸甚です。

昨年を振り返る


「生長の家」谷口雅春著書で昨年では新たに知り得た御本があります。それは下記の本です。

The Science of Faith

HOW TOMAKE YOURSELF BELIEVE

F.L.ホルムス、谷口雅春共著 出版社 DoddMead & Company(ニューヨーク)出版日は不明、昭和28年は間違いありません。272頁 B6

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『信仰の科學』
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この御本は日本では『信仰の科學』として出版されております。

色々な御本で様々な情報のなかで意外と知らない本があるのは私も驚きです。戦前ならいざしらず、戦後出版の御本で知らない場合があるのには我ながら驚きました。

 

 勿論、日本で出版されていないからとか理由はあるのかも知れませんが、それなら『生長の家五拾年史』に掲載されていてもおかしくない。それが掲載されていないので、いままでその情報は全くなかったです。

 

それでも、私が編纂した『谷口雅春先生著作一覧表』は日本一の一覧表であると自負しております。

しかし、これを出版するにあたって苦労は堪えませんが現在では遣り甲斐だけで行っています。

 

 

そのことは自信をもっていえます。本部の著作集には負けないものはあります。それは本部の資料もある方から送って戴いたのでそれはわかります。

 

また、以前にも書きましたが重複しますが昨年はもう一つ重要な事をこのブログで書きました。

それは戦前の谷口雅春先生の禁書された本を発表させていただいたことです。内々には分かっている本もありましたが、実際ははっきりしたことはわかりませんでした。ただ、『生命の實相』に削除済の印鑑が押しているというので、その本が禁書であったということです。少し前後して申し訳ないがこの書いている内容は戦前の内務省警保局の関連である。

 

検閲した本は内務省交付というハンコがおされています。略して「内交」というハンコの本を発見しました。そういうことも生長の家の歴史で初めて私は発見しました。

内務省交付


 

それでも戦前ではわからない本もあることは事実であります。また『教化部建立記念で四部経が出版されている場合もあり、それらを含めるとわからない部分も多くあります。

 ただ、このブログで幾多の著作集を履歴させていただいておりますので、御存知の方も多いと思っています。

 今後、現在の「生長の家教団」は谷口雅春先生を否定する言動などが出てきます。そこをどのように対応するのかを今後の課題としております。

生長の家社会事業団の所有する谷口雅春先生著作は『生命の實相』『真理』『聖經』と夥しい書籍のなかでも僅かの量ですが、根本義の御本が社会事業団にあることは喜ばしいことです。

ただ、これを如何に頒布していくかは「光明思想社」に一存されているのですから、もう少し頑張って欲しい。『学ぶ誌』を見ると花田さんが加わっているので、少し安心しました。花田さんには頑張って編纂して欲しい。

新年早々心痛むコトバ

私は下記の標題で「学ぶ会」の幹部である破邪顕正さんがコメントしたのは大変驚愕している。その驚愕しているのは「谷口清超先生、雅宣氏、貴康氏」の三方ではない。破邪顕正さん本人である。

 これほどのコメントを標題で書くことは私のような身分のものならいざ知らず、「学ぶ会」を背負っている責任者が書くようなことではない。

 人は例えどんな事になろうとも「事情通」というコメントのみを信用して「公」というインタ-ネットで喧嘩を売るような「コトバ」はなんとも言えない程虚しい。

 仮に「生長の家」として考えて頂きたい、私のような「生長の家」の真理を摘み食いのような人間でもここまで書くのは「谷口家」に喧嘩を売っているようにしか思えない。

 

 私も「学ぶ会」の代表の事で書きましたが、私が書いた内容は全て当時の理事が発言した内容です。三人の先生です。破邪顕正さんは凄く怒りましたが、そこでわかったのは「図星」だったんだな。内容はここでは既に書いているので書きません。

 

