則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2017年07月

讀んで戴ければ幸甚です。

演繹法と印象操作

よく人と話をすると、よく言われるのが「お前のそのような所がダメなんだ」口癖のように断定してそういう話をする人がいる。

こういう場合は最初から「この人はダメだと」いう概念があるのです。しかし、ちょっとした言葉で、言葉尻でそういうことを発言してしまう。

だから、最初から人の思い込みや概念によって、その人の創られた想念を押し付けて「お前のそのような所がダメなんだ」という。

 

しかし、その言った人自身は固定概念があるのではないかと思ってしまう。それは、自分の気に入らない想念がどうしても発想してあることが気に入らないのである。だから、そういう言葉が自分は気に入らないからである。

そうした最初からある「固定概念」がそのような「気に入らない」ものを拒否してしまうのである。

最近のマスコミは最初から「固定観念」から生ずる「安倍政権」への批判があることを知らなければならない。とりわけ「安倍政権」は朝日新聞や毎日新聞は気に入らない政権であるから、何が何でも「安倍政権」を打倒しなければならないのである。社是のように「安倍政権」を倒せというものがある。

朝日新聞は「慰安婦問題を考える」において

 

男性は吉田清治氏。著書などでは日雇い労働者らを統制する組織である山口県労務報国会下関支部で動員部長をしていたと語っていた。

 

 朝日新聞は吉田氏について確認できただけで16回、記事にした。初掲載は82年9月2日の大阪本社版朝刊社会面。大阪市内での講演内容として「済州島で200人の若い朝鮮人女性を『狩り出した』」と報じた。執筆した大阪社会部の記者(66)は「講演での話の内容は具体的かつ詳細で全く疑わなかった」と話す。

 

 90年代初め、他の新聞社も集会などで証言する吉田氏を記事で取り上げていた。

 

 92年4月30日、産経新聞は朝刊で、秦郁彦氏による済州島での調査結果を元に証言に疑問を投げかける記事を掲載。週刊誌も「『創作』の疑い」と報じ始めた。

 

 東京社会部の記者(53)は産経新聞の記事の掲載直後、デスクの指示で吉田氏に会い、裏付けのための関係者の紹介やデータ提供を要請したが拒まれたという。

 

 97年3月31日の特集記事のための取材の際、吉田氏は東京社会部記者(57)との面会を拒否。虚偽ではないかという報道があることを電話で問うと「体験をそのまま書いた」と答えた。済州島でも取材し裏付けは得られなかったが、吉田氏の証言が虚偽だという確証がなかったため、「真偽は確認できない」と表記した。その後、朝日新聞は吉田氏を取り上げていない。

 

 しかし、自民党の安倍晋三総裁が2012年11月の日本記者クラブ主催の党首討論会で「朝日新聞の誤報による吉田清治という詐欺師のような男がつくった本がまるで事実かのように日本中に伝わって問題が大きくなった」と発言。一部の新聞や雑誌が朝日新聞批判を繰り返している。

しかし、とりわけ朝日新聞にそのような資格があるかというと「否定」せざるを得ない。それは、「従軍慰安婦」の問題についても「吉田清治」という「ウソ」の証言をそのまま採用して長年にわたり朝日新聞は「嘘」を世界に伝播していた。

しかしそれを謝ったかというと「言訳」ばかりでしっかりと謝罪していない。

 

 【今年4~5月、済州島内で70代後半~90代の計約40人に話を聞いたが、強制連行したという吉田氏の記述を裏付ける証言は得られなかった。

 

 干し魚の製造工場から数十人の女性を連れ去ったとされる北西部の町。魚を扱う工場は村で一つしかなく、経営に携わった地元男性(故人)の息子は「作っていたのは缶詰のみ。父から女性従業員が連れ去られたという話は聞いたことがない」と語った。「かやぶき」と記された工場の屋根は、韓国の当時の水産事業を研究する立命館大の河原典史教授(歴史地理学)が入手した当時の様子を記録した映像資料によると、トタンぶきとかわらぶきだった。

 

 93年6月に、吉田氏の著書をもとに済州島を調べたという韓国挺身隊研究所元研究員の姜貞淑(カンジョンスク)さんは「数カ所でそれぞれ数人の老人から話を聞いたが、記述にあるような証言は出なかった」と語った。

