則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2017年08月

讀んで戴ければ幸甚です。

緑毛亀

昨日、和歌山県海南市県道9号線を黒江駅に向けて歩いていた。何故歩いていたのかは後程応えることにするが、何気なしに池を見ていた、この池も亀が多いなと思っていた。そこで目を疑うものを見た。

今迄、見たこともないものである。池に顔を覗かせるようにじっと、再び池の湖面に顔を出すのかを見守った。それは緑毛亀である。蓑亀と呼ばれているがしかもその緑毛は長いのである。見事なる蓑亀である。

 池の名前は二つ池である。近くに岡田八幡宮がある。大きな神社です。

私はその「緑毛亀」を見たことがあるが、殆どが少し苔が生えたような亀でここまで見事な緑毛亀は見たことが無い。あの「亀の子ブログ」に緑毛亀を掲載されているが、あの緑毛亀よりも長いのである。

 私はその亀を見たときに「吉祥」であると感じた。

それは「寛政の三奇人」と呼ばれている一人である。高山彦三郎である。

その緑毛亀を天皇に献上している。

 

蓑亀(みのがめ)とも言い、亀の甲羅に緑の藻が付着したもの。

  蓑亀は古来から吉兆の証とされ、中国では「緑藻亀」「緑毛亀」と呼ばれ、霊亀、神亀、福亀としてあがめられた。蓑亀は千歳飴の袋、根付や絵皿など、さまざまな意匠に使われており、長寿の吉祥文様とされる。

 

  【志水南涯から、その縁者が2・3日前に琵琶湖で発見した緑毛亀が届いたとの手紙をもらい赴いたところ、「小児疱瘡まじない」のためとして、人々が群がっていた。

  彦九郎は志水南涯とともに、この緑毛亀を友人・堂上に見せている。

  彦九郎は、若槻幾斎のところで『淵鑑類函(えんかんるいかん・中国清で編纂された百科全書的な書物)』の亀部を見せてもらい、「亀有毛者文治之兆緑毛黄甲皆な祥瑞」を写している。

  のち、岩倉具選の仲介により、仙洞御所、次いで御所にも持参することになる。亀は仙洞御所の池に放たれることとなるが、この間、彦九郎は、多くの人々に、緑毛亀を「神亀」「文治之兆」として見せ、文治政治が近いことを訴えた。

 彦九郎は九州行にあたり、「緑毛亀」の刷物500枚を持参した。】

 

寛政3年(1791)3月16日の「寛政京都日記」によれば、「志水南涯より書を寄せて江州高嶋郡地内村中川六左衛門なる縁家の所より湖中より得たりし緑毛亀を送り越したるのよし告げ来る、至り見るに甲長さ金尺二寸七分横壱寸九分にてぞ有ける二三日以前に得たるよし也、小児疱瘡まじないの為めとて亀と盃せしめんとて群聚ス」とある。

 

高山彦三郎は御所への参内を許されることになります。光格天皇に拝謁した彦九郎の感激たるや、察するに余りあります。実際にこの時の感激を

我を我としろしめす かや皇(すべろぎ)の 

玉の御声の かかるうれしさ

 

その二つ池から更に黒江駅に向けて歩いた、このまま和歌山駅へ歩こうと決意していたが、途中「智弁学園和歌山」の高校生の団体ともあった。駅から西方向へと進めた。

近くには名草山がある。その山に沿って歩いた。

汗が全身を迸る。その匂いが嫌である。銭湯があれば入浴したかった。それから後でも歩こうと決めていた。大きな看板が目立つ「ガーデンホテルはやし」「紀三井寺温泉花の湯」と書いている。

しかし、不思議にも「紀三井寺」に着くよりも先にその看板の花の湯が心がこの温泉に入浴しようと決意させる。

入浴料は800円。何か和歌山駅まで歩こうとした決意がここで崩壊。

走行距離64km、何しろ暑かったのがきつかった。しかしこのブログを記入しているのは翌日だが、脚はなんともない。汗臭い匂いがなければまだまだ歩けた。

実は昨日は和歌山県御坊駅を午前111分に到着して、近くのコンビニにトイレなど身支度してから自宅まで歩こうとしていた。たぶん日曜日になると思っていた。ただ昼の暑さだけは対処出来るかが不安であったのも確かである。
P1190439
P1190448

だが前日からGoogleMapを駆使して計画をしていたが、やはり夜中はそのgoogleも不安として残る。それが分かったのが有田川町と海南市の下津という山間の場所である。県道159号線から県道18号線に通ずる道が分からなかった。

P1190446
P1190449
P1190450
P1190451
下に民家が見えるが、その場所から撮影場所まで登る、これが結構しんどい。


それより山が折り重なる所に急な坂が脚の不安があったが、標高0mから350mまで上がるのだが、階段がない場所も反対にキツイが道を間違って下津町百垣内という地区に行ったが間違いが気持ちを折れさせた。その場所は標高100m。再び標高300mまで登って下津町引尾に行かなければならないgooglemapが道を間違えることとなることもショックであった。

Mapを信じて行ったが、途中から草が生い茂り行き止まりである。

そこから、自らの足で歩こうと思った。しかし、精神的にはキツイ。

そうして、何度かの山越えで県道9号線へと辿り着いた。今回は何度かの山越えで水不足が調子を狂わせた。口の周りが乾き。声が発せない状態である。走ればその度合いもきつくなる。こんなに水不足が厳しいのもいい経験である。

 

最後に「紀三井寺」に参拝して和歌山を後にした。

DSC_000001
DSC_0047
DSC_000002
遥かさきに淡路島が見える。


昨日の歩行數は114940です。少し物足らない。
だが、これで50kmトレイルには自信がついてのも確かである。吉祥が何かがもたらしたかな?

