則天去私

「谷口雅春」先生の生涯も綴っていきます。

2017年04月

讀んで戴ければ幸甚です。

『神を審判く』の論考をする。

「聖杯」第三部 第一部  神を審判く     新光社  

T12.7.21

396

46

神の牙城に迫る(神を審判く改題)  小西書店

T13.11.25

396

46

 

年譜

 

T12.08.25

長編小説『神を審判く』を出版

T12.09.01

 

  

T12.09.13  

T12.10.10

  

T12.12.13

 

  

T13.02 

  

T13.04.17

 

 

 

T13.11.25  

関東大震災の為に大本教祖を主人公とする小説(出口教祖詳伝)と摂津紡績時代の工場労働者を主人公としたプロレタリア小説も世に出ることはなかった。東京市浅草区松葉町半田方に在住

高岡の輝子先生の実家に避難

恵美子先生御誕生(高岡市中川町の江守家において)

神戸の養父母のもとに帰る(神戸市夢前町3丁目40-1

大阪で復刊した浅野氏主宰の雑誌『心霊界』の編集を担当

『新時代』10月号に「若き者の成長のために」を発表。以後、『新時代』誌上に多数の文章を寄稿。

この頃、生田神社前の古書店「永田文進堂」においてフェンウィック・ホルムスの“The Law of Mind in Action”を入手

清貧道から無礙道への転機となる論文「個人に於ける『宣光社』的はたらき」を執筆。『光』56月号に発表

この頃『三部作“聖杯”第一部』(『神を審判く』を自費出版。

『神の牙城に迫る』(『神を審判く』を改題。

このころ、ヴァキュ-ム・オイル・カンパニ-の広告部に翻訳係として入社。

 

ここで大正12825日と記載しているが。実際の印刷して製本しての発行は721日です。

 P1190274
「聖杯」第三部 第一部  神を審判く     新光社 の奥付
P1190232

P1190277
『神の牙城に迫る』の奥付
P1190276
P1190231


 

さて、今回亀の子さんから重要なる考察を提言していただきました。

 

それは以前より疑問が付き纏い、チラホラと虚説の胸中から中々脱しきらない私の心中が放浪しながら暗中模索していました。

それは、『神を審判く』における疑問でした。

 

雑誌『光』の巻末の広告や当時の宣伝媒体による啓蒙、ましてや『生長の家五拾年史』の記載など様々な要因が迷わすきっかけでした。

今回、私が記載した年譜を披歴させていただきます。

 

これは、あくまでも『生長の家五拾年史』に基づき作成したものです。

それに、『谷口雅春先生著作年譜』を符号させると年月日が合わない。

ましてや『聖杯:三部作 第一部 神を審判く』は自費出版と合わせて、二回発行されていることとなる。

それも疑問でした。以前にそうした疑問を仄かにブログに書き込み、どうしてもその不安がわからないまま忙しさに感(かま)けて、ほったらかしにしていました。

 

私の疑問は関東大震災の後に多くの書物が焼かれ、折角大正12725日に発行した自著である『神を審判く』は本来は『聖杯:三部作 第一部神を審判く』が正式な名称であります。

実際、その根拠があり、皆さまもインターネットで検索出来ますので、私の言っている事が真実かどうかを見極める事が出来ます。

 

また、

そうすると、自費出版ですが

大正132月に浅野和三郎の主宰する「心靈科學研究会」の仕事を手伝いされたり、翻訳の仕事もされていましたので経済問題は程なく解消されたが大正134月頃に『神を審判く』が果して自費出版されたのであろうか?この文章は『生長の家五拾年史』には大正134月頃と記載しています。

 

 それならば同じ著名である『聖杯:三部作 第一部神を審判く』なのか?

それならば同じ出版社であるならば。重版でいいのであって、無駄な出費もしなくていい。

 しかも、その日付も著名もわからない。

 

確かなことは、『神の牙城に迫る』と題名を変えられたのは、自費出版であることが推論としては正しい。

 

結論をいいますと自費出版したのは『神の牙城に迫る』であって、前回のブログで記入した雅春先生の序の内容と符号する。

『聖道へ』や『聖杯:三部作 第一部神を審判く』の発行者である仲摩照久氏から紙型を譲っていただいている。また題名も書店の希望である。また、4月頃に自費出版しているならば、此の序に

「再び公にするに當って」という言葉はないだろう。

 

序 (谷口雅春)

 

我々の住んでゐる地上の世界では善人ほど概してひどい目に會ってゐる。今迄どんなに多くの善人が血と汗と泪をながしたことであろう。

 

どうして此處にこの世界では善人ほど苦しまねばならないのであらうか。神は善人の流した血と汗と泪とを啜って惡人とともに肥えふとるものであらうか。神はそれでは愛ではなかったのか?

 

 では神は何のために人間を此の地上につくり、何を人間に約束したか。自分は長い間この約束について思索して來た。そして学生の思索と體驗との全部をあげて、吾が處女三部作『聖杯』にあらはさうと執筆し始めたのは、もう大分以前のことである。やっと昨夏その第一部の稿が終って、それは某書店より『神を審判く』と題して出版された。と思ふと、突如関東大震火災が起ったのである。

 

自分の住んでゐる家は焼けるし、本も殆どまったく廣告すらせられないうちに灰盡に歸して了った。從って讀者の手に渡った部数は極めて僅少であったにちがいない。しかも、その僅少なる讀者のうちに、本の焼けて行き亙らないことを惜しく思って復興版を出すことをすゝめて呉れる方もあったし、賞辭や讃辭や激勵の辭を送って下さる方も續々あった。

 

今、此の作を書店の希望で『神の牙城に迫る』と改題して、再び公にするに當って、これらの同情を寄せられた人々に感謝せずにはゐられない。

 

特に此の作の価値をみとめて新たに世に出して下さる小西榮三郎氏及び紙型を快く譲って下さった仲摩照久氏に謝辭を捧げる。

 

大正十三年十一月十日

 

                        作者識

 

再度掲載致しますが、その序の内容にはもし自費出版しているならばそういう経過も記入されているであろう。

「聖杯」第三部 第一部  神を審判く     新光社  T12.7.21      396    46判

神の牙城に迫る(神を審判く改題)  小西書店 T13.11.25     396    46判

                             T14.2.15の発行有(写真参照)

この発行違いはどうやら後日その部分の日付文字が違うので後で変更したようである。

上記以外には「神を審判く」に関して立教以前は出版されていないという結論であります。
間違っているならば是非反論をお願いいたします。

カルト集団の現教団

生長の家を深く信仰する人が谷口雅宣総裁を果たして容認できるのであろうか。
私はこのように思います―
本当の信仰がわからないから、谷口雅宣路線を容認するのである。その言葉は果して傲慢なのか?

仮に純粋に谷口雅宣総裁の人柄が好きで、この人こそ谷口雅春先生の精神を受け継いでいるのだと仮に思ったとして、谷口雅春先生の宗教觀、哲学観、人生観、国家間等、それらを全てを容認してこそ、受け継いだことになる。

阪田成一先生は谷口清超先生が「今の教え」とかを黙認されたこと。「法燈継承の真義」で面授という言葉と「不立文字」についての疑義を「真理の光」で書かれましたが、
たしかになるほどと思う文章でした。さすがに尊敬してやまない先生である。

さてその文章に谷口雅春先生の言葉として「師の悟れる理念は弟子の悟れる理念に一致しなければならない。これが伝法である。禅宗に於て伝法されたものは、師の體得した理念と全く同じきものを體得したものとして始めて衣鉢を伝えられ得る資格を得たのである。弟子がどんなに一人よがりで悟りに到達したと思っても駄目だと見抜いたら決して允可しないのである。」

ここなんですよ。例えば雅宣総裁を受け継ぐものがまたもや「今の教え」として自由に振り回したらどうでしょう。
そこには道理や法燈や伝授などありえない。それならば雅宣総裁だけが容認されるのもおかしい。

そこが問題なのです。それこそ「カルト」集団でしかあり得ない実情だということを現在の信徒は自覚しなければならない。
生長の家の教祖こそが「谷口雅春先生」であり、谷口雅春先生=生長の家であることを信徒は自覚するべきであろう。だから「生長の家」現教団はおかしな方向へと行くのである。

一燈園と河井貫次郎

河井貫次郎と一燈園との縁は深く、昭和二十年春に京都の近くまで空襲が迫ったときに、その陶器をや作品集を保管している。

戦後、その保管して一部が一燈園の資料館である香倉院に展示されています。また河井貫次郎記念館のパンフレット等も置いていますので是非見て下さい。

 

私は今回その一燈園資料館香倉院に行ったが、残念ながら休館であったが其の辺はどこかの宗教と違って、開けて頂いた。餘の深い情念にこちら側から断ったのであるが、快く開けて頂いた。