 しかし、当人の私も大変不快な思いしか残らなかったのも事実です。そういう体験からですが、破邪顕正さん、そんなこと云って本当に「生長の家」を大きくみて解決するのであろうかであります。私はそんな事をしては「学ぶ会」も大きく発展しようと考えるなら、自重すべきであろう。喧嘩をしても何にもならないことです。自分の体験でもそうですが、虚無に等しい。

 

 私は人道という言葉がありますが、昨年末のブログでも書きましたが、「村八分」という言葉です。「生長の家」本部がそれを実行出来ていない。勿論、「村八分」という言葉は現在では差別用語ですが、それでも喧嘩相手を「100%」懲らしめるのではなく、少しでも良き点を見つけることも必要であります。例え20%でも相手の良き所を考えることです。

 人間には「つい勢いで云うこともあります」それでも立ち止まって「私は何をしているのであるか」と立ち止まって考えることです。

 

 私は大阪で開催した「生長の家教義研修会」で破邪顕正さんに質問した内容を憶えていますか。教義終了間際のことです。質疑応答で私の意見が破邪顕正さんに止められてしまったが、安東先生が大変、褒めて頂いた内容でした。講師派遣の件です。沢山の質問や主張のなかで何故、安東先生が褒めたのかわかりますか?

 

 しかも、昨年末の森田先生の通夜の席で「その件で実行していこう考えている」と発言されたのであります。「阪田先生と協力して実行していこう」という事です。

 

 少しこの件で多分失礼ながら破邪顕正さんにはわからないと思いますので、回答させていただきます。

 

 講師になる人ということで沢山の手が挙がりましたが、それを補えるような講師派遣をしていないということです。講師といえば同じようなメンバ-です。やはり育成機関や勉強なども必要なのは当たり前です。併し、手を挙げた人に仮に生長の家の教義について質問したら多分狼狽えるでしょう。つまり答えられない。

 現在、私のブログで「紋理」ということで自分ながら悪戦苦闘しながら問答しています。これは「生長の家」の立教当初から出てくるコトバですが、それなら現在の講師の人は答えられるかであります。

 

 また、古事記解釈で色々な質問をしますが、果たして答えられるのでしょうか?

 また、歴代天皇の事で答えられるのでしょうか?

 

それこそ、専門外だとか想定外とかで言われてしまうだろう。

私も生長の家の歴史を勉強する爲にあらゆる分野において自分で調査し、探究しました。そして恥ずかしながら「出版」もしました。

 そこでですが「教義研修会」を実行するためにまずはあらかじめやらねばならないことがあります。

① 講師勉強会

② 歴史についての考え方の育成

③ 日常生活の生き方

④ 後輩を育成するには

 

私はどうして③を加えたかわかりますでしょうか?その人を見る場合、講師でいくらいい事を発言しても日常はどうなんだということです。生長の家の生き方もそうですが、周囲に褒められるような生き方が出来ているかどうかではないでしょうか?挨拶は当たり前です。奉仕もそうです。周囲が見てもその人柄がわかるような生き方が出来るかどうかです。

昔、私の近くで有名な白鳩支部長の先生がいました。しかし隣地区の白鳩支部長と仲が悪く、困っていました。だから、その白鳩支部の先生は近隣では決して講話などしないのです。私も青年会でその白鳩支部の日常生活を垣間見る時がありましたが、「がっかり」したことがあります。生長の家では日常も大切な養成機関です。どのように生きるかはその人にかかっています。

 

いろいろ書きたいこともありますが、社会人として考えると「嫌な事」でも我慢しなければならないことも多々あります。ただ、長として考える場合は「言っていけないこと」というワキマエも必要だと思います。

 

それでは破邪顕正さんの文章を抜粋致します。

 

【教団変質の淵源は、谷口清超先生、雅宣氏、貴康氏の「三者会合」にあり!