 

谷口雅宣総裁の誤謬-再掲

私の前のブログで現総裁の谷口雅宣氏と意見を闘わしたことがある。

私のような「生長の家」信徒を辞めて久しい人間だが、やはり間違っていることには、はっきりと云わなければならないことを痛感します。



最後の文章は

下記に前文を記載しますので是非読んで頂きたい。

私は下記の文章はじっくりこない。

 戦前の雅春先生の著書には閉鎖的な行為をいままで行ってきた総裁である。ここで何故こういうことを書くのは奇異にすら感じる。

だが、それがなければこういう過去を真摯に探求することは大切なことです。さて下記の文章ですが、私がそれは推測であって間違いもあるというようなことを、実証的なことを書いてきました。その言い訳のような文章が下記です。それでは読んで下さい。

>さて、本欄ではしばらく「聖経」とは直接関係がないと思われる"周辺情報"の類について書き継いできたが、その目的は、「甘露の法雨」がいったん「聖経」と認定されながらも、1冊の折本型の経本として成立するまでに3年3カ月という長期間を要した経緯をたどり、著者・谷口雅春先生にどのような事情があったかを明らかにするためである。その作業はまだ終っていないが、昭和7年から同10年4月までの3年余に初期の光明化運動で何が起ったかを詳細に述べることは、本シリーズの趣旨ではない。そこで、これまで明らかになった"周辺情報"を前提として、ここで私の推測を概括的に述べることにする。これはあくまでも「推測」であるから、事実とは異なる可能性もあることを読者はご承知いただきたい。<
 
 結論をひと言でいえば、先生はこの時期、完成まもない初版革表紙『生命の實相』と、その続篇である『久遠の實在』の出版と頒布、そしてこれら2冊の中身を分冊したパンフレット等の発行と頒布に注力されていたのである。「甘露の法雨」は、すでに「聖経」としてこのパンフレットの1篇の中に収録されていたから、神前や仏壇の前で読むという日常的な需要には当面応じられていたと思われる。また、すでに述べたように、光明化運動の経済的基盤はまだ決して潤沢でなかったから、新たなコストとリスクが生じる折本型の経本の出版は、もし先生の胸中に浮かんでいたとしても、パンフレットの在庫がなくなった後の仕事だと考えておられたのではないか。
 
 谷口雅春先生の諸著作については、これまで我々の先人が纏めた『生長の家五十年史』のような正式の記録書の中に詳しい記述がある。それらの中の年表や編年体の著作一覧を見ると、この約3年間に雅春先生がどんなものの出版に力を入れられていたかが分かる。それによると、昭和7年の先生の出版物は「生長の家叢書」であり、同8年は『久遠の實在』であり、同9年は「光明叢書」、同10年は『生命の實相』黒布表紙版(20)と革表紙版(全9巻)の一部、そして次の9書であるー『生命の奔流』『新生活への出発』『地湧の淨土』『いのちのはやて』『本當の教育』『生命の行方』『光明主義』『生命の神秘』『光明の生活法』。
 
 この中で注目されるのは、「生長の家叢書」と「光明叢書」である。前者は、初版革表紙『生命の實相』の内容を11篇のパンフレットに分けて発行したもので、後者は同じく『生命の實相』と『久遠の實在』の内容を4対9の比率で同様に分冊した13篇のパンフレット・シリーズだ。このことから、谷口雅春先生の初期の単行本出版の考え方が浮かび上がってくる。その基本となるのは、初版革表紙『生命の實相』のようなしっかりとした内容の豪華な聖典を発行する一方で、その中身を小冊子に分けて廉価で入手しやすい"聖典への入口"を数多く作り、頒布することである。これにより、沢山の入口から大勢の人々を誌友として迎え入れ、運動の輪を拡大していこうという戦略を採られたのではないか。
 
 このような計画が背後にあると想定して、昭和7年以降の雅春先生の出版活動を追っていくと、納得できる部分が数多く見出されるのである。本欄の現在のテーマは「聖経」であるから、「甘露の法雨」の出版に焦点を当てながら、その記述を進めよう。<



さてここで更に詳しく述べると『生命の實相』のなかには『生長の家』誌から掲載したものが大半です。だがそれ以外に『生活者』などの投稿した内容も含まれている。

ここで黒布表紙版は当初は12巻までである。昭和10年で12巻の発行であるから引用の間違いである。

光明叢書は函入りでしかも内容が一部同じで二部発行している。各11冊で『神への道しるべ』『いのちのゆにわ』と『光明無限の生活』『こころ我を生かす』『吾が心の王国』『家庭生活の光明化』が同じです



