則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2017年12月

讀んで戴ければ幸甚です。

『真理を生きる』について

『真理を生きる』は購読できるのでしょうか。
できるのであれば、教えていただきたいのですが。
このような連絡を頂きました。

ただ、どのようにして伝達するのかが難しいところであります。
インタ-ネットにおける伝達では最新の注意を払う必要があります。出来ればメ-ルのアドレスを教えて下さい。(コメントにして下さい)
そこに

お申し込みに際して

 ご住所

 お名前

 電話番号

 信仰歴など簡単な自己紹介

を記入して下さい。
ある人から直接そちらにメ-ルが行きます。
奉仕でこうした素晴らしいことを実践なされておられますので、出来れば敬意をしめしていただければ助かります。

それと、あちらこちらに同様の記事は御遠慮をお願いいたします。
すみませんが宜しくお願いいたします。


明恵上人とあるがままに

「明恵上人遺訓」には

 

【人は阿留辺畿夜宇和と云[いふ]七文字を持[たも]つべきなり。僧は僧のあるべき様、俗は俗のあるべき様なり、乃至帝王は帝王のあるべき様、臣下は臣下のあるべき様なり。此あるべき様を背く故に、一切悪[わろ]きなり。】

 

私はこの「あるべきよう」という言葉が如何に大切かがわかります。

あるべき所に物事が収まる。背伸びしないこと。

この言葉は

川端康成のノ-ベル賞授賞式の言葉から

 

“雲を出でて我にともなふ冬の月

  風や身にしむ雪や冷めたき 

春は花夏ほととぎす秋は月 

冬雪さえて冷しかりけり”

(道元禅師)

 

“雲を出でて我にともなふ冬の月

 風や身にしむ雪や冷たき”

“山の端にわれも入りなむ月も入れ

 夜な夜なごとにまた友とせむ”

“隈もなく澄める心の輝けば

 我が光とや月思ふらん”

“あかあかや あかあかあかや あかあかや

 あかやあかあか あかあかや月”

(明恵上人)

 

「歌を詠むとも実に歌とも思はず」(西行)の趣きで

素直、純真、月に話しかけるそのままの三十一文字で

いわゆる「月を友とする」よりも月に親しく

 

月を見る我が月になり、我に見られる月が我になり

 

自然に没入、自然と合一しています。

暁前の禅堂に坐って思索する僧の「澄める心」の光を

有明の月は月自身の光と思ふだらうといふ風であります。

「我にともなふ冬の月」の歌も

まことに心やさしい

思ひやりの歌とも受け取れるからであります。

雲に入ったり雲を出たりして

禅堂に行き帰りする我の足もとを明るくしてくれ

狼の吼え声もこはいと感じさせないでくれる「月の光」よ

風が身にしみないか、雪が冷たくないか。

私はこれを自然、そして人間にたいする

あたたかく、深い、こまやかな思ひやりの歌として

しみじみとやさしい日本人の心の歌として

人に書いてあげています。

 

雪の美しいのを見るにつけ

月の美しいのを見るにつけ

つまり四季折々の美に、自分が触れ目覚める時

実にめぐりあふ幸ひを得た時には

親しい友が切に思はれ、このよろこびを共にしたいと願ふ

つまり

美の感動が人なつかしい思ひやりを強く誘い出すのです。

この「友」は、広く「人間」ともとれませう。

 

さて、明恵上人の

“あかあかや あかあかあかや あかあかや

 あかやあかあか あかあかや月”

は単純にコトバを並べたようにも感じますが、それだけではない「あかあかや」と詠嘆の間投助詞の「や」を付けることにより「赤い」言葉が更に強調され、それだけの赤いものはなんだろうかというと最後に「月」として捉えています。純朴な詠である。私も明恵上人のその詠が詠まれた「高山寺」には何回となく訪れました。北嵯峨の北側にある静かな所である。清滝川のせせらぎが聞え、そこで月を愛でるとはなんという贅沢であろうか。しかしそうした「あるがまま」の世界觀とはなんであろうか?

それは「あるがままに」とは

自然において存在する事物が対象での事実を現すことである。

だから、自然に造形美と創作したりするのは「あるがままに」ではない。そこに「人工的な」建築物を建立するのは「あるがままに」の思想から外れている。昔の佛教建築はそのあるがままにと一体化することを心掛けた。

『紋理』とは

下記の文章は昭和22年に出版された『美しき生活』の序文です。勿論谷口雅春先生の御著書です。

その全文を掲載させていただきます。その文章の中に『紋理』というコトバが出てきますが、その『紋理』とは如何なるコトバであろうか?

それでは抜粋させていただきます。

 

美的價値と行(序文)

 人間は宇宙の生命が咲き出でた美花である。それに氣着かぬ人が多いのは悲しむべきことである。人間自身が花であると云ふことに氣が着いたならば、人間はたゞ美しくいきることに懸命になれるに相違ないのである。

 人間の價値には、美的價値と、道德的價値と、經濟的價値とがある。經濟的價値とは物の生産と消費との關係に於ける價値とがある。經濟價値を生産のみにあると思ふのは間違である。生産と消費との調和に價値が生れるのである。

 道德的價値とは人間の心に生じたるものを行為に表すところの價値である。經濟的價値も、道德價値も、行を通してのみ、その價値を成就する。美的價値は離れて觀る價値であるから、行と最も縁遠いところの價値であるが如く思われ勝であるが、『美』もまた行を離れて存在し得ない。『美』は紋理であり、相(すがた)であるが、相(すがた)もコトバの振動によって展開するから、行なくんば美もまたないのである。

 人が若し物質の世界にのみ住んでゐるものであるならば、彼は物質的に幸福な時には幸福であるし、物質的に不幸な時には不幸であるし、その他のことは全くあり得ない。それは偶然であるし、機械的であるし、人間の自由は全くないのである。