私は二度目の訪問ですが、今回は西田天香氏の生涯について学習させていただいた。

 



一燈園資料館「香倉院」について(一燈園ホ-ムペ-ジより抜粋)

 一燈園資料館「香倉院」は、一燈園およびその創設者・西田天香に関する資料、作品を収集、所蔵、公開するために、創設されました。

 西田天香は、明治5(1872)年、滋賀県の長浜に生まれました。明治26(1893)年より北海道に入植し、明治36(1903)年にトルストイの著書『我宗教』(加藤直士訳)に接して衝撃を受け、日露戦争勃発直後の明治37(1904)年より、全てを捨て、奉仕活動によって生きるという新たな生活を始めました。一燈園は、そうした天香の生き方に引かれた人々の奉仕活動の拠点として、誕生しました。

 西田天香は、大正10(1921)年に『懺悔の生活』を出版し、全国に名前が知られるようになりました。その後、天香は、全国各地の講演、托鉢に招かれ、その足跡は、中国、台湾、朝鮮、ジャワ、ハワイ、アメリカにもおよびました。また、接した人々は各階層にわたり、著名な芸術家などから寄せられた手紙 や作品などの貴重な資料も伝わっています。

 本館では、綱島梁川、倉田百三、河井寛次郎、棟方志功、北村西望、尾崎放哉、須田剋太、直原玉青、マハトマ・ガンジー由来の手紡車、 コルベ聖人寄贈マリア像などの資料を所蔵し、随時展示しております。また、ロングベストセラーの西田天香著「懺悔の生活」をはじめ、書籍・色紙なども頒布しております。

 当館前を流れる琵琶湖疏水は、春には桜、秋には紅葉が美しい彩りを見せてくれます。緑豊かな一燈園内も、絶好の散策コースとなっています。一燈園本部で手続きいただければ、ご観覧できます(無料、事前予約不要)。

『神を審判く』についての谷口雅春先生の当時の言葉

『神を審判く』について

 

今回はほぼ回答のような記入になりますが、筆を認めます。

 

さて、處女三部作『聖杯』という言葉がこの『聖杯 三部作 神を審判く』

と同じ『神の牙城に迫る』の序に書いていますので記入致します。

 

序 (谷口雅春)

我々の住んでゐる地上の世界では善人ほど概してひどい目に會ってゐる。今迄どんなに多くの善人が血と汗と泪をながしたことであろう。

 

どうして此處にこの世界では善人ほど苦しまねばならないのであらうか。神は善人の流した血と汗と泪とを啜って惡人とともに肥えふとるものであらうか。神はそれでは愛ではなかったのか?

 

 では神は何のために人間を此の地上につくり、何を人間に約束したか。自分は長い間この約束について思索して來た。そして学生の思索と體驗との全部をあげて、吾が處女三部作『聖杯』にあらはさうと執筆し始めたのは、もう大分以前のことである。やっと昨夏その第一部の稿が終って、それは某書店より『神を審判く』と題して出版された。と思ふと、突如関東大震火災が起ったのである。

 

自分の住んでゐる家は焼けるし、本も殆どまったく廣告すらせられないうちに灰盡に歸して了った。從って讀者の手に渡った部数は極めて僅少であったにちがいない。しかも、その僅少なる讀者のうちに、本の焼けて行き亙らないことを惜しく思って復興版を出すことをすゝめて呉れる方もあったし、賞辭や讃辭や激勵の辭を送って下さる方も續々あった。

 

今、此の作を書店の希望で『神の牙城に迫る』と改題して、再び公にするに當って、これらの同情を寄せられた人々に感謝せずにはゐられない。

特に此の作の価値をみとめて新たに世に出して下さる小西榮三郎氏及び紙型を快く○って下さった仲摩照久氏に謝辭を捧げる。

 

大正十三年十一月十日

                        作者識

 ※○は字が潰れていたため

 

多くの消失してしまったなかでも僅かの読者が読んでいて、賞辞や讃辞が送られて来た。そういう後押しがあって次に『神を審判く』から『神の牙城に迫る』に改題してことがよくわかります。

神武天皇聖蹟碑


DSC_000001
昨日、用事のため天満駅にその時に大阪天満宮の神武天皇聖蹟碑に
大阪天満宮の敷地内にあります。
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P1180976

今年の二月に訪問した等彌神社にあります。
神武天皇聖蹟顕彰碑です。


谷口雅宣総裁について

最近は谷口雅宣総裁についてコメントをしなくなった。

 

そこで今日はその話をします。

 

彼の行動は呆れて閉口することばかり、どうしようもない人物であることは間違いない。

自分が「権力者」となり、それが悪癖となり信徒を弾圧のような形で罵っている。総裁に中心帰一しなさい等、その先例である。そのように自分の從う信徒のみが可愛くてしかたがないのであろう。

 

トキ氏は

4890 :トキ :2017/04/21()12:36:35 ID:lhwrNPJA>>4889

 

 これは個人的な感想ですが、谷口雅宣総裁は、彼なりの理想を持って行動していると思います。

ただ、ここで考えるべきは、権力という力は、独裁という副作用を生み出すのです。総裁が大好きな「立憲主義」

というのは、これに対する処方箋の一つですが、彼は他人には勧めるのですが、自分はこれを服用するつもりは

ないのです。

 

 個人としての谷口雅宣総裁は、別に悪い人でも、頭の悪い人でもありません。ただ、何十年も権力の座にいる

間に、ある種の錯覚を起こして、自分がやることやなすことが正しく、自分にはそれをする義務があると思い込んで

いるのでしょう。歴史を紐解けば、類似の事例はいくらでもあります。

 

谷口雅春先生の「生長の家」の思想を自分勝手に捻じ曲げて、その方向へと持っていく思想は「カルト」と同じである。

また、自分が独裁者となると、周りが見えなくなってしまっているのが実情です。

 

最近の「唐松模様」では

 

それは今日の立教の日と大いに関係があります。谷口雅春先生は、どのような経緯で『生長の家』誌の発行を決意されたのでしたか? そうです。それは、先生が2回の盗難に遭われて、雑誌発行に必要な資金を全部奪われてしまった後でした。このような非常事態の中から、非常事態をものともせずに立ち上がったのが、谷口雅春先生と輝子先生であり、その精神を受け継いでいるのが今、私たちが進めている人類光明化運動・国際平和信仰運動なのです。

 

まさか、現在の「生長の家」が雅春先生の精神を引き継いでいるという言葉は本心であろうか?

それは甚だ疑問である。それならばどうして『甘露の法雨』『生命の實相』を失うような事をしたのかである。

 

それは引き継ごうとしない精神が根本的にあったからです。だからそんな他愛な「嘘」は信徒は騙せても、生長の家の歴史に詳しい人は騙せない。雅宣総裁の事を書くと気分が悪くなるのでこれぐらいにします。

「亀の子ブログ」に期待す

亀の子氏が愈々、ブログを立ち上げた。

 

私は彼のような求道者は「生長の家」で最も必要な人物であり、生長の家歴史を深く研究し、それを探究している姿は素晴らしい。今後、生長の家でこのような高尚な人物は出てくるかは疑問である。

是非、私のブログより「亀の子ブログ」を読んで頂きたい。

https://blogs.yahoo.co.jp/kamenoko159357

 

さて、その彼からの考察ですが

 

合掌、ご無沙汰しております。

過日、山ちゃん1952様の疑問の『神を審判く』と『神の牙城にせまる』についての考察を亀の子ブログに書かせていただきました。ご笑覧下さい。即ち、初版の印税が入らなかった事と「神を審判く」というタイトルの言霊の霊威を感じられたのではないかという私なりの推測です。亀の子ブログは、「生長の家亀の子ブログ」で検索できます。再拝

 

『生長の家五拾年史』において、『神を審判く』は関東大震災でほとんどが消失してしまい、現今、残存する本はほんの数冊です。その本も何冊か売れたようですが印税も入ってこなかった。

また、大本を辞めた後、「心靈研究会」で編集の仕事をするが、その仕事の報酬も無かった。

 

確かに『生長の家参拾年史』には『神を審判く』は全部消失と記入しているが、私はその稀覯本を所有している人を数人知っていますので、一冊はある方から本部に寄贈されています。また、ある人は神戸の後藤書店で見つけたと聞いています。それ以外にも一人所有している人がいます。

 

ただ、ほとんど残存していないことも事実です。さてその『神を審判く』は戦後には『生命の實相』耶蘇傳で収されますが、戦前においては昭和10127日と8日に午後六時から早稲田大隈記念講堂で公演されます、それが『釋迦と維摩詰』第一回公演です。釋迦維摩耶蘇

 

この作者として谷口雅春先生の名前があります。その後この舞台の脚本を『釋迦維摩耶蘇』として昭和111122日に出版されます。

 