1.
神への道しるべ       1. 神への道しるべ

2.
死を超えて生く        2.光の新生活へ 

3
吾が心の王国         3.家庭生活の光明化

4.
こころ我を生かす      4.こころ我を生かす

5.
七つの光明宣言      5.吾が心の王国

6.
いのちのゆにわ       6.いのちのゆにわ

7.
家庭生活の光明化     7.無限生命の泉

8.
光明無限の生活       8.光明無限の生活

9.
無限生命の泉         9.生長の家の歌

10.
妙法七つの燈台の教    10.人間生通しの話

11.
生長の家経済連盟の提唱 11.無一物の医学

このようにして11冊の内同じ内容が6冊です。

光明叢書は12冊です。特別篇が2冊あります。

昭和9年には光明叢書が出版されます。全8冊です。



また9冊挙げているなかに

『出世前・生・死・死後の研究』が生命の芸術社と生長の家出版部として発行されています。

また『生命の烈風(いのちのはやて)』と『いのちのはやて』が出版されています。

『光明の思想』

『無一物の哲学』

『生ひ立ちの記』

以前に詳しく記載しましたので発行年月日は省略させていただきました。

昭和10年において生命の芸術社で12篇が出版され、生長の家出版部が一冊、篇のなかにはないが『光明の生活法』『生命の烈風』『光明主義』があります。

私はこの光明叢書や生長の家叢書だけではなく、頒布用パンフレットには触れていないが活動に重要な役割をしめしたことを述べます。

無料頒布として私の所有しているのは『吾が心の王国』だけであるが、数冊印刷されていたことは間違いない。こういうことが現在ではポッカリと抜けているのが残念です。

 

総裁の書いた聖経について(8)であるが、ここにおいても明らかな間違いがある。
それを一つ一つ検証して何処が間違っているのかを明らかにしたい。

それではその間違いを谷口雅春先生御著書である『明窓浄机』草創篇と比較しながら分析します。

下記は総裁の書いた文書である。

【「聖経甘露の法雨」を収録した第9篇『生長の家の歌』を含めた10篇のパンフレットの発行時期は、雅春先生が"二重生活"に終止符を打たれて宗教活動一本で歩み出されてから3カ月後の、昭和7年10月以降である。奥付に記載された発行日は、10篇のうち7篇には「昭和7年10月3日」と印刷されているから、先生が退職後最初に取り組まれた出版が、このパンフレット7篇の発行だったと思われる】

と記入されているが、これはおかしい。

それでは『明窓浄机』草創篇のP41P42に「小冊子『生命の神秘』製本完成す」と記載があります。ここにこの本の出版の前に『行きとほし』が既に発行されていることが記載されています。この『明窓浄机』は生長の家誌から雅春先生の書かれた編集後記などを纏めた本です。つまりこの明窓浄机の記載されたのは昭和6年『生長の家』誌12月号です。勿論記載されたのは11月頃であろうと推測できます。

次に昭和71月号『生長の家』誌には『光の新生活へ』の発行と記載されていますので前年の12月には発行されたことになります。

翌月にはたまよけ本として【無限生命の泉】を発行されたと記入されていますので1月に発行されたのだと思います。

これらは五銭本と雅春先生が記載されています。

昭和77月『生長の家』誌には『いのちのゆには』を発行されていることが記載されています。

因みに『生長の家』誌7月号に「昭和7519日夜の神想観中谷口が『生長の家の歌』を朗読するに従って」と記載がありますからこの年代から現在の『聖経 甘露の法雨』は読誦されています。

さて、『生長の家』8月号には(P56)見眞道場修業規定は巻末発表の『生長の家叢書』と記載があります、この時点既に『生長の家叢書』として発行されているのである。いわゆる7月時点で『生長の家叢書』は発行されていたことになる。

その昭和7年八月一日には会社を辞め『生長の家』の人類光明化運動にささげられるのです。ここにも

多数の『生長の家叢書』を発行してという記載がある。

つまり最初に発行されたと記載されている昭和7101日までには既に何冊かは発行されているのである。私の推測では10巻がこの年の8月には既に発行されていることになる。そこで10月には『生長の家叢書・特別篇』も発行されるのです。

そうでないと『生長の家五十年史』に記載漏れがあるということです。それが私が調べた下記の第一弾の生長の家叢書の発行である。

それでは引き続き明窓浄机を見よう。

『生長の家』誌10月号には生長の家経済連盟の提唱という記載があります。これは翌年にはその記載した内容で本を出版されているのですが

『生長の家』11月号には「生長の家叢書・特別篇発行」『生長の家經濟聯盟の提唱』として発行されています。

そこで総裁の記入にはその特別篇がありません。それは私の記入した



一巻 『神への道しるべ』       

二巻 『死を超えて生く』        

三巻 『吾が心の王国』       

四巻 『こころ我を生かす』     

五巻 『七つの光明宣言』  

六巻 『いのちのゆには』    

七巻 『家庭生活の光明化』   

八巻 『.光明無限の生活』   

九巻 『無限生命の泉』    

十巻 『妙法七つの燈台の教』

特別篇 『.生長の家経済連盟の提唱』

だがこの特別篇は当時の内務省警保局の検閲にあったのではないかと推測出来る。

それは先程記入した『生長の家』誌10月号には生長の家経済連盟の提唱という記載には「貧乏と失業と不景気は社会の病気である」と記載がある。こうした内容が検閲にひかかったのであろう。