 

日時:20180101 () 1442

名前:破邪顕正

 

明けまして、おめでとうございます。

 

平成30年は、明治維新150年に当たり、歴史的な節目となる年です。

 

皆様にとって、素晴らしい1年となりますよう、心からお祈り申し上げます。

 

さて、今年、私の最初の投稿は、表題に掲げたように、この「三者会合」こそが、今日の教団の変質を決定づけたという問題提起であります。

 

昨年、私は《緊急重大情報!》(8243)というタイトルで、上記の件について、連続投稿してまいりましたが、その中で、「事情通」さんより、とても重大な情報をご紹介いただきました。

 

これこそ、間違いのない歴史的な事実だと感じ、年が改まった今、この「事実」を多くの信徒に知ってもらうべきだと痛感し表題にさせていただいた次第です。

 

それでは、改めて、その投稿を引かせていただきます。】

 

さて、そこでですが、「事実」という言葉を記入されていますが、果たして事実かどうかであります。インターネットの書き込みである「事情通」という人の文章を信頼して「谷口貴康先生」が云われたということです。だがこれもあくまで「伝聞」ではないかということです。

 

それを「事実」として確証できるかといえば「ノ-」であります。それを実証するには直接貴康先生に聞くしかないのです。この文章には「伝聞」と「推定」しかない。それを間違いのない歴史的事実として記入していいのであろうか…

でも、破邪顕正さんは直接聞くなどということはしないであろうし、そんな勇気もない。

 

【そして、最後に席を立つときに、雅宣氏が疑いを持っている人達(祖国と青年協議会賛同者 筆者註:『祖国と青年』を発刊している日本青年協議会賛同者)を差したものだと思われるが、「そもそもあんな古臭い皇国史観ではだめだ」と言い放ち、それに対して少し驚いた清超先生は「まあそういうことは自分で確かめてからにしなさい、貴方の思っているような本部ではないと思う」

そののち、本部情報宣伝部?におそらくご本人の希望で入られたのでしょう(推測)

異常(筆者註:以上)の事、事情通は谷口貴康氏から直接うかがいました。】

 

私もこの文章も本当かどうか眉唾物であることを思っています。

その文章はどこに表れているかというと「祖国と青年協議会賛同者」そんな団体など無かったし『祖國と青年』も青年会でもごく一部しか愛読していなかった。青年会とは異なるのです。ここで書いている事情通もそういうこと全く知らないで書いているように思えます。

また日本青年協議会とは「元号法制化」では一緒になって実行しましたが、それ以外にも沢山の団体と行いましたので、当時の実態とはかけ離れている。

 

こんな文章を本当に信じていいのであろうか、通常ならば懐疑的にみるのが妥当であるが、今回の阪田先生の御文章を踏み台にしているようにか思えない。大変残念な文章です。

 

下記の「しろうさぎ」さんの文章のほうが胸に突き刺さります。

皆様、如何に考えてみるかです。

 

【心が痛みます。NEW (8610)

日時:20180101 () 2222

名前:しろうさぎ

合掌 ありがとうございます。

 

私、しろうさぎは谷口清超先生のことを心からご尊敬申し上げております。

 

谷口雅春先生から法燈継承された先生です。

私は谷口雅春先生のご聖典とともに、谷口清超先生のご著書も聖典としていつも拝読しております。

そして救われています。

 

こんなに素晴らしい谷口清超先生のことを投稿されたのを見て、心が痛くなりました。つらくなりました。

私だけではありません。

教団を退会された他の方々も、そう言っておられます。

 

新年早々、本当に心が折れました。】

組織紋理

下記の文章は『驀進日本の心と力』から抜粋致しましたが、この内容は『新日本の心』にも同様の内容があります。

 

日本學的大乘佛敎の樹立

釋迦は宇宙の實體なる道(コトバ)と一體になった時に佛に成ったと云ふ。佛とは何であるかといふと、日本式にいへば『ミコト』(御言―道(コトバ))である。宇宙の本體は高天原命であって宇宙全體に鳴り響いてゐるコトバである。『高天原』と云ふ場合は、實在の客觀的(體)展開であり、主觀的(用)神格として其のまゝ宇宙(アメ)に中してゐ給ふ御本體が、之御中主神であらせられるのである。