 ところが茲に自由人と云ふ人間がある。彼は不幸に見える時にもそれを幸福に展開することを知ってゐるし、如何なる困難でも切り開くことが出来る力を有(も)ってゐる。彼は人間は『心』であることを知ってゐるしその『心』によって無限の源泉であるところの『神』とつながることを知ってゐる。

 彼はこの世界の實質を物質であるとは觀ないで、『心』であると觀るのである。心を遡って無限の智慧、無限の愛、無限の生命、無限の供給の源泉である神として知るのである。そして不幸とか、災難とか、病氣とか、貧乏とか云ふ吾等にとって不快なものを悉く人生から驅逐するのである。美的價値を行にまで移すのである。本書は出来るだけ此の人生の美學を生活に實行し得るやうに説いたものである。

                               著者識

 

この『紋理』というコトバは生長の家では立教当初から発信されているコトバです。

『生長の家』誌 昭和114月号

『生命の實相』第1634

から抜粋させていただきます。

「歴史というものは一体何であるかと云いますと、現象界に実相が如何に投影し表現されて来るかということの、その顕われ方、即ち実相が現われる場合の作用、反作用という風なものを次第を追うて並べて行くことによって、その民族に如何様に実相が現われ、実相が現われんとするに当って如何に反作用を起し自壊作用を起したかを知り、それをずっと時間的に貫いて観てそこに実相が如何なる相を以て現われるかということを知ることによって、大宇宙に於ける日本国の位置及びその将来性を知り、現在自分が国家構成の一員として及び個人として如何に生きて行くべきものであるか、将来この世界は如何に発展して行くべきものであるかということをはっきりさせるためのものが歴史の研究であります。

ですから歴史というものは単に過去の記録を書いたという風なものではないのであって、生命の生生流動の流れの相、実相が現象界に貫いて輝き出る時のその儘の相が書いてあるのであります。

その相を見ることは自分自身の生命の相を見ることであり、宇宙の相を見ることであり宇宙が、自分が、今如何に生き抜いて、今後、如何に発展すべきであるかということを知ることであります。

 ですから、この『古事記』を研究致しますのも単に過去にこういうことがあったということであるとか、神話やお伽噺がこうであるとか、そういう死んだような物語を読むようなつもりで読んで頂いては間違いで、実相が迷を通して輝き出るときの波動紋理というものを掴み出さなければならない。換言すれば、吾々日本人が如何に実相を生き、如何に自壊作用と戦うて来たか、ということの記録が、この『古事記』に現われているのであります」

 

さて、ここで尊敬する亀の子さんが問答の提議しています。

【前回、谷口雅春先生の『光明法語』の「はしがき」を引用しました。


< 私が長崎に移転したのは決して運動の第一線から退くためではなかった。第一線より更に奧深く現象界の前線よりも一層深く現象以前の世界と交通するためであった。>】

 

現象以前の世界とは如何なる世界であろうか?果して混沌とした世界であるのであろうか。その世界との交通とは如何なるものであるのかです。

私はこの問答で直ぐに「紋理」というコトバを想い浮かびました。

紋理は皮膚紋理という言葉でも知られていますように易学では使用されていたり、臨床医学などにも用いられていますが、雅春先生はその紋理というのは「コトバの波動」としてモノを生み出す要因というのを「古代」が残した「跡」というものを敏感に感じて、長崎への総本山顯齊ということが成し得たように観じます。それが現象以前の世界は古事記の世界觀と一致するように想います。

住吉大神に御出仰するために、その世界と「ピタッと」合う世界がそこに實現させるために長崎の地にその国土不二というのか、身土不二というべきか、そこに合致した世界がある。その「地」こそ住吉大神の顕れ給う世界である。それを摑みだしてきたのが雅春先生ではないか。コトバの振動によって造った世界こそが「生長の家」出現の意味であろう。

天皇信仰とは歴史の把握

天皇信仰とは歴史の把握

 

天皇信仰を軽々と云っていないだろうか。とりわけ、私の「天皇信仰」というのは本物であろうか。常にそうした疑念を持ちながら歴史に対峙している。

まだまだ、自分では荷が重いとか、知らないことが歴史に多すぎる。日本にどっぷりと浸かって「日本的なるものの把握」を為せるのか。

 歴史の探訪や神社仏閣を通じて『古事記』のいのちの流れが脈々と受け継がれていることを知るだろう。

例えば、大山祇神社は全国各地に或るが

  • 大山積神(おおやまづみのかみ、おおやまつみのかみ)

別名として「和多志大神(わたしのおおかみ)」とも、「三島大明神」とも。伊弉諾尊伊弉冉尊の間の子で、磐長姫命木花開耶姫命瓊瓊杵尊の妃)の父。

元は山の神であるが、大山祇神社が瀬戸内海の要所に位置することなどから、大山祇神社では海の神としての性格も強い。

大山祇神社では社名「大山祇」と祭神名「大山積」とは異なる表記が用いられているが、かつては社名も「大山積」と表記されている

 ここには古事記を把握しなければわからない神の名前がある。また、歴代の天皇の名前があちらこちらに残っている。

川上村の北に接する吉野町はあらゆる面で後醍醐天皇の名前は外せない。また楠木正成などの南朝が活躍した場所であります。

ここには「古事記」「日本書紀」の逸話はいろいろとあります。

 

吉野町のホ-ムペ-ジには

 

花の吉野は、また豊かな歴史や伝承で彩られています。吉野という地名は、早くも記紀の神武天皇御東征のなかにでてきます。宮滝などでは縄文や弥生時代の土器が発掘されており、また、応神天皇以来、幾度と無く吉野の宮への行幸の記事がでてくることから、吉野は太古の昔から文化が発達し、世に知られた土地だったのでしょう。古代においては何と言っても、大海人皇子(後の天武天皇)が吉野に潜行され壬申の乱で兵を挙げられたことは有名です。時代が下ると源義経が兄頼朝の追捕を逃れて、愛妾静や弁慶などを伴って吉野に入りました。しばしの安らぎも束の間、吉野から逃れる際に別れざるを得なかった義経・静の悲恋の物語が残っています。さらに時代が下ると大塔宮護良親王が鎌倉幕府倒幕のために、河内の楠木正成と呼応して吉野を城塞化され、兵を挙げられます。また、建武の新政の夢破れられた後醍醐天皇が、吉野に朝廷を開かれたことは太平記に詳しく記されています。南朝四帝が吉野の地を頼みとされ、京都奪回のためにこの地から全国に号令を発せられたのです。この願いは遂に実現しませんでしたが、忠僧宗信法印をはじめ当時の吉野の人々は、我が身を顧みず終始、南朝のために尽くしたのです。