そうでないと昭和781日の宣言にある「生長の家叢書」を発行してと記載があるのは上記の生長の家叢書である。

一巻 『神への道しるべ』       

二巻 『光の新生活へ 』        

三巻 『家庭生活の光明化』       

四巻 『こころ我を生かす』     

五巻 『吾が心の王国』  

六巻 『いのちのゆには』    

七巻 『無限生命の泉』   

八巻 『.光明無限の生活』   

九巻 『生長の家の歌』    

十巻 『人間生通しの話』

十一巻 『無一物の医学』

これは先程掲載した本と同時期なださらた事もあり詳細は不明である。

さて、明窓浄机を読むと今回の総裁の誤謬がわかる、谷口雅春先生は退職して3ヵ月後に出版されたわけでもない、持続的に会社に勤めながら、辞められてもなお出版を続けられたのが真相のようである。これは五十年史には記載していないが、明窓浄机を読めばわかるのである。読まないで推測をまるで断定のようにかくのは誤謬を生み出す。

////////////////////////////////////////////////////////
聖経について (8)

 谷口雅春先生はまず、昭和7年元日発行の初版革表紙『生命の實相』の中で、自由詩「甘露の法雨」を初めて公式に「聖経」と認定された。その後、7月末で会社員をやめて宗教活動に専念される。前述したように、それは会社側の都合による解職であるから、先生の経済事情が好転したわけでは決してない。そこで必要になるのは、完成した豪華本の『生命の實相』をより多く頒布し、『生長の家』の誌友や共鳴者をふやすことである。しかし、誌友は必ずしも全員が誌代を払わず、『生命の實相』も当初の予定より高額となったために、それほどの頒布数は見込めなかったと思われる。このことは、昭和7年発行の『生長の家』誌上で、同書を「誌友に限り1冊2円50銭」で販売するという広告がほぼ1年間続いたことからも分かる。当初の奥付の記載は「有縁の方に限り特に金4円にて頒布す」だったから、これは実質的な大幅値下げである。
 
 これに加えて考案されたのが、『生命の實相』の内容はそのままに、この分厚い本を薄い小冊子10冊ほどに分けて廉価で販売することだった。この小冊子シリーズは結構売れたようだ。そのことは、本シリーズの第2回で引用した『新講「甘露の法雨」解釈』の文章の中で、雅春先生が『生長の家の歌』という題のパンフレットに触れられて、「他の一連のパンフレットはよく売れて出たのであります」と書かれていることからも分かる。つまり、『生長の家の歌』以外のパンフレットは好評だったという意味だ。また、私の手許にあるこれらパンフレットの奥付を見ても、版を重ねたものが多いことからも推測できる。
 
 このパンフレットには『生長の家の歌』という詩集のほかに9篇ほどの"姉妹篇"があり、それらには共通した「生長の家叢書」というシリーズ名が付けられていた。内容は皆、初版革表紙『生命の實相』の一部である。10篇のタイトルを列記すると--
 
 第1篇『神への道しるべ』
 第2篇『光の新生活へ』
 第3篇『家庭生活の光明化』
 第4篇『こころ我を生かす』
 第5篇『吾が心の王国』
 第6篇『いのちのゆには』
 第7篇『無限生命の泉』
 第8篇『光明無限の生活』
 第9篇『生長の家の歌』
 第10篇『人間生通しの話』

 「聖経甘露の法雨」を収録した第9篇『生長の家の歌』を含めた10篇のパンフレットの発行時期は、雅春先生が"二重生活"に終止符を打たれて宗教活動一本で歩み出されてから3カ月後の、昭和7年10月以降である。奥付に記載された発行日は、10篇のうち7篇には「昭和7年10月3日」と印刷されているから、先生が退職後最初に取り組まれた出版が、このパンフレット7篇の発行だったと思われる。他の4篇のパンフレットの発行日は、同101125日と12月1日である。頒布価格については1冊5銭と8銭の2種類がある。パンフレットのページ表記を見ると、多くのものが1ページから始まっておらず、また「柱」と呼ばれるページ上端の部分に「生命の實相」と横書きに印刷された文字がある。これは、発行のコストを抑えるために『生命の實相』の紙型を流用したからだろう。このような様々な工夫によって値段を極限まで下げたことで、パンフレットは多部数が頒布されていくのである。
 
 谷口 雅宣

///////////////////////////////////////////////////////

 

 

またしても、『生長の家叢書』において総裁が書いている。だが何故こんなことが問題になるかというと、歴史を封印した当事者であるからである。勿論総裁自身そんなつもりは無いのかも知れないが、今回の聖経についての記載は随分間違いが多いことを指摘した。

私のブログをみているのかどうかしりませんが、総裁自身も少しわかりはじめているようであるが、勉強不足は歪めない。

さて総裁の今回のブログであるが

>前回の本欄で「生長の家叢書」というパンフレットについて触れたとき、私は「内容は皆、初版革表紙『生命の實相』の一部である」と書いた。これは間違いである可能性があるので、この部分から「初版革表紙」の5文字を削除した。「可能性がある」という言い方はいかにも中途半端だが、現在のところ検証が終わっておらず、確実なことが言えないのである。確実なのは、『生命の實相』の一部であるということで、不確かな点は、その『生命の實相』がいつ発行されたどの種類のものかということだ。
 