 

『古事記』にあるとほり『天地の初發(ハジメ)の時高天原に成りませる神の名は天之御中主神』なのである。宇宙に充ち満ちて鳴り響いてゐるところのコトバが天之御中主神なのである。それはミコトであり、コトバであらせられるから、一面から云へば『敎』である。一切の『敎』一切の『則』は茲から發する。

 

華厳經に於ては華嚴經に於ては蓮華藏世界海の中心座にまします宇宙的大敎主は大日如來ち魔訶毘盧遮佛と云ふことになってゐるが、それは當時の印度の普通名詞を以て申上げたのであって、宇宙ち高天原の大敎主は天之御中主神であり、一切の萬德、道、命、法則、智慧、光明、慈愛、供給悉く天之御中主神より發するのである。

 

宇宙の眞理は三千大千大世微塵數偈―ち無限であって説き盡すことが出來ない。そこで釋迦はたゞ粘華微笑した。蓮華の華を手にとって悟れと云はんばかりに迦葉に向って微笑したのである。その微笑が三千大千大世微塵數偈の説法である。その微笑の中に宇宙の鳴り響いてゐる眞理全體があるのである。これを傳へることが釋迦出興の目的であった。

 

蓮華の構造になってゐる宇宙の組織紋理に籠ってゐる實相微妙の相(スガタ)が華嚴經である。『經』を以て紙上又は竹扁上に描かれたる文字と思ふは誤である。『經』とは『コトバ』であり、ミコトである。佛地經第一には『能く貫き能く攝するが故に經となす』とある。宇宙を貫き充滿してゐるコトバは蓮華荘嚴の相であるから、『蓮華荘嚴』の世界ち蓮華藏世界海と云ふのである。『海』と云ふのは本體は動かずして、諸々の波動にて千波萬波一切の相を顯するから蓮華藏世界海と云ふのであり、一切の寶充滿せる『海』であるが故に龍宮海とも云ふのである。龍樹が龍宮海に到って、初めて大乘の經典を得、その蓮華荘嚴の相を捉へて華嚴經と名附けたと云ふのも當然のことであるのである。

 

では蓮華といふ言葉を以て何を説明してあるのであらうか。龍樹は時期到らずと云って、蓮華經の上本、中本の如き其の大部分を龍宮海に遺し置いて、その下本略本と云ふ如き簡略本だけを地上に持來ったと云ふのである。併し、もう時期は近づいたのである。華嚴經の本當の意味を、宇宙の神祕を、吾らは愈々地上に闡明しなければならない時期に近づいたのである。

 

梁譯攝大乘論釋第十五には『大蓮華を以て大乘所顯の法界眞如に譬ふ。蓮華は泥水の中に在りと雖も泥水の爲に汚されざるを法界眞如の性の自ら開發し、衆生若し證せば皆覺悟(さとり)を得るに譬ふ』とある。ち蓮華が泥中にあって汚れざることゝ、内部から自然に開發することゝを、眞如が内部から自然に開發することに譬へたのであるが、何も内部から開發する華は蓮華には限らない。すべての水草の花は泥中にあって汚れず内部から開發するのである。そうすると、實在の世界を蓮華に喩へたのはもっと深い意味がなければならない。此の深い意味を開發しなければ、龍宮海底にある華嚴經を引上げて來たことにならないのではあるまいか。

 



  さてこの中にも「宇宙の組織紋理」という言葉がありますが、この紋理という言葉も同じように「コトバ」即ち「スガタ」であり、そこに中なるものがある。それを紐解くのが「華厳経」の宇宙的大敎主なるもの「皇」即ち「ス」、「統べる」の「ス」である。

 

それを悟るとかではなく『自覚』することである。『天之御中主之神』の自覚である。

昨年最後のチャレンジ 75.9km

和歌山までを途中断念

 