ただ、この時のはしがきには、生長の家の藝術活動としての抱負を語られています。ただそのなかには『神を審判く』という言葉が出てきません。

ただ、この著作が『神を審判く』の第二部として、戦後に出版されるのが昭和28年の『イエスは十字架にかからず』61日出版です。

『神を審判く』は内容として、「ユダ神をさばく」です。(目次参照)ただ昭和46年小説戯曲三部作はいろいろと名前を変えて蘇ったものであると思っています。

 

次に

「徳久君、生長の家はね、一度、無神論をとおって、本当の神を発見したのだから、スバラシイのだよ」

この言葉で感じるのが、本当に谷口雅春先生は無神論になられたのかどうかである。

それならば、何時であるかです。

  1. 大本時代なのか

  2. 大本を去り、小説家を目指している時期なのか

  3. それとも、大正13年から~大正145月頃なのか

 

私は先日このブログで記入した『如何にせば運命を支配し得るか』(訳)ホルムス 實業之日本社(カバ-)大正14610日では生長の家の基礎的な思想はこの本を讀めば確立されているのがわかります。求道者として「唯神実相」を悟られていくことが分かります。

 

その無神論に本当になられたのかどうか、疑問を抱いています。ただ、私のような無神論的考えではなく、究極の選擇である「神」への祈りを感じています。それは物質の否定や肉體の否定、そして社會への否定から、究極の「無」からの「有」を感じています。

 



大塩平八郎と神武天皇

神武天皇を考える上でどうしても日本人として必要なものとは、何かということです。

 

神武天皇は明治になって創作されたものだとか、江戸時代に国学とかで日本国体論が沸き起こったからだとか、そんな安易な考えでは駄目である。研究者としては失格である。

 

そこで少し話を変えますが、神武天皇をお祀りしている神社で都道府県で一番多いのがどこかというと、以外にも熊本県なんです。あの奈良県で7社しかないのに、それが熊本県は神武天皇を祭神とする神社が多い のですそれはなんと74社です。

 その内44社が天草で異常に多い。二番目は広島県で37社、つぎに岡山県の32社である。勿論この付近は神武天皇東征ということでわかるような気がするが、反対に奈良県が少ないのは不思議である。

 

私はそこには地域の伝承というのが切り離せないものであると感じているのです。

 

私は江戸時代の後半に大坂与力であった「大塩平八郎」が起こした乱、「大塩平八郎の乱」というものが「神武天皇」を考える上でどうしても江戸時代の価値観や思想などその背景は少しは分かるような気がする。

 

その伝承は現実では江戸時代の大塩平八郎の考えというものが、その一部だということです。その大塩は実績もすごく「上方」奉行所の腐敗を一掃したりしてその剛腕は高く評価されていた。当時は「寛政異学の禁」で様相が變化した。

江戸幕府による朱子学を中心とした儒学政策は、徳川家康の林羅山登用に始まり、徳川綱吉の湯島聖堂建設で最高潮に達した。だが、徳川吉宗は理念的な朱子学よりも実学を重んじたこと、加えて古文辞学や古学などが流行したこともあって朱子学は不振となり、湯島聖堂の廃止さえも検討された(『甲子夜話』)。

 

松平定信が老中となると、田沼意次時代の天明の大飢饉を乗り越え、低下した幕府の指導力を取り戻すために、儒学のうち農業と上下の秩序を重視した朱子学を正学として復興させ、また当時流行していた古文辞学や古学を「風俗を乱すもの」として規制を図った。

 

そこで寛政2年(1790年)524日に大学頭林信敬に対して林家の門人が古文辞学や古学を学ぶことを禁じることを通達し、幕府の儒官である柴野栗山・岡田寒泉に対しても同様の措置を命じた。更に湯島聖堂の学問所における講義や役人登用試験も朱子学だけで行わせた。また、林信敬の補佐として柴野・岡田に加えて尾藤二洲や古賀精里を招聘して幕府儒官に任じ、更に荒廃していた湯島聖堂の改築を行った。寛政4年(1792年)913日には旗本・御家人の子弟を対象として朱子学を中心とした「学問吟味」を実施させた。

その朱子学の一つとして陽明学が盛んとなった。「異学の禁」として政策がかえって、陽明学などが盛んになったのも何かの日本人の根柢を探るうえで重要なヒントが隠されているような気がする。

 

私はその拠り所が地域にある神社などが大きく影響したのではないかと感じている。それが江戸時代の庶民に雲井の人は知らねども、その畏れに憧れがあったような気がする。

 

だからこそ、庶民が国学に思想を傾注させたのである。

 

さて、「大塩平八郎の亂」であるが、その檄文には

 

    大塩平八郎の檄文           

         

 

 

 

 (袋上書)

 

 天より被下候

    村々小前のものに至迠へ

 

(本文)

 