 

 吉田氏は著書で、43年5月に西部軍の動員命令で済州島に行き、その命令書の中身を記したものが妻(故人)の日記に残っていると書いていた。しかし、今回、吉田氏の長男(64)に取材したところ、妻は日記をつけていなかったことがわかった。吉田氏は00年7月に死去したという。

 

 吉田氏は93年5月、吉見義明・中央大教授らと面会した際、「(強制連行した)日時や場所を変えた場合もある」と説明した上、動員命令書を写した日記の提示も拒んだといい、吉見氏は「証言としては使えないと確認するしかなかった」と指摘している=注①。

 

 戦時中の朝鮮半島の動員に詳しい外村大・東京大准教授は、吉田氏が所属していたという労務報国会は厚生省と内務省の指示で作られた組織だとし、「指揮系統からして軍が動員命令を出すことも、職員が直接朝鮮に出向くことも考えづらい」と話す。

 

 吉田氏はまた、強制連行したとする43年5月当時、済州島は「陸軍部隊本部」が「軍政を敷いていた」と説明していた。この点について、永井和・京都大教授(日本近現代史)は旧陸軍の資料から、済州島に陸軍の大部隊が集結するのは45年4月以降だと指摘。「記述内容は事実とは考えられない」と話した。

 

■読者のみなさまへ

 

 吉田氏が済州島で慰安婦を強制連行したとする証言は虚偽だと判断し、記事を取り消します。当時、虚偽の証言を見抜けませんでした。済州島を再取材しましたが、証言を裏付ける話は得られませんでした。研究者への取材でも証言の核心部分についての矛盾がいくつも明らかになりました。】

 

これを読んでみて「謝罪」したかというとどう読んでも謝罪などしていない「誤りを認めただけである」それは謝罪とはいわない。

 

こうした、「初めに、そのような結論に導きたい」日本は悪いことしたんだから、そういう「嘘」も許されるんだという傲慢な考えがこうした誤りを生ずる。その朝日新聞は今尚その過ちを認めないで繰り返している。

それは今回の「加計学園」についても同じことがいえる、印象操作で日本を貶めるのに必死である。

こういうことを演繹法という

産経新聞の「産経抄」に

 

一般的な原理から、事実関係を推理・説明することを「演繹(えんえき)」という。AはBである。BはCである。ゆえにAはCである-という「三段論法」は、演繹によって判断を求める演繹法の代表的なものだとされる。これを用いた結論が真であるためには、前提の正しさと、飛躍がないことが不可欠だろう。

 

 ▼安倍晋三首相は、学校法人「加計(かけ)学園」の獣医学部新設計画をめぐり、野党が要求する閉会中審査への出席を決めた。自ら説明を尽くすという考えに異存はないが、マスコミがその中身をきちんと伝えるかというと心もとない。

 

 ▼これまでの一連のマスコミ報道を追うと、演繹法が誤用されている印象が濃い。安倍首相は悪である。加計学園理事長は安倍首相の友人である。ゆえに不正がなされたに違いない。そんな根拠のない前提のもとで、飛躍した論理が流布されてはいないか。

 

 ▼『ビルマの竪琴』の作者として知られるドイツ文学者、竹山道雄は唯物史観を批判する評論の中でこう説いた。「まずある大前提となる原理をたてて、そこから下へ下へと具体的現象の説明に及ぶ行き方は、あやまりである」。

 

 ▼その上で、さらに続ける。「『上からの演繹』は、かならずまちがった結論へと導く。(中略)事実をこの図式に合致したものとして理解すべく、都合のいいもののみをとりあげて都合の悪いものは棄(す)てる」。

 

 ▼衆参両院が10日開いた閉会中審査で、加計学園誘致を進めた当事者の加戸守行・前愛媛県知事が行った証言について、翌11日付の朝日新聞と毎日新聞の朝刊は、一般記事中で一行も取り上げなかった。安倍政権の対応を批判する前川喜平・前文部科学事務次官の主張と真っ向から食い違うため、都合が悪いと棄てたのだろう。

 

 

演繹とは

演繹(えんえき、英: deduction)は、一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る論理的推論の方法である。