 

※さて、『真理を生きる』の平成2912月号が届きました。

阪田先生は今回のメ-ルを引用されていることで、破邪顕正氏の引用の間違いを指摘している。

それは標題にある

 

《緊急重大情報!》なぜ、生長の家教団はかくも変質したのか?その謎のすべては、3代目を引き受ける条件として総裁がつきつけた3箇条にあった!

 

しかし記入されているのは

【雅宣氏が生長の家本部に入るにあたって、清超先生に“三つの条件”を出したというのです。】

大きな間違いである。以前にも私は間違われて困ったことがあった。正確に伝聞しなければならないことを痛感する。

また、貴康先生にもお聞きしたいと思っています。

 

後南朝⑫ 瀧川政次郎

後南朝ということをこのブログで初めて知ったという人も多いのではないかと思っています。

私も随分昔から知ってはいましたが、何の興味もなく「それがどうした」という気持ちでした。それはある面「歴代天皇」における一つの負の遺産のような考え方がありました。

現在の「北朝」の天皇として異議を称えてみたり、異論をいうつもりではありません。ただ歴史の大きな「縦の流れ」にふと「埋もれている歴史」というものが気になっていました。

だが、正式に勉強もしなかったため月日だけが流れていきました。

 

また、宮内庁の陵墓指定ともなっている箇所が2カ所あり、どうして宮内庁までが指定するような陵墓であるかを考えると何かがあるのではないかと思っています。

ただ、少しずつ書き足していこうと考えています。それは金剛寺や川上陵墓参考地などの場所が山深い高地にあるのがなんともいえない気持ちにさせてくれます。また、今回初めて行った通称「かくし平」などは山の中腹に存している。

昔ならば、「にほんおおかみ」が沢山いたところである。熊や鹿やカモシカというのも沢山いただろう。行ってみると「登山の初心者」では危険が多い。それこそ足を踏み外すと間違いなく即死である。それが登山口から続く。

 

追ってを気にかけて此処まで逃げる気持ちというのは「落人」という所を何カ所か訪問しているので、なんとなくわかるが、ここまでの場所は全国的にもないだろう。

今後さらに深く探究していこうと考えています。また、再度訪問したい場所もあり、来年の春が過ぎてから調査しようと考えております。


ただ、後南朝の関連本は何冊か所有していますが、ここにそれを掲載しても誰も読まないと思っております。最近手に入れた本に

『後南朝史論集』がある。
著者は瀧川政次郎氏である。この人の本は2冊程所有している。『東京裁判を裁く』は有名であるが、『元號考証』等もある。

もともと法制史などを専門としているが、『神道史論叢』や『遊女の歴史』といろいろと勉強家でもあり、碩学である。夥しい著作はそれを物語って理。

このなかで『後南朝史論集』の中で『後南朝を論ず』には

 

後南朝を論ず   瀧川政次郎
 は し が き
後南朝〈ゴナンチョウ〉――といっても、一般の人にはそれがわかるまい。専門の歴史家の中にさえ、その名を知らない者がある。それは何故かといえば、後南朝史は長い間日本の秘史として隠されてきたからである。明治の政府は、億兆心を一〈イツ〉にして世々厥の〈ソノ〉美を済せる〈ナセル〉國體の精華を以て、教育の淵源としてきた。従って国史の醜悪な面は、なるべく国民に知らせまいとしてきた。
▼後南朝史は、後に詳述するように、天皇と天皇とが憎みあい、殺し合った醜悪な歴史である。従ってそんなことを国民に知らすことは、教育の根本を危くするのみならず、皇室の尊厳を害する。明治政府の要路者〈ヨウロシャ〉はそう考えたから、国定致科書は勿論のこと、歴史の専門書にも、後南朝のことは殆ど書かせなかった。歴史家もまた政府の方針に従って、後南朝のことは成るべく言わぬようにした。良心的な学者は、日本歴史の室町時代のところで、チョッピリ後南朝のことを述べたが、後南朝を主題とした論文は、誰も書かなかった。況んや〈イワンヤ〉その単行本においておやだ。