 私は当初、これら9篇のパンフレットと併行して製作された『生命の實相』は初版革表紙本1種類だと思っていたので、前掲のような表現をした。しかし『生長の家三拾年史』によると、『生命の實相』には四六判の黒布装の全集があって、これが昭和10年1月15日発行の第1巻を皮切りに、1215日発行の第12巻までが同年内に発行されたという。また、この同じ聖典には菊半截・聖書型の革表紙版全9巻という豪華版もあり、この中の<地の巻>は昭和1010月1日に発行されている。これに対して生長の家叢書第9篇の『生長の家の歌』は、奥付表記によると初版の発行が同7年10月3日になっているから、これらいずれの『生命の實相』の紙型も存在しない時期の発行である。だから、それを流用してパンフレットを出すことは不可能なはずだ。そんな理由で、初版革表紙本からパンフレット化されたと考えたのである。
 
 ところが、実際の『生長の家の歌』(私の手許にあるのは昭和1010月発行の第8版)を見ると、初版革表紙本の紙型から製作することはほぼ不可能な編集になっている。そこで、初期に発行された他の『生命の實相』を調べてみると、革表紙版の全集の<火の巻>の冒頭が「聖詩篇」になっていて、それとパンフレットが組体裁から内容、ページの振り方まで全く同一であることが分かった。だから、第8版の『生長の家の歌』は革表紙版『生命の實相』<火の巻>などの紙型から作られたと考えられる。ところが、さらなる問題があった。この<火の巻>は、奥付表記では「昭和11年2月25日発行」なのである。ということは、『生長の家の歌』の発行日より4年遅れて出版されたことになり、タイムマシンを使わなければ不可能なことだ。
 
 こうして私は今、「聖経 甘露の法雨」がパンフレットの一部として初めて発行された時の、その元となった『生命の實相』を特定できないでいる。パンフレット『生長の家の歌』の初版本が手に入れば、このパズルを解く鍵が見つかると期待しているが、今となっては、それは"かなわぬ夢"なのかもしれない。

 谷口 雅宣<


なぜこんな初期的な疑問がわからないかというと、今回の新聖経の意図が見え隠れするからである。神様はそんなことは赦さない。自己価値の判断での聖経は罪があまりにも大きい。

さて、今回の間違いはどこかであるかであります。まずは『生長の家の歌』が発行されたのは5銭本であるが、昭和7年8月には既に発行されていたのです。

というのは『生長の家の歌』だけが当初売れなかったと雅春先生もお書きのとおりで、叢書という形体はこの時期以前にはすでに発刊されていたと考えるのが順当である。

だが、一番問題なのが叢書として販売されたのと、バラ売りとして販売されたのとほぼ同じ小冊子もあることである。

ただ、バラ売りにしても生長の家叢書何巻という記載はある。勿論。単独で『生命の實相』

以外にも販売されている。たとえば『生長の家経済連盟の提唱』などは『生命の實相』にはない。

単独で叢書の一部として販売されています。

>また、この同じ聖典には菊半截・聖書型の革表紙版全9巻という豪華版もあり、この中の<地の巻>は昭和1010月1日に発行されている。<

上記を読んでどの『生命の實相』かはわからない。私はすぐにわかるが、99%の信徒は何の『生命の實相』か判断出来ません。正確な記載を総裁にはお願いしたい。下記が正式名の『生命の實相』である。菊半截・聖書型という言い方です。菊半截というのは当時の判の大きさを示しています。



『生命の實相』(縮刷要典版第一巻)
『久遠の実在』(縮刷要典版第二巻)
『生命の実相』黒布表紙版 全20
『生命の実相』戦時廉価版十五巻
『生命の実相』革表紙版(総黒革版・3方金)縮刷豪華版 地の巻・水の巻・火の巻・教の巻・空の巻・行の巻・信の巻・證の巻・風の巻
『生命の実相』豪華大聖典
『生命の実相』大聖典(縮刷中聖典)
『生命の実相』事変版ビロ-ド表紙版・人造羊皮版
『生命の実相』本菊判装『生命の實相』
『生命の實相』満州版
『生命の實相』携帯版叢書 (聖経附)
戦後版 新修普及版『生命の実相』20
戦後版 新修特製版(見返装丁『生命の実相』20
『生命の實相』戦後版豪華革表紙 地の巻
『生命の實相』戦後版豪華革表紙 水の巻
『生命の實相』布装携帯版 (全40巻)
『生命の實相』豪華版 (全20巻)(見返装丁)
『生命の實相』頭注版 (全40巻)
『生命の實相』豪華携帯版 新装携帯版(全40巻)
『生命の實相』愛蔵版(全20巻)
『生命の實相』復刻版
『久遠の実在』復刻版                     『新編 生命の實相』(全65巻発刊予定)

下記が誤りを認めた文章です。少し素直ではないですが。それでも誤りを認めたことを評価します。

2012
710 ()
聖経について (10)
 前回の本欄を読んだ読者から、貴重なご意見をいただいた。私の推理が間違っているというのだ。もっと色々な資料に当たって総合的に考えねば歴史的事実の検証はできない--そういう意味のお叱りをいただいた。が、だからといって、その読者は私の疑問を晴らす“答え”をもっているのでもなさそうだ。しかし、率直なご意見には感謝申し上げる。
 