 

帰納に於ける前提と結論の導出関係が「蓋然的」に正しいとされるのみであるのに対し、演繹の導出関係は、その前提を認めるなら、「絶対的」「必然的」に正しい。したがって理論上は、前提が間違っていたり適切でない前提が用いられたりした場合には、誤った結論が導き出されることになる。近代では、演繹法とは記号論理学によって記述できる論法の事を指す。

 

さて、そうした操作的な報道は本当に正しいかというと多くの人が「ノ-」と回答するが、それが印象操作によっていることが知らないでいることが多い。

 

私の自治会でも以前に演繹法により「統括する連合会」から離れた経緯がある。

連合から離れるために「連合」に入ると「費用」を収めなければならない。体育祭や夏祭りやいろんな行事の手伝いをしなければならない。

「そんなしんどいことしても、ダメである」

そうした印象を与えるため、住居されている人に印象操作を行った。だが、恩恵もあることを伝えなかったのは何故なんだろう。

例えば地域のコミニュティが脱退することで保たれるのであろうかが疑問だった。例えば地域の安全マップにおける行事の参加など認めて貰えない。

体育祭には参加は出来るが、しにくい状態である。老人会でもそうである。子供会は地域ではないが、そうした発言も出来ないのである。

それは疎外されているのではなく、自分で拒否したためである。その為に地域に伝えられない情報が私の自治会には宣伝出来ないのである。

だから、私はその当時に大きく反対したのであるが多数決では完全に負けてしまったのです。それを本当に民主主義といえるかどうかと考えると間違った操作における民主主義なのである。

 

だから、最初に結論ありきで導くと「そういう自分の思った結論に導くのである」

だからこそ「危険」であり、印象操作といっても過言ではない。

 

 

 

 

清和天皇と「松尾姓」

私は天皇陵で何回も行った記憶のある陵墓は崇神天皇陵や景行天皇陵や神武天皇陵、仁徳天皇陵や開化天皇陵等数回にわたって御参りしてきました。

だが、ここで印象に残った陵墓では垂仁天皇陵や称徳天皇陵や成務天皇陵がありますが、最も印象に残った天皇陵は清和天皇陵なのです。

 

以前に私が住んでいた川西市には多田神社がありましたが、この神社は源満仲をお祀りしていますが、その祖先は清和源氏とよばれ清和天皇に由来しています。

 

 

56代清和天皇のゆかりの地としても知られる水尾。清和天皇は水尾帝とも呼ばれいたことでもその地水尾をいかに愛されていたかがわかります。

 

深く抉られた川の谷間にその地である水尾があります。場所は嵐山から北へ、愛宕山の裏手にあたる地域であり、明知越えで有名な所にあります。

 

その集落から小川を通り、山道を歩いて行くこと30分、山の中腹に「清和天皇陵」はあります。

 

 清和天皇は、仏道修行のため近畿各地の寺院を廻られた後、水尾を訪ねられました。

その時、この静寂秘境の地を大変お気に召され、ここで一生を過ごしたいと仰せになったそうです。里人も感激し、天皇のためにと新しい仏堂を建てることになりました。

 

しかし、建設半ばで天皇は発病され、お亡くなりに―。落胆した里人たちは、建てた仏堂に天皇を氏神様として奉ったのが、この清和天皇陵にある「清和天皇社」の始まりです。

 

そして、1100年以上経った今でも、里人によって受け継がれ奉祀(ほうし)されてきました。明治以前まではこの地の里人によって、御陵も護られてきました。

この陵墓を護る人の姓は「松尾」家という人なのです。この「松尾」という姓しかこの清和天皇の御陵を護ることが決められていました。しかも1100年という長きにわたり御守りされているのですから驚き以外にありません。現在でも40所帯の半分以上は「松尾姓」です。

 

集落の近くには「清和天皇社」があり、その祠をしっかりと受け継いで護っておられるのもこの松尾姓の人々です。

「生長の家京都教化部」の向にある黒谷さん(黒谷墓地)の丘の頂には清和天皇火葬塚があることを知っている人は少ない。直線距離で100m程である。

 