▼「後南朝史」と名のついた書物が出るのは、恐らくこれが初めであろう。満洲事変勃発以後、國體明徴が叫ばれ、皇室に関することが殊にやかましく取締られるようになってからは、学者は後南朝のことに関しては全く口を緘した〈トザシタ〉。後南朝の歴史は、後に説くごとく、三種の神器の奪いあいであるから、後南朝に触れるとなると、勢い三種の神器に言及しなければならなくなるが、戦争中は三種の神器のことは、学者のタブーであった。國體明徴の本家のように考えられていた井上哲次郎博士でさえ、三種の神器の問題にちょっと口を辷らした〈スベラシタ〉ために、あらゆる公職を失って、寂しい晩年を送った。今日の青年たちには全く想像することもできない御時勢であった。そんなわけであるから、今日国民が後南朝を知らないのも無理ではない。むしろ当然だ。後南朝て何のこと、と問うても決して恥ではない。
そんなら今お前が後南朝の歴史を書いてこれを公刊しようというのは、国史の醜悪な部分を暴露して日本歴史にケチをつけようというのかというと、決してそうではない。むしろその反対だ。私は教育勅語に説かれている倫理が誤りであるとは思わない。しかし、その前文は誤っている。教育の淵源を国史の精華に求めたことは、多くの害悪を生んだ。我が皇租皇宗国を肇める〈ハジメル〉こと宏遠なりというから、建国の紀元を新しく観ることは、教育の基礎を破壊することになる。
▼那珂通世〈ナカ・ミチヨ〉博士は、神武天皇即位紀元が六百年ほどサバをよんだものであるという学説を発表して、元老院書記官から東京高等帥範学校教授に左遷された。上下心を一にして世々厥の美を済してきたことが、国體の精華であって、それが教育の淵源であるから、日本の昔にも古代羅馬や希臘にあったような奴隷制度があったというようなことをいう奴は、国民教育を害する奴だということになる。故に日本奴隷制度の研究を発表した瀧川政次郎は、戦争中満洲に追いやられた。これでは日本歴史は良いことずくめの歴史にならざるを得ないではないか。
▼いつの世にも、曲学阿世の徒は多い。出世主義の歴史家は、みな日本のよいことを書いた。わるいことは無かったことにするか、またわるいことも善いことのように言いくるめた。そうして日本の國體は、金甌無闕〈キンオウムケツ〉であるとか、万邦無比〈バンポウムヒ〉であるとかいって誇った。天智朝に日本が唐・新羅と戦って大敗を喫したことはひたかくしに隠され、文永・弘安の役に蒙古軍を撃退したことのみが誇大に宣伝せられた。その結果、日本は傲慢となり、諸外国から憎まれた。勝ったことばかり教えてもらって負けたことを教えてもらわなかったから、禍い〈ワザワイ〉忽ち〈タチマチ〉身に及んだのである。
▼国民は明治維新を光栄ある革命だと教えられてきたが、明治維新は醜悪なる権力の争奪で、あんなことが再び起ってくれては困る。維新の志士は盛んに尊王攘夷ということを唱えたが、尊王も攘夷も討幕の口実で、本当には尊王も攘夷も行われなかった。維新の際に日本が国を保ち得たのは、日本が四方から日本に侵略してくる英仏露米の勢力の衝突点になったからで、ロシアに占領された対馬を取り返してくれたのはイギリスの軍艦である。それが国民によくわかっておれば、日本は支那事変に深入りして国力を消耗してしまうような愚かな真似はしなかったと思う。また維新の際に本当に尊王が行われていたら、勅命に背いて朝鮮の師団を満洲に入れるような陸軍大将〔林銑十郎〕も出て来なかったはずである。
▼日本が国をあやまったのは、国民に本当の歴史を知らせなかった結果であり、本当の歴史を国民に知らせることを阻んだのは教育勅語である。伊藤博文の反対を押切り、明治天皇に迫って教育勅語を発布せしめた侍講元田永孚〈モトダ・ナガザネ〉の罪は大きい。
▼私は真実に生きるということが、人間の最も大きな倫理であると考えている。善意でついた嘘でも、嘘はいけない。嘘も方便というが、方便程度の嘘ならよいが、国の方針なり、国民の心の持ち方をきめる大事の歴史に嘘があってはならない。ヒドラのように醜い姿であろうとも、真実をジッと見詰めて、善処の途〈ミチ〉を考え出すだけの勇気をもたなければ、日本の再建はできない。気やすめや希望的観測ばかりで進んでゆけば、屹度〈キット〉大穴に落込む。
▼きれいごとの日本歴史では、日本はよくならない。今日日本の国民は、自国の歴史を知らず、まるで歴史をもたない南洋の植民地の人民のようになりつつある。終戦後の日本人が日本の歴史を知らないようになったのは、アメリカの占領政策の結果でもあるが、日本国民か戦前の国史を全く信用しなくなった結果である。日本人も、神話を事実として押しつけられたり、よいことずくめの歴史を信用したりするほど悟性の欠けた国民ではない。日本歴史にはよいこともあり、わるいこともあったが、おしなべて外国の歴史よりすぐれている。だから日本は万邦比肩するもののないよい国柄〈クニガラ〉だというなら話はわかる。しかし、日本にあったものはみなよいことだというのでは受けとれない。一つの嘘がばれると、その人のいうことは全部嘘ではないかと疑われる。よいことずくめの歴史ほどわるいものはない。それは国民の日本歴史に対する信用を全くゼロにしてしまった。
▼明治大正の要路者の生きのこりは、いま時の若い者は、歴史を学ぼうとしないといって慨嘆するが、現代の青年に歴史を棄てさせたのは、よいことずくめの日本歴史を教えた貴公達の罪である。私はよいことわるいことを問わず、真実の日本歴史を国民に知らしめて、国民の日本歴史に対する信用を取り戻したいと思う。そのためには、醜悪なる後南朝の歴史も説かざるを得ないのであって、私を終戟直後に起った反動派の歴史家と混同してはならない。終戦直後には、戦争中のよいことずくめの歴史の反動として、わるいことずくめの歴史がはやった。そしてそれが「偽らざる歴史」とか何とかいわれた。しかし、それも実は偏っているのであって、よいことずくめの歴史なんかがあるべき筋がないように、わるいことずくめの歴史もあるべき筈がない。
▼後南朝史を語る以上は、失徳の天皇も出てくるが、百十数代という天皇の中に、一人や二人失徳の天皇があったといったからといって、皇室の尊厳が害されるものとは思われない。百十数代に及ぶ歴代天皇が、みんながみんな、揃いも揃って御徳の高い天皇であったと言わなければ承知ができないというのは、従来のくさった宮内省の木ッ葉〈コッパ〉役人の根性である。こういうなさけない木ッ葉役人が大勢を制していたために、国民は本当に御穂の高い英邁な天皇のことをも知ろうとしなくなってしまったのである。私はこれを遺憾と考えるが故に、醜悪でも何でもよいから、真実を語ろうというのである。

 

また、『日本歴史解禁』昭和25年には

北畠親房が神皇正統記を著して南朝の正統の天子なる所以を明かにしなければならなかったことは,南朝が正統の天子であることに既に疑があったからである。彼が編み出した神器の所在によって皇位の正閏を決する理論は,学問的に見て頗るインチキなものであるが,意外の成功を収めて,明治の憲法学者までその説に敬服せしめた。北朝には親房に相当するだけの代弁者がなかったから,北朝は武力闘争に於ては常に南朝が勝ったが,理論闘争に於ては南朝に敗れた。