 その読者の指摘は、私が谷口雅春先生の『明窓淨机 草創篇』(1979年、日本教文社刊)を読んでいないということだった。全く読まなかったわけではないが、注意が足りなかった。その点は弁解の余地がない。そこでさらに同書を含めて調査を進めた結果、分かってきたことを少し書こう。ただし断定的な言い方はしないので、読者も私の推測を事実だと思わないでいただきたい。何しろ80年以上も前のことで、資料は多く残っていないのだ。
 
 まず最初に確認しておきたいのは、本シリーズの目的である。それは、生長の家の発祥後数年の歴史的事実すべてを検証することではない。そうではなく、あくまでも今日「聖経」と呼ばれているものの成立過程を明らかにしたいのである。歴史的事実の検証はもちろん重要であり、私も現にそれを本欄で進めているが、それはあくまでも本シリーズの目的に資する範囲内に留めたい。そうしなければ、日常の私の他の業務に支障が出るからである。私がなぜ聖経の成立過程に興味があるかといえば、それが生長の家の公式の記録書--いわゆる『
○○年史』--に詳しく書かれていないからである。この重要な経典についてさらによく知ることは、本欄読者にとっても有益なことだと私は信ずる。
 
 さて、その読者の指摘を端的に表現すれば、「生長の家叢書」というパンフレットの出版は、私が推測した「昭和7年10月」より前に行われているのであり、そのことは前掲の『明窓淨机』にちゃんと書いてある--ということである。その通りだった。ただし、本シリーズの焦点である聖経を収めた『生長の家の歌』(同叢書第9篇)については何も書いてない。書いてあるのは、『生きとほし』と『生命の神秘』という2冊の5銭パンフレットと、同叢書第2篇『光の新生活へ』、第7篇『無限生命の泉』、第6篇『いのちのゆには』のことで、これらはそれぞれ昭和6年10月、同年12月、同年同月、同7年1月、同年5月が推定発行月である。このうち先頭から2冊は、本シリーズ第8回で示した生長の家叢書のタイトル一覧の中にはないものだ。題名から推測して『人間生通しの話』と『こころ我を生かす』のことかもしれないが、現物を見ることができないので、確かなことは何も言えない。また、なぜ発行日の前に「推定」の2文字を入れたかといえば、前掲の『明窓淨机』には表記の月の翌月号の『生長の家』誌に発行の告知が載っているものの、私の手許にある現物(第2,7,6篇)では、奥付の表記が違うからである。
 
 この矛盾をどう考えるかについて、私に忠告を下さった読者は見事な回答をされている--生長の家叢書はバラ売りが先行し、10篇組のセット物が後から出来たと考えるべきだろうというのである。恐らく、そういうことになるのだろう。すると、セット物の分は奥付が昭和7年10月であっても、それより前にバラ売りが出ている場合、その分の奥付は同年9月以前になるはずである。理論的には、そうだ。しかし、私はまだその現物に出会ったことはない。そして、『生長の家の歌』のパンフレットについては、バラ売りのものがあったとしても、それがいつから行われたかは依然として不明である。
 
 現在の私の関心は、こういうことだ--聖経読誦をしようとする際、コピー機が存在しない草創期の誌友の人たちは、どうやってそれをしたのだろう? パンフレット発行後はその中の聖経を読めばいいのだが、それより前はどうしたのか? 雅春先生が「甘露の法雨」を「聖経」として公表されたのは昭和7年1月だから、それから10カ月の間のことである。

 谷口 雅宣

私の父

私の父は明治42年生まれである。頑固おやじでもなく、人の話をきちっと聞く親父であった。

 人の嫌な事も率先として行い、小言など一切言わなかった。

この昭和42811日生まれはあの小関裕而(作曲家)である。愛国の花、リラの花咲く丘、麦と兵隊、長崎の鐘、露営の歌など夥しい数にのぼる。とりわけ、現在もよく歌われているのに阪神タイガ-スの歌(六甲おろし)、読売ジャイアンツの応援歌「巨人軍の歌(闘魂こめて)」などたくさんある。

 昭和12年の支那事変と昭和164月に満州へと再招集があった。

 しかし、戦争を語る時は悲惨な事を語ることはなかった。

敵兵であっても、褒めていたこともあった。しかし支那事変では沢山の兵隊を助けているのだが、自慢もしない。

 戦争といえば悲惨というが、戦地にいっても満州は広い所である。いつ何時に弾丸が飛んでくるか分からない。三か月に一回程、打ち合いのようなものがあり、夜戦が多く。銃の腕は一流であったが、馬術は馬が逃げていく程、下手であった。しかし、人を目の前で殺したこともなく、人を殺すことは苦手でもあった。それは運が良かったと本人は語っていた。