私も何度かその「清和天皇社」にも「清和天皇陵」にも参拝させていただきましたが、そういうことを知っているが故に、いつも涙が出て仕方がない。

 

 

だから、御陵は里人に向かって建立されているのです。


清和天皇について

 

清和天皇(せいわてんのう、嘉祥3325日(850510日) - 元慶4124日(88117日))は、平安時代前期の第56代天皇。在位は天安2117日(8581215日) - 貞観181129日(8761218日)。諱は惟仁(これひと)。後世、武門の棟梁となる清和源氏の祖。

 

文徳天皇の第四皇子。母は太政大臣藤原良房の娘、女御明子。

 

略歴

 

父・文徳天皇が践祚して4日目に生まれる。第四皇子であり、異母兄に惟喬・惟条・惟彦親王がいたが、 外祖父藤原良房の後見の元、3人の兄を退けて生後8か月で皇太子となる。天安2年(858年)、文徳天皇の崩御に伴い、わずか9歳で即位した。病床の文徳天皇は皇太子が幼少であることを危惧し、6歳年長の惟喬親王に中継ぎとして皇位を継承させようとしたが、実現しなかった。幼少の為、良房が外戚として政治の実権を握った。

 

貞観8年(866年)には伴善男らによるものとされる応天門炎上事件が発生した。善男を信頼していた天皇は、事件を解決した良房に遠慮する形で既に貞観6年(864年)に元服していたにも関わらず、良房を正式に摂政に任命した。

 

貞観18年(876年)第一皇子である9歳の貞明親王(陽成天皇)に譲位。2年半後の元慶3年(879年)5月に出家、その年の10月より畿内巡幸の旅に入った。翌年3月丹波国水尾の地に入り、絶食を伴う激しい苦行を行った。水尾を隠棲の地と定め、新たに寺を建立中、左大臣源融の別邸棲霞観にて病を発し、粟田の円覚寺に移されたのち崩御。

嘉祥3年(850年) 生誕。同年、立太子。

天安2年(858年) 即位(9歳)。

貞観8年(866年) 応天門炎上事件(応天門の変)。

貞観18年(876年) 27歳で突然譲位。

元慶3年(879年) 出家して仏門に帰依。仏寺巡拝の旅へ。

元慶4年(880年) 崩御。

 


消防計画の作成

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今日は朝から「消防計画作成書」を書いていた。約10年以上前に私が作成してから御座なりとなっていた消防計画である。この作成は自治会と消防署と吹田市役所が作成するのであるが、文面を読めば本来は吹田市役所が作成するものである。管理人が「吹田市」であり、責任者が現在の市長である後藤氏であるからである。

途中で少し腹が立ったが、市役所の怠慢を自治会がカバ-しなければならないとは情けない。

それが意外と時間がかかったのと、アンケ-トを実施したのでその纏めと吹田市役所に提出する文面の作成である。

こういう提出書類を書かなければ、誰も実施しない。

生長の家社會事業団の最初の御本

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生長の家社會事業団として発行された本としては最初の本である。

生活力叢書として三冊出版されています。

此の本をどうして出版されたかを『樂園奪還』のはしがきで書かれています。

今後紹介させていただきたい。
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The Science of Faith 『信仰の科學』

『信仰の科學』という本がある。

此の本は極めて珍しい本である。それは「谷口雅春先生」の共著であることです。

この本について、谷口雅宣総裁が「小閑雑感」に2010617日にブログで書いている.
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 この『信仰の科学』という本は、1972(昭和47)に出されたもので、数多くの雅春先生の著書の中でも“例外的”といってもいい珍しい本です。なぜなら、これは外国人との共著であるからです。雅春先生には、谷口清超先生との共著は何冊かありますが、外国人との共著は恐らくこの1冊だけです。誰との共著かというと、フェンウィック・L・ホルムズという人です。この人は、アメリカで発達した“ニューソート”の思想家の一人で、リリジャス・サイエンスというキリスト教系の教えの創始者、アーネスト・S・ホルムズ師と兄弟の関係にある人です。その人との共著がどのように出来たかは、本の「はしがき」に詳しく書いてありますが、それを簡単に言えばこうです。まず、雅春先生が書かれた日本語の原稿をアメリカで出版しようとして、日本人の大学教授が英訳をしました。それをアメリカの出版社が見たところ、アメリカ人向きにするには表現を改めた方がいいというので、アメリカ人の推敲者が必要だということになりました。適当な人物を探していたところ、フェンウィック・ホルムズ氏が英訳文の推敲をしてみようと申し出てくれました。が、ホルムズ氏はそれをしている間に、興に乗ってどんどん加筆修正を進め、あるいは自分の体験や信仰理論を付け加えて1冊の本(The Science of Faith)を完成させたといいます。その本の英文をまた日本文に翻訳し、それに谷口雅春先生が最後の修正を加えてこの本が完成したそうです。