四海こんきういたし候ハゝ天祿ながくたゝん小人に

國家をおさめしめば災害并至と昔の聖人深く

天下後世人の君人の臣たる者を御誡被置候ゆヘ

東照神君ニも鰥寡孤獨ニおひて尤あわれみ

を加ふへくハ是仁政之基と被仰置候然ルに茲二

百四五十年太平之間ニ追々上たる人驕奢とておこり

を極太切之政事ニ携候諸役人とも賄賂を公ニ授受と

て贈貰いたし奥向女中の因縁を以道德仁義をも

なき拙き身分ニて立身重き役ニ經上り一人一家を

肥し候工夫而已ニ智術を運し其領分知行所之民百

姓共へ過分之用金申付是迠年貢諸役の甚しき

苦む上江右之通無躰之儀を申渡追々入用かさみ候ゆへ

四海の困窮と相成候付人々上を怨さるものなき樣ニ

成行候得共江戸表より諸國一同右之風儀ニ落入

天子ハ足利家已来別而御隱居御同樣賞罰之柄を

御失ひニ付下民之怨何方へ告愬とてつけ訴ふる方な

き樣ニ乱候付人々之怨氣天ニ通シ年々地震火災山も崩水も

溢るより外色々樣々の天災流行終ニ五穀飢饉ニ相成候是

皆天より深く御誡之有かたき御告ニ候へとも一向上たる人々

心も付ず猶小人奸者之輩太切之政を執行只下を惱

し金米を取たてる手段斗ニ打懸り実以小前百姓共

のなんきを吾等如きもの草乃陰より常々察し悲候

得とも湯王武王の勢位なく孔子孟子の道德もなけ

れバ徒ニ蟄居いたし候處此節米價弥高直ニ相成大坂之

奉行并諸役人とも万物一體の仁を忘れ得手勝手

の政道をいたし江戸へ廻米をいたし

天子御在所之京都へハ廻米之世話も不致而已な

らす五升一斗位之米を買に下り候もの共を召捕抔い

たし実ニ昔葛伯といふ大名其農人乃弁當を持運

ひ候小児を殺候も同樣言語同斷何れ乃土地にても人民

ハ 德川家御支配之ものニ相違なき處如此隔を付候ハ

全奉行等之不仁ニて其上勝手我儘之觸書等を度々

差出し大坂市中游民斗を太切ニ心得候者前にも申通

道德仁義を不存拙き身故ニて甚以厚ヶ間敷不届

之至且三都之内大坂之金持共年來諸大名へかし付候

利德之金銀并扶持米等を莫大ニ掠取未曾有之有福

に暮し丁人之身を以大名之家老用人格等ニ被取用

又ハ自己之田畑新田等を夥しく所持何に不足なく

暮し此節の天災天罰を見なから畏も不致餓死之

貧人乞食をも敢而不救其身ハ膏梁之味とて結構

之物を食ひ妾宅等へ入込或ハ揚屋茶屋へ大名之家來を

誘引參り高價の酒を湯水を呑も同樣ニいたし此難

澁の時節ニ絹服をまとひ候かわらものを妓女と共に迎

ひ平生同樣に游樂に耽候ハ何等の事哉紂王長夜の

酒盛も同事其所之奉行諸役人手ニ握居候政を以右之

もの共を取〆下民を救候義も難出來日々堂島相場斗

をいしり事いたし実ニ祿盗ニて決而天道聖人之御心ニ難叶

御赦しなき事ニ候蟄居の我等最早堪忍難成湯武

之勢孔孟之德ハなけれ共無據天下乃ためと存血

族の禍をおかし此度有志のものと申合下民を惱し

苦〆候諸役人を先誅伐いたし引續き驕に長し居候大坂

市中金持之丁人共を誅戮およひ可申候間右之者共

穴藏ニ貯置候金銀錢等諸藏屋敷内に隱置候俵米

夫々分散配當いたし遣候間攝河泉播之内田畑所持

不致ものたとへ所持いたし候共父母妻子家内之養方難

出來程之難澁者へハ右金米等取らせ遣候間いつに而も

大坂市中ニ騷動起り候と聞傳へ候ハゝ里數を不厭一刻も

早く大坂へ向駈可參候面々へ右米金を分け遣し可申候

鉅橋鹿臺の金粟を下民へ被與候遺意ニて當時之

飢饉難義を相救遣し若又其内器量才力等有之者

ニハ夫々取立無道之者共を征伐いたし候軍役ニも遣ひ申

へく候必一揆蜂起之企とハ違ひ追々年貢諸役ニ至迠

輕くいたし都而中興

神武帝御政道之通寛仁大度の取扱にいたし遣

年來驕奢淫逸の風俗を一洗相改質素ニ立戻り

海萬民いつ迠も

天恩を難有存父母妻子を被養生前之地獄を

救ひ死後の極樂成佛を眼前ニ見せ遣し堯舜

天照皇太神之時代に復シかたく共中興之氣象ニ

恢復とて立戻り申へく候此書付村々ヘ一々しらせ

度候へとも数多之事ニ付最寄之人家多候大村之神殿江

張付置候間大坂より廻し有之番人ともにしられさる

樣ニ心懸早々村々へ相觸可申候万一番人とも眼付大

坂四ヶ所の奸人共へ注進いたし候樣子ニ候ハゝ遠慮なく

面々申合番人を不殘打殺可申候若右騷動起り候を

承なから疑惑いたし駈參不申又者遲參及候ハゝ

金持之米金者皆火中の灰に相成天下之宝を取失

ひ申へく候間跡ニて必我等を恨み宝を捨る無道者

と陰言を不致樣可致候其為一同へ觸しらせ候尤是

迠地頭村方ニある年貢等ニかゝわり候諸記録帳面

類ハ都而引破焼捨可申候是往々深き慮ある事ニて

人民を困窮為致不申積に候乍去此度乃一擧當朝

平將門明智光秀漢土之劉裕朱佺忠の謀反ニ類し候

と申者も是非有之道理ニ候得共我等一同心中ニ天

下國家を簒盗いたし候慾念より起し候事にハ更無之

日月星辰之神鑑ニある事ニて詰ル處者湯武漢高

祖明太祖民を吊君を誅し天討を執行候誠心

而已ニて若疑しく覺候ハゝ我等之所業終る處を

爾等眼を開て看

 但し此書付小前之者へハ道場坊主或醫者等

 より篤と讀聞せ可申若庄屋年寄眼前乃

 禍を畏一己ニ隱し候ハゝ追而急度其罪可行候

 

       奉天命致天討候

 

 天保八丁酉年月日               

 

    攝河泉播村村

    庄屋年寄百姓并小前百姓共へ

 

 

この檄文にいわんとしたことは「神武天皇時代の回顧」であり、日本人としてそうした時代こそが平和な時であると自覚していたことなんです。

さて、少し逆になるが「大塩平八郎」はどのような人物であるかを歴誕」というブログから抜粋させていただきます。

 

江戸幕府が末期に差し掛かった頃に起こった「大塩の乱」。その首謀者が大塩平八郎です。幕府崩壊の遠因の一つとなったとも言われるこの乱はいかにして起こり、終わったのか。そして、大塩平八郎とはどんな人物だったのか。今回は大塩平八郎の生涯をご紹介いたします。

 

まじめ与力

 寛政五(1793)年122日、大坂は天満の与力の家に、大塩平八郎は誕生しました。阿波生まれという説もありますが、大坂生まれ説の方が有力のようです。

 与力というのは江戸時代における警察官のようなものです。主に町の行政や司法を担当する「奉行所」に勤務し、さまざまな役目にあたりました。与力は奉行所でも上位の役職でしたから、大塩の家はなかなかに裕福であったようです。

 大塩が役目についたのはかなり早く、十代半ばには既に与力の仕事をこなしていたと言われます。また、非常に学問を好み、有名な学者にも師事して卓越した学問的センスを発揮したといいます。後には役目のかたわら「洗心洞」という私塾も開設しているほど。その一方で武術についても達人の域であったといいますから、この頃の大塩平八郎は文武両道で才気に溢れる、輝くような若者だったに違いありません。

 大塩は与力として大いに活躍し、いくつかの事件を処理しています。その中でも大塩の人柄をよく現しているのが、奉行所での汚職事件の処理です。大塩が勤務していたのは大坂東町奉行所でしたが、反対側の西町奉行所にとんでもない人物が一人いました。吟味役のこの男は、奉行所勤務の身でありながら賄賂を取り、あろうことか立場を利用して犯罪にまで手を染めていました。大塩はこの男の罪を暴き、また、悪事で稼いだ金三千両を没収。その大金を貧しい民衆に分け与えたのです。吟味役は切腹となりました。まるで時代劇のような話ですが、真面目で弱いものに優しい大塩の性格がよく分かります。

しかし、これでめでたしめでたしとはなりません。この事件を通して大塩は、幕府機構の腐敗というものが凄まじい勢いで進んでしまっていることも痛感したに違いないのですから。

 

飢饉を目の当たりに

 やがて大塩は養子に家督を譲り、先述の私塾における門弟の教育に専念するようになります。私塾は評判を呼び、経営も順調だったようです。

しかしそんな時、大坂を、いや、日本全体を揺るがす一つの天災が起こります。いわゆる「天保の大飢饉」でした。天候の不順、それに伴う大凶作が数年に渡って続き、民衆は餓えに飢え、日本各地で餓死者が続出しました。一揆や打ちこわしも起こりました。

しかし、こんな状況にありながら、商人たちは貪欲でした。天下の台所である大坂には各地から米が集まります。そこで大坂の商人達は、圧倒的に不足している米をさらに囲い込み、値段を釣り上げました。その一方で幕府の機嫌を取るために江戸には米をどんどん送り、民衆はさらに飢えたのです。

 大坂に住む大塩はこれらの状況をその目前で見ていたのです。大塩は怒りました。何とかせねばならぬと考えたのでしょう。本来、この混乱を収めるのは奉行所の仕事です。元与力ということもあり、大塩は奉行所に対し、民衆に米を与えるよう説得を試みますが、不調に終わりました。役所が駄目ならということで大坂の豪商達のもとを訪れ、民衆を救えるだけの借金をしようとも試みましたがこれも不調。そうしている間にも、餓えに苦しむ民衆達は次々と死んでゆきます。大塩にとっては、万策尽き果てた、というところでしょうか。

ここで大塩は、自らの蔵書数万冊を全て売り払い、現金に替えるという行為に出ました。当時の書物は非常に高額でしたから、それはかなりの額になりました。これを苦しんでいる人々に少しずつ配ったのです。

そしてその直後、大塩は幕府に対して挙兵しました。与力を引退し、学問で身を立てていた大塩にとって、蔵書は自らの身体の一部にも等しい存在でした。それを売り払った時、心は既に決まっていたということなのでしょう。

 

大塩、立つ

大塩が挙兵したのは天保81837)年219日のこと。事前に私塾の門弟達と計画を練った末のことでした。挙兵の理由や決意をしたためた檄文も作成し、大砲などの武器も用意していました。

 大塩は有名な「救民」の旗を掲げ、門弟ら約25人とともに豪商の屋敷を襲って火をつけ、倉を襲いました。大塩らの集団はいつしか人数も増え、最終的には300人ほどになりましたが、そこまででした。やがて強力な幕府軍が大塩らを鎮圧し、乱はわずか三日ほどで全て終息しました。これほどあっさり終わってしまったのは、決起直前に計画が漏れており、それによって幕府側が態勢を整えるのが早かったためとされます。ただ、計画がもし漏れていなくとも、戦いはせいぜい数日程度伸びただけで、大塩側に勝ち目のない戦であったのは確かだったでしょう。

 敗北した大塩は仲間を逃げさせ、自らも大坂市中の一商家に潜伏します。それから約一か月の間は隠れ続けていましたがついに発見され、準備していた爆薬に火をつけて壮絶な最期を遂げました。

 

遺したもの

 こうして大塩の乱は終わりましたが、それでも、大塩が残したものは少なくありませんでした。大塩の乱発生の報は全国へと広がり、人々に幕府の凋落を予感させました。大塩の檄文は、幕府の禁止にもかかわらず全国へと伝わり、読み継がれました。さらに、大塩の行動に共鳴した各地の人々が、大塩の同志、大塩の弟子を名乗り、いくつかの叛乱を起こしました。

これらの動きは、やがて来る激動の幕末へと繋がり、新しい明治と言う時代を生み出すエネルギーともなってゆくのです。

 

大塩の乱によって、大坂の町はその2割とも3割とも言われる面積が灰になりました。しかしそれでも、大坂の町で大塩を称える者は少なくなかったといいます。

 明治維新を30年後に控えた時代の出来事です。

醍醐の花見

今日はゆっくりして、レファレンスを記入していた。その合間でブログの記入である。

13年程主宰しているサ-クルと超多忙な仕事は大変です。今週は朝7時に出勤して帰宅するのは夜の11時を過ぎている。

帰宅すれば用事がある。今回はレファレンスの戦前版の記入です。約2/3は終了した。その時間を惜しむようにトレッキングも行っている。

 