 軍では食事などを任されていた。だから食事を自分がするのが最後である。

一度、食事をしてそのまま寝てしまったのである。起きれば中国人に囲まれて、大変だったと笑って語っていたが、実際は死に物狂いであっただろう。

満州という広大な土地を考えると父の話は納得出来る。

戦争を悲惨だけで語れば、本来の戦争を語れないであろう。南方とも違う、シンガポ-ルとも違うのである。すべて一緒に語るのは間違いである。

本来、父は偏平足で陸軍には向かない、父はそれでも志願して兵隊となった。父の楽しみの一つは戦友と会うことである。一年に一回、そうした戦友に会える喜びがあった。

 

戦争という厳しさを友達と分かち合える喜び、当時の記憶というのがあるのであろう。

明治の父は本当に強い。

大峰山の縦走


一昨日は一昨年に行った観音峰登山口を午前4時30分にスタ-トとして、みたらい渓谷のハイキングコースを通り洞川(どろがわ)温泉を通り清浄大橋の女人結界門を潜り、本格的な山登りをスタ-トさせた、頂上付近には洞辻茶屋があり、そこから更に大峰山寺境内へと向かう、大峰山と呼ばれているが、通常は山上ヶ岳と呼んでいます。そこから大普賢岳へと向かうのであるがその大普賢岳の1100m程手前で道を誤り、山笹の蔓延る斜面へ出てしまった、歩いてオカシイなとは分かったが、直ぐに奥駈道へと繋がるだろうと楽観的に考えて誰もいない山中をさまよっていた。
P1190392
P1190393
P1190394
P1190395
P1190396
P1190397
洞川温泉の旅館などが立ち並ぶ風景です。
陀羅尼助丸は今の「正露丸」と同じです。胃腸薬です。
奈良県ではおなじみです。
上図は鬼ノ宿です。節分では「鬼は内で…」「鬼は神であり先祖であります。だからお迎えするものなのです」
鬼の先祖をもつ家系もあります。
P1190398
P1190399
P1190400
P1190401
P1190402
P1190404
P1190405
P1190408
清浄大橋の女人結界門

P1190409
P1190411
P1190412
P1190413
P1190414
P1190415
P1190416
P1190417
P1190418
大峰山寺境内です。山上ヶ岳の山頂です。
P1190419
P1190420
P1190421
山上ヶ岳の山頂です。
P1190422
P1190423
小笹ノ宿です。
P1190424
大普賢岳方面の女人結界門です。
P1190425
P1190426
DSC_000001
大普賢岳まで100m、ここでカメラが無いのに気が付く。
携帯寫眞で撮影
P1190427
山上ヶ岳に戻った時に再び撮影
P1190429
レンゲ辻の女人結界門



 

でも、本格的に調べようと、スマ-トフォンのGPS機能を使って、ル-ト検索をした。元の道はそれから直ぐに見つかった、そこからである1km程歩いて、大普賢岳はほんの

100m程でカメラが無いのに気が付いたのである。そうだスマ-トフォンをリュックから出そうとして手持ちのカメラを置いて、見ていたことに気が付いた。場所はそこにカメラを置いたのは間違いない。だが一面山笹の広大な斜面である。どれも景色は同じように見える。しかも、目印のようなものは全くない。山笹で近くに行かないと全くわからないのが現状である。間違った道を再び、捜索した。しかし一点だけカメラを置いた地点の前に、古びた長いシャツが捨ててある場所だけは覚えていた、そこから北東へと進めば、その地点であることである。そのシャツを見付けた。

 

そこから、まもなくその目的のカメラを見つけた。考えてみれば奇蹟でもある。絶対に見付ける気持ちがあったのでこの広大な土地の辺鄙な山笹の生い茂った中でGPSでも10m圏内であるから、奇蹟でもあった。

だが、ロスした時間は1時間30分である。時間は既に午前11時である。大普賢岳から弥山に行けば、帰りは夜の9時になることが必然である。弥山の長い登り口を考えると、引き返して観音峰山へ行こうと考えた。

そこから、山上ヶ岳までは結構時間を費やした。途中小笹ノ宿避難小屋で昼食を摂ったのは1215分である。

 

そこから山上ヶ岳には午後1時に着いた。そこから稲村ヶ岳へと歩いた。山上ヶ岳を出て、直ぐに後悔した。険しい登山道である。命綱である、クサリがあちらこちらとある。滑らすと死と直面である。この稲村ヶ岳は滑落事故や遭難が多いのは、こうした道があちらこちらにあることが要因であることがわかった。

 

そこから、レンゲ辻を通り稲村小屋に着いたのは250分である。そこで4人のグル-プと会った。稲村ヶ岳には1時間10分で往復出来ると聞いて、それならばと稲村ヶ岳へと足を延ばした。あれほど疲れていた脚もなんとか速足で歩ける。

 

稲村ヶ岳の頂上には展望台があったが、時間のことを考えると余裕がない。直ぐに引き返した。往復50分の道のりであった。

P1190430
P1190431
P1190432
P1190433
P1190434
P1190435
P1190436
P1190437
P1190438
DSC_0037
この碑に南朝の話が記入されています。
観音平展望台。この裏側に道があった。ススキで覆われて道がわからない。
周りのススキの状態を撮影すればよかったがその余裕がなかった。


そこから法力峠である。最初こそトラバ-スの道であったが、あとは軽快なトレッキング道である。何カ所かトラバ-スする道もあったが、軽快であった、通常1時間30分はかかる道のりを30分で走った。