 

それ以外の書いている日時計主義とはこの場で関係がないのと本人が実践が出来ていない人にはその資格がない。また「日時計主義」を云うべきではない。脚下照顧であるまず感謝することから信仰を行うべきであろう。そこから信仰を説くべきであろう

 

さて、その『信仰の科學』という谷口雅春先生との共著はFenwicke L Holmesである。

そのアメリカでの本というのを購入した。

それが下図です。

ただ、そのアメリカで出版されたのが昭和28年です。この『信仰の科學』が出版されたのが昭和47620日です。内容を拝見すると、「赤トンボの歌」など挿入しているなど、かなり加筆されていることがわかります。
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谷口雅春先生の御揮毫では珍しい『萬教歸一』です。
発行されたのは昭和28年ですが発行日までは記入されていません。

則天去私―ただ流るるままに

現在、私の家にはいろんな周りの人々からお手紙を頂く、こんなこと以前の自治会長時代にはなかった經驗である。

依頼文章やこうしたことをしましたよ、と失礼ながら他愛な事もあります。だが、そうした近所付き合いの中から色々な助け合いも生まれます。

私はこの団地に住まいして16年になります。その間、奉仕活動を率先して行っています。色々な事でも率先して参加したりします。もう一人私と同じように頑張ってしてくれる仲間がいます。また、以前に骨折をして大変な時期がありましたが、食事などを作っていただいたり。病院まで連れていってもらったりしました。

自分というのはなんと幸せなのかと痛感することがあります。この団地で放火があり、それをテレビに取り上げていただき、出演したことがあります。また、どうしても困って、一度この放火(通常はこの程度ではテレビ放映しない)をテレビで事件として取り扱って欲しいということを依頼して、実際三回程テレビで放火跡など事件の状況を説明して放映されました。

その人は私の友人でもあり、アナウンサ-であります。

また、いろいろな友達が私にはいます。もう13年程になりますが、私が主宰して行っているサ-クルがありますが、皆んな信頼して楽しく付き合っています。約30人の仲間がいます。

それは「生長の家」とかではなく、通常の社会人としての友達であります。先日も京都の御所や御霊神社等を散策しました。

だから、「生長の家」だから友達がいるのではなく、誰とも友達になることが必要だと感じます。

 

今回『谷口雅春先生著作年譜一覧表』が完成したが、自分ではまだまだだと思っています。もっと本格的に行いたい。本来はもっと安価でしたいが、自費出版で販売は一箇所だけにしているから、そんなに売れるとはおもっていません。ただ将来に残る書籍であることは間違いないと思っています。それは現在「生長の家」でも「谷口雅春先生」の御著書を殆ど販売していないからです。

しかし、将来は大きな書店でも置いていただけるようなものにしていきたい。

それと今後は「皇道大本と谷口先生」「戦後の谷口雅春先生」を書いていければいいなと思っています。

講師に峻別が必要

『生長の家教義研修講座』で講師になりたい人は何の試験もなく、バッチと名刺で済むのです。私はこれについてはおかしいと思っているが、私もそれにより講師の資格はある。

だが、私を含めて本当にいいのであろうか?と考えてしまう。

確かに、それを選別するのは難しいが、『生命の實相』40巻を読破した人とか基準になるものが一つ必要である。
長年にわたり活動しているだとか

試験も本来は必要であろう。三日間通しての受講だけではなく、本当に生長の家の眞理が把握できているのかを何らかの基準は絶対必要である。

また、講師の把握は必要であろう。ほったらかしにすれば講師など必要はない。

 

現在、谷口雅春先生の著作が少なくなっている、そのなかで対策を講じなければならない。それも行わずに講師だけ増やすのは反対である。

 

最後の決意発表で講師になりますというと拍手が起きていたが、私はおかしいと感じていた。少しおかしいと思い私は少しとぼけて「講師」になっても、何もすることがない、講師派遣を決めて欲しい。といえば「前原先生」が遮断してきた。決意発表と関係ないと・・・

それでも安東先生は評価して下さった。その通りであると

 

貴方はどう思いますか?