 神器を中心として皇位の正閏を論ずれば,北朝に勝目はない。しかし嫡庶を以て論ずれば,北朝は明かに正統の天子である。現行皇室典範の皇位継承法からいへば,持明院統の北朝が正統であるが,現行法を古代を遡行せしめることは,歴史を無視する考へである。事実を事実として公平に認めてゆく歴史の観方からいへば,両統ともに異った系統の皇位継承法からいって正統であると云はざるを得ない。

 足利 尊氏(あしかが・たかうじ)が忠臣になってたまるものかといふのは,所謂判官びいきの感情論である。南北朝の合一は,明治政府のついた真赤な嘘であるから,前南朝と後南朝とを理論的に区別することは不可能である。楠氏も正成,正行,正儀までは忠臣で,それ以後の楠木正秀や光正は逆賊であるとするのは,われわれの感情の許さざるところである。名分論で南北朝を論じようといふなら,もっと透徹した一貫の理論が必要である。

 従来のやうな不徹底な理論と事実の隠蔽とによって,何が何だか訳のわからない国史をもってゐることは,文化国家日本の耻辱である。思想は思想を以て克服しなければならない。川上・北山村数千の住民を鑿殺しても,南朝は正統であるといふ思想を根絶することは不可能であらう。熊沢天皇並びにその亜流の如き魑魅魍魎を一掃するには,警察力を用ひて弾圧するやうなことをしたのでは駄目である。

 主権の存する日本国民の総意に基づくところの,日本国の象徴であり,日本国民統合の象徴である世襲の天皇とは,万世一系の天皇をいふにあらずして,明治天皇の御子孫をいふのである。現代の日本は,主権在民の民主国であって,天皇家の家産国家ではない。南朝の皇胤であらうが,大覚寺統の正系であらうが,国民の大多数が認めて天皇と為さない者は天皇ではないのである。彼等をしてこの現代思想に目覚めしめることが,魑魅魍魎をしてその光芒ををさめしめる方途であらう。
 註記)瀧川政次郎『日本歴史解禁』創元社,昭和25年,120121頁。


後南朝⑩ 後南朝と川上村

http://www.pamph-navi.jp/art/view_dynamic/pdfView.php?src=pam10004011
後南朝と川上村

後南朝系図

排除するものは排除される。

トキさんが下記の文章を書いている

 

本部の皆様へ (1087)

日時:20171217 () 2001
名前:トキ


 そういう人が亡くなった以上は、組織としては、それなりの礼儀を尽くすのが筋だと思います。これは森田先生の人格や考えに共鳴する、しないとは別の問題です。人間としての筋です。

 生長の家は感謝の教えのはずです。定年まで勤め上げ、理事までされた方に対しては、それなりの「感謝」があっても良いかと思います。

 

 

私が書いていた内容と一部同じであるが、現在の教団ではそういう「感謝」とか出来ない集団と化しているのが事実である。

とりわけ、敵対関係にある人物やそうでない人物であっても、谷口雅宣総裁に歯向かう者は皆な追放なのである。ただ森田先生は雅宣総裁に対峙していなかったが、やはり旧青年局の組織の長を務めていた人間だから、次第に排除するようになったのであろう。兄弟姉妹を排除し、父母さえも排除するような態度は誰がみてもまともではない。こんな悪態はいつまでも続かない「神様が必ず見ておられる」

排除の論理は必ずや排除される。それを肝に銘じて強く信念を持って行動していこう。

発想の転換

私は現在自治会会長という職を持っているが、別に集会所運営委員会会長の職務も兼任している。

 

メンバ-は自治会員ですが、殆どが奉仕で行っていただいていますが、そこで私の方からいろんな提案をさせて頂いています。それは集会所使用者に対して待っている姿勢から、攻める運営委員を提案しています。

出来れば年に一人3万円を運営委員に寸志としてお渡ししたい。私は名前の会長ですから、奉仕でします。いずれは職員として雇える構成にしていきたい。

 

提案はまずは、新聞の発行です。そこからバザ-などやオープンオフィスの提案をしています。それを発言してから運営委員の姿勢が良くなっていくのです。

明らかに変わっていくのです。

 

それは何故かと云うと、使用者を待つというだけでは駄目である。当初は関大(関西大学)に行き掲示板を貼らせていただいて、学生にドンドン使ってもらうことを言ったのですが、少し乗気ではなかったので、次々と提案しています。

そうした発想は「生長の家」を活動していたから生み出されたのであって、私が主宰者になると必ず変えてみることを言っていますので、変革していっています。

また、儲けるといえば少し誇張しているが、少しは利益を上げる運営委員会でなければならない。

反論を許さない空気

私は以前に学ぶ会の関係で少し反対の意見をいえば、袋叩きにあった。

これは日本人の中に存在している、反論は許さないという心情を垣間見る。そういう反論を述べたのは下記の「本音の時代」さんである。ただその意見はある面頷ける点がある。ただ、それを云えば

 

「寝言は寝てから言いなさい❗❗

「社会事業団では、どなたにでも販売しています。寝言は寝てから言いなさい気違いに刃物とはよく言ったものです。」

 

 

良く読めば「著作権」はあくまで光明思想社で印刷など自由にして下さいという意味です。その利益の一部は光明思想社に還元する。

 

確かに、それでも日本教文社から発行はしないと「本音の時代」さんはいっておられますので、それも承知で書いて居られます。

 

ただ、日本教文社が本気で発行すれば、その時は光明思想社の『新編生命の實相』は売れないだろう。それを考えると光明思想社はそんなことは行わないし、あり得ないであろう。