昨日は平成29年の最後に運動をあまりしてこなかった自責を感じて、夏に行動した御坊駅から和歌山駅までを途中断念した思いもあり、再度チャレンジしてみようと大晦日に決行しました。運動不足は直ぐに表れます。難波駅を過ぎた頃に諦めム-ドです。脚が動かないのです。これじゃダメだ。とりあえず、行けるところまで行こうと考えるようになりました。

 

自宅 31日         0107     0

豊津駅           0125    1.6

淀川区(長柄人柱の碑前)  0153    4.4

阪急梅田駅横         0252  9.4

南海難波駅前         0344  15.1

玉出交差点(国道26号線)  0438  20.3

堺駅前            0544  25.8

浜寺公園前          0645  31.3

春木駅休憩          0921  40.5

岸和田駅近く喫茶店      1000  43.7

泉佐野駅           1157  51.7

樽井北交差点(県道204号線) 1355  59.4

昼食             1400  59.5

淡輪(宇土墓前歩きのみ)   1613  68.6

南海孝子駅で断念       1753  75.9

 

帰宅途中には脚が痛くてたまりません。階段を降りるのがつらい。久しぶりの脚の痛みです。

万歩計は128297
和歌山県まであと1kmですが、駅が横にあり、気持ちがグラついてしまいました。
脚を止めると脚が痛くて、ゆっくりでも歩くことを心がけました。

今日は随分楽です。普通に歩けますが、階段は少し痛いです。

今年はもう少し頑張ろう!

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長柄人柱の碑
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浜寺公園前
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岸和田商店街前(奥にはコシノジュンコの店があった現在はコシノギャラリ-となっている)
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岸和田城
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泉佐野市に突入
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泉南市に突入
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阪南市に突入
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大阪府最南端の町岬町
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淡輪で崇神天皇皇子の五十瓊敷入彦命の陵墓です。手前がへ號、籠作です。奥の山のような林立する所に宇土墓があります。


上図では⑥です。

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みさき公園駅です。
次の駅である孝子(きょうし)駅です。ここも最南端の駅です。南海電鉄では乗降客が最も少ない駅です。周りにまばらに人家があるだけです。

いのちをまもる運動を展開しよう


 あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願い致します。

 私は勝田吉太郎先生を「生長の家大阪府教区青年会」でゲスト講師としてお招きさせていただいたので、よく存じ上げております。ロシア政治思想史が専門で近代日本思想にも造詣が深く日本教文社からも三冊の出版をされておられます。


『神なき時代の預言者ドストエフスキーと現代』日本教文社


『思想の旅路神なき世紀の悲劇を見つめて』日本教文社〈教文選書〉


『敗戦後遺症シンドローム』日本教文社、1983


そこで展開する


下記に勝田先生の優生保護法(母体保護法)に関して下記の文章を紹介させていただきます。


新年にあたり、“いのちをまもる”ということが叫ばれることも少数の人間しか言わなくなりました。


現在、京都では大熊先生が「いのちを守る親の会」で活躍されておられます。もう一度、いのちを守るとはどういうことなのか、それを考える年としたいと思います。


 


 


京都大学教授   勝 田  吉 太 郎

 私事になって恐縮ですが実のところ私は、この中絶問題をちょうど10年ほど前から、ひそかに顔を赤らめながら提起し、批判の文章を書いてまいりました。 何しろ私のような俗物は中絶問題をとり上げる資格がないと反省するからでございます。 

 ほんとは、宗教家がこの問題を提起すべきだと思うのです。 ところがわが国の大方の宗教家はどうでありましょうか。 現今わがマスコミをにぎわしている核戦争反対、反核反米の平和運動、これは明らかにソ連製の政治運動であります。 そういう平和運動の実態を知ってか知らずにか、宗教団体が奔走して3千万とか何千万とかの核反対署名を集めて内外の共産主義者をほくそ笑ませているというのが現状であります。