「言霊」で観じる古事記

『生長の家教義研修講座』で古事記の話が為された、立派な話である。よく勉強もされている。だが、何かが足りないことをしきりに観ずるのである。

翌々考えると、實體驗のような経験がないことである。紙面上では私以上に勉強されているが、言霊の持つ『霊的な感覚』難しいかもしれないが、実際に其処に辿り着いて感じるものである。

よく例え話とだすが西行法師の

なにごとの おはしますかは 知らねども 

 かたじけなさに 涙こぼるる

 

「このなにごとの」という表現に言霊を感じておられるのである。生長の家でいう歴代天皇の霊のようなものを感じているのですが、それは誰にも言えないが申し訳なく涙が出る。

その「何事の」というものを私は幾度となく感じたことがある。そこは虚無の世界ではない、そこに誰かが呼んでいるのです。鬱蒼とした樹木に囲まれた山林で勿論誰も呼ぶような人はいない。

それでもはっきりと聞えるのです。

あなたの巡拝する所はここですよ。

と教えてくれるのです。多分、歴代天皇の陵墓など参拝していないとわからないと思うが、

そういうのを感じたのは最初に後宇多天皇陵である。

後宇多天皇 蓮華峯寺陵並びに亀山天皇皇后 佶子 蓮華峯寺亀山天皇分骨所、後宇多天皇皇后 子内親王分骨所、後二条天皇分骨所の参拝を終え、その後培冢(培塚)の参拝となるが、ほ號とへ號は簡単にわかるがい号~に号までが雑草の中に殆ど誰も踏み入れたことのない培冢である。

山など行くと、時折方向感覚を失うことがあるが、それと似たような現象が起きる。しかも目的地の近くに行かないと目印などない。

だが不思議だが簡単に見つけることが出来た。それでも一番苦労したのは仲哀天皇皇后 神功皇后 狭城盾列池上陵である。その培冢であるは号とに号である。

御陵は近鉄京都線の北側であるが、は・に号は山が異なり線路を挟んで南側にあたる。

どの山であるかがわからない。幾度となく尋ねるが、隣に住んでいてもそこに御陵などあることも知らない人が多い。そういうことで道を尋ねると「大学教授」ですかと尋ねられることが屡々ある。

しかも、ほとんど知らない。だから苦労することが多い。

宮内庁書陵部 陵墓地形図集成という地図があるが、その本の価格が162000円であるから購買は無理である。

最近は縮刷版があるので19440円で購入出来るのでこれなら買えるがそれが販売したときはほとんど参拝を終えている。

 

そういうことで苦労しながら参拝したものである。だからこそそうした不思議な感覚が発揮されるのです。それは研ぎ澄まされるような感覚なのです。

 

亀の子さんが6月26日のブログで書いておられる

 

【御陵の前の鳥居を礼拝しながらくぐり御前で再度、礼拝し祈りを捧げました。祈っていると鳥のさえずりと爽やかな風が吹いて温かく体が包まれるようでした。特にお祈りの言葉を考えてはいませんでしたが、自然とこんな言葉が湧いてきました。

 

 

「どうか今の日本(にっぽん)の國難をみそなわし給いて、全國民が平和で幸福な生活がおくれますようにお導きくださいませ。」

 

瞑目合掌して、しばしお祈りをしていると時間の感覚も肉体の感覚も蕩尽されていくようでした。後からこられた参拝者の話し声でフト我に帰ったという感じでした。祈りのおわり頃、「もっと肩の力を抜いて生きていきなさい」という声なき声が聴こえたような気がして心がフッと軽くなりました。

 

しかし、鳥居で再礼拝し帰路に就いたとき、思わず泪が滂沱と溢れ出てきました。】

 

何故、亀の子さんは泪がでたのでしょうか?