ただ「本音の時代」さんの意見を真摯に受け止める姿勢は必要である。

それならば、現在の「新編『生命の實相』」が3か月に一回の発行で残り38巻で終講はこれから9年かかる計算となる。今年の発刊は5巻です。
それまで『生命の實相』という聖典が販売されない期間があるという危機感を反証する人には感じられない。

それではどうすればそれも解決する道があるのであろうか。

そこで一つの提案ですが、私は現在も光明思想社で発行可能(光明思想社で頭注版『生命の實相』を販売していました。オンデマンド版)なので、そのまま続行して頭注版『生命の實相』を発行すればいいだけである。少し価格は高くなるがそれも致し方ありません。ほんとうに簡単なことなんです。

それさえも許さないのはおかしいと「本音の時代」さんの意見に反論する人は
オンデマンド版『生命の實相』を購入したい提案すればいい。簡単なことである。

ただ、それを認可しなければ「光明思想社」の方策がオカシイこととなる。「破邪顕正」さんがオンデマンド版の販売は掲示板で記入されています。

それを行わないのは新編『生命の實相』が売れなくなるからです。

私は今回天国に召された森田征史先生が新編『生命の實相』の発行には反対されていたことは当時から知っていた。新編『生命の實相』が既に販売するということで印刷會社も既に進んでいたが、それでも発行に反対されて当時の光明思想社の責任者と話合いをしたが、発行を中止しなかった。

私もその反対理由をブログで整然と述べたが、反論する人間はいなかったが、それでも発行を進めてしまった。

昭和22年の1220日頃であったことははっきりと憶えている。販売からほんの数日であった。もうそれから8年が経過したと考えると、その時に中止した方がよかったと今でも考える。
それでは「本音の時代」さんの意見を抜粋する。

 

日時:20171206 () 2219
名前:本音の時代


 生長の家社会事業団の『生命の實相』等の著作権問題により、日本教文社からの『生命の實相』『聖経』等の発行はできなくなった。その非は、教団側にあるものの、発行禁止の処置を講じた社会事業団側の思惑にも不純な部分があったものと私は感じている。『新編』発行の強い願望の存在もその一因ではなかろうか。しかし、そこに我欲はなかっただろうか。『生命の實相』を読みたい人達の願いは届いていない。救済の道は閉ざされている。救いを求める人々のためになっているのだろうか。組織の我のより優先するものがあるのではないか。
 奪うものは奪われるのである。これは法則である。奪うことを優先した者に、何が与えれるというのだ。得をした者がいたのだろうか。生長の家の教えは目先のことだけを考えた教えであったろうか。『生命の實相』『聖経』等を発行できなくなったため教団側は痛い目にあったと当然のように見ているのなら、それは、生長の家的にはあまりにも次元が低いのではないか。
 生長の家の教えは、『与える』の教えである。
 生長の家社会事業団さん、日本教文社からの『頭注版生命の實相』と『聖経』の発行を認めなさい。使用料は、しっかりいただきなさい。『新編』は収支成立の自信があるのだから継続していけばよいのではありませんか。
 在籍信徒の社会事業団側(学ぶ会、光明思想社)に対する反目は現状も依然として強大なものがあります。反目の原因となっているものは解く必要があります。もう時間がありません。躊躇していたら谷口雅春先生の生長の家がなくなってしまいます。脚下照顧。

 

蛍火から

昨日は森田征史先生の通夜に参列させていただいた。

東京第一や福岡や大阪教化部長を歴任されて活躍された。当り前だが教団本部の名前がない。

生長の家の理事として活躍された先生だが、こういう仕打ちのような事をするのか、淋しい思いがする。

「安倍内閣が立憲主義になっていない」とか、そんなこと言う前にやらなければならない事があるのを大のおとながわからない。

日本人は昔から「村八分」といっても、二分の赦しがあった。それは火事と葬式である。それさえも赦しが出来ない人間は「魂の抜けた日本人」である。

ましてや宗教である。それを出来なければ宗教として失格である。

 

さて、葬儀に思い出の写真が飾られていた。また『百万運動』で活躍した同志の姿もあった。

その意志が引き継いで今後実行していかなければならない。

 

安東先生は今年の「生長の家教義研修会」の私の発言を憶えておられて、

 

「山ちゃんの云った学ぶ会の「講師派遣」をこれから阪田先生と実行していこうと考えている」

私の発言したことをあの沢山の教義研修のなかで「山ちゃんの云った内容がとてもよかった」とおしゃっていただいた。また「神の国寮」の昔の資料を渡したのを、早速教義研修の中で発言していただいた。


また、今でもそうしたことをはっきりと憶えておられてそれを実行していこうとされている、安東先生に頭が下がります。

 

大変光栄に感じている。また有難く思います。頑張って実行していきたい。現況の運動は蛍火のような運動かもしれないが、燎原の火のようになっていくことを推進していきたい。

森田先生の冥福を祈り、どんな忙しくても、同志の葬儀には必ず参列されていた先生に「ありがとう」という言葉を捧げたい。

後南朝⑨熊沢天皇



 このシリ-ズは何回か讀編として続けていきたい考えである。

さて、今回は戦後間もない頃に「熊沢天皇」ということが新聞各紙の掲載され話題となりました。

下図の寫眞は龍泉寺から現在京都に在中の「熊沢家」の人が彫られた「南朝」の根付であります。

 

P1190646

 

 

 

 さて、その「熊沢天皇」ということを詳らかになったのは明治時代のことである。ただ自称「天皇」という人は意外と多いのは驚くが、この件については多くは語りたくない。ただ戦後の間もない頃に「新聞」とかで大々的に掲載されたことをある文面で覚えている。ただ簡単に説明したかったが、下記の文章を抜粋させていただきます。

 

 【熊沢寛道(熊沢天皇)が突然に「自分の家系が真の天皇家である」と言い出した訳ではなく、養父・熊沢然(ひろしか)の影響によるものです。大然は1908年に、「自分が南朝の正統である」と明治天皇に上申、南朝直系(後亀山天皇→良泰親王の系統)として認められた勅栽を受けている。「ゆえにお前(寛道)は南朝の血を受け継ぐ真の天皇」と教え込みました。