この4月からは自治会長である。10数年離れると規則は無視していたり、地区から外れたり、私の行っていた行事はほとんど行われていない。

 

どうしていくかは今後の課題である。

 

明日はちょうどサ-クルで京都の醍醐寺に行く。醍醐山を登頂する予定ですが、あの豊臣秀吉が亡くなる半年前にこの醍醐寺で櫻を愛でにきたことは有名である。

豊臣秀吉の最後の櫻である。それ以前にはこの醍醐寺には桜も少なく、花見をするような所ではなかった。

一年前にここで櫻を見たいと言い出したことから数か月かけて約700本の桜を移植したというから驚く。しかも連れて行ったのは全員女性であるから、絢爛華やかな櫻見物であったのであろう。「醍醐の花見」としても今も言い伝えられる。「女人に捧げた花見」である。

 

秀吉は吉野の千本桜も見物している。櫻好きな秀吉である。

神武天皇遥拝所


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皇靈遥拝所

神武天皇という初代の天皇という日本の歴史に燦然と輝くものでなければならないが、生長の家は天皇信仰ですが、そうした信徒のなかでも、大幹部であっても天皇信仰が分からないから「生長の家」の信仰を辞めてしまうのです。

天皇信仰を基礎とした信仰というのはどういうことか、歴代天皇の学習もそうですが、そうした歴史的な背景や文学や体驗などを通じてそうした育成をしなければならないが、現在の教育ではそういうことが全く教えられない。

 

      

 

  吾々が今現実に茲に、「今」の一点に立っている時、「自分」と云う現実は全然過去と切り離された存在のように見えているけれども、そうではない。 此の一点に立ちながらすべての歴史が此の一点に全部あるわけだ。

 

  それは必ずしも私が生れてから経験したことだけじゃない。 そのあらゆる経験したこと。 又、親が経験したこと。 親の親が経験したこと。 又その親の親が経験したこと。 更に遡って進んで行くならば、吾々日本民族は恐らく瓊々杵尊様の天孫降臨に扈従して高天原から出現して来た当時の記憶までも、自分の生命の内部にある訳だ。

 

  それは単に記憶と云うよりももっと深いものだ。 何と云って好いか。 その、詰り、‘いのち’の印象だ。 それが茲にあるのだ。 諸君の内にあるのだ。 自分の内にあるのだ。 日本人全部の内にあるのだ。

 

  私の家の紋は下り藤の紋だがああ云う下り藤や上り藤の紋をつけている人は沢山ある。 それらは大抵藤原氏の血統を多少とも引いているのであって、藤原氏の血統は誰から来たかと云うと、その遠祖は天之兒屋根命だと云うことだ。 即ち天孫降臨に扈従した五伴緒命の血統だ。 

 

  そう云うと、何か私がえらい血統見たいに自負するようだけれども、私だけのことではない。 諸君も天孫民族だから、兎にかく瓊々杵尊様と一緒に天降って来たところの五伴緒命とその一族の子孫である。

 

  天降りの時に天照大御神様から御神勅を受けまいらせて 「豊葦原の瑞穂の国は世々我が子孫の王たるべき地なり、汝ゆきて治しめせ。 さきくませ宝祚の榮えませむこと天壌と与に窮りなかるべし」 と仰せられた 一君万民宝祚無窮の御神勅 を吾々の祖先は一緒に聴いておったのだ。

 

  その神勅を聴いておった祖先の記憶と生命とが此の今の生命の中に一緒に生きておるのだ。 何とこれは素晴らしいことだ。 その宝祚無窮の神勅を、この吾々の中にある生命〈いのち〉が、その天孫降臨時代に現に聴いておったのだ。 その生命が今ここに生きている。  ―  それが否定すべからざる歴史的現実だ。

 

       『新日本の心』

 

日本の歴史に生成化育として厳然として生きている。生命が生きている。そうした生命が脈々と流れるなかに「いのち」の結晶としての魂がある。

 

奈良県に多いのが「神武天皇遥拝所」(宮山古墳)ですが。見たこともない人もおられると思いますので写真を掲載させていただきます。
下の写真は皇靈遥拝所(国見神社)です。

 

「谷口先生と武者小路実篤」

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武者小路実篤
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下記の文章は以前に書いた文章ですが、大本時代における雅春先生と武者小路実篤氏との『皇道靈學講話』での反論にたいする、批判を書いておられます。
私は戦前に生長の家の批判の先鋒であった野依秀市氏の『「生長の家」を裁く』は戦後に帝都日日新聞の発行者になり、その新聞に谷口雅春先生が御寄稿されるという、その姿に雅春先生の人物に尊敬を憶えられるのが野依氏である。
『「生長の家」を裁く』野依秀市、秀文閣書房 昭1631日発行
また、武者小路実篤氏とは谷口雅春先生の総合雑誌の『いのち』誌で毎号のように執筆されていた。雅春先生の尊大さに多くの人が気が付かれるのです。

「谷口先生と武者小路実篤」

下記の文章は『谷口雅春とその時代』小野泰博著の抜粋です。

ここでとりわけ、武者小路実篤の『皇道靈学講和』を読んでの反論である。

茲に書いていますように

「御手紙拝見正直な処君の本を読むまでは君に随分好意をもっていたのですが、君の本をよんでがっかりしたのでした。正気の沙汰と思えないことが多く書いてあったので嘘もいい加減にしろと云う気がしました。君があの本を書いたことを後悔されることをのぞんでいます。君には某子が耶蘇の再生に見えるのですか。龍が日本人になると信じているのですか。正気に帰るか正直になるかどっちかを望みます。」

この文章は大正10年である。その年の八月三十一日付で「谷口先生」に届いている。

谷口先生は武者小路実篤の「新しき村」というユ-トピアを目指し、実際宮崎県の児湯郡木村町大字石河内に人間の理想郷を目指し開拓した村がある。

 

それを好意的にもっておられ、それが谷口先生はこの「大本」に理想郷をめざしておられることがわかります。

 

谷口先生はここで「正しき信仰」とは如何なるものかを、切々と説いておられます。

「正しき信仰」とは常に動揺変化する時代の科学や常識には超然として不変なるものであると喝破されている。

この谷口先生の反論は実に爽快である。これほどの有知識者に泰然と怯むことなく反論されておられるのが感心致します。

それでは長文ですが引用させて頂きます。

 

武者小路実篤批判

明治四十三年(一九一〇)四月、『白樺』が創刊された。そのとき志賀直哉二十八歳、武者小路実篤は二十六歳の青年であったが、谷口正治はまだ十七歳の中学生であった。「白樺派には元来「遊ぶ」仲間と、「道ばぬ」連中とがあり、前者には志賀や里見惇があてられ、後者には武者小路や長与善郎が属し、一体に〔遊ぶ」仲間の方はリアリスティックな型の作家で、「遊ばぬ」連中の方は、アイディアリスティックな型に入るといわれる(本多秋五「白樺派の文学」)。この武者小路がトルストイの強い影響のもと「新しき村」の建設に乗り出すのは大正七年(一九一八、三十四歳)であり、布局武郎が、父の死後、父のもっていた北海道の広大な農場をその小作人たちに解放したのは大正十一年のことである。

武者小路は青年時代を回顧してこう述べている。

 

 「自分が今日あるのはトルストイのおかげだと思っている。自分にとってトルストイは最大の恩師であった。今自分はトルストイの思想と同じ思想を持っているとは、言えないが、しかし自分か人生に深い信頼を失わずに今日迄来られたのはトルストイのおかげである……」

 

 また、恋する程に愛していたトルストイの感化は強く、「自分は冬中、火を遠ざけたり、うす着したり、殺生するのが気を引け、家出を考えたりした」(「トルストイ」の序文)ともいう。そうした理想を生かす場としてのユートピアが新しき村であり、一種の原始共産体というものを夢みていたのである。

 

この武者小路について谷口正治は、大本数を出てゆく直前の大正十年に公開状を書いている(「新しき村の開拓者武者小路実篤氏に贈る公開状」「神の国」大正十年十月号

その中で正治は、「新しき村」の精神はけっこうであるが、そこには、「神に対する観念が不明瞭なために、村に臥っている龍に晴が黙けられておらず、本当に村の精神が生きて来ない。何だか薄紙を隔てて物を見ているような歯禅さを感じないではいられない」と問いかけている。

 