それがわからないと「天皇信仰」というのを把握されていないことなんです。

それは西行法師の「かたじけなさに 涙こぼれる」なんです。

神様の波長と自分の心の波長とが合致したとき、何も言葉がいらないんです。御陵にはそういうものがあるのです。

だからこそ、亀の子さんは直感力とその把握がスゴイのです。

 

私が陵墓探索であの奈良県の川上村まで行った時に不思議な感覚に見舞われた。隣は三重県で南は和歌山である。山の奥でしかも山頂近くに或る。

後村上天皇の皇末孫 河野宮墓に参拝したときである。不思議と泪だ出るのです。何もそこにはないが泪が出てくるのです。

そういうことを考えると言霊の感覺が敏感となってくるのです。前回に天皇靈という言葉で書きましたが、そうした天皇の霊性を深くかんじるのです。そういう感覺で『古事記』など話をすると、研ぎ澄まされたように言葉の一音一句が把握できるわけです。
それを感じたのが森田先生でした。

谷口雅春先生は無類の天才ですから、大本に入信され3か月後には古事記講話されているのですから、もはや言葉も不要である。直感と把握は言葉に表すことが出来ない。

 

神の国寮についての文集

『生長の家教義研修会』で全員の挨拶で

『この一年間、生長の家の歴史を勉強していました、その中で『神の国寮』の手記がけいさいされていました』

私はそういう簡単な挨拶をしました。

その言葉に安東先生が

「どんな本と内容を教えてほしい」

ということで昨日所持させていただいた。

現在はそういう歴史的なものが残っていなかったりする。このブログでは昨年に掲載させていただきましたが、再掲致します。

 

戦災孤児という言葉もすっかり無くなったような気がしますが、しかし現在でもそうした中でしっかりと生きておられる方は沢山おられます。

 

生長の家は戦後いち早く、「生長の家社会事業団の設立」を昭和20年11月号の復刊第一号でよびかけられました。その対策は十項目ありました。

そのなかで

5、戦災その他の事情による父母なき幼児の保育園及び一般幼稚園の経営

 

その当時の様子を孤児の文集として残っています。

 

生長の家社会事業団

神の国寮

 

『戦災孤児の綴方集』父母を慕いて

       ―すすり泣く子ら―  から抜粋

 

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ありがたいお母さま

 

               黒田利子(当時14歳)

 私は、生長の家にくるまえは、お母さんのありがたさがわかりませんでした。

 生長の家にきてねどこにはいりますと、お母さんのことが頭の中にうかんできて、

 いつまでも、いつまでもねら  れませんでした。

 

 

 そのとき、私は、お母さんのことがわかりました。

 

 これからはけっして、お母さんをそまつにはいたしません。

 また生長の家には、お母さんもきょうだいもない子がいますから、

 私は、しあわせだとおもいました。

 私は、きっと、お母さんにおんがえしをいたします。

 

 家庭科の勉強をして、お母さんが、おねえさんのようふくをぬえるようにいたします。

 それまでおまちください。

 

(詩)お母さん

 

        杉山正明(当時12歳)

 

 

お母さん、お母さん。ぼくには、隠せない、

 

やさしいお母さん。

 

ぼくにとっては寳ものだ。

 

光のように神さまのようにやさしい、

 

清らかな心。

 

その心は、ぼくらには、わからない。

 

あたたかい胸にだかれ、

 

おっぱいをのんだ、小さい日よ。

 

いまはもうこんなに大きくなって、

 

歩ける、走れる。

 

山より高いご恩、

 

ぼくはけっして、忘れないぞ。

 

ぼくははやく、大きくなりたい、

 

えらくなりたい。

 

大きな、ぼくの家に、りっぱな自動車で

 

ぼくは、お母さんをむかえるのだ。

 

お悟りになられた時期について

谷口雅春先生がお悟りを開かれたのは何時?