 しかし知的に誠実な宗教家のなすべき仕事、それは、わが国における妊娠中絶の野放し状況 ―― いわゆる堕胎天国の状況に対して道徳的批判をなし、偽善と欺瞞の上に戦後の “豊かな社会” が成り立っていることに人々の反省を迫り、世論を啓発することではないでしょうか。 戦後のわが国風土の罪深さに恐れおののくのが、宗教的良心ではないでしょうか。

  私のような俗人には、この問題を論じる資格がないと知りつつ、おこがましくも中絶問題にかかわってきたのでしたが、生長の家の谷口雅春総裁は、はるかに以前から、つまり優生保護法が制定された当時から、この問題に警鐘を乱打されてこられました。 谷口雅春先生は、問題の核心をすばりと衝かれ、  『中絶は一種の殺人行為である。 法律はこれを許しても神の世界では許されない』  と断じておられます。 至言であると、私は思います。

 いま緊急の必要事は、現行の中絶法から 「経済的事由」 によって中絶を許容する条項を削除するよう広く国民に呼びかけて、法改正を求めることであろうと思います。 なにしろ、 「経済的事由」 によって中絶を野放しにしている例は、昨今中絶の自由化の方向へ動きつつある諸国にも見られないものだと言ってよいでしょう。

 わが国の場合、そういう中絶の野放し状況は、敗戦直後の領土の喪失、食糧難、人口激増、未曾有の敗戦による民族の自信喪失などの結果であったと言えましょう。 ところが、世界第二の経済大国となった今日でも、なお依然として、 “敗戦後遺症” が、この分野でも続いているのです。  「法は道徳の最小限である」 とドイツのある有名な法学者は書いておりますが、まさしく優生保護法の一部改正こそが戦後の偽善の風土の道徳的更生へいたる第一歩であろう、と思うのです。



 最後に一言いたします。 日本の保守党といえば自民党です。 ところで保守主義とは、英語でも同じく 「保守する」 という意味がございます。 問題は、一体何を保守しようとするかにあります。 利権を保守しようという主義ではないはずです。 そうであるなら保守党は利権政党です。 そういう政党なら一刻も早く消滅すべきであります。
 
 では “豊かな社会” を保持しようとするのでしょうか。 しかし、その豊かな社会というものは、すでにくり返し申しましたように、戦後の欺瞞と偽善の風土の上に築かれたもの、隠微な仕方でなされた大量殺人の上に築かれたものではないでしょうか。 そういう偽善と欺瞞の風土を保持しようとするのでしょうか。 もしそうであるなら、自民党は、真正な保守主義の哲学を欠如しているといわざるをえないでありましょう。

 自民党が保守党である以上、保守すべき価値を自覚しなければなりません。 その堅持すべき価値とは、自由であり民主主義であるはずです。 そういう価値意識があればこそ、わが国は、西側の自由陣営に組する同盟国となりうるのでありましょう。

 ところで、人間的、市民的自由という価値は、人権観念と不可分に結びつきますが、人権や自由の理念の最も奥深いところでその理念を支えているのは、良心の自由と人格の尊厳という道徳的、形而上学的な意義だと言えましょう。 良心の権利と人格の尊厳とに対する感覚の有無こそが、自由民主主義と全体主義とを区別する標識なのであります。

 保守すべき価値に覚醒した自民党である限り、人間の尊厳を損傷する “堕胎天国” という状況を、本来ならばずっと前から深刻に反省すべきであったろうと、思うのです。 このように考えてまいりますと、優生保護法の改正は、わが国の保守党の道徳的な更生に直結するものであります。 たんに一自民党だけではありません。 言葉の最も深い意味において戦後日本の道徳的更生に導くものでありましょう。 換言しますならば、まさしくこれこそが、 “精神革命” を意味します。

     昭和57年6月19日 講演会記録より


 



 


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