大正九年に出た谷口正治の『皇道霊学講話」に対する武者小路の評であろうか、谷口宛に、「……君の本をよんでがっかりしたのでした。正気の沙汰と思えないことが多く書いてあったので嘘もいい加減にしろと云う気がしました。君があの本を書いたことを後悔されることをのぞんでいます。君には某子が耶蘇の再生に見えるのですか」と、暗に出口王仁三郎をキリストの再臨に擬している谷口の論を、正気の沙汰とは思えなかったとしている。そして武者小路は、「真の信仰は健全な常識や科学と矛盾しないもの」という立場で押してくる。また彼は雑誌『新天地』の記者に対し、「大本数は理性に反する処が多いので無視しています。調べる気もありません」と回答している。

 

 これに対し谷口は、聖書こそ正気の沙汰と思われないことで満ちており、例えば、「耶蘇が五つのパンと二つの魚を五千人に摯いて予えた時に、皆々食いあきて、その余りたる屑が十二の箆にI杯になったという記事や、耶蘇が海の上を徒渉した」という記事など、理性では解しがたいにしても事実ではないかと遣る。綾部の皇道大本にしても、その修行場の実況を見るに至り、在来の科学的常識では到底肯定しがたい幾多の霊怪現象をまのあたりにすると、聖書の嘘にみえる記事が文字通り超理性の奇蹟に見えてくるものだとやりかえす。

 

 そして武者小路の神観念があいまいで、「我々はこの宇宙をつらぬく力を信じている。神の如き力である。この力に自己を任せることより他に、自己を生かし切る道のない事を信じる」という表現について、なぜ「この宇宙をつらぬく力」を「神の如き力」としかいえず、はっきり「神の力」と言い切れないのかとつめよる。

 

谷口にとっては神の力を霊的実修として鎮魂帰神の中にその働きを体験していたからであろう、この強い語気は。谷口は、武者小路に、自分の書いた本で満足できなければ「旧約の予言書が書いたようなきびくした御筆先を読んで下さい。序でに綾部でも亀岡へでもお立寄り下さい」、そうすればやがて新しい村の信仰にも神観念がはっきりつかめることになるであろうと反駁している。たしかに新しき村は、「生かそう」という神様の意志を漠然ながら感じてはいるようだが、大本の方はすでに「生かそう」という神の意志をはっきり把握しながら生長しようとしている。

 

新しき村も、大本もそうした意味で生かそうという神の意志から出たものだという。ここにはやがて「生長の家」活動の基本になる「生長」の概念が強く押し出されているのに気づく。「生かそう」という神の意志にもとづき法爾自然にその形式が大きく神のおはからいに委せて出来あがろうとしているのが皇道大本なら、自力の限りと、人間的なはからいの限りを尽して、その形式の方が出来つつあるのが新しき村だという。

 

 まだこの時点では、谷口は懸命に大本の立場を擁護するための論陣を張っている。つまり、「兎もかく某氏(出口王仁二郎)を耶蘇の霊魂の再来であることを信じ得れば信じて下さい。信じ得なくば信じて下さらなくとも宜しい。唯これだけは某氏を知る私として断言し得ることなのです。某氏が仮令耶蘇の再生でないにしても彼は救世主として是非有たねばならぬ渾沌そのもののような風格を備えていると」(「新しき村の開拓者武者小路実篤氏に贈る公開状」「神の国」大正十年十月)。

こうした真剣な問いかけが当時の大本にはみなぎっていた。

 

 彼らはキリスト数の魅力は、そのバイブルに記せる最後の審判と天国の福音とにあるとし、これを大本流にいうと、「最後の審判は、幽界と顕界との一括的大淘汰」であり、後者は「地上の理想的世界建設」であり、この二大目標を除けば大本数の出現はほとんど無意味だ(池沢原治郎「大本数は果たして邪教乎」大正十年、ヱ八九頁)とさえ述べている。かくて明治二十五年(一八九二)に誕生した大本数は、三十年足らずの間に教団の勢力が全国的規模に広がり、大正九年(一九二〇)には、「信徒十万」を数えるようになったという。

 

 この当時(大正七~九年)入信した人たちの「入信の経路」を雑誌『神霊界』や『大本時報」はのせているが、それによると四十五例のうち軍人が五例、社会主義からの転向者八例、立替え立直し、世界統一の考えに共鳴してやってきた者十二例、哲学的な悩みからきた人十例、病気直しにより入信した者二名となっており、年齢的には二十歳入二十歳が過半数をしめたという(「大本七十年史」上、四六八言。この『神霊界』に谷口正治(神戸、二十七歳)として「入信の経路、参綾の動機」をしたためたのは大正八年二月〒五号)のことである。

 

 谷口はここで、例のメーテルリンクに惹かれると共にオスカー・ワイルドの華爛な美装に充ちた生活に憧れたことを述べた上、例の女性遍歴のことを告白し、「永い間不満足に思って居た社会組織が根底から立替えられる皇道大本なることを知った」ことが動機であるとする。また、すでに彼は、今まで独学で勉強してきた「心霊療法の骨子」なる小文を松江の『彗星」誌に送り込んだところ、それが受理され掲載されたことが動機で参綾の時節を迎え、「綾部で初めて、自分の内なるものの審判に恥じない生活を見出しました」と桔んでいる(ちなみに、この当時オスカー・ワイルドに心を惹かれたのは谷口だけでなく、作家谷崎潤一郎あり、和辻哲郎があった。和辻はその耽美派的発想で、谷崎の感心する処と自分の感動する個所の違いを知り、とても谷崎に及ばないと悟り、作家志望を捨てたという)。

 

 いずれにせよ大本発展の盛期大正七年から元年へかけては、大本数の出版物は約三十種にのぽり、「文書宣教」を主とする新しい教団活動のあり方を如実に示すものであった。そして、その中心的機関誌『大本時報』の編集は浅野(前出、四九頁)が指導的な立場に立ち、今井楳軒と並んで、谷口正治も参画している。後の「生長の家」活動が、主として文書伝道でその数勢を発展させてゆく方法は、すでに大本においてそれを見ることができる。文書による意見の表明が盛んになると、自ら見解の相違も表面化してくる恐れもあった。

『如何にせば運命を支配し得るか』

『生長の家』誌の創刊号の表紙に飾られています燈台を持つ人物の姿は『如何にせば運命を支配し得るか』からの挿絵であることが知られていない。
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如何にせば運命を支配し得るか 大正十四年六月十日