昨日の教義に関する質問で出ていました。

それに対する明確な回答はありませんでした。それははっきりした日時が明確に『生命の實相』に記入していないからである。

確かに、それに対する回答というのが戦前の『佛教の把握』という御著書には記載されているが、日時が全く書いていない。推察で申し上げるしかないが・・

『佛教の把握』以外に

『光』誌

『心靈と人生』

『生活者』

『新時代』

等で当時の御寄稿された文章で探っていくしかない。

本日は多忙で詳細は書けないが『佛教の把握』を中心に

住吉村に引っ越しされた時期などではないかと推察しているが、若し御存知の方がおられましたら、ご返答をお待ちしています。

 

当方もこれに関して考えてみたい。

合掌ありがとうございます。

早速、一冊購入していただきました。

谷口雅春先生の著作を蒐集されている人は勿論、生長の家の歴史を学びたい人は是非読んで欲しい。

 

http://ameblo.jp/nagaikoshoten/entry-12288599417.html

 

 

谷口貴康先生からも宣伝していただいております。

 

https://blogs.yahoo.co.jp/tachiyan50

 

谷口家の家宝というありがたい言葉を頂き、本当に感謝しかありません。

『一般社団法人 いのちを守る親の会』に置いていただいております。

 『谷口雅春先生著作年譜一覧表』が京都宇治市の『一般社団法人 いのちを守る親の会』に置いていただいております。

 
http://inotimamoru.web.fc2.com/


雅春先生は昭和44年2月24日

『帝都日日新聞』において「月曜随想」で『神を見出す四つの道』と題して発表されています。

それはキリスト教では「汝、殺す勿れ」がモ-ゼの十誡の最初に掲げられた誡めであり、佛教でも「不殺生」が十善の第一にあげられている。日本国内で毎日1万人の胎児が殺されている。これを黙殺していては道義国家は成り立たない。
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本当に切々たる思いを感じてその運動を一人で立ち上げた大熊先生、大変立派です。

 

是非とも、大熊先生のブログも併せてよろしくお願いいたします。


『谷口雅春先生著作年譜一覧表』を永井古書店から販売します。

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生長の家の資料として作成した『谷口雅春先生著作年譜一覧表』は大きな反響として私の所に手紙やメールとしてきています。

その量が総数574頁でしたから驚かれたのでしょう。

未掲載の文章や今迄谷口雅春先生が御寄稿された文章で初公開というのがありましたから、驚きであったと思っています。

 

ただ、私の家にはこの10倍を超す資料があります。それをどのように纏めるのかが難しい。著作権というのがありますので、簡単に引用ばかりでは違法となります。今回は目次やレファレンスとして著作を編集致しました。

 

また、前回と同様に永井古書店で販売致します。

私と彼との出会いは古く、40年近くに遡る、私が教化部の青年会専従として従事していたころ、生学連で永井君が活動していた。昔の大阪教化部は2階の部屋にあり、青年会の部屋の横に生学連の部屋があった。当時は専従していたから、いろんな学生がひっきりなしに部屋に入ってくる。

「ホッチキス貸して下さい」

「コピ-させて下さい」

その所々にその当時の学生達の状況が詳らかに分かってきます。

当時は様々な人が教化部に来ました。例えば「警察の公安二課」からも来ました。

生長の家の様子を探っていかれるのでしょうが、いつも楽しい談話でした。

反対に警察内部の事などを話されて行かれていました。

いや、其処まで話して大丈夫?

反対に生長の家は信頼されていた証です。

 

さて、永井古書店様では「生長の家」の本が全国のどこよりも「たくさん」あります。

喜多登先生の本や『生命の實相』戦前版など沢山あります。

だから、誰もが見たことのない(私は全て見ています)谷口雅春先生の本があります。

なかには、實相体験集成第四輯は組版の上謄写に代わる保存記録として校正刷を5部限り仮綴して、光明思想普及会及び生長の家本部に備え置いて、或る時期まで公表頒布せず適当時期を俟って公判するものとの趣旨による、但し発行されたか否かは不明の御本をお持ちです。これはもうどこにもない、「体験集」ですのでそれを見るだけでも価値があります。

 

生長の家大阪教化部の書籍棚より、「谷口雅春先生」の御著書が圧倒的に多いのですから笑います。

 

https://ameblo.jp/nagaikoshoten/

 

昨日も永井古書店様を紹介させていただきました。

是非皆さまも問い合わせして下さい。気楽に応対していただきます。

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