戦後、彼はGHQに自分が正統な天皇であるので地位を返すようの嘆願書を送り、それが雑誌「ライフ」の記者の目に止まりました。翌1946年1月19日、駐日米軍向け新聞「ザ・スターズ・アンド・ストライプス」の記事が朝日新聞に紹介されたことから、熊沢寛道は「熊沢天皇」として知られるようになりました。

GHQは当初「熊沢天皇」に肩入れしていますが、その理由としては、当時「天皇制」の扱いに悩んでいたマッカーサーがこの嘆願書に目をつけ、「熊沢天皇」を利用して「昭和天皇」の存在を揺さぶり、国民の様子を見てみようと考えたといわれます。ただ、昭和天皇の存在感を再認識したマッカーサーは、日本統治に昭和天皇が必要不可欠と判断し、熊沢天皇の役目は終わったとして見放しました。結局、熊沢天皇はマッカーサーに利用されるだけされて、ポイ捨てされたということになります。

「熊沢天皇」はあくまで自称であり、南朝の末裔である確たる証拠はないと思います。現に熊沢家の宗家争いも起きており、「寛道は本家でない。自分が本当の天皇である」と主張して、4人の熊沢天皇が出現していますから。その一人である熊沢信彦は詐欺罪・脱税で逮捕されています。このことからもかなり眉唾ものだと思いますが。

追記

ザ・スターズ・アンド・ストライプスの記事には「熊沢寛道こそ、正統な天皇ではないか」ということが掲載されていますが、これは5人の記者にGHQの将校が同行し、長時間ににも及ぶ取材を行った(詳細な調査もせず)ものといわれています。この記事によって熊沢寛道は「熊沢天皇」して世間に知られるようになったといいます。寛道はGHQの支援を受けて、全国で公演を開いていますので、マッカサーは国民の反応をみて天皇制の存続の有無を考えていたのではないでしょうか。しかし、案に相違して昭和天皇の全国巡幸の盛況ぶりをみて、日本にとって昭和天皇の存在が大きいことを思い知り、熊沢天皇を見放したということでしょうか。】


間違いを指摘されたらまず「感謝」

下記の文書が掲載されていた。

前回、谷口雅春先生の出版された御本の件で

 

谷口雅春先生は色々な角度から、色々な表現で、
500冊余りの御本を出筆されて来ました。

 

その数字と語句の間違いを指摘したからです。

その内容で下記の文章を書き込みされている。

まあ。余程悔しかったのか、間違いを指摘されて素直に認めない人が「生長の家」とか大上段で発言するのは違和感さえあります。

 

日時:20171213 () 1448
名前:そーれ!!


この世界の言葉ではうまく説明出来ないのですが、古事記を読み込んで
行くと・・・・・。

造化の三神は、實相世界出現以前の別天つ神だと思うんです。

實相世界は始めなき始めから存在するんだ、と、山ちゃんさんあたりから、
また噛みつかれそうですが・・・・・。

 

この人はどういう神経をしているのであろうか?

私は噛みついたりしていないのです。

噛みつくとは

歯で食いつく。「犬が子供に―・く」

激しい態度で相手に迫る。くってかかる。

別にくってかかるようなことはしていない。私はこういう語句の間違いを指摘しているだけです。

前回のブログの「そ-れ!!」さんの余りにも大きな数字の間違いと語句の間違いを指摘したのである。それを「噛みつく」という表現は反論しているだけだから、また間違いを繰り返すであろう、懲りていない。

ただ、人間は「間違い」を指摘されると

1、素直に認める人

2、間違いを認めないで、発言した人にこのようにして「くってかかる」

3、そのままスル-する人

 

生長の家を信仰していても、自分の間違いを「認めない人」が多い。私はこのような人間にはなりたくない。間違いを指摘されたら素直に「感謝」しようではないか。

私もよく文面や表現で間違いをすることがある。そんなに慎重になると書けなくなるので、出来るだけ考えないようにしている。反対に間違いを指摘されると「感謝」したいと考えている。

巨星逝く

森田征史先生がお亡くなりになられたという一報は朝の10時には阪田成一先生から連絡が入りました。仕事でバタバタしていた私はその電話を取ることが出来ないまま午後の1210分に阪田先生に連絡させていただいた。

今朝午前97分に旅立たれたことを告げられました。

何か虚無の状態で澎湃とした心境で彷徨している自分がいる。

 

御身体は随分と悪いとはお聞きしていたが、愕然とする。

「ハイハイ」と言葉少ない連絡が終ったが、本当に私にとって青春そのものが『百万運動』であった。いろんな迷惑ばかりが思い出として残る。

 

来阪された時は「関西ホテル」という所に泊まっていただいたが、あとで怒られたことも多々あった。弱気の虫が言葉で出た時は「こっぴどく」怒られたことが記憶にある。

青年会時代にそうした「森田征史先生」がおられたからこそ、『百万運動』が達成されたのである。今迄の「生長の家」には無かった感覺は「とても新鮮」で素晴らしい気持ちであった。この人についていこうと思ったのは間違いなかった。

 

九州で教化部長の時代も時折、近畿に来られて「講演」をしていただいた。

その中でも、彦根で一泊した時や何度か「カラオケ」に行ったことが楽しい思い出である。先生の「月光仮面」の歌は最高だった。

 

大阪教化部部長時代は「百万運動」の仲間と会う時はいつも運転手となる。家も近かったのがその「縁」である。皆が飲んでいてもその時は断酒である。そんな時に帰宅の時は少し本音もでる。

関西弁が出るときは「講演」にも迫力がある。

 

楽しい思い出が沢山ある。私にとっては森田征史先生は「青春そのもの」であったからである。

誤った語句と数字

【水掛け論。   (8340)

日時:20171208 () 2158
名前:そーれ!!