だが、そこからである。

急な坂道が最初のスタ-トである。それから時折、道案内があるが、分かりにくい道である。何度か立ち止まり、自分のル-トを確かめた。

踏みしめた道があると思えば、そうでない道もあり、わかりづらい。

尾根を通る道なので、何度となく探索しながら歩いた。途中二匹の猿と出くわした。

そうした中でようやく観音峰に到着したのである。
安堵感でホットしたが、これからの厳しさにその時は感じていなかった。楽観した気持ちですぐに登山口に着けるという思いだったが、それが間違いだった。

それからの道は厳しかった。道案内がないのである。枝に巻き付けたテ-プを頼りに歩いた。だが、観音平展望台という場所に到着したが、ススキで覆われて、道が分からない。困って斜面の樹木を降りていったが、それが苦難であった。何度も滑りながら降りていく、林立する樹木を支えながら、何度となく滑落状態である。踏ん張っても地面が柔らかく、踏ん張り切れない。だから杉の木を頼りに身体を支えながら、滑降するような形で下山していくのです。

普通だったら恐怖心で降りれないと思う。仄暗い杉の木立で約40度という斜面は絶壁である。

 

時間は630分を過ぎていた。この斜面に約1時間悪戦苦闘である。倒木が多く、道のない所を歩くのですから、大変で倒木が折り重なって往く手を阻む。暗い林立した斜面は寂しささえ感じる。

 

それでも降りなければならない。必死に降りた。私がもしこういうトレッキングなどしていなかったならば、二度と登山などしないであろう。だがこういう道も何度となく経験があるので、諦めない気持ちがあった。1時間という時間は長かった。

 

ようやく、観音峰ハイキングコースに出た。ホッとしたのが正直な感想であるが、方向感覚が無くなってしまった。

あとで地図を見ると、あの観音平展望台の裏側に道があったのである。そこを引き返したから間違ってしまったのである。

でもあのススキは道を防いでしまっている。その展望台には南朝の話を掲載している。



法力峠から観音峰までが意外と長く感じたのはあのアップダウンであったのかもしれません。

先ほどの観音平展望台の石碑では南朝の話が書いています。
 ここで南朝といっても「生長の家」を信仰されている人は御存知でしょう。後醍醐天皇の新制政権の樹立のため北朝と南朝の時代で活躍された天皇です。

その背景をこうして永遠と伝えている町がこの天川村なんです。あの有名な「吉野朝悲歌」ではないが、この天川村に南朝には

 

 

『御身拂(ミタライ)とも御盥(ミタライ)とも申されている天川村は、南朝・後南朝哀史の数々を秘めた邑で、村内各地に史実・伝承が残されていますが、河合寺・光遍寺・来迎院などの黒木ノ御所に潜幸遊ばされた南帝方や護良親王は賊徒襲来の砌、ここみたらい峡の頂上にある観音峯(1,347メートル)の洞窟に天川郷士がご案内して度々潜られ給うたもので、洞窟の下の岩石に御歌が刻まれています。

 

吉野山 花そ散るらん 天の川

 雲のつつみを くずす白波

 

伝承によれば長慶天皇、天川の黒木の御所をお出ましになり観音峯の洞窟に潜まれ給いしも、賊徒、観音峯に押しよせ来るを逃れ給いし折、河川の増水せる、ここ、みたらい峡の「光の滝」に御入水、御崩御ましまし「みたらいの淵」にて御遺体をお引上げ奉ったと申され、御物、御玉体は光遍寺・弁財天社・牛頭神社・伊波多神社・国玉神社等に夫々お祀り申せしと伝えられています。

 

 

臨くと 登りてみれは みたらいや 

 

 みいずの神器 ここにあるかな』


観音平展望台の石碑には
南朝ロマンの小径-南朝最後の砦と書いている



今回の走行距離は38kmです。

則天去私

最近は仕事が多忙で休日出勤でゆとりがなくなっている。しかし、運動だけは絶やさないように走っています。会社までの出勤にランニングを実施しています。

 今日は代休で市役所と自治会の清掃を実施していました。

吹田市役所には自治会としての要望書の説明とその問い合わせをしました。

その所属の責任者3名と会議した。

 

11年前に自治会として請願書を提出していましたが、未だに実行されない項目があり、その説明を受けていました。

内容は明らかに出来ないが、ある項目には吹田市の責任は認めるが、実施はしない。というなんという曖昧な返答であろうか。

私なりに食い下がって質問したが、吹田市で行うということを説明しており、しかし人事異動で変ってしまうと、前の人が云ったことであるから今は関係ない出来ないという。

 

もはや、呆れるしかない。

 

しかも、自治会の皆さんに謝るのであればあやまる。

 

なんということであろうか、そんなことが通用するのはこういう官庁しかないのかであろうか。しきりに平身低頭であるが、所詮、サラリ-マンの悲哀なのかもしれない。

 

すこし、呆れたが期待した人を裏切る行為は許されない。どうすればいいのか私なりに考えたい。

ギャラリー
  • 南朝の里、天川村
  • 南朝の里、天川村
  • 南朝の里、天川村
  • 南朝の里、天川村
  • 南朝の里、天川村
  • 南朝の里、天川村
  • 南朝の里、天川村
  • 南朝の里、天川村
  • 南朝の里、天川村