譯補者序

目次

第一篇 思想篇/1

第一章          心の法則/1

一、   一切を成就する道/1

二、   聖癒の力/3

三、   心こそ王者/5

四、   唯心所現の世界/7

第二章          運命を支配する法則とは何ぞや/9

一、   所謂る『法則』に就いて/9

二、   世界の實質は靈である/11

三、   宇宙生命は創造的本能を有する/13

四、   宇宙の創造的生命は印象に從って活動する/15

五、   生命、愛及び智慧

六、   眞理に就いての瞑想

第三章          如何に運命の法則を行使すべき乎/26

一、   き信念に到達すること/26

二、   不安と恐怖とを克服すること/29

三、   吾等の内と外とは完全に調和せること/31

四、   吾等は靈の世界に住む霊的生物なること/32

五、   自己の求むる事物を明瞭に思念すること/33

六、   能ふ限り多くを期待すること/34

七、   神と自己との完全なる一致を瞑想すること/34

八、   如何に瞑想すべきか/35

九、   眞理に就いての瞑想/37

第四章          靈に就いて/40

一、   靈とは何ぞや/40

二、   靈は普遍にして一つである/42

三、   靈は愛である/43

四、   眞理に就いての瞑想/45

第五章          個人の心 創造者/47

一、   肉體を創造する者は潜在意識/47

二、   印象と創造作用/51

三、   潜在意識の演繹的活動/53

四、   眞の自己について/56

五、   眞理に就いての瞑想/58

第六章          宇宙の心 創造者/60

一、新しき科學的研究/60

二、宇宙の心の性質に就いて/63

三、不幸は斯くの如くにして克服せらる/65

四、眞理に就いての瞑想/70

第七章 人間 地上の主/72

一、人間の神學性/72

ニ、病氣は神が造ったか?/72

三、成哲學の破壊と新哲學の建設/78

四、眞理に就いての瞑想/80

第八章 物質 思考の形象化/83

一、物質世界の根柢/83

ニ、エ-テル中の『旋渦』

三、精神科學の實驗と耶蘇の奇蹟/87

四、創造の奇蹟と言葉の旋律に就いての實驗/94

五、物質を征服する道/97

六、眞理に就いての瞑想/99

第九章 言葉 運命を支配する武器/101

一、美術家と繪畫-心と世界/101

ニ、言葉に困って造られたるもの/104

三、如何に言葉を驅使すべき乎/106

四、眞理に就いての瞑想/111

第十章 宇宙に等しき吾等の心/113

一、近代の天文學的研究/113

ニ、吾が心の大きさ/116

三、眞理に就いての瞑想/117

第十一章 愛と生命と智慧との無限性/119

一、   愛の無限性/119

二、   生命の無限性/121

三、   智慧の無限性/124

四、   眞理に就いての瞑想/127

第十二章 運命を呼ぶ法則/127

一、   運命の魔術的鏡/127

二、   天よりのパンと人よりのパン/129

三、   眞理に就いての瞑想/131

第十三章 運命の選擇に就いて/134

一、   何を選ぶべき乎/134

二、   眞理に就いての瞑想/136

第十四章 感情 創造する力の本源/138

一、   愛の言葉の力/138

二、   官能の愛より神への愛へ/138

三、   如何にして愛と信仰の感情を昂むべきか/141

四、   眞理に就いての瞑想/144

第十五章 創造せんとする本能/146

一、   宇宙に於ける創造本能/146

二、   個人に於ける創造本能/147

三、   何故人間は死ぬるか/148

四、   眞理に就いての瞑想/151

第十六章 理想の力/153

一、   理想を高く掲げよ/153

二、   如何なる理想を描くべきか/155

三、   眞理に就いての瞑想/159

第十七章 如何にして精神力を強烈ならしむべき乎/161

一、   眞理の自覺/161

二、   信念の力/162

三、   信仰は何故に力なる乎/165

四、   眞理に就いての瞑想/169

第十八章 『惡』は積極的力なりや/172

一、   聖癒の根本原理/172

二、   『惡』の本質/174

三、   『惡』とは何ぞや/177

四、   此迄のクリスチャン・サイエンスの考へ方/180

五、   此の世の惡に神は責任ありや/183

六、   幸福者の秘密/185

七、   不幸を救治する方法/188

八、   眞理に就いての瞑想/190

第十九章 恐怖不幸災禍の原因/192

一、   世界的流行感胃の原因と治療法/192

二、   幸福者と不幸者とは斯くの如くして生ず/195

三、   恐怖を驅逐するには/199

四、   眞理に就いての瞑想/202

第二十章 幸福のための標語/207

一、   不幸は心から生ずる/207

二、   悲嘆を避ける道は/210

三、   眞理に就いての瞑想/213

第二十一章 勇氣 それを失ふな/215

一、   進歩の原則/215

二、   見えざる進歩/218

三、   眞理に就いての瞑想/222

第二十二章 想像の創作力/223

一、   人類進歩の源泉としての想像/225

二、   如何にして想像力を活用すべき乎/229

三、   不健全なる暗示を與る事を避けよ/229

四、   小兒の創作的本能/231

五、   自己の無限創造/232

六、   眞理に就いての瞑想/232

第二十三章 一念不動/234

一、   吾れ戸の外に立てり/234

二、   希望は斯くして實現す/236

三、   眞理に就いての瞑想/239

第二十四章 如何に心を把持すべきか/241

一、   新しき眞理より觀たる信仰の價値/241

二、   神と偕なりとの信仰/244

三、   直覺力の養成/245

四、   一念不動の信仰/247

五、   信仰は未來世のためではない/249

六、   眞理に就いての瞑想/252

第二十五章 自己本來の力に目覺めよ/254

一、   ひとつの挿話/254

二、   吾等のとるべき心の態度/256

三、   眞理に就いての瞑想/258

第二十六章 意志の力(勝たんとする意志)/260

一、   選擇する力としての意志/260

二、   斷行する力としての意志/261

三、   眞理に就いての瞑想/263

第二十七章 如何にせば境遇を改善し得るか/265

一、   自己と境遇とは相互に索引する/265

二、   場所に蟠まる雰囲氣/268

三、   個人に附随する雰囲氣(人格の魅力)/270

四、   聖者の雰囲氣/272

五、   思考は雰囲氣及び境遇を造る/273

六、   眞理に就いての瞑想/276

第二十八章 何故信仰は力なるか/279

一、   神は人格的存在乎/279

二、   神は無相にして呼ぶに從って現ず/281

三、   眞理に就いての瞑想/286

第二十九章 直覺力の養成法/289

一、   如何にして直覺的指導を受くるか/289

二、   直覺と不定の印象との區別/292

三、   何を求むるが好いかゞ判らぬ場合/295

四、   眞理に就いての瞑想/299

第三十章 神と人/302

一、   自然の法則は神自體ではない/302

二、   人に宿る神/306

三、   神とは誰である乎/308

四、   眞理に就いての瞑想/312

第三十一章 肯定語 運命を支配する武器/313

一、   肯定語の定義/313

二、   最も有力なる肯定語/315

三、   眞理に就いての瞑想/323

第二篇 方法篇/323

第一章          施法の原理/323

一、   何故他人の不幸を癒やし得る乎/323

二、   他人治癒の方法に就いて/327

第二章 『默念する言葉』の一般的形式/332

第三章 誰の不幸を癒やすべき乎/335

第四章 施法に要する時間に就いて/341

第五章 如何なる種類の不幸を治療する乎/344

第六章 『聖癒』を促す臨床的默念法/348

一、死別の悲哀より病める者の治療/348

ニ、平和と健康とのための黙念/352

三、不眠症を癒やす黙念/354

四、神經的疾患の治療/355

五、恐怖疑惑及び審判き好きの性癖を矯正する黙念/358

六、意志の獨立と自由とを得る爲の默念/359

七、計らひ心を去る爲の默念/361

八、事業困難の治療/363

九、事業の隆昌を祈るための默念/364

十、智慧を求むる默念/365

十一、直覺的指導を求むる默念/366

 

 