そろそろペンを置きたいと思います。

谷口雅春先生は色々な角度から、色々な表現で、

500冊余りの御本を出筆されて来ました。

ですから先生の文章の引用で、それこそどんな理論でも

展開できます。例えば・・・

「北朝鮮を信頼しない限り、信頼できる結果は来ない」

と言う様に・・・・・。】

私はこの文章で言いたい事は沢山ありますが、この御方はどれほど勉強なされたのかは存じかねますが、谷口雅春先生は「500余りの御本を出筆されてきました」と書いている。

 

~ン、出筆されたのが、たった500余り?

 

この文面だけでも二つの誤りがある。皆さんだったらお気づきだと思います。

出筆だけだったら、正確な数字はわかりませんが、神誌と呼ばれる夥しい数の出筆を為されています。

軽く、「萬」という御本を超えるのではないかと推察致します。
多分、語句の誤りだと思います。

 

それでは、書いている内容が本の出版となりますと、私が調べただけでも1,200冊は超えています。確かに『生命の實相』に至っては何回も同名の本が出版されていますが、内容も一部違いもあり、これを一冊と数えた場合、

戦前の『生命の實相』一覧表

生命の實相 

久遠の實在 

黒布表紙版 全20

革表紙版(総黒革版・3方金)縮刷豪華版

  全九巻  地の巻・證の巻・水の巻・火の巻・

風の巻・空の巻・教の巻・行の巻・信の巻

豪華大聖典     11.11.22

大聖典(豪華版)(通常大聖典に対して中聖典と呼称、本には大聖典と記載)12.6.1

事変版ビロ-ド表紙版(全九巻)

地・證・信・教・風・行・水・空・火

菊版装 全13巻(1巻~13巻)

人造羊皮版 全 9巻

地・證・信・教・風・行・水・空・火

生命の實相戦時廉価版(1巻~15巻)

  生命の實相携帯版叢書 (聖経附)

  〇 幸福生活への真理

   〇 把住と放行

   〇 辧道聴き書

   〇 哲學の實践

   〇 永遠價値の生活學

   〇 生活に生きる宗教

   〇 調和生活

〇 生活化せる大乗佛教

   〇 光明の生活法

   〇 新生活への出発

   〇 人生と戀愛その他

   〇 常樂の實現

   〇 樂園奪還

   〇 百事如意

   〇 ひかりの語録

   〇 實相眞行義―錬心的修養の眞髄―

   〇 實相要約(上巻)

〇 實相要約(下巻)

〇 日本の世界的使命

〇「甘露の法雨」講義

満州版 16.8.15   乾の巻(全四巻)   

      兌の巻

      離の巻

戦後の『生命の實相』一覧表

新修普及版(全20巻)

新修特製版(見返装丁)(全20巻)

豪華革表紙  地の巻

            水の巻 

布装携帯版 (全40巻)

豪華版 (全20巻)

頭注版 (全40巻)

豪華携帯版  新装携帯版(全40巻)

愛蔵版(全20巻)

『生命の實相』 初版革表紙復刻版

『久遠の實在』初版革表紙復刻版

新編『生命の實相』(全60巻)現27

 

306冊に+27巻ですので、333巻です。これに『眞理』も何回か発行されています。

昭和29年からの御本、11巻と昭和39年と平成11年の新版と今回光明思想社の7巻と合わせると+40巻となります。合計373冊です。

昭和30年からの『谷口雅春選集』23巻、昭和40年の『新選 谷口雅春選集』20巻、『谷口雅春法話集』12巻、昭和49年の『谷口雅春著作集』10巻と合わせると65巻となります。合計438冊です。

戦後間もなく発行された『世界光明思想全集』40巻や光明生活シリ-ズの10巻、光明叢書(戦後)10巻、伸びる母と子のシリ-ズ、5冊、谷口雅春童話集5巻で70冊あります。

合計508冊です、

戦前で『生長の家叢書』11巻、『光明叢書』11巻と11巻、それと8巻あります。戦前の『谷口雅春著作集』が13巻、『いのちの文庫』10巻で合計67冊です。

これで575冊ですから、「500余り」というのはどういう根拠で書いたのかわかりません。

 

私はこうした誤った数字が独り歩きするのが、大変恐ろしいことだと感じています。これは数字の間違いですけど、それだけでは治まらないことも多々あります。私は書かれた人が半分以下の数字だから、意見を述べているのです。

これは大きな間違いであるとしています。

 

-れ!!というふざけた名前ですが、学ぶ会の幹部だと思っています。学ぶ会の質さえも落としかねますので注意して下さい。

三つの条件について

【真理を生きる】の阪田先生の御文章はメールで配信されたものを直ぐに読みました。ただ、書いている内容については、以前から聞いていた内容です。

その三つの条件というのは

一つ目は「生長の家から時代に合わない皇国史観を排除する」ということ、

二つ目は「情報が全て自分に直接入る部署を作る事」

三つ目は「旧青年会の関係者を排除すること」というものでした

 

前回に書いたことがありますが、青年局がまだ宮本会長の下に組織されていた頃に東京本部の青年局で話された内容と一致します。

話をしていた人は青年局の幹部の人です。

 

私が聞いた①は愛国思想を排除するということです。つまり天皇信仰を無くすということなんです。それを無くせば「生長の家」では無くなることを言っていたことです。

 

②本部『講師会報』の創刊号で痛烈に安東先生を批判していたが、こういうことを部署内で出来るということは、密偵するような人間がいたのであろう。

 

③は今後青年局は無くなるとは聞いていました。

 

それを聞いたのは昭和57年頃でした。

それは青年局で谷口雅宣氏が青年局で雅春先生の御文章を引用して勝手に印刷したことが大きな問題となり、地方にもそういうことをしないようにということでした。

それに噛みついたのが現総裁の雅宣氏であった。


そこで何年間は雅春先生が蚊帳の外になる時代が来ることをその話から予見していました。
それからしばらくして青年会でも雅春先生を信奉する人間と雅宣氏を崇拝する人間と分かれていきました。

私は雅春先生のみを信仰していましたので、そういう青年会組織にしていこうとしていました。

 

 

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