人生必ず勝つ

人生必ず勝つ昭和13450

目次

はしがき

第一章 生きて生活する哲學/1-40

一 獨逸哲學の米國への輸入/1

二 フランシス・リーベル博士/4

三 『ヘーゲルの哲學的宗敎』/6

四 ヘーゲル哲學とクリスチヤン・サイエンスとの接觸/17

五 クヰンビーとエデイー夫人/20

六 クヰンビー博士の惑病同體論/29

第二章 粟粒結核も親の心で治る/41-73

第三章 日本の世界的使命/74-156

一 佛敎は有神論である/74

二 華嚴經の毘盧遮那佛/78

三 佛・耶・神の三敎は斯くて完全に一致する/79

四 華嚴經にかれたる蓮華王座/82

五 創世記に現れたる宇宙創造/89

六 肉體はないと云ふ意味/95

七 千人縫は斯う云ふ心持で縫つてあげよ/98

八 釋迦は『本當の人間』をいた/102

九 病氣はどうして治るか/107

十 日本的基督敎の樹立/110

十一 罪を釋す原理は何ぞや/113

十二 肉體は心の影・環境も心の影である實例/119

十三 いざ大日本國の實相を語らん/128

十四 朝顏の種子の譬によつて理念を學べ/131

十五 世界包容國としての日本人の衣相/135

十六 大無量壽經に現れたる日本の世界的使命/142

十七 建築物に現れたる日本精神/144

十八 履物に現れたる日本精神/147

十九 日本は大乘佛敎相應の地/148

二十 日本人の食事の習慣は神の子の生活の象/149

二十一 日本人の言語の優秀性/150

二十二 光明思念聯盟の提唱/153

第四章 西歐の沒落と純日本文化の復興/157-178 第五章 生命の特殊性と科學精神批判/179-206

一 科學の成立する要件/179

二 感覺には錯誤はないか/180

三 天動も地動もたゞ觀點の相異/182

四 感覺事實は錯誤に非ずして各人異る/184

五 吾々の見る世界は何か/185

六 科學主義は大まかな算主義/189

七 マツクス・プランクの量子論的立場/190

八 科學それ自身の中にある矛盾性/192

九 科學を兎も角も成立せしめるには/193

十 舊物理學の破壞/194

十一 實驗者の精神エネルギーを測定に入れねば精密科學とは云へぬ/196

十二 生體實驗に於ては科學の偶然性は一層著しい/197

十三 科學的醫學に於ける生體實驗に於ては同一の結果が現れないのが科學的だ/200

十四 グルウイツの發見せるミトゲン線/202

第六章 實在・理念・國家・人間/207-224

第七章 放つもののみ生きる/225-238

第八章 眞如を生きる/239-256

第九章 生命を禮拜する/257-283

第十章 舊ひとのみち信徒のために/284-330

『ひとのみち』は人間を本來不完全と觀、生長の家では人間を本來完全だと觀る/284

『ひとのみち』は神を不完全だと觀、生長の家では神を完全だと觀る/287

『ひとのみち』は威嚇宗敎、生長の家は威嚇せぬ/290

『ひとのみち』は不幸の根因を神の創造に歸するが、生長の家では不幸の根因を神に歸せぬ/293

『ひとのみち』は素朴的實在論、生長の家は超越的實在論/294

『ひとのみち』は一時の利益、生長の家は根本救ひ/302

『ひとのみち』は病氣の原因は敎祖のみ知ると云ひ、生長の家では人類皆知り得ると云ふ/306

『ひとのみち』は賴んで得る御蔭をき、生長の家は賴まぬでもに與へられてゐる御蔭を/308

『ひとのみち』では肉體も病氣も有ると云ひ、生長の家では肉體も病氣もないと云ふ/310

金をとるのも暗示療法/318

御神宣の種明し/320

すべて病氣の元は『我』がいから/322

御神宣を人に見せたら效かぬ理由/324

第十一章 八紘一宇の理念が日本民族/331-358

第十二章 赤を斯く轉向せしむる光明思想/359-414

左翼思想は何處から來る?/359

舊きに對する漠然たる反感から/363

聯隊旗の威力/365

眞理を追求するのが原因で/368

生命の意義を探ねて/373

大生命に觸れて/374

唯物論の環境に包まれて/376

時代思潮に乘せられて/378

實際生活が少年の夢を破つた/383

米騷動と富豪の私利私慾に憤激して/383

唯物史觀と唯心史觀/393

資本主義機構は唯心所現/400

資本の問題/405

仇討や戰死は何故尊い/409

第十三章 世に勝つ原理/415-450

『聖道へ』

聖道へ 大正12

目次

文化生活と憐愍道/3

一、 生存競爭なき世界を求めて/4

二、 優者のみの勝利する世界/7

三、 人間中心の愛と我利主義の延長/9

四、 人間の同族愛の別の根據/11

五、 文化主義の極まるところ/12

六、 憐愍感を生かさうとする人/13

七、 釋迦の如く生きる人/15

八、 文化を求むる心と憐愍を求むる心/19

九、 使命に關する一考察/21

十、 『美』に對する一考察/24

十一、 眞理の眞理なるもの/30

強制の道と愛の道/33

一、 同情の爲に眞理を抂げてはならないか/34

二、 眞理の内容に對する檢討/38

三、 人格に對する強制と人格の掩蔽物に對する強制/42

四、 耶蘇の暗示/48

五、 資本家及び勞働者に愬ふ/51

六、 パンの問題と人格の問題/56

七、 勞働問題に對する具體的提案/61

救ひは創造主から來るか/69

一、 祈りと使命/70

二、 殘虐の攝理について/71

三、 賀川豐彦氏とロマン・ロオラン/76

四、 完全なりと肯定し難き世界/83

五、 「生命」と「生命」との同士討の世界/87

六、 殘虐の本能から來る美/89

七、 生命と生命超脱の道徳的感情/91

八、 勞働運動の哲學的根據/93

九、 ニイチエに現れたる殘虐肯定の自然律/98

十、 トルストイの場合/101

十一、 人格價値と生命價値/105

十二、 生命の實現と人格の實現/108

平和への道/113

一、 爲政者の爲めに/114

二、 國民全體の爲めに/119

三、 全人類の爲めに/121

積極道と消極道との價値顛倒/127

一、 自分であるもの、自分でないもの/128

二、 十字架道と積極道/135

三、 自己否定と自己欺瞞/137

四、 利己主義の道徳的根據について/142

五、 憐愍の滿足と美の追求/149

六、 生活價値の顛倒/152

リツプス倫理學の誤謬/155

一、 意慾肯定の倫理學/156

二、 食慾の場合/160

三、 肉交の慾望の場合/162

四、 官能的衝動と人格/165

五、 一元の道と二元の道/167

六、 羞耻と自己低落の感/169

七、 戀愛の羞耻と肉慾の羞耻/172

八、 聖者の崇高/174

九、 大圓覺成就の念願/176

奉仕生活の根本問題/179

一、 有島氏の誤謬について/180

二、 無礙の奉仕/183

三、 私的生活と奉仕/185

四、 奉仕と二種の世界觀/187

五、 教化のための奉仕/190

六、 懺悔のための奉仕/191

七、 須太拏太子の布施行/193

八、 一燈園の奉仕について/195

九、 奉仕の最高度/197

十、 本道でない奉仕/199

十一、 一燈園と宣光社について/201

十二、 社會改良家的立場と「佛陀」的立場/212

十三、 三つの奉仕の道/217

十四、 賀川豐彦氏の貧民愛/220

百姓愛道場と新しき村/227

一、 人間が食物を得る道徳的根據について/228

二、 めぐまれると云ふ考へ方/232

三、 『人間らしい仕事』と『人間らしくない仕事』/238

四、 百姓愛生活の根據/241

五、 人類苦の共嘗と救濟/245

六、 『正しき生活の人師』と『人間の普通の仲間』/247

七、 向下的傾向と向上的傾向/250

八、 自分の觀たる二氏の生活/253

自分の世界觀及び人生觀/265

一、 眞理をさとらうとする態度/266

二、 つくり主はあるか/270

三、 物心一如/273

四、 眞如/275

五、 無明/277

六、 無明縁起話/279

七、 世界惡の根因/280

八、 罪を犯さない道/283

戀愛の理想と現實/287

一、 『完全なるもの』への憧憬/288

二、 宇宙的衝動としての戀愛/290

三、 戀愛の爭奪/293

四、 聖フランシスと戀愛/295

五、 自由戀愛の理想/297

六、 一夫一婦の理想/299

七、 戀愛の天的美と地的美/300

八、 戀愛の究極の理想/302

 

聖杯 : 三部作. 1 (神を審判く) 大正12

此の創作を讀んで下さる方に

第一編

113

 

神の牙城に迫る 大正14

第一編

113

心靈現象と宗教思想・信仰革命

心靈現象と宗教思想            小西書店

T13.1128

 

294

46

信仰革命      三土社 ―名 人の死んだ後の話―(心靈現象と宗教思想と改題)『人間死んでも死なぬ』と同一内容だが、序文前に、心霊写真付

T15.6.10

 

294

46

 

この二冊も頁数も同じで、違いは序文前の心靈写真が付いているかどうかだけである。

凡例

目次

信仰革命

目次

第一章 死後研究の道徳的價値/1

一、 性慾問題との交渉/1

二、 食慾問題との交渉/6

第二章 死後に殘存せる意識/11

一、 騷ぐ骸骨の實話/11

二、 約束を履行せる死後の靈魂/18

第三章 死後殘存せる意識の客觀化/28

一、 月夜に祖母の幻影/28

二、 ものを言ふ幽靈の實話/36

第四章 死の瞬間に撮影せる靈魂の寫眞/46

一、 事實のみ最後の審判者/46

二、 アンドレの心靈寫眞/49

三、 死の瞬間の寫眞/52

第五章 他界への出生の實證/58

一、 死の瞬間を透視せる實驗/58

二、 ひとたび死して蘇生せる人の體驗/62

第六章 催眠術による死後の研究/75

一、 水晶凝視法/75

二、 卓子傾斜/80

三、 催眠術/84

四、 交靈状態/89

五、 死者の語れる死の刹那感/95

第七章 靈魂自身は斯く語る/98

一、 故ヒースロツプ教授の靈魂は斯く語る/98

二、 死の刹那の靈魂自身の體驗/101

三、 死者の靈と親しき人々の嘆き/105

第八章 心靈學より觀たる死後の世界/109

一、 靈魂圈の形成/109

二、 靈界の棲息者/112

三、 マテイリアリゼーシヨン/113

四、 幽靈顯現/117

五、 靈魂は如何にして肉體より分離するか/117

六、 靈界の第一圈/121

七、 情死者および戀愛/126

八、 靈界の第二圈/128

九、 虚榮の市/132

十、 他力教の信者/135

十一、 各宗派の本部/136

十二、 靈界の衣服その他/137

十三、 第三圈の生活/140

十四、 第四圈の生活/143

十五、 第五圈の生活/144

十六、 第六圈の生活/145

十七、 第七圈の生活/145

十八、 結論/147

第九章 來世に適する爲の生活/150

一、 愛は實行的なものである/150

二、 現世にて孤獨なる者の生活/154

三、 有島事件の批判/157

第十章 他界に於ける宗教/168

一、 人格と行爲との宗教/168

二、 信仰の意義/172

三、 犧牲と奉仕と愛/176

第十一章 小兒の靈界の消息/180

一、 小兒の靈魂の位置/180

二、 驚くべき小兒の愛と叡智/183

三、 出産の刹那に死せる嬰兒/196

第十二章 死後の靈魂は現世に再び生れかはるか/205

一、 ド・ロシヤ大佐實驗の前生への逆行的研究/205

二、 その批評/219

第十三章 再び情死者の靈魂について/223

一、 スピリツトの言葉はどの程度に信じて好いか/223

二、 シエーロ氏の説/225

三、 レオン・デニ氏の説/228

四、 ステイトンモーゼス氏の説/229

五、 その他の諸説/233

第十四章 信仰革命/236

一、 安價なる他力救濟觀/236

二、 『四十八願』と『十字架』/238

附録

業因斷滅の根本的な實行方法について/249

個人に於ける『宣光社』的たらはき/268

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